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04年10月16日サーバーが変わりました。
新URLは
http://www.yoshikawatakaaki.com/です。


かな?

            

吹雪の柴又

2013年1月17日



吹雪の柴又・江戸川土手 ついに動画撮影に成功


先日の雪、江戸川土手はかなりの吹雪だった。


朝のうちは雨。
しばらく制作してたら、窓を観ると真っ白。
たった1時間で一面銀世界。

昼食の後、取材に出かける。


苦労して時間かけてなんとか江戸川土手に上がってはみたが、
今回はスケッチどころの話じゃなかった。
強風で傘は壊れるし、手は動かないし、
とりあえず画像と動画は何とか撮った。


   


それにしても、
あまりにも風が強くて江戸川土手にほとんど誰もいない。


  


みんなわいわい雪遊びするのかなと思いきや、
あそこまで吹雪くと自重するんだね
さすがにねえ^^;

まずは、
江戸川金町取水塔の動画。

動画 その1
http://youtu.be/WKxuXF27vT4


江戸川土手金町取水塔 

 
ちょうど、なにやら看板がありましたので
くだらないこと言ってます((((^^;ヾ

寒いのと風が強いのでもう参っている感じ。


動画 その2
http://youtu.be/7LZk3yyyJsA




かわいい小鳥達があの寒空の中いた。

動画 その3
http://youtu.be/Vi9knUh4kQw





江戸川 矢切の渡し


ここまでは誰も歩いて来ていないので
シュールではあった。



  


とにかく風がきつくてきつくてなかなか逆風側が撮影できなかった。

それでもここまでなんとか歩いて良かったと思える幻想的な風景だった。


動画 その4
http://youtu.be/3dVgcaTVmT4


まあなんとか、町まで戻って、再度参道を通って駅に行った。

踏切から柴又駅の高砂方面ホームを撮影。

48作品で反対側の金町方面は一度も使われたことがない。
これは不思議・・・

動画 その5
http://youtu.be/N9NBA6hfuvk


柴又駅前の続き。

誰かが寅さんの像に
マフラーを掛けて上げたのだろうか・・・。


動画 その6
http://youtu.be/IIwUwHissX0


参道と境内
も何度か歩いた。


動画 その7
http://youtu.be/-1wx1cxWHeY


もう一つ、お昼ころに参道を歩いた動画もあった。

これもついでにアップ。

まだこの時間帯は人が多かった。

雪もどんどん降っていた。

動画 その8
http://youtu.be/VfVqhyDkdVo



ところで・・話は変わって


渥美さん&倍賞さんが出た徹子の部屋
youtube にアップされていた。

黒柳徹子さんとのかけあいで実に良くしゃべる渥美さん。


■浅草でのメロン騒動の反応

■クランクインの数日前から撮影所から
 5分の宿に泊って通う。


http://youtu.be/-WpZYLdPhTY














大空小百合



2012年1月6日  大空小百合ちゃんとの出会い、そして母親との別れ。


                

     


    


昨年末から何度か「銀座シネパトス」に寅さんを始め山田洋次作品を観に行っている。

この日は岡本茉利さんが初出演された第8作「寅次郎恋歌」と彼女のトークがあるのだ。
「馬鹿まるだし」との2本立て。

まず「馬鹿まるだし」を観た。
馬鹿まるだしは
ラストの木蓮の安五郎の告白シーンと
マドンナの涙が圧巻なんだけど
その話は僕の昔のコラムを読んでいただくとして・・


http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi20.htm#325




満足して

休憩していると

栗原さんにお会いした。

栗原さんは僕の展覧会にも来てくださった方で
あの有名な「カルトクイズ」のTV番組の寅さんの回で
渋い回答の連続で活躍されたツワモノ。



        手前の白い服が栗原さん。

       




以前、月虎さんのSNSで知り合ってからのご縁。

彼は数人で「21世紀寅さん研究会」を作っておられる。

そのお仲間の小林さんと2人で来られていた。

例の、11月に松竹企画旅行で小諸や別所温泉を回られた動画を
僕に見せてくださった。

一緒に同行された岡本茉利さんが、大空小百合ちゃんの役で
別所温泉でセリフを言っているのを動画に撮られていたのだ。

これは、僕も以前に柴又のかなん亭で佐藤利明さんに見せてもらったことがある。
私は、その時の別所温泉の様子を佐藤さんがかなん亭で
いいだろーってにやつきながら見せつけるので
うらやましいおばけがでそうだった。

栗原さんと小林さんも同じことを私にされるので、
またもやうらやましいおばけがでそうになった。

「いいですね〜〜 僕も岡本さん来るの知っていれば
一緒に行ったのになあ〜」

「今度行きましょう〜」

なんて楽しい会話をしていると
いよいよ岡本さんのトークが始まりますと案内の声がした。


司会は佐藤利明きさん。


岡本さんがまだ高校生の時にすでに男はつらいよは3本4本と作っていたので
高校では禁止されていたのだが
池袋名画座に「寅さんまつり」を密かに観に行って一気にこの映画が
好きになったとおっしゃっていた。。

大空小百合ちゃんの役をしていた岡本さんが
その後、本当に旅をしながらの芝居三昧の暮らしに入って行った
その運命と必然を感慨深く話してくれる岡本さんも
聞いている僕らもしみじみ感慨にふけってしまった。





今日、その時の再現として

あのセリフ

「先生!車先生!」

を大きな声であの時のままに言ってくださった。

聞いていた130人くらいのお客さんはもうみんな大感激。

私もその時だけは そっと数秒だけ動画撮影をしてしまった^^;ヾ




そのあとも、第16作で伊豆の連絡船の車掌さんをやった時に
山田監督から桟橋から船にジャンプしろって言われて困ったそうだ。

結構きついスカートだったので
足が動きづらくて危ないからできない〜〜って
悩んでいたら
船長さんが「そんな危ないことは許可できない」って
お流れになってほっとしたということ。

第16作あたりからスタッフさんとして
記録係などもして欲しいって
いわれていたため、ロケ地に同行していたんだそうだ。
だから第19作なんかも大洲であんなチョイ役でも
ロケで出演できたんだ。

なるほどね、それで17作、19作、24作など
いろんな「ロケ地」で出ているわけか!納得納得。

そのあと、抽選会などで盛り上がって
35分のトークショウはお開きとなった。


先生!車先生!の
瞬間動画です。



http://youtu.be/2AWauSWzYqo


トークの後、休憩が15分あった

岡本さんと佐藤さんは楽屋の方に行かれたが
私は行かなかった。

それぞれの立場があるので
ここは、一ファンとして、分をわきまえようと思ったからです。

でもね、寅さん物まねの野口さんがちょうど来られて、
私の所に来て
「岡本さん楽屋にいますよ」って言われた。

私は

「そうですね、
ほんとは挨拶したり、写真撮らせていただきたいんですけど
関係者じゃないからあつかましいので遠慮しておきます」

って遠慮したら

「一緒に楽屋行きましょう。
僕も行きますよ」

ってささっと歩いていかれるので

僕は「え〜〜・・・」

と、言いながらも、腹を決めました。

そして、楽屋で名前を名乗り、ご挨拶して

岡本さんの大ファンだということ。
柴又が好きで帝釈天の前に住んでしまったことと
先日行った大空小百合ちゃんと寅が出会った
三浦半島の三崎ロケのことなどを
手短にたどたどしく小さな声で・・・話した。((^^;
それでも内容は過激なので
岡本さんはとても興味を持って聞いてくださった。

佐藤さんは、
僕がこの前のツアー小諸と別所温泉の旅行は仕事の都合で
参加できなくて残念がっていたことを
岡本さんに伝えてくれた。


私の気持ちを知ってくださっている野口さんが気を利かせてくださって
僕のデジカメをパッと取って、
写真を2枚ほど撮ってくださった。


1枚目は岡本さんも普通にされてたが


       


2枚目はそっと僕に寄り添ってくださった!
僕は恐縮してしまって
こんな意味不明の顔になってしまったのだ。



それがこの写真。↓

          緊張してしまってこのようなへんな表情になっています。

       




次の映画「寅次郎恋歌」が始まりそうだったので
みんなで館内に戻り、映画を好きな場所で観たわけだ。



小百合「先生ー!!」



トラック停車。


寅、よおく顔を見る。

小百合「先生!私です。
     いつか四国でお会いした小百合です!」



         





寅、気づいて


「あー!、小百合ちゃん!
 雨の降った日の!」



        




小百合満面の笑みで「はい」


        


座長助手席から降りてきて「これはこれは!」


寅「よおーっ!」


座長「いつぞやのお情け深いお客様」


寅「いやぁ、座長さん、その後元気で。
 座員のみなさまも達者でいなさるかね」


座長「はい、お陰さまでこのとおり
   巡業を続けさせていただいております。



        



寅「そうかい…、よかったー…、本当によかった…」


座長「先生、お乗りになってください」


寅「いや、俺はここで…」


座長、座員一同「どうぞ、どうぞ!」


座長「むさ苦しいところではございますが、どうぞ!」



荷台に乗った寅。


若い座員が助手席に乗り、座長は寅と一緒に荷台に。



座長「今夜のお泊りはどちらへ」


寅「なに、鼻のむくまま気のむくまま気楽な旅でございますよ」


座長「今夜は是非私どもと同じ町にお泊りくださいまして、
    私どものお芝居を楽しんでいただきまして」


寅「あー!、それは結構ですね、
  結構毛だらけ猫灰だらけ、お尻の周りはなんとかだらけ!」



一同どっと笑う「ハハハハ!!」



         





寅たちを乗せたトッラクは田舎道をどこまでも走って行く。


遠く富士山が見える。

         

         



映画が終ると、

私は2列後ろでご覧になっていた岡本さんに挨拶に行った。

第8作のスケールの大きさにあらためて感動したことを
自分の言葉で彼女に伝えた。

彼女もこの第8作をひさしぶりに大きな劇場のスクリーンで観て感動しておられた。

そして最後に握手をしてもらい
お別れをした。

その後、友人の吉野ほつね君が観にやって来たので
しばし佐藤さんや奥様も交えていろいろロビー付近で
5分ほど歓談し、僕は一足先にお別れをした。

思い出深い一日となった。

やはり名作は大スクリーンで観ると違う。


その後

12月27日に第10作「夢枕」と第22作「噂の寅次郎」の上映も見に行った。

このシリーズの2大美女。
第10作も第22作も、これもまた大きなスクリーンで観るのは25年ぶりくらいじゃないだろうか。


なんせバリ島に住み始めてからはほとんどその年の
寅さんの新作しか映画館で観ていなかったのだから。
旧作2本立ての類は先生時代まで。


今から思うと

ちびとらさんや寅福さんと行ったあの第8作の三浦半島、そして
そのロケ地で輝いていた岡本茉利さんとお会いできたことは
ご縁としか言いようがない。


どうせ誰も信用しないと思うが、僕は長年、どの有名なマドンナさんよりも
あの大空小百合ちゃんを演じられた岡本茉利さんに会いたかったのだ。








追伸

12月28日に母親が亡くなりました。

新年のご挨拶を失礼させていただきますことをお許しくださいませ。

母親が亡くなって、アルバムを整理してましたら
若き日の彼女の写真が何枚もありました。

母親の青春を息子の私は知りません。

彼女にも確実に輝かしき青春の日々はあったのです。



       





敬愛する亡き母にこの歌を捧げます


Stardust


And now the purple dusk of twilight time
Steals across the meadows of my heart
High up in the sky the little stars climb
Always reminding me that we're apart

You wander down the lane and far away
Leaving me a song that will not die
Love is now the stardust of yesterday
The music of the years gone by

Sometimes I wonder why I spend
The lonely night dreaming of a song
The melody haunts my reverie
And I am once again with you
When our love was new
And each kiss an inspiration
But that was long ago
Now my consolation
Is in the stardust of a song

Beside a garden wall
When stars are bright
You are in my arms
The nightingale tells his fairy tale
A paradise where roses bloom
Though I dream in vain
In my heart it will remain
My stardust melody
The memory of love's refrain


動画↓
http://www.youtube.com/watch?v=i9SD8uYgIo0



        









朝日印刷


2012年12月26日  
山田洋次ミュージアム&朝日印刷

松竹さん【努力賞】
 



寅さん記念館のリニューアルOPEN



12月15日の初日は、つくばで仕事をしてたので残念ながら
寅さん記念館のリニューアルOPENの日には行けなかった。

で、翌16日午前中一番で観に行った。


OPEN記念で15日、16日のお客さんはみなさん

本物の予告編フィルム6コマをいただいた。



      



まず、どう変わったかというと・・・


とらやのセットの裏に「朝日印刷」の工場が今回から設置されている。



どーせ、適当にお茶を濁してるのかなって思っていたら、
結構頑張っていた。

これは、葛飾区が設置したのではなく、松竹さんが設置したのだ。

なかなか努力賞ものです。

一見の価値アリ。

いやいや、松竹さんさすがです。なかなか粘っている(^^)

見た目はこう言う感じ↓




      




向こうの部屋には印刷工場の中も再現してあり
凸版印刷機がおいてあった。

初日は職人さんが動かしたそうです。


外からの朝日印刷と

中に入った朝日印刷。

ね、欲を言えばキリがないけど
これはなかなか「努力賞」。


内はあくまでも「イメージ」にとどまってはいるが、雰囲気は出している。



     




よかった、とらやがへんになってなくて。
朝日印刷が入った分、とらやが狭くなってしまうのかな・・・
って思っていたのだ。

とらやセットはそのままで朝日印刷が増えていました。

そのかわりメイキングビデオのコーナーが
なくなっていた・・・

うーん これはちとさみしい。

メイキングビデオは非常に貴重なものが
含まれていますのでそのへんが松竹さんは甘い。

適当な展示物が多いのでそちらを減らすほうが
よかったと思う。


ほんとうは他の部分でずいぶん削れるところ
あるんだけどなあ・・・



まあ、とにかく朝日印刷はそれなりに満足

こだわりは細部に宿る。





よし、次は


休憩室の 映画館上映における映写機の展示



迫力あるなあ・・・

まあこういうのも興味ある人はさほど多くはないかも・・・

なかなか形が美しいですね。




      




      







とらやと朝日印刷の動画



動画はあくまでもメモリーとして撮ったものだ。
自分がうろうろ見ながら撮っているので
いろいろせわしかったりぶれていたりしているのでご了承ください。


http://youtu.be/svHc71Ri2Sc






フィルム缶の「
第1作男はつらいよ 予告編

     




室内に凸版印刷機があるので工場の外と内両方が表現されている。職人さんがいれば実際に動かすこともできる。

     




細部もなかなかこだわりがある↓

     





     





     
     









光の庭横の休憩室も行ってみよう。



これは、休憩室に2月まで置いてある映写機↓ 迫力がある。




      





山田洋次ミュージアムは、

「隠し剣」、「母べえの手紙」など。。
貴重な小道具がいくつか展示されていたのがよかった。
内容的にはレアなものは少ないが、良いデザイナーが入っているので
狭い空間を上手に使っていた。天井も取り外し、現代的な要素を取り入れ、おしゃれな空間になっていた。

「ミュージアム」というネーミングはちょっと合わない気もするが、
思ったよりも心地よい空間になっていた。
今までのメインの作品たちを数分ずつモニターで見せてくれるのも嬉しい。


      





フィルム缶を大量に使ったオブジェを館内の3箇所に展示し、撮影機や編集の機械も置いてある。
フィルム映画が皆無になりつつある今、これはかなりメッセージ性のあるコンセプトだった。


      





山田洋次ミュージアム 動画


その@

http://youtu.be/azfeL0KJadA



そのA

http://youtu.be/H4G2bg7NBOA





500円で、とらやと朝日印刷 そして 山田洋次ミュージアム。
これは以前より格段のお得感だ。

記念館が開館して15年経つがようやく友人知人にこう言える。

ようやく入館に値する、
 500円以上の値打ちがあるものができたよ
」ってね^^










牛久沼



2012年12月22日   
つくばでの集まりと執念の牛久沼探索





12月14日、15日と、つくばでの集まりに参加してきた。

もう、何年も前から毎年コレクターさんたちが、年末の大きなパーティの会場に私のコーナーを
作ってくださり、十数種類もの私の絵のポストカードを売ってくださってくれている。
今年は、私にもお誘いがあり、ぜひ一緒に盛り上げましょうということで、僭越ながらパーティ会場に
入らせていただいた。

今年は私も来るとあっていつになくみなさんが熱心に準備をしてくださり、
私もそれに応えるべく、がんばって当日は百数十人以上のお客さんに説明をさせていただいた。

今まででもっとも盛り上がった夜だった。



     







私の絵だけでなく、寅さん名セリフポストカード、越中おわら風の盆、坂本龍馬、土方歳三、力石徹・・・など
すごいラインナップだった。おちろんこちらのほうは差し上げる形。




       


        


                            

                          






なかなかお客さんの写真を取りタイミングがなかったのだけれども、何枚かあるので掲載しますね。

     




     




     





翌15日(土)は夕方6時から文芸部の「イチゴ(以智悟)の会」に特別参加させていただき、
「オスカーワイルド「サロメ」と画家ビアズリー」について
みなさんで喧々諤々3時間半以上もキャッチボールをした。みなさんインテリで、大変な読書家なので
とても中身のある白熱の時間だった。


     





この2つの集まりはとても刺激的で印象深いものだったが・・・


それとは別腹で


実は15日の昼間が私の最大の「正念場」だった。

つまり第34作「真実一路」のロケ地めぐりである。





第34作「寅次郎真実一路」のラスト近くに映し出される牛久沼の釣り場と
大原麗子さんが自転車をこいでいたあの農道に、常総平野の主とも言えるパトロンのY.Iさんが
連れて行ってくださることになっていたのだ。


大原麗子さんの自転車農道はちょっとどこかは手がかりもないが、
あの釣り場のほうは大体見当がついていたのだ。
そうでないと、Y.Iさんもどこに行けばいいかわからないからである。

Y.Iさんは、寅さん映画はDVDマガジンを全作品もっていらっしゃるくらいにお好きなのだが



まずこの2枚の写真を見てみていただきたい。




    



    





所は龍ヶ崎市庄兵衛新田

この要素にまどわされた(/□≦、)


ある牛久沼の地元を紹介するサイトに、
この第34作のあの釣り場のロケ地は
この「龍ヶ崎市庄兵衛新」だと
なんとなくですが書いてあったのだ。

そのサイトは昨年発見して、同じ住所にあるこの島だろうと一人合点し、
1年間ここだろうと勝手に思ってたわけだ。


ちょっとした知り合いからの情報がまずあり、
ちょっと形が合わないと・・・。

後ろの対岸の見え方を考えていくと、なるほど、一見の見た目は似ているが
ちょっと合致しない点が多々ある。


なによりも、手前の岸辺の形、農道の有無などで
だんだん疑惑が強くなってきた。


12月15日に Y.Iさんが
この場所に連れて行って下さることになっていたので
余計に心配になってきたのだった。


彼は、とても親切で
前回の牛久沼森の里団地の時も
第39作「板橋不動尊」の時も
同じく第39作「常総橋」の時も
私のこだわりにお付き合いくださり、
一緒に楽しまれた。

これは、私のコラムにも掲載している。



私が柴又に長期滞在するようになってからは
寅さんDVDも全作品集められて、
かなり、この映画のファンになって来られている。



このままでは

全く見当違いの場所を案内させてしまう!
と、思い、前前日に僕一人で、おおよその真実を
掴みたいと牛久沼まで柴又から
乗り込んで行ったわけだ。

柴又から牛久沼の最寄の駅「佐貫駅」まで
50分で着く。

あっという間って感じ。

この時点で午後1時。
日没は4時半くらいなので
まだまだ時間はある。

まあ、ふじ子さんの自転車農道は全く違う場所の
可能性があるので今日は見つけられないかも
しれないが、




      





せめてあの釣り場だけは
是が非でも見つけたいと思ったわけだ。


      


庄兵衛新田は、飛び地もある。
でもこの飛び地は稲荷川沿いなので
ああいう広がりのある眺めではない。

で、佐貫駅に着いて徒歩12分ほどで
牛久沼が見えてきた。

例の疑わしい「島」も見えてきた。

20分ほどで沼のほとりに到着しましたが、
なんとどれだけ歩いても、第34作のような
沼への自転車が通れるような農道がない!

それどころかひとつとして沼への道というものがない。

しょうがないのでとりあえず、草の間をがさがさと
歩いて沼の畔まで行った。

そして撮影したのがこの写真。↓



    



   
    





違うね、これは。

島の形も違うけど
なによりもあの農道らしき道がこのへん一帯どこにもない。



    




この草むらは昔からあったもの。

おそらくあの映画が作られた昭和59年(1984年)
から変わっていないはず・・

の農道が全く消えてしまうことは考えられない。


   




それに沼のすぐ横を国道が通っているので、もうこれはかなり違う雰囲気。
地図で見てみると映画が作られた1984年にはもうこの大きなバイパスは作られていた。

これは違う。

     



この当たり一帯を1時間もくまなく歩いたが
道はまったくない・・

時計は午後2時半になっていた。

手ぶらで帰るわけには行かない・・・
明後日はY.Iさんとそのロケ地をめぐることになっている。

「どこをめぐっていいかまったくわからなくなった。
見当がつかないんです」・・・。とは、絶対に言えない。



もうこうなったら片道切符の
玉砕作戦しか頭に浮かんで来ない。

「捜査」の基本である「聞きこみ」。



この方法は、私はどーもいつまでたっても苦手で、
人見知りで・・ほんとうにつらい。

しかし、Y.Iさんに、当日運転していただいてお付き合いしていただいて
つまらない思いはさせられませんので
ある程度の目安はつかんでおかにゃあ
私は彼の前で腹切らないといけなくなる。


聞き込み5件しました!


映画のキャプチャー画像を見せながら出聞き込みの結果


■このエリアではない、
 どちらかというと反対側(北のほう)じゃないか 3件

■このエリアのような気がする 2件


あ〜〜〜〜地元の人でさえ「このエリア」だと
言ってしまう人がいるほど
島の形が似ているのだ。

もちろんこれはもう「島」ではないことが
わかっているのだけれどもね。
島は牛久沼ではこれだけだから。

逆のエリア(つまり北側)だと言った人も
具体的にどのあたりかは誰も言えないし・・・


ましてやふじ子さんの自転車農道は皆目分からないし・・





庄兵衛新田町はこの地図↓のようになっている。このどこかにあるはずなんだが・・・

    






この時点で2時半すぎ。

日没までもう2時間を切ったのだ。

農道はともかく
せめてこの牛久沼の釣り場だけでもわかりたい・・

絶対確実なのは
■このエリアではない事、
■似た景色がこの島以外に全く見当らないので
 ここからはかなり遠いエリアだということ。

それでも、僕に出きる事といえばもうひたすら
「聞き込み」しかないわけだ・・・

つらい 引っ込みじあんなので 
ほんとうに1回1回がきつい。
まあ、みなさん、とても親切ではあったが・・

もう今日は本当に駄目かも知れないなあ・・
こんなこと初めてだ。
と思いながら、「佐貫駅」に近づきながらの「聞き込み」をまた続けた。

もうずいぶん沼でも佐貫駅に近いところまで歩いてきた。

大きなリフトを十数台置いてある、土地開拓っていうか土建関係の会社があった。
土地開発なんかしてたら結構詳しいかな・・
と僅かな望みを抱いて中に歩いて行った。
ちょうど休憩している20歳代の若者3人組に寅さんのロケがあったことと、
キャプチャー画像を見せた。


みなさん大原麗子さんが映画「男はつらいよ」でこのあたりで
自転車走ってたって聞いて
「へ〜〜〜!そうなんだ〜〜!寅さんのロケがあったのか〜」って驚いておられた^^

最初見てくれた息子くらいに若い男性は、

はっきり「ここじゃないですね、これ。もっと北ですよと当たり前のように言った。

今までの中で一番明確な答え方だったので、この時点で
このロケは沼の北のほうだと確信した。


「もう少し具体的にわからないでしょうか」と、くいついていったら
もう一人の若者がそのキャプチャー画像をおもむろに手にとって
すぐに反応された。


あ、ここ行ったことありますよって言ったのだ。

それも指差したのがな、なんと
自転車の農道のキャプチャー
の方

だった!!

ええ!この農道ご存知なんですか!?

うん、ここ釣りに行ったことあるから

ええ!!じゃあ、この大原麗子さんが
自転車漕いでいる農道とこっちの釣り場は
本当に繋がってるんですか


そう、この道をまっすぐそのまま
 沼方向に行ったらここに出る


このタイヤのある釣り場にですか!

あ〜・・、この釣り場はもうないですねえ〜、
昔はあったのかもしれないけれど、
ずいぶん前からもうないですね


そ、それは・・どこ・・地名わかりますか!?

あのあたりは沼を開拓して住宅がちょっとできて行ったから
新地町』って言ってるところですよ」

新地町ですか!」メモメモ φ(・・。)

地図を見せながら 

「どのあたりですか!?」

その若者は、大体の所ながらも

まあ、たぶん・・・このあたりで釣りしたかなあ・・
あのあたり結構釣りする場所ですから


アバウトに指差されたのがココらへん↓



     



なるほど、じゃあ島じゃないんですよね、この細い森は

ああ、これね、角度によってこういうふうに見えるんです、
ちょっと陸が沼に突き出ているだけなんだけど


ありがとうございました!『新地町』へ今から行きます!
バスはありますよね

3人一斉に「バス? ないない

「えええ!!どうして?」

「行けば分かるけど何もないところだからバスもこっちとは繋がってないっすよ。
ここからだと佐貫駅まで戻ってタクシーか、歩くか ですね」

もう一人の青年が「歩けないでしょ、この距離ちょっと」

「歩いたらどれくらいでしょうか?」

「うーん、50分はかかるな、これ」

他の青年が「1時間くらいじゃないの」

僕は、「じゃあ僕ちょっと小走りで行きますから
    それだったら30分くらいですかね


青年達「まあ、走ればねえ・・・でも遠いですよ」

「がんばります!」

と言って 青年達にお礼を言って一路北へ小走りで向かいました。


これが知らない土地だからさすがにきついんですわ・・・

この時点で3時ちょうど。

日が森に落ちるまであと1時間半!

もうあの青年のまっすぐな目を信じよう。
あれは本当にこの場所を知っている目だった!

走れメロス!!

 


ほとんど誰も歩いてない道を延々と小走り・・・( p_q)

もうね、夕暮れとの競争。

これが7月頃だったら日が沈むのは7時前だから余裕です。

しかし、今のこの季節は4時20分くらいで、
もうロケ地が探せなくなる。
そして写真も撮れなくなる。

2時間半以上も違うんです。

最後の数キロが遠い遠い もうぜえぜえ・・・。

で、ようやく40分かけて
庄兵衛新田の飛び地にあるあやめ園まで来た。
全然30分じゃ無理だった。



かっぱの大きな銅像がある橋を渡って

この中の島のようになっている開拓の町「新地町」に入った。

キャプチャー画像を見ながらいろいろ探すが
なかなかあのような細長い岬のように
見える位置には出くわさない。

まあ、とりあえず、沼のところまで歩きました。
端の方に歩いていくともう3時45分過ぎ
だんだん太陽の光が弱くなっていくのがわかる。

ちょっとあせってきた〜〜〜。

人歩いてねえ〜〜〜〜〜〜〜〜〜

どこだどこだどこだ〜〜〜。



端のそのまた端、
沼の所まで来た。

目の前にこの風景がドーン!!


うわ!!!

これひょっとして!!

先端部分がかなり似てるやン!!




     
   



      



沼の周りずっと歩いて

もうこれ以上歩けない端っこがここ。



これは似てる!!いやもうたぶんココ!


     



     




奇跡的に散歩のおじさんが通った!

このへんから駅までバスなんかないよ。
牛久駅まで歩いたら45分かかるよ。
早く暗くなる前に行かなきゃあぶないよ


って助言してくれた。

「あのー、30年近く前このあたりで
大原麗子さんが来られたの
覚えていらっしゃいますか?」

「あー、そうそう、来たってねえ、
聞いたことあるわ、その話、
このあたりのどっこかで映画撮ったって」

僕は心の中で「よっしゃああああ!!!!」

なんかここの確率かなり高いぞ!



でも、もう太陽が落ちる!!



    




取材の限界が来た。


     



どうやって帰ればいいのかわからない・・・


誰か〜〜〜〜。



あの、散歩のおじさんの助言どおり
あまり暗くなってから歩いていったら危険なので
急いで河童の橋まで戻り、牛久駅まで歩いていった。


     



それでも途中で夜のように暗くなり、
心細く駅はまだかと、歩き続けたのだった。





そして・・・


この2日後




12月15日 午前11時
コレクターのY. I さんと再確認しにこの地を再訪。


今度はわざわざ森の里団地から
細い道を通って
ここに来てみた。
森の里からのふじ子さんの自転車ルートをだどりたかったのだ。↓



     




で、曇り空の下、現地に着いて
いろいろ最終チェックした時に

次々に事実が分かっていった。






セメント隔壁(かくへき)の曲がり角は・・・

曲がり角・・この当たり端っこだから・・・・



おおおお! 
これかもしれない!!

大昔はこの場所から小川が流れていたのかも。



       





       




ということは

もしここだとすれば
高羽さんはもっとずっと水辺に入って
あの葦の水のあるあたりから
当事釣り場があったところを
側面からのアングルを狙ったのかもしれない。




ということは

ということは


ここから直角に
村の方へ進んで行く
農道があるのだ。

それがふじ子さんの自転車ロード
名づけて「ふじ子ロード」
ヽ(´〜`; ォィォィ


あったあああああああ!!!
これか!
似てるぞこれは!




    

    




    



道向こうの家も
きわめて似ているものが
数軒ある!!
丘の上の杉のうねりも
似ている!

ここだ!!

間違いない。




ふじ子さんの自転車農道から沼を映し出したシーンもあるから
それも撮ってみた。


   



28年前と道はほとんど変わっていない!


逆から見たらまったく同じ。今でも残ってるこの沼への道・・・


    



        


ふじ子さん、
幸せそうだったなあ・・・



     



Y.Iさんはふじ子さんの息子さんの真似をしてくださっている。
バックに見える森は、あの釣り場から見えていた細長い森で、
画像で見えているのも映画とほぼ同じ場所。


     






米倉 斉加年さんの真似をして手を上げてくださるY.Iさん。

    
    




   








で、話は戻って


さきほどの沼との間にあるセメントの
隔壁(かくへき)という構造物が撮影当時は
直角なのに今は広がっているが

元々の場所
をY.Iさんが言いあてられたのだ。


つまり元々 はもっと中で直角にセメントは
曲がっていたのだ。

つぎはぎ部分が今でもはっきり目立っている。

これは大きな前進だった。



   


     



その発見の瞬間の動画もあります↓


http://youtu.be/FBAqYKJ7lUc




航空写真で見るとココの位置↓
がふじ子さんの自転車農道。
ピンク
が釣り場付近。

行く時は車か、もしくは複数で行って
タクシーをシェアするかしかない。
タクシー代は佐貫駅からでも
牛久駅からでも片道大体1800円だそうだ。



     




あの木の杭が出ている
あたりに
釣り場が2つあって、
タイヤがくくりつけてあったのだろう。




     




さきほどは、沼の水や葦が生い茂っているため、大体のところを撮ったが、

その程度の写真は角度的にやや手ぬるいとY.Iさんがおっしゃるので
Y.Iさんと二人で、まず竹棒やタイヤを置いてその上に
アクロバティックに乗って撮ってみた。



     





動画
http://youtu.be/deDDvnwpXrc







徹底的にこだわる今後のロケ地めぐりの方々のために
遠くから釣り用のスノコを2人で20メートルくらい
移動させてみた。
そのスノコを葦の上に置いて撮ってみた。

水はそのまま入ると膝くらいまである。

葦が下敷きになっているのでスノコはかろうじて沈まない。
これのほうが棒やタイヤよりも安定しているし、遠くまで行ける^^




      




私のこだわりに、呆れながらも、かなり積極的に手伝ってくださるY.Iさん。^^;

     






動画
http://youtu.be/DY-sicfC21I



                 

あの美しいふじ子さん
幸せそうな富永さん家族美しい牛久沼

この3つの要素が同時に見れる
まさに第34作の名シーン。
みなさんここは行かなきゃ!。




いろいろ二人で工夫して
ついにアングル的にもパーフエクト!

初登頂!!




       
       





       






最後に、ふじ子さんのように自転車に乗りたくなった。
ということで・・・

自転車に乗るふりをしています^^;ヾ ↓

       



初登頂!!


この病的なまでの膨大なエネルギーと執念を
人類に役に立つことに使って欲しい
と笑いながらもY.Iさんに叱咤激励されました(((((^^;



動画  雑談入りです。

http://youtu.be/QvIht11M7IQ






     
セルフタイマーで記念写真。


     




ちょうど1時間半くらい取材したりお昼を食べたりしていると
小雨が降って来たので、
まあこのへんで切りあげましょうということで
車を止めてあった所まで戻ってなにげなくその前の民家を
見たら、なにやら喫茶店もしている民家だった。





こんな田舎で喫茶店がなぜあるのだ??

お客が入るのか??

好奇心も手伝って二人して入ってみました。

お店の名前は「爛 (木編に可)
らんか」と言って
なんと喫茶室の向こうに囲碁を打つテーブルが30個ほども並んでいました。

中国の故事で「囲碁」のことをそう呼ぶのだそうだ。


囲碁クラブのお店だったんですね。オーナーのご主人が教えていらっしゃるらしい。
もうそれは、かなりの腕前だそうです。


奥様が自分で作られる手作りのゆずケーキはこんな田舎でなぜと思うくらいの
クオリティでした。おいしかったです。

何よりも驚いたのが、こんな田舎の喫茶店に「
ギャラリー」が併設されていることだった。
今はさほど使っていないけど、
昔は知り合いの方々が展覧会をして、お客さんを遠くから連れてきたりしていたらしうい。
奥様も書道と水墨を書かれるが、かなり上手い。びっくりした。
上手いだけではない。絵としてなかなかいいのだ。
こんな牛久沼の誰も来ない喫茶店で、こんな本格的な絵に出会えるとは・・・。

この牛久沼にアトリエを持っていた
小川芋銭の影響がある絵だ。



    これは「らんか」のオーナーの奥様がミョウガを描いた水墨画。


    




      「らんか」のオーナーご夫婦と私。

      



そして、ケーキやコーヒーをいただきながらおもむろに
「ロケ地」のことを話しましたら
しっかり大原麗子さんが来られたことを覚えていらっしゃった。
28年前はまだ「ふじ子さんの自転車ロード」は竹やぶが生えてなくて
ずっと葦だったそうです。小川か何かがまだ流れてたのかな。


そしてあの釣り場の住所のことだが
衝撃的なことがわかった。

住所についての衝撃の事実。

ほとんど地元の人でも知らないそうだ。

郵便屋さんだけは知っている^^;




動画
http://youtu.be/d6N3KbI5gsk





住所についての結論


あの釣り場やふじ子さんの自転車農道は
龍ヶ崎市庄兵衛新田町。

田んぼから土手を上がった所の家々はほとんどが
牛久市新地町。


田んぼの稲荷川寄りに昔から建っていた3軒の家だけが
牛久市の庄兵衛新田町。

稲荷川の畔にあるあやめ園付近と沼に近い所は
牛久市の庄兵衛新田町。

この新地町の住宅が建っていなくて
田んぼだけの沼に面した細長い部分は
全て龍ヶ崎市の庄兵衛新田町。

また、つくば市にも沼を灌漑によって埋めて
田んぼにしたところがあるがその一部は
つくば市の庄兵衛新田町。

あの島があるあたりいったいは
龍ヶ崎市の庄兵衛新田町

庄兵衛新田はこのように3つの市に
またがっているんだそうです。

基本的に、牛久沼の沼自体と沼と接する田園はほとんどが
龍ヶ崎の庄兵衛新田だと覚えておけばいい。

だから、僕らが訪ねたロケ地は
正式には龍ヶ崎市の庄兵衛新田だったわけだ。

でもね、人に言ったら、そこらじゅうに同じ住所が飛び地のように
細長く続いているのでもうわからなくなってしまうらしい。


だからあのロケ地は
牛久市新地町の南の先にある
龍ヶ崎市の庄兵衛新田

と覚えればいいのかもしれない。


だから2日前のあの青年は「新地町」って言ってくれたんだね。



あのあたりのことを知らない人に
あのロケ地を説明する時は

新地町の南の先、
沼に面した場所

とシンプルに言うのが
一番いいかも^^;


これだと迷わないですもんね。

あの場所に行ければいいわけですからね。


ちなみに
ふじ子さんの
自転車農道から
一番近い家の住所は

牛久市新地町25



このあと、僕らは「らんか」をおいとまし、

雨の振る中、牛久城址跡と画家小川芋銭のアトリエを訪問し
牛久沼に別れを告げたのだった。




       小川芋銭のアトリエに飾られていた日本画。これもなかなかいい絵。

     





     黄色いじゅうたん

     






2日前に、私が下見で地獄を見て駆けずり回った
かいがあったというものだ。

私とY.Iさんは、やや寒かったものの
大いに満足した1日だった。





     













ポストカード



2012年12月13日  10月に開催した展覧会の絵、人気ベスト8を
            
ポストカードにしてみました。


220グラム コート紙   

裏に 作者名 タイトル HPのURL、電話番号


実際のポストカードはもっとハーフトーンがきれいに渋めに出ています。

      




8枚組み1セット 1,000円 です。


展覧会期間中以外でのお申し込みはこのHPのメールでも結構です。
お振込みされたというメールと同日に送ります。
(お振込み料と送料(200円)はお客様持ちです)

2セット注文された場合も送料は変わらず合計200円で結構です。

3セット注文された場合は送料無料プラス ハガキサイズの直筆ラフスケッチ(額入り)進呈です。




10月の展覧会において
了承してくださった150人の方に
展覧会の絵の中からお好きな絵を3枚〜5枚記入していただきました。

その結果は以下のとおりです。↓

その統計からこのポストカード制作となったわけです。




     
鴨の通る道 第1位

     






     
「踊りの前」 第2位

     






     バリスを踊るT第3位  

     






(バリスを踊るUも第4位でしたが、同じモチーフなのでひとつに絞りました)






     旅立ちの朝 第5位

     






     今朝の秋eri 第6位

     






     
五月の剣岳 第7位

     






     菜の花の見える風景・筑波山 第8位

     






     雨の旅立ち 第9位

     




以上です。


















tokyoukazoku

2012年12月3日  山田監督の「東京家族」に私が8秒映っていました。


先日、神保町の「一橋ホール」に「東京家族」の試写会を観に行ってきた。
もちろん映画を観たかったのと上映前の山田監督のトークも見たかった。
が、それ以上に実は私が本編に映っているかどうか確かめるためだ。


家族の心のひだを丁寧に救い取った美しく透明感のある映画だった。
僕は「母べえ」や「おとうと」よりこの作品が「自然」で好き。
押し付けがましくなく、それでいて私の心をそっと洗ってくれた映画だった。

ところで、どのあたりで私がスクリーンに映っているかというと、


この作品の前半部分で柴又参道がちょっとだけ映る。
二男を演じる妻夫木君がお父さんとお母さんを柴又帝釈天参道の川千家に連れて行き、
うな重の竹を食べるのだ。

柴又ロケはそれだけ。

うな重を食べる直前に、妻夫木君が川千家の入り口の参道で
仕事の電話を携帯を使って15秒ほどしゃべってるシーンが
あるのだが
そのシーンの後半のほうで
8秒間妻夫木君の向こうの方で私が映っている。


後日、私が自分で撮った同じ場所の風景に
イラストをはめ込んでみた。こんな感じ。↓


    


電話の前半は、妻夫木君の背後にエキストラの若いカップルが歩いていて
最初の5秒はずっとそのカップルが映っている。
妻夫木君が電話を切るあたりからそのカップルが動いて、その向こうにいた私が
8秒映る。。
ちょうど小さな湯飲みに入れたてのお茶を飲んでいるところだった。
薄い紫のシャツを着て、横顔と上半身が映っている。

人物比率はこの画像のような感じ。こんなもん。

この店は実は私のマンションの1階にある。


その時私は何をしているかというと
小さな湯呑でお茶を試飲しているのだ^^;ヾ

なんでそんなことをしているのかと言うと
ちょうどお茶葉が切れたので、私のマンション1階の
参道に面した店(もんでん さん)にいつものお茶っ葉を
買いに行ったのだ。

そうしたらなんと店の近くが何かの撮影の真っ最中でびっくりした。

「東京家族」だったんですね〜〜。

まあ、でも山田監督は参道の人たちを邪険にしないので
僕は粛々とお茶を選ぶためにいつものように試飲しているうちに
「本番」がはじまり映ってしまったというわけだ。^^;

8秒は短くない、8秒って結構長い。


電話している妻夫木君に焦点が合っているので
私やその向こうの帝釈天二天門はややボケがちにはなっているが
まあなんとか映っている情報を知ってる人は
私だと分かるかも知れない。

だからなんだというわけではないが・・・^^;

まあ、嬉しいなあって((((((((((^^;)





これは、参道で携帯電話で話し終わった直後
川千家に入って行った妻夫木君をNHKカメラが撮った映像です。

この映像↓は「東京家族」のメイキングをNHKが番組にした物。
(寅友のカケちゃんに以前コピーしておくっていただいたものです)



     



私が
8秒映っているのはこのシーンの直前、

カメラが参道から電話している妻夫木君越に
正面に二天門と左に川千家と
右に「もんでん」さん(お茶売っている店)を
撮っている時だった。

映画開始から約40分から50分のところ。

後にも先にも柴又の外での映像は
その私が映っている参道の20秒だけだ。

私が映っている場面は、
手前で映っている妻夫木君のセリフ的には

「村田君によろしく言っといてください。
 安心して怪我治せって。

 8時から9時には行けますから。
 ・・・はい。
 じゃあ、そこでまた、はい。」

そして携帯を閉じて、店内に行こうとする。



そこまでずっと映っていた。
妻夫木君が携帯かけてるのは全部で
20秒くらいですので後半の半分以上映っている。


ややぼけてはいるものの
私を知っている人の中で
ほとんどの人は私だって分かるみたいです。


お茶を飲んで、
お茶の袋を手にとって何かしゃべってるのかな^^;




そのあとはなが〜〜〜く
川千家のうな重(竹)食べながらお父さんが
説教し続けるシーン。

この川千家の店内シーンはオールロケ。凄い!

そして驚くべきことに
参道シーンと川千家シーンは別の日に撮影している!

なぜわかるかというとこの妻夫木君が店に入ってくるシーンは
なんとお茶を売ってる目の前のあの
「もんでん」さんのシャッターが
閉まってるからだ!
↑の画像でも見えるでしょ、シャッター閉まってるのが。
本編ではあそこの参道で
僕が入れたてのお茶を試飲してる。
だから参道と店内は別の日。

僕がお茶を飲んでいるシーンを撮られたあの日は
夕方までずっと「もんでん」さんは開いていた。
だからロケは2回柴又に来てることがわかる。



あの日、参道の人から聞いたことだが、
川千家店内ロケのほうが先にやったらしい。
で、外の参道や二天門も入れたくなって
後日もう一度ロケをしに来たんじゃないか・・・。

この、私が映った日は、江戸川土手でも俳優さんに芝居をしてもらっていろいろ撮影したらしい。
でも江戸川土手は全部オミット(T T)。 本編で使われることはなかった。
この土手から、このまま河川敷に降りていくと矢切の渡しにたどり着く。↓このシーンはオミット

     




結局、私が映ってたあの参道シーンだけ本編採用となった。
なんだかやっぱりうれしいな。
未来永劫自分の53歳の映像が山田洋次作品に
小さくではあるけど残っていくのは嬉しい。








2012年11月6日  
ルーベンスここにありき。 


Portrait of Clala Serena Rubens



私は絵の好き嫌いが激しく、たいていの絵はさほど好きではない。
だから東京で数々の展覧会がひっきりなしに開催されているが、
展覧会は多くて1ヶ月に一度ほどしか行かない。

もっとも、画集は学生時代に無茶集めしたのでいやというほど持っている。

しかし展覧会も、一度その絵が気に入ったとなったら何度も行く。
昨年の国立西洋美術館で開かれた「レンブラント展」では私が大好きな
「ヘンドリッキェの肖像」が来ていたので3度もあの絵だけを観に上野まで行った。


で、今回は、「リヒテンシュタイン侯爵家のコレクション」の中に傑作がある。


    


スイスとオーストリアの狭間に位置する小国リヒテンシュタイン。この国はある意味
古くからの美術収蔵によりその地位を与えられ、プライドを保ってきたのだ。
第2次世界大戦の際、戦火を逃れるべく本国にしまわれて長い歳月、
絵が外に運ばれることは無かった。

しかし21世紀になってからようやく絵が動きだしたのだ。


     





下の絵を観ていただきたい。↓私はこの小さな絵を観に行った。

この絵は 1616年 脂の乗りきったルーベンス39歳の作品。

最初の妻の娘 「
クララ.セレーナ.ルーベンスの肖像
彼女が5歳の時の肖像画だ。
しかし彼女はこの7年後に12歳で亡くなってしまう。

ルーベンスはこのクララちゃんを目の前にして絵好きの画人として絵を「描いた」のがわかる絵。
天才とは言え、ほとんどのルーベンスの歴史画や群像は大工房での「製作」であり、
それは生業でもあり、なによりも出世の道具でもあったわけだ。
ルーベンスのそのような大作の数々には私はさほど強い感動はない。

しかし、そんなルーベンスも、やはり家族を私的に観る時は
「画人」になり「描く」という原点に戻るのだ。

娘のキラキラ輝く瞳や笑い顔を見てほとばしる感動があったのだろう。
見開かれた無垢な瞳、生命観にあふれる頬、幼くかわいい口元、ダイナミックな髪の流れ。
当時のヨーロッパ最高の手と眼を持った公的な画家が、
本当に一個人として感動したらこのような絵が生まれる。

ひとつひとつのタッチを愛しむように、そして自信を持って素早く置いて行った、まぎれもない「傑作」だ。
「力作」「大作」ばかりの彼の人生の中でこの、
板で裏打ちした37 ×27cm.の小さなカンヴァスに描かれた小品は
あきらかに彼の「別腹」の作品だと言える。
フランドルの偉大な画家ルーべンスは父親でもあったのだ。

そういえばレンブラントもヘンドリッキェとの間に生まれたティトスを描いた作品は
傑作が驚くほど多い。




ポスターでは↓このように黒くつぶれている陰の部分が
本物を会場で観ると美しいグレーの中間色で描かれていて
絶妙のハーモニーを出している。素晴らしきグレー。
これは実物でしかわからない。

ルーベンスのグレーは凄い。




                       クララ.セレーナ.ルーベンスの肖像

     






                  昨年の「レンブラント展」での「ヘンドリッキェの肖像」

     








2012年10月31日  ご高覧いただいた方々の展覧会のスナップ写真

2週間の間、大勢の方々が来られた。、
知人友人の中で印象深かった方々も多くおられた。
寅さん記念館のお客さんたちもそれこそ何百人も観てくださったが
写真を撮れなかった、撮り忘れた方々がほとんど。
特に同時にお客さんがダブってしまった場合はよく写真を撮るのを忘れた。

4枚の絵を買っていただいた
それぞれのコレクターさんたちをはじめとして
友人知人仲間関係者の中から写真を撮ることができた方々のスナップを紹介しますね。


いろんな諸事情により今回もお名前や関係は省略し、
すべてお写真だけを掲載させていただくことをご了承ください。






           




            




         




           




           




          




          




         



        
          




         




         




         




         




     




    




                   




                 




                   




     




       




                




             




               




    




    

       


               




     




             




       




             




           




                



                




     




    




     




    




    




    



                



               





   




    




    

  


     




    




     



      


  

      





      




            




              




              




          


         




      




     




     




     





     



     




       




   




           




     




                    






                 






楽しい時間をすごさせていただきました。
皆さん本当にありがとうございました。












2012年10月29日  ご来場 ありがとうございました。

一昨日で展覧会が終わりました。
毎日毎日が楽しかったです。

多くの方々に来ていただき感謝です。
ほんとうにありがとうございました。

コレクターさんたち、昔からの友人、知人、恩人、教え子たち、
寅さん仲間、葛飾の仲間たち、美術関係者さん、
絵を描く仲間たち、造形作家さんたち、などなど、

早ければ明後日の夜にでもみなさんのお写真をアップいたします。

また、私とはそれまでご縁が無かった
寅さん記念館にたまたま来られ、
初めてお会いするお客さんたちも
実に多くご高覧くださり感謝しております。

人数が多いですので、写真をアップする方々は
コレクターさんはもちろんですが、それ以外では、
友人、知人、絵や寅さんや葛飾の仲間たち、作家たち、
および美術関係者に限らせていただく事をお許しくださいませ。
また、一人ひとり紹介しながらのアップは今回はちょっと無理なので
一編に写真だけで紹介させていただきます。

中身の濃い2週間ではあったが
それでも、平日の午前中や雨の平日などは、会場でさらっと水彩画を描いて
友人や仲間たちに差し上げたりしていた。




その中で2枚ほど紹介しよう。



     
雪の金町取水塔

     





     
雪の帝釈天 二天門

       
     









2012年10月17日  展覧会 会場風景

会期も三分の一を過ぎました。
友人知人、コレクターさん、美術仲間、寅友などもたくさん来られますが、
さすが寅さん記念館ですね。来場者が多い。
記念館のお客さんも絵が好きな方々はしっかりじっくり見られます。


友人知人など関係者で会場に来られた方々の様子は
28日以降にまとめてどーっとスナップ風にアップいたします。
ただしダイジェストです。全員はさすがに無理です。ご了承ください^^;



     



     








2012年10月11日   拝啓 坂崎乙郎様  そして 25歳の君へ





拝啓 坂崎乙郎様


坂崎先生本当に長らくご無沙汰しています。

かつて、5年間芸術学を教えていただきました坂崎先生と
永久のお別れをしましてから早いものでもう27年になります。
坂崎先生には結局絵を見ていただかないままのお別れとなりました。
また、それ以前になによりも私にはお見せできるべき作品群がありませんでした。
でも、そんなことよりも、坂崎先生のあのお声やあの表情、あの筆圧を
二度とこの世では感じれないことが辛くてせつなくて悲しみにくれる日々でした。

私はその後、31歳の折、絵に専念するために職を断ち、背水の陣で異国での制作に入りましたが、
歳月だけが無駄に過ぎ去って行き、
その間も何十回と展覧会を開催してはきましたが、
どこかでしがらみが見え隠れする納得がいかない未熟で脆弱な部分がありました。

そして52歳の今、このたびようやく
坂崎先生に少しはお見せ出来る展覧会を開くことが出来たかもしれません。
今回の作品群は歴史の淘汰に少しは耐えれるのではないか・・・、と、
不遜な考えがふと浮かんでしまったりもしております。
しかし、私個人の感覚だけではなんとも心もとなく
そのような自信は生まれては娑婆の雑音の中で泡のように消えていくという繰り返しです。

そんなこともありまして今回思い切って坂崎先生に観ていただいて、
ご感想をお聞きしたいと思うようになりました。
僭越なことは十分に承知していますが展覧会のご案内を初めてさせていただきます。

今回展示しますのは、数年以内の仕事のものを中心に、ほぼここ10年の仕事です。

その節目の発表の場所が、かつて開催しました銀座の画廊でもなく、
坂崎先生が何度か勧めてくださった新宿の紀伊国屋画廊でもなく、
本来画廊でもなんでもない葛飾柴又の「寅さん記念館」だというのが、
寅さん好きで、いわゆる画壇にも属さない風来坊の私らしく自分でも少し可笑しいです。
記念館の館長さんはじめ葛飾区の友人のみなさんが応援してくださってこの企画展が実現しました。

じっくり静かに観ていただくために
どなたも来られないような小雨の平日の午後にでもお越しいただければと思います。




秋深まる柴又帝釈天前にて    吉川孝昭  拝










前略  25歳の君へ。


お元気ですか。

25歳の君はあの前年に「Yの肖像」を描きあげましたね。
そしてこの年に「筆を持てる自画像」も制作しました。
伸び盛り、やんちゃ盛りゆえに痛烈で歯に衣着せぬ批評をし続けていた君に
見せるべき、応えるべき揺るがしがたい造形がなかなかできなくて
ずいぶん長い歳月遠い異国の果てで苦しみ抜きましたが、
ここ10年、少し吹っ切れて来た感があります。

こうして今、壁面にこの10年の足跡を並べてみますと
「ちょっとは大丈夫」なんじゃないかと思えてきました。

なにが「大丈夫」なのかはなかなか言葉にはだせませんが、
とにかく観に来てください。

ただし、銀座の画廊ではありませんよ。
葛飾柴又江戸川のほとりにたたずむ「寅さん記念館」です。

君が住んでいた豊島区千早町からはちょっと遠いけれど
あの映画が好きな君だから柴又への道のりは決して苦痛ではないでしょう。

君のその強すぎる危険な眼光に、その苦悩に、その感覚に
真正面から対峙し、
真摯に応えうる造形が、一つのタッチが、この壁面に存在することを祈って
27年後の私は、初めて展覧会の案内状を君に出させていただきます。

またスペインからもうすぐ帰ってくる紀子さんにもこう伝えてください――
葛飾柴又は涼しい風の吹く美しいところです。
江戸川がたゆたゆと流れ、帝釈天の木々が美しく色づき始めています。

私の絵だけでなく、
君たち二人にこの風景をこそ見せたい。

来てください、柴又へ。

私はここにいます。


吉川孝昭 様
宮嶋紀子 様




江戸川土手の見えるベランダにて   吉川孝昭  拝









吉川孝昭展 2012年10月13日(土)ー28日(日)
午前9時−午後5時 寅さん記念館 休憩室

休館日第3火曜日:10月16日(火)のみ

なお、10月13日(土)は13時半〜14時半まで「葛飾の昔ばなし紙芝居」が展覧会会場で行われますので、この1時間だけ絵画が鑑賞しにくい状況があります。
13日(土)にお越しになる方は13時半〜14時半を避けてお越しください。


10月23日(火)午後には「かつしかFM]の生放送でのインタビューを含めた展覧会紹介があります。








2012年10月6日  柴又界隈の掲示板に貼っていただいているようです。感謝!


10月23日(火)午後には「かつしかFM]の生放送でのインタビューを含めた展覧会紹介があります。



寅さん記念館のスタッフのみなさんありがとうございます。
柴又駅と参道帝釈天前の掲示板コーナーにポスターを貼っていただいているそうで、感謝しております。





柴又駅の改札口出てすぐの葛飾区の掲示板









帝釈天参道、帝釈天前の掲示板↓赤丸で囲った部分。


    







     






     




     






吉川孝昭展 2012年10月13日(土)ー28日(日)
9時−17時 寅さん記念館 休憩室

休館日第3火曜日:10月16日(火)のみ

なお、10月13日(土)は13時半〜14時半まで「葛飾の昔ばなし紙芝居」が展覧会会場で行われますので、この1時間だけ絵画が鑑賞しにくい状況があります。
13日(土)にお越しになる方は13時半〜14時半を避けてお越しください。











2012年9月26日  「第3回つくば寅さん研究会」にお招きいただきました。 




ゆっくりゆっくり寅さん記念館での展覧会(10月13日ー28日
 ただし10月16日のみ休館 )が近づいて来ている。
それゆえに1週間だけ東京に戻って準備をしている。

葛飾区の広報や寅さん記念館のHPにもお知らせを載せていただいている。

http://www.katsushika-kanko.com/tora/news/post-271/





      








       




前回の「寅さん記念館」での展覧会は小品がほとんどだったが、
今回の展示は近作も含めた未発表作品が15枚ほどあるのと、比較的大きな作品も数点あるのが特徴。

この東京滞在中、
ちょうど運よくつくばでの「
第3回寅さん研究会」が盛大に開かれるというので、
私もお招きにあずかり、つくばに伺った。
つくば在住の方たちや関東に住んでいらっしゃる寅さんファンが集まって懇親会を開くのだ。
そしてみなさんの行きつけのお店で、楽しくも充実した3時間を過ごさせていただいた。

この会には私のパトロンであるY.I さんをはじめ大切なコレクターさんやお客さんたちも参加され、
大きなスクリーンを利用しながら、寅さん名場面集(吉川編集)を堪能したり、みんなで解説したり、
はたまた今年の越中八尾の「風の盆」訪問動画を面白く拝見させていただいたり、
大いに話題がミックスされ、頭をフル稼働させながらもリラックスさせていただいた。

みなさん、本当に人間の幅がある方たちばかりで勉強になるし、それゆえに実に楽しい。
そしてなによりも気心が知れた人たちなので、
普段は重度の隠れ人見知りの私も、なんとか気持ちを柔らかくすることができるのだ。

本当にお別れが名残り惜しいと思う夜だった・・・



     



吉川孝昭展 2012年10月13日(土)ー28日(日)9時−17時 寅さん記念館 休憩室
休館日第3火曜日:10月16日(火)のみ
なお、10月13日(土)は13時半〜14時半まで「葛飾の昔ばなし紙芝居」が展覧会会場で行われますので、この1時間だけ絵画が鑑賞しにくい状況があります。
13日(土)にお越しになる方は13時半〜14時半を避けてお越しください。









2012年9月6日  風の盆展覧会にサプライズゲスト現る。


怒涛の「風の盆」本番3日間が終わり、ほっとしている。

しかしまたすぐ金沢郊外で大きな展覧会があるため、まったく休みなしで動いてもいる。


今回は展覧会中の9月1日に東京や龍ヶ崎やつくばや首都圏から私の絵のコレクターさんたちが夜、車で走り抜けて
この山深い絵中八尾に一堂にやってきてくださったのだ。

もちろん「風の盆」を見に来られたのだが、私にも会いに来てくださったのだ。

もうひたすら感激!

油彩画や染織品を買ってくださり恐縮です。

みなさん本当にありがとうございました。




        











2012年9月1日  秋の『寅さん記念館』個展パンフレットができて来ました。



ちょうど昨日8月31日、
「寅さん記念館」で秋に開催する私の個展
のパンフレットが届いた。

全12ページ。A5サイズ。フルカラー



       
表紙↓

       





       
裏表紙↓

       




      
 2ページ目と3ページ目↓

       



それ以外の4ページ目から11ページ目は
会場でパンフレットをもれなくお渡しいたしますのでその際にご覧ください^^ヾ
葛飾柴又の風景も数枚展示します。

出品予定は、
油彩約15作品
水彩約10作品

また、10月初旬に日記にお知らせを書きます。


吉川孝昭展  ー遠い旅の空からー

葛飾柴又『寅さん記念館』休憩室

10月13日(土)−28日(日)

9時から17時まで









2012年8月17日 今年もいよいよ「風の盆」が来る。 唯一無二の一枚



自宅で絵画と染織工芸の展覧会を開く。

とっておきの絵の目利きの人たち、
そして染織の数寄者さんたちのために、十数枚だけ、今年も直筆のお便りを出す。

同じ絵は描かない。
一人につき唯一無二の一枚。

じかし・・・それはいいとしても、

今年は息子も藝大の2年。
新潟十日町で行われている「大地の芸術祭」の手伝いの中心メンバーを仰せつかっている。
それゆえ、風の盆の展覧会準備に参加できず、始まってからようやくやって来る。

で、まあ、私と連れ合いで、ちんたらゆっくりと展示を進めている。

8月20日からの前夜祭初日に開けるんだけど、間に合うかなあ・・・。

ま、いいか・・・ 夕方に間に合えば^^;

   

          先日描いたお便り用の水彩画。↓

      






      





      













2012年8月4日 バリ島は涼しい。っていうか、肌寒い・・。



熱帯とは言え、南半球にあるせいか今バリは涼しい。
夜などは肌寒いくらいだ。


息子は2週間と言う短い滞在期間の中で精一杯バリの空気を体にしみこませている。


      





彼にとっては1歳から20歳まですごした島。彼の精神には確実にこの島の血が入り込んでいる。


      




巷では今オリンピック?

このウブドの渓谷の中はまったく静か。

鳥が啼いている。


      


短くとも仕事と制作はそれなりにすすんだ。


やはりバリ料理は美味い。


さて、ここ数日は休息だ。










2012年7月27日  葛飾花火大会 ― ラスト15分は見ごたえあるよ〜

 


7月27日から8月9日までバリ島に行きます。
その間更新はしばらくお待ちくださいね。





先日7月24日
夜7時過ぎからいつもの「
葛飾納涼花火大会」があった。


   







映画「男はつらいよ」第5作「望編」ラストで、
さくらが浴衣着て見に行こうとしているあの花火大会だ。
あの花火大会の夜に寅は旅立っていくのだ。


   





さくらのアパートにはこんな貼紙も↓

     




第5作「望郷偏」の予告偏では、江戸川土手でこんな仕掛け花火も用意された。↓

   





今年は7月中旬から連れ合いが柴又に来ていたので、
江戸川土手には行かず、
家族3人でスイカを食べながら自分のベランダや室内から堪能した。


息子は密かにクラスメートの彼女と見たがっていたが
家族の団らんを選択してくれた^^
よしよし^^

今年も昨年同様なかなか見事なできだった。

道も土手も、もの凄い人だったが
私たちは自分の家から見てるのでセーフ^^



あいかわらず、帝釈天二天門ごしの花火は
品があるし、見ごたえもある。

特にラスト15分は昨年以上に迫力があった。

もう連発連発連発。

動画撮影を止める隙を与えてくれない連続技だった。




   






境内の大きな楠から見える花火もなかなか美しい。


   






こうして、柴又は本格的に夏を迎えるのでした。


   





昨年息子が制作した映像作品にもこの葛飾納涼花火大会が映っている。

2011年宮嶋龍太郎 制作 




          


7月27日から8月9日までバリ島に行きます。
更新はしばらくお待ちくださいね。














2012年7月14日  飛躍のタイミング ―  素材たちとの出会い 



現在、10月に「寅さん記念館」で開催する絵画展の制作をしているのだが
なかなかすんなりとは作品はできない。
それは当たり前のことなのだが、今さらながら産みの苦しみはキツイ。

イメージが強く沸いた時はすんなり成功するのだが、
そのタイミングがいつ来るかはわからない。

ドドっと数枚に渡りいいものができる場合もあるし、数週間何枚かいても
アベレージまでしか行かない場合もある。

細密描写だとこういう場合、じわじわと攻めてある一定の質までいけるのだが、
私のようなやり方では、インスピレーションが降りてくるのを絵を描きながら待つしかない。

あまりひっきりなしに描いていても絵疲れをおこしてしまうし、
だからといって絵を描くのをやめていると筆と手とが一体化してくれなくなる。

そんな時、制作を助けてくれるのが当たり前だがやはり「モチーフ」との出会いである。

なんといっても対象に心が開いた時には一度は必ずいいものができる。

あともうひとつ、「素材」との出会いもある。

キャンバスや紙や絵の具や筆、油などの道具のことだ。

特に私の場合、描く絵の性質上、地塗りの絵の具の強さや色合いに絵が影響される。
絵の具も「出会い」がある。メーカーとの出会い、色との出会い。
筆もそう。なじむ筆に出会うとイメージに手が追いつくことがある。


で、実は、この話、 私の息子のことなんだが・・


彼は、最近新たに「素材」に出会ったようだ。

元々彼はPC上でタブレットを使って絵やアニメーションを作っているのだが
今回、リアルな紙媒体でアニメーションのイメージボードをたくさん描いていた。

当初彼は画用紙にガッシュ(不透明水彩)で描いていたのだが、どうもしっくりこないようだった。

私は彼の画風を見て、専門家用の水彩紙と墨。そして大きな筆を使うことを提案してみた。

彼は新宿の大きな画材屋で夜までかかって選んで帰ってきた。

そして、その後、息子の絵は伸びやかになった。

彼には墨と大きな筆が合っていたようである。
紙はまだまだ考える余地がある。

考えてみれば、彼の母親(私の連れ合いの宮嶋紀子)が何十年も使ってきた素材と
一部共通したわけだ。

やはり血はあらそえない、ということなのだろうか。








アニメーション「降体確率」のためのイメージボード群 抜粋 

水彩紙に墨 すべてF4サイズ 242×332cm  2012年7月 制作 宮嶋龍太郎


                  

      







                    






       





 
      





               






  「ある道で」  
2001年 パイナップル紙に墨+木版 (ミクストメディア)   宮嶋紀子 作


      






  
「へやに来た猫」  2001年 パイナップル紙に墨+木版 (ミクストメディア)   宮嶋紀子 作


      
      






   「野の人」  
2001年 パイナップル紙に墨+木版 (ミクストメディア)   宮嶋紀子 作


      



















2012年6月28日 敗者復活  ボタ山のある風景 ― 炭鉱町を歩く寅次郎 



車寅次郎は、映画「男はつらいよ」の中で、
全国の懐かしい風景の中を旅して歩いていくのだが、
映画の第1作が公開されてからもうかれこれ43年が経ってしまっている。

それゆえ、風情のあった町並みも今ではさま変わりして
味も素っ気もなくなっていることが多い。

とても淋しい気持ちになるが、そこに住んでいる人たちにとっては
風情よりも機能や便利が大事なのかもしれない。

しかし、時にはなくなってしまったと勘違いで思いこんでいた懐かしい景色や町並みが
実はまだ同じ空気のまま残っていたことがわかるときもある。

そんな時は、敗者復活戦から立ち上がってきたような晴れやかな気分になれる。

第37作「幸福の青い鳥」の舞台になった福岡の炭鉱住宅もそのひとつだ。
寅が訪ねて行ったあの場所は今も残っていたことが先日わかったのだ。


宮若市宮田町鶴田の「
旧貝島大之浦炭鉱住宅


     



     
今も映画公開当時のまま残っていることがわかった 貝島大之浦炭鉱住宅。↓

        




大空小百合ちゃん(美保さん)が
一人淋しく住んでいたあの住宅も残っているかもしれない・・・

車寅次郎と炭鉱の町はなぜか良く似合う。



炭鉱の町を旅行く寅のイメージを水彩で描いてみた。


     


 


              
 







追伸


2012年6月30日 スカイツリーが柴又の自宅バルコニーから
見える事がわかった!


バルコニーの一番先端の角に立って帝釈天の反対側を眺めると
なんとスカイツリーが見えた。

1年半気づかなかった。

今までずっと気づかなかった理由は、
そんなバルコニーの角に立っても、いつも間近にせまる
帝釈天の境内を眺めていたからだ。

逆側はただの住宅やビルなので興味なかったのだが
今日洗濯物を取り入れた際になにげなく振り向いたら見えた!

ただし、一番前のほんとうに角に立たって、
ちょっと体を傾けないと見えないので
普段はまあ・・・そこまでして見ることもない。


前には江戸時代から続く題経寺(帝釈天)が広がり、
後ろを振り向いて身をちょっと乗り出すと東京スカイツリー。

今と昔、 いいではないか。



      
自宅バルコニー角からの後ろの眺め。.スカイツリーが右にズドーンと見えた。

      





     
そのまま体を反転し、前を向くと、こういう帝釈天の風景がドーンと迫ってくるわけです。↓

      











2012年5月27日 川井みどりさんとめぐる新緑の柴又




5月21日は朝7時に起きて、帝釈天の上空で
なんとか金環日食を見ること&撮影ができたので幸先がよかったが




                  
午前7時33分ごろ 帝釈天上空で撮影

      




お昼からはもっといいことが待っていた^^/

今日は三崎千恵子さんの百か日。


それで三崎さんと特に親しかった
あの山田組の常連キャスト
「川井みどり」さんにお誘いを受け、
三崎さんの供養の意味もこめて
いろいろ三崎さんや撮影のことなど、お話のやりとりをさせていただいた。



かつて、川井みどりさんのことは私もこのコラムで何度も書いてきた。↓
「男はつらいよ」だけでも、第12作「私の寅さん」から始まってなんと20作品以上で出演されている方だ。
それ以外でも「黄色いハンカチ」「息子」「ダウンタウンヒーローズ」「学校」シリーズなどにもたくさん出演されている。



http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi27.html#502
謎の女優 川井みどりさん ついに解明!



http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi27.html#515
三崎千恵子さんと川井みどりさん



http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/torajironahibi27.html#518
川井みどりさんを「私の寅さん」でさがせ!





参道の高木屋さんの、
渥美さんと山田組の主なメンバーしか座れないあの「
予約席」で
草だんごやおでんを食べながらゆっくりお話に参加させていただいた。






   
幸福の黄色いハンカチで桃井かおりさんと絡むシーンの川井みどりさん

      




           この「幸福の黄色いハンカチ」ではかなりセリフも長く、大きな存在感を見せておられた。

       







       第33作夜霧にむせぶ寅次郎で渥美さんと絡むシーンの川井みどりさん。

      







    今でも亡き渥美さんのためにいつも「予約席」になっている渥美さんがいつも休憩していたテーブルで食事&歓談。
    手前で黒い服を着ていらっしゃるのが川井さん、その後ろは由夏さん、、私の後ろは蒲原さん。

      





川井みどりさんと一緒に来られたのは
生前の三崎千恵子さんと本当に親しくしていた方たち(由夏さんと蒲原さん)。

蒲原さんと川井さんは特に三崎さんの最期を見とられたほど深い絆で結ばれた方々。
由夏さんも三崎さんと彼女のお母さんがかなり親しい友人だったこともあって、
生前の三崎さんには家族ぐるみでいつもお世話になっていらっしゃったということだった。



高木屋さんでは、おでんやお団子を食べながら
みなさんの三崎千恵子さんとの繋がりをお聞きした。


蒲原さんは、ただただ三崎さんの着付けのお弟子さんだったのだが、
それゆえ最初の数年は三崎さんがそんな有名な女優さんだと知らないで
自分の自宅が三崎さんと同じ鎌倉だったので教えてもらいに通っていたそうだ。

そんなはじまりもあるんですねえ・・・。ある意味面白い。


川井さんも源ちゃんの女友達として
第20作に出演した時に、三崎さんから声をかけられ、
自分の家にこのシーンにもっとよく似合う衣装があるから持ってきてあげるといって、
収録中にも関わらず、車で家まで戻って衣装を取りに行ってくださったのが親しくなったきっかけ。



ちょうど三崎さんの追悼の記事が
今月の読売新聞夕刊(5月12日(土))の
「追悼抄」の欄に写真入で大きく載ったんです」と言われた。

その中で川井さんがこのエピソードを
おっしゃってたということ。

川井さんが、映画撮影でのちょっとした思い出を話されるたびに
私がその当該作品の詳細な内容や役者さんなどの
寅ネタを補足するので
三人とも「えー!凄い」っていつも驚愕されていた。^^;


蒲原さんもしきりにおっしゃっていたが、
三崎さんはほんとうにムーランルージュでの
修羅場体験とご主人の宮阪さんとの二人三脚の思い出がずっと財産だったらしい。

役者として舞台という厳しい場所でもまれ、かつ、
経営側の会計として、座長の奥さんとして体を張った生き方をし、
舞台役者と経営という2つの役目を同時にしてきたのだ。


ムーランの地方講演などの時は、
地元の怖い興行師たちとの交渉も男の人たちに頼まず
三崎さんが一人交渉にのぞむことも多かったという。


そのくせ、巣鴨のやっちゃばで育った気質で、
人にはめっぽう親切で、そこまでするか、というくらい「おせっかい」と誤解されるくらい
全身でお世話してあげる人だったようだ。

そのような豊穣な愛情は寅そっくりだし、やっぱり「車つね」さんそのものだ。

それで川井さんも由夏さんのお母さんも、由夏さんも、
着付けの一番のお弟子さんだった蒲原さんも
三崎さんの生き様や気質は自分たちの人生の大きな羅針盤になっていったようだった。


その後、夜になって隣町の金町中央図書館でその読売新聞夕刊の記事を読み、
コピーしてきた。なかなか味わい深いいい記事だった。↓



     






高木屋さんでお団子とおでんをちょいとつまんで1時間ほど歓談して
「さあ、前菜は終わりで、しっかり今からお昼食べましょ」
ということになり、高木屋さんをおいとました。

で、自分の食べた分を支払おうとすると、高木屋さんは、
前々から若女将さんと親しい川井さんの顔を立てて
みんなのぶんをごちそうしてくださった。


いや〜〜、川井さん達はともかく
僕までもごちそうになってしまって恐縮でした。
おまけにあの「予約席」で歓談できたなんて!

店を出ると川井さんが鎌倉名物「鳩サブレ」の
大きな詰め合わせを
お土産にと僕にくださった。

いや〜〜〜〜、これはまたまた恐縮です。

僕はすぐに

「これはまるで、あの第○○作に出てくる
 シーンじゃないですか!
 「鳩サブレ」を柴又のとらや(くるまや)で
 さくらがお土産として手渡されるシーンがあるんですよ。
 そしてその夜にちゃんと寅の部屋に
 箱から出したこの「鳩サブレ」がお菓子入れに置いてある んですよ。」

と言いましたら、「へー!そうなんですか!」と、
みなさん大いに驚いて喜んでくれました。

こういうのって なんか嬉しい^^


さて、問題です。

「鳩サブレ」が出てくるのは第何作でしょうか?^^




で、高木屋さんを出て、すぐ近くの大和家さんにそのまんまみんなで突入。
大和家さんたちとは僕もお馴染みさんなので大旦那さんと大女将さんに挨拶して、
みんなで天丼をおいしくいただいた。

今回は、私も含めて今みんなダイエットしてるので
ごはんは小盛にしてもらった。
川井さんは、この大和家さんも、ロケの撮影時などによく食べたそうだ。



      


   


大和家さんでも会話は弾んでいく。 ↓


川井さんは、結婚される時、

渥美さんにそのことをちょっと洩らしたら、
渥美さんは、「みどりちゃん、ヤクシャというのはヤクザだからね・・・結婚なんか滅多にはうまくいきやしないよ。」
って助言をくれたそうだ。

また、川井さんが体調悪い時でも、スタッフや周りの人より渥美さんがいつも気付いてくれて、
ちょっと声をかけてくれたそうだ。
現場では川井さんは「みどりちゃん」と呼ばれていたということ。


あ、そうそう由夏さんは、
若い頃実はずっと舞台のお芝居をしていたんだけれど、
そのころに「男はつらいよ」でチラッと出た事があるそう!。
その後ハワイにご主人と一緒にお店を出し、20年も滞在し、
今は実業家として日本で、ある小さな会社の取締役をされている。

上にも書いたように由夏さんのお母様と
三崎さんが親しいお友達だったので家族ぐるみのお付き合いだったようだ。

ところで・・・

川井さんは、寅さんに第12作、第20作と出た後
しばらく出なかったのだけれども、
その間は役者から距離を置いてアメリカのロスアンゼルスで
ご主人と暮らしておられたのだ。

でもご主人はなんとアメリカで亡くなられてしまった・・・


その後、また日本で活動されるようになって、
「男はつらいよ」にも出られるようになったのだけれども、
ずっと山田組に出続ける事に迷いと躊躇があったそうだ。

なぜなら、山田組に深く関わると、
ほんとうに役者という仕事の
厳しさと充実が病み付きになってしまって、
抜け出れなくなると思ったらしいのだ。

それほどまでも山田監督の要求は厳しくて
それはもう毎回毎回怒られっぱなしだったということ。

たぶん、メインの役者ではない目立たない自分が
このまま役者の世界にのめりこんでしまう危うさを
自分で恐れていらっしゃったのだと思った。
それはとても分かる気がする。


川井さんの芝居のうまさがわかっている私は

「山田監督は演技にはとても厳しい人だから
役者さんに素質があると思わないと
絶対にこんなに使い続けないんですよ。
川井さんはかなり認められていたと思います。
そうでないと渥美さんと直接セリフで絡ませたりしませんよ」

と彼女に言った。

映画現場の人間でない私がそんなことを言うのは
とても僭越なのは百も承知でそう言った。

そして、川井さんはちょっとうなずいてくれたような気がした。


で、寅さんに立て続けに出ている間に、ある時三崎さんのマネージャーさんが
家の事情で辞められてしまったことがあって、、
しばらくのあいだちょっと撮影現場で自分のお世話をして欲しいと三崎さんに言われて
いろいろ役者兼付き人のような形でお手伝いをされたそうだ。

そして、新たにご縁があって 再婚もされた。

そしてそれ以来いつも三崎さんとプライベートでも
付き合うようになっていったということだ。




     



三崎さんの最期のことも少しお聞きした。

川井さんと蒲原さんが三崎さんのお嬢さんたちと
一緒に三崎さんの最期を見取ったのだが、
あの2月13日も
お昼まで川井さんは病室にいらっしゃって、
お医者さんは「ここ数日ですね・・」って
おっしゃってたようで
一応家に戻られたが、なんとなく胸騒ぎがして
夕方にもう一度病室に行かれたら、
ちょっとシリアスな状況になって行ったのだそうだ。

ずっと三崎さんと40年も行動を共にされていた蒲原さんも
お嬢さんにすぐ呼ばれて病室に行かれて
何とか間に合った。

お二人でこん睡状態に入られた三崎さんのそばで
お名前を何度か呼ばれたら
奇跡が起こって
なんと一度だけ眼をうっすら開けられてみなさんのほうを見られたそうだ。

そんなこともあるんですね・・・

そう語られる川井さんや蒲原さんは
目を潤ませていらっしゃった。


あ、そうそう
時々、山田監督も三崎さんの家で
お昼を食べられることもあったそうだ。

みなさんが覚えていらっしゃるところでは、
第29作「あじさいの恋」の脚本執筆中に鎌倉の三崎さんの家に山田監督たちが来られて

「三崎さん・・・鎌倉ロケ、どのあたりがいいかなあ・・いいとこありますか?」

なんて話もされていたとか・・・いい話だなあ・・・


驚いたことに蒲原さんは、十年間以上、大船ロケの時は
三崎さんと一緒に山田監督にお弁当を作って持って行ってあげていたそうだ。
大船での撮影は何日も続くことは当たり前の山田組だから、
ほんとうに何度も何度もお弁当を
持って行かれたということだ(味噌汁お茶つけて!)

蒲原さんは着付けのお弟子さんなので
上にも書いたように、映画にはそんなに最初は興味がなかったのだが、
ご縁が深くなって撮影所に三崎さんとともに一緒に通われるようになったそうだ。




さてこのようなまじめでシビアな話はここまで。



このあとはのんびりと帝釈天にお参りして
寅さん記念館で遊んで、
江戸川土手の風に吹かれましょう ということで


大和家さんをおいとまし、
帝釈天にお参りに行く事にした。

店の前で大和家の若奥さんに写真を撮ってもらった。

お土産にいただいた「鳩サブレ」目だってますね^^



      






帝釈天は川井さん10年ぶりだそうだ。
どこもかも懐かしい・・・って感じだった。



      



帝釈堂の中に入って、お堂の中に正座してお参りした。
ちゃんとろうそくも立てて
三崎さんの百か日のためにお祈りした。

そのあと川井さん達は三崎さんのご家族の方から
預かってきたお供えものを
帝釈天のお坊さんに渡し、帝釈天をあとにした。


      





かつて三崎さんが寄付された帝釈天の石の塀の前で。
みなさん一緒に^^。↓



      




さてさて次は「寅さん記念館」


記念館にいくまでに、普通の道じゃ面白くないんで、
「山本亭」の庭を通って記念館に入った。

入場券を買って中に入ると

入り口に山田組スタッフさんの等身大写真がズラーッと並んでいるのを見て
懐かしい知人のお名前を連発されていた!

「あ!青木さんだ!(照明)」
「ああ!鈴木さんだ!(録音)」

などなど、スタッフさんとも深いつながりだったことがうかがい知れる反応だった。

大船から持ってきたとらやのセットもみなさん大喜びで、
この貼付した写真は団子を蒸す部屋を指差して、
「ここの作業部屋はこんな綺麗にセットしてなかったわよね〜」って
笑っておられた。


茶の間に設置されたスクリーンに映し出される
寅のギャグシーンの数々にみなさん大笑い。
さすがにずっとスクリーンに見入られていた。


      




私は、記念館で一番の寅さんファンである職員の中村さんと
村上館長さんに川井さんを紹介した。

勢いに任せて 記念館ために色紙にサインしていただいた。


      





その後記念館をおいとまして
土手に上がり、みんなでしばらく渡し舟を遠くで眺めながら風に吹かれた。


      




その後、また帝釈天に戻り、境内を歩き、
二天門の見事な彫刻群を見られて


      





高木屋さんでお土産を買われ、

柴又駅前で記念に宝くじもチョロット買われ^^;。


そして、最後は、みなさん帝釈天の駐車場に戻られ、
そこでお別れをした。



川井さんもお友達も、みなさん人生の達人で、とても優しくて、
ソシテ、みなさん大人なので僕に気を遣わせないで、
まったりゆったりいい時間を過ごさせていただいた。


川井さん、由夏さん、蒲原さん、いろいろ勉強になりました。
ありがとうございました。











2012年5月14日  水彩スケッチ 新緑の小貝川」


この季節は気持ちがいい。
家の前の帝釈天も土日ともなると大賑わいだ。

桜が終わってハナミズキが咲き、同時に椿も咲き始めるこの季節。
柴又も筑波も最も美しい風景が見られる。

このスケッチは先日開かれたつくば市、ギャラリー彩花での展覧会に
展示した水彩画だ。

実はこの絵は昨年地震のあと、この季節にコレクターの I さんと一緒に
取材した時のもの。

まあ、相変わらずなにがなんだかわからないような絵だが、
小貝川の、あの数十年間ずっと岸辺がいじられていないようなプリミティブさが
数少ないタッチで表現できて一気に決まった。それゆえ結構気に入っている。




     









2012年4月30日  つくば市での展覧会が終わりました。「はい、バター〜」


つくば市の「ギャラリー彩花」さんでの染織工芸と絵画の展覧会が昨日終わった。

多くの方々に来ていただいて売り上げ的にも満足のいくものだった。
絵もしっかり買っていただいた。



       




で、昨夜は、パトロンである I さんのお声かけで、応援してくださってくれる方々が、
今回開催したギャラリーに隣接している「順鮨」という、つくばでも有数のおいしいお店に集まってくださった。


昔からの絵のコレクターの方々や私の絵を以前から気に入ってくださっている方、
今回の展覧会をしてくださったギャラリー彩花さんのオーナーの彩花さん、
「男はつらいよ」を大好きな方々、など11人が集まってってくださり、賑やかに歓談した。

気心の知れた方もあれば、お久しぶりの方もあったり、初めてお会いする方もあったり、
とても楽しくエキサイティングな3時間半だった。

途中、私が編集した「寅さん名場面集」を1時間、DVDから映像をプロジェクターを使って流しながら、
場面ごとに私が解説し、みなさん全員でこの映画の世界を堪能してくださったりもした。
寅さんは、私の絵とは一見何の関係もないが、私の絵を気に入ってくださる方は、
しだいに寅さん好きになっていくから本当に恐ろしい。伝染病のようだ((((^^;)ゞ
みなさん、映像を見ながら大いに笑ったり、くすくす笑ったり、ウルウルしたり、唸ったり、深くうなずいたり、
あっという間に時間が過ぎていった。

また、スクリーンでは、その後、I さんのご自宅がある龍ヶ崎の「鳥追い」の行事や、
19世紀から20世紀にかけて雪の結晶芸術に生涯をささげたウィリー・ベントレーの作品紹介、
そして、私の住む柴又の四季風景「君の知らない柴又を見せたい Four Seasons」、
などがスクリーンに映し出されるとみなさん感心しきりだった。



       





           





        





最後に記念撮影をする時に、私の隣の I さんが、寅ネタの「バター〜〜〜」と言ったので
みんなクスクス笑ってしまいました。

第1作「男はつらいよ」で、御前様が「チーズ」と言って写真を撮るのに「バター」と言ってしまい、
寅と冬子さんで大笑いするんですが、後に寅もさくらの結婚式や、歌子ちゃんたちとの記念撮影時にも
「バタ〜」ってつい言っちゃうんですね。
くだらないけど、いつ聞いても面白いギャグです。


I さんの「バター〜」の掛け声で、ちょっと微笑んで写っているみなさん。楽しく印象深い夜だった↓


        














2012年4月10日 【バリ日記】 水彩スケッチ 菜の花の小貝川と筑波山」



もうすぐつくば市での16日間の展覧会が始まる。
今回は絵は4枚〜5枚程度、オリジナル染織工芸作品が中心。

つくばはいろいろな縁が生まれたところ。
私を育て励まし援助してくれる大コレクターの I さんが勤める町でもある。

そして車寅次郎の啖呵バイのロケ地でもある。

この企画展が決まったときも、事の起こりは不思議な縁から始まったのだった。

さて、どのような展覧会になるかちょっと楽しみ。






                                      
  水彩スケッチ 「菜の花の小貝川と筑波山」 2012年4月

                   












2012年3月11日 【バリ日記】 「SEA MAIL ART」な日々



バリ滞在もいよいよ大詰め。来週は日本へ。

描きためたスケッチやタブロー、デザインし、オーダーした染織工芸品などを
どんどんウブドの郵便局から船便(SEAMAIL)で日本に送っている最中だ。
月曜日に全部送り終わり、火曜日の夕方バリを出発する。


郵便局から日本へ送る時に、箱にも直接住所や名前などを黒マジックで書くのだが、
その時に息子は必ず黒マジックでちょっとした落書きをしている。

まあ本人は1分くらいでさらさらと描くのだが、これがなかなかいい味なのだ。
私はそれを見て、まじめに描いた絵よりもいいんじゃないの?なんて密かに思ったりもする。

で、さりげなくデジカメに写して保存している。

いくつかちょっと紹介しましょう。「SEA MAIL ART」






          
ダンボールに巻いた荒い白いビニール包装カバーの上に 油性黒マジック  宮嶋龍太郎 作  全て「無題」

            







             








            






           

            








            








            








            


          





            


          

以上です。

なかなか面白かったでしょ^^

机の前で椅子に座って水彩紙などに描く時よりも気持ちが軽い分、面白みが出るんですね。




         










2012年3月2日 【バリ日記】 雨上がりの渓谷 を連作する。



昼間の光は嫌いなので,夕方から絵を描くのだが、今は雨季、
このウブド周辺は夕方になると必ずスコールがある。

雨がやむと、ものすごい音をたてて家の前の渓谷を流れるチャンプァン川の水が荒れまくる。
そして霧が出て、ダイナミックな幻想風景が目の前に現れる。

なかなかこういう景色は写真にはなっても絵にはならないものだ。
それでもここ数日は何枚も同じ場所から雨上がりの渓谷を早描きで描いている。

大抵はめちゃくちゃになってしまったり、逆にまとめてしまったりして納得できないが
ごくたまになんとかなった作品もある。

ま、別になんとかなってもならなくても格闘している時の至福だけはゴッホのそれとなんら変わりはない。
それだけが私の人生でのたったひとつの救い。



明日は、バリ原住民の村まで遠出して取材。











                               2012年3月2日  油彩 「油彩雨上がりの渓谷 2012」

               













2012年2月25日 【バリ日記】 安眠とスコール




先日も書いたが、母屋とは別棟にある寝室の屋根の萱を葺き替えた。
もうぜんぜん寝心地が違う。
ゆったりした気分になれるのだ。
このような気分は日本では絶対に味わえない。
寝るためだけの館なんて日本にはない。

たとえば、合掌造りの家の屋根裏に上がると萱が見えるでしょ。
ああいうところでひたすら寝ると思えばよい。
もっとも寝るだけの家なので幅3メートル長さ6メートルしかない。

朝などにスコールがあれば、外に出て母屋まで行くまでに雨にぬれるので
このままもうちょっと寝てしまおう、なんてことになる。
まあ寝なくてもなんとなくスコールが止むまでの1時間ほどを無為に過ごすのもいいもんだ。






                 






そうこうしているうちに
バリは、もうガルンガンもクニンガンもようやく終わって、ご先祖様や亡くなった人たちは天国へ戻っていかれた。
親友のアグンライも戻っていった。、・・・と思う。
とはいえ、道にはまだまだガルンガンのなごりである『ペンジョール』が飾られたままだ。これが本当に絵になる。
私のバリ島の風景画はこのペンジョールが結構入っている。

バリ島の風景といえばやはりペンジョールだ。霊峰アグン山を長い竹を使ってシンボリックにしたもの。
この長い飾り物で天国からのご先祖様を招き入れる。



                  








この私の絵『 鴨の通る道 』にも、やはりペンジョールを入れている。昔のペンジョールはもっと素朴だった。今はみんな派手。


                     









連れ合いの絵にもしばしばペンジョールは象徴的に登場する。↓( バリの月夜 宮嶋紀子 ミクストメディア )


                    







で、関係ないですが・・・



まじめな寅さんクイズ

次の報告↓から確実に正しいと言えると思ったら○を、
そうでないものには×を、記入してください。

公園に寅さんファンの子供たちが集まっています。
男の子も女の子もいます。
よく観察すると、
寅さん帽子をかぶっていない子供は、みんな女の子です。


さて、問題です。

『公園に寅さん帽子をかぶっている女の子はいない。』


○か×か?


よく考えたらわかっちゃうので制限時間は5分です。
いったん決めたら変更なしです。


正解は



自分の答えを決めてから正解見てね。
















正解は
×です。

なぜ×か、10分ほど問題をよく読んで考えたらわかります。
それでも分からない人はメールくれれば解説します。
もちろんまじめな小学生の国語の問題です。















2012年2月10日 【バリ日記】 バリに戻ったら子犬が7匹生まれていた。なぜ?




バリの家に戻ったら子供たちがわいわい騒いでいる。なんや?
と思いきや、なんと椰子の木を引っこ抜いた穴に野良犬が7匹子供を産んでいた。
まだ、生まれて1週間くらいらしく目が開いていない。

みゅーみゅー、むにゅ〜、とか鳴いている。

近所の子供たちは母親が余り帰ってこないせいもあって子犬を穴から出しては抱っこしたり、じゃれたりしている。



             









1日に3回ほど母親がおっぱいをやりに来ている感じ。
私たちが帰ってきて、母親はかなりビビッていたので、近日中に引っ越してしまうのは確実だ。
ま、そうしていただければ、こちらもある意味安心^^;
そういえば10年ほど前にも敷地内の物陰で野良犬が子犬を生んでいたことを思い出した。



             









子犬の穴は、茅葺の寝室専用館の真下。写真の長い階段の横の木の根っこあたり。
この寝室はもともと北部の町シンガラジャで米を貯蔵していたものだった。
それを私が購入して、アレンジして寝床にした。中に入ると静寂の世界に浸れるのだ。
それはもうぐっすり眠れる。


             









日本で6ヶ月間毎日のように禁断症状に悩まされた。
自宅から車で10分の、タガス村の入り口にあるナシチャンプルの店の味。
バリのナシチャンプルで私が好きなのはこの店だけ。
この店にだけ通って通って20年! ああ・・・またようやく食べれる。
世界のどの店のどの料理よりも食べたい味。
自分の人生そのものの味


              
              






熱帯の甘い風の中で白いキャンバスの前にたたずむ時が至福。 居間兼アトリエのテラス。
息子が遠くから撮ってくれた。
息子もこの部屋で、そしてこのテラスで絵を描くことがある。

20年間ここで描いた数百枚の絵の半分は発表し、売っても来たが、あとの半分は今でもどこにも発表していない。
そのような超個人的な営みこそが逆に自分の懐を真に深くしてくれてることを私は自覚している。


             




















2012年2月6日 【バンコク日記】 熱帯のカオス 不夜城 バンコク


このサイトを立ち上げて以来日本かバリでしかアップ、更新しなかったのだが、
今回初めてバンコクからのサイト更新に挑戦。

たった6日間のバンコクだったが、大きな問題や体調不良もなく無事過ごすことができた。
いつもながらインド人の友人がマネージャをしているサービスアパートメントに宿泊しながら
仕事をこなしていった。

染織工芸のオーダー品たちもまあまあの出来。
新しいデザインのものも増えてきた。

食事もいつもながらどこで食べても何を食べてもバカうま。

夜になってますます活気付く街バンコク。この街に通い始めてもう17年目。
昔よりもずいぶんおしゃれ&小綺麗になってきているが、それでもまだまだ不可思議な部分を隠し持つ街。

バリは世界的なリゾート地だが、バンコクは世界的な商業地。昼はどの人々の顔も真顔で真剣。





では、ちょろっと写真で見てみましょう。




雨季なので大体毎日曇り空。水騒動はようやく今年からは収まった感じ。

        








初日からスコール。道は川のようになる。やはり熱帯なんだね。バンコクには雨が実に似合う。

        








バンコクの足といえばこのモノレール。Bangkok Skytrain 通称BTS。(Bangkok Transit System)


            









バンコクは食事も美味いが、デザートが泣きたくなるくらいに美味い。
マンゴともち米のココナッツソースがけをはじめ数十種類はある。


            









この日の夜は屋台でナマズを焼いてもらって食べる。バリにもナマズ料理があるが、もうそれは美味かった。
バンコクの屋台のレベルは世界一。屋台もそこらじゅうにあるので食べきれない。このあと肉料理やパパイヤサラダも注文。
たくさん食べても安い。


              









BTSの他に地下鉄も近年完成し、動きやすくなった。地下鉄の入り口では全員にマグネットゲートを通す厳しいセキュリティチェック有り。

       








アパートの周辺はおいしいインド料理の店が多い。タリー(定食)があるのでさほど高くない。かなり美味い。

       







バンコクの下町のマーケット街。いろんな国からいろんな人がやってくる。すさまじい熱気。

       






数ヶ月ぶりに偶然友人にも会う。

              











30度を超える中、夕方まで仕事をして、ようやくアパートに帰る。ここからの眺めはバンコクそのもの。

              



















2012年1月26日  雪降る柴又 今年初めての雪



もうすぐバリ島に向けて出発する。
今回も息子を連れて行くので、彼の大学に合わせて40日のバリ滞在となる。
みなさんバリ島滞在中は更新がやや遅れることをお許しください。



話は変わって


今日1月23日、今年はじめてしっかり雪が降った。そしてなんと深夜には積もった。
柴又の雪はモチーフとして最高なのだが、なかなか積もってくれない。

しっかり積もるのは数年に一度だと言われている。

昨年は2月中旬に積もった。そしてたくさんスケッチをした。

今年はどうかな?2月初旬からバリに行ってしまうので無理かな・・・と、思っていたら
出発1週間前に降ってくれ、そして積もってくれた。

私の家がある富山のように雪でお困りの地方の方には申し訳ないが、
東京の柴又の雪は風情がある。得したなあ〜って感じ。


水彩スケッチはまた後日アップするとして。
今日はとりあえず、雪の日のスナップ写真を見ていただこう。







      
寅さんも雪の帽子をかぶっていた。雪の降り始めた深夜

     










    
 夜の10時半にはこのような↓吹雪に近い降り方になり、これは相当積もるかもと期待した。

     










     
11時にはやや小降りになっては来たが、まだまだ降る気配は見せていた。5センチ〜7センチくらいかな。

     









     
参道の雪景色はやはり絵心が湧き立つ。いいね。

     







取材は深夜1時半で終わり、仮眠を取る。







     
一夜開けて 朝の6時半 簡単なはがき大スケッチを何枚か短く描く。

     








     
参道 朝7時過ぎ、プラスチックのシャベルで固まった雪や氷をかき出す店の従業員の方々

     









     
江戸川河川敷 7時半 人の姿もまばら。 はがき大スケッチを鉛筆速描きで何枚かやっていく。
    雪景色ゆえ、刻一刻と変わっていくので時間がもったいない。どんどん動く。着彩は家で。
    アトリエでの着彩のために写真もそのつど撮る。


     








     
母と子が雪遊び。

     









     
7時半 江戸川土手 左端に川甚のビル。向こうに金町浄水所のタンクが見える。

     









     

     おなじみ 金町浄水場取水塔 いい雲。そして朝日が輝いていて絵になる風景だった。フォトジェニックだ。

     









     
レンガの茶。白い雪。深いグレーの川面。青い空。これらのコントラストが絶品だった。

     









     
ボートが二隻。水道局の業務用なのだろうか…

     









     
矢切の渡し付近の朝日 7時半 木々の青い影が美しい。

     









     
ふと土手を見やれば近所の写真家のFさんが手を降っていた。彼も取材に来ていたのだ。

     









      
まだ人にほとんど踏まれていないグラウンドの雪

     










     
矢切の渡しも雪化粧

     









     
矢切の渡し 朝日の中の渡し場

     










     
8時半に帝釈天境内にもどる。まだ雪はさほど解けてはいない。

     











     










     もうかなり日が高くなってきた。8時半

     








     
私はこの横の角度からの帝釈天が好き。

     









     
家のバルコニーから帝釈天を撮って 仮眠に入った。

     






なんとも幻想的な朝だった。








おしまい

















2012年1月15日  水彩スケッチ 厳冬期の江戸川河川敷


さすがに成人の日が過ぎてからは寒い。
今日は巷ではセンター試験だそうだ。

昨年のちょうどこのころは、私も息子のセンター試験に付き合って、富山で過ごしていた。
あの日は富山はドカ雪で試験会場に行くのにとても苦労したことを覚えている。

そんな息子も今では芸大の1年生で、先輩たちの卒展を観るために学友たちと横浜の展示会場に今日は行っている。
そう思うと『歳月』というものを深く感じる。

そういえば日本画壇から無縁の個人的な絵画制作生活に入ってから今月1月で12年目になるんだな・・・。

あの時、私は突如としてバリからタイ北部のチェンマイへの移住計画をひそかに練っていたんだった。
結局その計画は、途中で頓挫したが、そのかわり、
同年にバリのウブドからさらに奥地のジャングルの中に引っ越すことを決意したのだった。


今年も2月初めから40日間タイとバリに行ってくる。あと2週間で出発だ。



         
12年前・・・あの年。 タイで長期滞在しながら、アトリエを探したのだった・・・ ( 写真↓は、バンコクにて 息子と連れ合い )
             アパートの近くのインド料理店にて撮影(もちろん、いつもこんな店で食事しているわけではない^^;)

       



とまあ、感慨にちょっとふけったところで、現実に戻りましょう。
今、私は柴又だ。

私はもちろん息子のあわただしい生活とは無縁で、今日もマイペースで江戸川付近を水彩スケッチ。
あいにくの曇り空and強い風だったせいもあってかなり寒い。
数枚描いただけですぐに家に帰ってしまった。



その中の1枚がこれ



           2012年1月14日制作 吉川孝昭  水彩 
厳冬期の江戸川河川敷

          














2012年1月1日  新年のご挨拶 と お年玉
           「君の知らない柴又を見せたいFour Seasons(完全版)」 









          
2012年正月元旦  吉川孝昭 「雪降る帝釈天」 お礼の年賀状の中の1枚

          









新年 あけましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。

昨年は、息子の大学進学にともない、
憧れの葛飾柴又帝釈天二天門前に
住居兼アトリエを構えることができまして
私にとりましては、20年前のバリ島移住以来の
大きな転機でもありました。


まさに激動の年、
いろいろな刺激が公私ともどもおこりました年でしたので
更新が昨年以上に遅れ続けましたことを深く反省しております。


なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書きノートなど、
相変わらず稚拙で、ダラダラした無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


私のかけがえのない古くからの親友たち、
ずっと長年支え続けてくださっているコレクターの方々、
寅さん仲間の方々、
このHPをいつもご覧くださっているみなさん、
柴又で新しく知り合った仲間たち、
画家仲間の方々、
美術関係の方々、
展覧会の仕事でいつもお世話になっている方々、

それらの皆様の幸せを心よりお祈りしております。


葛飾柴又帝釈天二天門にて


2012年 正月

吉川孝昭 拝







なお、お年玉代わりに、
昨年秋に息子が完成させました
「君の知らない柴又を見せたいFour seasons(完全版)」(7分)をアップしましたので
できるだけ
高い画質の【720p】以上でご覧ください。
ネット上では初公開です。

前回の作品(冬と春)に、
新たに新緑と初夏と盛夏と秋と晩秋を加え【四季折々】の知られざる柴又を表現しました。


それではご堪能ください↓




2011年宮嶋龍太郎 制作 
 高い画質の【720p】以上でご覧ください。
















2011年12月17日  展覧会スナップ写真 品川「FIELD」 
嶋龍太郎+2 Art Works 展


先日の展覧会ではご高覧いただきまして本当にありがとうございました。
5月に引き続き、生業でなく、楽しみで開く展覧会を開催できたことは本当に幸せでした。

それを実現させてくれたのは、私の大切な友人であり、この「FIELD」のオーナーである大寿美さんなのだ。
彼には本当にいろいろな面でお世話になりました。
ありがとうございました。

今回展覧会デビューの息子もいろいろ大いに刺激になったようです。

RYOTARO(宮嶋龍太郎)作品集(2002年− )





     





お客様は毎日3人〜6人という、ゆったりまったり、ぽつりぽつりペースでお越しになり
合計数はさほど多くはなかったのですが、密度の濃いお客様たちが来られまして
充実した楽しい時間がすごせました。
また息子ともどもいろいろ勉強になりました。


藝大の息子の学友、コレクターの方、スポンサーの方、パトロンの方、
絵描き仲間、美術関係の方、古くからの親友たち、私の教師時代の教え子たち、
新聞記者の方、寅さん仲間の方々、寅さん関係の方々、ほつね君のご家族、
そして今回は、私の連れ合いも最後に富山から駆けつけてくれた。
彼女も2点出品してくれたのだ。

皆さんお忙しい中、大井町駅から道に迷いながらもお越しくださいましてありがとうございました。
ご来場してくださいました中でお写真を撮らせていただきました方々の
スナップ写真を、今回の記念に日記にアップいたします。

プライベートな気持ちで来られた方もあるでしょうから、今回はお名前や私との関係は
伏せてランダムに匿名でアップいたします。

いつもながら、話に夢中になり、何割かのお客様のお写真を
撮らせていただくのを忘れてしまいました。
どうかお許しくださいませ。





いつもはぽつりぽつりと来られるお客様たちが、ある日ある時偶然重なりにぎやかな時間もあった。↓パトロンのI さんも交えて歓談。

    




富山から連れ合いが来てくれた時、ちょうど教え子たちも来ていて、楽しいひと時だった。↓オーナーの大寿美さんも入って記念撮影。

    



いろいろ応援していただいている葛飾ゆかりのコレクターの植村さんご家族。本当にお世話になりました。↓

    




それでは写真をシャッフルしてランダムにわーっとならべました。ご覧ください↓


      


       


      


      


      

      


      

  
      


      


      


      

      
      


      


      


       



 
以上です。


 遠路はるばる息子と私と紀子のために来ていただきありがとうございました。


息子よ 犀の角のようにただ一人歩め








2011年12月7日  筑波山神社ロケ地めぐり

  
それにしてもこの2週間は忙しかった。
品川での展覧会、そして連れ合いの上京、息子の芸大の展覧会準備と
本番、昨日からようやく休息に入れた。

日記に書くこともたくさん溜まってしまったが、
パトロンであり大コレクターの I さんと回った
筑波山神社のスナップを紹介することにしよう。


I さんは、画家としての私を十数年に渡って育てていただいている大コレクターである。
彼のコレクションはもう二十枚を超えている。

今回も品川「FIELD」での絵の展覧会のため「踊りの前」という絵をお借りしに来たついでに
厚かましくもロケ地をまたもや案内していただいたというわけだ。


そんな I さんとは、今年4月に同じ茨城の牛久沼から板橋不動尊、常総橋を回った思い出がある。
あの時も運転していただき、下見までしていただいて恐縮至極でした。

今回は筑波山神社。
もちろん両方とも第34作「寅次郎真実一路」のロケ地。

第34作「寅次郎真実一路」の中で、筑波山神社でバイに励む寅が映し出されるのだ。
健康サンダルをバイする寅の上手では、筑波山名物「がまの油売り」がバイを行っている。



筑波山神社は、関東の霊峰「筑波山」を御神体と仰ぎ、約3千年の歴史を有する古社で、
境内は中腹の拝殿より山頂を含む約370haにおよび、山頂よりの眺望は関東一円におよぶ。




今回もあつかましくも I さんに運転していただいて、助手席に座るだけの私。
またもや恐縮至極 m( _  _ ;)m


まずは、つくば市中心地から筑波山神社へ行く道の途中から見える本編のカット↓

      







まあ、こんな感じと思うところで、I さんに車を停めてもらい、写真を撮ったのがこれ↓

      




当たり前だが迷うことなく赤い大鳥居まで到着。


そこから歩きで大きな赤い鳥居をくぐり、小さめの白い二の鳥居をくぐったら、
まず3代徳川家光寄進の赤い御神橋が見えて、それを通り過ぎると
長い階段が見えてくる上には山門(御神門)が聳えている。
そこが寅が健康サンダルをバイしていた場所。

感慨が押し寄せてくる〜〜〜〜(TT)


ロケ地とご対面〜〜


山門(御神門)からロケ地を調べる私。 この階段の途中で寅がバイをした。

      







      


I さんは前回同様、私の要求に快く応じてくださり、寅が啖呵バイをしていた位置に立ってくださった。

I さんが立っているところが、寅が健康サンダルをバイしていた場所。↓

    




    



    


     逆から見たところ↓

    




      本編ではつくば山(男体山頂)が山門横から見える

    



I さんと、ああでもないこうでもないと、山門からの高羽カメラマンアングルの再現に
微細にこだわる時間はとても楽しく充実したものでした。


手前の石の囲いは新しくなったが山門と灯篭向こうに見える筑波山は今も同じ姿。

    




    
    
筑波山神社拝殿横でのガマの油売り。

    



で、せっかくここまで来たんだから、ケーブルカーで上まで登ってみようということに―。



       ケーブルカー山頂(御幸ガ原)からの展望(北西側)

     




       南方向には遠く霞ヶ浦が見えた。(画像左向こう)

     


I さんと巡るロケ地巡りは今回も本当に充実したものだった。
I さんに感謝です!


ロケ巡りの帰りに、コレクターさんたちや応援してくださる方たちと一緒に食事会。その横におしゃれなギャラリーが
あり、I さんと食事会まで1時間ほど時間があったので入ってみた。名前は「ギャラリー彩花」


     



ちょうど中では染織工芸の作家さんたちのグループ展が行われていた。
いろいろオーナーの海老沼彩花さんと話をするうちになんと来年の4月に染織工芸の
展覧会を企画展で行うことになった。彼女はご自身も陶芸の作家さん。
たまたま立ち寄った名も知らぬギャラリーでそんな話が進むとは・・・縁は異なもの味なものだ。


     



で、その後、コレクターさんたちや私を応援してくださる方たちと食事会。
寅さんファンの方や越中八尾の私のギャラリーに来られた方々も
わざわざ遠路来てくださって、賑やかなとても楽しい食事会となりました。私の絵の映像や柴又の映像の
上映会などもあり、盛りだくさんでした。あー美味しかった&面白かった!

みなさん本当にありがとうございました。日々孤独の中で生きております身といたしましては
とても暖かな励ましに感動いたしました。なんとかまた生き抜いていこうと決意しました!


     



  
    写真を撮ってくださったKさん。いつもお世話になっていますm(_ _)m

     





おしまい







2011年11月2日   ギャラリー Field   宮嶋龍太郎+2 Art Works 展



ちょっと更新が遅れてしまった。

絵を描く時間が現在長くなっていて、趣味のこのサイトになかなか手が回らない。

秋の柴又はなかなかいい。

空高く、空気がいよいよ透明になってきた。

今は秋、そしてもうすぐ晩秋だ。

息子は大学が休みの週末柴又の秋を取材している。

矢切の渡しにもススキがゆれ、川面の風はもうかなり冷たい。


この取材が終わると、柴又の冬、早春、春、新緑、初夏、夏、秋、晩秋とすべての取材が終わる。

そして編集、構成し、「君の知らない柴又を見せたい Four Seasons 」が完成する。



前回5月の私の個展時点(100万アクセス記念)では冬、早春、春、新緑、までしか取材していなかったが、
これでようやく最終完結版だ。

最初の発表は今回はネットではなく、品川での展覧会場で行う。




11月20日(日)から11月27日(日)までの8日間。
13:00〜20:00(午後から夜までの開催ですので注意してください)


品川区大井(JR大井町駅7分)の
 「ギャラリー Field」   宮嶋龍太郎+2 Art Works 展


■「君の知らない柴又を見せたい Four Seasons」は当分の間はネットには出しませんので
  ぜひ展覧会に皆さんお越しください。

今回は息子の宮嶋龍太郎のデビュー展覧会。

私(吉川孝昭)と連れ合い(宮嶋紀子)も作品をそれぞれ7点と2点出す。

で、息子は12ページパンフレットを自分で構成して、先日入稿していた。
映像制作だけでなく、こういうDMも自力でやらねば本当の体力がつかない。

大学の合間合間に半泣きで眠い目をこすりながらなんとか12ページのパンフ原版を作り終えていた。
3日ほどは徹夜をしたと思う。

展覧会自体も、始まってしまえば、そんなに価値はない。
展覧会を入れることによって映像作品をその日にあわせて作りこむことになるので
その制作意欲のためにわざと展覧会をドーンと入れるのだ。


展覧会会場でのメインは

■ 「バリ島」の映像「バリ.僕は猫をみていた」 8〜10分

そして2作品目は

■ 柴又の四季を取材した「君の知らない柴又を見せたい Four Seasons」8〜10分


それではパンフレットの中身の一部を紹介してみる↓





FIELD


宮嶋龍太郎+2 Art Works 展

「ギャラリー Field」

東京都品川区大井3−2−7

電話 03−3774−2375


2011年11月20日(
)〜11月27日(

13:00〜20:00(午後から夜までの開催ですので注意してください)


私、吉川孝昭は毎日ずっと13時から20時まで会場におります。(時々外出しますので携帯電話で呼び出してください)
息子の宮嶋龍太郎は毎日大学が16時半〜17時くらいに終わりますので18時くらいから会場に来ます。
宮嶋紀子は26日か27日に会場にいる予定です (でも彼女はまだはっきりと決まってはいません)


RYOTARO(宮嶋龍太郎)作品集 &プロフィール (2002年− )



         「 宮嶋龍太郎+2 展 」 中綴じパンフレット12ページ  表紙  宮嶋竜太郎 撮影 

          






            展覧会用パンフレット(12ページ)より抜粋  宮嶋龍太郎 撮影

            






                 展覧会用パンフレット(12ページ)より抜粋  宮嶋龍太郎 撮影

            





 
            展覧会パンフレット(12ページ)より抜粋  吉川孝昭「バリスを踊る」 部分

            






                 展覧会パンフレット(12ページ)より抜粋  宮嶋紀子 「Boy」  
                                             
            







            展覧会パンフレット(12ページ)より抜粋  宮嶋龍太郎 撮影

            









ギャラリー「FIELD」 への行き方↓

印刷されたパンフレットの裏表紙には「JR大井駅」となってますが「JR大井町駅」です。訂正します。




山手線日暮里からでも品川からでも京浜東北線に乗り換えてすぐ。「
大井町駅

     




改札でたら「中央西方面」に歩いていく。

     




「中央西」の出口への階段を下りて行く。

     





「中央西」の出口への階段を下りて行くと。駅前にドーンと阪急の食品館が見えてくる。

     





R大井町駅中央西口を出て、線路沿いに南(左方向)に歩いていく。
ファミリーマートを道向こうに見ながら歩いていく。

     





すぐにセブンイレブンの入ったビルが見えてくる。
そこの細い道が『
レンガ通り』である「
三又商店街」。その「レンガ通り」を歩いてテクテク抜ける。

   




みつまた時計台
が目印。そこを入って行く。

      







そうすると水色の歩道橋が見えるやや広い道大井三又の交差点に出る。
正面向こうにファミリーマートが見える。
手前に薬屋さん向こうにファミリーマートを見ながら
右に曲がって
いく。
Aのマークがギャラリー「FIELD」


    




    






この道をしばらく歩くと
左手にスクールゾーンの道が見えてきます。そこを左折して1分の右側。
Aのマークがギャラリー「FIELD」

      




「マッサージ治療院」の横のスクールゾーンを曲がって行く。

       





スクールゾーンを歩いていくとすぐ右手に「FEILD」が見えてくる。

       






ギャラリー FIELD
 の中にはカフェもあります。

     




100インチスクリーン。

     





ギャラリー「FIELD」 の中にはカフェもあります。

       





カフェの中には37インチ液晶モニターが鎮座している。この画面からも映像作品を常時流すつもり。
息子が持ってくる27インチモニターもあるのでもっと近場からも見たい人は見れる。

       





ギャラリー「FIELD」の前。

       





「ギャラリー Field 」のホームページ↓

http://www.field-oimachi.com/index.html





        

              JR大井駅徒歩7分「ギャラリー Field 」














2011年10月19日 油彩『今朝の秋』 2枚


すっかり秋らしくなり、ずいぶん過ごしやすい。私が生まれたこの10月という季節は私は大好き。
空高く、透明な風が頬にあたる。

知り合いの住職さんのお嬢さんがモデルになってくれた。

朝に寅さん記念館の会場で 即興でスケッチを約20枚。

家に帰っていろいろ油彩に起こす。

2枚だけうまくいった。




                    2011年8月26日  油彩 「今朝の秋 eri

      




                  2011年10月19日  油彩 「今朝の秋 eri U 」

      









2011年10月3日 内川聖一の涙


ソフトバンクホークス連覇おめでとう!



今年は本当に安心して見ることができた。
見る試合見る試合勝っていったので思わず呆れてしまったくらいだ。

約80試合くらいはテレビ観戦したが、はっきり他チームと違うところ。
それは各自のプロとしての自覚と技術がもうかなり完成されている点。

相当難しいことを当たり前のことのようにあっさり、確実に、どの選手もやってのける。
これぞプロフェッショナル。

その代表選手が本多 雄一。彼はすべてにおいてプロ。

そして絶対的な技術を持つ内川聖一。
どんなことでもできる。
ヒットを打とうと思えば高確率で打てる世界でも数少ない右打者。

他のすべての右打者とは次元が違う天才。

その天才が優勝が迫ったあの9回、一人泣いていた。

いろいろなことが頭をよぎったのだろう。
ほんとうに横浜時代はチームのことで苦労してきたから。

去年は多村が大活躍。

今年は内川。

ソフトバンクは宝を得たのだ。

内川の涙を私は一生忘れない。
あんなきれいな涙は見たことがない。



        









2011年8月28日 
越中八尾日記 「寅次郎 風の盆恋歌」物語&ロケ地めぐり




これは第50作「寅次郎 風の盆恋歌」のポスターである。
もちろん、マドンナは夏目雅子さん。

古刹聞名寺がある門前町の越中八尾。

晩夏に毎年開かれる「越中八尾おわら風の盆」が舞台






     




晩夏、二百十日の風が吹く 『おわら風の盆』

夕闇迫る越中八尾聞名寺境内。

テキヤ仲間と一緒にバイに励む寅。

一息つこうと西町裏の階段を下り、井田川のほとりをぶらつく寅の向こう、

禅寺橋で編笠を背中にしょった一人の浴衣姿の女性 ― 。

悲しげな目をして遠く川面を見つめている。

透き通るような頬につたう一筋の涙。



そっと近づく寅…



寅「お嬢さん、どうしたんだい?」






主演 渥美清

    倍賞千恵子


    下絛正巳
    三崎千恵子
    前田吟
    吉岡秀隆
    後藤久美子
    太宰久雄
    佐藤蛾次郎

    笹野高史
    すまけい
    桜井センリ
    関敬六

    宮沢りえ

    中井貴一

    


    夏目雅子

           


特別ゲスト

    宇野重吉

    岡田嘉子





寅次郎風の盆恋歌 ― このたびは寅次郎一世一代の恋でした。



とまあこのような雰囲気なんだが・・・


で、この物語のロケが行われた越中八尾のアトリエに私は今滞在している。
今年も風の盆がやって来たのだ。


そこで今回は、この不朽の名作「寅次郎 風の盆恋歌」の映画ロケ地を探索してみることにした。

ロケ地探索は今年春と夏の二回にわたって行った。




プロローグ


■かつて五月の曳山祭で越中八尾聞名寺でバイをした寅はすっかりこの落ち着いた町が
  気にいって「風の盆」に再訪することをポンシュウと決意したらしい。
  OPの歌の場面で五月の曳山祭でバイをする寅とポンシュウが映しだされる。


以下本編で行われたロケ地の主なところだ。↓

■暑い暑いと言いながら富山城天守閣脇を通る寅。

■寅の啖呵売の場所聞名寺境内。

■そこで寅と涙する雅子が出会った井田川 禅寺橋。

■雅子が住む町、彼女は八尾上新町の老舗醤油屋の娘。

■鏡町にある雅子の踊りの師匠嘉子(岡田嘉子)の住居。

■寅が約2週間宿泊させてもらった諏訪町にある胡弓の名人重吉(宇野重吉)の住居。

■東京から来たカメラマン笹野(笹野高史)が宿泊していた西町の宮田旅館。

■八尾が気に入り住み着いた写真家。貴一。
  その貴一が密かにテーマにしている雅子の踊り。
  その姿を追いかけて撮り続けるの中井(中井貴一)が手に入れた上新町の古い町家。

■雅子の幼友達で踊りのライバルでもある親友のりえ(宮沢りえ)の実家である西町の造り酒屋。
  りえは貴一を密かに慕っている。


■仲良くなった寅と雅子がぶらぶら散歩していた東新町の若宮八幡社。

■風の盆本番の日雅子が踊る古刹聞名寺の回廊。

■貴一が五年前に最初に雅子とすれ違った山吹の橋。

■雅子が寅に自分の気持を告白した城ヶ山公園。

■去ってしまった寅を追いかける執念の国道から見える月昇る立山連峰。




などである。


序盤にはお決まりのとらやへの帰郷があり、喧嘩がある。

もちろん物語のラストは威勢のいい啖呵バイで終わるのは基本。

今回は越中八尾の中だけのストーリーを抜き取って簡単に紹介しよう。


まずOPのあと

寅がいつものように半年ぶりに柴又に帰郷する。

案の定つまらないことでおいちゃんやタコ社長と大喧嘩して、旅に出た寅は、
今がちょうど越中は「風の盆」の季節だということを
思い出し、上野駅から北陸線に飛び乗る。


そしてやって来た、北陸 越中富山。


真っ青な空の下富山市街地を一人歩く寅。
暑い暑いと唸りながら富山城天守閣の前を通ったあとに、偶然ポンシュウの車に拾われ、
一緒に越中八尾に向かう。

この撮影時も真っ青な空。映画と同じ色だった。


     




       越中八尾 「寅次郎 風の盆恋歌」 ロケ地めぐり地図

     





まず日本の道100選にも選ばれている諏訪町通りと趣のある町家の家々が映しだされる。
この風景こそまさに越中八尾。


      




回想シーンとして

五月の華やかな越中八尾の曳山祭が映しだされる。
五月にまず聞名寺境内でバイをしている寅。




このしっとりとした風情のある小さな町が気に入った寅は、メインの「風の盆」にこそ
再訪したいと決意したのだった。


      




で、今

古刹 浄土真宗本願寺派 聞名寺の境内で、さっそく前夜祭11日間のバイの地割りや準備にかかる寅たち。【地図の番号1番】


    




準備が終わって一息つこうと寅はぶらり、西町の長い長い坂を下り、井田川の畔を散歩する。
今年一度来ているので土地勘はある。


     





禅寺橋までぶらぶら来た時、編笠を背中にしょった一人の浴衣姿の女性の姿ー
悲しげな目をして遠く川面を見つめている。

透き通るような頬につたう一筋の涙。


寅は見るでもなくゆっくり近づいていき…つい声をかけてしまう。


「お嬢さん、どうしたんだい?」




雅子が立っていたこの禅寺橋から西町の石垣の眺めは私も何度も絵に描いてきた。
最も坂の町八尾らしい風景がここにある。【地図の番号2番】



        





夜になるとこのような幻想的な風景となる↓


        






幼少期からおわらの踊り手としてその特異な才能を見つけられ、稽古に励んできた雅子は
26歳になった今、自分の行く道に迷いが生じていた。
信頼する師匠、嘉子(岡田嘉子)との間に溝ができてしまったのだ。
師匠を裏切りたくないという想いが自分の心を圧迫していく。




      






そんなことを気楽な旅人である寅に話している間にとっぷりと日は暮れてゆく・・・。

ふたりは、ゆっくり話をしながら西町への長い坂を登っていく。【地図の番号3番】



    





    






夜になるとこのような風景になる↓


    





    




     
2011年8月26日制作  油彩 「越中八尾 西町裏坂道 夜流し」

    








雅子は上新町の大きな老舗醤油屋さんの娘。父親が隠居した後兄が店を継いでいる。

心底尊敬する踊の師匠嘉子に、揺らぐ考え方の姿勢をきつく指摘されたのだった。
しかし幼少期から踊りに明け暮れてきた自分の偏った青春に疑問を感じてきている雅子でもあったのだ。

このロケに使われた店は間口も奥行きも広く深く、八尾旧町を代表する老舗だ。【地図番号4番】


     




大船セットではなく、実際にロケとして店内や蔵も撮影に使われた。

     




雅子は忙しく派手な店側からでなく、小さい頃から家の裏口のほうから出入りするのが好きな娘だった。
自分の生きざまや好きな人への対処もいつもそうだった。
何かあるとちょと引いてしまって、ふと気づくとひと気のない静かなところにつねにいる、そんな娘だった。

今日も稽古のために簡素に作られた石の狭い階段をトントンとどこまでも下りてゆく。

この裏手の階段は風情があるが
実はあの醤油屋さんとこの裏手の階段はなんと別の家。別撮りなのだ。
醤油屋さんから徒歩3分なので近い。同じ上新町。実は貴一の家の裏だった!


      




そこには大きなケヤキが生い茂っていて、その下を通る時とても気が落ち着くと雅子は寅に言う。【地図番号5番の裏】


      




このように自分の運命に悩みながらも、店の手伝いが終わると
毎夜稽古をつけにもらうために嘉子(岡田嘉子)の自宅に通う雅子。

嘉子の自宅は雅子の家から5分の鏡町、井田川の畔にある。
嘉子は還暦を超えているが結局誰とも結婚せず一人暮らし。

この嘉子の自宅として撮影されたのは八尾和紙製造「桂樹舎」の会長さんである「吉田桂介」さんの住居。
八尾の山間部の民家を移築したもの。【地図番号6番】



      




物語の中でも嘉子の家は7代続く大きな和紙屋。今はやや廃れてしまったが屋敷はそのまま昭和初期から残っていて
そこの板間を稽古場として目をつけた娘たちに幼い頃から踊りの稽古をつける日々。という設定だった。

実際の稽古場の建物は上記の「桂樹舎」の横にある別館。
山間部の木造小学校を移築して、中には世界の和紙の展示館「和紙文庫」そして喫茶部もある。【地図番号同じく6番】

私はこの喫茶部でくずきりをよく食べる。

染織工芸品の展覧会も吉田さんの援護と人脈によりここで行ったことがある。


     




本編では町の至る所に「酔芙蓉」の花が飾られていた。晩夏の越中八尾によく似合う。

     




寅と知り会ってから、自然体で生きる寅を見て日を追うごとに雅子の踊りの悩みは薄らいでふっきれてゆく。

そして、自分の運命と、なによりも自分に与えられた才能に素直に従いたいと思うようになっていくのだった


晴れた夕方などは涼しくなってから自宅から程近い、若宮八幡社でくつろぐ二人の姿があった。【地図番号7番】
この神社は、昔、養蚕業が盛んだった頃、お蚕さんを祭った場所。


     




一方寅は―

重吉老人と八尾に着いたその夜に知りあう。


最初の晩に東町の割烹料理屋で意気投合してから
2週間ずっと寅は重吉の家にやっかいになる。
諏訪町にある胡弓名人の重吉(宇野重吉)の住居↓【地図番号8番】

奥さんは数年前に亡くなられている。子どもはいない。
かなり変わった老人で、胡弓のことになると誰よりも辛辣な耳と手と感覚を持つ。
町一番のおわらの見巧者でもある。みなが所属している「おわら保存会」には
一切入らないでひとりで演奏してきた孤高の胡弓弾きだ。

重吉の胡弓は、その音色の底に深い哀しみがあると寅は思っていた。

実は・・・

諏訪町の重吉と雅子の師匠である鏡町の嘉子はその昔、若い頃、お互い相思相愛だったが、
抜き差しならないことが原因で結局その恋は実らなかった。
嘉子が生涯独身を通したのもその背後に重吉の影があったと思われる。

そのことがこの二人の人生に消えぬ影となって今もなおつきまとっていると共に
それぞれの芸に得も言われぬ艶と懐を創り上げてもいた。【地図番号8番】


     



雅子やりえが町の合同稽古(温習会)の時に踊っていた西町の公民館兼踊り場。
映画では雅子の町上新町の稽古場ということになっていた。【地図番号11番】


     




雅子が踊りの行き帰りに浴衣姿で通る道。このあたりは蔵が多いので「蔵並み通り」と言われる。【地図番号4番の裏】


     




雅子が寅との縁の願をかける地蔵様。
毎週朝早く花を備える。これは実は雅子の住む上新町ではなく、東新町のはずれにある。


     




東京から毎年やってくる風の盆マニアのカメラマン笹野(笹野高史)の定宿である西町の旅籠屋情緒あふれる「宮田旅館」
笹野は、なにかとちょこまかと出てきては、小さな騒動を起こしみんなを和ませている。
意外にカメラの腕は貴一に言わせると捨てたもんじゃないそうだ。温かな写真を撮る人【地図番号10番】


    




その宮田旅館の斜め前にあるのが、雅子の友人であるりえ(宮沢りえ)の家。八尾では有名な造り酒屋の娘。
りえは年は雅子と3歳ほど離れて年下だが雅子とウマが合い、親友である。
とびっきりの美人で旧町の誰もが認める踊りの名手。町のマドンナ的存在。
都会から多くのリピーターがこの華やかなりえの踊りを見に来る。
それゆえに早くから世間的にも注目され踊りのDVDなどもすでに何枚か出ている。

年下なのに雅子の悩みごとを聞いてあげたりもする奇妙な関係。
親友であるがもちろん実は踊りのライバルでもある。
雅子の尋常ではない踊りの才能をしっかり見抜いている数少ない理解者でもある。

師匠の嘉子が幼少期から自分ではなく雅子を一番弟子に選んで踊りを教え続けていることに淋しさと悔しさも感じている。

一途で芸術肌な写真家の貴一を密かに慕ってもいる。【地図番号9番】


    




りえの家の数軒向こうに表具師のすまさん(すまけい)の店がある。
すまさんはなにかと寅の面倒を見たがるキップの良い富山県人だ。寅の飲み仲間。
金使いが荒いので奥さんにはまったく信用されていない。
実は富山県でも知る人ぞ知る凄腕の職人。仕事では頑固一徹。
重吉郎老人と差しで話せる数少ない男 【写真番号9番】付近


    




唄うたいの桜井さん(桜井センリ)の家は雅子の家のもう少しだけ上手。このへんは西新町と言う。
この小さな西新町は踊りが上手な人が多い。寅とはすまさん同様寅の愉快な飲み友達。
本編で、ちらっと話題に出されているが、実は・・・桜井さんは昔嘉子さんにかなり惚れていたらしい・・・。
嘉子の踊りは凛としてそれはもう誰よりも輝いていたそうだ。
重吉老人に唄があまいと口ではいつも馬鹿にされてはいるが、夜流しの時は重吉は必ず桜井さんを誘う。


     




本編の中でもしょっちゅう出てくるが、
町のいたるところに、冬から春に雪解け水を逃がすための細い水路が設けられている。
これは「えんなか」と言って、夜中に枕の下でこの水の音を聞いていると安眠できるのだ。


かにかくに 八尾恋しや 寝るときも 枕の下を水の流るる (本歌有り)



      




貴一は5年前に八尾が気に入って住み着いた東京から来た変わり者の写真家。
好きな写真しか撮らないが、鋭い感性を持っている故か、東京の編集者に一目置かれてもいる。

親しくしてもらっている胡弓名人の重吉の鋭い洞察力と審美眼も貴一の成長を助けているようだった。

そんな貴一が手に入れた上新町の町屋がここ。↓うなぎの寝床のように奥が長い。

中に入ると吹き抜けの入り口がある。 築後100年ほど経っているらしい。
雅子の家とは同じ上新町。お互い徒歩3分と近い。【写真5番】


      





まだ貴一が東京に住んでいて八尾に取材旅行に来た時、はじめて雅子と偶然すれ違ったのがこの山吹の橋↓。
この時貴一は稽古に行く浴衣姿の雅子の後ろ姿を山吹の橋と共に一枚撮るのだった。
これが貴一の運命を変えた。
【写真13番】



     





夕暮れ時が近づいて来て、寅は夕涼みに雅子を誘いに行く。諏訪町通り(日本の道100選)


     




そして夜になると雅子は別人のような「気」で踊るのである。美しく柔らかいが切れ味もありタメもある。
清楚な中にも艶やかさも秘めている。まさに踊りの神に取り憑かれた娘だった。


        




そして、深夜の夜流しとともに明け方まで町町を踊っていくのだった。


        




そうこうしていると・・・11日間の前夜祭も終わり、本番が迫ってきた。

いよいよ聞名寺でのお披露目の踊りの日。
聞名寺回廊での雅子の美しい踊りは、りえも踊りを止めて立ち尽くすほど絶品だった。

同じように呆然と見惚れる寅の姿が境内にあった。


雅子はひとつの大きな壁を超えたのだった。
それを支えたのは旅人である寅の人柄と感覚だったことを誰よりも雅子は知っていた。

寅は雅子を生まれ変わらせたのだ。



         




本堂は京都の名匠柴田新八郎貞英の傑作(文化九年完成)。
総欅造りの豪壮な作風は、堂内の華麗さと ともに、浄土真宗 本願寺様式建築としては全国白眉のもの。 



江戸後期時代から続くこの総欅作りの回廊は長く、踊りごたえがある。


     




寅は境内からひっそり回廊の雅子の踊りを眺め、そのあまりの美しさに心が震え、目が潤んでくるのだった。

これが天から与えられし才能というものか ―

寅が今までのだれよりも深く強く恋をしてしまった瞬間だった。



     




当時寅は47歳、雅子は26歳。

雅子に忘れかけていたユーモアを与え、純粋に生きる喜びを与え続ける寅。

雅子は20歳も歳の差がある寅に対して、最初は兄のように、そしてしだいに一人の男性として見るようになっていく。

一方寅は、写真家の貴一の雅子に対する気持ちを知って、雅子の気持ちを確かめてやろうと、自分の想いは押し殺し、
諏訪町の向こうにそびえる城ヶ山公園の散歩に雅子を誘う。

諏訪町通りから伸びる長い長い石段をゆっくり登りつめると城ヶ山公園。



     




城ヶ山の奥、木漏れ日の美しい乃木堂のある広場で、寅から貴一への気持ちの有無を聞かれるが、
それには答えず、逆に雅子は、自分の中に密かに芽生え始めている寅への気持ちを控えめではあるが思い切って告げる。


     




言い終わって恥ずかしくていたたまれない雅子は
踊りの稽古があるからと言って一人で素早く長い石段を下っていく。


     




一人、城ヶ山の丘に残された寅は、呆然と立ち尽くす。

内心喜びに打ち震えながらも、
生粋の八尾人である雅子に相応しいのは、
この地に根ざし、生涯をこの地で生き抜こうと決意した貴一なのだと確信もしていた。
自分にはそこまでの覚悟はない・・・。


この展望場所からは、本編でもでてきたように、晴れた日はかなり遠くの街まで見渡せる。
取材の日(この場所は春)も遠くはるかかなたに富山平野がどこまでも広がっていた。


     



そして・・・


風の盆の最後の夜を残して、夕方、寅は雅子への置き手紙をりえに託して姿を消す。

そして今なら最終の東京行きに間にあうと、貴一に無理やり富山駅まで車で送らせたのだった。

雅子はそれを後で知る。

もうかれこれ30分以上も前に富山駅の方に出ていったと伝えた親友のりえの声も耳に入らないくらい狼狽した雅子は
車に飛び乗り寅を乗せた貴一の車を飛ばしに飛ばし追いかけるが・・・・



      




どこまで飛ばしても貴一の車に追いつけるはずもなかったし、もう汽車に間にあうはずもなかった・・・。

突然車を止めて、外に出る雅子。

遙か彼方に赤く染まる立山連邦。

頬に涙をつたわせていつまでも山々を見続ける雅子。


      



今まさに立山に月が昇らんとしていた。

そして・・・どれくらい時間が経っただろうか・・・


突如、雅子は強い目になり、

車に乗り込み、Uターンして八尾に戻っていくのだった。

もう彼女は泣いてなどいなかった。


このシーンでの立山連邦はこの世のものとは思えないほど幻想的で美しかった。まさに幽玄。

撮影エピソードによると、
いい山といい月がでるまで何週間もスタッフが粘ったそうだ。



      




そして 風の盆 最後の夜。

寅への想いを振り切るかのように、

夕方遅くの町流し、そして深夜の「夜流し」。

嘉子そして貴一が見守る中、
重吉率いる地方(じかた)衆(演奏の人たちという意味)の中で踊る雅子。


昨日までとは更に違った艶やかな中に深い哀しみが潜む踊り。


神に与えられし才能、誰一人達したことのない、嘉子も知りえない領域。


まさに一生に一度の踊り ― 。





      





以上「寅次郎風の盆恋歌」のロケ地巡りとともに簡単に物語をたどってみました(^^;)
長々とお疲れ様でした。


はい、ここでお詫びです。

もちろん上記の全ての記述、内容は
僕の個人的な妄想であり、
実際にはそんな「寅次郎 風の盆恋歌」なんていう作品は
この世に存在しませんし、スタッフ、キャスト、エピソードともに
100%でたらめです。

すべて完全なフィクションです。
ご了承ください。



あ〜〜〜面白かった(^^)ゞ




【 べつに読まなくてもいいけど、一応 豆知識 ↓ 】


年中行事としての「風の盆」は
暴風を吹かせて農作物に被害を与える悪霊を「二百十日」に歌と踊りで鎮めう「風鎮行事」である。
また八尾旧町は交易や養蚕.和紙などの地場産業で栄えた町であるので、むしろ
祖霊を供養する「盂蘭盆」との関係が深いとも考えられている。



「おわら」の起源は江戸元禄期。

町外に流出していた八尾旧町の建設許可書「町建御墨付文書」を町に取り戻した
ことを喜んで三日三晩踊り明かしたことに由来するらしい。



「おわら」の語源は

■豊年を意味する「大藁」から来たとする説。

■江戸期に遊芸者たちが滑稽な格好をして、唄に「おわらひ」という言葉を
 入れながら町を練り歩いたことから来たとする説。

■「小原村」から来た娘が美しい声で有名になった。という説。



チャンチャン(^^)

















2011年8月9日  帰ってきました久しぶりのバリ島。 涼しいバリ島



いやあ、久しぶりに帰ってきた。バリ島。
ちょうど帰った日はガルーダインドネシアがストライキをやっていて、ジャカルタで4時間も待たされぜいぜい言いながら
夜中にウブドに着いた。

いろいろあって、今日で10日目。

今回は息子が秋の展覧会のために数々の映像を撮りまくっている。
私も付き合ってスケッチ。

今、たんぼは田植えの時期。
白鷺が舞っている。
土をこねるのでミミズなどが出てくる。
それを狙って白鷺が農夫につきまとっている。


       



       


家の敷地から見た空。
この風景も超久しぶり。

         

今、バリ島はかなり涼しい。
私の家は渓谷の上なので特に涼しい。
夜は寒いくらい。
テラスの上は21℃






2011年7月10日 倍賞千恵子コンサート IN かつしか


一昨日生まれて初めて倍賞千恵子さんのコンサートに行ってきた。

私は生来の不精者、倍賞さんのCDはたんまり持っているが、
生のコンサートの類にはほとんど行かないのだが、今回の倍賞さんのコンサートは
寅さんのお膝元である葛飾区の「かつしかシンフォニーヒルズ.モーツァルトホール」で行われるので、
無理してでも行かねば、と思い、富山での展覧会の後半を厚かましくもギャラリーのオーナーさんにお任せして
東京に舞い戻ってきたのだ。

開演30分前に着くと佐藤利明さんがご夫婦でおられ、私を呼び止めてくださった。
日ごろからメールでいろいろやり取りをし、貴重なデータも何度も送っていただいている。
佐藤さんとは事前にメールで話を何度かしていたのでお会いできることはわかっていた。
さっそく長年のお礼と、積もる話をお二人とロビーで30分ほどさせていただいた。


佐藤さんは映画人の中で、
間違いなくこの映画シリーズを最もよく理解し、…
いやそんなことよりも何よりも最もこの映画を愛している人の一人。

奥さまも佐藤さんと一緒にこのまっすぐな道を二人三脚で歩まれている。
彼の感覚をいつも刺激し、活性化する役目も担っておられるんだなと、あらためて
お話を伺っていてそう思った。
そういう意味でとても素敵なカップルだなとお二人の強い絆に密かに感動してしまった。


私にとっての歴史的な番組CS衛星劇場「私の寅さん」のこと、
そして現在進行形のラジオ番組「みんなの寅さん」のこと、
個々の作品の中身のこと、奥様とのやり取りのこと…。

とにかく佐藤さんの「男はつらいよ」への想いは、もう完全に仕事の粋を超えてしまっているのが
それがなんとも頼もしくそしてうれしい。
私と佐藤さんのこのシリーズの作品の感想や評価におけるお互いのフィット感は
昔から尋常じゃないものを感じている。
彼は常にどんな話題でも仕事でもしっかりエッジギリギリまで踏み込んでいるのがわかる。
まさしく「男はつらいよ」に関して100年後にまで残る大きな仕事をされているのだ。
特に衛星劇場での数々のインタビューは圧巻だった。

そしてその時々の明快な視点や独自の切り口のヒントを
パートナーでいらっしゃる奥様とお二人で生み出していかれているのだ。

で、そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、いよいよコンサートが始まった。


場内が暗くなり…


スッと緞帳があがり、


スポットライトがパアーっと倍賞さんに当たる。


そこには、黒のジャケットを着た倍賞さんが江戸川土手階段に座っているのだった。



♪さくら貝の唄 ♪叱られて ♪雨降りお月 ♪波浮の港 ♪月の沙漠

と、ご主人の小六禮次郎さんとの軽妙なトークも交えながら彼のピアノで
しっとりと歌い上げていった。

ここまでの中では「月の沙漠」が大きなイメージが出ていて秀逸だった。

その後、なんと「♪東京ヴギヴギ」を歌われた。これがいいんだなほんと。
彼女はああいう軽妙でお茶目な歌が実によく似合う。

その後、何曲か歌った後、

舞台がまた暗くなって、なんと大きなスクリーンが倍賞さんの背後に現れ、
そこに映画「男はつらいよ」の第1作オープニングが映し出されたのだ。


文句なしに感動(TT)


     



江戸川土手でたたずむ寅


     


さくらは20年ぶりに寅と再会する。


若く美しい倍賞さんに観客の皆さんはあちこちでため息…。

私にとってはまさに「きた〜〜〜〜〜!!」です。
そして間髪いれずにあの寅とさくらの20年ぶりの再会が映し出された。




さくら「お兄…ちゃん?

第1作のテーマ曲が美しく流れる中

寅「そーよ!お兄ちゃんよ!


      



さくら「生きてたの…」喜ぶさくら

     



寅「んん!!

さくらお兄ちゃん!!

 一同しんみり

苦労かけたなぁ…。

   ご苦労さん…


 
二十年ぶりの再会を喜ぶ




     


そしておもむろに小六さんのピアノが始まり、

倍賞さんはなんと「男はつらいよ」の主題歌を
低い声で歌いはじめた。

さくらと寅の名シーンが私の中で走馬灯のようにかけめぐり、胸が熱くなってしまった。
さくらが歌う兄、寅次郎の歌。




そしてそのあと名曲「さくらのバラード」!


江戸川に雨が降る
渡し舟も今日は休み
兄のいない静かな町

どこに行ってしまったの
今頃何してるの
いつもみんな待っているのよ

そこは晴れているかしら それとも冷たい雨かしら
遠くひとり旅に出た 私のお兄ちゃん

どこかの街角で見かけた人はいませんか
...
ひとり旅の私のお兄ちゃん


この2つの歌を映画の名シーンをバックにたて続けに聴いて
私の心はずっと熱くなりっぱなし…



そして、「港が見える丘」も心がググッと震えてしまった。
どこかで酒場で歌うリリーや蝶子さんと寅のデュエットを思い出していたのかもしれない。


しかし、それらと同じくらいに倍賞さんのいろんな仕草やおしゃべりが楽しかった。
倍賞さんはおしゃべりがうまい。時々とちるがそれがなんともかえって素敵^^。
気さくだし、快活だし、お茶目だし…。
私のほんのちょっと前の方で倍賞さんが照れたり、間違えたり、おどけたり、ちょっとしんみりなったり…。
同じ空気の中でまさに生きているんだなと感じられる幸せをずっとかみ締めていた。


そのあと

「花はおくらないで下さい」「忘れ草をあなたに」もせつなく胸に来た...
やはり別れの歌はいつ聴いても悲しい(TT)


そして最後は映画「ひめゆりの塔」の主題歌 「しあわせについて」

これは究極の別れの歌

悲しみを遥かに通り越して透明な風が吹いている。。。

あの歌には私が好きな歌詞がところどころある。↓寄せ集めたらこうなる。



♪あなたは必ずしあわせになってください

 愛する人と めぐり逢えたら

 抱きしめた腕を ゆるめてはいけない

 

 ありがとう  

 さよなら


 生まれ変われたならば

 やっぱりあなたと 愛しあいたいと思う

 ひたむきな人と

 愛を信じて 。。。




けれんのない、
倍賞さんらしい等身大の美しいコンサートでした。




そして…

コンサート直後に、
今度はいきなりちびっこ寅少年の吉野秀尋(
ほつね)君に
「吉川さぁん!」と、ロビーで呼び止められる。
「おお!吉野君来てたの!」と二人して再会を喜び合う。
吉野君も「終わったらいきなり吉川さんがいるので信じられない!…と思った」って喜んでくれた。


       


小泉信一さん(寅さんDVDマガジン、朝日新聞連載)にさっそく吉野秀尋君を紹介。
彼も吉野君に会って大喜び。
小泉さんとはこの翌日も電話で吉野君のことで大いに盛り上がってしまった(^^)ヾ

       



佐藤さん夫妻にも吉野秀尋君を紹介。
佐藤さんは寅さん好きだった自分の少年時代をまさに見ているようでにんまり^^
佐藤さん自身も少年時代から「寅さん」大好きなませた映画少年だったのだ。

       


なんだかんだと、みんなで吉野秀尋君をかこんで賑やかしく自己紹介^^;。

       


そしてそうこうしてワイワイしているうちに
私のサイトをずっとご覧いただいているという田林さんや松浦さんたちが
集まってきてくださって驚いたり、お話したり、このように↓写真撮ったり楽しいひと時だった。

みなさん、ありがとうございます。励みになります。これからも更新を続けてまいります!


         


そうして、やがてお開きとなり、…みなさんが帰ったあとで、

私は秀尋君のお母さんが車で向かえに来られるまで
しばらくしてロビーがうす暗くなってからも外で一緒に待ってあげた。
その間も吉野君と作品の中身の話でいつものように盛り上がった。
彼とはほんと感動するところが同じなので息が合う。
この年の差で息が合うなんてことは奇跡ではないだろうか。

30分ほどして迎えに来られたお母さんはとても恐縮されて
なんと柴又の自宅まで車で送ってくださった。
いやはやなんとも逆に恐縮してしまった。申し訳なかったです((^^;)ヾ

あ、で、結果的に車の中でお母さんから秀尋君のことをお聞きすることができたことは
とても意味深いことだったと今思い返して納得している。

彼がこんなにも寅さんを好きになったきっかけは
テレビのロードショー「第22作噂の寅次郎」を観て、秀尋君が号泣したというのだ。
観終わって号泣しながら隣の部屋へ行って、出てこなかったというのだ。
寅さんのマドンナやさくらにたいする優しい気持ちに打たれて涙が止まらなかったらしい。

なんという感受性なんだろう。

こんな人どこにいます?

本当にこんなにすばらしい秀尋君と友達になってよかった…。

ちなみにお母さんは秀尋(ほつね)君のことを「
ほつ」と呼んでいた(^^)

吉野君のお母さんもお父さんも秀尋君からの影響で
私のサイトを1ヶ月ほど前から観てくれているらしい((^^;)ヾ

あの映像「君の知らない柴又を見せたい」は何度も何度も観てくれていて
あの映像を観るたびになぜかいつも涙が出そうになります…。と言ってくださった。
こんな嬉しい褒め言葉はどこを探してもない。
そして何度もご覧いただいて感謝です!


あ、ちなみに秀尋君の妹さんは目が大きくて小さいころのさくらのようです。
ほんとなにからなにまで寅とさくらでした。


かつては…私にも妹がいた。

生まれてすぐに死んでしまったが、
もし生きていたらどんな兄と妹になっただろうか…。



写真↓は私の自宅前(帝釈天の前)で。


      


倍賞さんも楽しかったが、場外での数々の出来事も忘れられない夜だった。
皆さんこの夜は本当にお世話になりました。



7月28日から息子を連れてバリ島に仕事に出かけます。
今回は3週間と短い滞在だが、やるべきことは山のようにある。
特に息子は11月の品川での二人展があるのでかなりの映像作品をバリ滞在中に作りこむという。
おそらく私にとっても息子にとっても大事な3週間のバリ滞在になるだろう。






2011年7月6日  
追われし日々の中の萌芽


いやあ、とにかく息子は毎晩遅い。それも朝の8時に家を出て夜の10時過ぎにようやく帰ってくる。
もちろん彼女と遊びまわっているわけでもないし、密かに深夜のバイトをしているわけでもない。
朝から夜まで授業の課題発表の準備に日々追われているのである。
ドローイング、、写真、映像、溶接、演劇、土日は展覧会を観て、そのレポート。
数人でのグループ制作もあれば個人もある。
それプラス9月初旬にある藝大祭の神輿(神輿制作)準備もあり、夕方の後、夜10時ごろまでグループで
その模型になるマケットを作ってくるのだ。

で、ようやく家に戻ってもシャワーを浴びてすぐに今度はその課題発表のレポートやポスター作りで
午前2時過ぎまでパソコンとプリンターに埋もれながら黙々と作業している。

充実していると言えば充実してはいるが、なかなか本来の自分の個人作品(アニメーション)が進んでいない。
絵コンテやイメージボードはちょろちょろ時間の合間に作ってはいるが、アニメーションというものの性格上
どうしてもそこから先はまとまった時間が必要になる。

大学のカリキュラムはためにはなるが、やはりある程度のまとまった自分の時間の中で自発的に無からものを作りきらないと、
ギリギリでは研ぎ澄まされた生の感覚は生まれてはこない。
あの「イリュージョニスト」のような、内部からこんこんと湧き出てくる
豊穣な醗酵された感覚を見せてくれる素敵な作品は忙しくカリキュラム(仕事)をこなす中からはなかなか生まれないのだ。

あ、ちなみに「イリュージョニスト」は、あの『ベルヴィル・ランデブー』(02)のシルヴァン・ショメ監督による
2010年のアニメーション映画。
あの「ぼくの伯父さん」のジャック・タチ監督が生前に執筆した手品師と少女の切なくも美しい出会いと別れの脚本を、
後にショメ監督が脚色した。物語の運びもさることながら、人の表情と仕草が特筆。
私がここ数年で観たアニメーションの中でぶっちぎりで感動したもの。





    





しかし、まあ、それでもその激しいカリキュラムの渦の中でも自分の姿を見つけることは出来ない…でもない。
昨夜、息子が明け方までパソコンの前で作っていた「ポスター」も彼の感覚の発露は確かにあった。

私は芸大のカリキュラムにはいろいろ不満はあるが、彼は実はその激しい重労働の中でもがきながらも
確実に成長しているのかも…しれない。グループ制作というのも実際のアニメーション作りには必須の要素。
幼児の時期からバリ島で育ち、バリ島からあまり出る事がなく個人で制作を続けてきた息子にとっては
現在の日々は大きな勉強となっていることは確かだろう。
ほとんど同じ釜の飯を毎日仲間達と食っているのも素晴らしい経験となっているに違いない。

「受身」といえば聞こえが悪いが、「きっかけ」というものはどんな作品にも必要なことなのだろう。
確かに私なども、展覧会を入れなければなかなか絵の枚数が貯まらないところもある。

そういえば古今東西の傑作の70パーセント近くはどこかで「受身」が入っている「仕事」とも言える。
その「受身」も使いようによっては胆力を養わせることは確かにあるのだ。
流されてはいけないのだろう。と言ってもやはりどうしても流される。
ほんとうはその流されている時点で厳しく自己の才能を疑わなくてはならない。
そして再起をかけて信じないともいけない。
激しいカリキュラムの波の中に常に自分の輝きの発露を植えつける作業があれば、それこそが才能。
そういう意味では大学の授業はなかなか息子の才能の有無を試し感覚を鍛えてくれてはいる。



                           
       

         東京藝大先端藝術表現科 身体言語論発表のためのポスター制作A案 宮嶋龍太郎作 2011年7月4日








                                   

                東京藝大先端藝術表現科 身体言語論発表のためのポスター制作B案 宮嶋龍太郎作 2011年7月4日                                    






          





2011年6月27日  知られざる 九州新幹線CM 【特別編180分ヴァージョン】


ようやく富山での2週間に渡る展覧会の仕事が一段落したので、柴又に帰ってきた。

今日から数日時間にちょっと余裕ができるので、前々から紹介したかった「映像」をお見せしたい。
映像と言ってもCMである。
以前JR東海のCMをお見せしたが、今回も偶然JR九州。

「JR九州/祝!九州キャンペーン」のCMだ。

3月11日に発生した東日本大震災の影響で、その翌日からスタートだった九州新幹線は全ての行事を中止し、
このCMも同じようにたった数回のオンエアだけでなんと涙のお蔵入り!(TT) となったものなのだ。
莫大な費用と人員を導入したにもかかわらず、打ち切りとは…
あまりといえばあまりにも酷い仕打ち。なにが自粛だ、バカヤロウ!と、言いたい。
このCMがどれだけ東北北関東の人々の気持ちを柔らかくするか…。
これだけの高い質のCMのお蔵入りはあまりにももったいない。

しかし、世の中そう捨てたもんでもなかった。
YouTubeなどに動画がアップロードされるや否や、
瞬く間に総再生回数が200万回以上を記録した

映っているのは、ひたすら九州新幹線の全線開業を祝い、公募で集まった1万人以上の人たちが
沿線から新幹線に手を振る映像の山。数百人で映っているのもあればたった一人で手を振っている人もいる。


そもそも電車の車窓からの視点でCMを作れば、CMを見る人々の、過去に体験した旅情や、
地元の人々との別れ、一期一会の感動などの記憶が鮮やかに蘇ってくるはず。
ロードムービーの要素も取り入れ、すさまじき速さと短さで一期一会を擬似体験して行く180秒なのだ。

それゆえこの企画はハナからかなり感動的な作品になる確立が高いのだが
やってみるとかなり大掛かりな仕事でもある。
それを見事にやりとげたことは凄いことだと思う。
広範囲にそれぞれの沿線の人々の心が一つになっていないとなかなかこうは作れない。
1万人の心が一つになるなんてことは地方からバラバラに人が集まってくる東京のような都会ではまず不可能だ。
地元に根ざしている方々が圧倒的に多い九州だから心が一つになることが出来たとも言えよう。


このCMのために、CMソングの「Boom!」を書き下ろした
日系スウェーデン人のシンガーソングライター、マイア・ヒラサワさんの音楽も実にマッチしている。
この歌だけ聴くとなんのへんてつもない単純な歌…とも言えるが、とにかくリズムがいい。
そしてなによりもその単純さがこのCMのリズムには最高に適していたといえる。大成功だ。


100時間を軽く超える映像を編集し、 50分 20分 4分 180秒と徐々に削っていったスタッフ達の努力も凄い。
この映像の半分以上はやはり編集の勝利だと思う。

実は、この「九州新幹線開通CM」には、各駅編、総集編、メイキングCM編、などいろんなバージョンがあるが、
やはり私個人が最も編集が素晴らしいと感じた
この「
【特別編】180秒ヴァージョン」1本をまずお見せしたい。
この特別ヴァージョンは、【総集編180秒】をさらにコンセプトを明確にした上で編集しなおしたもので
ほとんど全てが車窓からの映像で構成されている。車窓からゆえの反射や濁りも抜群の臨場感を醸し出している。
編集で捨てて捨てて捨てまくったあとに残ったシャープで明確な珠玉の映像たちだ。
また「総集編」と比べて音楽のリズム感にかなり意識的に映像を合わせているのが見事。
駅名が画面に出るがその時のレタリングもかわいくて実にコンセプトにフィットしていた。


あ、一応言っておくが、実際の九州新幹線開通における功罪、たとえば文化的な荒廃、政治的事情、
人々の経済中心の考え方…などの現実のシビアな話は、このさいまったく横に置いておいてほしい。
とにかくこれに関しては【映像】だけを観てほしい。

確かにこれらの人々はある意味消費社会に踊らされた浮かれた行動かもしれないが、
私は彼らの手をふる姿の中に、この後起こることになるあの大震災の人々への慈悲の心を想像することが出来る。
遠く千キロ以上離れていてもその同じ手で、同じ団結力で、同胞の悲しみを感じ取る手と掬い取る手を持つのだ。
あんな弱肉強食のインドネシアに21年も住んで育まれた私の最後の信条は
「酷い世の中だが、人間そう捨てたもんじゃない」ということだ。

このCMに私は危機ではなく希望を見る。

私の息子も含め、映像を志す若いみなさん、これはあなたたち必見のCMです。
今後10年はCM作家は誰もこのCMを超えられないかもしれない…。
そんなレベルだと思う。

ちなみに、このCM、数日前に
カンヌ国際広告祭のアウトドア部門で金賞、メディア部門で銀賞を受賞したらしい。

賞を貰ったからと言ってこのCMを今紹介したわけではないことは当たり前。
私はそんな甘くない。

それではご覧ください↓「九州新幹線CM 特別編」です。

必ず780pの最高画質&全画面に拡大して観てくださいね。







とはいえ、…
【総集編180秒】も、【特別編】と比べてやや編集が甘いながらも
出発前の静かな車体、手を振っていた人々側からの映像、車体の俯瞰、そして外の音、などがちょろっと入っていて
なかなか捨てがたいので一応載せますね。↓
480pで観てください。





2011年6月6日  
葛飾柴又寅さん記念館絵画展


先先週の日曜日から寅さん記念館の1階休憩室で
「寅さんがいる風景 吉川孝昭絵画展」を開催していた。

ほんとうにいろいろな方にお越し頂いて感謝以外のなにものでもない。

いろいろな出会いがあったことが何よりもの収穫だった。

私の古くからの親友たち。
本当にお世話になっているコレクターの方たち。
駒込中学校時代の懐かしい教え子たち。
とても大事な寅さん仲間たち。
尊敬する画家の大先輩の菊地さんご夫妻。
銀座の大きな永井画廊のオーナーさん。
寅さんの関係者さん、松竹関係者さん。
区長さん、柴又で知り合った応援してくださる方々。
5回も来てくれた同級生カップル。
ちいさなかわいい友人の吉野少年。

他いろんな方が来られた。

会期は5月29日で終わったが、館長さんのご厚意で一週間長く飾らせていただいた。
30日以降平日は用事があり会場にはこれなかったが、土日はお昼だけは詰めようと思った。

なんと、その日は
2年半ぶりに用事で記念館に来られた山田洋次監督と初めて少しだけおしゃべりできた。
あの日、山田監督はもちろん絵を観に来られたのではない^^;
私の友人でもある寅さん少年の吉野秀尋(ほつね)君にトランクをプレゼントしに
来られたのだった。展覧会場で吉野君といろいろ話しながらも私ともほんの少し話をしてくれた。



また、搬出の日の今日、あの寅さんの演芸で有名な野口よういちさんと一緒に
寅さんについての数々のすぐれた記事を書かれて来た朝日新聞社の小泉信一さんが電話を下さり
ご来場してくださった。キップのいい野口さんがひと肌脱いで紹介してくださったのだ。

小泉さんとは、会うなり意気投合。
ここでは書けない面白い取材裏話や新しい情報などをいろいろお聞きできた。
大きな病気が回復されたばかりだったが、とても気さくで話が次々に盛り上がって行った。


このほか会期中も含めると、私を知る数々の来訪者さんがわざわざ絵を観に、会いに来てくださった。

もちろん記念館に来られた飛込みのお客さんもそれはもうたくさん!

(タイミングが悪く写真を撮れなかった知人友人寅さん仲間もたくさんいた。お許しください)



わざわざ遠路来てくださった方々の思い出の写真をそれではどうぞ。







      私のかけがえのない古くからの親友たち。


      







       遠くから来てくださった大コレクターの方達。いつもほんとうにありがとうございます。


       





       モデルになっていただいた植村住職さんのお嬢さん。


       





       私の心の師匠であり大先輩の画家、菊地さん夫妻。


       





       今最も旬な銀座の画廊である「永井画廊」のオーナーである永井さん。


       





       今回5回も来て、ずっと絵を観てくれたカップルのお二人 彰君と裕美さん。うれしかった…

       





       朝日新聞社の寅さん記事で有名な小泉信一さんと、
       寅さん芸人さんの野口よういちさんも遠路やって来てくれた。
       小泉さんは現在継続して発売されているあの寅さんDVDマガジンの
       執筆者さんでもある。

       





       小泉さんや野口さんとはリラックスして何でもしゃべりいろいろ面白かった。

       





       寅仲間の大先輩ライムさん(右)とおなじみ寅マニアの鬼才寅福さん。


       




      大の寅さんファンである演奏家のらびおさんも遠くからやって来てくださった。
      彼の「リリーのテーマ」は泣ける。

      (そして私の寅さん仲間の大先輩であるTさん(HNはKさん)も来てくださった。顔はシークレット^^;)

      





      寅さんへの熱い想いをいつもお持ちの上岡さん。彼とも長いお付き合いです。

      





      大切な寅さん仲間、ご近所の東スポさん。いつもいつもありがとうございます。

      





      区長さんもいろいろ観てくださいました。

      






      いぶし銀の輝き、カルトQ出演の栗原さんご夫妻。遠いところありがとうございました。

      





      駒込中学校教師時代の教え子たち。おまえら変わってねえなあ〜〜。

      





      柴又慕情が取り持つご縁。写真家のFさん(左)と大先輩のKさん。

      





      かつしかFMの綾見さんと、寅さんがほんとうに好きな私のちっちゃな友人吉野秀尋(ほつね)君。
      吉野君は会期中何度も来てくれた。彼とは真剣に映画作品を語り合った。
      彼は凄いレベル(ま、たぶん誰も信じないだろうけどね)

      






      山田監督が突然会場にやって来た。これはびっくり!
      もちろん、当たり前だが、私の絵を観に来たわけではない^^;。
      スタッフからうわさを聞いて吉野君に会いに来た。なんとミニトランクをプレゼント。

      

      

      吉野君と山田監督のツーショットビデオ撮影後、ちょっと私たちとも歓談。まさに至福でした^^

      



      私が「こんな間近でお会いできて夢のようです」と言うと照れて微笑んでおられました。

      




みなさん遠路はるばるほんとうにありがとうございました。



このあと、明日から北陸への県外出張で柴又を留守にします。
6月13日にまた戻ってきます。次回更新はその頃です。








黒い瞳

2011年6月4日 再びのレンブラント展 『黒い瞳』 


再びの『ヘンドリッキェ・ストッヘルズの肖像』



今日も夕方まで神保町で外回りの仕事。
早く終わったので、閉館まであと1時間。
思い切ってもう一度レンブラント展へ。

もう今日は『ヘンドリッキェの肖像』以外何も観ない。
あの絵だけ。

今日はかなりアップで長時間繰り返し観たが、
レンブラントの他の絵にありがちなパターンがまったくない。
顔のディテールはソフトにしかしかなりリズミカルに適材適所にピタッと置かれていっているために、
表情が柔らかなまま最後までふくらみを持たせて仕上がっている。

いい時のレンブラントの筆はみなこうだ。
絶妙のハーフトーンと的確なタッチを駆使し、バルールを天才的にあわせていくのだ。
そしてそれが実にリズミカル!
才能に満ち溢れている。

同じ部屋に飾ってある先妻サスキアをモデルにした絵「書斎のミネルヴァ」と比べるとそれがよくわかる。
この絵はパンフレットにしっかり印刷されている。

ある意味このサスキアの絵「書斎のミネルヴァ」は「ヘンドリッキェの肖像」よりも
かなり慎重にディテールを追いきっている。空間もあるように見える。
しかしこの「書斎のミネルヴァ」は完全に失敗作だと私は思う。
このような絵の中には実はリアリティはない。
全ての空間作りはお仕事的でパターンが見えてしまっている。
言い換えれば、感覚を十全に動かしながら感動のタッチを置いていない絵なのだ。



        
「書斎のミネルヴァ」

       




それに比べて、「ヘンドリッキェの肖像」ではレンブラントはお仕事はしていない。
仕事をせずに『絵を描いている』のだ。高級娼婦を描くというコンセプトだったため、
本来もう少しふっくらしたヘンドリッキェの顔をやや面長にしてはいるが、
彼女の特徴である愛らしい黒い瞳はまさにヘンドリッキェそのものだ。

タッチはレンブラントが生涯慕った天才『ティツィアーノ』の絵肌を追求しているのかもしれない。




        
「ヘンドリッキェの肖像 部分」

       








ヘンドリッキェ


2011年5月31日 レンブラント展 


『ヘンドリッキェ・ストッヘルズの肖像』


2週間ほど前に息子が大学のレポート課題で「レンブラント展」に行って来た。

私は学生時代からレンブラントに憧れ、憧れ、憧れ続け、アムステルダムでも
ルーブルでもレンブラントをひたすら観続けたものだ。

そのレンブラントを今、息子が大学の課題で見に行く。
ある意味これは感無量なことだ。
レンブラント展はどの駅にも大きなポスターがずいぶん前から貼ってあり、目立っていた。


私のこの「バリ日記」にも、かつてレンブラントについて書いたことがあるが、
その時にもこの作品は名作としてレンブラント最晩年の自画像と共に取り上げた。↓

http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/renburamtonokoto.htm




私も展覧会が一つ終わったので、ようやく「レンブラント展」を観に行こうと思い、
息子がもらってきた目録を見てみるとなんと1652年の「ヘンドリッキェ・ストッヘルズの肖像」
があるではないか!

この作品はレンブラントの傑作肖像の中で、私が選ぶベスト5に入るなんとも美しい絵だ。

レンブラントは最初の妻サスキアと暮らす。そしてサスキアが亡くなった後に
内縁となった若いヘンドリッキェが現れる。この二人を何枚もモデルにいろいろな
物語を想定した肖像画を何枚も描いている。

しかし、サスキアを描いた作品に大作が多いわりに
1枚も名作が生まれていないのに対して、ヘンドリッキェをモデルにした肖像や物語は
「ユダヤの花嫁」「水浴する女」「窓辺のヘンドリッキェ」「ダビデ王の手紙を持つバテシバ」など
彼の生涯の代表作として残っている。

そんな数々のヘンドリッキェを描いた中で今回ルーブルからやって来たこの作品は
おそらく最もヘンドリッキェらしいヘンドリッキェ。

で、今日さっそく上野に行き、観て来た。

平日にもかかわらず混んでいた。
銅版画がかなり多い。115点もある。
それゆえ、今回の宣伝は銅版画が中心となっている。
どのポスターを見てもどのチラシを見てもこの「ヘンドリッキェの肖像」は載っていない。

今回のレンブラント展の企画者は何を考えているのだろうか。
展覧会の狙い眼ばかりに気が行って、本質を見失っている。
「ヘンドリッキェの肖像」は観た方がいい絵ではなく、あきらかに私達が今見なくてはならない絵。

展覧会のコンセプト(今回は銅版画)の重要性は私もよく承知している。
銅版画は集めやすいということもあるだろう。それに光と影はレンブラントの大きな特徴だ。
そういう意味でも銅版画はその種明かしにはもってこいの素材だ。

しかし、レンブラントが後半の人生でかなりの集中力を持って描ききった
あの17世紀ヨーロッパ絵画の不朽の名作「ヘンドリッキェの肖像」をなぜ宣伝しないのか?

確かに質という意味では素晴らしい銅版画が何点も来ている。
しかし、あの作品「ヘンドリッキェの肖像」は
悩み多き2011年の現代に生きる多くの人々に紹介しなければならないのではないのか。

私は入るやいなや、100枚以上もある銅版画や他の油彩はスッと観て、
あとはひたすら最後の方に飾ってある「ヘンドリッキェの肖像」を観続けた。
ずっと間近で観続けてばかりでは本質に迫れない。
何分か観たら、眼を他の絵に移し、数分後に今度は遠くから観る。
またかなり近寄ってじっとタッチを観、グラッシを観る。大きな下描きのタッチも少し残すのがレンブラント。
その残り方が実に心地よい。
絵はかなり痛んではいるが、迷いのあるタッチやお仕事的なタッチはどこにもない。

レンブラントは実はさほど器用な画家ではない。
制作がうまくいかない時は、タッチがどこかギクシャクしていたり、画面でこねたり、修正跡が残ったり、
画面に小さな破綻があちこち見られる。
しかし、この「ヘンドリッキェの肖像」は全てがすんなりうまくいっている。
まさにレンブラント中のレンブラント。
無意味に厚ぼったくも無く、平面的でもない。
美しいグレーゾーン、確信を持って置くタッチ。まさに熟しきった眼と腕による奇跡の集中力。
17世紀中ごろのオランダ婦人の黒目がちなあの表情が21世紀の現代にまで見事に生々しく生きづいている。
天才と呼ばれる画家は対象者の繊細なパーソナリティをまざまざと見せつけてくる。
レンブラントが、なぜヘンドリッキェに強く引かれたのかが明確に感じ取れる彼女の内面が描きつくされている。
リアルというのはこういうことを言うのだ。決して髪の毛の一本一本、服のしわを描きつくすことではない。






          





この絵がもうすぐ上野を離れる。もったいない話だ。
観に行っていない人は観たほうがいいです。
この混迷と閉塞感が支配する2011年、私たちは、モナリザを観るよりもこのヘンドリッキェを観ないといけないとつくづく思う。

日本が戦後最大の危機に陥っている現在、この絵が来たことはまさしく「運命」だ。
この絵を観ていると人間の尊厳を信じたくなる。そしてやはり明日も生きて行こうと勇気と決意が湧いてくる。
他の展覧会や他の用事の何をさしおいてもこの「ヘンドリッキェの肖像」はぜひ観てほしい。


今も恩師の坂崎乙郎先生が存命なら全ての学生に強く観に行く事を勧めただろう。
ヨーロッパ絵画の至宝レンブラントの人物画、その中でも明確に傑作と分かる透明感のある作品が雑音の中で
ひっそりと渋く輝いている。何を差し置いても死ぬまでに絶対観てほしい絵なんてそうそうあるものではない。


レンブラント展は6月12日まで

その後巡回で
名古屋市美術館で開かれる
〒460-0008名古屋市中区栄2-17-25(白川公園内)
2011年6月25日(土)〜9月4日(日)







最後に、いつものように常設展(松方コレクション)のゴッホの絵「ばら」を観る。
ゴッホがあるこちらの常設の方はガラガラ。みんな絶対おかしい。
ほとんどこの小さな「ばら」は誰も観ていなかった。
こんな地味な絵、もし私が描いたと言ったら、それこそもっと誰も観ないだろう。そんなさりげない絵。
私はこの絵が大好きだ。


       

      


追伸

実は私はレンブラントの銅板画の本物を持っている。
今から26年前、アムステルダム国立博物館で、やや痛んだ版からの刷りのものを
各1万円程度で二十数枚ほど売っていたのだ。
もう銅版が痛んでからの刷りなので厳密には「本物」とは言えないらしいが、
どう考えても素晴らしい線が生き残っている作品がほんの2枚か3枚だけあったので
1枚選んで買ったのだ。
今回の銅版画の中にまぎれさせてもまったく遜色ない質だ。
その作品は、今でも富山に密かにさりげなく置いてある。
嘘のような本当の話。


さて、私は明日もまたあの「ヘンドリッキェの肖像」を観に行くつもり。




2011年5月17日 「ネットワークでつくる科学者たちの記録」




ここにある動画↓がある。

これは原発事故現場からかなり近い村に住んでいた方が
犬の餌を何週間分も足しに来られていて、
もう今後はずっと来れなくなるということで
泣く泣く、犬の首輪をわざとはずれやすいようにつなぎ直したのだ。
それで家を離れるところをNHKのスタッフさんが
同乗した車の中から撮ったものです。
案の定犬はすぐに首輪をはずし

犬がずっとずっと追いかけてくるのがわかる。

この部分ではナレーションが無く、それがよけいにせつない。

これがその映像だ。


http://www.youtube.com/watch?v=3pP8AB6Ued4


この映像は
昨夜5月15日(日)夜10時から11時半までの1時間半放送した、
NHK教育の ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図 福島原発事故から2か月」の中の映像。


たぶんほとんどの方が
夜10時からのNHK教育などは見ていない。

だからこそ放送が実現できたという皮肉がある。

しかし、やはり反響はあったようで本日youtubeでも全てあがって来た。


が...これだけ反響があるもかかわらず
番組の内容からして再放送は難しいかもしれない。

しかしyoutubeに今日から徐々にアップされている。

さきほどすべてアップされたようだ。

ビデオで外から撮られた映像ではあるが、十分に観るに耐えうる。
音声もしっかり大きく入っているので大丈夫だ。

@〜Hまである。


世界に住む全ての人が必見の「記録」だ。

http://youtu.be/m-KN6GPX3XQ


youtube内で@からHまで次々に見て行ける。









2011年5月8日  100万アクセス記念企画


イメージ映像 『 君の知らない柴又を見せたい 』

その前に…

【お知らせ】

5月20日(金)から29日(日)までの展覧会について

5月22日(日)の展示について。
22日(日)午前中からお昼すぎまでは
何か葛飾区の記念式典が展覧会場である休憩室で行われますので、
22日(日)だけは終日この写真の短いほうの辺↓の壁が式の幕で隠れます。
それゆえ22日(日)だけは展覧会場の展示スペースが減ります。ご了承ください。

もちろん絵自体は事前に一方の長い辺の壁に移動させますので22日も絵の数はおそらく減りません。



寅さん記念館の案内HP↓

http://www.katsushika-kanko.com/tora/news/post-187/





ここからが今日の本題です↓


100万アクセス記念の「柴又イメージ映像」が本日一応の完成となったので、今日から10日ほど貼り付けます。

昨年12月中旬から柴又に滞在して約5ヶ月。

冬の柴又
雪の柴又
早春の柴又
雨の柴又
春の柴又
新緑の柴又
夜の柴又

などを完全オリジナル取材。

約70〜80個以上の準ハイビジョン動画を撮り、その中から
感覚のおもむくままに、時にはランダムに、時にはやや秩序付けながら構成し、編集した6分28秒の映像だ。

正直未熟な部分も多々あるが、今回は息子が中心に構成し、編集した。
なるべく私は口を挟まないようにしたつもり。



この動画映像を観るにあたってお願いがあります。




■まず1つめのお願い。

これは私が昨日youtubeで公開したものだが、クリアな映像で観ていただくために
720pの解像度で観ていただきたい
もっとも、このサイトのままご高覧いただく限りは自動的にすでに720pだと思います。

あえて、youtube に入り込んで見られる方は『720p』を右下のバーから選択してご高覧頂きたい。
かなり画質が違うからだ。


       




■2つめのお願い。

『720p』を選択したら、今度は動画を『
モニターの全画面いっぱいに広げて

初めから終わりまで観ていただきたい。
空間の味わい方が小さな画面とは格段に違うはずだ。
全画面化にも耐えうる画質にはしてあるので大丈夫だ。






■3つめのお願い。


全部が完全にダウンロードされるまで待ってから、一気に観ていただきたい
ダウンロードと同時に追いかけで観ていくと、やや720pという高解像度なのでどうしても止まり気味になりながら
進んでしまい、私や息子の制作意図が伝わらないのだ。


申し訳ありませんが以上の3つを踏まえてご高覧くだされば、こんな嬉しいことはありません。



それではどうぞ、ご高覧ください↓






    




撮影:        吉川孝昭  RYOTARO


構成.編集     RYOTARO


















2011年5月1日  100万アクセス記念企画のお知らせ



地震被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。 
多くの犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。





【寅さん記念館】の案内HP↓
http://www.katsushika-kanko.com/tora/news/post-187/






東京はいよいよ新緑の時期を向かえている。

そして私が一旦東京を離れる時期も近づいてきた。
6月以降はまず北陸でいくつもの展覧会をこなし、夏はバリに仕事に行く。
そしてようやく10月中旬からまた柴又でしばらく…たぶん冬まで柴又で暮らす。
その後、またバリ島…

で、その6月の前にちょっと楽しみがある。

5月20日(金)から29日(日)まで行われる「寅さん記念館1階休憩室」における私の小さな展覧会があるのだ。

北陸での展覧会は生業そのもので、絵と染織工芸が混ざり、売り上げの目標もあり、で、
なかなかシビアできついものがあるが、このたびの「寅さん記念館」での
絵画展は葛飾区と地域文化活性団体が共同で企画してくれた展覧会なので、販売とは直接は関係なく
一応は『展示』だけが中心になる。
つまりひたすら絵を観ていただくための展覧会なのだ。

こんな純粋に楽しみとしてできる展覧会は何年ぶりだろうか。
それも、大好きな葛飾柴又で!しかも大好きな「男はつらいよ」にまつわる館で!

もちろん絵を売るという行為は作家本人もギャラリーもコレクターもそれぞれ本気モードの
それはもうパワー全開の真剣勝負だし、そういう展覧会こそ実は真にやりがいがあるものだ。

しかし、今回のような展示するためだけの展覧会もやはりスッキリ気持ちがいい。
遠い昔の気持ちが蘇って来る。
絵を描き飾るということは、こういうことだったなあ…、と学生時代や教師時代を思い出したりもする。
もちろん今回、そういうこととは関係なく絵の質はしっかり維持しているつもりだ。
絵の点数もF6号から小さな水彩まで約20点は出す。ほとんど新作。


生業の展覧会の場合、このような好きでやっているウェブサイトの中ではお知らせしてこなかった。
一般の読者の方々をそのようなシビアな場につき合わせるわけにはいかないからである。

しかし、このたびの展覧会は上記の理由でお知らせしても支障がない。



と、いうことであえてここでお知らせいたします。

小さな絵の展覧会ですが、お時間がありましたらご来場、ご高覧ください。

寅さん記念館の案内HP↓
http://www.katsushika-kanko.com/tora/news/post-187/




5月22日(日)の午前中からお昼までは
葛飾区の何かの記念式典が展覧会の休憩室で行われますので、
22日だけはこの写真の短いほうの辺↓の壁が式幕で隠れます。
それゆえ22日(日)だけは終日展覧会場の展示スペースが減ります。

もちろん絵は一方の壁に移動させますので絵の数は減りません。







      

     
 雨の江戸川風景  不透明水彩





      

      
雪の江戸川風景  油彩

 




       
普段の寅さん記念館1階休憩室

       






       
寅さん記念館入り口

            











で、次の話題。↓


それはそうと、もう2週間ほどで100万アクセス(ヒット)になろうとしている。
2004年から始めたこの「男はつらいよ覚え書きノート」も今年で7年目だ。

私のサイトは、皆さんご存知のように決してライトなサイトではなく、とてつもなく長くややこしいサイトだ。
それゆえ、どちらかと言うとディープな寅さんファンの方々に支えられ、励まされてなんとかここまでなんとかやって来られた。
応援の意味をこめた熱い感想メールもいろいろな方から数多く頂いてきた。
今もなお、メールでお付き合いをさせていただいている方々もたくさんいる。
実際にお会いした方々も何人もいる。遠くバリ島でお会いした方もいる。

7年前、かなり気楽に、そして適当に始めたこのサイトが、
多くの方々の心に少しでも留まることができたことは本当に運営者冥利につきる。


そこで100万アクセスを記念して、感謝の気持ちもこめて、ささやかながら、
今まで柴又を取材してきた『動画(ハイビジョン映像)』を使って、それを編集しながら
象徴化した5分ほどの柴又イメージ動画をお見せしようと思う。
もちろんハイビジョンのままでは高画質すぎて重く、そのままアップは無理なので、縮小版にはさせていただく。


冬の柴又
雪の柴又
春の柴又
新緑の柴又

などをやや構成をランダムに象徴的に表現してみた。


現在息子は芸大で映像を学んでいるので、こういう作業は勉強になるはずだ、ということで、
撮影だけでなく、編集も息子にかなり手伝ってもらった。


このままいくと5月15日までには100万アクセスに達すると思われる。
なので、その一週間前の5月9日前後ごろに記念の動画を載せたいと思う。











2011年4月18日  常総水郷地帯ロケ地めぐり と 『つくば寅さん研究会』


東京は桜もすべて散り、今度は新緑が近づいてきた。
もうかなり暖かくなってきたので被災地の皆さんも寒さで苦しめられることは少なくなってきたことだろう。


今後1年間の予定として
5月の「寅さん記念館」での小さな個展が終わったら、東京での委託の仕事は一時息子に任せて
6月からは例年通り富山での展覧会の仕事がみっちり入って、1ヶ月は富山暮らしになる。
その後、7月は3週間ほど東京に戻り仕事、8月はバリ島で染織と制作の仕事。
秋は北陸全体でみっちり展覧会の仕事。
そして10月中旬からまた東京で委託などの仕事となる。
そして年が明けて冬から早春まではじっくりとバリ島で長めの仕事となる。



で、話は変わって、先日の「つくば行き」



茨城県は、その北部には山地、中央部から南西部には関東平野の一部である常総平野が雄大に広がり,
そのなかを小貝川,鬼怒川が流れ,この両河川を合流して最南端をあ
の利根川が東流して,太平洋に注ぎ込んでいる。
とにかく常総平野に行ってみると分かるが、土地がどこまでも平たいのだ。
日本屈指の農業地帯として発達してきたことも眼で見ると頷けるのである。

そして南東部は,豊かな水をたたえた霞ケ浦および,北浦を中心とする水郷地帯となっている。


先日16日の土曜日は地震に揺られながらも茨城県に行ってきた。


画家としての私を十数年に渡って育てていただいている大コレクターであるY.Iさんにお会いし、
私の絵が飾られている状況をそれぞれ見せていただきたかったのだ。
この話はもう何年も前からあったのだが、今回私が東京に一時的に仮住まいしていることもあって
ようやく実現する運びとなったのだ。

Y.Iさんとは越中八尾で十数年前から毎年お会いしている。
2月末にも柴又に来ていただいて参道や帝釈天を一緒に歩いてくださった。
私は彼が買われた絵がどのように飾られているのかを写真では見せていただいていたが、生ではまだ見ていなかった。

今回彼のお勤めされているつくば市の大きな記念病院に行き、
これまで買ってくださった私の数々の絵をついに生で見せていただいたのである。
小さな水彩から大きな油彩までもうその数は20数枚以上になる。
それもほとんどが私が気に入っている絵なのだから、いかに彼が目利きかその事実だけでも分かっていただけると思う。


お昼にお会いして、まず病院内を一緒にめぐりながら、私の絵の場所を次々に丁寧に紹介してくださった。
とても大きな総合病院なので建物が何棟もあり私たちは病院内をハイキングするように歩き、
嫁いでいった数々の自分の絵に再会させていただいた。
幸いなことにどの絵も状態は良く、変色やひび割れは一切生じていなかった。

特に4年ほど前に買われた油彩12号Fの「踊りの前」は、私が長年手放したくないほど気に入っていた絵なので、
お譲りしようと思った当事は、手塩にかけた一人娘をお嫁に出す時のように後悔し、寂しい思いがしたが、
Y.Iさんならお任せできると思い、断腸の思いでお譲りしたという思い出がある絵だった。

そして、一人娘は色あせることなくみなさんの心を和ませる役目を果たしていたようで、
私も久しぶりの再会に深い感慨が湧いてきた。




       
                                
Y..I さん と 油彩「踊りの前」




そして、そのあと仕事が終わったY.Iさんの御厚意に甘えて、午後から彼の自家用車で、
なんと「寅さんのロケ地めぐり!」に出かけたのだ。

Y.Iさんは、もちろん私が大の「男はつらいよ」のファンだということは前々からとても良くご存知で、今回私のわがままな願いを
快諾してくださり、とてもお忙しい中、時間を作られて一緒にロケ地めぐりをお付き合いしてくださったのだ。

もうこうなったら、いつまでも恐縮している場合ではない。精一杯ロケ地に行くしか無いのだ!

まずは、長年の私の夢であった第34作「真実一路」のふじ子さん家族が住んでいたあの『牛久沼森の里』に直行していただいた。

つくば市(撮影当時は稲敷郡茎崎町)森の里団地 JR牛久駅からバスで約15分。
牛久沼の北辺、東谷田川に面した閑静な住宅地。家にいながら牛久沼の自然が堪能出来る最高のロケーションなのだ。
牛久沼のこの辺は、牛久沼なれど東谷田川とも呼ばれていて、家から沼が眺められる。

故郷鹿児島の原風景が忘れられない富永課長は都内の公営団地からこの東京から遠く離れた水郷地帯の牛久沼に家を買い、
引っ越してきたのだった。


この場所はすでに私の寅さん仲間の「風工房さん」や「ちびとらさん」たちも行かれた場所なので、
何も迷うことなくたどり着いた。
ましてやY.Iさんは私のために一週間ほど前に一度予習で事前調査をされていたのだ!
Y.Iさんの懐の深い思いやりをこの時は本当にしみじみと感じてしまった。

実は、今回はぜひともふじ子さんのご自宅の方にお話を少しでも伺いたいと密かに思いながら、車を降りて、
二人して森の里の分譲住宅郡を歩いていった。

そして何の迷いも無くあるべき場所にバーンとあの家が現れたのだった。


茨城県つくば市森の里50付近






      




Y.Iさんに寅の位置で写真を撮っていただいた。ふじ子さんの家をバックに寅はたたずんでいた。↓


      





そして、この家に昔からお住まいの T さん(当事中学生だった息子さん) に庭先でお話を伺うことができました。


      

                                                               
(掲載許可済み)


ちょうどロケが行われた1984年の時にお住まいだったのはお父母様と息子さんで、息子さん自体はまだ中学生だったそうだ。
そして現在お父様とお母様は別の場所でお住まいだということ。
それゆえ現在は二代目にあたる息子さんたち家族でお住まいの様子。
あの当事のふじ子さん家族のようにTさんは奥様と小さな息子さんと一緒に暮らされている。

撮影当時は長い時間ロケをして、庭先や縁側で渥美さんや大原さんが休憩していたりしたそうだ。
息子さんは当時中学生で学校の部活動に打ち込んでいたので、ロケの時間は残念ながら撮影を
見る事は出来なかったと残念がっておられた。

もちろん映画本編を見ての通り、このふじ子さんと富永課長の家は、外や庭、玄関手前までがロケで、
玄関の引き戸を開けて見える土間や廊下は大船セットである。
つまり、内部は全て大船セットだったゆえに、カメラは玄関まで入っただけで、家の中では撮影は無かったということ。

ほんとうは、彼のご両親が昔ロケにしっかり立ちあわれているのでいろいろご存知なのだということだった。


あまり長く話しても失礼だと思い、ほどよいところでお礼を言ってふじ子さんの家をおいとました。



玄関の引き戸はほぼ当時のまま。


       




       

帰り際、ふじ子さんが寅にお守りを手渡す場所。かなり茎崎橋近くの川沿い(沼沿い)でも撮影。↓





ふじ子「寅さん

寅「


ふじ子のテーマが流れる。


ふじ子「あ…すいません、夕べ主人が寅さん寅さんと呼んでいたものですから、つい

寅「どうぞ、寅と呼んでやってください

ふじ子「そう…、じゃあ、寅さん

寅「はい

ふじ子「奥様にどうぞよろしく

寅、にっこり笑って

寅「そういう面倒なものは持ち合わせておりません

ふじ子「あ…ごめんなさい

寅「
それじゃ、ごめんなすって

去っていく寅。

もう一度振り返ってお辞儀。

ふじ子「さよなら



     



     




富永課長が朝もやの中自転車を漕いでいた「
茎崎橋」西の方に渡っていったが、
実は、この先は何十分漕いでも鉄道の駅舎は全く無い。
あえて言うなら、現在ならば2005年に開業したつくばエクスプレスの「みらい平駅」が最も近く、
それでも1時間ちょっとほどはかかるのではないだろうか(^^;)

もし橋を渡らないで逆方向(東)に漕いでいくのならなら常磐線の「牛久駅」がある。
それでもかなり遠い。自転車で25分くらいはかかる。

彼は常磐線で東京へ行くはずなのに…自転車で橋を渡っちゃって西へ行く。
いったいどこへ行くのだろうか……((^^;)

板橋不動尊に出発する直前に橋に立ち寄り、富永課長が自転車を漕いでいるシーンを「エア自転車」で
適当〜〜に表現(^^;)↓



     





     





帰り際に、ちょうど偶然にもふじ子さんが利用していた「関東鉄道バス」がやってきた。
そしてちょうどふじ子さんが降り立った『森の里団地バス停』のあたりを通過して行ったのだった。



     



     






あけましておめでとうございます。


不思議な縁で皆様とお知り合いになれたこと、うれしく存じております。

おかげさまで、主人は会社の特別な計らいで退社を免れ、
12月1日付けで土浦勤務となしました。

仕事の忙しさは相変わらずですが、
以前と比べて主人は私の身近に居る人のように思えるのです。

私たちは毎晩のように寅さんの噂話をしています。
寅さん、今どこにいらっしゃるのでしょうか?

私は、寅さんと一緒にした旅をきっと一生忘れません。


下の地図でいうとふじ子さんの家はC



実は…、
映画のラストのナレーションで富永課長と息子さんが楽しそうに釣りをしているところへふじ子さんが自転車で
やって来て写真を撮っているシーンがある。



      



      




ここである↓

      



      





これは牛久沼の心臓部である『庄兵衛新田』地区で龍ヶ崎市の飛び地になるのだが、
今回は第39作OPも大事なので
板橋不動尊や常総橋を優先し、庄兵衛新田地区は次回の楽しみということにした。

地図でいうとDの場所。 常磐線の佐貫駅方面が南の対岸に見える風景だ。


     



さて、次は板橋だ。第39作「寅次郎物語」のOPロケ地

上の地図でいうと
Bの位置になる。


この橋の道のまま国道46号線を西へ西へと向かって行くと、10分ほどで板橋不動尊が見えてきた。
正式名称は「清安山不動院願成寺」真言宗の古刹であり、本堂、楼門、三重塔ともにすばらしい趣の寺である。

この寺は第39作「寅次郎物語」のオープニングで出てくるのだが、
当初は誰一人としてその寺が茨城にあるとは思っていなかったのだ。


この難関不落のロケ地探しの模様は当事の寅次郎の日々にも書いた↓

寅の啖呵バイの地  推理日記 そのA   
2006年4月6日「寅次郎な日々」その136 だ。


またお暇な折に読んで見てください。


そもそも第39作「寅次郎物語」は、
寅が名付け親になった「秀吉君」と共にお母さんを探して、大阪、和歌山、吉野、伊勢と
旅を続けるロードムービー。

問題は、映画の出だしで歌とクレジットの間に出てくるあの啖呵バイの場所。
とても美しい大きな楼門や本堂、三重塔がそびえ建っている由緒ありそうな寺でのバイだったので
是非知りたくなって、いつもどおり、本やネットで調べてみたが2006年当時は残念ながらどこにも書いていなかった。

この作品のロケ地はどの本もネットも「和歌山、吉野、伊勢」と書いてある。
だから私もこの寺はそれまではこの3つのうちのどこかだとばかり思っていた。


そして、当事、ここの場所が茨城だと分かるまでにはなかなか一筋縄ではいかなかった。

上にも書いた通り、
一般的には、その作品のメインのマドンナと物語で絡んだロケ地をそのまま啖呵バイの土地に使うことが多い。
したがって上記の和歌山、吉野、伊勢のどこかの可能性がある。特にこのファーストシーンのバイは、ポンシュウと
じん弘さんと一緒なので全くラストと同じメンバーだ。こうなってくるとロケの事情を考えるとラストの伊勢のどこかの寺
かもしれない、と一応は推理した。

しかし、取っ掛かりがない。唯一この寺が
『不動明王』を祭っていることは、寺の前の道ではためいている赤い旗で
分かる。それと楼門と三重塔が重要文化財クラスの立派さなのでおそらくこの地方では観光案内などには乗っている
有名な寺であろうことは分かった。そのあと諦めずにいろいろ粘ったが、どのシーンを見てもやはり取っ掛かりがない。

仕方がないのでもっと『原点』に戻り、それより、ちょっと前のシーン。寅が夢から覚めた直後のローカル線の駅を
執拗に見たが『中○駅』とまでは読めるのだが、この○がイマイチ拡大してもボケていて分からないのだ。

ほとほと困っていると、駅の壁に貼り付けてある『宣伝の看板』に目が留まった。

『長岡洋品店 (2)0202』と何とか読める。 その左には住所が書いてあるのだが『水……』と最初の水という字
しか分からない。ワラをもすがる思いで検索してみると、Yahoo電話帳というサイトの中で『
茨城県常総市水海道宝町』の
長岡洋品店が出てきた。その横に電話番号が書いてあり(22)−0202となっているではないか!なんとこの店は
茨城県水海道(みつかいどう)にあったのだ。
電話番号の書き方から考えて、おそらく寅の寝ていた駅から数駅以内にこの店はあるのではないかと推理した。
つまり
あの大きな寺はおそらく茨城県にある寺だという可能性が強くなってきた。
なんと伊勢や和歌山、吉野じゃなかったのだ!!。
あのオープニングのバイの撮影のために茨城にわざわざ行っているのである。


寅のいた駅は
かなりのローカル線で、かつ小さな各駅停車しか止まらないような駅だった。
そこで長岡洋品店のある、水海道の近くのローカルな駅を調べてみた。
そうすると常磐線以外にも『水海道』という駅が『関東鉄道』というローカル線にもあり、
なんとその2つ手前の駅が『中妻』駅という。もう、この駅しかないって感じだった。茨城の他のローカル駅には『中○駅』は
ないので寅の寝ていた駅は
『中妻』に決定!


そうなると『関東鉄道 中妻駅』から少し電車に乗って降りた後、寅は歩いて「
」を渡り、
その寺へ行こうとしていたので(途中でポンシュウの車を
拾っていたが)寺はさほど遠くではないようだ。
『関東鉄道』沿いの、またはその近くの『不動明王』を祭ってある寺
検索すると、何度か検索を繰り返しはしたが、遂に見つかった。寺の楼門の写真がぴったり一致したのだ。



茨城県伊那町(現在は合併して『つくばみらい市』) 板橋にある 
『清安山願乗寺不動院』 一般には 『板橋不動尊』と呼ばれる。
地元の人は「板橋のお不動さん」と親しみを込めて呼んでいるらしい。

ここは真言宗の寺である。
808(大同3)年に
空海が開山したという古刹。その後、数度にわたり火事などに遭い、16世紀(文禄)頃に
あじゃりが復興した。安産/育児に霊験があらたかとして信仰を集めている。

弘法大師作の不動明王と両童子立像は国の重要文化財。
本堂、楼門、三重塔は県の重要文化財である。三重塔は1996(平成8)年に修復された。


11月28日は 秋の大縁日不動明王お開帳の日なので寅たちはその頃でかけて
いったのかもしれない。 それ以外でも毎月28日は縁日祈願で賑わう。


あの中妻駅の宣伝の看板が無かったら、この寺はなかなか分からなかっただろう。
そして今でも、伊勢のどこかの寺なんだろうなあ…、と勝手に思い込んでいるに違いない。




で、話は現在に戻って…



今回このあたりの下見をしてくださったY.Iさんによりますと、
2年ほど前から楼門は補修工事が行われていて見れないそうだ。
実はネットで調べた時もすでに楼門にはカバーがかけられていた。

板橋不動尊に着いてみると、まったくスッポリ大きく隠されてしまっていた。

寅は啖呵バイをサボりながらポンシュウたちと楼門の右横で遊んでいたが、その場所も
このカバーの中にスッポリ隠されてしまっていた。


寺の赤い旗が置いてあるその囲いの中側↓がおそらく寅たちがだべっていた場所だと思われる。


     





ちょうど寅たちがだべっていた楼門横から一直線でまっすぐ本堂前の手水舎(ちょうずや・水屋)に行きつく。


     




     





寅が座っているまっすぐ向こうに手水舎(ちょうずや・水屋)が見える。↓

      


      



      
    




寅がバイをしていたのは楼門のすぐ後ろ。
現在で言うと、↓写真一番手前の、この工事用の鉄の塀あたりだと思われる。


       




この↓写真は他のサイトから拝借したもの。
修復以前の姿がわかる。ちょうど外から楼門をくぐってすぐの石畳沿い右側あたりが
寅がぬいぐるみをバイしていた位置↓

       






一方、寺の外に出ると、まだ本の少し、撮影時の面影を映す家並みが残っていて↓、ほっとしたりもした。
これで見て分かるように、不動尊のシンボルである楼門はすっぱり隠されたまま(TT)

この写真は、ちょっと高羽アングルを意識して撮ってみた。


      




      





      
この三重塔は映画放映のずっと後、平成8年(1996)に修復された。


        




尾垂木の先に竜頭が施され、その迫力ある彫刻群の素地に一部極彩色が使われている。金物も金と豪華な造り。
日光からはるばるやって来た宮大工の棟梁たちの心意気が伝わってくる。



      




      



山田監督もこの寺は気に入ったのだろう。
最後に三重塔をバックに「
山田洋次



この度の大きな震災で灯篭も倒れてしまっていた。悲しい…↓



      





板橋不動尊は地図でいうとBの場所


つくばみらい市板橋2370


      








さて、板橋不動尊をあとにして
今度は小貝川(こかいがわ)に架かる小さな沈下橋である「
常総橋」に行くことに。

ここへの道は、Y.Iさんと、あそこかここか。。。と、地図で見ながら探していったがとても分かりにくかった。
かなり遠回りをしてしまったものの、不動尊から約20分でなんとか迷いながらもたどり着くことが出来た。


第39作のオープニングで中妻駅ベンチで寝ていた寅が、起きた後、関東常総線に乗り、隣の駅の
北水海道(きたみつかいどう)駅」あたりで降りて、そこから西に歩いて小貝川に架かる「常総橋」を渡って
そこからはまだかなり遠い遥かかなたの「板橋不動尊」までわざわざゆっくり歩いていくシーンがあるのだ。
橋を渡りきったところでポンシュウの車に拾われる。

この常総橋と似た沈下橋がこの川には「大和橋」をはじめ他にもあるので、間違ってしまう人もいるかもしれない。
特に木造のひなびた「小目沼橋」↓などは、ほんとうは寅にぴったりの沈下橋だ。


       




それにしても、この小貝川流域の景色は実に絵になる。
いつの日かもう一度訪れて何枚か絵にしたいと思ってしまったほど美しい水郷地帯だった。

車窓からそんな眺めを見ているうちに、小貝川にたどり着き、そして…

群生する菜の花の向こうに「常総橋」が見えてきた時は、思わず、車を止めていただいて、しばし遠くから眺めてしまった。
護岸工事がおこなわれていないこの川はほんとうに昔からの自然の姿のままだった。河川敷に美しい表情がある。
利根川よりもこの小貝川が私のイメージの「常総」だ。


    




で、いよいよ橋を徒歩で渡ってみると、面白いことに気づいた。
寅は北水海道駅で降りて、東にある板橋不動尊に歩いて行っているはずなのに
なんと撮影的には逆向きに歩いているのだ。
つまり板橋不動尊の方向とは
なのである。↓

向こうに広がる景色が美しかったので、あえて逆向き撮影を選んだのだろうと十分に推測される。


          




Y.Iさんに寅に位置に立っていただいて、撮影してみた。


      





で、寅は、そのまま不動尊とは反対方向へ橋を渡っていくのだった。


            




これもY.I さんにお願いして、寅の顔の向きや雰囲気を真似てもらって、私は川の茂みにまで下りて、茂みの間に立った。
せっかくここまでしていただいたので、この写真は特に高羽アングルを意識して忠実に撮影してみた。

Y.I さんが、おっしゃるには、寅と同じ方向を向いたら、その方角にちょうど筑波山があった。ということだった。
寅は橋を渡りながら遥か向こうの筑波山を眺めていたのかもしれない…。
うーん、壮大なロマンだなあ…。


     





さっそく私も橋に戻って、Y.Iさん同様、寅と同じ位置から同じ方角を眺めてみると、
筑波山がまさにその位置に見えたのだった。


     




で、橋を渡りきった直後に、ポンシュウが乗ったバンに拾われるんだけれども、
これも当然ながら逆方向。

ちょうど上の道に電柱が今も同じように建っていた。


     




電柱を入れて撮影しようとしていると、なんと偶然にも白い車が通ったので、同じような位置に来るまで待って撮影。
ここの場面も、せっかく白い車が通ってくれたので高羽アングルを忠実に再現してみた↓。



    


     


橋の下で釣りをする人。沈んでいる舟がいいねえ。


    




で、現在はこんな感じ。


    



この常総橋の場所は


常総市箕輪町 と つくばみらい市福岡町の間の橋。

地図でいうとA
になる。



    




美しい小貝川の景色を後にして、


最後のロケ地、あの長岡洋品店の看板があった
中妻駅」に向かった。


常総市中妻町714−3

地図でいうと@


かつてはこのように鄙びた趣のある駅だったのだが…↓


    




現在は、このように変貌してしまっていた。
もちろん無人駅。



   






寅が寝ていた長岡洋品店の看板は今はあるはずも無く、
あの味わい深い腰掛の木も取り払われていた(TT)



    





現在は、このような緑の椅子に…ああ。。。(TT)


気を取り直して。。。

ちょっとだけ、寅の真似↓  バカ…  ヾ(^^;)おいおい 
Y.Iさんは、バカな事をする私に微笑みながら、しっかり写真を撮ってくださった。



ここでの夢は少年寅がさくらと別れる江戸川土手の夢だったね。
あの夢は結構気に入っている。


「お兄ちゃんー!」

が中妻駅の少女の声に変わって行く。


    





そうこうバカなことをしているうちに(^^;)、関東常総線の取手行きがやって来た。



電車自体もかなり趣がかわっているが、これも仕方がないこと。
これは
キハ2400形

映画当事、寅は線路を横切り、ホームの向こうに渡って
この『取手行き』に乗りこみ、隣の駅の「北水海道」あたりで下車したのだと思う。


       





1984年 撮影当事はご存知 渋い『キハ800形』


      



関東鉄道キハ800形(キハ803型)

常総筑波鉄道時代の1961(昭和36)年に日本車輛東京支店で新製されたもので、
空気バネ式台車を履いておりキハ504形に似ているが、車長を2m延ばして20mとした。
新製当初、キハ801〜803が常総線に、キハ804・805が筑波線に配置され、
筑波線の2両は国鉄水戸線経由で笠間・小山への乗入れ運転を行っていたが、
1964(昭和39)年に常総線に転属した。また、同年全車セミクロスシートからロングシートに改造された。
常総線で活躍していたが、2扉のままだったこともあって、1993(平成5)年までに全車廃車となった。



       






そして数々の思い出を胸にロケ地めぐりは終わり…



その夜は、Y.Iさんの音頭で

つくば寅さん研究会」が結成され、寅さんが大好きなメンバーのみなさんとの会合&親睦会に呼ばれた。


いやあ〜、ここではもうかなりワイワイと盛り上がった。

震災の後、心がなかなか柔らかくならなくてつらい時期が続いていたが、
この日ばかりはまるで寅が一緒に参加してくれていたようにみなさんくつろいで深い寅さん談義に花が咲いていた。
バカで面白い話もたくさんしたし、知的な考察や冷静な分析もした。
なんだか体の中が暖かくなり、血がサラサラに流れていくような時間だった。

う〜ん、それにしても本当に皆さん、
ご自分の歩まれてきた人生に寅さんが深く入り込んでいる筋金入りの寅さん好きでした!(^^)




       




         




この日は午前中の大きな地震から始まり、自分の数々の絵たちとの再会、
Y.I さんとの3時間に渡る常総水郷地帯ロケ地めぐり、
そして茨城県の寅さん仲間との活発で愉快な会合まで、とても密度の濃い一日だった…。














2011年4月7日  上野公園の夜桜に思う



現在息子は毎日上野校に通っている。

今年の芸大は、4月の末まではずっと上野校でドローイングなどを学ぶらしい。
なんと音楽学部の講義もいくつか取れるようで、そのあたりは興味深々のようだ。


今、上野公園の桜は見事に満開だそうである。

大学の帰りに彼は何枚かの夜桜を撮ってきた。


あまりにも惨い自然の気まぐれは、私たちをなし崩し的に悲嘆の底に落としいれ、
そして、ほぼ同時に自然はまた、別の顔でこの満開の桜のような底知れぬ微笑みも浮かべる。

だからこそ、昔から人々は満開の桜の裏に死の影を見てきたのかもしれない。

言い尽くせないほど憎い自然だが、この美しさにもあらがえるはずもない。
人々は何万年もこの巨大な落差に引き裂かれ突き落とされ、そして救われもしてきたのであろう。

あらためて合掌。






       

       撮影:RYOTARO





       

       撮影:RYOTARO






ところで…

毎日全国放射線量マップβ版や水道の数値、そしてほこり、ちりなどの数値を半日に1回チェックしているが、
ここ10日間ほど見ていってもなかなか数値は下がっていかない。
特に福島県東部と福島市は、さほど下がっていない。場所によっては3マイクロシーベルト以上の町もけっこうある。
妊婦さんや乳児、幼児の外部被爆と内部被爆がどうも心配だ。特にわからなくて怖いのは内部被爆。
どうして疎開させないのだろう。政府や自治体は何を怖がっているのだろうか。パニック?受け入れ先の不備?

あと10年後、現在福島県東部で住み続けていた赤ちゃんや子供たちが成長した時が心配だ。
今でも原発から放射線が出ていて数値がさほど低くなっていないからだ。
学校給食などはどうなっていくのだろうか…。
雨が降ったらいっせいに休校にしてくれるのだろうか。

1時間あたり1〜2マイクロシーベルト以上ある地方の小さな子供たちは
一人残らず全員、集団で他県へ数ヶ月は疎開しないといけないとつくづく思うのだが…。
私は素人なのであろうか。











2011年4月4日  水彩「雨の江戸川河川敷を旅立つ寅次郎」


災害以来、どうも絵を描く気になれなかったし、日記も書く気になれなかったが、
ようやく気持ちを切り替えて最近はスケッチをし、家でタブローも描いている。
こんな未曾有の災害ではなかなかなにをやってもつらさや不安が後ろに隠れている感じがする。

それでも描くしかない。

描くことでしか前にすすめない業があるのなら描くだけのことだ。




                        雨の江戸川河川敷を旅立つ寅次郎  吉川孝昭   2011年4月3日 水彩  14cm.×24cm.

           




今日から息子は上野で新入生のオリエンテーションだ。
この未曾有の災害の中、彼の新生活は始まっていく。










2011年3月14日  帝釈天にひたすら祈る



地震被災者の方々に心よりお見舞い申し上げます。
多くの犠牲者の方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

私は仕事があり現地には手伝いに赴けないが、
暖房をずっと停止するなど、昨夜から出来る限りギリギリの節電を行っている。



本日、地震から2日後、
遠出をしたくは無かったが、息子が試しに受験した東京藝術大学美術学部の合格発表だったので上野に向かった。
(彼はセンター試験は一応受けておいたのだ)

大きな余震があって離れ離れになったらたいへんだということで連れ合いと相談して私も一応上野に付き合った。
10日前に美術学部の1次試験に合格していたので、よくやったねとねぎらいの言葉をかけてやったが、
心の中では、まあここまでだろうと思ってはいた。

上野公園は暖かく、寒桜が美しく咲いていた。
現在も続いている東北、北関東地方での未曾有の非常事態を一瞬忘れてしまいそうな街の姿だった。




       





幸いにもというか奇跡的にというか、本日、息子は東京藝術大学美術学部に合格してしまった。
彼は映像系(アニメーション、メディア、写真)なので「先端藝術表現学科」という学科だ。
キャンパスは取手と上野。柴又や金町から結構近い。



12月からの強烈なラストスパートがあったとは言え、
やや準備不足だった息子にとって藝大合格は本当に言葉の通り奇跡と言ってもいいだろう。
つい昨日までは、2月中旬に合格した八王子にある美大の映像系に通うつもりで当然入学金も払っていた。
ところがどっこい、今は一転して東京藝大に通うことになり、なんだか不思議な気分だ。

新宿にあるお世話になった講習会の学校の講師の人たち全員に挨拶をして、柴又に戻ってきた。



息子は誰もいない静かな帝釈天にお礼のお参りをしに行くと言って境内に入って行った。

実は、彼は正月に帝釈天でおみくじを引いていた。
おみくじは「末吉」で、まとめの文書が最後に書かれてあった。

『大いなる望みは、苦労かんなんに耐えて待てば、
 よき折を見て、一挙にことをなし得るなり』

まさにその通りになったと息子は感慨深げにつぶやいた。
私としても国立なので学費が安くて助かる。(実はこの学費問題は切実だったのだ)


彼は帝釈堂の前で手を合わせて長い間拝んでいた。
何を思っていたのだろうか。

こうして彼の人生最初の試練はようやく終わりを告げた。

東北関東大地震の2日後に合格発表だった彼は生涯これらの日々を覚えているだろう。


私も今回の地震でおこった災害による多くの犠牲者の方々のご冥福を長い間心よりお祈りした。






       










2011年2月21日  スケッチの日々 「雨上りの夜 ー帝釈天参道 」




ここ何回か、スケッチを掲載したら、意外にいろいろな方々から感想をいただき評判がいいのでもう少し載せてみようと思う。


雪が降った日以来、天候がやや不安定で、雪はさすがにもう降らないが、今度は雨がちだ。
参道の店の人たちには悪いが、私は雨の日の参道が大好きだ。 

先日も、夕方ごろまでシトシト降った雨は、帝釈天(題経時)の六時の鐘が撞かれる少し前にようやく止んだ。
半日も降ったり止んだりだったので店々の売り上げはさっぱりだったかもしれないが、
私にとっては夕闇迫るころの美しく濡れた石畳が絵心をそそり、ありがたい天候だった。

もんでんさんの前あたりですばやく鉛筆スケッチを何枚かしたあと、家で着彩。





                        雨上りの夜  ― 帝釈天参道  2011年 スケッチ着彩

      
       


      









2011年2月17日  スケッチの日々 「雪の日の帝釈天参道」



14日は雪だった。

柴又に雪がこんなにも積もったのは2008年以来らしい。

仕事から帰ってきて、夕飯を作り、片づけをしていたら、どうも外の様子が変…。
台所のドアを開けてバルコニーに出てみようとしたら、出れない。雪でサンダルがうずもれていたからだ。
吹雪のように降っている。





       




越中八尾と比べればかわいいものだが、それでも絵心が湧く。
ここぞとばかりに、小さな水彩用紙の束と鉛筆消しゴムをコートにしのばせ、デジカメを持ち、外に出ていった。
早描きで何枚か鉛筆を走らせる。

美術大学入学が決まった息子も晴れ晴れと参道のあちこちで前衛的な映像を撮っていた。



その後家で着彩。

その中の一枚。



                         雪の日の帝釈天参道  2011年 スケッチ着彩

        


        
       
        







2011年2月10日  スケッチの日々 「矢切の渡し 冬」



最近、朝はちょっと寒くなったが、それでも日中はさほどでもない。
平日は「矢切の渡し」は休みなので、川沿いまで人があまり来ないので淡彩スケッチがしやすい。
人が多いとわらわら近づいてこられるのでちょっと描きづらいのだ。

で、今日もあちこち描いた。

柴又に越してから、一度も絵をアップしていないので、ここらへんで一枚
今日できたてのスケッチをアップしておきます。


今回は車寅次郎を点景として入れてみた。


寅が柴又から旅立つ時は決まって失恋をしてしまったか
みんなと喧嘩をした時。


冷たい風の吹く中
「矢切の渡し」から旅立ってゆく寅の背中はどこかしら寂しげ。





      
       











2011年2月7日   全力で相手を負かす「米長哲学」



東京はずっと晴れている。葛飾区柴又の帝釈天そばに滞在してからそろそろ50日だが、朝に雨が降ったのはたった3回。
昼に降ったのはたった1回。夜に降ったのは3回。半日ずっと雨の日は無し。それも一度としてじゃじゃぶり無し。
この冬はすべて北陸の方へ雨雲の中身は落ちてしまっている。



          真っ青な空の下、帝釈天境内で行われた消防訓練

     



一昨日は初めて柴又で地震があった。柴又は震度2くらいだったかな…。
鉄筋のせいか、わずかに揺れただけだった。


「揺れる」で今思い出したが、現在いろいろ相撲界が大揺れしている。

あれらの問題は私がまだ二十代のころから、断続的に取り扱われていた。
ここぞとばかり騒いでいるみなさんに思ってしまうのだが、「やっぱりか」すら私は思わない。
「そらそうだろう、横綱を筆頭にほとんど果てしなくグレーに近い黒」だったことは常識にすらなっていたわけだから。

それでも、そいう人たちとは別に、何割かのガチンコ力士はずっと昔からいる。彼らは常に本気だった。
そして今もガチンコ力士は何人かしっかりいることも相撲を見てりゃわかる。

だから私はかつては相撲を真面目に見ていた。

ガチンコと言ったってただ単に八百長をしないだけでは私は見ない。
ガチンコだからってちっとも偉いわけない。そんなもの当たり前なだけ。小学生だってガチンコだ。
文字通り命がけでぶつからないと見る気がしない。それでこそ真のガチンコ。

昔で言うと平成の大横綱貴乃花、そして安芸乃島!この二人は凄かった。

今で言うと、引退した岩木山!泣ける〜!あの相撲が、彼の気質が大好きだった。

現役で言うと稀勢の里や豊真将だ。
相撲を見るだけでわかる。彼らだけは本気の目だからだ。


とにかく貴乃花は凄かった。私は彼の取り組みを毎日見た。
強いというだけの意味でなく、勝負士としての気構えが他の力士と全く違っていた。


そういえば、かつて将棋界の鬼才であり異端児の米長邦雄さんが
「自分にとっては消化試合だが相手にとって重要な対局であれば、相手を全力で負かす」という理念を持ち、
著書『人間における勝負の研究』では、「何年間かのツキを呼び込む大きな対局であり、
名人戦より必死にやるべき対局」と表現している。

実際米長さんは、そういう状況の時は、普段よりもさらに気合をいれ、羽織袴の姿で相手に挑んだそうだ。
間違っても相手に同情し手加減してしまうと、自分の気運が逃げるそうだ。

相撲の世界に昔からある「内々の強い仲間意識」ってのは
実は日本人のある種の和を尊ぶやわらかさがあって私はとても好きなのだ。
日本だなあ〜って良い意味で思う。
他のスポーツにはない地方の地域との繋がりも巡業を通して深い。
地方の巡業ではいろいろな真剣相撲だけでなく数々のショウ的な興行がおこなわれるのだろう。

しかし、そこからずれて、「本場所」でも馴れ合いとお金が中心になって絡んでいくと化学変化が起こってしまう。
長い一年間の中でどこかで「ガチンコ」は必要なのだ。

勝負の世界では、誠心誠意、本気以上の命がけで戦うことこそが相手に対する礼儀であり、
そこに人としての美がある。
少なくとも「本場所」ではそうあってほしい。












2011年1月10日   ゴッホ展で『アイリス』と25年ぶりに再会


書く内容が後先になってしまったが、年末、乃木坂にある国立新美術館のゴッホ展に行って来た。
没後120年ということで、まあまあ大きなゴッホ展になっていた。

8年前に観たゴッホ展のほうが数は少なかったがいい絵が多かった気がする。
それでも今回の展覧会も観たい絵が何点かあった。

昔ゴッホはオランダのゴッホ美術館とクレラーミュラー美術館で穴が開くほど見た。
このたった2つの美術館で世界中にあるゴッホの絵の半分以上が見れる。
ゴッホは絵の散逸を免れた珍しい絵描きさんだ。
生前に絵が1枚を除いてまったく売れなかったことと、
ゴッホが死に、弟のテオが後を追うように急死してしまったあとに後残された親族や友人知人たちが
上手に保護し、熱心にその保存を呼びかけ、次世代にバトンを渡していったからだ。



    



今回無理しても観に来たのは、写真や映像の勉強を本格的にしたがっている息子にも見せてやりたかったからだ。

ゴッホの絵はシンプルだ。
絵そのものがシンプルなのではない。彼の絵とのかかわりがきわめて明快なのである。

今回はゴッホ周辺の有名な絵描きさんたちの絵が水増し的にたくさん飾られていたが、
彼らの絵はプロのしがらみが見え隠れするのに対して
ゴッホはプロやアマチュアとかいう枠を超えて、「絵を描く人」そのものの絵であり、
それ以外の余計なものを感じさせない一途さと感覚的なタッチの塊だ。
何よりも対象を本当に大切に慈しむように一つ一つ描いている。

一見衝動的に描かれたように見えるかもしれないが、雑なタッチは驚くほど少ない。
自分の鋭敏で神経質な感覚が制作のリズムを乱してしまうことも稀にはあったが、大部分の絵は至福の中で描かれている。

絵を描いていることと生きていることがそのまま一致していた人は後にも先にもゴッホだけだ。
      
特に今回はゴッホ美術館で何度も見続けた「アイリス」が来ている。

この形の強さを観てほしい、対象物とバックとのせめぎあい、一つ一つが息づき、タッチが確信に満ちている。
これほどに強靭な絵画空間はゴッホの絵でもなかなか見当たらない。

対象を慈しみ、絵を慈しむ感覚。

誰よりも絵を描くことが好きだったゴッホ。何をやってもうまくいかなかったゴッホは、ある日断固として「画家になること」を決めてしまい、
その直後からちょうど10年描きに描いてこの世との関係を断ち切った。
テオをはじめいろいろな人々との接触はあったにせよ、その画業は恐ろしいくらいの孤独の中で推し進められた。

そしてどんなに後世の人が彼の人生を哀れもうが、彼が絵を描いていた時のあのこわいくらいの恍惚は誰も体験はできないのだ。

全てはこの「アイリス」のタッチと絵肌に、その形と色に表れている。
彼がコントロールできないそのあまりにも鋭敏な神経も、絵にささげた日常もすべてこの「アイリス」が物語っている。

絵に殉じて絵を愛し続けた人だけが、絵を描く行為の中で神の祝福を得ることができるのだ。

私が息子に伝えたかったのはただこの感覚。―「全てを捨てた後に残る絵を描く喜び」。

彼は、世間が言うような「炎の画家」ではない。あえていうなら「豊穣な愛を持つ画家」だ。
彼ほど人生で絵を愛し、生活の中で、絵をあんなに、水を飲むように必要とした画家はいない。
描くことだけが人生だったのだろう。それにしてもなんという人生だろうか…。




       
       













2011年1月1日   大晦日と元日 柴又帝釈天風景




ついに大晦日。

午後から【葛飾囃子保存会】のみなさんが二天門の上で笛太鼓の演奏を休憩を交えながら
5時間ほどされていた。
今日は風が強いので寒そうで、二天門の中にはコタツが入れられていた。


        





夕方4時半からはライトアップが始まった。

        




初詣の時間にはまだ早いせいか、参拝客はまばら。

        




嵐の前の静けさ…。

お店の人たちに聞くと今夜(大晦日)は夜の10時ごろから店を開けだすそうだ。
朝方の3時ごろまで開けて、いったん閉めて
元日の朝8時くらいから開けるそうだ。

        



で、夜の0時になる直前に帝釈天境内にちょっと入ってみる。
混んではいるが、想像よりはやや少ない感じ。


        




夜1時前、除夜の鐘を聴きながら、りんご飴を買った息子。バリ育ちの息子は、りんご飴は初体験。
1時半を過ぎると参道も普通の日曜くらいの人になり、結構通りやすかった。

元旦のお昼ごろはかなり混むのかもしれない。


        





一夜明けて

元日の午後。


参拝者たちのいうぶんには例年よりやや少なめらしい。

一方通行をしなくても混みながらも普通に歩ける。


     




       【寅さんおみくじ】が主題歌のBGMとともに2台登場。
       寅の味わい深い言葉48種類が入っているらしい。

       恋愛専門のおみくじもある。



      



       帝釈天直々、ご利益入れ済みの「すえひろで縁起の良い【扇子のおみくじ】」もある。
       息子が洒落で【扇子おみくじ】をひいてみたら見事「
大吉!

       願い事:「高望みでも叶う」  だそうだ(^^)/


        








2010年12月21日  わたくし、ただいま葛飾柴又です。


12月16日から東京葛飾区柴又に滞在している。

私は東京で生業の仕事まわりと柴又での絵画制作、息子は講習会だ。
連れ合いは、どうしても動けない用事があって今回は富山に居残り(正月には遊びに来るかも)


息子はバリ島で、ずっと映像や写真を独学でやってきたが、本格的に学びたいと思っているらしい。


で、東京へ向かって出発である。


雪の降る富山を朝早く出発し、越後湯沢で乗り換え、2階建て新幹線【MAXとき】は上野に到着。
なんと富山からたったの3時間20分!
短くなったものだ。昔は長岡乗換えだったので4時間半はかかったのに、文明だなあ〜。



    




『こち亀』電車に揺られて高砂から柴又駅に着いたら、いやに参道が賑やかだ。

    




よくよく見てみると参道を歩きながら明石家さんまさんが正月番組(1月5日フジ夜7時〜)を収録していた。

    




大いに笑わせてもらったあと賃貸物件にたどり着く。


入居のため届いた荷物を部屋で取り出してセッティングしているうちに、もう3時過ぎに…。

今から住むこの賃貸マンションはこの映画シリーズ後半の本編でも時々スクリーンに映っていた建物。
なんだか映画の中に入り込んだようで不思議な気分だ。
(不動産屋さんを通さないで借りれたので、礼金や手数料が要らなくて済んだ)
息子が万が一運よく入学できれば、せっかくだからこのまま借り続けていくと思うが…、
ま、それはそれとして、荷物を解いて、部屋の中にどんどんセッティングしていく。


夕方ちょっと気晴らしに外に出る。


帝釈天二天門も柔らかな午後の日差しになり…、人々は帰っていく。


柴又は、もちろん私の趣味で選んだ。
とはいうものの、息子も結構気に入っている。



   





夜になると帝釈天参道はほとんど人は通らない。
静かなものだ。


    




この東京で、展覧会や委託の話をすすめ、柴又ではしばらく絵を描くつもり。










2010年12月9日  少年たちのミニバロン【動画】

ガルンガン当日、恒例の少年たちによるミニバロンが家々を回っていた。
一応厄除けなので家の長はお礼持たせる。少年たちのいい小遣い稼ぎになる。

今回は高画質で撮影してみた。

それでは動画をお楽しみください。

        







                                 ミニバロンがやってきた!

        





                  アグンライたちの見事なペンジョール。

        









2010年12月7日  ガルンガンにペンジョールを作る


明日からいよいよガルンガン(バリのお盆)だ。
今日は儀式料理の代表格『ラワール』をアグンライの家族にもらった。
バリでは最高のご馳走。
この料理は豚や鶏の生肉をさっと香味野菜や柑橘類とまぜて、パッと食べるスリリングなもの。
午後からは、その肉を蒸して豆をたっぷり入れて蒸しラワールとして再度食べる。
この蒸したラワールも同じくらいかそれ以上に美味い。
それとサテべべ(鴨の串焼き)。これも絶品。


そのまた前日にはお馴染みグヌンアグン(アグン山)を意味するペンジョールをどの家も作る。
私の家の前のアグンライの家族たちは形の良い長い竹を私の敷地から探し出し、切って運ぶ。


        




運び出した竹は、綺麗に枝をカットされ、布を巻かれて化粧される。
その後、稲が大きく実ることを祈願して稲穂を取り付ける。
その他、いろいろ飾り物をあちこちに取り付ける。

アグンライのお母さんはこのような飾り物つくりの職人さんだった。
7年前に死んだアグンライも彫刻家だった。
昨年死んだ彼のお父さんは農民だったが、何を作らせても上手だった。
一昨年まではお父さんが作っていた。

で、昨年からはアグンライの弟が中心となって作っている。
この弟も同じ血を引いているせいか、なにをやらせてもとても上手。
私の家の雨漏りも綺麗に器用に修理してくれる。


        




このペンジョール↓は道を挟んだ向こうの家のもの。
どの家も飾り付けが年々カラフルになってきている。

        




このようにしてガルンガンが明日からはじまるのである。


        



このあと、日本へ一時帰国します。

今回は大阪に滞在し、富山に戻り、すぐに東京に1ヶ月ほど出張に出かけます。
東京でのネット環境がイマイチつかめていないのでとりあえず
次回日記更新は東京、葛飾区柴又から行います。12月26日過ぎだと思っていてください。









2010年12月2日  油彩  バリ島ウブド村の少女 


染織工芸の制作もいよいよ大詰めを迎えた。
オリジナルデザインの茶道具(野点用お茶箱)も6箱完成した。

労多くして利潤少なし…だが、なんとか作り続けないと、破産してしまう。

絵は今滞在中にそれなりに委託しておいたものが売れたりしたが、
なかなか難しい状況がもう6年ほども続いている。
このままずっとこうだろうと思うし、また、これでいいのだとも思う。
よく売れるから絵を描くのは本末転倒。
たいして売れもしないのにそれでも描くのが人生の醍醐味があって良い。
でも、それでは生きていけないから多角経営で『凌ぐ』

それとは別に今日も近所の女の子をスケッチして、油彩を何枚か描く。
この絵はなにがなんだか分からなくなって筆を置いた。
これはさすがに破綻が多いが、あえてここでやめたくなったのだ。

バリ島はガルンガンが近づいている。ガルンガンとはお盆のこと。
バリの暦では6ヶ月に一度お盆がやって来る。

8年前に亡くなった同い年の友人、アグンライも帰ってくる。

彼はいつまで経っても42歳のままだ。




                  油彩 「 バリ島ウブド村の少女 」 F6号 2010年 
 
        
         












2010年11月17日  帽子を被るレノさんの肖像 


先日のプリアタンの葬式は実に盛大だったが、その際、久しぶりにレノさんに会いに行った。
私は今から24年前、バリに通い始めたばかりの頃、滞在中はこのプリアタン村に住んでいた。
ガムラン楽団のリーダーマンダラ翁が建てたプリカレラン(北の王宮)に住まわせてもらっていた。

そして1991年に移住した時も最初の数ヶ月も同じくこのマンダラ家にやっかいになった。


そのマンダラ家の前の道を挟んで真向かいに古びた小さなワルン(よろずや)がある。
そのワルンを持っているのがレノさん。

彼は日本がバリ島を統治した頃に十代の青年だったので今でも日本語が少し話せる。
そういう縁もあって、昔からレノさんには散々モデルになってもらっている。
以前このサイトでも2006年2月19日のバリ日記で人物と絵を紹介した。

さすがにもうかなり年なので、レノさんはワルンの前にいるだけで近年はめっきり動かなくなったが、
それでもあのこぼれるような笑いは健在。
そして何より凄いのは、私が一番初めにバリを訪れた1987年からワルンがそのままの姿で維持されていることだ。
もう半分朽ちかけているが、さほど建てかえる様な事もせず、風雨に耐えてきたのだ。
レノさんもそういう人。生粋のバリの田舎人で実にワイルド。一癖も二癖もある。
長年風雨に耐えてきたそのプリミティブな姿が絵心をそそる。

今回も1時間足らずで描く。

良いか悪いか分からないが、とりあえず、勢いが無くなる前に筆を置いた。
いつものようにこの絵が上手く行ったかどうかはずっと後でわかること。




                油彩 「 帽子を被るレノさんの肖像 」 F6号 2010年  

         











2010年11月3日  バリ島、今世紀最大の葬式を観る。(動画付き)

プリアタン王族9代当主 Ida I Dewa Agung Peliatanのブレボン


昨日は先日書いたようにウブドの隣村であるプリアタンのチョコルダ(王族)の葬式が
丸一日かけて行われた。


昨日は完全な葬式日和。晴れまくっても担ぐ人たちが危ないし、雨でも担ぎにくい。曇り時々晴れが一番いいのだ。
十数年に一度くらいの規模なので、みんな大雨でなくてほっとしていた。

バリヒンドゥの葬式は世界でもかなり珍しい公開火葬。
村人全員で盛り上げるのだ。外国人も正装をしていれば見学して良い。

バリでは身分の高い人の葬式はうやうやしく「プレボン(Plebon)」といい、
一般のガベン(GABEN)とは分けている。正式にはカルヤブレボン(Karya pelebon)

2年前のウブドのチョコルダの時は日本のNHKをはじめ、
世界中からテレビや新聞の取材が来ていたが,今回も多くのプレスが取材。
長いクレーンも2台登場して撮影していた。


観に来た人々は2年前のウブドのチョコルダと同じくらいか。道を数万人の人が埋めた。


午後一時開始、6ヶ月間ホルマリンにつけられていた当主の遺体を布に巻いて異様に高いタワーの中に入れる。
このバデ(タワー)はカーストの高さによって高くなる。
今回は11階建て!数年前のウブドのチョコルドの時は確か9階建てだったのでそれを超える高さ。


プリアタンのチョコルダは本家で、ウブドはその分家筋にあたるゆえに今回の方があらゆる面で規模がでかい。
もっとも、事前のアピールはウブドの王族たちの方がやり手だとは思った。



          9代当主  Ida I Dewa Agung Peliatan 氏

        




         









それではごく簡単に最初から観て行こう。


まずお祈り、そして棺が家からバデに移される。



午後2時前にようやくプリアタン王宮を出発。



プレボン(Plebon)だけが許される動物『ナガ.バンダ(Naga Banda) 』(蛇&ドラゴン)。

亡くなった人を目に見えない世界(ニスカラ)に連れていくシンボルだ。

ナガ.バンダに乗り祈りを続ける高僧(Pedanda)たち。




         






これは『ルンブ(Lembu)』。『ルンブ』とは牛の飾り物。

遺体はタワーであるバデから、最後焼き場でこのルンブの背中に入れられ一気に焼かれる。

プリアタンの当主は高僧でもあったので『白い牛』。



         






人人人…訳が分からないくらいの大勢の人。

1時間経過。

アンドンの三叉路(アルジュナ像)前を大きく曲がり、火葬場へ。



         







       






おそらくは王様と一緒に殉死するという物語を演じる女性たち。こういう役は王様のお孫さんたちが演じている。


         





これはバデ(Bade)という納棺タワー。今まで見たこともない今までのウブド最大級の11階建て。


すべての電線を事前に切断しながら行進していく。



              




行進すること2時間、ようやく焼き場に着いて…。
お棺を出す準備。梯子とバデがドッキング。



焼き場のある寺院 『ダラン.プリ(死の寺)』

参加者も合わせてこの日は見物客は全体では4万〜6万人くらいはいただろうか。



        


         



ルンブが大きすぎてなかなか火をつける定位置に収まらなかった。
一時間もかかってようやく火葬の準備が整う。


          






タワーの一番上に登り、聖なるシンボルを取る。


          






焼き場に着くと、棺がバデから出され、梯子を下がって、上がって、ルンブの背中に身の回りの品々と一緒に入れられる。


            





             




牛の形態感はさすが。これを作る専門の村がある。


          





ナガ.バンダもルンブの隣に入る。


          







納棺と長い長いお祈りが終わって、ルンブとナガ.バンダに火が入ったのは、
行進が始まってから4時間後の午後5時半過ぎだった。



          





          





燃え始めたら一気に燃えていく。

          





         





          




午後六時過ぎ、夕日が沈んでいく。

          






          






          






        






午後1時半から6時過ぎまで取材したので、結構疲れた。

それにしてもなんでもかんでもでかかったなあ〜〜〜…。

          


【動画】も撮ってみました。3つありますのでお暇な折にでもご高覧ください↓
(動画は各2メガバイトほど。再生が始まるまでに10秒ほどかかります。)



               


               


               










2010年10月27日  ゆったりと、ウブドな日々


バンコクに一週間慣滞在したあとようやくバリのウブドに戻って来た。
ちょうど街中では王族の葬式の準備が行われていた。
プリアタンの王族の家長の葬式なのでウブドの王族も相当気合を入れてしっかり手伝うようだ。

と、いうことで、11月2日の葬式に向けてプリアタンの王宮まで両方の王族一同と
そのスタッフたちが準備を手伝うために行列を作って行進して行ったのだった。

ある意味、葬式の前に事前のお披露目をしながら行進していくなんて無駄といえばこんな無駄もないが、
この島はこのようなハレを含む壮大なメリハリが必要な社会なのかもしれない。
儀式を見ればその社会の本質の一部がわかるのだ。



     




     



象も登場。ウブドの王族とプリアタンの王族は、
見得の張り合いの意味もあるのでどうしてもこのような大きな儀式になってしまうのだろう。
昔はどんなに大きな儀式でも象など使わなかった。
まあ、なんでもあり&やったもん勝ちが、いい意味でも悪い意味でもこの島の特徴。

     




で、…
そのような町の中の喧騒とは無縁の渓谷の上の自宅は、ニュピの日のように静かな空気に包まれている。
やっぱり静けさがいいなあ。
しばらくはゆったり過ごしたい。

     












2010年10月14日  バンコク、…そしてバリへ。



義父が亡くなってからかれこれ一年が過ぎ去ろうとしている。
一周忌のその日のうちに私は富山を経ち、大阪へ向かう。
大阪の実家で病弱の母親を見舞って一泊し、いよいよバンコクへ。
一週間の滞在の後、バリへ戻って年末まで滞在。

来年からは東京での仕事も増えていくので、いよいよ日本が長くなっていく。
それゆえ、バリの住処を少しづつ軽くしていかなくてはならない。

20年もかかってずっしり重くしたものをいっぺんに軽くすることは無理だが、徐々にすれば実はそうそう難しくもない。
本当に大切な思い出以外のものをことあるごとに思い切って捨てていけばいいだけのこと。
一番大事なものは膨大な量の描いた絵だが、こちらのほうは大部分すでに日本に持ってきている。

息子が来年か再来年に日本の大学へ通い始めることもバリ滞在を軽くする理由の一つ。
来年からはしばらく4年間ほどは逆転していく。
つまり今まで1年で日本が4ヶ月でバリが8ヶ月だったのが、日本が多めになっていく。

とにかくこの身と身辺を数年かかって軽くしていかなくてはならないのだ。
それでも定年があるはずもない絵と染織工芸の仕事をする限りバリ島との縁は生涯続いていくのは間違いない。
逆にいうともうこうなってくるとバリと縁を切りたくても切れないだろう。




風が透明な秋の気配の中、金沢市郊外で私の油彩と貴重な古更紗たちの展覧会を10日間おこなった。

床の間に飾っていただいた戦前のジャワ島プカロガンの手描き更紗は、インドネシア人の心が宿った繊細かつ大胆な見事な布。
蝋置きがスムーズで力強く揺ぎ無い。まさにそういう線。
かつてあの布を長く持っていた貴族のご婦人はほんとうに大事に仕舞い、とっておきの時にだけ使っていたのだろう。
そういうことがうかがえる布のあり方だった。





          




          










号外

2010年9月27日  福岡ソフトバンクホークス 優勝おめでとう!


ポイントになったのは9月18日の西武戦。小久保のサヨナラホームラン。
これでひょっとして行けるのではないかと強烈な予感。

そして9月20日の馬原VS中島。譲れない死闘に競り勝ったあの瞬間。
この時点でもう疑わなかった。

そしてその背後には前日、岸から打った松中の豪快な勝ち越し復活アーチもあった。


そして9月25日の日本ハム戦。
杉内VSダルビッシュ。 粘りに粘って9回のピンチを見事なダブルプレー。


それにしても長い長い長い144試合だった。
最後は力尽きたか…に見えたが、底力が残っていたのだ。

このシーズン、何度一点差の試合をものにし、延長戦を幾度制したか。

本音を言うとここ数年のホークスは決してそんなに強いチームではない。

しかし、小久保を中心としたチームワークが抜群に良い。みんなの目が生きている。
各自が自分に役割を知り尽くしている。足を生かして一点をもぎ取り、一点を守りぬく。
秋と春のキャンプで徹底してそこのところはどの球団よりも鍛えてきたからだ。

確かに中継ぎ陣やリリーフ陣の活躍は抜群だったが、やはり一番の勝因は機動力を最大限に生かし、
全員が高い意識で粘って粘って勝ち抜く野球を144試合完全に実践しトライし続けたことだろう。
これぞプロ!というシャープな采配と動きが目立った一年だった。


いつも言っているよいうに、私は親子二代のホークスファン。
少年時代、大阪難波の大阪球場によく連れていってもらった。あの当時は野村監督の時代だ。

月日は巡り…2010年。

7年ぶりの優勝。

おめでとう 福岡ソフトバンクホークス。


        




        




いつまでもわすれないぞ、日本ハム戦完封の杉内の涙。

        










20010年9月21日   死闘12球! 馬原 VS 中島   歴史に残る名勝負   


私は、以前も言ったかもしれないが、親子二代の『南海ホークス』の大ファンである。
小学生の頃は休みになるとよくホームグラウンドである大阪球場にダブルヘッターを観に行ったものである。

その後、ダイエーホークスになり、現在はソフトバンクホークス。

数日前まで今季優勝はもう絶望的かと思われたが、
奇跡の逆転に次ぐ逆転で西武戦3連勝(全試合逆転勝ち)でゲーム差0,5まで迫ってきた。

残り試合や本来の力量を考えれば、それでも西武がダントツ有利なのだが、
野球には『流れ』というものがある。これが怖い。

ソフトバンクに、この3連戦で少々点を取られても取り返せる力が戻ってきたのだ。
爆発的な打線が蘇ってきたのだ。
特に松中、小久保、多村の3人が絶好調になってきた。
ペタジーニ、オーティーズ、松田も調子が悪くない。
個人的には松中がかなり調子が上がってきたのが目に見えて分かるので実に頼もしい!

中継ぎと押さえが12球団一である投手陣に加えて、本来の強い打線が蘇ってきたからには
優勝は夢ではなくなってきた。


もちろんんホークスは残り3試合を3勝しなければ優勝は難しいだろうが、
万が一、序盤に和田、杉内、大隣の先発陣が2、3点打たれても、すぐに、甲藤、森福、金沢などに
早めの投手交代で引き継がせて乗り切ることができる最大の強みを活かしさえすれば、
3点差くらいであれば打線が7回までに点を取り返してくれるのは目に見えている。
特にここ一ヶ月ほどは森福の角度の鋭いえぐるような力球にはバッターは誰も打てなくなってきている。

そして7回以降はいつものように摂津、ファルケンボーグ、馬原で完璧。




     

     



昨日の最終戦も中盤代打オーティーズによるタイムリーが出てホークスの逆転。

そして一点差(5対4)で終盤を迎える。

守護神の馬原が打たれ2塁までランナーが行く。二死から2番の栗山がしぶとくライト前にヒット。
ライトの多村がダイレクトでホームの山崎にレーザービームを投げて、ランナーの原は3塁釘付け。
多村の見えないファインプレー。

そして3番中島。

投げる者も、打つ者も、そして観ている我々も誰もが神経をすり減らし、闘い抜いた12球だった。

ソフトバンクホークス対西武ライオンズ、最終戦。
9回二死、一、三塁、馬原の投げた魂の一球はやはりフォークボール。
ワイルドピッチや捕逸を恐れることなく投げに投げたフォークボール。
中途半端な球種とコースは命取り。中島はそれを狙っている。

全12球中ストレート2球。全て低めのボール球
あとの10球は全てフォーク。
どんなことがあっても打たれてはならない。
読まれようが絞られようがワイルドピッチになろうが、四球になろうが、なりふりかまわぬ配球。後悔しない配球。
数々の修羅場をくぐり抜けてきた男馬原。
どんなことをしても三振を取る。それだけを考えて強気一本で投げていた。


一方打つ中島。
どんな打球でも、叩きつけようがボテボテであろうが三塁ランナーをホームに帰さなかればならない。
あの球界一の好打者の中島が、2ストライクからはなんとバットをかなり短く持ち、
とにかく前にコンパクトに飛ばすことを最優先させるなりふりかまわぬ姿勢。
次にいるはずの絶好調フエルナンデスは途中交代でもういない。自分が打つしかない。
どんなことをしても三振だけは絶対に避ける気持ちが溢れていた。


12球団一の好打者 中島。
12球団一の守護神 馬原。

両チームの優勝を懸けるこの名勝負は12球続いた。


馬原の決め球である140キロを超える高速フォークを投げ続ける馬原、
ファールを続ける中島。




そして、運命の12球目。↓

中島のバットは低めのフォークボールに空を切った。



     




     




     



     



     



     



強いホークスが蘇ってきたこの3連戦の【象徴】となった、この9回二死の、『馬原対中島、全投球12球』を
『パ・リーグチャンネル』がYouTube動画で紹介してくださった。神です(TT)
あまり嬉しかったのでこの日記にも載せましょう。


それでは今季パ・リーグの天王山、最高の見せ場、
ホークスVSライオンズ最終戦 9回二死一、三塁、5対4 ホークスリード、
3塁ランナーの原が帰れば同点、『馬原VS中島』カウント2ストライク3ボール。
全12球動画、じっくりご堪能ください。↓


       













20010年9月4日   『聞名寺の見える風景 冬』


昨日でおわら風の盆が終わった。
名残を惜しむように4日の早朝5時半まで夜流しは続いていった。

今年は殆ど雨も降られずにたっぷり踊り歌い演奏できたようだ。

私の自宅での展覧会も前夜祭を含め14日間賑やかだった。
ここ数年展覧会を観に来られる方々の中でリピーターの方々がかなり増えてきた感じだ。
毎年企画展をしてくださる各地の画廊の方々も来られて顔を出してくださる。


もちろん毎年来られる私の最大のパトロンである筑波の総合病院にお勤めのY.Iさんも、
8月31日から9月3日まで風の盆を楽しまれた。
彼は富山大学医学部の出身なので学生時代から富山を、そして八尾を十分に知っている方なのだ。
彼が今までに買われた私の絵はついに20枚以上になった。

5枚6枚と持ってくださっている方は何人かおられるが、20枚以上はY.Iさんだけである。
それも私が密かに心の奥で気に入っている絵ばかり買われるのだ。大きな絵も少なからずある。

そして今年も私が気に入り大事にしていた一人娘のような絵をY.Iさんにお嫁に出すことになった。
今回彼が2枚絵を買ってくださったうちの1枚だ。

この絵は今から10年ほど前に冬に滞在した折、井田川からの聞名寺を
ぐいぐいと描いたものだが、私はこれをかなり気に入っていて、長い間自分のアトリエに飾っていたのだ。

私の息子はこの絵を珍しく気に入っていて、この絵を売るのはもったいないと常々つぶやいていた…。そういう絵だった。

Y.Iさんもこの絵を気に入られていて、口には出さなかったが何年もの間タイミングをお待ちになっていたようだった。
他の絵より高い値をつけているにもかかわらず、そういうのはおかまいなしにY.Iさんは
「これを譲っていただけませんか」ときっぱりおっしゃる。
値切ることは一度たりともされたことはない。

彼が絵を買ってくださっているのは、絵だけを物として買ってくださっているだけではないことは私もよくわかっている。
彼は私の人生をまるごと応援してくださっているのだ。

私のような無名で今後も権力を持てそうにない絵描きに「生涯自分の信じる絵を描きなさい」と暗におっしゃってくださっているのだ。
おそらく私がそんなことを彼に聞いたとしても、Y.Iさんは謙虚に否定されるに決まっているが、私には分かる。

絵を描くということは、こういうことだ。
いろいろな方々に迷惑をかけ、応援をしていただき、背中を押されて、ようやく生涯をまっとうできる。


Y.Iさん以外にも今年は前に絵を買ってくださった方がお二人、また違う絵を買ってくださった。
そのような私の大事なコレクターさんたちが、今にも消え入りそうな私のこの世界での生存を赦してくださっている。



                   油彩 「 聞名寺の見える風景  冬 」 F8号 2000年  

        







そういえば…話は変わるが

「男はつらいよ」では富山県はついに一度もロケ地にならなかった。

私の知らないところで山田監督は富山県を舞台にした幻の物語を作っていたとしたら…。



タイトルは


『 男はつらいよ 寅次郎風の盆恋歌 』



            




9月1日の夕闇迫る越中八尾聞名寺境内。
テキヤ仲間と一緒にバイに励む寅。

一息つこうと井田川のほとりをぶらつく寅の向こう、
川岸でひとり悲しげな目をして編笠を背中に背負った浴衣姿の女性の姿 ― 。
透き通るように白い頬につたう一筋の涙。

そっと近づく寅次郎…

寅「お嬢さん、何か…あったのかい?」


寅次郎風の盆恋歌 ― このたびの恋は一世一代のものでした。

胡弓の音色を背に受けて寅次郎の命を懸けた恋が始まろうとしている。





           









マドンナは夏目雅子さん

このポスターについての詳しいことは『寅次郎な日々』を御覧ください。



          


         











20010年8月20日   『越中おわら風の盆』がはじまる。



いよいよ今日から『おわら風の盆』の展覧会が自宅のアトリエの板間を開放して始まる。絵画とオリジナル工芸染織品の展示。

自宅のアトリエを開放して展覧会を始めてからもうかれこれ17年ほどになる。
ギャラリーで展覧会をする場合は全て企画展なので、
DMは私がまずデザインして、ギャラリーに注文してもらいギャラリーのオーナーに切手を貼って出してもらうのが常。

しかし、この『風の盆』の自宅展だけは自分自身が手描きでお客さんにDMを出す。これも17年間変わらない。
1枚1枚おわらの水彩画を描いて出している。躊躇した線にならないように一気に描ききる。
あたふたしていたらもうその時点でダメ。迷いなく、サラッと描く。何度やっても難しい。
あえて官製はがきに直接描き、失敗が出来ないように自分を追い込む。

ことしのDMの一部をちょっと紹介してみましょう。

大きな油彩画もこのようなDMも同じ集中力が必要。上手くいった時はきちんとしたいい絵になる。

ここからの2週間が一年で最も長い日々となる。
車での外出も一切せず、ひたすらアトリエでお客さん達を待ち、そして迎える。


♪蛍こいこい 八尾の盆に 夜の流しの オワラ 道照らせ


       












2010年7月22日  油彩 越中八尾 雨上がりの西町風景

いやあ〜忙しくて日記書かないままズルズル来てしまった〜(^^;)ヾ
それにしても急に暑くなった。
猛暑なんてもんじゃない。
もちろん私は暑いのは得意。外気が体温くらいに暑くてもエアコン要らず。
冷たいシャワーでも浴びていれば夏バテなし。

家には一切エアコン無し。逆に寒いのは超苦手。

しかしだ。ものには限度がある。ここ数日はさすがにちょっと暑すぎ。
6月から時々坂の町の風情が残る西町の裏をスケッチしているのだが
この一週間は制作をしていてもすぐに日陰に引っ込まないと危ないので、制作が進まない。
&道具を担ぐのも暑いのでちょっと一週間ほどはスケッチは休憩(^^;)

梅雨時に描いた同じ場所の油彩スケッチを今日は載せてみます。↓
向こうに見えるのは古刹聞名寺の屋根。


息子は、最近はアニメーションだけでなく、アート系の写真(もしくは映像)に凝っている。
時々私のスケッチに付き合っては、八尾のちょっと珍しい街角をデジタル撮影しながらPC加工したり、アニメと融合したりしている。
アニメーションと違って作品が短時間できるので写真や映像もそれなりに面白いようだ。
で、どうやら東京の美大受験は油絵などのファインアート系ではなく、アニメーション系と写真(映像)系の2つに志望を絞ったらしい。
二つの分野は似ていないようで似ているのかもしれない。

一方、私は息子と違って、
ひたすら麻のキャンバスに絵の具を塗りたくる前時代的なアナクロニズム活動に勤しんでいる。





               油彩 「越中八尾 雨上がりの西町風景」 F6号サイズ 2010年6月30日頃

           














2010年6月18日   兄と弟 二十億光年の孤独  イカロス兄弟の別離





二十億光年の孤独


人類は小さな球の上で
眠り起きそして働き
ときどき火星に仲間を欲しがつたりする

火星人は小さな球の上で
何をしてるか 僕は知らない
(或はネリリし キルルし ハララしているか)
しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする
それはまったくたしかなことだ

万有引力とは
ひき合う孤独の力である

宇宙はひずんでいる
それ故みんなはもとめ合う

宇宙はどんどん膨んでゆく
それ故みんなは不安である

二十億光年の孤独に
僕は思わずくしゃみをした



谷川俊太郎 「二十億光年の孤独」(昭和27)


これは私の少年期から私の心を掴んで離さない
谷川俊太郎さんの「二十億光年の孤独」というなんとも美しい詩だ。
真実の光が輝いている。





先日、『映像』関係を勉強している息子が、なかなか心が切なくなるかわいいアニメーション動画を紹介してくれた。

このアニメーションは、実は日本の宇宙開発を推進しているJAXAが作ったアニメーションなのだが
なんとも美しい兄弟愛と、その悲しい運命を描いているのだ(TT)

兄弟と言っても実は兄も弟も機械なのだが(^^;)


先月5月21日にH-IIAロケット17号機で金星探査機「あかつき」と共に打ち上げられた
小型ソーラー電力セイル実証機「IKAROS(イカロス)」(お兄ちゃん)と小さな分離小型カメラ衛星DCAM2(弟くん)の話。
分離カメラは直径・高さともに約6センチの円柱形状で、バネにより本体から放出され、撮影した画像を無線で本体に送る。
しかし、悲しいことにDCAM2(弟君)は一度イカロス兄さんから放出されると、二度と兄さんの本体には戻らないで、写真を取り続け、
15分後には小さな電池が切れてしまい、本体とは離れ離れになり永遠に太陽の周りを回り続けるのだ。

ところで、「イカロス」とは…。もう一度簡単に言うと、
日本のJAXAが開発した太陽光を帆に受けて航行する世界初の【宇宙ヨット】「イカロス」のこと。
それが上にも書いた通り、今年5月に打ち上げられたのだが、宇宙空間で一辺約14メートルの巨大な帆を広げている様子を
小型カメラ衛星DCAM2(弟くん)が撮影した写真をこのたびJAXAは私たちに公開した。

現在イカロスは地球から約1000万キロ・メートル離れた宇宙を金星に向かって飛んでいる。

この計画は、宇宙空間で帆を広げ、太陽の光を受けて推進力を得ること、
さらに、帆の一部に貼り付けた薄膜太陽電池で発電できることを世界で初めて実証する壮大な冒険ロマンなのだ。
イカロスの一辺14メートルの正方形の大きな帆は、厚さはなんと髪の毛の太さの10分の1にあたる0.0075ミリ。超超超薄い。
表面にアルミが吹き付けられていて、鏡のように光を跳ね返す。このときに受ける力を、ヨットが風を受けるように進んで行く。



弟くん(DCAM2)が撮ったお兄ちゃん(イカロス)が帆を広げることに成功した写真↓



       






それではイカロス兄さんとDCAM2弟くんの悲しい今生の別れを御覧下さい(TT)↓


      







兄さんの帆が開き、開き終わった後弟くんが飛び立ち、
兄さんを撮影している様子をスーパーCGでしっっかり見たい方はこちらを御覧下さい↓
CGなかなかのハイレベルです。


      





ニュース形式で手短にわかりやすく知りたい方はこの藤井さんが解説をする『NHKニュース』を御覧下さい↓


      



      











2010年5月25日  遅ればせながら 油彩 『越中八尾曳山祭り 角回し』


ここんとこ静物画に凝っていたので、心機一転風景を描こうと思ったら2日連続の小雨。
しょうがないので、今月5月3日に行われた曳山祭りの油彩をちょっと描いてみた。
とはいっても今年は展覧会が忙しく、取材はできず、本番はずっと会場にいた。
会場と言っても自分の一階アトリエ板間を開放して絵を飾っているだけだが(^^;)

それゆえ、今日は何年か前に沢山、淡彩スケッチしたものから油彩タブローに再度起こしてみたのだ。
3〜4枚いろいろ描いてみたが、まあそれなりに絵になったものが2枚ほどできたので
今日はそのうちの1枚をここに載せてみます。

ああでもないこうでもないと何日もこねくり回してもダメなものはダメだし、
うまく行くときはなにかが乗り移ったように上手くいく。

もっとも、この絵がうまくいったかどうかは数カ月待たねばわからない。






               油彩 「越中八尾曳山祭り 角回し」 F6号サイズ 2010年5月24日

             














2010年5月17日   『アンティ-ク更紗』と『映像芸術』



ここ数日ちょっと暖かくなって越中八尾は晴れが続いている。
そこでようやく『更紗』の陰干しをしていた。

私も連れ合いも絵を描くためにバリで20年住んできたが、それと同時に密かにコツコツと
アンティークの更紗(バティック)や絣(イカット)も20年かけて集めてきた。
インドネシアは世界で最も染織がさかんな国だ。島の数だけ染があり、織りがある。

今回ちょっと縁があってお世話になっている富山の小さなギャラリーでこの6月末にアンティーク更紗の展覧会をする。
まあ面積がさほどないので大した展示はできないが、ちょうどバリ滞在も20周年になることもあり、
ちょっと区切りの意味でもスペシャルの展示をしたくなったわけだ。



一方、絵の方だが、最近は私にしては珍しく静物画を描いている。

私は普段静物画はほとんど描かない。この30年間常に人物と風景のみだ。
どうして最近静物画になるかといと、先日も書いたように、息子が美大受験の勉強をこの4月からはじめ出したせいで、
私のアトリエに石膏像のジョルジョやラボルトやら、静物画のモチーフやらがやたら増えてきているのだ。
アトリエの中がどこかの小さな美大予備校のようになっている(^^;)
せっかく目の前に花やらりんごやらがあるのに描かない手はない。
それでついつい息子が描いていない時間帯を狙って静物画をちょろっと描いているのである。

2階にある彼の部屋は本とパソコンで埋まっていてさほど絵を描くスペースが無いので、
結局1階の私のアトリエを使うことを親心でしぶしぶ許しているからこういう羽目になる(TT)
ま、受験勉強と言っても学科中心の総合大学ではなくいわゆる東京にある私立美術大学系の類なので
学科はほどほどに、どちらかというとこうして鉛筆や木炭で「デッサン」を中心にしているわけだ。
ああいうところは授業料が普通より高いので「無理だよ…」ってこっちがびっくりしていたら、
いろいろ調べているらしく、しっかり奨学金をもらって(後に息子が自分で徐々に返す)
私たちでは足らない分を補てんするそうだ。
なるほど、こっちはお金さほど貯まっていないので助かるなあ。。。((^^;)

何を学びたいのか詳しく聞いてみると、やはり前々からバリの学校でも勉強してきた『映像系』(アニメーションや映画CG)らしいが、
しかし『写真系』や『ファィンアート』も興味がないわけじゃないとか…。結局なんでもありか(^^;)
学校を出たあとも、将来は映像制作会社などではなく、一人または数人のグループだけで本格アニメーションもしくはCG制作をしたいんだそうだ。
また、そういう方向の人々も近年かなり増えてきていると聞く。
うーんなるほど、パソコン本体や制作ソフトなどの発達でそういうことも少人数できるようになってきたわけだ。

それにしても、近年は東京の美大ではそういう『映像系』なるものが中心になってきているのだろうか。
私や連れ合いの頃は美術系といえばファインアートかグラフィックデザイン、が主流だったが、
う〜ん時代は変わってきているのだ…。
私などただ平面キャンバスに絵を描いているだけなので『映像系』の制作にはなかなかついていけません(^^;)ゞ
時々息子がパソコンでアニメーションを制作しているのを後ろで見ていてもさっぱり手順がわからない(TT)
あ、もっともアニメーションやCG映画の鑑賞のほうならもちろん興味がある。

ま、とはいいつつも、映像系であれ映画系であれなんであれ、造形的な感覚の『基礎』ができていないと
必ず先々行き詰まるので、彼も『デッサン』を本格的にやり始めた、というわけだろう。
熱帯のバリ育ちの息子は、性格がかなりのんびりしているのでキリキリ、ガツガツ的な勉強はしていない。
なんだか2年後入学くらいをメドにぼちぼちマイペースでやってるようだ。
おいおいそんなんでだいじょうぶか〜〜。(( ゞ(^^;)




『映像表現』を志すすべての若者にこの映像を紹介しましょう。
『JR東海 クリスマスエクスプレス. 物語5編 』
日本のCMの一時代を作られた早川和良さんの透明感のある冴えを堪能して下さい。



もし現在のように携帯電話が存在したらこの物語5編は成立しなかったのですね。

        



ちなみに現在では「サントリー伊右衛門」の京都で茶葉を作り続ける本木くんとりえさんのCMシリーズが抜きん出ている。
このシリーズははてしなく今もつづいている。もう何十編作ったのだろうか。私は大ファンで新作をいつも待っている。












2010年5月4日     越中八尾曳山祭   ほりきの みっつの よーかんぼー


昨日5月3日は待ちに待った越中八尾曳山祭だった。


曳山祭は富山に何カ所かあるが、この越中八尾の曳山祭は登場する6基の曳山全てが文化的な価値を持っていることで有名。
江戸時代富山藩の御納所(おなんどころ)と呼ばれ養蚕業(蚕種・絹)と和紙で豊かな財力を誇った八尾町民文化の繁栄の証。

まずは私の住む上新町(かみしんまち)が寛保元年(1741年)花山車を製作し在原業平の人形と役者を乗せ練り廻したのが起源とされる。
その後他の町も順次曳山を制作し祭礼に加わり明治時代中期には6基となり現在に至っている。
なお祭礼行事は、上新町の過去帳により、寛保元年以前からすでに行われていたことがわかっている。


なお、この祭りは5月3日しかやらない。
だから雨の場合は中止。順延なし。
楽器もハッピも曳山も高価なもので雨に濡れてまで決行しないのだ。
これは風の盆の踊りと同じ。降ったらパー(TT)
なので、雨が降ったら私の展覧会も一巻の終わり(TT)

毎年5月はまだバリ島にいるので見れないのだが、ここ数年用事で帰国することが多くなってきたので時々見ることができる。
2年前に見た時も一日中晴れた。
今日も快晴。夜まで雲ひとつ出なかった。ラッキーだ。
気温は上昇。初夏の陽気。

そのせいか、見に来る観光客も今年は多かったように思える。

私は自宅で絵と染織工芸の展覧会を開いたので、ほとんど外の曳山は見れなかった。
特に今年は陽気のせいか、お客さんがひっきりなしに来たのでほとんど家から外には出られなかった(TT)
しかし、お客さんがひいたわずかな隙に、自宅前で昼と夜にちょろっと撮影したものがあるので紹介してみよう。
ちなみに一番下に貼り付けた夜の提灯山の「動画」などは息子が撮影してくれたものだ。

まあ、そんなに遠くまで行かなくてもちょうど私の家は八尾のメインの道に面しているので、全ての曳山が家の前を通ってくれるのだ。
太鼓の低く大きな音とともに「ほりきの みっつの よーかんぼー」という青年の掛け声が聞こえてきたら
曳山はもうすぐそこまで来ているのだ。
その昔、「ようかん坊」という偉いお坊さんが三つの仏法の力を唱えたあと、村人が大きな岩を押すと、
今まで動かなかったその村人の通行の妨げになっていた邪魔な岩が動いたそうで、
そこから重い曳山を動かす時にこの「ほりきの みっつの よーかんぼー」という大きな掛け声をかけるようになったらしい。
なんせ6基もあるのでひっきりなしに青年たちの張り裂けるような「ほりきの みっつの よーかんぼー」が聞こえてくる。




この↓2枚は息子が撮ってきてくれた写真。


             






今年も自宅アトリエを開放して絵と染色工芸品の展覧会を開いた。
ちょうど曳山が私の家の前で10分ほど休憩したので、家の中から写してみたのが↓の2枚。
部屋から見える曳山もなかなか面白い。休憩している若者の姿がいい感じ。
外から写すより味わいがあってこのやり方は気に入った。


             






夜になってもお客さんがひかないので、私は家の中や玄関の前でタイミングを見計らってちょろっと写してみた。
↓の写真は前と後ろで曳山の綱引きをしている様子。


          






     ↓の写真は、昼と同じく家の玄関の中から進んでいく提灯山を撮ってみた。


      






これは↓息子が外に行って撮ってきてくれた写真。近くの八幡社で奉納され、お祓いをされる6基の提灯山。


      


      







動画紹介

夜の提灯山では八幡社奉納時の出入りの角回しが一番の見所。↓息子が撮ってくれた動画の一部を紹介しましょう。
この動画は6基のうち、私の住む上新町の提灯山の角回しだ。屋根に鳳凰がついているのが上新町の特徴。

     youtubeを見るように画面をクリックしてください。約7秒以内に動画が始まります。

      










2010年4月29日 今年も咲いた赤いチューリップ


いよいよチューリップの季節。

私の家の玄関横に毎年咲く赤いチューリップの花。
この花が咲くといよいよ八尾は曳山祭りが始まる。

バリ滞在が長引いた年は見ることができないが、
今年のように用事があって早めに帰国した年は見ることができる。

昔、小学校低学年の息子が学校からもらってきて植えたものだ。
何も世話していないのに必ず毎年花を咲かせる。
まこと強い花。


なんでもないシンプルな花だがなぜか心がなごむのだ。

6月になると今度は中庭の方で紫陽花が咲き始める。



                 今年も健気に花を咲かせてくれた。

            





先日連れ合いの実家に寄ったら、昨年秋なくなった義父の畑のそばにも
やはりチューリップが花を咲かしていた。
夕方だったので花はやや閉じていたが、数十本も咲いていた。
昨年9月30日、義父が息を引き取った時に白いコスモスが揺れていたことをこの日記に書いたが
ちょうどその場所だ。

富山はどこの家も結構チューリップを咲かせている。





                 義父の畑の横に咲くチューリップ

           











2010年4月10日 満開を描く 越中夜桜 松川べり


昨日も書いたが
富山城の近くの松川べり桜並木が超満開。
満開の桜なんて7年も見てなかったので鉛筆だけでは飽き足らず、
小さなサイズでぐいぐいと何枚かスケッチ風油彩。
とりあえず額に入れて部屋に飾ってみた。

開放的な気分がでているので、まあ良しとした。

今日も富山は暖かい。

八尾の桜もそろそろ満開が近づいているかも。



                   油彩 「越中夜桜 松川べり」SMサイズ 2010年4月9日

           











2010年4月8日 ようやくやって来た越中八尾の春

春爛漫の大阪の実家で満開の桜を観て、
その足でなんばパークスで「おとうと」を観て、実家に泊まり、先日越中八尾に戻ってきた。



                 大阪鶴見緑地の満開の桜↓。この巨大な緑地は実家のすぐ横にある

       




越中八尾はまだ寒い。いやもうかなり寒い。ちょっと風邪気味。

富山市内のいたち川の桜もまだ5分咲き。
神通川の桜も、家からすぐの城ヶ山公園の桜もまだ5分チョイ咲き。
もう少し待たねばならない感じ。

それでも7年ぶりの日本の桜だ。
スケッチをしたり、ただ眺めたり、満開のあと散り始める頃まで
ちょいちょい見に行こうと思う。



        宮本輝の小説「蛍川」の舞台になった富山市の「いたち川」↓
        ここの地下深くからの湧き水は美味い日本の名水百選。川沿いのさくらはまだ満開まで時間がかかりそう。
        私の家での飲み水は全てここの湧き水を汲んで使っている。

       




それから数日たち…


追伸
本日4月8日は温かく、5月上旬の陽気。
ひょっとして8分咲きくらいまでいったかもと、スケッチをしに、
私のお気に入りの場所、八尾近くの神通川の土手に車を飛ばした。
ここは桜の名所で土手沿いに何キロも桜並木が続くのだ。
8分とはいかないまでも、7分半…くらいにはなっていた。このままいくともう数日で8分になる。
今日は空に雲がなくかなたには見事な立山連峰がお目見え。
剣岳もくっきり今日は見えた。




       




       




     コンピューターグラフィックを勉強している20歳になった息子も最近はクロッキー力、デッサン力の必要性を
      ますます感じているらしく、時々私や連れ合いの画材を借りて油彩やデッサンをしている。
      私のこのスケッチにも付き合っていた。(写真左端↓)
      どうやら来春バリの学校が終わったら日本の美術大学に行く準備をはじめる気配だ。

       


あと4週間で、越中八尾は5月の曳山祭りが始まる。
この祭りがはじまると新緑の風が吹く。





さらに追伸


4月9日富山城近くの松川沿いの桜並木が超満開になった。↓見事。このあと夜に油彩スケッチ敢行。



        





ちなみに、関係ない話題だが
いつの間にかグーグルのストリートビューが富山市に上陸していた。
連れ合いの実家の近くの道まで画像が来ている。
越中八尾はまだみたいだ。」











2010年3月30日  再びの満月と幾たびかの停電



昨日3月29日は満月。
なんとまたもや停電。ここ数ヶ月は10日に一度くらいの感覚で夕方から停電(TT)
昨年からインドネシアでは計画停電が増えてきた。
海底ケーブルが壊れたのと総電力が足らなくなってきたことが原因らしい。

しかし、3時間はちょっと長いなあ…。

おかげでずっと月を見てた。

スコールの直後だったのでふわっと蒸気の含んだちょっと面白い感じの月だった。




いよいよ一時帰国が迫ってきた。

それゆえ、風の盆のタペストリ(オリジナル手描きろうけつ染め)の最後の追い込みに忙しく、
ここ2週間は自分の絵もあまり進まなかった。
そしてこのサイトの更新もちょっと滞ってしまった。

相変わらず委託してあるポストカードや画集などの印刷物はよく売れるが、本物の絵の売り上げのほうはイマイチ。

それでもなんとかオリジナルデザインの染織工芸を仲間と共同で作って足らない分を補充し、生き繋いでいる。

染織工芸がアジアで最も盛んなこの国の才能と勤勉に助けられているのだ。
私は仕事仲間に恵まれていると思う。

次回のアップは帰国後の4月中旬です。





          






猫たちよ、しばしの間の別れだ。達者で暮らせよ。
3匹の子猫(チャチャ、ひょっこり、チョコチップ)はかなり大きくなってきた。
ここ↓に写っているのはとりあえずお父さんお母さんそして子供2匹。


           














2010年3月16日  悪魔ばらい儀式『オゴオゴ』動画配信!



ハリラヤ ニュピの前日、つまりバリの暦(サカ暦)の大晦日に悪魔ばらいのために家々を回るオゴオゴは、
ここ20年で年々その規模がエキサイトしている。

大晦日の2週間ほど前から、バンジャール(自治会組織)ごと、そして年齢ごとにグループ分けして小さいものから巨大なものまで作られる。
小さな子供たちが作るものもあれば、大の大人が大勢で必死になって作るものもある。
大体どの村でも幼稚園、小学校、中学校、高校、青年たち、大人、など6個くらいのオゴオゴが一斉に出る。

費用は村への寄付で賄われる。モチーフはとにかく悪魔が逃げていくような「怖さ」「強さ」が必要。
近年はヒーローものやアニメからヒントを得たものも激増。

竹を芯にして、その周りにウレタンなどを巻き、発砲スチロールで加工した後、塗装して装飾して仕上げていく。

で、今日は雨季にもかかわらず一日中晴れた。まさにオゴオゴ日和だった。私もたっぷり彼らの饗宴に付き合った。

夕闇迫る頃6個のオゴオゴが道をわざと瞑想しながら家々の悪魔を追い出していく。

それと同時に、パレード用のガムラン「バレガンジュール」がチェンチェン(シンバル)を激しく打ち鳴らして背後から行進していく。
駄目押しで、何人もの若者が大きな竹筒に火薬を仕込んだ超ど級爆音爆竹を鳴らして歩いていく。
知らない人が油断して彼らの近くに寄ると爆音で鼓膜をやられる。かなり危険な悪魔ばらいなのだ。
私も耳栓をして毎年見ている。村人たちも耳に詰め物をして参加している。

オゴオゴが終わると自分たちのバンジャールへ戻り、ニュピが始まる朝方直前まで騒ぎ、大きな花火を何発も打ち上げ、
過激な爆竹を何百発も鳴らしたりして「悪魔ばらい」のフィ二ッシィングに励む。




                 2010年3月15日 午後8時 ウブド サンギンガン村にて

             





そしてそのような狂乱の夜が去った午前4時ごろ夜明け前、ついに静寂の日『ニュピ』の24時間がはじまる。


バリ中の人々は、この日、一歩も家の敷地から外には出れない。夜は暗くなったら早々と寝てしまい。
部屋の電気は一切つけない。テレビなどもつけない。
敬虔なバリヒンドゥの信者であれば、調理も食事もしないということ。

まあ、しかし近年は、ほとんどの家々が部屋の中では夕方は明かりはつけているし、食事も普通にする。
ただ、夜の8時ごろには村々のどの家も、どの部屋も真っ暗にして寝てしまうのはさすが。


昨日の私の取材を動画で30秒分発信します↓。

どうぞバリ島ウブド村、サンギンガン地区の『悪魔ばらい』を垣間見てください↓。
youtubeを見れる環境にある人はこの動画も簡単に見れます。




                   youtubeを見るようにクリックしてください。約10秒以内に動画が始まります。

               











2010年3月11日  バリの満月とニュピ


今滞在も残すところあと3週間になってきた。早いものだ。
近年は日本での用事も増えてきた。

もう20年このような生活を続けてきたが、いつまでもバリにそう長くいるわけにもいかなくなってきている。
ゆっくりゆっくり数年かけて日本中心に移行していくことになっていくと思う。
バリに戻って来てもこれからは4ヶ月ほどの滞在になりそうだ…。


日本は日本で実は面白い。世界一四季が美しい国だ。そして私の祖国だ。

まあそうなると日本の四季もたっぷり味わえるし、雪も桜も紅葉も描けるのでそれはそれで嬉しい。
日本での絵や染織工芸の展覧会ももうちょっとまじめにやらなくては…とも思う。
絵は年々売れなくなってきているが、染織工芸が売り上げを維持しているのがせめてもの救い。
日本中心になっていくと、今、バリでコンピュータグラフィックを学んでいる息子もいずれ日本の美術大学に通い始めるのだろう。
彼はそういう計画を立て、ぼちぼちそれ用の勉強をし始めているようだ。

そういうもろもろの時期があきらかにゆっくり近づいてきている。2年後か…遅くても3年後…。


バリの満月は透明で果てしなく美しい。
月が明るいのである。
部屋もテラスも真っ暗にして空をぼんやり眺める。

渓谷の向こうで宗教儀式のガムラン演奏が小さく聴こえてくる。

これこそが私のバリであり、私の拠りどころなのだ。

一年でもっともバリが静寂に包まれる日『ニュピ』が5日後に近づいている。

「ニュピ」は私が最も好きな日。

店も役所も家々もそして空港さえも閉まり、道には人も車もなにも通らない24時間。
全ての人の心が洗い清められる『ハリラヤ.ニュピ』
恐ろしいくらいの静寂。
夜はどの家もどの道も電灯をつけず、漆黒の闇。

日本でもそのような日を一年に一度くらい作ればいいんだけれど、ま、そういう国ではないんだよな日本って。



                 










2010年2月18日  油彩画 『 バリの農夫 Rの肖像 』


バリはまだ雨季。ここのところよく降る。
最近、雨のよく降る日は、昨年亡くなったあのアグンライ爺さんをアトリエの中で描いている。
とはいえ、数年前までのエンピツスケッチをもとにタブロー化しているのである。

前にも言ったが、私のほとんど全てのスケッチは、油彩よりもずっとラフに描くので、それを
油彩に起こすときも、必然的にやや早描きになる。

そのうちの一枚、事前にちょっと地塗りに工夫をした。
で、一気に描こうとしたが、一時間ほどぐねぐねいじりすぎてしまってので軽みとリズムが半減した。
しかしこういう絵もそんなに嫌いではないので日記に載せてみます。

いつものように、この絵がいいか悪いかは描いたばかりでは思い込みがあるので今は分からない。
数ヵ月後にもう一度見てみる。





             
パパイヤの見える風景 油彩 F4号 2010年2月

               










母親ネコのマロンが産んだ子猫はようやくみんな目が開いた。名前はまだない。





              

        

















2010年2月10日  ネコのマロンに赤ちゃん3匹!


2008年に母親ネコのキウイが産んだ子供のマロンが、早くも今日2月9日今度は自分が赤ちゃん3匹を産んだ。
この時のキウイの初産は2008年11月27日の日記を参照してください。

昨日からミャアミャア鳴きながら生む場所をうろうろ探し始めたので、
息子がいつものようにダンボールで産み場所を作ってやっていた。
今日夕飯を食べ終わった後段ボール箱を見てみるとちょうど赤ん坊を3匹産み終わったところだった。
マロンは他の母親ネコと比べてとても安産だった。




かれこれもう13年間ほどいろんな捨てネコを飼ってきたが2世代にわたってのお産は初めての経験。
つまり今回のマロンの赤ちゃんたちにとってキウイはおばあちゃんということになる。キウイにとっては孫だ。
なんだか感慨も深い…。

あ、ちなみにこの子達のお父さんはちょうど1年前の同じ2月に連れ合いが連れて来たあの子ネコ、

そうだ前の敷地で捨てられていた『ラテ』だ。
詳しい『ラテ』の物語は2009年2月12日の日記を参照ください。


今回子供を産んだマロンの母親であるキウイも私の知人の家のゴミ捨て場で捨てられていたのだ。
どのネコも見るに見かねて連れ帰ったネコばかり。


         今回の3匹は2匹は茶色と白のニケで父親のラテ似、もう1匹は黒と白のニケでちょっとマロンに似ている。

              






ちょうど1年前、
外から拾われてきた幼いラテはあっという間にマロンの横で
一緒にキウイのおっぱいを吸い始めたのだった。↓今回この2匹の間に子供が生まれたのだ。

詳しい『ラテ』の物語は2009年2月12日の日記を参照ください。




            2009年2月.母親のキウイ。左からおっぱいを吸う子供の「ココア」と「マロン」そして新しくやって来た「ラテ」
            このマロンとラテの間に生まれたのが今回の3匹↑の写真だ。

               











2010年2月2日  敷地にパパイヤの実がつきはじめた!


7年ほど前に成長し始めたテラスの前ののナンカ(ジャックフルーツ)の木は母屋の屋根をはるかに越え大木に今や成長した。
ナンカの実が食べれるまでもう少しだ。

…と、思っていたら昨年末からそのちょっと横にパパイヤの木が今度は成長し始めた。
パパイヤはバナナと同じで、幹部は木質化しないのであっという間に成長し、あっという間に実をつける。
とにかくバナナ同様繁殖力が強いので私たちには嬉しい果物なのだ。多年生でもある。で、それゆえ市場でも安いのがさらに嬉しい。

ナンカもパパイヤももちろん自分たちが食べる時に捨てた種が自生したものだ。熱帯雨林の力はまこと恐ろしい(^^;)
自分の敷地に自生した果物を食べるのは実に精神衛生上好ましい行為だ。バナナの実はいたるところにある。
これだから熱帯暮らしはやめられない。

そういえば映画「男はつらいよ」第48作『紅の花』でも奄美のリリーの家にバナナが自生していて食べていた。まさにああいう感じ。

今、ちょうど雨季なので、パパイヤの木は雨を吸って日々成長し、遂に数日前から早くも実をつけ始めた。
人間で言うとまだ少年のようなパパイヤの木だが、もう子供ができているのだ。

晴天の今日、早速油彩でスケッチ風にささっと数枚描いてみた。

例によって何がなんだかわからない絵。うまくいったかどうかは数ヵ月後に判断。






                         パパイヤの見える風景 油彩 F4号 2010年2月

            










2010年1月21日  長旅から帰って来た人には…




1月13日に日本を離れ、バンコクに一週間滞在し、常夏のバリ島に昨日帰ってきた。
厳寒の北陸との気温差は25℃近くにもなる。

それにしても昨年秋から義父の死に直面したこともあっていろいろきつかった。

11月から12月まで一度バリに戻ったが、今度はまさかのアグンライの父親の死の知らせを受けてしまった。

納骨を控えて、少しあわただしくバリ滞在を過ごしていった。
その後年末にもう一度日本に納骨のため一時帰国し…、
ようやく今、じっくり腰を落ち着けて3ヶ月間絵を描き、ものを作ろうと思っている。

それにしても精神的にもきつかったこの数ヶ月だったが、
アグンライの家族が、留守宅を毎日しっかり守ってくれていたので助かった。
屋根の修理、門の修理、垣根の修理、草刈、猫のえさなどを全部やってくれていた。

バリに住みはじめて今年で20年目を迎えるが、いろいろな人との人間関係が年月と共に深まってきているので
留守の日々が長くとも自宅も仕事もさほど心配が要らなくなってきている。

特に長旅から戻った当日は心身ともに疲れているので、
しっかり敷地も部屋もきれいにしてスタンバイしてくれていると本当に助かるのだ。




           






第12作「私の寅さん」で留守番をする寅が、九州旅行から帰ってくるさくらたちを心を込めて迎えてやるが、
ああいうやり取りは実に心温まるものだ。

寅は旅人なので、誰よりも旅の心労は骨身にしみているのだ。





寅「あーあ、久しぶりの長旅から帰ってきて家の中が
 カッ散らかってると気分が悪いからなー、なあ、社長」


寅「いずれそのうちにその入り口からおいちゃん、
 おばちゃん、さくらがよ、
 こんな大きな荷物を抱えて、
 あーあー、くたびれたくたびれた、
 家が一番いいよー、
 なんて言って帰ってくるんだよねー」




          



寅「そのときの、この迎える言葉ってのが大切だな。
 『あ、お帰り疲れたろう?さあ、上がって上がって』ねー!

 熱い番茶に、ちょっと厚めに切った羊羹のひとつも添えて出す。

 ホッと一息いれたところで、
 『風呂が沸いてますよ』っと手を差し出す。



          




 長旅の疲れを、すっと落とす。出てくる。

 心のこもった昼飯が待っている。ねー!
 温かいご飯!しゃけの切り身 山盛りのお新香 
 『どうだい、旅は楽しかったかい…?』
 たとえこれがつまらない話でも『面白いねー』って
 聞いてやらなきゃいけない。

 長旅をしてきた人は
 優しくむかえてやらなきゃナー…」



          




なんともいいアリアだね。名場面だ。














2010年1月5日 油彩画 『雪の越中八尾 諏訪町』


昨夜、とにかく寒いので一気に描いては次の絵、次の絵と描いていった。
どの絵も久しぶりの冬景色のせいか、まあまあのできと…思うのだが、こればっかりは神のみぞ知るだ。


         
                      雪の越中八尾 諏訪町 油彩 F4号 2010年1月

         

          


         







2010年1月4日 越中八尾 雪の諏訪町




越中八尾は一昨日かなり雪が解けたが、昨夜はまたかなりひどく吹雪いた。
越中八尾の私の自宅の道向こうは諏訪町と言い日本の道100選に選ばれている。

この町の道は、おわら風の盆の時に賑わう。この写真↓は夏の風景。
 




            







だが、実はこの諏訪町の道は、雪の積もる真冬にこそ味わいの出る道なのだ

雪の諏訪町は、はてしなく静かだ。夜はなおさら。

この寒く白い風景を知らねばおわら節の哀愁はわかるまい。

今日も凍えながらこの道にイーゼルを立て絵を描く。




           











2010年1月2日 新年 あけましておめでとうございます。 

寅次郎と雪のバス停



新年 あけましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が一昨年同様
遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
皆様の幸せをお祈りしております。

義父の納骨のこともあり、喪中であることは承知しておりますが、
みなさまの日ごろのお励ましに感謝いたしまして
あえて新年のご挨拶をいたしましたしだいです。


なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノートなど、
相変わらず稚拙で、ダラダラした無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


雪の剣岳が見える丘にて


2010年 正月

吉川孝昭






         

         
         RYOTARO 作画  寅次郎と雪のバス停  2010年1月2日












2009年12月25日 巨大な雪だるま出現!?



ようやく雪も止み、昨日あたりからあたりはかなり解け始めた。
熱帯育ちの息子は名残惜しそうに庭の雪を集め、3時間もかかってこんなものを↓作ってしまった。
15年ぶりの日本の真冬体験でのドカ雪は、いきなり強烈パンチを食らった感じだ。

せっかく車のタイヤを新品のスタッドレスに履き替えたのに、雪が減ってちょっと肩透かしだが、
日本滞在はあと2週間あるので油断はできない。

昨夜はクリスマスイブ、みんなでケーキを食べた。15年ぶりの日本でのクリスマス。雪のクリスマス。






           












2009年12月18日 雪の降りたるはいふべきにもあらず



義父の納骨が終わったあとも連れ合いの実家で事務処理のためしばらく寝泊りしている。

富山は昨晩から異常な冷え込みが始まり、寝る前に『雪起こし』の雷が鳴りまくる。
ああ。。。これは来るな…。
と思ったら、朝起きて寝室の二階から窓の外をみるとやはり下の写真のごとく雪景色が広がっていた!
私にとっては15年ぶりの雪景色である。
息子も5歳のころに雪だるまを作ったかすかな思い出が蘇ったようだった。


まさに「枕草子」のとおり、

『冬は つとめて。 雪の降りたるはいふべきにもあらず』 だ。





         






亡き義父が育て、秋に干し柿として取った柿の木(左)もすっかり今日で雪化粧(右)。


     
       





雪の中、お昼に用事のため車で神通川付近を通ったその時に、雲がサーッと切れて青空が見えた!
雪と青空との見事なコントラストに、思わずカメラを向けていた。



       





夕方、雪に慣れている義母は、義父の残した畑に立ち寄り、雪の中から大きな大根を引っこ抜いてきた。



                雪も一緒にくっついてきた大きな大根

       






その大根を、イカ、豆腐、サトイモ人参と一緒に煮こんで義母の十八番の煮しめが出来上がる。

       





今日の富山の雪景色を見て凍えながら息子がしみじみこう言った。

「この雪景色が長く続くから、あの春の桜がきれいに見えるんだねきっと」


かつて、常夏の国から日本の春にやって来て肌寒い思いで桜を見ていた息子が
今回初めて実感した彼にとっての新しい感覚だった。


冬の次に春が来る。雪が解けて春になる。


          



追記 12月18日午後は↓のように雪が降り続き、夕方にはかなりの積雪量になって行った。



          


















2009年12月6日 15年ぶりの日本の冬 納骨の儀


義父の四十九日と納骨の儀のため、富山に一時帰国。

家族みんな実に15年ぶりの日本の真冬だ。

今回も関西空港に降り立って、大阪駅から『サンダーバード』で一路富山へ。

『サンダーバード』はカッコいいけれど、
私は昔の583系『雷鳥』あたりの方が旅情がかきたてられて好き。
今は『雷鳥』は金沢までしか行かなくなった。





               サンダーバードの一本前に583系雷鳥金沢行きがやって来た。

         





寒いなんてもんじゃない。熱帯の植物がいきなり寒帯に持って行かれるようなものだ。
ガタガタブルブルの日々。

それでもなんとか義父の四十九日法要と納骨の儀を本日終え、今こうして日記を書いている。
これで大きな儀式は全て一段落した。

ところで、昨日午後、お骨を入れる墓の石の扉がなかなか開かずに困った。
それで近所の石材店の人に来てもらっていろいろがんばってもらったが、
しぶとく開かなかったのでどうしたらいいのか参ってしまった。石屋さんでも開けれないなんて…。

このままではさすがに納骨できないので、
最後は奥の手の小型ジャッキを使って力技で物理的に上の石を一旦持ち上げようかと思ったが、
夕方に再度墓地に行って私と息子で夜7時ごろまでかかって根性とアイデアと根気でなんとか
バールと手だけで完全に開けることにようやく成功した。

暗くなってから墓場でなんと3時間近くもかかったのだ。
しんどかった&寒かった&怖かったあああああああああ(((((^^;)

なんせ明治二十年に立てられた古くて大きなお墓なので、骨を収める部屋も
本来動くはずの大きな石の壁がきつく閉じられていたことと上の大きな石の重みで、
開きにくくなっていたことがことを難しくしていたのだ。
昨日までなんと45年間も開けられなかったのだから。

こういう四面楚歌の時に、
いつもいつも20年来のインドネシアでのサバイバル生活の知恵と粘りが役に立つから不思議だ。














2009年12月6日 最新作 『グンカの肖像』



先日の満月の夜は久しぶりに4時間の停電だった。

お陰で、神秘的なバリの夜を過ごすことができた。
何が幸いするかわからないからこの地は面白い。



             




ここのところ、かつて描いた何十枚のアグンライじいさんのスケッチを油彩におこしている。
本人は亡くなってしまったので、頼りはかつてのスケッチのみだ。

スケッチはラフなものが多いので、当然そこからおこすタブローもラフな感じで1時間ほどで描ききる。
何枚もどんどん描いたが1枚か2枚ほんのちょっと気に入ったものができるかできないかだ。

こんなことをしているうちにあっという間に日本への一時帰国の時が近づいてきた。

今回はなんとも短い滞在だったが、染めと織りそして工芸作品制作の打ち合わせは
なんとかギリギリ終わらせることができた。
前回のオーダーから作り上げている『越中おわら文様浮き織り』も一枚だけ仕上がった。





             バリの農夫 グンカの肖像 油彩 F4号 2009年12月  

            







            『越中八尾風の盆文様 浮き織り』 60cm×300cm スンバ島 2010年度版

            




このあと12月中旬に義父の納骨のため一ヶ月ほど一時帰国します。










2009年11月29日 バリの農夫アグンの死

25日にバリにようやく帰ってきた。

実は義父が亡くなる5日前の10月25日に、
私にとってのバリの象徴であるアグンライじいさんが亡くなったのだった。
急に倒れてそのまま数時間以内で亡くなってしまった。
血管障害だったと思われる。七十六歳だった。

アグンライじいさんは、私の親友で42歳の若さでなくなったあのグンライの実父だ。
父と息子は同じ名前。

私の20年にも渡るバリでの居住は彼が私の近くに住んでいることに大きな意味があった。

私も連れあいも、この20年間、もう何十枚彼をモチーフにして絵を描いただろうか。
彼の内なるパワーと純度の高いシンプルな生き様はいつも絵心を十二分に沸き立たせてくれた。

私の敷地の竹の垣根も木や草の刈り取りも柱も門もこの十数年彼が直し、細々世話をしてくれた。
彼は15年前妻を亡くし、7年前自分の最愛の息子を42歳で亡くし、
それでもたくましく田んぼを整備し、広げ、二期作米を収穫してきた。
果物の木や花を植え、ココナッツの木を植え、
牛を育て、鴨を育て、鶏を育て、豚を育て、小屋を作り、農具を作り…、
まさに百の仕事をこなす正真正銘の百姓だった。

寡黙な彼はインドネシア語は一切話さず、私と会話する時も当たり前のように全部バリ語。
インドネシア語はできるがバリ語が危うい私は、必死で前後関係で意味を掴もうとする日々だった。

家族だけでなく、村中で尊敬の念を持たれていた彼はバリ語で『偉大なる父』という意味の
『グンカ』と呼ばれていた。


私は2009年10月末にこうして二人の大事な人を失ってしまった。



私の20年に渡るバリ島滞在も絵描きとしての人生も、
今、大きな転換期がやって来ていると強く実感している。





↓は、2枚ともグンカを書いた私の絵


        

          バリの農夫.アグン





        

         バリの農夫










2009年11月14日 柿取り、そして干し柿を作る日々


日本を出発する日が2日後に近づいている。
葬儀の後のごたごたしたあらゆる後片付けと諸手続きの合間をぬって山々をスケッチ。


越中富山はかなり寒くなってきた。
もう15年間もこの寒さは体験していないのでそうとうきつい。
しかし、空は高く空気はますます空が澄んで山はくっきり見えるし、
風が透明で息が白く気持ちがいいとも言える。

四日前、三日前、息子と二人で義父が残した柿を取った。

今年は沢山柿が実る年に当たっていたのでたくさんあって大変だった。
百数十個取った時点で一応止めた。

さすがに家族だけでは食べきれないからご近所さんに配って…、
それでも余りそう。





         






そのまま食べると渋が残る。



         






一昨日と昨日、義母、連れ合い、息子で皮をむき、麻布でくくってベランダに干す。
早くできないかな…。
義父の四十九日にまた富山に帰ってくるのでその時たっぷり食べれるだろう。



         





次回『バリ日記』のアップは、バンコクに一週間滞在し、その後バリ島に着いた後の
11月25日以降です。











2009年11月3日 風に揺れるコスモスと満月の立山連峰




ここ数日富山は急激に冷え、昨日夜半から山間部ではうっすら雪になった。


定年後の義父の趣味は畑での野菜つくり。

トマト、ネギ、大根、キュウリ、ナス、ジャガイモ、白菜、ピーマン、その他諸々。

完全無農薬有機農法で20年以上、毎日畑に出て丹精を込めた。


彼の人生は仕事も趣味も子育てもまさに頑固一徹。






          







10月30日、快晴。

義父が息を引き取ったその朝、
畑の横にひっそりと咲く白いコスモスが風に揺れていた。





          






11月3日

彼が愛してやまなかった立山連峰が、昨晩大きく雪をかぶった。冠雪の峰の出現である。
文化の日の午前中曇りがちだった空は、
夕方全ての雲が吹き飛び、赤紫に染まる見事な連峰が目の前に現れた。

大窓、池平山、小窓、三の窓、劒岳、前劒、劒御前山、別山、真砂岳、大日岳、大汝山、雄山、
浄土山、鬼岳、獅子岳、佐良峠、阿弥陀ヶ原、鷲岳、鳶岳、…薄茜色に輝く山々。

今日からこの地の冬景色の登場である。






          






今夜は満月。

なんとも幻想的な夜だった。こんな立山を見たのは初めてだ。


義父が生まれ育ち、生涯を生き抜いた越中富山の最も美しい季節がいよいよ訪れようとしている。



合掌




          






11月中旬頃に日本を出発する予定ですが、正確な日にちは未定です。
バリ日記の更新はもう一回ほど富山からアップすると思います。













2009年10月21日 秋空に聳える立山連峰



毎日、義父の入院する病院に通っている。
予断を許さない厳しい状況が続いているからだ。
実の娘である連れ合いは義母と一日交代で病室に泊まっている。

心が常に暗くなるが、それでも気持ちを強く持ってみんな義父を見守っている。

昨日、病院への途中、立山連峰が美しく聳えていた。
毎年この10月下旬はすでに日本を飛び発って外国へ行ってしまっているので
この季節の立山連峰を見たのは実にまあなんと15年ぶりである。

左から、劒岳、別山、真砂岳、富士ノ折立、大汝山、雄山、浄土山…
かつては…、私はあれらの頂に立っていたのだ。





          



追伸:明日から義父の病院に近い連れ合いの実家に一週間宿泊するためその間サイト更新はできません。












2009年10月17日 娘との16年ぶりの再会


八尾のアートフェスティバルも終わり、日本滞在全日程をようやく終了した。
今年も何とか生き延びたが、やはりギリギリの成果だった。
もうこんな貯金も何も出来ない自転車操業の状態が何年も続いている。
絶対に生涯を通して他人から借金を一円もしないで生き抜くつもりなのでなおさら苦しい。

絵が売れる割合はやはり今年も少なく、染織工芸が半数以上を占めた。
もう絵だけで生活できる時代はいよいよ完全に終わったのかもしれない。
誰もが学校で教えたり、教室を開いたり、副業を持ったり、グラフィクデザインで埋め合わせたり、
私のように抱き合わせで絵以外の手作り物を展示して凌いだりしている。


とにかく、この先もどんな酷い時代になっても、そして
絵が売れようが売れなかろうが、絵が認められようが認められなかろうが、
純粋な気持ちで絵そのものを愛し、絵だけを描き続ける人生でありたい。
絵を描くことだけの実にシンプルな人生だったと言えるような生き方を続けて行きたい。
いつもそればかり考え願っている。

実は、先日誕生日だったのだが多忙が重なりいつものようにケーキを作ることが出来ず、
市内にあるいつもの私たち御用達ケーキ屋さんに注文した。
この店のケーキはかなり美味い。完全に全国レベルだと思う。
ケーキは何と言ってもスポンジの質と鮮度である。そして全体の美しさ。
この日のケーキもまろやかで神経が隅々まで行き届いていて美味しかった。

ろうそくはあまりにも本数が多くなってきたので今回は無し(^^;)



                                      




話は変わるが、先日、16年前に東京銀座で個展した時に買っていただいた12号F「白い花の庭」
の画像を送っていただいた。
この絵は徳島県吉野川市のある旅館オーナーのOさんが気に入って買ってくださり、客室やロビーに飾っていただいていたのだ。
今回見てみると、まったく当時と変わらない絵肌と発色を保っていたので嬉しかった。

徳島にお嫁に出した娘と16年ぶりに会った気持ちだ。


ちなみにこの絵は私ももちろん気に入っていてポストカードにもしているくらいだ。
いずれ出す画集にも必ず載せようと思っている。その時はもちろん徳島まで行って写真を撮ろうと思う。

これは私のサイト内の作品集にも載せている。



                              Oさんが送ってくださった写真
                         





追伸:今回、重い病気で入院している義父の看病のため、出発の予定を2週間変更し、日本滞在をしばらく伸ばしている。













2009年9月26日 望郷を歌う


金沢での展覧会も終わり、ちょっと時間が空いたので先日、晴れた日、金沢兼六園横の
石川県立美術館に立ち寄って鴨居玲を見てきた。
ここの学芸員に私の展覧会の常連さんがいて鴨居さんの小さな企画展のことを教えてくださった。


石川県立美術館の横の博物館では「本願寺展」を開催していたので、それも観る。
この博物館は旧陸軍の倉庫をそのまま3連使っているので建物の有り方がいいのだ。
日本ではもうこのような気持ちが入った煉瓦造りの建築物はほとんど残っていないだろう。




            








ところで、石川県立美術館は日本でも有数の鴨居玲のコレクションを持っている。
それも質のいいものが多い。

鴨居さん没後の回顧展はもちろんのこと、
それぞれの5年、10年、15年、20年の回顧展も実に質のいいものを全国から集めて展示してきた美術館だ。


鴨居玲は絵を売って食べていたので、評価された絵のセルフコピーも多く、
そう言う類のものはちょっと色が浮ついていることが多い。

しかしこの石川県立美術館の鴨居玲作品はそのような彼のセルフコピー版でなく
オリジナル版が多いのである。

私が鴨居玲の絵で最も気に入っている5枚ほどの絵の3枚がこの美術館にある。




特に好きなのが「望郷を歌う」

亡くなった鴨居さんの親友である、韓国人の高英洋氏に献じられた作品である。
白いチマ・チョゴリを着てステージで望郷のアリランを熱唱する歌手、
李順子(イ・スンジャ)さんのコンサート実現を手伝い、その歌を聴いて感銘を受けた鴨居さんは、
彼にしては珍しく人生そのものを肯定する賛歌を一気に描いたのだった。
韓国への切ない思いを悲しみと共に高らかに謳いあげる彼女のその昇華されたエネルギーが
白の上に薄く乗せられた透明感溢れるビリディァンの硬質なマチエルに集結している。

中年期以降の作品でこのようなポジティブな要素がわずかに入り込んだ作品はこれ一枚である。


実は私はこの絵を初出品の時に東京銀座の日動画廊で見ている。
1982年3月末だったと思う。

まだ学生だった私は、なんとこの絵を買おうと本気で考えたのだった。
ちょうど知り合いに日動画廊の新入社員がいたので、まじめに値段を聞いてみた。
確か600万円だったと思う。

もちろんその時は鴨居さんは存命で、私の恩師の坂崎乙郎先生も存命だった。

数日間大真面目に考えたが、どうしても600万円を都合つける手立てが見つからず(そりゃ当たり前)
購入を断念したのだった。
学生のくせにバカかと思われるだろうが、当時の私はそれなりに本気だった。

それで3年後に鴨居さんと坂崎先生が亡くなった後、石川県立美術館が購入したことを知り、
それならいつでも観に行けると胸をなでおろしたものだった。


そしてそれから遥か20年以上経った今、
19歳の私の息子がこの「望郷を歌う」を会場で観ている。
ただそれだけのことがちょっと嬉しかった初秋の午後だった。





              























2009年9月14日 天賦の才 その世界観


ここ一週間は今度は金沢郊外の展覧会で時間が取れない。
それゆえサイト更新が出来ていない。
そして日本滞在もあと1ヶ月を残すところとなった。

実はちょっとしたわけがあってもう少し日本に滞在したいのであるが、どうもそういうわけにはいかない。
航空機チケットの有効期限が迫っているのでどうしても10月中旬には日本を飛び立たなければならない。

もう少し日本に滞在したいわけとは牧谿(もっけい)の最高傑作『煙寺晩鐘』が11月末からの2週間畠山記念館で見られるからだが
それを私もどうしても見たいのだ。
まったく国宝というものはなかなか動かないばかりか長くは見せてももらえない。
北陸などには「煙寺晩鐘」は来ない。


ああ…、しかしその頃に東京へ行くのは上記の通りやはり無理なのである。

それでしかたなく先日畠山記念館の学芸員さんに電話で無理を言って図録だけを富山の自宅に送っていただいた。



牧谿は13世紀後半、南宋から元にかけて中国南部・揚子江周辺で修行し続けた禅僧である。
絵を描いて描いて描きまくることによって修行をしていったお坊さんだ。


なんとも引き締まった強い絵だ。いい絵はいつも静謐でかつ動かしがたい強靭さが漂っている。
彼を慕って彼の真似をし続けた桃山時代の絵師長谷川等伯の絵など吹っ飛ぶ強靭さだ。

当たり前だが現代ではありえない絵。
なによりも彼の生きた世界が違い、社会的土壌が違う。
そしてそれ以上に禅僧として彼の「信じていったもの」がゆるぎないからこうなる。
描く腕も凄まじいがそれ以上に実は牧谿の持っている「世界観」の問題。
そのような世界観を持って生きていないとそういう絵は描けない。




       






そういえば渥美さんも森川さんもその存在の有り方が、その芝居が静謐で凛とした緊張感に包まれていた。
どんなに面白いおかしい演技をしようがその芝居に媚やパターンを感じなかった。
なんともいえない揺るがしがたい独自の世界観が有った。

その昔、山田監督が森川さんの芝居と空気を渥美さんと話している時
「森川信さんは長い役者生活の中であの独特の空気をどうやって体得したのだろうか…」と渥美さんに質問したところ、
渥美さんは言下に「いや、それは天賦の才です」と言い切ったそうだ。

渥美さんのこの確信は、天才は天才を知るということなのだろう。

いつも言っていることだが、がんばっても一生懸命にやっても芝居も絵も才能の有無だけはどうしょうもない。

が、しかし、そう諦めたものでもない。

生涯をその分野に一心不乱に純粋に捧げつくせば、なんらかの小さな結果は残せることも歴史が物語っている。
ただし「一生をそのことに純粋に捧げつくすこと」はこのしがらみと雑音の多い今の娑婆では奇跡に近い難行である事も間違いない。
その場だけがむしゃらにがんばってもダメなのだ。一生涯を純粋な気持ちで捧げなくては鼻にもひっかからない。
それはおそらく生活者としてはある意味破滅的な人生。
レンブラントやゴッホの生涯をたどっていってもその困難さがひしひしと感じ取れるのだ。
ゴヤもレンブラントもゴッホも渥美さんも森川さんも実生活では波乱万丈だったが最後までその純粋さを失わなかった。
これこそが才能であると言えば言いすぎであろうか。

そして、人生は後にも先にもたった一度限りであることも自明である。



         















2009年9月5日   兄と妹  胡弓弾きの涙




映画『男はつらいよ』の中で寅とさくらの深い絆が様々な場面で描かれているが、
実はこの兄と妹は実際に暮らした年月はたった5、6年ほどなのだ。
しかし相性というのはその年月ではない。
また、離れ離れに暮らしているゆえに結びつきが深まることもある。




             


  


ようやく風の盆も終わり数日間休息中だ。
今年は天気予報が3日間とも雨だったにもかかわらず、まったく雨は降らなかった。
これは全国各地からはるばる見に来た人々にとってはこんな嬉しいことはなかったろう。
ただ、昨年今年と、昔に比べて見に来る人は若干少なくはなっている。

私の展覧会では6枚ほど絵が売れた。
3枚の油彩と3枚の水彩だ。
オリジナルの染織工芸品は、数年前までよりちょっと少なめではあったが
それでもたくさんの人々が喜んで買われていった。



ところで、私の家とちょうど道を挟んでプロの女性胡弓演奏家のMさんが住んでいる。

彼女もそして昨年亡くなられた彼女のおばあちゃんも近所のよしみで私の絵を何枚も買ってくれているコレクターでもある。
また、彼女たち家族が住むその家は、戦前、私の連れ合いの祖母が青春期にそこに住んでいたという深い縁がある家なのだ。


複雑な家庭事情の元に育ち、身体も弱かったMさんは幼少期から両親と離れこの越中八尾の祖父母宅で
静かに育っていったらしい。胡弓の名人だった祖父の影響もあって彼女も胡弓を弾く。

その音色は濁りがなく澄み、技術はかなり高い。
ただ、他の胡弓を演奏する人と比べてその技術の高さゆえか手技で音をころがす傾向にあるのが私としては残念なところだが、
一般の聴衆にとってはそういうところは『演奏家としての個性』として捕らえているのかもしれない。

今年も彼女は9月1日から三味線や唄うたいの人々と深夜に町を流していたが、
最後の9月3日の夜流しもいつものように彼女の家の前で三味線や唄は鳴り止んだ。
私は、ああ今日もいつものように自分の家の前で流しが終わるんだなって思っていると、
しばらく静寂の間があって、今度は彼女の胡弓だけがゆったりとしたソロで鳴り出したのだ。

道を行く多くの人々も足を止め、彼女の音に耳を傾ける。

私は毎年、胡弓、三味線の音は自分の展覧会場のアトリエから間接的に聴くのが好きで、家の前の道には出ないのだが、
今回はちょっと不思議に思い、二階に上がり、窓から真下を眺めつつ、その音を聴き、
最後の一節で彼女の背中からの写真を撮った。

その音色はいつも通りに粗がなくハイレベルだったが、
しかしなぜかスローテンポで、いつもよりいっそう澄んだ、ある意味なんだか悲しげな孤独な音だった。

この町では珍しく胡弓演奏を職業にしている彼女はいわゆるステージに乗って銭の取れる音を出せる演奏家だが、
この時の音はコンサートで人々に聴かせるそれではなく、一個人の胡弓弾きとしてのプライベートな音のように聴こえた。
あきらかに何かを想いながら弾いているのである。

頬には涙がつたっている。

演奏が終わって、何か大きな事情があるのではないかと近辺の人にそれとなく聞いて見ると、
どうやら幼少期から離れ離れに育った彼女のお兄さんが若くしてちょうど今日の昼に亡くなられたということだった。
遠くにある病院から彼女は先ほど夜に一時戻ってきたという。
彼女にはお姉さんがいて私の展覧会にも何度か来てくれてよく知っているが、お兄さんがいたことは実は知らなかった。

他人にはわからない複雑な事情の中で離れ離れになって成長していった寅次郎とさくらのような兄と妹。

あの演奏をしながら彼女は幼い頃の兄との数少ない思い出をたぐっていたのだろうか。

プロの『胡弓演奏家』から一人の『妹』に一瞬戻ったその音色は、まぎれもなく『胡弓弾き』のそれだった。
私が長年待っていたのはあのようなプライベートな音色だったのかもしれない。




               













2009年8月30日   油彩『おわら風の盆2009』



私の場合速描きは水彩が多いのだが、近年は油彩でも行うことが多い。
っていうか、筆をそこで置くと言ったほうがいい。

で、昨日もそういう絵ができたのでアップしてみる。

『風の盆』本番がいよいよ9月1日から3日間始まる。






                          油彩 「 おわら風の盆2009 」 0号 2009

                  











2009年8月19日   今年も『風の盆』がやってきた。



明後日から『風の盆』の展覧会が自宅のアトリエの板間を開放して始まる。
自宅で展覧会を始めてからもうかれこれ16年ほどになる。
ギャラリーで展覧会をする場合は全て企画展なので、
DMは私がまずデザインして、ギャラリーに注文してもらいギャラリーのオーナーに切手を貼って出してもらうのが常だ。

しかし、この自宅展だけは自分自身が手書きでお客さんにDMを出す。これも16年間変わらないやり方。
1枚1枚おわらの水彩画を描いて出している。
もちろん全て違う踊り、違う所作だ。同じものは二度と出来ない。

で、今回はちょろっとDMの水彩画を紹介してみましょう。

DMの絵も油彩画も同じ気持ちで描くので、上手くいった時はいい絵になる。
そういう絵を貰ったお客さんはラッキーだが、それはあくまで作者の私が思うこと。
受け取ったほうはどう感じているかは知らない。
まあ、人それぞれの感じ方があるのでお客さんに任せている。

結構額に入れて飾ってくださる方も少なくない。
そういう時はやっぱり嬉しい。



           







たまには自分でも額に入れたいほど気に入ったものもできるが、涙を呑んで黙々と郵送する。


             














2009年8月6日  いつかは蓮(はちす)の花と咲く


雨がようやく止んだ。梅雨明けかな?ものすごく遅い梅雨明けだ。
生業はこの長雨のためイマイチ(TT)

しかし、どこにも眼の利く人はいるもので少なからず助けてくれる。

人の持つ賢さ、人の持つ鋭い感覚に支えられ、今日も何とか凌いでいる。
人の持つ弱さや愚かさにつけ込む商売だけはしないで生きてゆきたい。



それはそうと、
ご存知「男はつらいよ」の主題歌に「どぶに落ちても根のあるヤツはいつかは蓮の花と咲く」という名文句が
あるが、そろそろどこでも蓮の花がしている季節になった。

で、蓮を描きにいったが、描き出しの30分でいいタッチがでてきたのでピタっと筆をおいてやめてしまった。
このあとはまとめてしまうのは目に見えているのでここでやめた。

こういう絵は今は破綻だらけに見えても、数年後には加筆しなくてよかった…となるものだ。
文字通り『いつかは蓮の花と咲く』という類の絵かもしれない。もちろんいわゆるただの初日の天才かもしれない。

大学に行きながら同時に絵の学校にも通っていたころ、よくそこの先生に言われたものだ。
初日は結構いい雰囲気になるものだ。しかしそこでやめたらいつまでたっても絵のことは分からない。
とりあえず今はとことんまで描くことだ、と。

この先生の言葉は当たっているし、外れている。

ま、そう言う時期もあるのかもしれないが、絵は絵である。
いつ何時素晴らしい絵がひょいと生まれるか分からないのだ。
描き込めばいいというものでもない。
しかし、何百枚も描き込んでようやく分かってくる造形センスもある。

で、ここ数年はこういうところで筆を止めてもいいんじゃないかって思うことが多い。

絵は常に匿名で純粋に絵だからだ。
絵にいわゆる練習はないのだ。
青春期に描く人生の最初の一枚にすら一期一会の凄みはあるのだ。

一枚一枚が唯一無二の奇跡なのだからすべてあなどれない。




                                   油彩 「 雨上がりの蓮田 」 12号M  2009
         
            

















2009年8月2日  劒岳の見える丘にて


暑中 御見舞い申し上げます。


私 反省の日々を過ごしつつ、
みなさまの御繁栄とご健勝を心より祈っております。

劒岳が見える町にて


吉川孝昭  拝




男はつらいよ第38作「知床慕情」のラストで寅の暑中見舞いのハガキが紹介されるが、
その時の渥美さんの言い回しがなんともカッコいいのだ。

『しょちゅう、おんみまい申し上げます』と本来の言葉の意味をかみしめつつ渋くナレーションスルのだが、
暑中、で一度切るのがとても素敵だった。


ここ10日間は越中八尾は雨雨雨…
一日たりとも晴れない。

いつも言っているが絵描き殺すにゃ刃物は要らぬ、
雨の3日も降ればいい。。。


ああ…(TT)


昨日、夕方に食材を買いに出かけたら、風が強く厚い雲が切れた。
その一瞬立山連峰がサーッと現れ、劒岳が見事な雄姿を見せてくれた。
たまたまデジカメを持っていたので撮影。

いい形をしている。夏の青い劒もまたいいねえ。






            











2009年7月6日  ようやく暑くなって来た & 油彩『ウブド 遠望 V』


ここのところ生業の展覧会で忙しい。

それなのに一週間前に腰を痛めてしまった。
梅雨の時は一度は腰がやられる。
この季節、雨など降ってちょっと腰が冷えたら危険信号がともりがちになる。

昨年などは、完全に2日間寝っぱなしで、3日目は杖をついて家の中を歩いていた。

今回はまだ少しはましで、仕事をセーブしていたら4日ほどで元に戻ったが、
ほんとうに気をつけなくてはならない。

とはいえ、6月末ごろから晴れたら昼間はかなり気温が上がる。
私の家の二階は特に暑い。30度くらいにはなる。
日本の皆さんはいやな暑さだろうが、私はとにかく暑いのは得意。

室内気温33度くらいまではまったく平気。外の気温も体温以下なら大丈夫。
もちろん汗はかくが、シャワーを浴びれば気持ちがいい。



それでも今の季節、暑くなったり雨で冷えたり。冷えた時は一階のアトリエは板間&吹き抜けなので腰に来る。
で、今年は、雨の日や冷える日は、アトリエから階段を上がり、二階の息子の部屋で小さな絵を描いている。

息子が自作アニメを作っている横で、ちょろちょろ描いているのだ。トホホ…。

まあとにかくそんなわけで気温が高くなってくれたほうが嬉しい。
しかしそれも程度もので、それが連続2週間続くとさすがにきつくはなってくる。バテ気味にはなる。
そういう時は逆に一階の板間でずっと過ごす。
絵だけではなく、パソコンも一階に引っ越す。


映画は今年はどの大手レンタル店も1枚100円一週間貸しで競争しているので、新作以外は借り放題放題って感じ。

今滞在は「刑事コロンボ」全45話を全制覇するつもりだったので、これはラッキーだ。
新作にはみんな群がっているが、昔の旧作は無風状態でバンバン見ている。

活字のほうは、この10日間ほどは「今昔物語集」の本朝仏法の部分をいろいろ拾い読み。
博のお父さんの諏訪ひょう一郎さんじゃないが、これがなかなか面白い。
こう見えてももともと私は日本の古典は好き。


とにかく毎年日本滞在中は生業の時間以外は自分の感覚のために活字&映像を吸収する日々なのだ。

ということで、なかなか「男はつらいよ第23作『翔んでる寅次郎』」の本編完全版の作業が
できないですがお許しください。
でも、さすがに1ヶ月手をつけなかったのでそろそろ作業始めようと思っています。






                                油彩 「 ウブド 遠望V 2009 」 変形15号  2009

       















2009年6月26日  「今昔物語集」と紫陽花の花



今回はバリの話でも絵の話でもなく、
小難しい日本の古典の話をくどくどするので、退屈な方は速攻で飛ばしてください(^^;)ゞ


映画「男はつらいよ」第22作「噂の寅次郎」の中で最も好きなシーンは、と、もし聞かれた場合
私は木曽路で諏訪ひょう一郎が寅に今昔物語集のある説話を話して聞かせるあの静かなシーンだと
言うことにしている。





          





一口に「今昔物語集」と言ってもひょう一郎さんの持っていた文庫本一つくらいじゃ到底追いつかないのだ。
あれはおそらく表紙の模様から推測するに一昔前の角川文庫の今昔物語集『本朝仏法部【下】』であろう。



               角川文庫「今昔物語集『本朝仏法部 下』

          



とにかく今昔物語の世界はどこまでも広く大きい。
十二世紀の前半、平安時代の末期にあたる院政期に形成されたが、あまりにも膨大で多岐にわたっているため、
未完成で終わってしまったのだ。ただの寄せ集めでなく考えられて編纂されているゆえの未完成だったと言われている。


その後鎌倉期には、この『今昔物語集』は完全に世の中から忘れられていった。その後原本は失われたが、
鈴鹿家旧蔵の鈴鹿本と言われる写し本が発見され、それによって再認識されてはまたしだいに歴史の中で忘れられ、
江戸時代に本朝部分だけがとりあえず一部の人々に親しまれ始めたのだった。

全部で三十一巻もあり、
一から五までは天竺の話、六から十までは震旦(中国)の話、
十一から三十一までが本朝(日本)のことが書かれてある。


全部でなんと千話を越える説話が書かれているのだ!舞台も日本だけを取ってもほぼ全国に渡り、
階層も実にさまざまだ。
こうなってくると、読むにしたがって果てしない海にさまよう舟のようになってくる。

その表現も王朝文学などどは違い、筆致は力強く、質朴で、実に簡潔である。直球で感動させてくれ、
直球で笑わせてくれもする。そしてたっぷりと怖がらせてくれもする。


そしてこの第22作「噂の寅次郎」に出てきた説話は『仏法』の枠に入るもので、
巻十一から巻二十にいたる説話グループだ。
これらの『仏に仕えたり、出家する話』つまり発心、道心の話
この大きな大河の中核に位置するものでとても重要なものである。
このあとの『本朝世俗』グループと並んで人々に愛されてきた巻なのである。

特にこの話のように愛するものの死体や匂いなどを直接に体験してしまうことによって
世の中のはかなさを感じ無常を感じる話は、
今昔物語にとどまらず今鏡、発心集など、それ以降の説話集にも時々見られる。
古来より人は近いものの死によってこそ数々の事を感じ学ぶのである。



この、ひょう一郎が語った無常観溢れる話は『春宮蔵人宗正出家語』と言って、
巻十九の10番目に登場する(このグループを『出家機縁譚』と言う)物語の前半部分である。
実際の説話は当然ひょう一郎の語った内容とずれるところもある。




                  写し 鈴鹿本 巻29 第十八 第十九 一部

     







それでは具体的にこ第22作「噂の寅次郎」で、諏訪ひょう一郎によって
語られた箇所の部分(第十話の前半部分である)だけを実際の原文通りに紹介してみよう。↓


今回自分なりに、原文からあえて自分の言葉で現代語訳するに当たり参考になった資料は以下の通り。

新日本古典文学大系36 今昔物語四 (岩波書店)
新編日本古典文学全集 今昔物語集2(小学館)
東洋文庫 今昔物語集3 本朝部
新装版 日本古典文庫U 今昔物語

角川文庫 今昔物語集「本朝仏法部 下」







今昔物語集 巻十九 本朝仏法 【出家機縁譚】の第十話 (前半部分)



東宮蔵人宗正出家語 第十 (とううぐうのくろうどむねまさしゅっけすること)



今昔、【三条?】院ノ天皇ノ春宮ニテ御ハシマシケル時ニ、
蔵人ニテ【藤原?】ノ宗正ト云う者有りケリ。

年若クシテ、形チ美麗ニ、心直(ウルワシ)カリケレバ、
春宮此レヲ睦マシキ者ニ思シ食シテ、万ニ仕セ給ヒケル。

而ル間、其の人ノ妻(メ)、形チ端正シテ心アテナリケレバ、
男無限ク、相ヒ思ヒテ棲ミケル程ニ、
其ノ妻世ノ中ノ心地ヲ重く煩ヒテ
日来ヲ経ルニ、夫心ヲ尽シテ嘆キ悲ビテ、様々ニ祈請スト云へドモ、遂ニ失セニケリ。

其ノ後、夫限ク思フト云へドモ、然テ置キタルベキ事ニ非ネバ
棺ニ入テ、葬ノ日ノ未だ遠カリケレバ、十余日家ニ置キタルニ、
夫此ノ死タル妻ノ無限ク恋シク思エケレバ、
思ヒ煩ヒテ、棺ヲ開テ望(のぞき)ケルニ、
長カリシ髪ハ抜ケ落チ、枕上ニヲボトレテ有リ、
愛敬付タリシ目ハ木ノ節ノ抜跡ノ様ニテ空ニ成レリ。
身ノ色ハ黄黒ニ変ジテ恐シ気也。
鼻柱ハ倒レテ穴二ツ大ニ開タリ。
唇ハ薄紙ノ様ニ成テシジマリタレバ、
歯白ク上下食ヒ合セラレテ有ル限リ見ユ。

其ノ顔ヲ見ケルニ、
奇異ク恐シク思へテ、本ノ如ク覆イテ去ニケリ。

果ハ口鼻ニ入ル様ニテ無限ク臭カリケレバ、
ムスル様ニナム有ケル。

其レヨリ後、
此の顔ノ面影ゲノ思へテ、其ヨリ深ク道心発ニケレバ、
「多武ノ峰ノ増賀聖人コソ止事無キ聖人ニテ在スナレ」ト聞テ、
「其ノ人ノ弟子ニ成ラム」ト思ヒ得テ、現世ノ栄花ヲ棄テ、
窃ニ出デタタムト為ルニ、
女子ノ四歳ナル有リケリ。
彼ノ死タル妻ノ子也。

形チ端正也ケレバ、
無限ク悲シク思エケルニ、
母ハ死テ後ハ臥シテ不離ザリケレバ、
既ニ暁ニ多武
ノ峰ニ行ムト為ルニ、
乳母ノ許ニ抱テ臥セケルヲ、
長共ニダニ露不令知ヌ事ヲ、幼キ心地ニ心ヤ得ケム、
「父ハ我ヲ棄テハ何チ行カムト為ルゾ」ト云イテ、袖ヲ引カへテ泣ケルヲ、
トカク誘ヘテ叩キ臥ヲ、其程ニ窃ニ出ニケリ。

終道、児ノ取り懸リテ泣ツル音有様ノミ耳ニ留リ心ニ懸リテ、悲しく難堪ク思エケレドモ、
道心固ク発リハテニケレバ、
「然トテ可留キニモ非ズ」ト思念シテ多武ノ峰ニ行テ、
髪ヲ切テ法師トナリテ、増賀聖ノ弟子トシテ懇ニ行ヒテ有ケル…

以下略



ここまでの文章がこの巻十九第十話でのひょう一郎の語った言葉と重なる部分である。




資料や注釈を参考にしながら自分なりに自分の言葉で現代語に直してみた。↓



今は昔、三条院の天皇様が東宮(とうぐう)におられた時(まだ皇太子であられた時期)に、
(宮中に仕える)蔵人の職で藤原の宗正という者がいた。

年は若く容姿麗しく、心が真っ直ぐな気質であったので、
東宮さまは彼に親しみをお持ちになり、なにかにつけて仕事をお言いつけになられていた。

ところで、この男の妻は姿形が美しく、心が優しかったので、
男は限りなく愛しく思って、相思相愛で仲良く暮らしていたが、

ある日、その妻が流行り病にかかってしまい、何日も床に臥せてしまった。
夫は心から嘆き悲しんで神仏に祈祷したが、妻は遂に亡くなってしまった。

その後、夫は妻のことをいつまでも恋しく切なく思い続けたが、
そのままに置いておくわけにもいかず、亡骸を棺桶に収めたのだった。
葬式まではまだ日にちがあったので、十日あまりの間家に安置いておいたが、
この夫は亡くなった妻をどうにもこうにも恋しく思い、
思い悩んだ末に遂に棺を開けて覗いてしまった。

すると、あの長かった髪は抜け落ちて枕元に乱れ散っている。

愛らしかった瞳は木の節が抜け落ちたようにぽっかりと穴が空いている。

肌の色は黄ばみ、黒ずんで、見るも恐ろしげである。

鼻柱は倒れて穴二つが大きく開いている。

唇は薄紙のように縮んでしまっているので白々とした歯が上下合わさっているのが
残らず見えている。


その顔を見ているうちにあさましく恐ろしくなり、
元のように蓋をして立ち去った。

死臭は口や鼻に染み入るようで限りなく臭く、むせかえるようであった。

このことがあってからというもの、
いついかなる時もその顔が浮かんできて離れず、そうするうちに
ついに深く道心(出家隠遁の心)が沸き起こった。
多武の峰におわします増賀聖人こそは真に尊い聖人だと聞いたので、
「その人の弟子にしていただこう」と思いつめ、
この世での栄華を振り捨てて、
こっそり家を出て行こうとした。

そこへ四歳になる女の子が待っていた。

亡くなった妻との間にできた子である。
妻によく似て美しかったので、
どんなにか可愛がったが、
母が死んだあとはいつも一緒に寝ると言ってついぞ離れることがなかったものを
この日ばかりは多武の峰に夜明けとともに旅立つつもりで
前もって乳母に抱かせて寝かせておいた。
家に居た大人たちにも出家のことは露ほどにも悟られなかったものを、
幼心ゆえに敏感に気づいたのであろうか、
「お父様は私を捨ててどこへ行ってしまうのですか」
と、袖をひっぱって泣き出した。

それをさまざまになだめすかし、優しく叩いて寝かしつけ、
その隙に密かに家を出て行ったのだった。

道すがら取りすがって泣きじゃくった幼子の声や姿が耳につき心から離れずに
悲しく耐え難い気持ちに襲われたけれども、
道心(出家し、仏に仕える心)はゆるぎなく固まっていたので
「ここで家に踏みとどまってはならず」と決意し、多武の峰にいたり、
髪を切って法師となり、増賀聖人の弟子となって一心に修行を行っていった。





と、まあこのような話なのである。



ひょう一郎が語った筋とは大きく違う部分が2つある。


■ひょう一郎は男は妻の美しい顔をもう一度見たさに墓場に行って
 棺桶を掘り返したというようなショッキングでドラマチックなことを語っていたが、
 実際の説話では家に置いてあった棺桶の蓋を開けたのだった。


■ひょう一郎は妻はすぐ死んでしまったと語るが、
 実際の説話ではすでに四歳の女の子がいる。
 その子との今生の別れもまたこの説話のヤマである。




映画なので、簡略に、そしてドラマチックに脚色したのであろう。
もちろん妻の死体を見てショックを受け『道心』が発せられる肝心の部分は
説話も映画も同じなのでこういう脚色は許されると思う。



上にも書いたように、
この説話には後半部分もあって、かいつまんで書くと以下の通りである↓


その後東宮様がこのことをお知りになり、悲しく哀れに思われて
和歌を詠んでおつかわしになられた。
宗正入道はこの歌を見て深く感じ入って泣いてしまった。
それをそっと見ていた師匠である聖人は、
「この入道がこうして泣くからには真の道心が生じたからに違いない」と
尊敬の念を抱かれて、入道に「なぜ泣いておられるのですか」と尋ねたところ、
「宮様からお手紙をいただきまして、出家した身ではございますが
なんともお懐かしくて泣いてしまったのでございます」
と言ってまた泣いてしまった。

聖人はそれを聞いて、目を椀のように大きく見開き、

「東宮様の手紙を貰った者は仏になれるのか、あなたはそんな考えで頭を剃ったのか、
いったい誰が出家せよとすすめたと言うのか、出て行かれよ、入道。
さっさと東宮様のところへ参られよ」と強く乱暴な口調で追い出した。

入道はそっと出て、近くの坊へ行き小さくなっていた。
やがて聖人の怒りが静まった頃を見はからって、入道はもう一度師の元に戻っていった。

どうやら、この聖人はひどく怒りっぽい気質のようであった。
そしてすぐ腹をたてるかわりにすぐにおさまりもするのだった。
相手が誰でも厳格に対処し、折れることがなかった。

宗正入道はその後も道心が最後まで揺るがず、熱心に尊く修行を全うされた。
世にも稀な道心強固な人であったとみなが褒め讃え、尊んだということである。



以上である。


こうして愚直に原文を写し、下手なりに自分で現代語訳してみると、
この時代の空気がほんの少しつかめた気がしてくるし、この宗正の悲しみと
その後の一途な道心もなんだか分かるような気がしてくるから不思議だ。


常なるものを見失った私たちも、このように古典の原文に触れ、写し、訳すことによって
余計な垢を少しはそぎ落としてゆけるのである。



        






追伸: 今、私の庭の紫陽花がきれいです。写真を撮ってみました。



        












2009年6月17日  剱岳 点の記


2つのリアリティの混同


先日近所の映画館で「剣岳.点の記」を観て来た。

私が剱岳を登ったルートが出てきたり、私と連れ合いが22年前に結婚式を挙げた
立山の守り神である雄山神社の立山杉の林が何度も出てきて妙に嬉しい気分になれた。

そのような個人的な思い出を抜きにしても、なかなか見ごたえのある映画であった。
映像の迫力と技術は誰もが異論が無いはずだ。
空撮やCGをほとんど使わない剱岳の映像は臨場感を持ってこちらに迫ってくる。


物語は、登山そのものではなく、
測量を仕事としたプロフェッショナルな主人公たちの寡黙な姿を追っていた。
その平常心に心を打たれた。


俳優では宇治長次郎役の香川照之さんが凄いはまり役!
研ぎ澄まされた感覚的な表情、
徹底的に謙虚で、地味で、それでいて意志の強い目がなんとも印象的だった。
あの役者さんは間違いなく大器だ。

剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。

この二つを観に行くと思えば良い。



あえて欠点を言えばクライマックス、雪崩れとクレパスの危険性を指摘されながらも決行した一行が
長次郎谷の雪渓を登ってコルまでたどりつき、本峰に取り付いて頂上に着く過程が
あまりにも問題なく上手くいったので肩透かしをくらった感はあった。
しかし谷を登っていく一行の上からの『引き』の緊張感ある映像はなんとも美しかった。
このへんは登山好きには嬉しいところ。

言い換えると、
実際の登山では上手くいく時は、当然あのように緊張感をともなう集中力が持続すれば
事故はなにもおこらないことのほうが多いのだというドキュメンタリー的な感覚が
ついつい入り混じっていたともいえる。


この映画の欠点も実はこのあたりにあると思われる。

映画のリアリティとドキュメンタリのリアリティの混同。

200日以上スタッフが山に入り、危険と闘い、寒さと闘い、高度と闘い、苦労しつくし、
数々の映像を撮り尽くしたゆえの愛着と混同。
それゆえ、山好きの私にはその愛着は分かる気がするが、一般の観客には通用しないかもしれない。
彼らは観客として純粋にただただ「映画」と「物語」を見に来てるのだから。

そう言う意味ではこの映画に「娯楽性」を期待しないほうがいい。

それと聴きなれたクラシック音楽の多様は品格を逆に落とす危険があるので
かつての「砂の器」の時のようなオリジナル曲を作って欲しかった。


しかしそれでも私は言いたい。

剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。

これだけでお金を払う価値はある。




             














2009年6月6日  初夏の海を描きたい


5月27日に帰国した。
おそらく9月末まで滞在すると思う。

蔵の雨漏りが無いか今回もチェック。
以前は雨漏りがあって絵が数枚やられて痛んでしまっていたので、昨年屋根を修理したのだ。
で、今年はさすがにOKだった。ほっとした。
それで作業中今回も懐かしい絵を取り出して見ていた。


学生時代、この新緑から初夏の季節には必ず海に絵を描きに行った。
当時は海を描くのが大好きだったのだ。
この日記でも学生時代の海の絵を何枚か紹介したことがある。

バリに移住してからは山に住んだので、山や田んぼを描くことが多くなり、
すっかり海とはご無沙汰になった。
私はバリのような常夏の海よりも、温暖湿潤気候の新緑の頃の海の光が一番好きだ。
今回、昔(私が21歳の頃)描いた5月の下田の海を紹介します。

まだ21歳くらいの時なので、技術的には稚拙だが、やはり岩場にイーゼルを立てて
塩水や突風と格闘しながら描いたその臨場感は出ていると思う。
強い日差しの中、たった一人でキャンバスに立ち向かったことはなかなか貴重な体験になった。




                     油彩 「初夏の下田」  F25号 1981年ごろ(私が21歳のころ)

            











2009年5月24日  靴の中で居眠りする子猫たち


派遣社員の問題だといえばマスコミがワーワーと、一律に何週間も騒ぎたて、
新型インフルエンザだといえば1ヶ月毎日トップニュースで大変だ大変だと取り上げる。
その結果、追加でやっと作った1億枚のマスクが凄い勢いであっという間に売り切れる。

今回の22日付けニューヨークタイムスのアジア太平洋ネット記事が書いているように
日本人は『集団的な魔法にかかりやすい』のかもしれない。

記事では「他国と同様に感染者の症状は軽度で死者もいないが、日本の対応は危機状態のよう」と述べ、
学校閉鎖や日用品の買いだめ、マスクの売り切れ、
感染を心配して一切の外出を控える母子の様子を取り上げている。

I think everybody is too paranoid

すべての人々がパラノイア(偏執狂)的だ。と言って締めくくっている。



さすがに『too paranoid』は明らかに言いすぎだが、
確かになにがいったいおこったんだろうと思ってしまう騒ぎだ。
その背景にはメディアがこぞって報道競争をせざるを得ない末期的な商業主義があるだろうし、
行政のお役人的保身の考え方があるだろう。


こういうふうに書くと、必ず、『万が一、ウイルスが強毒化したら責任が取れるのか』と言われる人がいるが、
それはいかにも一見まともな考えに見えるが、冷静に考えると、そもそも古今東西どのような地域でも、
どのような状態でもそのいかなる局面にも全ての問題で『万が一』は必ず存在するはずだ。
実は今回の問題よりも、よくよく考えるともっと生命が危うい問題も少なからずある。

全ての行動を『万が一』キーワードで動いてしまうと、全てが疑心暗鬼になり、
その『神経症』は永遠に繰り返されていき、ついに社会は機能不能に陥る。

今回の出来事はその恰好の見本だろう。

もちろん、医学的な分野なので油断大敵は百も承知だし、WHOによると、この新型は『肺炎』が特徴なので
そのへんは忘れてはいけない。
そしてマスクに関しては他人のことを考えて人ごみだけではするべきだと私も思う。

しかし、

それでも、やはり感覚を柔らかにしていることだ。ワーワー騒がないほうがいい。
万が一万が一と心で唱えながら極端なことを考えるという愚行は避けなければならない。

何事もバランスだ。
冷静になり、ある程度は通常通り行動することが最も大事だ。


と、いうことで私の意見もパラノイアにならぬようこのへんにしておこう((^^)




生まれて1ヶ月のトルテ(左)とモカ(右)↓
偶然連れ合いの靴の中で寝ていた。

あ、やらせではありません(^^;)



           






このあと数日後に日本に帰国します。
次回のアップは6月初旬です。












2009年5月16日  油彩 『青年の日々W』


毎晩、清志郎を聴いているが、それと同時に色々動いている。

絵もしぶとく描き続けている。

帰国が近いので、遠出せずにパッと短く描けるモチーフを選びがち。
つまり自分の家族だ。
息子をクロッキーがわりに油彩で30分描く。

ニュアンスが上手く行ったような気がしたので一見破綻だらけだが筆をおく。


今回も日本に持っていく絵を選び、明日あたりから、木枠からキャンバスをはずす。
だいたい30枚くらいか。
半分以上がプライベートな絵なので、そういう絵は売れる売れないではない。
下に貼り付けた絵もそんな一枚。


今はまだ、人の経歴や権威つきの中に絵があるが、
150年後には今生きている人間は間違いなく全員死んでいる。

そして、文化勲章の絵描きも無名の絵描きも関係なく絵だけが独立して残る。
良い絵は残る。どうでもいい絵は消えていく。

描いた人の人生は忘れられても強い絵は残る。

基本的に絵を描いている時だけが至福なので、残ろうが、残らなかろうがおかまいなしだが、
何かの規範に合わせることなく、完全に一個人として納得できる絵を描きたい。
ただただそう思って今日まで描いてきている。

この絵がそういう絵かはわからない、数ヵ月後にもう一度見て感じようと思う。



                              油彩 「 青年の日 W 」 F8号 

              











2009年5月7日   窓に君の影が揺れるのが見えたから…




窓に君の影が揺れるのが見えたから

僕は口笛にいつもの歌を吹く

きれいな月だよ

出ておいでよ

今夜も二人で歩かないか




窓を開けて君のためらうような声が

僕の名前呼んで何か囁いてる

きれいな月だよ



今夜も二人で歩かないか


今夜も二人で歩かないか





      
 夜の散歩をしないかね

      





毎日 清志郎の歌をずっと聴いている。

止まるときついのでこうして日記を書いて動いてもいる。


今日もう一日お付き合いください、次からはいつものバリ日記に戻ると思うから…。



「夜の散歩をしないかね」

「スローバラード」


この二つは連れ合いと知り合った頃、テープが擦り切れるまで聴いた歌。

擦り切れてまたダビングして、擦り切れてまたダビングして…。


思い出という枠をはるかに超えて今も光り輝いている。




      
スローバラード

      














2009年5月3日   内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ




woo 授業をさぼって yeah 

日のあたる場所に いたんだよ

寝ころんでたのさ 屋上で 

タバコのけむり とてもあおくて

内ポケットにいつも oh トランジスタラジオ



彼女教科書ひろげてる時

ホットなナンバー 空に溶けてった



Ah こんな気持ち Ah

うまく言えたことがない NAI AI AI



ベイエリアからリバプールから

このアンテナがキャッチしたナンバー



彼女教科書ひろげてる時

ホットなメッセージ 空に溶けってた




授業中 あくびしてたら 

口がでっかくなっちまった


いねむりばかりしてたら 

もう目がちいさくなっちまった No no


内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ



彼女教科書ひろげてる時 

ホットなナンバー 空に溶けてった



Ah こんな気持ち Ah 

うまく言えたことがない NAI AI AI




Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー メロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・





     








清志郎さんの歌は私の青春そのものだった。

あまりにも強く影響を受けすぎてきた。




私はこの30年間ぶれずに言い続けてきた。

『日本を代表するシンガーは後にも先にもたった二人、

美空ひばりと忌野清志郎だ』 って。


きつい…、悲しい…、

久しぶりに、何年かぶりに、ちょっときついです。
しかし乗り切らないと明日は無い。

そう思ってわざと、あえて、これを書いている。




清志郎、私はあなたを忘れない。

万感の想いをこめて  

ありがとう。





      ヒッピーに捧ぐ

      


















2009年4月14日  親を選べない子供たち



昨日、母親ネコのキウイが12月に次いでまたもや赤ちゃんを産んだ。
今度も2匹だった。母子ともに健康。一匹目を産んでからなんと8時間後に
2匹目を産むというとても珍しい産み方をしていた。

深夜12時ごろ、一匹目を産んだあと、数時間経って、これ以上産む気配が無かったので、
私たちも寝てしまった。それで午前中見てみると、なんと2匹目を産もうとしているではないか、

ということで、またもや子猫が増えてしまった。

今度は2匹とも父親のシンディ似の黒トラだ。
ちなみに前回は母親のキウイ似のキジトラだった。

バリの人々ならこういう時は、さっさと田んぼに子猫を捨てに行ったりもするのだが、
私にはとうていそんなことはできない。
また、日本のように次から次へ避妊手術という手がある。
一時期私もネコたちにそうしていた。
これはとても理にかなっているが…しかしどうもこれもあやしい…。
そんなに正しいのだろうか…、と、前々からひそかに思いはじめている。

それで、しょうがないからここ十年は生まれたら飼うのである。

結構可愛いと言って、欲しがる人もいるからその時はオシモのしつけが終わったらあげる。
もらい手が無い限りは飼い続けるつもりだ。




                     
   生まれてすぐの子猫たち、まだ目は開いていない。

             





どうも生まれたばかりの子猫の赤ちゃんを見ていると車寅次郎が産みの母親に捨てられた
いきさつを思いだしてしまう。

赤ん坊は親を選べないのだから、私の考えとしては、なるべく成人になるまでは母親と一緒に
育って欲しいのである。




ところで、ここからが「男はつらいよ」ネタである。



寅はもちろん生まれてすぐに捨てられたという悲しい身の上を持っているが、
このシリーズに出てくるマドンナも寅並に親に恵まれていない幼少期思春期を持つ人が少なからずいる。
山田監督はマドンナにも過酷な運命を与えるのである。



ちょっと思い出してみると…



たとえば、第4作「新男はつらいよ」の春子さんは、父親の顔を知らずに育ち、
ついに最後まで父親に会おうとはしなかった。そうとうの悲しみを背負っている春子さんだった。
そして娘に会えないまま父親は死んでしまうのである。



             





第9作「柴又慕情」の歌子ちゃんも、母親が父親から逃げ出し行方不明になってしまうのである。
歌子ちゃんは思春期から残された父親と二人暮しで生きてきたのだ。




第11作「忘れな草」のリリーも、中学校のころから母親が男を作って出て行ってしまったので
印刷工の父親との二人暮しをせねばならなかった。その淋しさに耐え切れなくなってリリーは、
寅のように中学生から家出をしてしまうのである。



            




第17作「夕焼け小焼け」の芸者ぼたんも、思春期に両親ともいっぺんに亡くなってしまって、
幼い弟と妹を芸者をしながら育てて行ったのだ。




第26作の「かもめ歌」のすみれちゃんも、父親はヤクザもので博打好きの酒飲み、
母親は家を出て逃げてしまうという最悪の中で思春期を過ごさなければならなかったのだ。




第27作「浪花の恋の〜」のふみさんも、親に恵まれず、
小さな姉弟が離れ離れに暮らさざるを得なかったのだ。




第28作「紙風船」の光枝さんは両親の顔をほとんど覚えていない悲しい境遇にさらされ、
親戚をたらいまわしにされたあまりにも厳しい過去を持っている人だ。
この人と寅との相性は抜群だった。



           



第29作「あじさいの恋」のかがりさんも、本当の親とは小さい時に別れ、伊根にもらわれてきたのだ。
小さな頃からあきらめることを見につけてしまった悲しい人だ。




第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」の風子も母親が家を出て逃げてしまい、若くして亡くなってしまう。
自分も結局は母親と同じようなフーテン暮らしをしてしまうのである。




第35作「恋愛塾」の若菜さんも、母親が東京から来た男にだまされ若菜さんを産んだ。
そのあげく村の噂に耐え切れなくて海に身投げしてしまうのだ。
カトリックにとって自殺は許されない行為だったのだから悲しみは計り知れない。
このように、若菜さんはこのシリーズのマドンナの中でも最も深い悲しみを背負っている。



           




等々とあ〜キリが無いくらい多いのだ。
山田監督もよくもまあこれでもかと言う感じで悲しみをたくさん考えられるものだ((^^;)




このように、寅に惹かれる女性たちのその多くは、寅同様、幼少期や思春期から
人生の悲しみや苦しみをいやというほど味わってきた苦労人なのだ。

だからこそ、ある意味、見た目がたいして良くない寅の、
その瞳の奥を見抜くことができるのだろう。












2009年3月26日  バリの新年 究極の静寂『ニュピ』 



今日はバリが一年で最も清められる日『ニュピ』である。
簡単に言えばバリの暦(サカ暦)における新年である。


バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』。毎年微妙にずれていく。今年は、今日3月26日が新年である。

いつもの年なら、前日の大晦日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を深夜まで鳴らす。

しかし、今年2009年は4月にインドネシアの総選挙が行われるため、政党間の争いが絶えない。
で、バリ州政府もついに今年の大晦日のオゴオゴ儀式を取りやめさせたのだった。

それゆえ昨夜はいつにもなく大きな爆竹の音が村中のいたるところで1分に一度くらい響き渡っていた。
巨大な竹筒に火薬を詰めて思いっきり大きな音を出して悪魔を追い払うのである。
オゴオゴが出せないので若者たちは爆竹の音をさらに巨大化させて気を紛らわせていたのだろう。

そしてそのような爆音狂乱が終わり…明け方、
空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。

この24時間は、バリの全ての場所で、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、
灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、音楽を聴いたりもできない。
もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。

島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。
これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。
救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。



私の敷地の渓谷にはチャンプァン川が流れている。
今、その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが敷地に聞こえてくる。
車の音はもちろん、人の声も聞えない。どの家の敷地からも『音』は感じられない。
もちろんどの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。
夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。

昨夜の大晦日は満天の星。そして『ニュピ』の今日は快晴。


もっとも私の隠遁生活であるこの敷地はジャングルの奥、渓谷のてっぺんにあるので、毎日が『ニュピ』である。

毎日『静寂』の中で暮らしているというわけだ。




                    ニュピの日。 いつもと全く同じ趣の敷地から見たチャンプァン渓谷

              







                      この敷地の猫たちにとってはいつだってニュピ

                  





                      村の道に出てみるともちろん車も人も通っていない。

                  















2009年3月16日  新作油彩 『バンコク 早朝 』 


今回のバンコク行きでは、珍しく油彩道具を持って行った。
まあ、いろいろ忙しくてあまり描く時間はなかったのだが、
宿のベランダから見た早朝のバンコクを何枚か走り描きした。

ゆったりと流れる曇天のチャオプライヤー川(メナム川)の先にうっすらと太陽の赤がにじむ。
しかし、雲が厚く、太陽は出ずじまい。
それがいかにもグレー色の街バンコクらしくて気に入ったので15分ほどで描いた絵が下の油彩画だ。
バンコクは東京よりも複雑で奥が深い。何年通っても掴みきれないカオスの街だ。
私はこの街が好きなのだ。




                            油彩 「 バンコク 早朝 」 F4号 2009年3月

              











2009年3月2日  『長良川 鵜飼 2009』 手描きろうけつ染め完成


明後日3月4日から10日間、タイのバンコクへ仕事がらみ&ビザ取得の用事で行く。
しばらくは更新ができないが、ご了承ください。

今夜、出発準備であわただしい私の家に夜遅く、染色担当の職人さんが
新しい手描きろうけつ染め(手描きバティック)を持ってきた。
彼の名前はヘンドロ。私と同い年だ。

ちょうど1年前のバリ日記にも登場してもらったので、覚えている人もいるかもしれない。

彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。

で、本日、

岐阜市内での展覧会用のモチーフ『長良川 鵜飼 2009』のタペストリが完成したのだ。

もう岐阜での絵と染色工芸の展覧会は14年以上行われている。
今年のメインは新しいタペストリ3種類だ。

普段は宮嶋が企画し、様式の設定、構成、デザインを担当している。私は下絵作り。

今回の鵜飼タペストリは私のデザインと下絵。
そして最後にインドネシアの染色によるしぼりとろうけつで色が何度か入って完成。

6種類ともなかなかのでき。その中でも特に気に入ったデザインを紹介します。

何度も試行錯誤して完成したので愛着のある作品たちだ。


今回のモチーフ『鵜飼』は当然夜の風景、しかし雲の流れをどうしても描きたかったので、
夜なんだけれども、雲がくっきり見える幻想的な空間にしてみた。
上は果てしなく濃紺の空が広がり、下は果てしなく濃紺の水が漂う広がりのある構成。
とはいうものの、普通はなかなかてごわくそうそうは上手く行かない。
しかし、今回はやっと上手く行った。上手く行った日くらいは写真を撮って喜びたいので久しぶりに完成記念写真。

この未曾有の大不景気、絵も染織も作ったって例年のように売れるかどうかまったく分からなくなってしまったが、
まあなんとかなるとひたすらいろいろ作ってみる日々なのだ。
どうせもともと地獄にいるようなものだから、ダメならダメで居直ってやろうとまな板の鯉を実践している。





             思いのほか上手くイメージどおりにいったので、機嫌よくヘンドロ(右)と完成を喜ぶ私

             






          手紡ぎ糸使用、全手描きろうけつ草木染 『長良川 鵜飼 2009』 (部分) 全体180p×45p

                   





それではバンコクへ10日間行って参ります。








2009年2月24日  人ひとヒト物語  百点満点つけっかな



先日、私の最大の支援者であり、私の絵を20枚近くも持っていらっしゃる大コレクターでもあられるY.I さんから
読売新聞社会欄の「人ひとヒト物語」の記事がメールに添付して送られてきた。

それはY.I さんとお母様との絆の話を取材した記事であった。

Y.Iさんはエッセイも書かれるが、今回の記事は以前書かれた彼の文章を基にした取材だったようだ。
私もそのエッセイは読ませていただいているし、私のアトリエでもお母様のことは何度かお聞きしていた。
昨年9月にアトリエに来られた時、そのことで取材があるかもしれないと話されていたので、
もし記事になったらぜひ読ませていただきたいとY.Iさんにお願いしてあったのだ。


Y.Iさんは、今はつくば市の大きな総合病院の外科部長さんだが、彼の人生は決っして順風満帆ではない。

彼はお金持ちのお坊ちゃまでもなければ、お医者さんの二代目でもない。ごく普通の家に育ったのだ。
高校卒業後、不運にもお父様が病気で亡くなられてしまった。

お母様はそれでも、気丈夫に黙々と和裁や田や畑仕事をされ、たった一人で、
医者を志すY.Iさんや妹さんたちの面倒を見られたのだ。特に受験勉強をするY.Iさんのために毎日夜食を作り、
Y.Iさんの5年間にも及ぶ浪人生活を寡黙にただただ信じて支えられたのだった。

そして浪人生活が許される本当に最後の年にY.Iさんは、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)に合格された。

それゆえ、医師国家試験に合格されたのはちょうど30歳になった誕生日だったと聞いたことがある。
お母様に電話でまず連絡されて、そのあと友人たちと過ごして夜に家に帰ると、

お母様はちょっとまじめな顔をして、

「よかったな、これ、母ちゃんの宝物、おめえにやっとくから。」と古びた封筒を渡されたそうだ。

中を開けて見ると、

遠い昔、小学校低学年の幼い彼が母の日に作文用紙に書いた作文が入っていた。



おかあさんへ


毎日おべんとを作ってくれたり、ふとんをしいてくれてどうもありがとう。
ぼくはこれからまい日ふろのそうじやひよこのせわをやります。
ひよこのせわは、ぼくとみずえでやります。
学校におくれそうな時はお母さんにやってもらいます。

それと、寝る前に肩たたきをしてやります。
それと、ぼくが大きくなっていしゃになったら、おかあさんのびょうきをみてやります。

これから田やはたけでいそがしくなる時があると思いますから、
ぼくにもてつだいができれば、てつだってあげます。


                                  幸夫より




封筒にはお母様の名前と『寳物(たからもの)』という文字が書かれてあった。

お母様はなんと二十年近くもその手紙を持ち続け、毎日祈り続け、
さらにそこから五年もの間、お守りとして彼が医師になるその日まで胸に抱き続けたのだ。

その夜、Y.Iさんはしばらく布団の中で寝付けず、気がつくと布団の中で嗚咽していたそうだ。
合格の喜びよりも『親を想う心に勝る親心』に深く感動してしまったとおっしゃる。

小学校しか出ていなくて、四十八歳で夫を亡くし、大学入試や医学部受験のなんたるかを
ほとんど知らず、ひたすら息子を信じ続けたお母様の心情を思うと今でも胸が張り裂けそうになると言われる。

今、その手紙はY.Iさんの宝物になっているそうだ。


その後、病院で勤めるようになってからは、今度は年々仕事が増え、近年はあまりもの激務に
ストレスで心がくたびれてしまうことも多くなっていく。
そんな日々が続くと、しばしばY.Iさんはご自分の道歩んできた道がこれでよかったのか
考え込まれることが増えてきたそうだ。


そんな時、膝を長く病気されていたお母様が、今回ついに人工関節に代えることになり、
その大事な手術をY.Iさんがされることになったのだ。
こうしてはからずも長年果たせなかった大事な約束を果たす時が今まさに彼に訪れたのだった。

そして無事手術は終わり、お母様はリハビリをされながらY.Iさんにこう言われたそうだ。

「百点満点つけっかな」




実は、私事だが、
私の母親も数年前に、Y.Iさんのお母様同様、膝の大きな手術をし、人工の関節を入れている。
それゆえ、今回の記事は、私には他人事とは思えない出来事に思えた。

Y.Iさんは、今回見事百点満点の親孝行をされたが、私の方はほとんどなにも孝行らしいことはしないまま、
体の弱い母親は今年なんとか入退院を繰り返しながら七十二歳を迎えた。
このようなフーテン暮らしの業を背負った一人息子を持った病弱の母親のことを思うと不憫でならなくなる時がある。
まこと申し訳ないと思っている。しかしこればかりはどうしょうもない…。

車寅次郎じゃないが『そこが渡世人のつれえところよ』なのである。




           
少年だったY.Iさんのお母様への手紙の一部

            






■ 読売新聞「人ひとヒト物語」の記事














2009年2月15日 マンゴケーキと『男はつらいよ』


昨日はバレンタインデーだった。
バリ島では、バレンタインデーの日は、結構男の子が女の子に渡すのだ。
スーパーでもバレンタインデーのためのコーナーがあるが、
たいてい若い男たちがたむろしている(^^;)


一方、私の家は、バレンタインデーと言えば、近年は『ケーキ』を作る日であり、
食べる日なのだ。

本来の目的と相当かけ離れているのだが、一向に誰も気にしない。

ここ数年はケーキを作るのはもっぱら息子が担当している。
スポンジの焼き方が連れ合いよりも上手になってしまったので、
彼が一人で奮闘してくれるのだ。

で、今回はトッピングはなんとマンゴ。これはちょっと珍しい。
つまり
マンゴケーキだ。
今までは圧倒的にイチゴが多かったのだが、今日はそういう気分なのだろう。

できばえはすばらしいものだった。
で、前回10月の誕生日同様、たいへん美味しくいただきました。





         


       



ところで、『男はつらいよ』にもケーキは出てくる。


と、無理やりこじつける(^^;)




印象深いところではやはり
第13作「恋やつれ」での歌子ちゃんが青山で買ってきたケーキを思い出す。
あの時寅は『せんぶりコーヒー』を作ってみんなの顰蹙をかっていた。



          



それ以外でも第15作「相合い傘」でのリリーのケーキ、
これは寅のアリアの時だったので、ちょっぴりせつなかった。



             



第16作「葛飾立志編」での礼子さんの家庭教師の際のロールケーキ。
寅、いったん口に入れて出していた。


第20作「頑張れ!」での映画を観て来たさくらたちのお土産ケーキ。
満男は夕食前なのにもらっていた…ずるい(−−)



             





第28作「紙風船」での、諏訪家のご近所さんのまぐろのお返し手作りケーキ。
このシリーズ唯一の手作りケーキ。



             


それ以外では

第36作「柴又より愛をこめて」でのあけみが諏訪家にお礼で持ってきたケーキ。


第38作「知床慕情」でりん子ちゃんの親父がカステラを
手で引きちぎって寅に出していた。きちゃない…((^^;)


とまあ、結構あるもんだ。






そういえば小津監督の『麦秋』(1951年)での紀子さんが銀座で買ったショートケーキはあまりにも有名。
1回目は紀子さんのおごりで少し小さめ、2回目は義理のお姉さんの注文でちょっと大きめ。



         
現代に換算すると1万円以上もするケーキ

         



これは銀座の高級ケーキ、当時の値段で九百円。
これは恐ろしく高かい。なんせ月収が一万五千円の時代なのだ。
今なら一万数千円のケーキという感じだ。

めったに口に入らないのでみんな目の色変えて本気で身構えていたのが笑える。

うまいうまいと真剣に食べる。



           





子供が来たら黙ってテーブルの下に隠す。とりあえず知らん顔(^^;)


              
           




なんともユニークな微笑ましいシーンだった。

もちろんこのシーンには、山田監督も影響を受け、後に『男はつらいよ』第15作『相合い傘』での
あの衝撃のメロン騒動に繋がっていくのだ。↓            



             












ラテ



2009年2月12日 仲間に入った捨て猫の『ラテ』


2週間ほど前に、連れ合いが敷地の向こうの森で猫がずっと鳴いていると言って様子を見に行った。
案の定、茶色と白の小さな二毛猫を抱っこして戻ってきた。どうやら、また子猫が誰かに捨てられたらしい。

バリの人は猫をねずみ対策で飼っているが、増えすぎると部屋が汚れるし、餌もかかるので、
結構たんぼや森に捨てるのだ。まあある程度乳離れした頃を見計らって捨てているので、たいていの
捨て猫は死なないでそのまま野良になるのだが、それでも雨期に捨てられると結構猫も生命が危ない。

こうして私たち3人は捨てられて困っている猫をこの十数年でもう25匹以上飼ってきた。
さっそくお湯と薬用石鹸で蚤取りをしてやった。
つい最近まで人に飼われていたのがすぐわかる。人にいきなりなつくからである。
オシモもちゃんと猫砂の中でやってくれるのでしつけは要らない感じだった。これは楽である。

12月に私たちが飼っている猫のキウイに子供が二匹生まれて、ようやく近頃大きくなってきた矢先に、
それよりちょっと月齢が小さな新参者がやってきたのだ。

こういう場合、子供猫どうしは2日くらいで慣れて、一緒に寝たりしだすが、母親猫のキウイは、
さすがに5日間は警戒を怠らなかった。ニ毛猫がキウイにじゃれるとゥゥゥゥと唸りだすのだ。

まあしかし、新参者とは言え所詮子猫なので、キウイも6日目あたりからは、心を許し、一緒に寝てくれるように
なった。ただ、オスなので結構気性はヤンチャで、キウイの子供の「マロン」や「ココア」とゴロゴロからまって
追いかけっこをいつもしている。

でも、眠くなったりお腹がすいたら、「マロン」や「ココア」と一緒に「キウイ」のおっぱいを飲もうとする。
「キウイ」も気づくと、ちょっと「???」が出ている感じだが、そんなに嫌がってもいない。

新しく来た子猫は毛色が「ミルクたっぷりのカフェ.ラテ色」なので「ラテ

このように、あっと言う間にキウイの子供のようになってしまった世渡り上手な猫なのである。





                母親のキウイ。おっぱいを吸う子供の「ココア」と「マロン」そして新しくやって来た「ラテ」
               













2009年1月13日 レゴンの衣装を着るアノムの肖像



先日夜中に降った超スーパー集中豪雨でデンパサールの町はたいへんな状態になっている。
このウブド村も大変だ。あちこちでがけ崩れが起こっている。
渓谷のてっぺんにある私の敷地の一部も例外ではなく、
爆音とともに一部が谷底に崩れ落ちた!マジで危なかった。

敷地には大きな木が結構あるのでそれ以上の被害をかろうじて免れたといえる。
近くの渓谷の石切り場はがけ崩れが4箇所も5箇所もおこった。本当に怖かった。
バリ滞在19年のベスト3に入るであろう怖さだった。

日本では考えられないすさまじい雨量だった。
雨が集中した深夜4時間近くだけでも500ミリ以上は確実に降った感じだ。

雨が上がった翌日、さっそく、近所の人に手伝ってもらって、崩れた部分に根っこがつきやすい
木をたくさん植えた。熱帯なので根付くまでに早い。早く根が生えて欲しい…。


とは言え、それとは関係なく絵を描くことはマイペースで続ける。

毎年のようにお願いしている近くの娘さんにレゴンの衣装を着てもらって、一気に描ききる。
ここ一ヶ月はとにかく雨雨雨なので、人物画を一時間ほどで描くことが多くなった。

絵は全体に上手くまとまっても、肝心の動きが出ないとダメ。

今日は一枚だけ、ほんのちょっと上手く行った。↓





                      油彩 「レゴンの衣装を着るアノム」 F6号 2009年1月


                














2009年1月5日 痛んでしまった『プトゥの肖像』


昨日荷物部屋の雨漏りをチェックしていたら、今まで知らなかった場所で微妙な雨漏りが見つかった。
ずいぶん長く雨がチョビリチョビリ漏れていたらしく、気づくのが何年も遅れてしまった。

私は普段は自分の絵は全て湿度の少ないアトリエの二階に上げているし、
展覧会などの機会があるたびに日本に持ち帰ってもいるのだが、
大きいサイズの未完成の絵や描き損じだと思った絵は
ついつい面倒くさくてカビ臭い荷物部屋に置きっぱなしにしているのだ。

で、今回運の悪いことに、途中で描くのをやめてしまった50号Pの絵に雨がかかっていた。
大慌てで移動したが、水滴がたまる絵の下部十分の一ほどはいつも湿っていたせいで
キャンバスがかなり傷んで、もう絶対張りなおせないほど弱ってしまっていた。

以前にもこのような不注意で描きかけで放置した絵を数枚再起不能なまでに痛ませてしまったことがある。
そして今回、またやってしまったのだ…。まったくトホホな人間だ。

熱帯雨林では布であろうが紙であろうが鉄であろうがどんなものでも湿度によって痛んでいく。
いつもは気をつけているのだが、この絵はちょっと気に入らないところがあって途中で描くのをやめて
ほっぽらかしにしていたのだ。

もう13年くらい前の絵なので、雨漏りの水滴も何年もかかり続けたのかもしれない。
ほんとうに可哀想なことをした。

その絵が下↓に貼り付けた50号Pの『プトゥの肖像
(傷んだ部分はお見せするに忍びないので考慮して実物を数センチずつ全体にトリミングした。)

これは、よく家に遊びに来ていた息子と同い年の近所の小学一年生の女の子をモデルに描いたものだ。
この娘さんも今では19歳だ。

描いているうちに絵に勢いが無くなり、絵が硬くなってきたので全部壊して描き直そうと思いながら
新たに他の絵を描いているうちに、上にも書いたようにこの絵を描き直すのをやめてしまったのだ。
しかし今、こうして痛んで再起不能になってしまうと、いい部分も新たに見えてくるから不思議だ。

バックに当たりをつけただけで変なところでやめてしまったので人物とバックの絡みが不完全だし、
肝心の人物も一度硬くなったところでやめているのでちょっと動きが固まって絵として面白くないのだが、
当時の気持ちがひしひし伝わって来ることだけは確かなのだ。

50号ゆえにロールにして日本に持ち帰るとしても、絵の下の部分の痛みが激しいので
二度と人の目に触れさせることはできないだろう。
ああ…本当にバカなことをした。たとえどのような状況でも、
もう二度とこんなバカな保存の仕方はするまいと今回硬く決意した次第だ。


それで、せめてこの日記に添付して、みなさんの目に触れさせたくなったわけである。





                        油彩 「プトゥの肖像」 未完 P50号 1996年ごろ

                  














2009年1月1日  新年のごあいさつ




新年 明けましておめでとうございます。




            

            イラスト RYOTARO



皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が例年に無く
ものすご〜〜く遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
遥か遠い南の島より皆様の幸せをお祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノートなど、
相変わらず成長することなく、
ダラダラと愚かで無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


渓谷から
の鳴き声が聞こえるバリ島ウブドにて

2009年 正月

吉川孝昭




今年も

「人は幸せになるために生まれてきたのではない、
 自らの運命を成就するために生まれてきたのだ」

というロマンローランのこの言葉を胸に抱いて暗闇の中を
歩んで生きたいと思います。




         
    私は寝ていたが、息子は早起きして元旦の暁の光を撮っていた。

             













2008年12月24日 渓谷の中のクリスマスケーキ



私は実は、クリスマスも正月もあまり好きではない。
巷がにぎやかしいのはなんだか落ち着かないのだ。
バリ中が最も静かになる『ニュピ』の日が最も好きだ。
バリに住むようになってから19年経ったが、ずっとクリスマスも正月も静かにすごせてとてもうれしい。
もう頭も体も完全隠遁モードになってから十年近く経つ。


たいして売れもしない絵を描き、巷とは違う生活をしている私や連れ合いにつき合わせて
息子にはちょっと可哀想かなとはずっと思っているが、
小さいころからバリの田舎のリズムで生きている彼は実はそんなに気にしていないような気がする。
バリの青少年たちは日本と比べてクリスマスや正月にはさほど関心がない。

それでも、こんな寂しいクリスマスを送る私たちを哀れに思ってか息子は毎年のようにクリスマスケーキを
手作りで作ってくれる。だんだん上手になってきて、近年は連れ合いが手伝わなくても
一人で立派にスポンジから生クリームまでプロ並みに仕上げる。
今年は誕生日にも作ってくれたが、どちらもほぼ完璧な出来である。

で、今回は渓谷をバックにケーキを撮ってみた。






              










キウイ




2008年11月27日 キウイに赤ちゃんが生まれました。


もう完全に雨季に入った。
それと同時に先日ウチの猫のキウイが2匹の赤ちゃんを産んだ。
産む一時間前からうろうろし始めたので、これは来るな、と思い、心の準備をする。
産む30分くらいになると、私の足元に寄ってきてしきりに私を見ながら鳴き始める。

私はキウイをだっこしてあらかじめ作っておいたダンボールのお産場に連れて行った。

キウイの目が見る見る潤んで、様子が明らかに変わってきた。

その後、30分で一匹目がすんなり生まれる、と思いきや、逆子!だったので
息子が手助けをしてやる。柄は『黒トラ』父親も母親も黒トラだったのでやはり同じ柄。

その後一時間ほど経って2匹目が生まれた。今度は頭から出て来た。
柄は同じく『黒トラ』親子4匹全部黒トラ。

今回は2匹だけ。
母子ともに健康。

キウイは初産だが、別段おどおどしている様子はなかった。
数日経っても場所を引っ越そうとしなかった。
このキウイは小さなころから精神が安定している猫。
そして思慮深く頭のいい猫である。

離乳食が始まるとまたちょっと大変だがまあ、私たちは慣れたものだ。
かれこれ20匹以上の子猫を育ててきた経験はだてじゃない。

連れ合いが今、子猫たちの名前を考えている。


どこもかも不景気になったので、今年の下半期も日本だけでなくウブドでも絵はさほど売れない。
近年はもう慣れっこで、せっせと副業のオリジナル染織品(風の盆)のデザイン、レイアウト
を今年も進めている。こちらのほうはそれなりに人気がある。

ポストカードと画集はまあまあの売れ行きなので少しは日銭にはなる。
このさらなる不景気にこれはありがたい。





             子供たちは父親に似て柄の色がはっきりしている。キウイはこのように淡い色。

          










2008年11月13日 マウスを占領したカミキリムシ君


前よりも一層雨の割合が増えてきた。
毎日2時間くらいは必ず雨が降る。それもかなり強い雨だ。
こうなってくると雨季はもう目の前。

この時期から私の描く絵も風景よりも人物が多くなってきたりする。
まあ人物と言ってもモチーフはお馴染みの人たち。身内かいつもの近所の人だが。


夜になると最近は結構蛍が飛ぶ。居間にも入ってくるのだ。
パソコンなどに止まったりする。
しょうがないのでそっと包んで茂みに返すのだが、また次の違った蛍が飛んでは家具や壁に止まる。
まあ時々は部屋を暗くして眺めたりもしている。日本じゃなかなかこんなこと無い風景だ。

蛍だけではない。
私の家はジャングルの中にあるのでカブトムシは毎日のように入ってくるし、どでかいカミキリムシなども
バンバン明かりめがけて入ってくる。

今年の2月の改築時に、部屋の前の部分を全部ガラス張りにしてからは、
余計に明かりが外に漏れるので大きな昆虫が入ってくる。(改築の写真は2月の日記参照)
これを書いている時にもカミキリムシが飛んできた。こいつは大きな羽音をたてて実によくやって来る。
長さが10センチはある。触覚は20センチはある。結構近くで見ると恐い(^^;)


で、ついに私の使っているパソコンに止まった!

そしてなんと、そのままマウスまで近寄ってくるではないか。

ちょっと恐いので手をのけてしばらく見ていたらなんとマウスの上で休憩しだした。
マウスを乗っ取られてしまったのだ。なかなか動こうとしない。
仕方ないので、急遽デジカメを取り出してマウスごと写し、日記のネタにすることにした。



実は今日はウブドであった王家の親戚のバカでかい葬式の話をするつもりだったのだが、
このようなハプニングがおこったので、虫の話になってしまった。ま、いいか、どっちにしても四方山話だ。


この11月は、ちょっと台所の柱を1本直さねばならないし、
ウチの猫の『キウイ』のお産も近いし(たぶんあと10日くらいか)お腹のふくれ方から子供は3匹はいそう。

このあとはちょっと忙しくなりそうだ。







             カミキリムシ君は「メンチ」を切りながらマウスにしがみつき占拠

          




           そのあとのそのそ移動し、キーボードも占拠。なすすべもなし(TT)

          






         お産が間近の『キウイ』 衛星テレビチューナーの上は暖かいのでお気に入り。

         







  ウブドの王家はとにかく葬式が派手。今回、これでもまだ小さいほうだ。晴れたので久しぶりに取材。バリは基本的には公開型葬式。

           















2008年10月23日  渓谷を描く日々


ここのところ昼間は必ず晴れるが、夜は必ず雨が降る。もう1週間もこのような状態が続いている。
しだいに雨季が近づいて来ているということなのかもしれない。
通常雨季は12月初旬からであるが11月に入ると雨が定期的に降り続くこともある。

で、昼間晴れている今のうちに自宅付近を描いている。
特に自宅の前から見える渓谷を描くことが今のところ多い。

今年の2月に母屋を改築した時に、小さな見晴台をついでに作ったことはこの日記にも書いたが
その見晴台に立って絵を描くことも多い。
いつも見慣れた風景だが、刻々と変わる光と影の動きが面白く、夕方になるとキャンバスを出す。

ほとんどが、1時間ほどで筆を置くような、描きなぐりのような絵だが、自分の好きなように描かせてもらっている。
売れようが売れなかろうが描いている時はそんなこと一切どうでもいい。

で、今日もまた未完成のような絵が誕生する。

しかし、この高揚感は私だけのものである。
私は高名な絵描きでも売れっ子絵描きでもないが、絵を描く至福は誰も邪魔をすることは出来ない。
これが唯一私の人生での小さな幸せ。

今日は、息子がデジカメで絵を描いている私を気づかれないよいうに遠く背後からそっと何枚も撮影したらしい。

私は絵を描く姿をもう十数年間ほとんど誰にも写真に撮らせてないのでこれはとても珍しい写真となった。


渓谷


            







                      「 夕闇迫る渓谷 ー 月の入り − 」 油彩 F6号 2008年10月22日

              














2008年10月19日 『風のガーデン』の緒形拳さん 


緒形拳さんのアリア





緒形拳さんといえば僕にとってはあの『砂の器』に登場する島根県亀岳の三木謙一巡査だ。
あの純粋で人が良く、なによりも高潔な人格は緒形さんそのものだった。

テレビドラマでは1985年NHKのドラマ『破獄』が飛びっきりいい。


そして今、緒形さんの遺作となったテレビドラマ『風のガーデン』を襟を正して毎週この目に焼き付けている。
遠くバリ島にいてもあのドラマを見る手立ては実はあるのだ。あれだけはなんとしても見ようと思った。



緒形さんの言葉ひとつひとつが胸に染み渡る。

彼が演ずるのは主人公、白鳥貞美の父親白鳥貞三。



第1話と第2話を見た限りでは、中井貴一さんと緒形拳さんが絶品である。


第1回 『スノードロップ』 花言葉は『去年の恋の名残の涙』

第2回 『エゾエンゴサク』 花言葉は『妖精たちの秘密の舞踏会』



全体としての物語は、絶縁関係にあった医師である息子が
不治の病に侵されたことをきっかけに故郷に帰り、
彼の父親や子供たちと最後の日々を過ごし、失ってしまった『家族』を人生の最後に取り戻していく物語だ。



そして、数日前の第2話で『緒形さんのアリア』を見ることができた。


第2話の後半、

祖父の貞三(緒形拳)が富良野の自宅へ戻ると老犬・蛍がいなくなったと弟の岳(神木隆之介)が泣いている。
貞三と一緒にガーデンへ探しに行ったルイと岳は、4kmも離れたグリーンハウスで倒れている蛍を見つける。
蛍はすでに息を引き取っていた。

蛍の遺体を泣きながら抱きしめる岳に貞三は静かにぽつりぽつり語りかける。




悲しむって言葉はね、
つらいって気持ちももちろんありますが
もともと愛しい(いとしい)って意味なんです。

愛しい、愛する、…大好きな言葉。 みんな同じ言葉の意味です。
愛しいから悲しい、もう会えないからつらい。
だから泣くのは全然かまいません。



             




おばあちゃんやお母さんが死んじゃった時、
おじいちゃんもルイさんもいっぱい泣きました。
覚えてるでしょう。

あの頃君はまだ小ちゃかったから、
不思議そうな顔をして、きょとんと見てた。

でも、今はもう君は大人になった。
大人になったから涙が出るんです。


でもねえ岳君。

生きてるものは必ず死にます。

おじいちゃんもいずれ死ぬ。

君だってルイさんだっていつか死ぬ。


死ぬ…ってことはね、

生きてるものの必ず通る道です。


君は犬の死に今泣いてる。

だけど、花が命を終え、枯れて死ぬ時は
いちいち涙流さないでしょう。

動物と植物違いはあってもどっちも同じ命なんです。

でも花は死ぬ時血を流さない、
だから人間はそれほど同情しない。
でも、おんなじ命なんですよ。



              



蛍がわざわざここへ来て死んだのは、
おばあちゃんやお母さんに早く飛びついて、
一刻も早く遊んで欲しかったからです。
今もうきっと二人に会えて嬉しくてキャッキャと遊んでます。

君とかルイさんとかおじいちゃんのことはたぶんもうすっかり忘れてるでしょう。

死ぬっていうことはそういうことなんです。

おそろしいことじゃ決してありません。


明日、裏山に埋めてあげましょう。




紅茶がさめますよ…。

熱いうちに、飲みなさい…。




                   






緒形さんありがとうございます。 




合掌











2008年10月14日  いちごのケーキと世界に広がるおわら踊りの布


今日は満月であり私の誕生日でもある。
もうこの歳になると、別段うれしくもなんとも無い。
っていうか、近年は誕生日自体も忘れがちになっている。
たんたんと歳月が過ぎて行くのみである。

まわりの人たちのほうが覚えていてくださって、メッセージをいただいたりする。
ありがたいことだ。

ここ数年は、私や連れ合いの誕生日に息子が手作りケーキを作ってくれる。
これも淋しい私の日常の中で数少ない嬉しいことだ。
ありがたくさきほどいただいた。

今年のケーキのできばえは今までの中で最高だった。
スポンジのふんわり度といい、生クリームのホイップのタイミングやバランスといい、かなり洗練されて来ている。
このあたりの才能は、私ではなく、料理の上手な連れ合いに似たようだ。






                 






で、夕方ケーキを食べ終わると、オリジナルの染物を頼んでいる職人さんが家にやって来た。
クタの町でまた面白いものを見つけたという。

見せてくれたのは、なんと私がデザインした『風の盆』を題材にした『おわら踊り』文様の浮織り布である。
しかし、完全に私のデザインのままではなく、現地のスンバ島の職人のアイデアが混ざって
面白い雰囲気を作っているのである。

実は、このような、アレンジ版『おわら踊り』の布は、ここ数年、バリ島のかなり多くの店で見られるようになったのだ。
踊り自体はインドネシアではなく、越中八尾風の盆で踊られる「おわら踊り」なのに、外国人の観光客がアジアの文化として
買っていくという。欧米人にとって、日本の踊りも、インドネシアの踊りも共通点があり、どちらもエキゾチックなのかもしれない。

私が自分の展覧会のために織ってもらっている『おわら踊り』の布が人気を得て、めぐりめぐって今や、インドネシアの一つの文化に
なろうとしている。これはある意味とても嬉しいことである。インドネシアならではの現象だ。

かつて、10年以上前、連れ合いの宮嶋が展覧会のために考案した、手絞りの草木染ストールのデザインが、
今やインドネシアの輸出品として年間30万枚以上作られているのと同じだ。
そうなのだ。彼女のデザインした布は、あらゆる日本のエスニックグッズの店に今や置いてあるという凄い現象がおこっている。
これは嘘のような本当の話。もちろんバリのほとんどのアートショップにも置いてある。

この国は著作権という概念が無いので、連れ合いや私には著作権使用料は全く入ってこない。
しかし、その分、私たちのアイデアが急速にこの国の染織文化の中に広まっていくのだ。
このことはとてもダイナミックな現象なのである。そしてバリ島という世界的な観光地であり、染織地であるゆえに、
輸出先は日本にとどまらず、欧米をはじめ全世界に輸出されていく。
これは実に面白い。

で、ありがたく彼が持ってきたこの布は買わせていただきました。コレクションにいたします(^^)
非常に丁寧に渋く作ってあり私も感心しきりだった。




                      越中八尾風の盆「おわら踊り」文様 浮織り
                     














2008年9月28日  『まどろみのバリ』に帰ってきました


太陽が照りつけるバリのングラライ空港に到着し、ロビーに降り立った瞬間、
あのむせかえるような甘い花の香りというか、果実の熟した香りが漂ってくる。
もう十八年間いつもこの匂いだ。

ただ、ここ5〜6年バリがかなり小奇麗になりつつあることも否めない。
私が住み始めた1991年の頃はそれはもう強烈な世界だったのだが…。

で、この独特の甘い香りもここ数年は若干弱くなってきている気がしないでもない


それでもまだまだ熱帯のパワーは残っている。

ふと見ると、到着ロビーでの手持ちエックス線検査の検査官が口を半開きにして居眠りしている。
荷物だけが黙々と箱の中を通過し、オートマチックに全部OKだ。

日本やUSAならえらい騒ぎになるだろうが、ここは熱帯の辺境の地。
すべてがぼんやりまどろんでいる。
誰も彼の惰眠に文句など言わないのだ。

この検査官の居眠りを許す『ゆるみ』の感覚があるうちは私はこの国に通おうと思う。
私も連れ合いも、十八年間、この『ゆるみ』の中で生かされてきた。
私の息子もこの『ゆるみ』の中で1歳から育ってきた。

先日まで滞在していたタイは、同じ熱帯でもそのようなゆるみはもう無い。
マレーシアやシンガポールはもう十数年も前からヒステリックなほどに厳しい。

ウブドの自宅に着くと、さすがに4ヶ月以上留守にしたので、不具合が生じていて、
電気工事少々、水道工事少々、屋根直し少々、と修理の日々だった。

で、本日ようやく落ち着いて日記を書いている。

これからようやく自分の感覚を外に吐き出す日々が徐々に始まる。

明日あたりから「男はつらいよ」の作業も再開します。
第19作「寅次郎と殿様」本編完全版完結篇は10月初めにアップできる予定です。




           バリは今乾季。暑くもなくとても過ごしやすい。11月末までこの過ごしやすさは続く。

            




               この風景の中で私の孤独な絵画制作がまたはじまる

              













2008年9月15日  「なんとか間に合った 『おくりびと』」



もう明後日に日本を出発するのであるが、予定を無理やりこじ開けて3時間だけ時間を作り、
動物的勘で昨日『おくりびと』を駆け込みで映画館に観に行った。

なんだかどうしても見なくてはならない映画だと胸騒ぎがしたのである。
これを観ずしてバリには行けない気がしたのである。

公開初日ということや、富山出身の関係者がスタッフキャストに多いこともあって
全席指定のその映画館は完全満員だった。この手のテーマでこんなことは超久しぶり。



なんとも清溢(せいいつ)な映画だった。凛とした空気に満ちていた。

観てよかった。心からそう思える数少ない映画だった。



         




この1年で観たDVDも含む全ての新作日本映画の中でもっとも私の心を打った映画だった。



誰にでも必ず訪れる死。
愛する人との永久の別れ。

そして、死びとを愛を込めて送り出し、棺に収める 納棺師。

病院での始末とは根本的に違う『古式納棺の儀』

厳かで厳粛な所作、

そしてそれらを包み込む透明な空気の中の山形庄内の四季、月光川、鳥海山、

人々の無理解や差別感の中で、それでも自分の新しい道を今徐々に信じつつ歩み続ける大吾。

そして彼の大粒の涙。



                     




哀しくどこまでも白い空に響くチェロ。
久石譲さん作曲の「おくりびと」のメインテーマだ。
この曲は果てしなくいい。
ナウシカのメインテーマも美しいが、この『おくりびと』のメインテーマの澄んだ音色は絶品だった。
彼は遂にやったのだ。



         


なによりもまず、オリジナルの脚本がいい。
『本』がよければ7割は成功したのと同じ。
そしてバランス感覚に秀でた滝田洋二郎さんの演出。

慧眼としかいいようのないこの原作の映画化を推した本木雅弘さんの感覚、
そして役者としての彼の納棺師の『所作』が美しいのは観れば分かる。

その傍らで、山崎努さんの人生をかけたニュアンスと存在感も渋く大きく光る。
彼の芝居ほど説明の不要な芝居もないだろう。もう彼の真似は現存する役者では誰も出来ない。


笹野高史さんのいぶし銀の名演技、実にいい役もらってました。
ラスト近くで私たちは彼に驚き胸を打たれるのだ。

そして何よりも忘れちゃならないのが、今回、地味だが、山田辰夫さん。
出番は少ないが彼がほんとよかった。この映画は彼が役に出会った映画でもある。
私は彼の芝居にも泣きました。


         


ぶっちぎりの本木さん、山崎さん、笹野さん、そして山田辰夫さん、

そして…吉行和子さんの合わせた手の指をしっかり見てください。


それだけではない。
この映画の随所に小さな笑いが施され、この映画がそれらの笑いによって
上質のふくよかさをかもし出しているから、う〜んこれはたまらない。



この映画の感想はバリに戻ってから、襟を正して腰をすえてもう少し書こうと思う。
たいして書けないかもしれないがそれでももうちょっと具体的に感想を書きたい。

映画館で金を出して観て、観終わった直後に、
またもう一度金を払って二度観たいと思った映画なんてそうそうはない。


日本映画は今大きな財産を得た。


そしてこの奥ゆかしき厳粛な日本文化を、その生死感、そして父と子の見えない絆を、
外国人よりも何よりもまず私たち現在の日本人が見るべきなのだ。



臨時増刊号でした。
















2008年9月13日「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ」


いやはや、あと数日で日本出発である。
9月16日に大阪に行き、関西空港からバンコクへ旅に出る。

で、最後の展覧会も大詰めなのと家の後片付けにも時間をとられ
この10日間ほとんどパソコンをいじれていない。っていうか睡眠時間も削っている…(TT)

そういえば、
第19作「寅次郎と殿様」の中で、寅が『マリ子』さんを探すために、柴又中を
駆けずり回って夕方へとへとになって戻ってくる哀れな姿があった。





寅、源ちゃんに担がれてとらやに戻ってくる。
目がペケになり、よろけながらながら、


寅「
最初の50軒目までは何とか数えてたけれど、
 それから先はもう…、
 目は霞むし、もうふらふらだよ…



おばちゃん「
おふ、お風呂が沸いてるからお入り

寅、よろけてこけそうになる。

おばちゃん「
あら、大丈夫かい

寅、階段に倒れて手すりにつかまりながら

寅「
いや…それより先に、ちょっとでもいいから寝かせてくれよ

おばちゃん「


這いずるように階段を上がりながら

寅「
あれだね、おばちゃん

おばちゃん「
ん?

寅「
東京中探すのには…4日や5日じゃ、無理だねえ…

這うように階段を上がって、エネルギーがゼロになり、
ついにガタガタガタずり落ちてしまう寅。




              


おばちゃん「
あああああ…

源ちゃん「
大丈夫ですか」源ちゃん寅を起こそうとするが

寅「
ここで寝るここで寝る…ここで寝るよ、おーいここで寝る」と、弛緩している。

寅、ヘロヘロ

みんな困った顔

              




ここ10日間の私はあの寅ように↑ヘロヘロのヘトヘトのガタガタなのだ。



それゆえに第19作「寅次郎と殿様」本編完全版完結編があと少しのところで
止まったままになってしまった。あ〜〜〜〜!もう数日だけあればアップできたのだが、残念!

で、完結編のアップはバンコクに10日間滞在したあと、バリに戻り、
ADSLの契約を再開したあとの9月30日ごろだと思う。

完結編を待ちわびておられたほんの一部の皆々様(^^;)
どうかもうしばらくお待ちください。
バンコクを10日間旅してバリに戻った後、また作業を開始し、9月30日にはなんとかアップします!



しかし、これは毎回書いているように、
日本滞在というのは、私にとって『稼ぎ(生業)』の日々と同時に『充電』の日々でもあることを
ご理解いただければと思う。
どうしても、少しでも空いた時間は「自分から吐き出す」よりも「自分の中へ取り入れる」ほうに
行ってしまうのである。そうでないとそのあとに「吐き出し」ができない。

で、バリに戻った9月末以降はまじめに本編もダイジェスト版も日記も制作していくつもり。


それではみなさん、
数日後の9月16日からくふらふらと旅に行ってまいります。

それゆえ明日からバリに戻るまでの2週間ほどはサイトの更新作業ができません。
9月末まで気長にお待ちください。


ああ…、もうこの放浪癖は生涯消えそうにもない。
私が寅に惹かれるのもここのところ。
寅と私は同じ渡り鳥の業を背負っているのだ。


第9作「柴又慕情」で、
さくらが「どうしてまた旅に行っちゃうの?」
って聞いた時、江戸川土手にねっころがりながら寅が空を指差し言うセリフ、

ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ…」 

結局は、私の人生もこの言葉に尽きるのだ。




                




【遠い旅の空から掲載記事画像


なお、上にも書いたが、記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080729-OYT8T00155.htm












2008年9月4日 4年ぶりの里帰りを果たした油彩「おわら かかし踊り」



今から4年ほど前、
私の大コレクターであるY.Iさんは、「風の盆」で踊るおわら踊りの中でもダイナミックな「かかし踊り」
の絵(12号M)を買ってくださった。
実はその絵は、私はまったく人前に出す気がなく、自分で勝手気ままに描き殴ったものだったのだが、目の肥えた
Y.Iさんは、展覧会場の隅に何気なく置いてある、きちんと額にも入れていなかったその絵を指差して、
「もしよろしければこれをいただきたいのですが」と仰られた。

自分では密かに気に入っていたものの、乱雑に描いたせいもあって、いかにも未完成のような風体のその絵を
人が買ってくださるなんて思いもよらなかった私は、なにかとても幸せな気持ちになっていったのだった。

そのあと、Y.Iさんはご自分の書斎にずっと飾られておられたのだが、私はあるミスを犯していたのだった。
それは、あの絵をデジタルカメラに収めるのを忘れてしまったのだ。

かなり気に入っているのも関わらず、ちょっとしたタイミングのズレで、写真にすることをうっかり忘れてしまう。
そういうことは人生でときたまある。

そのあとY.Iさんにお願いして、絵の写真を撮っていただいたのだが、なかなか上手くいかず、それ以来あの絵を
画像として残すことを半ば諦めていたのだった。しかしあのような半ばプライベートな絵こそ、画像を持っていたいので
毎年もんもんとしていたのだった。

それが、先日8月31日、今年も展覧会に見に来られた際に、なんとご自宅のある茨城県から
あの絵を手で持って来てくださったのだった。これは感激した。

さっそく、額をはずし、必死でカメラに何枚も収めたのが↓の画像だ。

ほぼ実物の色と質感が忠実に出たと思っている。

4年ぶりに里帰りしてきた自分の絵というものは実に愛おしいものだ。

ましてや、記録に残せぬまま売ってしまったのが心残りだっただけに再会に感激もひとしおだった。
そのこただけでなく、今回もY.Iさんは決して小さくない油彩画(4号と8号)を2枚もお買い上げになり、
またもや来年の私の制作活動を助けてくださったのだ。

そのうちの一枚が下の絵↓「おわらの日 西新町」



Y.Iさんにはいくら感謝してもしきれない恩がこれでまたもや増えてしまった。
私は十数年に渡るこの膨大な彼のご恩にどのように報いればいいのだろうか。
この先も出来る限り、命の終わりの日が来るまで、1枚でも納得できるまともな絵を描き続けること、
もうそのことしかないだろう。もちろんそんなことでY.Iさんんの大恩に報いることができるなんて到底思えないが
私に絵を描くこと以外一体何が出来るというのだろうか。





              油彩「 おわら かかし踊り 」 油彩 M12号 2004年7月

          





              油彩「 おわらの日 西新町 」 油彩 F4号 2008年8月

            














2008年8月26日 新作油彩 「雲間に見える剣岳」


五月のある日、雨上がりの後、立山連峰がくっきり見える午後があった。
その時地元の村まで行って描いた絵が以前6月24日にバリ日記で紹介した「五月の剣岳」だ。
あの絵は我ながら気に入っている。

で、実はあの時、他にも何枚か油彩を描いていたのだが、
どれもこれもめまぐるしく状況が変わる風景の中で描いたせいか、何が描かれてあるのかよくわからないような
破綻だらけの絵になってしまったので、デジカメにも撮らないで、お蔵入りしてしまった。

昨日、用事で全ての絵をストックしてある蔵に入った時に、この前の破綻だらけの絵たちが目に入った。
その中の一枚は、今冷静に見るとそんなに悪くないのである。それがこの絵「雲間から見える剣岳」だ。

あれからちょうど3ヶ月経って、他人の絵のように自分の絵を見れる気持ちになったのか…、
それはよくわからないが、とにかく、この絵、相変わらずごちゃごちゃした破綻は著しいものの、
なにかそこの場の空気のようなものを感じるので良しとした。
絵は描いてから数ヶ月経たないと分からないものだとつくづく思う。





                          油彩「雲間に見える剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

            












2008年8月21日 上野由岐子投手 奇跡の413球


いやあ、ついさきほどオリンピック ソフトボール女子で日本が優勝したばかり。
展覧会の仕事をしながら隙を見てはこの3試合ずっと観戦してきたが、
上野投手の気迫と集中力の持続は奇跡とも言えるものだった。
何かが乗り移ったように粘りに粘っていた。

誰よりも強い心で攻めまくる。

たった一人で、2日間で3試合、なんと400球以上を投げきった。丁寧に丁寧に…
キャッチャーのリードとバックをひたすら信じて。。

絶体絶命の満塁のピンチ!!
攻めのインコースシュート回転のストレート!!

感動させていただきました。

そして…最後はやっぱり全員で勝ち取った勝利だった。見ていればそれはわかる。
最後じつによく守り、しぶとく打った。


おめでとうみなさん。





       




       




       











2008年7月31日 【遠い旅の空から】新聞連載開始


先日7月29日(火)より読売新聞朝刊「東京版」にて
『男はつらいよ40周年』にちなんで、
『寅さんに影響を受けた人たち』というテーマで連載が行われている。

タイトルは【遠い旅の空から

この「男はつらいよ」という映画に人生で大きく影響を受けたいろいろな人たちを毎回一人ずつ紹介し、
映画と関連付けてその人たちの人生をも紹介するという企画だそうだ。

毎日連載で9回ほどに渡って、毎回100行〜120行ほどの長さで五段抜きで連載している。
読売新聞朝刊の中でもかなり大きな連載記事だ。


上にも書いたように東京版なので東京以外の道府県にお住まいの人は残念ながら読めない。
それと多摩地区の方々も読めない。

ただし、読売新聞本社内の
『ヨミプラザ』(03−3217−8399)に電話連絡すれば
全国どこからでも過去2ヶ月以内の読売新聞「東京版」は2ヶ月以内なら何日のものでも、
何部でも、通販で買えるから、ぜひとも読みたい人は送料(100円ほど)さえ足せば
2日ほどで手元に届いて読める仕組みになっている。


普段世間の企画ものに対して不精な私がどうして珍しくこのような公的なお知らせを
細々と、個人的な『日記』などに書くかと言うと、
実は私も4週間ほど前に取材を申し込まれたからだ。

私などは関係者でもないし、映画人でもないし、有名な文化人でもないし、芸能人でもないし、
仕事自体もちっとも有名な画伯でもないし…、つまり地位も名誉もついでにお金もない男だ。

場違いもいいとこじゃないかってお断りしようと思ったのだが、
私のささやかなサイト「男はつらいよ覚え書ノート」を見て感動してくれたその記者さんは
とても熱心な方で、ぜひ直接越中八尾の自宅へ行って話を聞きたいと仰る。

ずいぶん迷ったが、これによって少しでもこの映画が見直されればと、
結局僭越ながら己を無にして直接取材を受けることにした。


『国民映画』『寅さん』などとマスコミにさんざん表面的には持ち上げられながら、
一方でこの映画を評価しないことをまるで文化人、知識人のステイタスのように考えている輩が大勢いるこの国で、
この映画に人生を救われた人間がまさにここにいるのだと伝えたいと思ったからだ。
人の人生を変えてしまえる映画なんてそうあるものではないのだから。



7月初旬の大雨の翌日、
わざわざ読売新聞東京本社から汽車を乗り継いで山を越え5時間以上かけて
山深い越中八尾に来てくださった記者さんは
私の自宅1階板間のアトリエで3時間にもわたる熱心な取材をされた。



地元の北日本新聞、富山新聞やテレビには時々仕事の展覧会に取材していただいて
小さな記事を載せていただいているが、今回は仕事の展覧会でなく「寅さん」。

しかし記者さんの仰るには「寅さん」の詳しい話だけでなく、
その映画に影響を受けた人間そのものを実は取材したい、ということだった。

この映画のことだけでなく、バリのこと、絵のことなどを全部一つに関連付けての総合的な取材。

それゆえ私の心の底の隠したい部分や苦悩の人生の影の部分を
あえて探るような緊張感のある深い取材だった。

新聞記者さんのプロ意識というのはたいへんなものだなとつくづく感じた一日だった。


実は…、
あの徹底した取材を受けて私はもう一度精神を解体された。
そして、あらためて自分の裏表を総合的に見つめることが出来たのだ。
だからあの取材は違った意味でもとても私にとって意味のあるできごとになった。


取材の後、せっかくはるばる越中八尾まで来られたのだからと、
夕方の淡い光の中、自分の住む多くの絵のモチーフにもしている八尾の町を
ゆっくり1時間ほど歩いて案内させていただいた。これも大事な取材の一環だ。
こういうことはとても大事。その土地を知らないとその人は分からないものだ。
記者さんはとても町並みがしっとりしていると気に入ってくださった。

で、帰り際に「7月末頃からおそらく連載が始まります」と言われていた。

そのあとも時々メールを通して本質的なこと、精神的なことを何度か聞かれ、
それに自分なりに誠実に答えることによって自分がもっと見えてきたから面白い。



そうこうしているうちに先日連載が始まったが、

なんとその前日に「連載第1回目は吉川さんです」と、言われた。つまり私だった。

第1回目というのは「つかみ」なので本来とても重要なのだ。
第1回、2回、3回あたりが悪ければ後はこけるとも一般には言われる。

しかしこの場合、厳密に言えば私は『モチーフ』にしか過ぎず、
ポイントは記者さんの優れた筆力の方。
だから私は記者さんを信じるほかなかった。


それで掲載された翌日送られてきた記事を読ませていただくと、

自分の人生を変えた第15作「寅次郎相合い傘」での寅のアリアを文章の核として、
私の人生の明暗がドラマチックに浮かび上がる構成になっていた。

特に最終章は私の気持ちを代弁してくれるような鮮やかで無駄のない、それでいて温かいタッチで
締めくくられていたのはさすがの一言だった。

また、最終章に、私の最も敬愛する、恩人であり最大のパトロンであるY.I さんのお言葉が載せられていたのも
嬉しかった。記者さんは、Y.Iさんともコンタクトを取られ、取材されたのである。


見た感じ、思っていたよりずっと大きな記事で120行くらいはあると思われた。


世間受けを狙った寅さん寅さんした面白おかしい記事では全くなく、
逆にその影響を受けた人間そのものにじっくりとシリアスにスポットが当てられている
優れた本物の企画だったと思う。取材されたから言うわけではない。
こうして記事を眺めながら今しみじみそう感じているのだ。


それでは記事をご覧ください↓。


【遠い旅の空から掲載記事画像



なお、私の記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080729-OYT8T00155.htm













2008年7月7日 キャンバスの裏に油彩発見!「春の伊豆下田」



5月に雨漏りがあった倉庫から大量の絵を移動させた時に、キャンバスの裏にもう一枚風景画が見つかった。

私は学生時代に春によく海を描きに行ったが、この絵は21〜22歳の私が4月の伊豆下田の岩場を描いたものだ。

あの時は3枚ほど20号の絵を描いて、一枚だけ気に入った絵を展覧会発表したが、残りの二枚は気に入らなくて
未発表のままだったが、そのうちの一枚がどこに行ったのか行方不明だった。

今回の大移動で、ある異なる風景画の裏になんとその伊豆下田の海辺の絵があったのだ。
裏にアクリルジェッソを塗ってあとに、違う絵を描いたのだった。

まあ、上から違う絵を描いて潰してしまうよりはましだったが、それでも半分闇に隠されたようなものだ。


今こうしてこの隠された絵を眺めているとそんなに悪くない。
絵は稚拙だが、大胆な構図としっかりと乗せられたタッチが当時の高揚感を表していた。
写生とはこういう絵を言うのだ。

これだから絵は怖いのだ。その時の若気の至りで壊したり、裏から絵を描いてはいけない。
少なくとも数年は待たねばその絵のことは冷静には見れない。
当時若者だった私は、このいかにも不恰好なゴテゴテした無骨な絵に執着することはなかったのだ。

『蟹は自分の甲羅に似た穴しか掘れない』と、昔から言われるが、
ほんとうに絵というものは人生とともに分かってくるものなのだ。
できることなら描いた絵は残したほうがいいとしみじみ思い知らされた。
未来の自分がきっとその絵を分かってくれるのだから。





                         油彩「春の伊豆下田」 油彩 P20号 1982年頃 4月

                      













2008年6月24日 新作油彩 「五月の剣岳」


ここんとこ毎日雨が降る。それでなくても越中八尾は雨が多い土地なのだ。
それでも時々外に行っては絵を描き、散歩をする。

先月新緑の頃、雨上がりの直後、一瞬きれいに立山連峰が見えた。
さっそく近くの村まで30分かけて行ってスケッチ、油彩でも一気に描きあげた。
こういう時は、タッチが全部一発で決まりそうな予感があり、やはり決まる。

ささやかな至福の時だ。

この絵↓は剣岳の頂上付近が鮮やかに顔を出した一瞬。


私は2002年の晩夏、あの山に一週間いた。
そしてまさに同じ時に、遥かインドネシアで同い年の親友が天国に召された。

私は剣岳を見るたびに亡くなった彼を思い出す。

不思議なものだ。まったく関係のないふたつの出来事なのに、時期が一致すると
いつまでも関係が離れないのだ。

だから、意外にも、この油彩画も私にとっては親友のアナック.アグン.ライに捧げる気持ちになってしまう。
まあ、それもいいだろう。そういう人間が一人くらいいたっていい。




                       油彩「五月の剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

         







そして現在。
梅雨入りした近頃、自宅裏山の森(城ヶ山)は、下の写真のように紫陽花満開。毎夕散歩している。
時々無理やり家族もつきあわせている。で、私の写真を撮ってくれたのだ。↓
フクロウの雛にはあの日以来逢わない。あの日が最初で最後のご対面だったんだな…。


               











2008年6月16日 出を待つ絵たち その3 Mの肖像


越中八尾はここのところちょっと天気がぐずつき気味だ。
もう梅雨がそこまで来ている。
自宅の裏に城ヶ山という大きな森があって、私はよくスケッチに行く。
森というより低い山といったほうがいいくらいのなかなかの森林地帯だ。

この森のてっぺんに火災除けの神社である秋葉神社があるが、そこまでの階段も
今は紫陽花の花でいっぱいだ。ここ数週間、時間が空く夕方遅くにその森に絵を描きに行くが、
先日は木の枝に白いフクロウの雛が止まっていた。胸が毛でふわふわだ。文句なしにかわいい。
雛といってももうかなり大きく、巣立ち寸前といったところだった。
4メートルほど下にいる私を見ても逃げようとしない。

私も暇だからスケッチもせずにずっと雛を見ていた。
時々かわいい声で「チューチュー」と鳴いている。親を呼んでいるのだろう。

何十分経っても一向に逃げようとしないのでこちらのほうが飽きてしまって、フクロウにさよならをした。


さて、先日から続けている「出を待つ絵 シリーズ」だが、(おいおい何がシリーズだ ヾ(^^;))
今回貼り付ける絵は、私がバリに行くちょっと前に友人に頼んでモデルになってもらった絵だ。
確か数時間だけモデルをしてもらったので、2時間ほどで描いた絵だと思う。
ほとんど右往左往試行錯誤無しで、全部一発でぐいぐい決めていった記憶が今でも残っている。
普通はそうしたくても上手くはいかないのだが、この絵はそれなりに決まった。

当時は習作だと思っていたが、今回蔵から出してみてみると、なかなか動きがあってこなれていていい。
タッチも生きたまま終えている。

しかし、こういう絵はやはり当然売れないのだ。モチーフがただの青年では誰も家に飾りたがらない。
だから展覧会候補から外れがちになる。こればっかりはどうしょうもない。

しかし安心してくださいM君。君をモチーフにしたこの絵は、いつかきっと…、僕らが死んでしまった後かもしれないけれど、
何十年か後に多くの人が見てくれると思うよ。

なんてなんの根拠も展望もなく思い込んでいる私だった。
この、『根拠なく思い込める人』が絵を描き続ける人なのだろう。いいも悪くもない、そんなこと偉くもないし、馬鹿でもない。
ただそう言う類の人というだけのこと。





                      「Mの肖像」 油彩 P6号 1991年頃

                










2008年6月3日 出を待つ絵たち その2 『チャンプァンへの道』


バリ滞在初期に一気に30分ほどで描いたこの↓自宅近くの田園風景画を私は気に入っている。
バリでは自分のギャラリーにしばらく飾っていたのだが、日本では遂に一度も人の前で見せることはなかった。

なぜ気に入っていたのに飾らなかったのかっていうと、当時この絵がなんと行方不明に
なっていたからなのだ。

大事に保存していたのにもかかわらず、木枠からはずして大量に持ち帰ったゆえに
他の絵に混ざって蔵に平積みされてしまっていた。

5年ほど前にこの絵は蔵で見つかったのだが、タイミングがちょっと合わずに
今日までずるずる来てしまった。いつの日か必ずどこかの個展で見せてみたい。




                       「チャンプァン風景」 油彩 P20号 1992年頃

            









2008年5月26日 「覚え書ノート」TOPをFLASHアニメにしました。


昨日、「男はつらいよ 覚え書ノート」のTOPアニメーションを、息子がFLASHアニメーションにしてくれた。
彼は今、FLASHの勉強をしているので練習代わりに作ってくれたのだ。それでも一人で何から何まで
全部作るせいかやはりこんな短いものでも2週間近くかかっていた。
まあ、何事も数をこなさないと目と感覚が磨かれないので、今はなんでもやってみているようだ。

いろいろ絵的に未熟な部分も多いが、長い目で見てやろうと思ってはいる。





             








2008年5月23日  寡黙に出を待つ絵たち


この10日間、超多忙で更新がまったく出来なかった。
腰もすっかりよくなり、今回滞在の前半のメインイベントをしていたのだ。
と、言っても別に展覧会の話ではない。

昨年秋、バリ出発直前に離れの蔵の屋根の雨漏りの修理をしたが、今回は蔵の中の雨漏り跡の修理。
そしてそこに保存してあった昔描いた絵の大移動。これにはどえらく時間がかかった。
枚数も多かったが、一枚一枚写真で記録をとっていたからだ。
この蔵の絵には悲しいかなほとんど記録が取られていない。

蔵の中のほとんどの絵は売れなかったのはもちろん、なんと発表すらしていない。
いままでに発表した絵たちは売れた絵はその方たちの家に。
残った絵も母屋の2階のほうに別枠で置いてある。

悪く言うとこの離れの蔵に置いてあった絵は『忘れられそうになっていた絵たち』だったのだ。
忘れていたわけではないが、やはり今描いている絵のほうに意識が行くのは当たり前のことでもある。
絵を描く者の業というものだと思う。

自分で描いていうのもなんだが、これらの膨大な絵たちはなかなか飾ってもらえない運命にあるのだ。
特に2001年以降はいままでの日本中心の個展しまくり生活を切り上げ、
ウブド村のより奥地で隠遁生活を始めてしまったおかげで、絵の発表の機会が極端に少なくなったのだ。

そういうこともあって今までに描いた絵のなんと70パーセントが未発表のままである。
こりゃ文字通り孤高の画家であるわな…(^^;)

その中には私と家族以外誰も知らないようなほとんど誰にも見せていない可哀想な絵も少なくない。
だからといってその絵が質が悪いわけではない。プライベートなモチーフなので数少ない発表の時に選に
もれてしまうのだ。

今回の絵の保存場所の大移動で、あらためて過去20数年の自分の描いた絵を一枚一枚確認できたことは
とても有意義だったと言える。

ウブドにもまだ近年の作品を200枚くらいは残してきているが、
それ以外の過去のものは日本に持って帰って来ている。
この絵たちの居場所作りが今回2ヶ月も早めに帰国した一番の目的だったのだ。

かつて失敗だと思っていた絵が十数年の歳月を経て見て見ると、なかなかいい絵だったりするから面白い。

そこで今回から何回かに渡って一枚〜ニ枚ずつ『完全未発表の絵』の中で気に入っている絵を
紹介させていただこうと思う。ここで今誰かに見ていただかないと今度いつお披露目できるかわからないからだ。




今日のこの絵↓は息子がまだ幼稚園くらいの時の私の自画像だ。バリと言えども7月8月は夜は結構冷える。
ゴアテックスを着て絵を描いたのだろう。1995年頃か。

同じころに、同じく防寒の毛布を巻きつけた息子を描いている。(その下の絵参照)

まあ、この手の絵は日本ではまず売れない。
完全プライベートなモチーフなので発表のタイミングも後手後手に回り、ついに二つとも
文字通り何の日の目も見ないまま、『お蔵入り』してしまったというわけだ。
私個人としては2枚とも気に入っている。






                   「Yの肖像Y」 油彩 8号P 1995年頃

             




                         

                      「RYOYTAROの肖像」 油彩 15号P 1995年

             







                   

              

2008年5月8日  絵の嫁ぎ先を見せていただきました − 絵のある風景 −



『絵画』というものは普通の方にとってはずいぶん高価な買い物であり、非日常的な買い物だ。

それゆえ、今まで私が売ってきた何百枚と言う絵は全て買われた方の家に
大切に飾られているのである。大抵は玄関か応接間か自室(書斎)だ。
公共施設にも何枚か買って頂いたが、やはり目に付くところに大切に飾られている。

特に自宅がある越中八尾町の家々には結構私の絵が飾られているのだ。
たいして売れない無名の絵描きを同情してか、同じ町のよしみかいろんな方が買ってくださった。
絵を複数お持ちの方も少なくない。
モチーフが風の盆や曳山祭りや町の四季の風景の時もあれば、
全然関係ないバリの風景画の時もある。とてもありがたいことだと今でも心でお礼を言っている。
人にとっては、生活必需品を買うのはごく当たり前の行為だが、そうでない非日常的な物を買うのは大変なことなのだ。
このような応援者のおかげでなんと生きながらえているのだから、感謝してもしきれない。

それで、先日も日記に書かせていただいた、私の絵を4月に2枚買ってくださった私の最大のパトロンであるY.Iさんから、
ゴールデンウィークの最中に、ご自分が外科部長としてお勤めになられているつくば市の記念病院に
早くもそれらの絵を飾られたというお便りをいただき、飾られたあとの様子を撮られたお写真も添えてくださった。

Y.Iさんはいろいろこの2枚を飾られる場所を考えられた末、
みなさんが最もよく通るリハビリセンターと大会議室を結ぶ通路の正面の壁に掛けてくださったそうだ(写真参照)
ここなら多くのリハビリの患者さんとご家族の方々が時間を過ごされることが多いし、勤務されているスタッフの
方々も大会議室に全体の会議に向われる時に必ず視野に入るということらしい。

患者さんがご家族やスタッフと毎日リハビリをされながら、ふと向こうを見ると
『越中おわら風の盆』の『男踊り』『女踊り』の絵が何気なく目に入るのだ。

そのような真剣で懸命な日々の中で、ほんの少しでも気持ちの安らぎや心の静けさの時間を持てる
お手伝いになれば絵描としてこんな冥利はない。

私はもう18年もこんなギリギリの生活を続けていて正直苦しいことばかりで、もうダメだと挫けそうにもなるが、
絵を描き続けてきてよかったと、Y.Iさんが送ってくださったお写真を今こうして眺めながらしみじみ思っている。
絵をやめなくてほんとよかったと。
 
絵とは、普段は日常生活の中で要らない物だ。
そして忙しい日常では要らないものだからこそ、
人は時としてそんなものにふと救われたり癒されたりするのではないかと常々思ってもいる。





             







             











2008年5月5日  絢爛豪華 十数年ぶりの春祭り


今回は十数年ぶりで、春に越中八尾に戻ったので春の「祭り」を味わうことが出来た。
この越中八尾で「祭り」というと、「風の盆」のことではない。祭りと言えば五月に行われる
「越中八尾曳山神事」のことなのだ。今年も一昨日の五月三日に行われた。

越中八尾は越中と飛騨の要の地にあり、江戸時代、越中売薬の隆盛とともに蚕種の生産によって築かれた
莫大な繁栄は大きな財力を生み、富山藩を支え続けた。そのような八尾町人の心意気を示すため、藩の庇護のもと、
「八尾曳山」を次々と作り出していったのだ。
曳山は、上部には人形(御神像)、下層内部には囃子方が入る二層形式の屋台山で、各町で微妙にその特徴が違うのが
なんとも興味深い。ちなみに曳山は上新町・東町・西町・今町・諏訪町・下新町の六町にあり、
六町それぞれに十数種類の曳山囃子が伝承されている。


県有形民俗文化財でもあるその「八尾町祭礼曳山(ひきやま)」は昨年までは、
起源が寛保元(一七四一)年とされてきたが、六基の中で、最初に製作された私の住む上新町の曳山が
一年前の元文五(一七四〇)年にはじめられていたことが分かり、記録が書き換えられた。

もちろん中の御神体(人形)も外の大彫刻もほとんどが江戸時代に越中を代表する名工たちによって作られたもの。


20年ほど昔、まだ息子が生まれる前、私は東京で教師をしていたが、5月の連休になると、連れ合いの宮嶋の故郷である
この富山を訪れ、越中八尾の曳山祭りを見に帰ったものだ。

一昨日は雲ひとつない晴天の中、三味線、笛、太鼓などの古式ゆかしい曳山囃子が奏でられる中、
棟梁、彫刻、彫金、漆工、金箔、を究極までほどこした六基の絢爛豪華な曳山が坂の町を一日中練り歩いた。

八尾はどの道も写真のとおり曳山が通れるギリギリに作られており、メインはその上がり坂、下り坂と辻曲がり(角回し)。

揃いの法被を着た若衆を中心に力の限り曳山を90度回転させ、見事成功すると、観客から盛大な拍手がおくられるのだ。

夜は六基とも、曳山を覆うよう全部で1000の提灯が取り付けられ、各町を同じように巡行していく。

今回の帰国は、この祭りを味わうのもそのひとつの目的だったが、私はその日に合わせて自宅で展覧会を
開いたので、もっぱら曳山が自宅の前を通るのを狙って二階へ駆け上がり窓から眺めていた。

私の家は上新町の大通りに面しているので曳山が実によく見えるから嬉しい。

かつて私も上新町の曳山は絵にしたことがある↓



                      越中八尾曳山祭り 上新町曳山  8号F

             








          私が展覧会で抜けれないので、息子が代わりに高台に上って諏訪町通りと曳山たちを撮ってくれた。

                  







                       諏訪町通り(日本の道100選)を練り歩く六基の曳山

             





              曳山は本体だけでなくこのように車輪に施された彫刻もそれはもう見事(東町) 自宅家の前で撮影

             







              私の家の2階窓から撮影した「上新町曳山」 屋根に鳳凰がついているのが特徴。

                





  
                 同じく同日夜に私の家の玄関から撮影した「上新町曳山」

               



こうして越中八尾は新緑の季節を迎えていくのでした。



先日息子は、このサイトにも貼ってあるFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』
You Tubeに試しに貼り付けていた。中身は一緒ですが、お時間がある方はどうぞご覧になってください。


YouTube のFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』











2008年4月27日  主なしとて春な忘れそ




22日に帰国してからようやく時間ができたので更新作業をこうしてしている。

4年ほど前、春に東京に降り立った。
見事な桜を見ることが出来た。

しかし、今年は4月22日に帰国したので、桜も葉桜気味のものをちらほらとしか見れなかった。
でも、少しでも見れたのはラッキーかも。

実は自宅のある富山に4月末に帰るのは10年以上後無沙汰しているのだ。
いつもなら早くて7月だ。

で、玄関にたどり着くと、道沿いのわずかな土の部分になんとチューリップが咲いているではないか。
赤いチューリップだ。
息子に聞くと、ずいぶん昔、小学校の低学年のころ確かに咲いていた記憶があるとのこと。
私も連れ合いも完全にチューリップが玄関に忘れていた。

私たちが帰らない10年以上もの間、この赤いチューリップは咲いては枯れ、咲いては枯れ、
と、健気に生きていたのだ。
なんだかちょっと可哀想な話だが、嬉しくもある話だ。
もちろん花はただ咲きたくて咲いているのであってなんの感情もない。

だからこそ花は限りなく美しい。


美しい花がある。花の美しさというようなものはない。



そう言えば、その昔、平安時代、
菅原道真(845年〜903年)が901年 大宰権帥(だざいのごんのそち)に任ぜられ、
京を発つ際、自宅の紅梅殿に植えてあった梅を見て

『 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ 』

と詠んだことを思い出した。


チューリップは主のいないこの家で、春を忘れないで毎年毎年真っ赤な花を咲かせていたのだ。

私は対面したそのチューリップにはじめて水をやり、その不思議なご縁に感謝した午後だった。





                      











2008年4月15日  4月15日FLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』




毎日降っていたスコールの数がここ一週間は減り、もうさすがに雨季は終ったかもしれない。

もう毎日毎日、帰国準備で絵画制作がほとんどできずにいる。出発前の一週間はいつもこうだ。
サイト更新も、バリを出発してからは10日間ほどはたぶん多忙で出来ないと思う。

で、まだ少しだけ時間のある今のうちに息子が作ったフラッシュアニメーションを貼り付けておこうと思う。




ここ数ヶ月、息子はフラッシュアニメに凝っている。
まあ、いずれ美術関系の仕事をするつもりらしいので、なんでもトレーニングである。

私のTOPページ(絵のページの方)のアニメも彼の手によって3月にGIFアニメーションから
Flashアニメーションに変えたばかりだ。

で、今回は彼にしては長い1分間の、『寅と鳥獣が戦うアニメーション』を作っていた。

彼は彼なりに普段忙しいらしく、時間の空いた時を利用して、ちょろちょろと作っていたので、
なんと1ヶ月もかかったようだ。いつもなら速攻で作りあげるのが得意な息子にしては、
変に腰の据わったまじめな作業の日々だったようだ。

昨日、一応出来上がった後、アニメーションのBGM用に、私の音楽CDコレクションの中から、
私の大のお気に入りである19世紀イタリアの作曲家「プッチーニ」を選んでいた。
アニメーションのBGMとして成り立つのか??。

そして、「プッチー二」の中の、唯一の喜劇オペラである「ジャンニ・スキッキ 
Gianni Schicchi
の中、ラウレッタが歌うアリア「私のお父さん O mio babbino caro 」を最後は採用していた。


ラウレッタは恋人のリヌッチョと結婚させて欲しいと父親のスキッキに懇願するのだ。
もしそれがかなわないならばアルノ川に身を投げるわと、半分脅しながら迫っていくのである。



O mio babbino caro,          
mi piace,                
e bello bello.
Vo'andare in Porta Rossa
a comperar l'anello        
           
Si, si, ci voglio andare       
E se l'amassi indarno.        
andrei sul Ponte Vecchio,     
ma per buttarmi in Arno      
Mi struggo e mi tormento    
O Dio, vorrei morir         
Babbo, pieta, pieta         





あの世紀の名曲と寅次郎とどう結びつくのか、???という感じで、出来上がったものを見てみると
これがなかなかな感じで成功している。ちょっとエンディングロールのノリかな…。
さすがに1分間だけあって15〜16ほどのシーンが作ってあり、なかなか本格的なものになっていた。
特にラスト20秒は幻想的で気に入った。

で、私にしては珍しく、この作品はちょっと褒めてやった。初めてかもしれない。(親バカ…(^^;))


いずれにしても、今までの彼の小粒なアニメーションの中では
初めて手ごたえのある作品となったことは間違いないだろう。

せっかくなんで、ここに僭越ながらみなさんに紹介させていただきます。



【注意】

容量がなんと5,5MBもあるらしく、
日本のADSL(ブロードバンド)の方は15秒〜30秒ほど待つそうです(^^;)ゞ
光ファィバーの方は待ち時間はたった10秒程度だそうです。

最初は、ダウンロードが完了していないので、絵とBGMに物凄い不具合や短い繰り返しが
生じるかもしれませんが、
全てダウンロードが完了したらもう一度最初から見てください。普通に見れます。



ちなみにバリ島の私の通信速度のかなり遅いADSLネット環境では、
この重さ(5,5MB)のフラッシュでは、最後までなかなかダウンロードしづらく、
待ち時間も長いです。2分間も待ちました(TT)

でもなんとか見れます!(^^)




           

FLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』










2008年4月6日  油彩レゴンラッサムに扮する村娘



いよいよ帰国が近づいてきた。今年は個人的な用事があり、早めに一時帰国するのだが、
最後の2ヶ月は、実は忙しかったのだ。12月末から2月初めにかけて家の修築を行ったので
2月中旬から今日までの2ヶ月で絵画制作のラストスパートをしていた。
毎日同時に数枚描き進める日々が60日あまり休みなしで続けられた。
お陰で「覚え書ノート」の更新が滞りがちだったが、実はそれはいつものことなのでお許しください(^^;)ゞ

で、4月に入ってから、近所の子供にまたレゴンの衣装を着てもらって再度何日か制作してみたが、
途中までいい感じだったのだが、また硬くなってしまった。
それで、いつものように徹底的に壊して、一気に1時間でやり直したら、ちょっと生き返った感じになったので、ここで筆を置いた。

ベラスケスに憧れ、レンブラントに憧れ、ひたすらそれだけを光として続けてここまでやってきたが、
あの確かで、しかもしなやかな線と大胆なタッチの中の強靭なフォルムの裾野にさえ至っていないことを
痛感する今日この頃だ。




                   「レゴンラッサムに扮する村娘」 油彩 20号P 2008年4月

                  









2008年3月31日 危機一髪起死回生の福音



それにしても昨年から今年にかけてバリの自分のギャラリーでも委託先のギャラリーでも絵の売れ行きがイマイチだ。
ここ5年くらいもうずっとそうなのだが、私も宮嶋もなかなか絵が売れていかない。一ヶ月に1枚も売れない月も時々ある。
これは大きな流れ的なもので、バリ島全体で絵画というものがあまり売れなくなってきている。

だから私たちだけではないのだが、そうは思ってもやはり先立つものがないと困る。
どんなに貧しくなってもいわゆる売り絵の類はさすがに描きたくない。
日本での絵と染織工芸の展覧会はまだ随分先だ。
いったいどうすればいいんだろう…。
特に今年は4月末に一時帰国するので、当面の日本での生活費も必要なのだ。

もちろん貯金など逆立ちしても無い。全く無い。何度逆立ちしてみてもコインどころか鼻血ももう出ない(TT)

もう今年こそダメか、と膝を折りそうになると、助け舟がどこからともなくやってくる。
この不思議な現象は、もう何年も続いている。

しかし、今回は家の修復をしてしまったので、いつものギリギリをはるかに越えてせっぱ詰まってしまった。
これがまずかった。ああ、修復などしなければよかった…(TT)

助け舟ももうさすがに来そうにない…。

と、思ったら、なんと昨年の日記にも書いた私の大恩人であり、偉大なるパトロンのY.Iさんから2月末に連絡があり、
ご自身が外科部長として勤める大きな記念病院に新しい建物が出来るので風の盆の絵を2枚いただきたいとおっしゃったのだ。

Y.Iさんはかれこれこれで十数枚私の絵をお持ちではないだろうか。
4〜5枚ほど持っていらっしゃる方は何人かいらっしゃるが、Y.Iさんほどの枚数を持っていらっしゃる方はいない。
なによりも彼ほどの目利きはまずいない。ちなみにY.Iさんは風の盆を舞台にした美しい脚本も書かれる。
私も一度読ませていただいたが、柔道と空手の有段者であるがっちりした彼の風貌からは想像できない
幻想的で美しい脚本だった。多才なのだ。

私が今まで描いた風の盆の絵の中でも売りたくないほど気に入っていた絵も彼には何度か持って行ってもらった。
昨年彼の元にお嫁に出したバリ島の踊り子を描いた「踊りの前」も私は好きゆえに売りたくないと思っていた絵だった。
このことは、昨年9月のこの日記に書いたので読んでください。
(後日病院に飾っているお写真をY.Iさんから送っていただいた)

彼なら自分が気に入っているがゆえに売りたくない絵を持って行ってもらっても信用できるのである。


やはり天は私を見捨てなかった…起死回生の福音…うるうる(TT)


それで、今回のお話。
Y.Iさんに買われるのだから、前回同様、私と彼、両方が最も気に入った絵をお嫁入りに出さねばならない。
で、私が気に入った絵たちからY.Iさんに最終的に選んでいただき、
男踊り一枚と、女踊り一枚(それぞれ20号)をお嫁に出すことになった。

そのうちの一枚を紹介しましょう(下の20号の絵参照)

これはおわら男踊りの中でも直線的でダイナミックな新踊りのなかの『大かがり』という所作で、
鳶が大きく空を舞う様子を表現したものである。
所作のかたち、勢い、リズム、…自分でも納得するできだ。

もう一枚の「女踊り」も自分でも気に入っている。
こちらはまだデジカメに撮っていないのでこの日記では「男踊り」の絵を紹介する。

これで、その大きな記念病院には、昨年の「踊りの前」と合わせて3枚私の絵がかかることになった。


病気や怪我で心が沈んでいる患者さんや忙しく働く看護士さんやお医者さんが、ふと空いた時間に
足を止めて、何気なくこの絵を見て、心を潤わせていただければ絵を描くものとしてこんな冥利なことはない。





                Y.Iさんが買われた「おわら風の盆.男踊り『大かざし』」 油彩 20号P

                    





                 







2008年3月22日 奇跡の復活、アグンライの白い花


私の親友だったアグンライが亡くなったのは、私が剱岳に登っていた2002年の晩夏だった。
それから毎年アグンライが植えていった白い花がバリのお盆のころになると
不思議に毎年何輪もの花を咲かせてくれたのだ。
あの白い花が咲きはじめ、散り終わるまでの数日間彼が私の家に滞在するのだ。
私は勝手にそう決めていた。
そして熱帯ゆえに、水と肥料さえ普通にやっていると毎年咲き続けるものだと思っていた。

しかし昨年はその根っこがだめになってしまって、枯れてしまった。
彼が亡くなる前の年に植えたのでかれこれ5年近く咲いてくれたのだが、
こういうのも寿命というものがあるのか、土が固くなったのか、肥料が足らなかったのか、
よく分からないが、とにかく枯れたのだ。昨年から水はけが悪くなったので根腐れしたのかもしれない。

なんとか再生させようと、土を入れ替え、肥料を撒きなおして、丁寧に世話をしたら
枯れてから1年後、なんと奇跡的に完全復活してくれた。
そして数日前に花が次々に咲いたのだ。

なにやら、アグンライがまた訪ねて来てくれたようで嬉しかった。

バリはもうすぐ雨季が終るが、ここに来て雨が続いている。
もう毎日雨雨雨…。





                 






                           















2008年3月7日 狂乱と静寂の日々



バリが最も狂喜乱舞する日が昨日の『大晦日』の夜。
バリが最も静寂で物音一つ電灯一つともらない日がこの『新年.ニュピ』である。

この両極端は凄い。



私の敷地の渓谷に流れるチャンプァン川。
その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが聞こえてくる。
車の音はもちろん、敷地からは人の気配は感じられない。
どの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。

午後までは快晴。夕方はスコールだった。そして夜半からは満天の星。
私も宮嶋も息子も深夜、新しく作った見晴台で一時間近くボケーっと夜空の天の川を見ていた。
なんとも贅沢な時間。究極のひとときだ。


この静寂は前も書いた通りバリ島中で行われる。誰もどこも例外はない。
この状態が24時間続き、これを書いている今、その静寂は終ろうとしている。

私も今日ばかりはアトリエで絵を描く以外ほとんどなにも行動しなかった。
夜はテラスの明かりを消して、部屋の中で映画を見ていた。




その反対に、昨日は夜中中魔よけのオゴオゴが5体も練り歩き、巨大な竹から発射される爆竹が鳴り響き、
若者たちがガソリンを口に含み火に噴射し、空中で爆発炎上させる。

小さな幼稚園児から、小学生、中高生、大人までそのオゴオゴは5種類に分かれる。

魔よけなので道幅いっぱいにわざと揺らしてジグザグに運ぶのである。そして悪魔を追い払うのだ。
葬式の時もこのようなことを行う。その姿はまさに『狂気』誰もそれを止めれないし、止めてはいけない。
さかんに、沿道の人たちが冷水を彼らに掛ける。『気』を入れるのだ。



百聞は一見にしかず、それでは私のギャラリー前を通過する瞬間の私の村の3つのオゴオゴをご覧下さい。





★まずは可愛いオゴオゴ。私の村の幼稚園児が制作したもの。一応魔よけ(^^;)
 オッチラオッチラ運んでいた。


              








★次は3月3日のバリ日記で、取材した、私のギャラリーの道向こうで制作していた中高生たちのオゴオゴ。
  息子の友人たちが作ったものだ。大人顔負けの迫力があり、これはもう完全に悪魔は退散すること間違いなし。


              






★次は20代の大人達が作った、本格的なオゴオゴ。さすがに造形力がある。
  揺らし方も担ぎ方もサマになっていた。悪魔の入る隙はないようだ


              



魔よけ儀式は深夜まで続き、お祈りをし、オゴオゴを焼き清め。ニュピの準備に入る。
そして夜明けとともに『原始の静寂』が24時間やって来る。


すべての汚れが清められていく一日だった。














2008年3月3日 遂に来たオゴオゴの季節!




いよいよニュピの日が近づいてきた。ニュピとはバリのサカ暦で『新年』にあたる。


このバリの新年である『ニュピ』は太陽暦とサカ暦のずれによって、毎年微妙にずれていくのだが、
今年の新年(ニュピ)は3月7日だ。

前の日の大晦日の昨日は島中で爆竹が鳴り響き、ドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行う。
そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。

この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。

私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。

さて、その大晦日に向けてのオゴオゴ作りもどの村々も佳境に入っている。
私の村もちょうど私のギャラリーの斜め前で2週間ほど前から大人は大人のグループ。少年たちは少年たちのグループで、
毎日夕方から魔よけの恐いヤツをそれぞれ作っている。

このオゴオゴは魔よけなので、大きければ大きいほど、恐ければ恐いほど素晴らしいのだ。
写真で見て分かるとおり、目がぎょろりとして顔全体が爆発したようなイッチャッテル顔なので、今年も悪魔がこの村に寄り付かないこと
請け合いである。作り方を誰に学んだわけでも無いのに実に上手だ。写真に写っているのはみんなごく近所の子供たち。
息子とほぼ同い年の子らだ。

私は、彼らが赤ちゃんの頃からこの村に住んでいる。今も外に出るたびに顔を合わす。だから彼らは私の心にもきちんと住んでいる。
そういう子らだ。性格も知っている。だからこのイベントには特別愛着があるのだ。







                    















2008年2月26日 今年も出来あがったオリジナル染織品


昨晩は忙しくて絵を描けなかった。
というのも、私の工房の職人さんが夜に私と宮嶋がデザインし、線を引いた壁掛けと暖簾を持ってきたからだ。

彼の名前はヘンドロと言う。私と同い年だ。
彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。歳月はほんと矢の如しである。

この写っている布は、まず私が『風の盆の男女混合の踊り』や雲や月、鳥、稲穂などを線画であしらう。
そのあと連れ合いの宮嶋が全体のコンポジションを決め、両端の手絞りの場所などを微調整する。
まあ、アートディレクターの役目だ。

そして、染色の職人であるヘンドロが最後に草木染をするのだ。時として私たちも手伝う。

風の盆の絵や鳥模様などを入れないで、宮嶋が手絞りだけのコンポジションで抽象模様のストールを作る場合も多い。
まあ、用途によっていろいろ作るのだ。

近年はこのようなオリジナルの染織作品が時としては油彩画よりも沢山売れる。
絵がそんなにも売れない私たちの影の大切な稼ぎ頭なのである。

特に宮嶋が12年ほど前からデザインを始めた手絞りの抽象模様のストールは、近年では私たちの手から離れ、
デザインが職人たちを通してジャワ島に流れ、そのジャワ島の東部の町々でたくさんの別の職人さんたちが宮嶋と同じデザインで
海外への輸出用ストールを作っており、日本を始め、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアから来るバイヤーの人々が
好んで何百枚もオーダーしていくようだ。

今や日本の多くの輸入雑貨店やネット販売などにも、かつての宮嶋のデザインがそのままの形で沢山並んでいるのを見聞きするにつけ、
いかに宮嶋の発案した最初のデザインが普遍的なコンポジションを持っていたか、近年ヘンドロも私もあらためて思い知ることと
なったのである。


そういう意味では一介の絵描きに過ぎない彼女も、インドネシアの染織文化の歴史の流れのささやかな一端を
確かに受け持ったと言えるであろう。こういう事象は私たちにとってとても愉快なことであり、ここに十数年も根を生やしてよかったと
思える数少ない思い出のひとつなのだ。


で、話は戻るが、今回出来上がった『風の盆』をモチーフにした何十枚もの作品をみんなで一枚一枚批評していると、
ちょうど息子がデジカメを持て来た。いつもは写真に撮られるのが余り好きでないシャイな宮嶋にしては珍しく、
今回染織作品がたくさん上手くいき気分が良かったのか、昨晩はヘンドロと一緒にスナップを撮られることをなんとOKしていた。
めったに無いことなので、彼女の気の変わらないうちにこの日記にもはやく貼り付けておこうと思う。





         左が私と同い年のヘンドロ。 右が宮嶋。 布は手紬ぎ糸使用、手描きろうけつ草木染めの『風の盆文様壁掛け』

             












2008年2月19日 最後に『見晴らし台』も作ってみました


母屋が完成したのでここ2週間ほど、ゆっくり休息するはずが、4平方メートルの『小ちゃな見晴台兼絵の制作場所』を作ってしまった。
作ったのは敷地の端、渓谷寄りの難しい場所。それゆえまたもや休息できなかった。ま、いつも休息しているようなものだったから
良しとするか。夜はちゃんとアトリエのテラスで勤勉に絵の制作をしていたので結構疲れた。

この小ちゃな見晴台は、母屋の改築時、テラスのタイルとセメントと石がちょっと余ったのがきっかけで、つい欲が出たのだ。
毎日スコールが1時間ほど降る中、1週間かけて息子と二人でえっちらおっちら作っていた。余りモノで作ったたった4平方メートル
の小ちゃな見晴台。それゆえほとんどお金はかかっていない。

土台の一番下は土地が斜めなゆえに難しいのでちょっと大工さんにも手伝ってもらったが、あとは家族でがんばった。眺めは最高である。
敷地の端から渓谷よりに2メートル以上突き出ているのでちょっとだけ鳥になった気分だ。眼下を鳥が飛ぶ。
渓谷の風景画もここで描ける。見晴台の『屋根』は見た目がうるさくなるのでつけなかった。(お金が無いからだろ ヾ(^^;))
だから雨の日は使えない。まあ、それもいいだろう。
本当は絵の制作よりも夕方からの風を受けてのんびり寝そべるのが一番の目的…。
実はこういうことがしたくてこの土地に居るのかもしれない。究極の隠遁生活だ。まあ半分人生を降りているゆえの幸せか…。
それにしてもネコたちと一緒に寝そべるのは実に気持ちいい。




                             2匹の猫と見晴台で遊ぶ私
                
                










2008年2月3日  ホロホロ鳥(ちょう)発見!



ここ数日、大工さんは休み。昨日は『クニンガン』と言って、お盆である『ガルンガン』が終わり、神様ご先祖様が
天上にもどる日なのだ。どの家々でもまたもやガルンガン同様儀式料理のサテとラワールを作り、供え、そして食べる。
もちろん私たちもおすそ分けをたっぷりいただいて思う存分食べた。今日もその余韻で大工さんはもう一日休み。

で、昼私たち家族だけで最後の仕上げの作業をしていると、敷地の奥ですさまじいがなり声がした。鳥の声のようだ。
しかし近所の鶏とも鴨ともガチョウとも違う声だ。とにかく凄まじく鳴き声が大きい。


数日前に猛毒のグリーンスネークが門の屋根に出現し、格闘した後、焼き殺したばかりなので、
体は戦闘態勢のまま維持している(^^;)ま、鳥の泣き声なので害は無いだろうと、興味深々でデジカメ片手に近づいていくと、
孔雀のような七面鳥のような鳥が3羽がなり声をたてて仲間を呼んで鳴いている。家で飼われていたものが
どこからかまぎれこんだのか、迷子になって遠くここまでたどり着いたのかわからないが、
とにかく鶏よりもでかく、獰猛そうである。しかし、どことなく愛嬌もあった。

1時間ほどひとしきり鳴きながら敷地の周りをぐるぐるしたあと、近くの森に紛れ込んで行った。

あとで調べてみるとあの鳥は『ホロホロ鳥(ちょう)』と言ってキジ目ホロホロチョウ科だそうだ。
高級食材で食鳥の女王として有名だとか。
普通はアフリカ各地で見られるというが、なぜかこのバリ島ウブドで3羽いたのだ(^^;)
危険を察知すると大声で『ホロホロ』とがなりたてるところからその名前がついたようだ。
私の耳には『ホロホロ』ではなく『ガァー、ガァー』としか聞こえなかった。それも大音量で!あーうるさかった(^^;)


母屋の方はほぼ完成。壁はお化粧に竹の編んだものをはめ込み、前の左右に大きなガラス窓をはめた。
ガラスと木枠の隙間にシリコンを入れて、入り口の上を竹で太陽の光模様にお化粧をしてふさぎ…、あとは
まあ、数日間細々した部分のフィニッシングとまわりをきれいにするだけだ。これでシンプルな母屋が完成する。
中は完成しているので私たちは数日前から、自前の家具や彫刻を置き、PCやテレビを置き、さっそく住み始めた。
こうして1ヶ月にわたる台所生活とスーパーヘビーな重労働からようやく開放されたのだ。この一ヶ月はみんな実に
よく働いた。肩がパンパンに張って、手のひらも指も爪もボロボロだ。

おまけに敷地に生えている大きな竹を何十本も使ったので、さすがに、あー疲れた。当分は体をしっかり休めたい。




                        大声で鳴き続ける3羽のホロホロチョウ  2月3日午後 敷地奥にて

                 







        テラスの前から見た母屋。今回は大きなガラスを左右にはめた。部屋の中は今までの1、5倍の広さ。天井が高くゆったりと住みやすい。
   
                 













2008年1月22日  バリのお盆『ガルンガン』がやって来た



一昨日から大工さんは休み。5日間はやって来ない。お盆だからだ。つまり盆休みっていうやつ。
村のローカルな店はこの期間はみんな休み。

バリの暦(サカ暦)ではこの期間は『ガルンガン』といわれる。ガルンガンは西洋暦とのズレが
あるので、毎年スライドしていく。今年は1月末がガルンガンになった。だから年末から子供たちは
ほとんど休みっぱなし。大人は大変だ(^^;)

昨日は儀式料理の『ラワール』をもらって食べた。
私はヒンドゥー教徒ではないので、私にとってはガルンガンとは『ラワール』を
腹いっぱい食べる日なのだ。あ、ちなみに『ラワール』とは豚肉や鶏の生肉料理だ。
これにはまるとやみ付きになる。全く臭みはない。独特の香辛料がくせになる。

ガルンガンは『お盆』なのでご先祖様が地上に降りてくるのだ。
この十八年間で亡くなった私のバリの友人たちも敷地に訪問してくれるのだろう。


大工さんが来ないので、ひたすら私たち家族だけで家作りを進めている。
昨日今日で、夕方遅くまでかかってテラスへの石の階段を2つ作り、経費を節約できた。

ようやく私の母屋も壁の骨組みが出来上がってきた。
このあとテラス側の前の壁に左右に大きなガラスが2枚入る予定。
先が見えるところまで来た。

おかげで絵の制作はここのところずっと深夜だ。
ま、涼しくていい。深夜なのである意味かなり集中できる。



                 前のアグンライの家寺も綺麗にお化粧がされ、お供え物がたくさん飾られている。

               







                 屋根の下の骨組みが入ってきた。電気工事も一昨日完了。完成がちょっと見えてきた。

                     











2008年1月14日  悪戦苦闘 油彩 『レゴンの衣装を着る村娘』


今日も夕方まで土木建築作業。

それでも、その後、前の家のアグンライの親戚の娘さんにレゴンの衣装を着けてもらい、肖像を描く。

レゴンクラトンの衣装はなかなか可愛いので今まで何十枚と描いてきたが、なかなかこういう華やかな被り物は
バランスが難しいのだ。華やかさに引きずられることも多い。
数日前も2時間描いたが上手くいかず、今日も新しくキャンバスを変えて1時間描いたが、なかなかタッチが決まらない。
またダメかと思いながら思い切って全部壊して、夕闇迫る頃、最期の20分でぐいぐいやり直した。で…、なんとか形になったかも。
ま、本当の感想は1ヶ月ほど後になって他人の絵のように自分の絵を見た時にわかるもの。
とりあえず今日は良しとしてこの絵はこれで止めた。ダラダラ加筆してもダメなのだ。





                     「レゴンの衣装を着る村娘」 2008年1月14日 油彩  F4号 

                   












2008年1月11日  家を作る楽しみ 土木作業の日々



もう台所に住み始めて2週間になる。別に台所が好きなのではない。
12月末から母屋を建て直しているのだ。屋根の痛みが激しくなったのでこの際思い切って
部屋を大きくして 全部やり直している。大してお金も無いので、大工さんたちにだけ任せていては破産するので、
私も宮嶋も息子もいろいろ手伝っている。今まで17年間でバリ島で六棟も七棟も家をデザインし、大工さんに混じって家を建ててきたので
『普請』は結構自信がある。もちろん難しいところは大工さんだが、簡単なパートはどんどん自力でやる。
チリも積もればで、最後は経費がかなり違ってくる。

と、いうことで暗くなるまで今日も土木作業。
屋根や柱は大工さんが作るが、土台や壁は私も手伝えるのだ。絵の制作は大工さんが帰った夕方遅くに描いている。
なかなか両立は難しいが、まあ、あと3週間ほどで完成しそうなのでその間は両方をがんばろうと思う。

絵だけ描いている日々より、なぜか食事が美味いから不思議だ。木を運んだり、土を掘り起こし、運んだり、竹を伐採したり、細く切ったり、
セメントをこねたり…などなど、土木作業というのはしっかり働いたという気持ちになれるので美味いのだ。




そういえば普段は怠け者の車寅次郎もそんなことが一度あった。

第35作「寅次郎恋愛塾」で、九州 上五島(中通島)で老婆と知り合った寅は彼女の最期を看取るという縁を得る。


「寅さん、じゃったね…。
 あなたにも神様のお恵みがありますように…」

その深夜 老婆は寅に見取られながらロザリオを握り締め天国に召された。



そして、翌日ヒーヒー言いながら、おばあさんの墓をしっかり掘ってやるポンシュウと寅。
久しぶりの汗を流した肉体労働のあと、差し出されたおにぎりや漬物を美味そうに食べる二人。




            



ポンシュウ「うめえなあ!」

寅「
働いた後だからな。
  労働者ってのは毎日美味い飯食ってるのかもしれねえな


ポンシュウ「そうだな」

おそらく寅が今まで食した食べ物の中で最も美味いものだったに違いない。

というわけで、私も寅同様、肉体労働のあとは何でも美味いのだ。







    屋根までは出来上がった母屋。絵画制作そっちのけで夕方遅くまで土台作りに励む私を息子がデジカメで撮ってくれた。

             













2008年1月7日  5年ぶりにTOPページの表紙アニメーションをリニューアル


雨季なんだけれども奇跡的に昼間から夜まで好天が3日ほど続いている。
もちろん時おり雨はあるが、なんとかすぐに止んで晴れ間が覗く。
それで、すぐにえのぐを搾り出して絵を描くのだ。今はアグンライの親戚の娘さんにレゴンダンスの踊り子の
モデルになってもらって油彩を何枚か描いている。たとえテラスで描くにしてもやはり雨よりも晴れていた方が
気持ちはいい。体がよく動く。

ところで、最近息子はフラッシュアニメを練習している。今までずっとGIFアニメで制作していたのだが、今回フラッシュのソフトを
使用し、遊んでいる。で、この前もご存知のように「寅次郎な日々」のフラッシュを作ったばかりだが、
ここ数日また何か作っているな、と思っていたら、なんと私のTOPページの表紙アニメを5年ぶりにリニューアルしようとしていた。

モチーフは2002年版と同じ「家の敷地で下の渓谷を描く私」だ。

下の渓谷の石切り場で石を掘り出すお兄ちゃんや、夕方目の前を飛んでゆく白鷺、赤とんぼ、などを取り入れて
最後に、風景が、絵にそのまま変わり、制作している私の背中が映っておしまいとなる。
前回も入っていた『YOSHIKAWA TAKAAKI』のタイトル文字は不要だと思ったので今回は消させた。

まだまだ『フラッシュ』を使い慣れていないせいか、『寅次郎な日々』のフラッシュアニメーション同様
ぎこちなさや稚拙さも残るが、せっかく練習で丸二日かけて作ったのだからと、親バカでTOPページに載せてやることにした。


昨日まで使っていたアニメーションはGIFアニメーション。息子が13歳の時に作ったものである。
これはこれでなかなか味がある。名残惜しいのでこれも一緒に今日の日記に貼り付けます。






     今回制作した  TOPページの表紙用フラッシュアニメーション  2008年1月6日制作


             








     昨日まで使っていたTOPページの表紙↓。息子が13歳の時にGIFアニメで作ったもの。2002年制作   


              














2008年1月1日  新年のご挨拶




新年あけましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
2007年は思い起こせば更新が遅れます事の数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ、

遥か遠く雨降りしきる南の島から皆様の幸せを
お祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画作品をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらず未だ愚かな内容ではありますが、
私のかけがえのない分身でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


遠き南の島にて

2008年 正月元旦  

吉川孝昭  拝







今日も、男寅次郎はさくらに新年の挨拶を電話で入れたあと、初春の風を受け、旅立って行くのでした。





              
             




そのころとらやのさくらたちは大忙し、いつにもましてこの年の正月はお客さんがいっぱいで、
新年の挨拶に来たマドンナも店を手伝っていました。

さて、この時の若く美しいマドンナは誰でしょう?(^^)

ヒント:上の場面↑で、寅が歩く町が分かれば作品が導き出せます。で、あとは簡単です。


             


              















2007年12月25日  台所で迎えるクリスマス


もうひたすら毎日雨だ。それもすさまじいスコール。

現在母屋の屋根を茅葺から瓦葺に変えてもらっている最中なので、いつにもまして慌しい年の瀬になっている。
毎年雨季の度に3週間に一度ほど屋根に上り、自力で雨漏りを修理してきたが、
もうさすがに萱が薄くなって限界が遂にやって来た。そこで思い切って屋根を朱色の瓦に変えてもらうついでに
部屋もこの際大きくしてもらうことに。
もちろんお金がそんなに無いので改築費節約のために私も家族もかなり改築を手伝っている。

もう18年もバリに住んでいるので、改築費用も、バリの人々よりも安くつかせることが出来るのだ。
こういうことは、ちょっとしたコツがいる。

★お金が無いときにあえて改築する。普通とは逆。
  お金に余裕があるときに改築や新築をすると集中力や工夫が弱く、必ず失敗する。
  お金が無いのであらゆる箇所、あらゆる場面で自然と工夫するのだ。

★建築材はなるべく地元の石や地元の材木を使う。ケミカルな出来合い物は使わない。

★南国幻想にありがちな余計なデコレーションや彫刻はしない。

★安くて信用できる材木店を数ある店々から前もってじっくり選び抜き、普段からいろいろ聞いて情報を確保しておく。

★上手で丁寧な仕事をしてくれるかなり年配の大工さん数人と普段から仲良くしておく。

★人任せにしないで進展具合を毎日常にチェックし、自分も手伝い、ペースを自ら作る。
  それゆえ、次に何をするのか、すべて自分も大工さんと同じように頭に入っていないと見透かされてしまう。


などなどだ。これでだいたい費用は、人に丸投げの場合と比べると7割くらいになる。そして材料もいいものが手に入る。
このようなやり方の欠点は、お金をたくさんかけた時よりも自分自身の手間隙がずっとかかるということだ。
私は『時間』だけはたっぷりある。まあ、散々バリで数々の建築に携わってきたので、母屋の改築など軽いものだ。

ということで、母屋は現在改築中なので、なんと今、昼間は台所で生活している。パソコンもテレビも台所に臨時に置いている。
私の家は母屋も、寝床も、台所も、アトリエも、風呂も、全部棟を違えているので、こういうことが出来るのだ。
しかし台所で暮らすのはどうも不思議な気分だ。ちょっとせまいし…。まあ、母屋の改築が終るまでのあと10日間ほどの辛抱なのだから、
面白い体験として楽しめばいいのだ。


で、今日はクリスマス。

毎年、それぞれの誕生日とバレンタインデーとクリスマスには、息子がケーキを作る。
もちろんスポンジも焼く。今年のケーキのデザインは下の通り。現代美術のようになんだかよくわからない形と飾り付けだが、
いつものように味は良かった。

ちなみに、私はケーキを食べた後は必ず、味噌汁を作って飲む。今日も宮嶋と一緒にけんちん汁を作ってみんなで食べた。
腹が『中和』を要求するのだろう。近年はゴボウが手に入るので助かる。







                     
















2007年12月16日 新作フラッシュアニメーション『寅次郎な日々』



普段は怠け者の高校生の息子が、久しぶりにフラッシュソフトを使って、アニメーションを作っていた。
最近は、フラッシュを使っていろいろなものを作っている。なるほど動きがスムーズだ。
モチーフはまたもや『寅ネタ』
彼は、私のように「男はつらいよ」依存症でもなんでもないが、幼い頃から
『男はつらいよ養成ギブス』を全身に取り付けられたかのように、この映画のことはよく知っている。
面白いような、可哀相なような…。

アニメ自体はなかなか上手く出来ている。
帝釈天参道が雲の切れ目から映るところがなかなか味わい深い。
参道の自転車や、旗や焚き火などが微妙に動いているところも気に入った。
円盤の影が雲に映ったりして臨場感もなかなかのものだ。
古い映画のフィルムに出来る痛んだキズ、いわゆる『雨』も再現していてなんだか小憎らしい。
息子の作品の中ではこれはまあ、完成度がちょっと高い部類だ。






                











2007年12月12日 これは何かわかりますか?


いよいよ雨季到来だ。ついに毎日雨が降るようになった。まだそんな長い時間スコールにはならないが、
時間の問題で雨量が増えていく。18年もバリに住んでいるとだいたいの雲行きや空の色であとどれくらいで
降り、何時間くらい続くかがわかるようになるから不思議だ。
私は絵を描くためだけにこの地で生きているのだが、自然に月の満ち欠けとともに生きている自分を発見して
苦笑いをしている。雨が降るようになると絵の制作は野外は少なくなり、当然アトリエやテラスが増える。
そうなると必然的に身近な人々を描いた人物画が増えてくる。私は人物画が好きで、描く絵の70パーセントは
人物画だ。残りは風景画。静物画はほとんど描かない。セッティングしたものはあまり描く気になれないのだ。
展覧会や委託で売れるのはバリの風景やバリの踊り。身近な人物を描いた絵は、褒められる事や感動されることは
あっても、ほとんど誰も買わない(TT)

しかし、これは悲しいことではあるが、自由なことでもある。絶対買わないであろうモチーフを描くのは実に快感なのだ。
初めて絵を描いた十代の気持ちが蘇ってきたりもする。あのころは売るなんて考えもしないでひたすらキャンバスに
絵の具を塗りたくっていた。ああいうのが絵ごころというのだ。

もっとも近年は、バリの風景画であろうがバリダンスの絵であろうがあまり売れなくなっている。 おいおいヾ(^^;)
今年もまた私の絵も宮嶋の絵もたいして売れなかった。ああ…(TT)小さな絵は時々出ていくのだが、それだけでは
到底食えない。(日本での展覧会の稼ぎがあるのでなんとかつじつまがあってはいるが)
現地で、絵が売れにくくなっているのは私も宮嶋もバリでも日本と同じ価格をつけているせいかもしれない。
私達の絵はバリの土着の絵と比べるとやはり高いのだ。
しかし、こればっかりは変えられない。日本からの私のお客さんも来るし、誰が見ているか分からないし、
どちらもほぼ同じにしなくては失礼に当たるからだ。それでもほんの少しだけバリで売る時は安くするのだがそれでも
なかなか買い手がつかない。

ま、…ということで、絵は相変わらずあまり売れないが、なんとか画集とポストカードが細々と売れているので日銭を稼げている。






さて、話は変わって、これは一体なんでしょうか?何か分かりますか?↓
私のテラスによくいます。


               





答えはカマキリです。
通称エダカマキリです。上↑のように擬態化されてしまうともう絶対分かりません。
小枝にしか見えません。私はしょっちゅうこのカマキリをテラスで見ているのですぐ見やぶってしまいますが(^^;)

ちなみに後ろで笑っているのは高校生の息子です。このサイトの全てのマンガとアニメーションを作ってくれています。

               











2007年12月5日 心がひとつになること  静かな名シーン


現在バリに住んでいるが、いろいろな方との縁あって、オリンピック野球アジア予選、
一昨日の日本対韓国と昨日の日本対台湾を幸運にもバリ島で見ることが出来た。

2試合ともなんとも緊迫した試合だった。2試合ともこれぞ日本野球。
ありきたりな言葉だが文字通りチームが一つとなっていた。なんだかしみじみうらやましく思った。
いい年をした酸いも苦いも知っているプロ中のプロがそうなっているのである。

2年前、WBCの時にも感じたことだが、シビレる試合とはこういうことを言うのだ。

MVPは間違いなく選手全員だろう。

適当に人当たりよく言っているわけではない。私は試合を何度も見た。ベンチで応援していた選手もコーチも、
コーチャーズボックスでゲキを飛ばしていた選手やも、みんな一つの気持ちになっていた。
遂に一度もグラウンドに出なかった和田や長谷部もだ。

いみじくも解説の東尾さんが言っていたように、星野監督の胴上げの時、誰もテレビカメラの方に向かってバンザイを
していなかった光景がなんともすばらしかった。全員が背中を向け輪の中の星野監督に集中し胴上げしているのである。



                  



MVPは阿部がもらっていたが、それはその通り、タイミングさえ合えば絶対にヒットにする技とキレとセンスは超プロ級だ。
しかし私なら、陰のMVPはやはり上原だ。そして優秀選手は、もちろん完璧な阿部をはじめとして、緊張のスクイズを決めたサブロー、
見事なチーム掌握とスライディングを見せた宮本、ここぞと言う時の頼れる新井、鉄壁の二遊間西岡と川崎。
粘りに粘って最小失点で抑えた若き先発投手陣たち、同じく必死で追続を断ち切った中継ぎ陣たち…特にあの韓国戦での8回、
岩瀬が投じた最後の内角ギリギリストレートは長く語り継がれるだろう。彼の精神力の強さを垣間見た瞬間だった。
…などなど、それこそ活躍した選手達は枚挙に暇がない。

今回の上原はまさしく完璧だった。あの上原が最後に控えてくれている。それだけでみんなどんなに心強かったか。
体のリズム、ひじ、手首、指の使い方…等々、完全に完成されている。すばらしい制球力。
マウンドでの完璧な自己コントロール。絶妙のフォークボールのコントロール。そしてなによりも国際試合連続22試合無敗の貫禄。

WBCでのあの韓国戦の上原の存在は私の記憶に今でも生々しく残っているが、今回もう〜んと唸ってしまった。
特に宿敵韓国戦はたった一点差で最後に登板。よほどの大投手でもこれだけの緊張した場面ではすんなりは終らせる事が出来ないものだ。

そして今大会で私がリプレイでなんども見てしまった場面がある。意外にもそれはゲームの中の決定的な場面ではなかった。

最後の台湾戦で、9回上原が、ブルペンからマウンドに向かう直前、ブルペンで一緒にいたピッチャーたちは、最後に汗を拭き、帽子をかぶる
上原を囲む。

上原はそんな彼ら一人一人の思いを受け止め、彼らと『グータッチ』を交わし、最後にブルペンキャッチャーを務めてくれた矢野捕手とも
交わすのだった。

彼らの熱い思いが全て上原に託されて彼はマウンドに上がっていったのだ。

あの映像に私は胸が熱くなり、思わず涙が潤んでしまった。






上原浩治と川上憲伸

                   



上原浩治と涌井秀章

                   



上原浩治と小林宏之

                  



上原浩治と岩瀬仁紀

                 



上原浩治と長谷部康平

                



上原浩治と矢野輝弘

                




私が見たかったのは、もちろん勝って歓喜に沸く日本チームの姿だが、実は本当に見たかったのは、やはり、
みんながひとつのことのためにひたむきにまとまっている姿だったのかもしれない。
この映像を見た時、私は心底彼らを誇りに思った。素晴らしいチームだ。来年夏に彼らに再び会える。
全員怪我無くオリンピックのグラウンドに立って欲しい。



それでは、静かでなにげないあの名シーンをアニメでどうぞご覧下さい。



                

















2007年11月21日   昼下がりのテンガナン村


バリに帰ってから、ようやく体をしっかり休めることができた。それで、2週間ほど日前からあちこちで絵を描いている。

数日前はバリで一番お気に入りの場所、バリ先住民の村である「テンガナン村」を取材。
今回は宮嶋も息子も一緒。天気に恵まれ、夜のとばりが下りるまで、たっぷり描かせてさせてもらった。

この村は私はもう何十回来た事だろうか。50回以上は来ているかもしれない。
私の住んでいるウブドからかなり離れているにもかかわらず、やっぱり来てしまうのだ。

風景画は、活きがいいことが命。大きな筆でぐいぐい描く。うまくいかないこともあるが、そんな時は
違うキャンバスをまたイーゼルに取り付け、気持ちを入れ替えて、エイッと描く。

息子は牛やアヒルや犬がたくさん道端で寝転がっているので面白がって長い時間飽きなかったようだ。
かなり奥地まで一人で入り込んでいったということ。

このテンガナン村の様式は先住民だけあってバリのほかの村と全然違う。全てが異文化なのだ。
この村の結婚相手はこの村の中で選ばなければならない。他の村人と結婚したい場合は、この村を出て行かねばならないのだ。
このようにして、この村は独自の文化を意固地なまでに守り通してきた。

今も村のいたる所に、プリミティブな場所や空気が違う場所があり、興味は何度行っても尽きない。
一言で言うならパワーが宿った村。それがバリ島東部の奥地テンガナン村だ。

とりあえず、気に入った絵が何枚か出来たので、その中の一枚を下に紹介しましょう。






                          「昼下がりのテンガナン村」 2007年11月17日 油彩  F4号 

                   










2007年10月31日   たとえ明日地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す


ようやく4ヶ月ぶりにバリに帰ってきた。バリの10月は乾季の最後。暑からず寒からず適度に雨も降るいい気候だ。
で、さっそくベットのマットを太陽の下に出し干す。

私の好きな映画『阿弥陀堂だより』の中で主人公の学校時代の恩師が布団を干しながら言うセリフを思い出す。

『たとえ明日、地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す』

私が大好きな言葉だ。こんなこころで生涯を送れればどんなに安らかだろう。

そんなこんなでここ数日は絵も描かず、ひたすらバリに体を慣らしていった。

ところで、今回からようやく私の住んでいるウブドも日本同様インターネットのADSLが開通した!

さっそく息子は大喜びで電話局の担当者に来てもらい私の家でも可能かどうか機械でチェックしていた。
チェックの結果『OK、使えます』ということで、さっそく古い電話回線を使わず、新しく丈夫な電話回線を
ジャングルの中200メートルに渡って木々の間を梯子を使って釘で止めながら私と息子で設置していった。
日本ではこういう時は電話局かなにかの専門の人が来て電線工事同様やってしまうのだろうが、この田舎のジャングルの中では
そんな悠長な事は言ってられない。
なんでも自分の足と手でやるしかないのである。まあ何度もやってきたことなので慣れてはいるが半日たっぷりかかった。

日本の普通のADSLと比べてかなり遅い速度であるが、それでもダウンロードが飛躍的にアップし、日本のyou−tubeのような動画が
普通に見れるのでこのウブド村では歴史的な進歩である。

ま、だからといって私のこの地での生活が飛躍的に向上するわけでもなんでもないのだが、インターネットを一番使う息子はとにかく喜んでいる。
あまりパソコンを使わない連れ合いの宮嶋は、まあ、今までのワイヤレスでもADSLでも結局は無制限(アンリミテッド)なので
どちらでもよさそうな顔をしている。スピードの違いは彼女にはさほど興味が無いらしい。その気持ち私も分かる気がする。

とにかくだ。『たとえ明日地球が滅ぶとも晴れた日は布団を干す』ことのほうが大事なことだけは確かなのである。




                    チャンプァン渓谷の風を受けながらマットを干すことからバリ生活は始まるのでした。
                  












2007年10月14日   尾瀬の森からの贈り物


ここ一週間はもう涼しいを通り越して肌寒い感覚がある。
こうなってくるといよいよ秋真っ盛りだ。私の誕生日は、今日10月14日。
今日のように空が高く、透明な冷たい風が吹く日に私は生まれたそうだ。

後数日で、関西空港からタイのバンコクへ旅立つが、その間際の今日、嬉しい贈り物が届いた。

『きらっしゃい.尾瀬の森映画祭』のスタッフさんであるNPO『尾瀬和楽舎』のKさんがなんと蛾次郎さんの直筆色紙を送ってくださったのだ。
「きらっしゃい」とは群馬県の片品村の言葉。「いらっしゃい」「お越しください」の意味。なんともいい響きだ。


『尾瀬の森映画祭』は、尾瀬や利根沼田の自然を活かした人間との共生を掲げる群馬県片品村のNPO『尾瀬和楽舎』が中心になって
2005年から片品村文化センターで松竹山田組スタッフ、キャストの皆さんとの交流をしながらユニークな映画祭を続けておられる。
片品の人々がみんなボランティアで長い期間準備をされ、ひとつひとつ地道に積み重ねていかれた本当に手作りの温かみのある映画祭なのだ。


山田洋次監督の作品に求める日本の風景を、同じく自然が豊かな尾瀬の麓、片品の地でシンクロさせ、関連付け、そしてもう一度日本を
再発見することはとても意味がある行為だ。


その映画祭の準備期間の時にKさんと私は、越中八尾と尾瀬の片品で何度かメールのやり取りをし、私も超微力ながらこの映画のことや
画像処理、チャプター、プリントのことで助言などをさせていただいた。また私のサイト『覚え書ノート』も少しは役に立ったようだ。

 
当日は、映画『男はつらいよ』第1作上映をはじめ、佐藤蛾次郎さんや備後屋,さんでお馴染みの山田組スタッフ露木幸次さんなどの
トークショウも開かれた。屋外では、面白いミニイベントや懐かしい縁日や出店を復活させたりもしたらしい。
 

それで、Kさんはお礼の意味を込めて今回蛾次郎さんからいただいた色紙や手作りの『源ちゃん名場面集(NO1〜NO4)』ポストカードを
送ってくださったのだ。私は、生業の染織の展覧会が重なり、現地にも行けなかったし、ほとんど何のお手伝いも出来なかったが、
Kさんのその心が嬉しかったので恐縮しながらも贈り物をありがたくいただいた。

色紙はさっそく手持ちの色紙額に入れてアトリエの壁に飾らせていただいた。



尾瀬の森映画祭に関わられた全ての皆様に感謝の意味を込めて、
いただいた品々を今回この『バリ日記』の中でご紹介させていただきます。





似顔絵と日付が入っている蛾次郎さんの色紙と源ちゃん名場面集の数々。   さっそく額に入れました。嬉しい…(〜〜)

         





きらしゃい.尾瀬の森映画祭の公式ページはこちらです→ http://www.maron.gr.jp/ozefilm/


このあと10月17日に関西空港からタイのバンコクへ出発します。
バリへ戻るのは10月末になると思います。
それゆえ、更新は10月末以降です。











2007年9月20日   『今朝の秋』って感じです。


ようやく先日金沢郊外での最も大きな展覧会が終わった。もうすっかり秋の気配だ。『今朝の秋』って感じだ。

あとは、10月の初旬に行われる自分の住む八尾町の『アートフェスティバル』の3日間を残すのみとなった。
それが終わったらバンコクへ向い、10日間ほどタイに滞在した後、10月23日ごろにバリに戻る予定だ。
今回の滞在中はいつにもまして深夜に映画やテレビのDVDを見続けた日々だった。

シリーズものだけでも『白い巨塔.田宮版全話』『早春スケッチブック全話』『ふぞろいの林檎たちT全話とU全話』
『北の国から全話+8スペシャル』『優しい時間全11話』『Dr.コトー診療所2003、2004、2006全話』『時間ですよ71年、73年全話』
『寺内貫太郎一家全話』『寺内貫太郎一家2全話』といったところか。それ以外にも「男はつらいよ」以前の山田洋次監督作品を
もう一度全作品見直した。
あとは単品で見たいものを30作品程度ランダムに見た。新作も見れるかぎり見た。どこに掘り出し物があるか分からないからだ。
近年は半額レンタルや100円レンタルの期間があるのでさほどの出費を考えなくても大量にDVDを借りれるようになったのが助かる。

読書は、仕事の美術書以外では、今回は映画関係の本が多かったように思う。キネマ旬報をもう一度数十年分読み返したり、
面白く過ごさせていただいた。おかげでこの数ヶ月間慢性の睡眠不足で何度か体調不良で寝込んだが、現在はすっかり睡眠も
取れているので体調は回復。

そして肝心の生業である絵と染織のそれぞれの展覧会は長年のコレクターさんたちのおかげで、なんとか目標に到達した。
これで来年もなんとかギリギリ生き延びれそうだ。凌いで凌いで、生き延びるしかないのだ。
特に最後の金沢での展覧会では多くの方々に助けていただいた。感謝以外の何ものでもない。
しかし、それでも限界がゆっくりではあるが近づいてきている気もしないでもない。先は依然としてまったく見えない状況だ。

と、いうような状況ゆえに、なかなかこのサイトの更新ははかどらず、第3作「本編完全版」も第28作「紙風船」ダイジェスト版も
作業が大幅に遅れている。

いつも書いているように、大量の充電ができなければエネルギーを吐き出すこともできない。どうかご理解ください。
それでもなんとか9月末には第3作『フーテンの寅』の一回目の更新だけは成し遂げたいと思っている。

最後に…

昨日は、『阿修羅のごとく』の映画版を見た。四人姉妹の中で、深津絵里さんが美しく光っていた。
連れ合いだった奥さん(八千草薫さん)に先立たれてしまった、浮気亭主(仲代達矢さん)が、三女の滝子さんがお膳を拭いている
姿を後ろからしみじみ眺めて、そっと「母さんそっくりだ…」とつぶやくのである。
気配を感じて、お膳を拭きながら、ふと振り返る深津さんのお姿は美しかった…。
あまりに気に入ったので、パソコンの壁紙にしたところだ(^^)ゞ






               











2007年9月1日   ようやく嫁がせた油彩『踊りの前』


今年の展覧会はまあまあ好調だ。特に初日に来られた私の一番のコレクターさんであるY.Iさんが長年私が気に入っていた絵を買ってくださった。
Y.Iさんはもう私の絵を10枚以上お持ちの方だ。つくば市の、ある大きな記念病院の外科部長さんをされているのだが、この度、私の15号の絵が
新築の病棟の美しい待合室にかけられることになった。

一般的には大きさに比例して値段をつけるのだが、特に気に入った一枚か二枚の絵だけは私は相場より1,5倍くらい高めにつけてしまう。
それゆにそれらの絵はお嫁に行き遅れてしまうのだが、描いた側としては手塩にかけた可愛い娘だからいつまでも手元に
置いておきたい気持ちも強いのだ。こういうことを本当は絵描きは決してしてはいけない。当たり前である。しかし私の業がそれをさせてしまうのである。

数年前に私が開いた個展の時も二枚ほど高い値段をつけた作品があり、案の定売れなかったのだが、
その絵にずっとその頃から目をつけておられたY.Iさんは果敢にも今回の展覧会に展示していなかったにも関わらず、その絵を見せてほしいとおっしゃり、
見たとたん譲るようにおっしゃられた。数年前から狙いをつけておられた感じだった。こうなるともう私の負けである。

そして案の定私のつけた例の言い値で何の躊躇もなく買われた。
この方の絵の買い方はいつもながらきっぷがいい。間違っても値切ったり、私の顔色を見たりしない。
今回もその絵がいつもの私の絵より何割か高いことを百も承知で一発で買われたのだ。彼に言わせれば何年来の恋が実ったような気持ちだったそうだ。
私にしてみれば、可愛い一人娘を嫁がせる父親の気持ちだった。しかし嫁ぐ相手が、私の一番のコレクターさんであり、パトロンである
Y.Iさんなら、承知できない理由はもうどこにもないのである。私などが持っているよりずっとその絵を大事にしてくれるのは明白である。

Y.Iさんは一度たりとも、買う時の目に鈍りを見せたことはない。必ず私が気に入っている絵を自然に選ばれるのだ。
それも静かに黙って見続けた後、一言だけ意思表示をされる。真のコレクターとは彼のような人のことを言うのだろう。
私のあの絵も彼のような方に貰われて幸せであろう。





                  今回Y.Iさんが買われた 「踊りの前」 2000年7月ごろ制作 油彩 F15号  

                  












2007年8月26日   雨上がりの越中おわら風の盆



現在、越中八尾町では風の盆の前夜祭が始まっている。毎夜毎夜旧町のどこかの町がおわらを踊り、おわらを演奏するのである。
今年の前夜祭は雨がちだが、雨がやんだら、すぐに演奏を始める。また雨が降ると楽器が傷むのですぐにやめる。
どなたも観光のためにやっているわけではないので、見に来た人は、雨が上がれと祈るのみ。

雨上がりのおわらは格別だ。雨が降ると風が涼しくなることと、見る人が少なくなるので、風情が増す。
さっそく取材。素早く何枚かスケッチ。その後アトリエで30分ほどで一気に仕上げる。雨が上がったあとは大きな赤い月が出ていた。





                          「雨上がりのおわら風の盆」 2007年3月4日 油彩 F4号
                       
                   







2007年8月12日   ただいま栄養をバンバン補給中


とにかく帰国してからずっと多忙だ。この「日記」や「覚え書ノート」がなかなか更新できない。
純粋な生業としての仕事だけなら絵の展覧会、染織工芸の展覧会と、絵画制作だけなので、時間にまだ余裕があるのだが、
それとは別に『自分へのストックの時間』が必要なのだ。

私は8ヶ月以上日本を離れていた。だから、その間に、見ようと思っていた映画(DVD)、書籍(絶版もの多し)を1ヵ月半以上かけて
深夜2時ごろまで一気に集中して見、読んでいる最中なのである。

それらは遊びといえば遊びなのだが、自分のエネルギーのもとなのだ。自分の精神の懐を深くするための欠かせない栄養素なのである。
車で言うとガソリンみたいなものだ。熱エネルギーがないと、物体は動かないのである。

もし、それらの活動を遊びと言うのなら、このサイトも遊びだし、私が絵を描くことだって遊びといっていい。

帰国してから1ヵ月半以上経つが、それらの合間をぬってのサイト更新はなかなか進んでくれない。でも、これを読んで下さっているみなさん、
どうかご理解ください。私はほとんどテレビも見ないし、いわゆる娯楽施設にも行かない。世間の義理も欠きっぱなしだ。で、ただひたすら、
毎日、外やアトリエで絵を描くか、旧作映画のDVDを見るか、複数の図書館で借りてきた何十冊と言う山のような書籍を読んでいる。
これをしないで、文章を書いていると、自分がスカスカになってくるのだ。いわゆる充電というやつだ。で、このサイトのそれぞれの更新は気長に
お待ちください。

ところでここ2週間ほどで日本はようやく夏になった。これでようやく朱夏だ。これくらい暑くなると私の体調はすこぶる良い。
もちろん扇風機もエアコンもまったく要らない。汗はかくが平気である。食欲もバンバンにある。とにかく気温が27度以上になると私は
生きかえるのである。もう、完全に体が熱帯動物に変化している。バリ島での17年間はそれほどにも私の体を変えてしまったのだろう。

私の自宅の食堂の横に中庭がある。毎年帰国すると7月は紫陽花が咲き、10月は紅葉が色づく。植えたわけではないので勝手に根付き
育ったのである。

嗚呼…今日本にいるのだなとしみじみ思える空間である。このような日本の花を眺める時間も充電のひとつであろう。




              











2007年7月8日   聖少女の舞踊『レゴンラッサム』のデッサン 


いつもの年ならまだバリ島にいるのだが今年は絵や染織工芸作品の展覧会の都合ですでに富山に帰ってきている。
早く帰ってきた分、新聞やテレビも取材に来てくれて、そのせいか、売り上げは結構上がっているので、良しとしよう。
なにはともあれ作品たちを気に入ってくれるのはありがたいことなのだ。早く帰ってきた甲斐があったかも。

ただ、ちょっとバリに残してきた3匹のネコたちが心配だが、アグンライの家族がいつもどおり世話をしてくれているので
まあ大丈夫だろう。例年なら1ヵ月後の8月中旬に帰ってくるのでおわら風の盆の踊りの作品などを載せるのだが、
今はまだまだその季節ではない。

で、今日は踊りは踊りでも、バリの踊りの絵を貼り付けようと思う。帰国前に描いたレゴンの衣装を着た村娘のデッサンだ。
バリ島の舞踊はご存知のとおり世界的にも有名で、連れ合いの宮嶋も8年間以上もSTSI(バリ芸術大学)の客員教授でもある
70歳をとうに過ぎたおばあさん宅に通いつめ、今のレゴンダンスの原型となった、いにしえの古典舞踊の指南を受けた。
バリ舞踊を、メモリーとして習ったり、趣味で習ったりする人は多いが、宮嶋のように10年近く週に何回も通い続ける人は
ほとんどいない。ましてや古いバリの舞踊など、バリ人だってほとんどそこまではしない。
だから、宮嶋は仕事は絵描きだが、実はある意味、人のうかがい知れない境地と普遍的な『型』で踊りを踊ることができる。
ほとんどの人々は振り付けは1年ほどで覚えるが、『アガム」といわれる『型』の習得はできない。私の知る限り最低でも
5年ほどはかかる。センスのない場合は何年指南を受けても身につかない場合も多い。ちなみに宮嶋はその舞踊の習得後、
富山県の砺波にある神社の祭礼で、深夜、真っ暗な中、神様に捧げるこの踊りを奉納したこともある。


このレゴンという舞踊(一般的にはレゴンラッサムと言う。旅行者にはレゴンクラトンLEGONG KRATONという名前の
ほうがわかるかも)は、本来は、まだ大人の女性になる前の、強いインスピレーションを持っている少女が選ばれ、
訓練を受け、大事な宗教儀式の際に踊るのである。バリ・ヒンドゥー教にとって『踊り』はとても重要な意味合いを持ち、
ウパチャラ(宗教儀式)やオダラン(寺院祭礼)などではメインの儀式として人々最も大きな関心事項になっている。
バリの人々にとってバリ舞踊とは神様に捧げる『貢物」なのである。すなわち踊りを見せる相手は村人たちでなく神様なのである。

近年では私の住んでいるウブドなどで数多くのグループによるレゴンの観光客向け定期公演が行われているが、もちろん現在でも
本当の祭礼や儀式の際に舞踊は奉納され神様に捧げられている。

私はこの舞踊が好きで今までに数え切れないくらい描いてきた。このデッサンの子供(10歳くらい)もこの30分ほどのポーズのあと、
宗教儀式の踊りのために緊張の趣で寺院へ出かけていくのだった…。



             「レゴン.ラッサムの衣装を着るウブドの村娘」 2007年6月 鉛筆 バリの手漉き紙 B5縦長

                   










2007年7月4日  燃やさずにはこの世界の闇を灯せはしない。

再びの『Dr.コト−』 吉岡秀隆さんの声
 

日本に帰国し、いきなり展覧会の搬入と会場通いの毎日で体調を崩してしまった。いつもの年ならこれくらいの忙しさは平気なのだが、
今年は梅雨の時期に帰国したせいか意外に日本はまだ寒い。富山県八尾町の家の温度計は25度を上回ることがない。これは、
私にとっては辛いのだ。気温が25度を下回ると私にとっては「冬」だ。それゆえにガクッと体調が悪くなると言う宿業を背負ってしまったゆえに、
夏以外は日本に長く滞在できないのである。で、昨日からスケジュールを調節し、遠出を控えて、自宅の二階で暖かくしている。
日本のじめじめした肌寒い梅雨を経験するのはなんと13年ぶり!なので体がびっくりしたようだ。
思いがけず時間ができたので、「男はつらいよ」の更新作業をしようと思ったが…、なぜかそれは先延ばしにし、バリでずっと思っていたことを
実行した。私は、『Dr.コト−』2003、2004、2006を丸一日かけて一遍にもう一度見たかったのだ。

私はどうしてこんなにもこの『Dr.コト−』というテレビドラマが好きなのだろうか…。いつも自分の中で自問している。
だいたい民放の連続テレビドラマは昔からほとんど見ない。どれもこれもくだらない質のものが多いからだ。どんなに話題に
なっていても大抵第1話第2話あたりを見て、失望し、止めてしまう。ましてや繰り返してみるに値する連続ドラマなどほとんどない。
NHKのドラマだって録画に値する物はほとんど見当たらない。なかなか『今朝の秋』や『早春スケッチブック』のような傑作は誕生しないのである。
大抵は暇つぶしにはなっても自分の人生とはほとんどシンクロしない。特に連続テレビドラマになるとほぼ全滅状態だ。連続ドラマの中で歴史に
残るものといえばあの膨大な長編ドラマ『北の国から』くらいか。あのドラマの価値は今後もっと高まっていくのは間違いないだろう。

で、Dr.コト−である。コト−先生こと五島健助は病気であろうが怪我であろうがことごとく治してしまうスーパードクターなのだが、
だからといってそういうヒーロー的な部分が気に入っているわけではない。別に柴咲コウさんのファンでもない。実際私がこの長い連続ドラマの
中で、最も気に入っている話は、コト−先生がたった一度だけ病気を治せなかった、あの『あきおじ』の物語なのである。この物語の格は
あの話の中にある。あれがコト−先生の原点であり、このスタッフ、キャストたちの原点であり、吉岡秀隆さんの新しい役者人生の原点であり、
見ている私の新たな原点でもある。

人間の生きる実感というのは、病気が治ることとは別のところにあるということを、あんなに静かにあんなに優しく謳いあげたドラマは他にない。



                 



もちろん名演出の中江功さんをはじめとしたスッタッフたちの気持ちの入れ込み具合が一般のテレビドラマを遥かに超えていることは
誰だって見ていれば分かるのだが、それだけで私がこう何度も見ることはないのである。

まずすぐ分かる理由のひとつには、このドラマが亜熱帯の島(ロケは与那国島)のせいもあるだろう。私は30歳で東京の教員生活を辞し、
熱帯のバリ島に暮らしてもう十数年になるが、このような人生がコト−先生に対する共感に繋がっているのは間違いない。
しかし、それだけならほかにもそのような亜熱帯移住ドラマは昔から何本もある。

それでつらつら考えて、今回もう一度ドラマを全て見なおして、ようやく今、自覚できたことがある。それは吉岡秀隆さんの声だ。
コト−先生が、患者さんや家族の人たちに言う言葉『大丈夫ですよ』をはじめとした全ての言葉の波長がとても良いのである。

私の主治医さんがかつて言った言葉に『治せる病気は必ず治しますが、治せない病気は治せません』がある。
このことはあきおじだけでなく、全ての生きる人々にいずれ最後は訪れる宿命なのだ。人はその時までを誰とどこでどう生きるか、
ひたすらそこに人生はかかっている。
だからこそ、決して元の体に戻ることがない彩佳さんのお母さんの手に寄り添うお父さんの手を見て私たちは救われるのだ。



                 



そしてそれらの全ての原点に『あきおじ』の話がある。

『命は神様に。病気は先生にだ。』

だから医者は患者の心に寄り添い『大丈夫ですよ』と白魔術をかけてあげることが大事なのである。しかしそれはテクニックの
問題ではない。方法論的、技術的な域をでない言葉は患者は見抜く。患者は敏感になっているので医者の『お仕事』を見抜くのである。
そんな一人一人に気持ちを入れていたら生身の医者の身が持たないのが現実の医療なのは百も千も承知で、それでも私はコト−先生が
持つ言葉の『気』とその丁寧な触診に今日も救われ、生きているのだ。自分と真摯に向き合い続けるゆえに深い悲しみを常に抱え、
その絶望と向かい合って、闘い続けてきた者だけが発することができるあの声と言葉。見る人の血流までを変えることができる役者さんは
日本の俳優さんの中では吉岡秀隆さんしかいない。彼はある意味、命を削ってあの言葉を発していることが私には分かる。誰も信じないかも
しれないが、あのような芝居は、ただ一生懸命すればできるものではないのだ。いつも言っているように役者はその時一生懸命頑張れば
人の心を打つ芝居ができるほど甘くはない。絵描きも役者も歩んできた人生が全て出るのだ。

もちろん彼は未だ若いゆえに体には影響はないが、心身の限界まで突き詰めているのはわかるのである。だからこそ、彼の言葉を聞いて
私のからだの凝り固まり、錆付いた血液がサラサラ流れ始めるのである。

人は歩んできた道でしか人を変えることはできない。渥美清さんが私の血流をサラサラにしてくれるように、吉岡秀隆さんのその飛びぬけた
センスと感受性、そして孤高の決意と長い日々の実践が私を救ってくれる。

考えてみれば悲しいほど残酷な話だ。人知れず命を削り、人生に傷を負いながら何かを作らないと受け取る人は人生が変わらないのである。
なんて受け取る人たちというのは傲慢で我侭なのだろうか。しかし、それは古今東西の紛れもない真実であり、逆に言うと、命を賭けて何かを
成し遂げる行為こそがこの世で真に報われるのだとも言える。自分の命を燃やさずにはいつの時代もこの世界の闇を灯せはしないのだ。




                







2007年5月22日  『映画人の一分』 『武士の一分』 聴こえて来る美しい和音  
 

不思議な縁あって、『武士の一分』を見せてくれる方がおり、こんな地球の果てで、帰国前にDVDで見ることが出来た。
バリの月夜を眺めながら徳平じいさんのぼそぼそ声を聞くのも悪くないなと思えた夜だった。



【最高のラストシーン】




新之丞
「徳平」
徳平「え、 へえ」
新之丞「また鳥籠買わねばの」
徳平「へえ、…んだの。 ツガイの、小鳥ものう…」
新之丞「フフ、 だの…」



まず、全ての良い悪いの前評判も、役者の経歴も取っ払って真っ白な心になってから見た。

とてもシンプルで濁りのない作品だった。私の中では時代劇三部作の中で最もスッキリした後味のいいものになっていた。
山田監督にはこのシンプルさがあるから好きだ。
そしてこんな心が和やかになるラストシーンは久しぶりである。
たとえ主人公が目が見えなくても、そんなもの関係無しに見事な愛の賛歌のラストである。
バックに流れる富田勲さんの音楽が、あの美しいラストをさらに引き締め、いつまでも私達の中に余韻を作ってくれた。
繰り返すあの低音のリズムがたまらない魅力だった。才能とはああいうことを言うのだ。

家族、幸福の黄色いハンカチ、、はるかなる山の呼び声、寅次郎ハイビスカスの花、等々
山田監督のラストシーンというものは濁りがない。

ああ、見てよかった。見る意味のある時間だったと心からそう思えてくる作品というものは
そうそうあるものではない。決して大作でも、派手でもないシンプルで淡々としたこの映画は、それでもお金を出して見て
決して損はないない数少ない映画だと思う。




            




【チームで作り上げた木村拓哉さんの『位置』】


なによりも木村拓哉さんが淡く美しく光り輝いている。そしてその微妙な芝居の階調を熟したスタッフとキャストが
丁寧に掬い取り、美しい和音に変え、絶妙のハーモニーを作り出している。このことは、心を透明にして見れば分かることだ。

あの木村さんの感覚を不協和音と見た多くの人は、この作品を理解できていないのだと思ってしまう。
もしくは私とはそもそも感覚が違うのだとも思う。

あの役は彼でしか出来なかった。真田広之さんや永瀬正敏さんでは、あの三村新之丞はもっと『それらしく』なる。
その結果、緩急のバランスが弱くなり全体が硬くなってしまっただろう。渡辺謙さんでもあそこまでイメージは広がらなかった。
木村さんだからこそ私達は、自分のこととして身につまされるように泣き、笑い、幸福感に浸れるのである。

ちなみに、剣道における基本は木村さんもかなり出来てはいるが、最も大事な足さばきや腰の入り方、立ち姿、格闘時のスケール、
などは真田広之さんの方が木村さんより格上だ。その部分は二人は人生が違う。目が見える見えないではなく、やって来た
道のりが違うのである。しかし、今作品は実はそういう体育系のチャンバラ映画ではない。男女の愛の賛歌である。

木村さんのまろやかで微妙にはにかむあの表情と庄内弁が、重くなりがちなこのテーマを中和し、再度見たくなる余韻を
作ってくれたのである。もしあの彼の『純情』を事前に山田監督が見抜き、起用したとすれば、山田監督の中に、よほど強い
イメージがこの作品に対してあったと言えるだろう。とにかく全体の中の彼の『位置』がとてもいいのである。これはある意味、
バランスを考え続けたスタッフとキャストたちの勝利だとも言える。私はこの鉄壁のチームワークに唸り、舌を巻いた。

また、時代考証に支えられたすべてのもののあり方や生活様式、『灯り』や『音』へのこだわりは三部作とも尋常さを遥かに超えていて、
この部分への執着はどんなことがあっても集中力を切らさない。相変わらず、この組のスタッフたちにはさすがの一言しかない。

チームワークの中では、笹野さんの間合いは凄まじい。やっぱり彼は『役者』だとつくづく思わされる。そして、加世を演じた檀れいさんの
間合いもこれまたいい。木村さんとのバランスを考えた、絶妙な間合いは、静かなスケールさえあり、すでに完成された大人の風格を
感じさせられた。

ある意味、みんなが坂東三津五郎さんや小林稔侍さんや緒方拳さんになる必要はないのである。
いや、そうなってもいいものは実は出来ない。ここが全ての芸術に当てはまる不思議なところ。
今回の映画を観て思ったのは、坂東さんや小林さんや緒方さんは、確かに様になっているし、実際貫禄も有りすぎるくらい有る。
しかし、ひょっとして彼らの代わりは探せば実はいるような気がしないでもない…。
しかし、木村拓哉さんの代わりはひょっとしていないんじゃないかと、ギリギリではそういうことだと思う。

重々しい正統派の時代劇は一見非の打ち所がないように見えるが、実は作品自体に余韻がなく、現代に生きる私たちにとって
イメージが広がらないものになっていることがしばしばある。ま、要するに重々しくは有るが硬直していて一本調子で退屈なのである。
映画というものはみんなで作るもの。それゆえ、ハーモニーが大切だということは私はすでに「男はつらいよ寅次郎相合い傘」で
学んでいるのだ。


ちなみに、笹野高志さんが演じた新之丞の父の代から務める中間の徳平役は実はとってもおいしい役である。映画人なら
誰でもわかる。あの役こそがこの物語の核なのだ。身分も格好もみすぼらしい冴えないじいさんだが、見て分かるように、
実は、物語的には陰の主役だと言ってもいい役なのだ。だから、あの役をもらった時点で、その役者はかなりおいしいのである。
そして笹野さんの凄いところは、スタッフや観客の期待を遥かに上回る、静かなれども大きな力強い芝居を今回見せてくれたところだ。
中間の爺さんのふにゃふにゃした中に黒光るあの腰の据わった静けさと間、貫禄はなかなか出せるものではない。笹野さんの懐は深い。
近年の笹野さんの演技は凄いのだ。




               




とにかく適材適所。この映画のまとまり方は尋常じゃない。撮影、音楽、美術、効果録音、編集、衣装、小道具、…
どれも全体の中でバランスを崩してはいない。ひとつひとつのパートがこれ見よがしに力んでいるわけでもない。
熟したスタッフと熟したキャストによって作られた濁りのない極めてシンプルな夫婦の愛の物語である。

山田監督の『映画人の一分』をしかと目に焼き付けさせてもらった。


最後に、桃井かおりさんのあの濃ゆい『味』にはニヤつきっぱなしだった。
「翔んでる寅次郎」から28年の歳月が流れ、本物のいい女優さんになられたことを実感しました〜(^^;)

あ、もう一つ、加世さんの『芋がらの煮物』を一度でいいから食べたいでがんす(^^)


6月末に一時帰国します。次回更新はそのちょと後になります。





2007年5月22日  雲の上で読む『絵の話』


2週間前から。パソコンがひどい状態になっている。まず最初はまったく起動しなくなった。
友人のパソコン屋に見てもらい。マザーボードを変え、完全にOSを入れなおしたらかなりよくなったが、今度は2時間に一度ほど
勝手に消えてしまう現象が起きた。CPUの熱暴走かはたまた後ろのコネクションが悪いのか、マザーボードの相性が悪いのか
よく分からない。いろいろ試してもいいのだが、ちょっとめんどくさいのでこのまま今は使っている。←おいおいやばいよそれって… ヾ(^^;)
描いても描いても反比例するようになかなか絵が売れていかないので(TT)修理もできるだけ小さくしたいのだ。とほほ。
買い換えるなんてもってのほか。マザーボードの交換だけでもヒーヒー言っている状態だ。ううう…。
まあもっとも、6月末に一度日本に帰国するから、それまで騙し騙し使い、9月末にバリに戻ってくる時に、しっかり修理するしかない…(TT)

日本で使っているノートパソコンは何年も前から瀕死の重傷だし、いやはや機械というのはなかなかやっかいだ。お金もそれなりにかかる。
ま、そのおかげで、こうして日記を書いたり、ページを作成したり、多くの方々とメールのやり取りをさせていただけるわけだから
これはこれで良しとしている。サイトを運営しだしてからいろんな人の意見を伺い考えの幅ができたって言う感じか。
また、友人や知り合い、先輩方、後輩たちのサイトを読んで、近況を知り、ヒントをもらったり、頷いたりもしている。15年前なら考えられなかった
ことだ。ジャングルの中に引越し、完全な隠遁生活をしだしてから5年以上たったが、サイト運営は、数少ない私の『外』との交流と言えよう。


それと、『先輩』で思い出したが、このサイトの『リンク』のページにも紹介させていただいている、私の大学の大先輩である画家の菊地理氏が
先月から、またもや雑誌に連載を始められた。数年前の連載は『わーずわーす』というアジア文化を紹介する雑誌だったが、
今回はANAの機内誌『翼の王国』だ。
日本の飛行機会社の機内誌の中で前々から私がもっとも気に入っているのが、この『翼の王国』だ。機内誌とは思えない充実した内容と
吉田カツさんの表紙が印象深い。

今回は、『わーずわーす』の時と違って、長丁場になるとの事だ。そして最後はなんと本になる可能性もあるとのこと。
昔も書いたように、私は菊地氏の勢いのある躍動的な絵と、肩肘張らない読みやすい文章にとても魅力を感じ、ブログもホームページも
欠かさず読ませていただいている。画集も持っている。特に絵の話の内容はとても面白く、なによりためになる。ぐいぐい引き込まれていく
不思議な魅力がある。なぜ、あのようなユニークで感覚的な文章が世の中にもっと広がらないのかずっと不思議に思っていた。
その辺の評論本や美術書などより菊地氏の文章のほうがずっと魅力的だ。で、今回ようやく日本中にその文章が広がる機会が訪れようと
している。

菊地氏によると、残念ながら機内誌なので、店頭販売はしていないとのこと。しかしANAに乗れば、日本中、世界中、必ず座席についてくる。、
ANAに乗ればどこでも読めるのだ。もちろん、私のように定期購読をANAに申し込めば簡単にできる。1冊300円ちょっとで毎月届けてくれる。
私はこんな地球の僻地に住んでいるので、毎月は読めないが日本に帰って、実家に預かってもらっている『翼の王国』をまとめ読みする
つもりだ。あのパワフルな文章が雲の上で読めるなんて実に面白い(^^)ちなみに私はANAの会員である。

下に、菊地氏のホームページより拝借しました画像を添付いたします。どうぞ、ANAに乗る機会のある方は是非お読み下さい。



                 



菊地氏のブログはこちら。 イッキ描きブログ 菊地理の油絵作品と絵の話

ホームページはこちら。   イッキ描き ギャラリー http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikkigaki/











2007年5月8日  漆黒の闇を照らす一筋の光  

今日、委託で置いてもらっている画集やポストカードの集金を3ヶ月ぶりにしてきた。近年私も宮嶋もなかなか思ったように絵が売れなくて
文字通り自転車操業の日々が続いている。だいたい今から10年ほど前の売り上げの半分以下になっている。昨年の後半に、委託で置いて
もらっているギャラリーで、ポンポンポンとテンポよく、アメリカ人2名と、なんと南アフリカ共和国の方々に絵を買っていただいた。ちなみにこの
17年間、バリ島で私の絵を買ってくれる人はオランダ人、フランス人、イタリア人などのヨーロッパ人が結構多く、次いでアメリカ人、
シンガポール人、オーストラリア人、そして地元インドネシア人あたり。意外にも日本人が私の絵をバリ島内で買うことはなぜか滅多にない。
もちろん日本の展覧会では当たり前だが日本人ばかりなのだが(^^;)不思議だ…。そのかわりポストカードのような小物や画集は日本人も
バリでよく買ってくれる。ありがたいです(^^)

しかし!、せっかく今回まとまって売れたのに、インドネシアのイミグレーションが気まぐれで滞在ビザのシステムを一斉に変えてしまったので、
急遽12月にバンコクにビザを再度取得しに行かねばならなくなり、その時の売り上げのほとんどをその費用に使ってしまった。ああ…(TT)
その後は忘れた頃に小さな絵がぽつりぽつりと出るだけで、なかなかシビアな神経戦が今年もまた続いている(^^;)ヾ

そういう時、小物であるポストカードや画集がコンスタントにさばけていくと助かるのだ。いわゆる日銭が入ってくるからだ。
しかし、今回、いろいろチェックしてみるとポストカードはいつものようによく売れているが、画集の方がいつもの半分も売れていない!…うううう。
画集は単価が高いのでいつも臨時収入が入り助かっているのだが、今回は残念…。今のところなんとか生き延びているが、
またもや真っ暗闇の未来へ突入する勢いである(^^;)私がいつも助けていただいている佐々成政の重臣、井口太郎左衛門の言葉
『一寸先は闇、一寸先は光でございます』の中の『闇』が結構続いている。ま、しかし、近年は慣れっこになってなんとか、しのいでしのいで、
上手に負け戦を戦っている。もちろん絵描きになってから勝ち戦などはほとんどしたこともない。いつも負け戦か引き分け…。ま、駄目な時は
なにをやっても駄目なのだが、知恵と我慢でふにゃらららとなんとか乗り越えてしまうのだ。

当たり前だが、近年、絵があまり売れなくても餓死したり、栄養失調にならないことがわかってきた。この発見は実はとても大事なのだ(^^)
そしてこのことはギリギリの状況を数多く体験し、体で覚えないと分からないことなのだ。人は意外に死なないし、欲を捨てればひょうひょうと
生きていける。

学校の教師を辞め、バリ島で本格的に絵を描き始めた17年前はすぐにお金がなくなって絵を止めなくてはならなくなるかもしれないと
恐れていたが、お金がなくなっても、ギリギリのギリギリでなんとかなるものである。お金がないと余計なことに対する欲望がなくなる。
無いものは無いので諦めることができるのだ。遠くへの旅行や、50号以上の大作の制作、などはポンと平気で諦められる。
それでもどこかで不安は付きまとい。私の人生もかなり悲惨で危ういなと沈んでしまう時もある。そのような時は車寅次郎のあの無欲と
身軽さを思い出し、ゴッホの手紙を思い出し、恩師坂崎乙郎先生の講義を思い出し、同じ画家である先輩の言葉を思い出し、
親友がかつてくれたひとつの手紙を思い出す。

それは正に漆黒の闇の中の細い一筋の光。

そして偶然だが、ちょうどさきほどポストカード補充のために、ハガキ類が入った箱をチェックしていたら、上で書いた親友がかつて私にくれたその
ハガキの文章が載った個展のDMが出てきた。私は彼のこの言葉が好きで、1993年10月東京の京橋で大きめの個展をした時、そのDMの
中で使わせてもらったのだ。

それは、当時、エゴン.シ―レ展を見に行った感想を私が彼に読んで欲しくて送ったハガキに対して丁寧に返信してくれたものだった。



光を生きながら消費している―。
本当にそうなのかもしれない。

刻一刻、身体的にも思考的にも変化していて『永遠』なんてものはないのだろう。
でも、もし変わらないものがあるとすれば
うつり変わっていく身体の「光の輝き」そのものかもしれない。

例えばシーレの絵を見つめていると、
その光に僕は小躍りしたくなるような喜びを感じた。
「やっぱりこれで良いのだ。」と。
たぶんシーレの肉体の独自の光は煙も灰もでない輝きそのものだろう。

僕は決して観念的、宗教的になっているわけではないよ。
シーレの絵を見て君を考え、坂崎乙郎さんを考え、ゴッホを考え、
職場のおじさんを考え、私の友人たちを考える。

先のことは見えないが恐れは消えている感じがする。
そしてまた、やっていこうと思う。



このハガキからもう二十年近く経ったが、今もなお、この言葉を胸に抱き、
私は今日もこの地球の果てで紙に線を引く。

2002年より私がバリでの本格的な隠遁に入ってしまったため、ここ数年は彼とは会っていないが、
彼もまた遥か日本で、絵を描き、音楽を奏で、そして草花や木々を育てる静かな日々を今も送っているに違いない。




       
5月になると、少し涼しくなったバリ島です。南半球だからね。(アトリエのテラスより)

             








2007年4月19日  僕もこんなに大きくなりました


ようやくバリ島の僻地ウブド村でも3月末から無制限ワイアレスインターネットの格安サービスが行われるようになった。
バカ高い料金設定のものは以前からあったのだが、ようやく日本なみの安い料金設定になってきた。それで試しに使ってみることにした。
使ってから今日で10日ほど経つが、もちろんADSLじゃないので相変わらず速度は遅く、やはりダイヤルアップ並みにしか出ない。
しかし、まあ無制限定額制なのでお金のことを気にしないで済む。このことがなによりも救いだ。それに今までのダイヤルアップよりも
かなり安い。それに、電話回線に水が入ろうが、さび付こうがワイヤレスには無関係なのでサイトを更新する時も以前よりはトラブルが
少なくなるかもしれない。なんせ、私の家の電話回線は私が自分で200メートルのジャングルの中を独力で引いたものなのだ。
それゆえこの数年間にダイヤルアップ接続のトラブルは無数にあり、それこそ日常茶飯事だった。

しかしそれでも油断はできない。専用モデムではなく、携帯電話内臓のモデムを使って電波を拾っているゆえ、極めて心細い(^^;)
いわゆる、日本なら外出時に臨時でノートパソコンなどの横に置いて使用するようなものを、日常で使っているのだから違和感はある。
しかし無制限定額制格安料金はビンボウな私には応えられない魅力だ。速度がダイヤルアップ並みに遅いとは言え、接続料を
気にしないで使えるなんて夢のようだ。今年の末ごろにはウブドにもADSLが来るらしいが、それまでの繋ぎでしばらくは使おうと
思っている。

ところで、例の、捨てられていた猫を拾ってきた話を2ヶ月ほど前に書いたが、(2月16日の日記参照)
あれから、すくすく育ち、今では下の写真のように大きくなった。ウチに前からいるプータという猫に似ているので『プーマ』と適当に名づけた。
名前はいつも連れ合いの宮嶋が付けている。あまり考えないでパッと決めるのが面白い。





        2月15日の来たばかりのプーマ                       4月15日の大きくなったプーマ
         












2007年3月19日  『とらやの草団子』を作るニュピの前日


明日からはバリ島の新年が始まる。バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』なので、明日3月19日が新年である。
この新年はニュピと言われ、この『新年.ニュピ』は毎年微妙にずれていくのだが、今年の新年(ニュピ)は3月19日だ。
前の日の大晦日の昨日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの化け物『オゴオゴ』が町中村中を夜中まで練り歩き、
お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を鳴らす。こう書いている今夜の1時でも、まだ村のあちこちから大きな爆竹の音が
聞こえてくる。そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。後5時間ほどか。

この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。

私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。私の連れ合いの宮嶋などは一年中ニュピでもいいと言っている。
私も一週間に一度くらいこういう日があっていいと思っている。

で、大晦日の今日はなぜか『とらやの草団子』を作って食べた。と言っても私や宮嶋が作ったわけではない、息子が作ってくれた。
ここ数年デザートはほとんど息子が作ってくれる。宮嶋が一度教えると、息子は完全に把握してしまうのであとは自分で改良に改良を
加えてほとんどプロ並みに作りあげる。乾燥ヨモギは日本から良質の物を持ってきた。小豆や白玉粉は現地でいいものが手に入る。
柴又へ行くと必ず私は、とらやのモデルになった『木屋の草団子』を食べるが、あの味である。さあ、腹も満たされたし、あとは、
ひたすらニュピが終わるまでジッとしているだけだ。渓谷の音を一日中ぼんやりただ聴いているだけ。そんな日があっても面白いではないか。






                 












2007年3月4日  停電の日に『バリの農夫.アグン』を描く


いやはや、今日は起きたらいきなり停電。ここ数年バリ島は停電が少なくなってきている。
うまくいくと1ヶ月丸々停電が無い月もあるくらいだ。7、8年前まではちょっときつく雨が降ったり、
雷が鳴ったり、風がきつく吹いたりするとすぐ停電になった。それも4時間、5時間は当たり前!
なんていうぶっ続け停電だ。ヒマラヤに行った時、下のポカラという町で丸4日間ずっと停電になった時は、
ネパールという国の奥深さを思い知らされたが(^^;)さすがにインドネシアはそこまで酷くは無い。
しかし、今日の停電は長かった。夕方遅くにようやく復旧。原因は不明(^^;)とにかく村中停電。

ま、停電や断水ごときでびくつくほど私はやわくない。そんなものハナからあてにはしていない。
いつものように粛々と絵を描く。最近はアグンライのお父さんを何枚も描いている。
今日も私の敷地の竹で作られた垣根を直してくれたので、ちょっとコーヒーを出して休憩してもらい。
その時に一気に油彩で描く。アグンライのお父さんは最近白髪が増えてきて、以前より随分渋くなられた。
彼の顔がなぜか私は好きなのだ。バリの古きよき時代の顔。インドネシア語は一切話さずに、バリ語で
話しかけてくる。生粋のバリの農民だ。普段は田んぼ作り、時々下の川で石切。時々木登り。そして
時々私の敷地の手直しを手伝ってくれる。彼の仕事はとても丁寧で美しい。亡くなった奥さんは儀式の
お供え物を作る仕事をしていた。このご両人のもとに生まれ育ったアグンライが彫刻の仕事をしていた
ことは実に納得できる。『血』というものはあるのだ。




                    「バリの農夫.アグン」 2007年3月4日 油彩 F6号

               









kagakutokokei

2007年2月22日  ふたつの『日高川』 村上華岳と小林古径




昨日、「寅次郎な日々」に第29作「寅次郎あじさいの恋」のかがりさんの隠された情念のことをちょろちょろと
書いた時に、かがりさんと寅のあの関係はまるで、お能の『道成寺』で有名な『安珍と清姫の物語』のようだ
とふと思った。



「法華験記」
や「道成寺縁起」などによると「安珍清姫の物語」はこうである↓。


平安中期、紀伊国牟婁郡真砂の家の娘(清姫)は熊野詣での途中で宿を借りた
僧侶の安珍を見て恋に落ちる。
安珍恋しさのあまり、清姫は安珍の寝床に夜這いをかけて告白する。
安珍は、なんとかその一途なまでの情念をそらそうと、嘘をつき、その場をごまかす。

参詣の帰りにはきっと立ち寄るからと騙って、参詣後は立ち寄ることなく行ってしまった。

待てど暮らせど安珍は戻ってこない。
騙されたことを知った清姫は怒り、狂ったように髪を振り乱し裸足で走り続け
安珍に追いつくのだ。しかし安珍は再会を喜ぶどころか逃げ腰で、人違いだ
と嘘に嘘を重ね、逃げ出そうとするのである。

不誠実な安珍に清姫の怒りは爆発し、遂に蛇身に化け日高川を渡り、安珍を飛ぶように
追いかけ、道成寺に逃げ込んだ安珍を鐘の中に見つる。清姫は鐘に巻き付き、
遂には火を噴いて安珍を焼き殺してしまうのであった。
安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水自殺する。

蛇道に転生した二人はその後、道成寺に現れて供養を頼む。
住職の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、
天人の姿で住職の夢に現れた。

この二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と
法華経の有り難さを讃えて終わるのだ。



かがりさんの一途さはこの「清姫」にも通ずる怖さがある。




           





で、何が言いたいかというと、この「安珍清姫」を題材にした日高川の場面を描いた2枚の絵をさきほど
思い出したのである。
私は、学生時代にたまたまこの下の2枚の絵を実際に見ている。どこの美術館のなんという展覧会で見たかは
忘れてしまったが、絵自体はあれからもう20年以上経っているのにまざまざと覚えている。


物語に忠実なのは見て分かるとおり小林古径の絵だ。清姫の恐ろしいまでの情念を直接的に描こうとしている。
それにたいして村上華岳の清姫は、なにか彷徨い、悲しんでおろおろしているようだ。愛情のその果てにある
激しい『業』を内側から表しているとも言える。

まあ、しかし、それらの解釈は本当はどうでもいい。物語など何も知る必要はない。

問題は絵の造形である。絵は全て抽象なのだから『絵』として見なければならない。
なんなら上下ひっくり返して見たっていい。必ず同じ感動が待っている。

村上華岳の『線』を見て欲しい。この線のリズムは凄いの一言だ。こんな線を描ける人は今の日本にはまずいない。
山も木も清姫も川も空も全て線で響きあっている。正に線の勝利だ。動かし難い造形。これだけ省略しても山は正に山、
木は正に木、地面も川もリアリティに溢れている。抑制された絵画的空間の中に確かな形がうごめくように息づいている。

小林古径は、いかにも風景や人物を『動』的にとらえて、一見格好がいい絵だが、しかし効果が先走り、
結局は絵が説明的になっている。絵の中に形が無く、スカスカだ。色も飽きる。
いや、そもそも土俵が違うと言ったら小林さんに失礼だろうか。
あ、一応言っておくが、小林古径もそん所そこらの日本画家ではないのだ。それはもう凄い線を描く人なのだ。
この『日高川』を題材にした戦後の他の絵描きの絵と比べると、いかに小林古径が凄いか分かる。
その小林古径の絵がスカスカに見えるほど村上華岳のこの線は揺るがし難くそして生きている。

私は村上華岳は明治以降の日本画の画家の中で最も好きな人の一人だが、その中でもこの絵は一番感動した。
「絵」とはこういうものを言うのだ。逆さまにしようが、一部だけ見ようが、どこからみてもこの絵の冴えは動かし難い。








                      




左.村上華岳
  日高河清姫図
  1919年(大正8年)
  絹本.彩色 .軸
  143.0×55.3
  1幅


右.小林古径
  『清姫(その6) 日高川』
  1930(昭和5年)
  紙本・彩色・額(全8面の内1面)
  48.9x130.4












2007年2月16日   新米猫がまたまたやって来た。




一週間前に、染織の仕事で職人さんの家に打ち合わせに行った時、敷地の裏にあるゴミ捨て場で猫の泣き声が
ずっとしていた。私が聞くと、彼らが言うぶんには、隣の家の人が屋根裏で育っていたたくさんの野良猫のうち2匹を、
あのゴミ捨て場に捨てに来た。と言っていた。私は「あー、またか…」と思いながら、その子猫の場所には近づかないように
していたのだが、その家のおかみさんが、私に見せるために持ってきてしまったのだ。見てしまったら、もう無視は出来ない。
私が引き取らなければ、この雨季の中この猫は数日以内に死ぬだろうことは、猫の格好と表情で分かった。
見るからに『明日までは持ちません、ダメですワタシ…』っていう風体をしていた。

私は、このような場面に遭遇するたびに、仕方無しに家に猫を持ち帰っては、育ててきた。
今飼っている大人になった3匹も元々捨てられていた猫が産んだ子供が一匹と、捨てられそうになっているのを、
もらって来たのが2匹である。
そして、この日、またチビ猫が増えて合計4匹。今までにこのような形で育てた猫は20匹を下らないだろう。
一時は8匹くらい同時にいたこともある。

まずぬるま湯と石鹸でしっかり洗ってやり、病気用の目薬を差し、猫用のミルクをやる。数日で結構健康状態は快復し、
今日でちょうど一週間目である。

他の大人猫も最初はチビ猫を警戒していたが、今日あたりから一緒に餌を食べていても唸らなくなった。
ようやく共存できる体制に入った。オシモの習慣は猫によってうまい猫下手な猫があるが、このチビはうまいほう。
あまり世話を焼かせないで、指定のお砂場でけっこうしてくれる。えらい!ここが飼い主には最も大事なところ。

この名前もまだ無き子猫の未来に幸多からんことを祈る。




                      引き取って3日目のチビ

              




                  ようやくみんな、仲良くし始めた。

         











2007年2月9日    猿、毒蛇、サソリ、そして第49作「寅次郎花へんろ」の台本


今年は世界中どこもかしこもちょっとヘンな気候だが、このバリ島も明らかに例年より雨が少ない。
昨年の今頃は雨雨雨の連続、しかし今年の雨季は降ることは降るが半分くらい。
そのせいで先日からまた部分断水。一日に5時間ほど水道が止まるのだ。まあ、貯め水用のタワーを
取り付けているから大丈夫なのだが、それでも少し心配だ。でもおかげで雨季にもかかわらず風景画も
描けてちょっとラッキー(^^)

で、たまにしか雨が振らないので、スコールの後は、いろんな動物が餌を求めてここぞとばかりやって来る。
先週はこの日記にも書いた「オオトカゲ」 そしてなんと3日前は、猿!。私の敷地の木で木の実をあさっているのを
野犬たちに見つかって降りれなくなっていたのを宮嶋が見つけた。デジカメを部屋に取りに行った隙にどこかに逃げてしまった。
撮影に失敗(TT)ここから4キロのところに猿の森があるので、そこからはぐれたか、ハブになった猿が、このあたりの
ジャングルで棲息しているのであろう。

そして2日前はなんと大きな毒蛇が蛙を探しに敷地に現れたのだ。例によってウチの猫たちが唸っているので
またもやオオトカゲかと、デジカメを持って、外に出てみると、見たこともない大きな緑色の毒蛇が猫と睨みあいをしていた。
バリ島では毒蛇と言うと緑色をした小さな蛇(ウラール.ヒジヨウ)だ。体は小さいが、噛まれると死ぬことがある。
しかし、2日前に訪問されたのはもっとでかい、もっと獰猛なヤツだ。山奥の川や谷の奥深くに棲息し、雨の後などに
蛙やヒヨコを狙いに来る。私は17年の滞在で島民がもっとも恐れるこのデカイ毒蛇をはじめて見た。
もっとも息子は5年ほど前、もっとデカク獰猛なコブラを見つけていたが…。

ただ単にデカイ蛇は、昔、敷地で4メートルの大蛇(ニシキヘビ系)を見たが、今回は毒蛇なので全身の毛が逆立つほど
緊張した。しかし猫のおかげで見つけることができてよかった。バリ人は、毒蛇を見つけたら必ず成仏させる。蛙やヒヨコなどの
味をしめてまた再来されたり、卵を近場に産んで繁殖されるのを避けるためだ。とにかくここは頑張らねば、と思い、
デジカメで数枚撮ったあとは、丈夫で長めのこん棒を探し、真剣に格闘し、何とか蛇君には昇天してもらった。
その具体的な闘いは今思い出しただけでも汗が出るのでここには書きません(^^;)
剣道を若い頃していて少しよかったかなとも思った。こん棒の頭部への打突が正確だったのでなんとかなった。ま、なにが役立つか
分かりません。あーこわかった。噛まれていれば、まず死んでいただろう。その夜に駄目押しで12センチくらいの「サソリ」にも遭遇。
これは時々出没するので慣れているが、刺されると時々重症になる。これも成仏させなくては増えてしまうので同じく短い格闘の末
昇天されました。蛇君、サソリ君ごめんね。合掌。

そして、またまた嘘みたいな話だが、なんと昨日も大きな2メートル級の蛇が敷地をうねって蛙を追いかけていた。
これまた猫たちが唸る。しかし今度は普通のシマヘビ系。毒は持ってません。OK。で、早々に帰ってもらった。







       この画像を近くの農民に見せると、こいつは獰猛で噛まれるとまず助からないと言っていた。怖すぎ(TT)

          






怖い話題をしてしまったのでお口直しに下の絵をどうぞ。



2007年2月10日追加

昨日息子が「第49作寅次郎花へんろ」の台本を書いていた。
書いていたと言っても台本の中身を書いていたわけではない。
「台本」のイラストを描いていたのだ(^^;)
この台本を見開いて、心行くまで脚本をスミからスミまで読んでみたいものだ。
ちなみにこの台本は山田監督所有のものらしい。それで、「山田」と書いてあるのか。
なるほどである。テープで補修したり丸めたりして相当使い込んであるなあ。





               












2007年1月31日    白い花。そして西瓜と藁草履



私の敷地の白い花が今年も咲いた。この鉢の中の花は2003年9月に42歳で亡くなった私と同い年の
親友であったアグンライが、亡くなる半年ほど前に私のために山から持ってきて鉢に植えてくれたものだ。
この白い花が咲くたびに私は彼を思い出す。そして在りし日の彼との思い出を辿るのだ。

彼は、その昔亡くなったお母さんと同じ病気になったが、私がいくら勧めてもジャカルタでの手術を拒み、
聖水と漢方薬だけを頼りに自宅で療養をし続けた。病気になってからも、体調のいい日は仕事の彫刻をしたり、
絵を描いたりしていた。

次第にやせ衰えて行く様子が痛々しかったが、彼が自宅にいてくれたお陰で、亡くなる少し前まで私は彼と
四方山話をすることができた。彼は随分苦しそうだったが、時々涼しくなった夕暮れ時などは、ティンクレックという
竹の打楽器をテラスで演奏したり、私と一緒にワールドカップの話をしたり、散歩したりして心は落ち着いていた。

私は、仕事をどうしてもキャンセルするわけにはいかないので、一旦日本に帰って展覧会を次々にこなしていたが、
その時に彼は亡くなった。私はその最期に間に合わなかった。なくなる前日に、部屋の前の小道を人が通った時、
「孝昭が帰って来たのか?」と家族に聞いたそうだ。彼の家の敷地を通って私はいつも自分の家に戻るからだ。

最期の2ヶ月ほどは家族たちは昼となく、夜となく苦しむ彼の世話をしなくてはならないので大変だったと思うが、
彼は生まれ育ったその敷地で最期の時を迎えることができたのだ。あんなに若くして亡くなってしまうことが
どんなに無念だったか、想像すらできないが、ただ、彼の最期の日常は穏やかだったと聞く。




命は神様に。病気は先生にだ。

これは吉岡秀隆さん主演のテレビドラマ
「Dr.コトー診療所(2003).第8話『救えない命』」で、
志木那島の農家の老人『あきおじ』こと山下 明夫さんが、大腸がんの
手術を本土で行うことを拒否し、「コトー先生」こと五島健助先生に、
島での手術をお願いする時の言葉だ。




       




あきおじは、もし自分が死ぬとしても好きなコトー先生の手にかかって死ねるのなら本望だと言う。
長年丹精込めて耕してきた西瓜畑の土地にも愛着がある、とも言う。
藁草履作りは子供たちに伝承しているほど上手。そういう意味でもこの島を離れたくないのだ。


そして命は神様にしか分からないと言う。


結局、人は誰でも必ずいつの日か死ぬ。
それまでの黄昏を何をするか。そして誰と共に生き、誰に見守られて死にたいか。
最後の黄昏の日々をどんな風景を見て、どんな音を聴いて暮らしたいか。
人はただそれだけである。生きる長さでは決してない。



私はその昔、ちょっとした病気をし、不安に陥った時、
長年お世話になっている主治医の先生に優しく諭された言葉がある。


「治る病気は必ず治します。治らない病気は治せません。」

この言葉を私は心に持ちながら今日も日本から遠く離れた辺境の地で生きている。


第48作「紅の花」の渥美さんも、スクリーンで見る限りはとても辛そうであったが、
私は、彼は自分の人生を全うしたと思う。悔いの無い人生だったと確信がある。
最後まで彼は「役者であること」を選んだのだ。



すべての人には天命がある。

この「Dr.コトー診療所」というドラマでは、いろんな人が病気やケガをこれでもかというくらい
するが、まあことごとくコトー先生が治してしまう。スーパードクターなんて巷では言われてもいる。

しかし、『あきおじ』の天命だけは変えることができなかった。


そして、その命が終わるその日までコトー先生も彩佳さんも患者と寄り添い、
共に生きていったのである。
このことこそが、人の間に生きると書く人間としての務めなのだろう。

あきおじは日々思う。
ここからは庭の木が見えるし海の音も聞こえる。
鳥が鳴いているのも、孫達が遊ぶ声も、それから息子が
役場から帰ってくる足音も全部わかる。そしてなによりも毎日コトー先生や
彩佳さんが顔をだしてくれるのが嬉しい…。

ゆったりとした静かな日々…。


しかしやはり別れの日はくる。


あきおじが亡くなった日、無力感が押し寄せるコトー先生。


そんな時、息子さんからそっと手渡されたあきおじの部屋にあった手紙と藁草履。


手紙はこう記されてあった。



コトー様 

夏 涼しくて 冬 温かい 
わしの自慢は
西瓜と藁草履
人生で このふたつ

あきおじ




遂に泣き崩れるコトー先生。



コトー先生の、そして吉岡秀隆さんの、新しい第2の人生はこの『あきおじ』
の手紙と残された藁草履から本当にはじまったのではないだろうか。

彼は今日も、あの手紙を心に持ち、藁草履を履きながら生きる。



この「Dr.コトー診療所」は、近年のテレビドラマというものが好きじゃない私が、
珍しくぐいぐい引きこまれたドラマである。日本にもこういう、確かな人の
息づかいや風の音が聞こえてくるテレビドラマが誕生する土壌がまだ
残っているのだと安心した覚えがある。映画では出せないテレビドラマ
ならではの軽快な臨場感がなんとも言えず快感だった。


そして、吉岡秀隆さんの新たな出発がはっきり見て取れる記念すべきドラマでもある。

彼の白衣をひらめかして優しい南風が吹き抜けていくような、そんなドラマだった。





        




(先日バンコクでまとめて見た2004年度版も、2006年度版も実に良かった。
 モチベーションは落ちてはいなかった。これは滅多にない凄いことである。
 そのことはまたいつの日か書きましょう)














2007年1月16日    体長1、5メートルのオオトカゲ現る!



先日アトリエで絵を描いていると、敷地の端で猫たちが「ウ〜〜〜」っと唸っている。
こういう時はだいたい蛇がいるのだ。
どんな蛇だろうと、遠くから覗いてみた。もし毒蛇なら大変だからだ。バリの毒蛇は、緑色で小さい。しかし噛まれると
タイミングによっては死んでしまう。毎年何人もの島民がこの小さな毒蛇によって亡くなっている。で、おそるおそる
遠くから見てみると、おお!なんと!久しぶりの「オオトカゲ」だった。それもアトリエのテラスからたった9メートル向こうにいる。

私の家はジャングルの一番奥、渓谷のてっぺんにあるので、下の川からいろんな動物が餌を探しに登ってくるのだ。
4メートルの大蛇だったり、今回のオオトカゲだったり…。こわ(^^;)

だいたいが近くで遊んでいる「ひよこ」を狙いに来る。私の家の敷地には親鶏がひよこをたくさん連れて
残飯をあさりに来る。その鶏の臭いと気配を文字通り動物的カンで遠くからでも察知して、大型肉食獣たちがやって来る。


デジカメを持って、そおっとそおっと近づいたが8メートルほど近づいた時、オオトカゲ君は不穏な空気に気づいたようだった。
ウチの猫たちが「ウー、ウー」唸って50センチまで近づいてもオオトカゲ君は、猫をなめているのかまったく動じない。
しかし私が8メートル付近から一歩でもそぉ〜〜〜っと近づくと、すぐ逃げようとするのだ。カンが鋭い!いったん気づいてしまうと
逃げる体制に入るのがこの手の動物だ。そのうち、ススっと下の渓谷の方に消えていった。結局ご対面はたった30秒くらい
だったろうか。そして8メートル以上近づくことはできなかった。で、デジカメも8メートル向こうからズームで撮らざるをえなかった。


実物を見ているときは体調 1メートルくらいかなと思ったのだが、今こうして画像を見ながらしげしげ見てみると、尻尾が
かなり長い。あの長い尻尾も入れると体長1、5メートルはゆうにあるんじゃないかな、って思えた。とにかく喉が太い。

ちなみに、彼の正式名称は「Varanus salvator 」日本名は「ミズオオトカゲ」である。よく日本の動物園にいる。
主にインドからインドネシア、フィリピン のジャングルに棲息。大きいものは2メートルにもなる。


オオトカゲ君は忘れたころによく私の敷地にやって来る。彼がちょくちょく来ると、その年は臨時収入があったり絵がたくさん
売れたりもする。縁起物なのだ。めでたしめでたし。今年は生活に困らないかも(^^)




             
            見た時は「ドキッ!!」とした。やはりちょっと恐怖(^^;)カメラを向けるとくるっとむこうを向いた。

            







          尻尾を曲げているがよく見てみると尻尾だけでも70センチはある。全長1、5メートルはゆうにあるな。

           






              首をググッと持ち上げて睨みをきかしていた。とにかく腕と喉が太く、体が長い。

          














2007年1月8日    お遍路が一列に行く虹の中




第49作「寅次郎花へんろ」のポスター  



山田監督は1972年に民放テレビ局の日曜劇場で「あにいもうと」と
いうドラマを書いている。
成瀬巳喜男監督の「あにいもうと」のイメージもあったのかもしれない。


大工の兄は渥美清さん、妹は倍賞千恵子さん。

映画の「男はつらいよ」はフーテンで甲斐性無しの兄を、優しく堅実な妹が
時には助け、諭し、人生を共に歩んでいく物語とも言える。

それに対して、このテレビドラマは真逆の設定なのである。


放送日=1972.09.03

スタッフ

原作=室生犀星 脚本=山田洋次、
演出=宮武昭夫 
プロデューサー=石井ふく子


出演

渥美清、倍賞千恵子、宮口精二、乙羽信子 ほか



大工で気性の一本気な兄「伊之助を渥美さんが演じ、男に捨てられ水商売に
身をやつしている妹「もん」は、昔は本当に仲の良い兄妹だった。
ところが一年前、もんがある男の子供を身籠もった上、
捨てられて家に帰って来て以来、この兄妹は喧嘩が絶えなかった。

そんな妹を伊之助は本当はとても不憫に思っていて、
もんをかばう為に時には悪態をつき、時には喧嘩をした。
ある日、例のもんを捨てた男がもんに謝りたいと訪ねて来た。
もんは留守で、男が帰る途中で伊之助は彼を待ちぶせていた。
そして一発しかなぐらなかったのに、もんに半殺しにしたと言っってしまったので
もんが怒り大喧嘩になる。ドラマはこのような修羅場の中で終わるが、兄と妹の
心が芯の部分では分かり合えていることは見ていてよく分かった。
最後の喧嘩の場面は倍賞さんの渾身の演技が光っていた。まったく映画のさくら
役とは180度逆の設定がなんとも不思議な空間を作っていた。



         






そして「男はつらいよ」の第49作「男はつらいよ 寅次郎花へんろ」は、
この「あにいもうと」の激しい葛藤をもう一度、今度は映画で撮ろうとした
山田監督のねらいだったのだ。



一本気の兄が西田敏行さん。

出戻りの妹が田中裕子さんである。




しかし、残念ながら渥美さんの死によってそれは叶わぬ夢となってしまった。


もっとも数年後に制作した「虹をつかむ男 .南国奮斗篇」でこの設定が生かされ、
兄役を哀川翔さん、妹役を小泉今日子さんが演じて、形あるものにしていた。


ともあれ、第49作「寅次郎花へんろ」は大まかな構想で止まったまま、山田監督の
心の奥底に仕舞い込まれてしまったのである。


山田監督は数年後、あるインタビューで語っていたところによると
この「寅次郎花へんろ」の物語は凡そ次のような内容だらしい。


★ヤクザっぽい兄と、その妹の、愛するが故の乱暴なののしりあいの大喧嘩になっていく
 シーンが見せ場。渥美さんにもうその役は無理だ。だから西田敏行さんにその役を
 考えていた。

★まず、妹の田中裕子さんがふらっとアメリカから帰ってくる。アメリカ人と結婚したんだけれど
 別れて、十五年ぶりくらいで高知県の田舎に帰ってくる。

★そこには工事現場で働く気性の激しい兄がいて、兄と妹が大喧嘩になる。
 その一部始終を、縁があり滞在している寅が見ていて、ハラハラしたり、怒ったり、
仲裁に入ったり…。(もちろん妹に寅は想いを寄せている。)

★一方、満男と泉ちゃんはついに結婚式をすることになる。

★しかし、寅が行方不明でどこにいるのかわからない。
 みんなでいろいろ探したが見つからない。
 そして最後に、寅がヒュッっと結婚式場に現れて、味わい深いスピーチをぶって、また
 風のように去っていく。

とまあ、このような物語にするつもりだったらしい。

これ以上詳しい内容は山田監督の中にもまだ無かったようだった。






渥美清さんは平成八年(1997年)8月4日に転移性肺癌のために亡くなる。

実はそのひと月ほど前、渥美さんは、山田監督や倍賞千恵子さん、
松竹宣伝部の大西さんらと代官山のレストラン.小川軒で食事をしたのだ。
そしてその年の秋からはじまる第49作「寅次郎花へんろ」の撮影に渥美さんは
意欲を燃やしていたそうだ。食事も肉を全部食べたそうだ。
この様子を見て、山田監督も、倍賞さんも、大西さんもみなさん誰もが第49作が
作られるであろうことを疑わなかったらしい。


渥美さんは俳句も好きで、週刊誌「アエラ」主催の「アエラ句会」の常連でもあった。
俳号はフーテンの寅にちなんで「風天」


お遍路が一列に行く虹の中


前の年に作られたこの句が、渥美さんの最後の句となった。



この第49作「寅次郎花へんろ」は、物語の脚本も、ポスターもなにも無い。あたりまえである。
もう山田監督もこの作品の脚本を書くことは無いかもしれない。
ましてやポスターなんか作っているわけがない。

そこで、私の息子が先日数時間かかって他のポスターや、いろいろな本編、
他の山田監督の映画などから合成し、そのあと細部をマウスで描き、
勝手な第49作「寅次郎花へんろ」のポスターを
作ってみた。


第49作のキャストは私が自分の想いを込めて下のように書いてみた。
そしてそれをポスターの中に入れ込んでもらった。




渥美 清

倍賞 千恵子

田中 裕子

吉岡 秀隆


下條 正巳
三崎 千恵子
太宰 久雄
佐藤 蛾次郎
関 敬六

笹野 高史
すま けい
桜井 センリ
イッセー尾形
犬塚 弘
神戸 浩

田中 邦衛

前田 吟

夏木 マリ

後藤 久美子


浅丘 ルリ子


西田 敏行





田中裕子さんと浅丘ルリ子さんは二人マドンナになってしまうが、
ラスト付近に行われる満男と泉ちゃんの結婚式にリリーもぜひ出席して
欲しいのだ。リリーは満男と泉ちゃんの縁結びの神さまのようなもの
と、私は思っている。

ギリギリでスピーチに間に合った寅はどんなことを満男たちに語るのだろうか…。

そして最後の最後に寅とリリーの小さな物語があるのだ。


もちろんこれら全ての運びは私の勝手な妄想なのだが…(^^;)ゞ





それでは勝手に作った第49作「寅次郎花へんろ」のポスターをお楽しみください。






           










2007年1月2日       新年のごあいさつ



新年 明けましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
遥か遠い南の島から皆様の幸せをお祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらずダラダラと愚かで無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


狐の嫁入りが続くバリ島ウブドにて

2007年 正月

吉川孝昭









         

                                                
イラスト 龍太郎






                    第16作「葛飾立志篇」の元旦

            





                                       
                                               





まつこ





2006年12月31日  隠されたリアリティ 「嫌われ松子の一生」


バンコクからようやくバリに戻ってきた。
今回のバンコク行きはインドネシア側の長期滞在ビザの法規改定により、仕方なくたった2ヶ月で再出国し、
新しいビザを取りに行くという最悪の事情で、心も沈んでいたが、さすがバンコク。クリスマスの1週間前から
この巨大な街はどこも華やかなイルミネーションとオーケストラの生演奏などの数々のアトラクションもあって
実にみんな楽しげだった。

私は、昔からクリスマスや正月といった行事ものが大嫌いだが、自分が参加しないで、はたで見物している分には
そう悪い気もしないから不思議だ。
それと、日本の民放テレビがリアルタイムで見れるようになっていたのには驚いた。お陰でDr.コトー2006の
最終回をリアルタイムで見ることが出来た。(第10話まではレンタルで借りて見ていた。)
なんだか儲けた気分だ。夜は結構時間に余裕があったのでレンタルDVD屋でいろんな映画やテレビドラマを借りまくって
見ていた。30本くらいは見た。倉本聡さん脚本のテレビドラマ「優しい時間」も全話見た。寺尾聡さんはいやはや全く
近年ほんとうにいい。お顔がますますお父さんの宇野重吉さんに似てきた。

そんな中、軽〜い気持ちで見た映画「嫌われ松子の一生」は意外にもバンコク滞在中のベストワン作品だった。
監督はあの2004年の「下妻物語」で奇妙な女の子の友情をシュールにそしてポップに描いた
鬼才中島哲也監督。「下妻物語」の初々しさは飛びぬけていい!



彼のアクの濃さにアレルギーを起こす人は今でも数限りなく存在するのだろう。真面目な映画ファンならなおさらだ。
狂ったような粘着質な密度と極彩色に吐き気をもよおし、席を立つか、さもなくば涙を流し感動するかどちらかだ。
とにかく中途半端なきれい事の監督さんではない。どんな悲惨な物語も全てリアリティをもぎ取って
「作り物」として見せようとするエンターテイメントな感覚は、ある意味山田洋次監督とは逆の感覚である。
ただし、ひとつひとつのカットに気が遠くなるくらいにこだわり続けるところが似ているともいえる。
ほんと文字通り、気が遠くなるくらいにだ。この中島監督の感覚はこの作品の中の音楽作りにも、美術にも、キャメラにも
全て伝染し、アリ地獄のような底なしの恐ろしいまでの密度が展開されていた。




                




それにしてもこの映画は一つのシーンにおける情報量が異常とも思えるくらい膨大なのである。
さすがCM作りに長年携わってこられているだけあって映像の最前線にあると思われる「硝煙の臭い」が
スクリーンに立ち込めていた。中島監督は明らかに闘っている。自分のイメージを超えようとしているのであろう。
今の日本の映画監督でこのような闘う姿勢を果てしなくとり続ける監督さんは、はたして何人いるだろうか。
おそらくほとんどのカット、和やかに楽しく撮ったなんてことは皆無だったのではないか?
あのような密度の濃い映像を実現するためには生半可な覚悟では絶対不可能だ。それは物作りに携わった人なら
必ず分かるはず。まったく感覚は真逆のように違うが小泉堯史監督なども最前線の硝煙の臭いがする。中島さんが
ギラギラした目で激しく闘っているとしたら、小泉さんもまた静かに粘り強く闘っているのだ。

とにかく先ほども書いたがこの「嫌われ松子の一生」にはある意味「リアリティ」がない。全部が「短い作りもの」のモザイクで
構成されていると言ってもいい。しかし、その奥底に密かに棲みついている「ほんとう」が透かし模様のように見ている私の心を
揺さぶり続けたのである。

ハイテンポのコメディと最高質のミュージカルという派手なエンターテイメントのデコレーションの中に密かに棲みつくこの
「隠されたリアリティ」こそ中島監督が実は最も力を入れた部分であろう。


その「核」が松子が死んだ直後の夜のカットからエンディングロールの終わりまでの12分間に凝縮されている。
蝶々となった松子が荒川を上流へと登り、過去の数々の自分に遭遇しながらいつしか懐かしい故郷の筑後川とだぶり、
そしてずっと後悔し、想い続けていた妹に会いに行くのである。この部分の映像は他の映画の追従を許さないほどの幻想美だ。
NHKの「新シルクロード」でウイグル自治区を真っ赤なパラグライダーを操りながら飛び、鮮やかな映像を見せてくれた
モーターパラグライダーカメラマン矢野健夫さんの神秘的とまで言えるあの映像がこの映画に魂を入れた瞬間、
中島ワールドはようやく完成したのだ。ヘリコプターやセスナではあの映像は絶対出せない。人間がそのまま空を飛び撮った
映像というのはやはり限りなく美しくいとおしい。


だから、実は…、何を隠そうこの物語の勝利は矢野健夫さんの勝利である。




               



そしてエンディングロール、めまぐるしく映像が変わり、全てが凝縮され映し出される。
この、これでもかと畳み込む果てしなくしつこい走馬灯的エンディングロール。音楽編集をはじめとしてその運動神経は
見事の一言だった。もうやめてくれ〜、エンディングしつこ過ぎ!という方も多々いると思われるが、私にはあのしつこさは
快感以外の何物でもない。その証拠にバンコク滞在中、あのエンディングロールを合計十回以上私は深夜に見続けたのだ。
全く見飽きない。私はしつこい作家さんが大好きなのだ。中島監督はこれだけの集中力を今後映画作りで果たして出せるの
だろうか。「足し算」の演出としてはこのへんが人間の限界である。


主演の川尻松子を演じた中谷美紀さんもまた、現地点でこれ以上の集中力と冴えはもう当分出せないだろう。
中島ワールドが伝染し、オーラが出すぎるくらいに出ていたからだ。もしこれ以上出すとしたら、今度は別の形で、
別の次元で出すしかない。「体当たり演技&足し算の冴え」としてはもう限界である。そして人生の醍醐味「引き算の演技」は、
今度は膨大な歳月と膨大な人生経験が必要だ。なりふりかまわない必死の演技ではもう超えられない壁がこの向こうに
そびえ立っている。ただ、これだけの冴えゆえに中谷美紀さんの人生の代表作は間違いなくこの「嫌われ松子の一生」に
なるのかもしれないが…、実は人生はまだまだ長い。「引き算の演技」の体得が叶う日が来ないとも限らないのだ。

あのルネッサンスの彫刻家ミケランジェロにはふたつの代表作がある。若き日の、この世で目に見えるものを全て表現した
誰もが認めるあの有名なヴァチカンのピエタと、目に見えないものを表現した最晩年、死の3日前まで彫っていた
ロンダニーニのピエタである。ミケランジェロの最高傑作はこの、目に見えない世界がこの世に存在することを私たちに
知らしめてくれた最晩年のロンダ二ー二のピエタのほうなのだと私は思っている。


ともあれ、この鬼才の監督もこの溌剌女優もこの世の「見える世界の物語」を鮮やかに描くことに一応の成功はした。
そしてこの先にある「見えない世界」のなんと果てしないことか。これはさすがに十年や二十年じゃ描ききれない。
この先の世界はテクニックやその場の頑張りが作品を作るのではない。その作家の、その俳優の「世界観」が作品を作るのである。
そう意味ではこの「嫌われ松子の一生」はちょうど表側だけの成功とも言える。

世阿弥が一生をかけて追い求めた世界が、渥美清さんが命を削りながら孤独のうちに追い求めた世界が、そしてミケランジェロが
示してくれた世界がその先にあるのだ。




                









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