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04年10月16日サーバーが変わりました。
新URLは
http://www.yoshikawatakaaki.com/です。


かな?

            




2009年6月26日  「今昔物語集」と紫陽花の花



今回はバリの話でも絵の話でもなく、
小難しい日本の古典の話をくどくどするので、退屈な方は速攻で飛ばしてください(^^;)ゞ


映画「男はつらいよ」第22作「噂の寅次郎」の中で最も好きなシーンは、と、もし聞かれた場合
私は木曽路で諏訪ひょう一郎が寅に今昔物語集のある説話を話して聞かせるあの静かなシーンだと
言うことにしている。





          





一口に「今昔物語集」と言ってもひょう一郎さんの持っていた文庫本一つくらいじゃ到底追いつかないのだ。
あれはおそらく表紙の模様から推測するに一昔前の角川文庫の今昔物語集『本朝仏法部【下】』であろう。



               角川文庫「今昔物語集『本朝仏法部 下』

          



とにかく今昔物語の世界はどこまでも広く大きい。
十二世紀の前半、平安時代の末期にあたる院政期に形成されたが、あまりにも膨大で多岐にわたっているため、
未完成で終わってしまったのだ。ただの寄せ集めでなく考えられて編纂されているゆえの未完成だったと言われている。


その後鎌倉期には、この『今昔物語集』は完全に世の中から忘れられていった。その後原本は失われたが、
鈴鹿家旧蔵の鈴鹿本と言われる写し本が発見され、それによって再認識されてはまたしだいに歴史の中で忘れられ、
江戸時代に本朝部分だけがとりあえず一部の人々に親しまれ始めたのだった。

全部で三十一巻もあり、
一から五までは天竺の話、六から十までは震旦(中国)の話、
十一から三十一までが本朝(日本)のことが書かれてある。


全部でなんと千話を越える説話が書かれているのだ!舞台も日本だけを取ってもほぼ全国に渡り、
階層も実にさまざまだ。
こうなってくると、読むにしたがって果てしない海にさまよう舟のようになってくる。

その表現も王朝文学などどは違い、筆致は力強く、質朴で、実に簡潔である。直球で感動させてくれ、
直球で笑わせてくれもする。そしてたっぷりと怖がらせてくれもする。


そしてこの第22作「噂の寅次郎」に出てきた説話は『仏法』の枠に入るもので、
巻十一から巻二十にいたる説話グループだ。
これらの『仏に仕えたり、出家する話』つまり発心、道心の話
この大きな大河の中核に位置するものでとても重要なものである。
このあとの『本朝世俗』グループと並んで人々に愛されてきた巻なのである。

特にこの話のように愛するものの死体や匂いなどを直接に体験してしまうことによって
世の中のはかなさを感じ無常を感じる話は、
今昔物語にとどまらず今鏡、発心集など、それ以降の説話集にも時々見られる。
古来より人は近いものの死によってこそ数々の事を感じ学ぶのである。



この、ひょう一郎が語った無常観溢れる話は『春宮蔵人宗正出家語』と言って、
巻十九の10番目に登場する(このグループを『出家機縁譚』と言う)物語の前半部分である。
実際の説話は当然ひょう一郎の語った内容とずれるところもある。




                  写し 鈴鹿本 巻29 第十八 第十九 一部

     







それでは具体的にこ第22作「噂の寅次郎」で、諏訪ひょう一郎によって
語られた箇所の部分(第十話の前半部分である)だけを実際の原文通りに紹介してみよう。↓


今回自分なりに、原文からあえて自分の言葉で現代語訳するに当たり参考になった資料は以下の通り。

新日本古典文学大系36 今昔物語四 (岩波書店)
新編日本古典文学全集 今昔物語集2(小学館)
東洋文庫 今昔物語集3 本朝部
新装版 日本古典文庫U 今昔物語

角川文庫 今昔物語集「本朝仏法部 下」







今昔物語集 巻十九 本朝仏法 【出家機縁譚】の第十話 (前半部分)



東宮蔵人宗正出家語 第十 (とううぐうのくろうどむねまさしゅっけすること)



今昔、【三条?】院ノ天皇ノ春宮ニテ御ハシマシケル時ニ、
蔵人ニテ【藤原?】ノ宗正ト云う者有りケリ。

年若クシテ、形チ美麗ニ、心直(ウルワシ)カリケレバ、
春宮此レヲ睦マシキ者ニ思シ食シテ、万ニ仕セ給ヒケル。

而ル間、其の人ノ妻(メ)、形チ端正シテ心アテナリケレバ、
男無限ク、相ヒ思ヒテ棲ミケル程ニ、
其ノ妻世ノ中ノ心地ヲ重く煩ヒテ
日来ヲ経ルニ、夫心ヲ尽シテ嘆キ悲ビテ、様々ニ祈請スト云へドモ、遂ニ失セニケリ。

其ノ後、夫限ク思フト云へドモ、然テ置キタルベキ事ニ非ネバ
棺ニ入テ、葬ノ日ノ未だ遠カリケレバ、十余日家ニ置キタルニ、
夫此ノ死タル妻ノ無限ク恋シク思エケレバ、
思ヒ煩ヒテ、棺ヲ開テ望(のぞき)ケルニ、
長カリシ髪ハ抜ケ落チ、枕上ニヲボトレテ有リ、
愛敬付タリシ目ハ木ノ節ノ抜跡ノ様ニテ空ニ成レリ。
身ノ色ハ黄黒ニ変ジテ恐シ気也。
鼻柱ハ倒レテ穴二ツ大ニ開タリ。
唇ハ薄紙ノ様ニ成テシジマリタレバ、
歯白ク上下食ヒ合セラレテ有ル限リ見ユ。

其ノ顔ヲ見ケルニ、
奇異ク恐シク思へテ、本ノ如ク覆イテ去ニケリ。

果ハ口鼻ニ入ル様ニテ無限ク臭カリケレバ、
ムスル様ニナム有ケル。

其レヨリ後、
此の顔ノ面影ゲノ思へテ、其ヨリ深ク道心発ニケレバ、
「多武ノ峰ノ増賀聖人コソ止事無キ聖人ニテ在スナレ」ト聞テ、
「其ノ人ノ弟子ニ成ラム」ト思ヒ得テ、現世ノ栄花ヲ棄テ、
窃ニ出デタタムト為ルニ、
女子ノ四歳ナル有リケリ。
彼ノ死タル妻ノ子也。

形チ端正也ケレバ、
無限ク悲シク思エケルニ、
母ハ死テ後ハ臥シテ不離ザリケレバ、
既ニ暁ニ多武
ノ峰ニ行ムト為ルニ、
乳母ノ許ニ抱テ臥セケルヲ、
長共ニダニ露不令知ヌ事ヲ、幼キ心地ニ心ヤ得ケム、
「父ハ我ヲ棄テハ何チ行カムト為ルゾ」ト云イテ、袖ヲ引カへテ泣ケルヲ、
トカク誘ヘテ叩キ臥ヲ、其程ニ窃ニ出ニケリ。

終道、児ノ取り懸リテ泣ツル音有様ノミ耳ニ留リ心ニ懸リテ、悲しく難堪ク思エケレドモ、
道心固ク発リハテニケレバ、
「然トテ可留キニモ非ズ」ト思念シテ多武ノ峰ニ行テ、
髪ヲ切テ法師トナリテ、増賀聖ノ弟子トシテ懇ニ行ヒテ有ケル…

以下略



ここまでの文章がこの巻十九第十話でのひょう一郎の語った言葉と重なる部分である。




資料や注釈を参考にしながら自分なりに自分の言葉で現代語に直してみた。↓



今は昔、三条院の天皇様が東宮(とうぐう)におられた時(まだ皇太子であられた時期)に、
(宮中に仕える)蔵人の職で藤原の宗正という者がいた。

年は若く容姿麗しく、心が真っ直ぐな気質であったので、
東宮さまは彼に親しみをお持ちになり、なにかにつけて仕事をお言いつけになられていた。

ところで、この男の妻は姿形が美しく、心が優しかったので、
男は限りなく愛しく思って、相思相愛で仲良く暮らしていたが、

ある日、その妻が流行り病にかかってしまい、何日も床に臥せてしまった。
夫は心から嘆き悲しんで神仏に祈祷したが、妻は遂に亡くなってしまった。

その後、夫は妻のことをいつまでも恋しく切なく思い続けたが、
そのままに置いておくわけにもいかず、亡骸を棺桶に収めたのだった。
葬式まではまだ日にちがあったので、十日あまりの間家に安置いておいたが、
この夫は亡くなった妻をどうにもこうにも恋しく思い、
思い悩んだ末に遂に棺を開けて覗いてしまった。

すると、あの長かった髪は抜け落ちて枕元に乱れ散っている。

愛らしかった瞳は木の節が抜け落ちたようにぽっかりと穴が空いている。

肌の色は黄ばみ、黒ずんで、見るも恐ろしげである。

鼻柱は倒れて穴二つが大きく開いている。

唇は薄紙のように縮んでしまっているので白々とした歯が上下合わさっているのが
残らず見えている。


その顔を見ているうちにあさましく恐ろしくなり、
元のように蓋をして立ち去った。

死臭は口や鼻に染み入るようで限りなく臭く、むせかえるようであった。

このことがあってからというもの、
いついかなる時もその顔が浮かんできて離れず、そうするうちに
ついに深く道心(出家隠遁の心)が沸き起こった。
多武の峰におわします増賀聖人こそは真に尊い聖人だと聞いたので、
「その人の弟子にしていただこう」と思いつめ、
この世での栄華を振り捨てて、
こっそり家を出て行こうとした。

そこへ四歳になる女の子が待っていた。

亡くなった妻との間にできた子である。
妻によく似て美しかったので、
どんなにか可愛がったが、
母が死んだあとはいつも一緒に寝ると言ってついぞ離れることがなかったものを
この日ばかりは多武の峰に夜明けとともに旅立つつもりで
前もって乳母に抱かせて寝かせておいた。
家に居た大人たちにも出家のことは露ほどにも悟られなかったものを、
幼心ゆえに敏感に気づいたのであろうか、
「お父様は私を捨ててどこへ行ってしまうのですか」
と、袖をひっぱって泣き出した。

それをさまざまになだめすかし、優しく叩いて寝かしつけ、
その隙に密かに家を出て行ったのだった。

道すがら取りすがって泣きじゃくった幼子の声や姿が耳につき心から離れずに
悲しく耐え難い気持ちに襲われたけれども、
道心(出家し、仏に仕える心)はゆるぎなく固まっていたので
「ここで家に踏みとどまってはならず」と決意し、多武の峰にいたり、
髪を切って法師となり、増賀聖人の弟子となって一心に修行を行っていった。





と、まあこのような話なのである。



ひょう一郎が語った筋とは大きく違う部分が2つある。


■ひょう一郎は男は妻の美しい顔をもう一度見たさに墓場に行って
 棺桶を掘り返したというようなショッキングでドラマチックなことを語っていたが、
 実際の説話では家に置いてあった棺桶の蓋を開けたのだった。


■ひょう一郎は妻はすぐ死んでしまったと語るが、
 実際の説話ではすでに四歳の女の子がいる。
 その子との今生の別れもまたこの説話のヤマである。




映画なので、簡略に、そしてドラマチックに脚色したのであろう。
もちろん妻の死体を見てショックを受け『道心』が発せられる肝心の部分は
説話も映画も同じなのでこういう脚色は許されると思う。



上にも書いたように、
この説話には後半部分もあって、かいつまんで書くと以下の通りである↓


その後東宮様がこのことをお知りになり、悲しく哀れに思われて
和歌を詠んでおつかわしになられた。
宗正入道はこの歌を見て深く感じ入って泣いてしまった。
それをそっと見ていた師匠である聖人は、
「この入道がこうして泣くからには真の道心が生じたからに違いない」と
尊敬の念を抱かれて、入道に「なぜ泣いておられるのですか」と尋ねたところ、
「宮様からお手紙をいただきまして、出家した身ではございますが
なんともお懐かしくて泣いてしまったのでございます」
と言ってまた泣いてしまった。

聖人はそれを聞いて、目を椀のように大きく見開き、

「東宮様の手紙を貰った者は仏になれるのか、あなたはそんな考えで頭を剃ったのか、
いったい誰が出家せよとすすめたと言うのか、出て行かれよ、入道。
さっさと東宮様のところへ参られよ」と強く乱暴な口調で追い出した。

入道はそっと出て、近くの坊へ行き小さくなっていた。
やがて聖人の怒りが静まった頃を見はからって、入道はもう一度師の元に戻っていった。

どうやら、この聖人はひどく怒りっぽい気質のようであった。
そしてすぐ腹をたてるかわりにすぐにおさまりもするのだった。
相手が誰でも厳格に対処し、折れることがなかった。

宗正入道はその後も道心が最後まで揺るがず、熱心に尊く修行を全うされた。
世にも稀な道心強固な人であったとみなが褒め讃え、尊んだということである。



以上である。


こうして愚直に原文を写し、下手なりに自分で現代語訳してみると、
この時代の空気がほんの少しつかめた気がしてくるし、この宗正の悲しみと
その後の一途な道心もなんだか分かるような気がしてくるから不思議だ。


常なるものを見失った私たちも、このように古典の原文に触れ、写し、訳すことによって
余計な垢を少しはそぎ落としてゆけるのである。



        






追伸: 今、私の庭の紫陽花がきれいです。写真を撮ってみました。



        












2009年6月17日  剱岳 点の記


2つのリアリティの混同


先日近所の映画館で「剣岳.点の記」を観て来た。

私が剱岳を登ったルートが出てきたり、私と連れ合いが22年前に結婚式を挙げた
立山の守り神である雄山神社の立山杉の林が何度も出てきて妙に嬉しい気分になれた。

そのような個人的な思い出を抜きにしても、なかなか見ごたえのある映画であった。
映像の迫力と技術は誰もが異論が無いはずだ。
空撮やCGをほとんど使わない剱岳の映像は臨場感を持ってこちらに迫ってくる。


物語は、登山そのものではなく、
測量を仕事としたプロフェッショナルな主人公たちの寡黙な姿を追っていた。
その平常心に心を打たれた。


俳優では宇治長次郎役の香川照之さんが凄いはまり役!
研ぎ澄まされた感覚的な表情、
徹底的に謙虚で、地味で、それでいて意志の強い目がなんとも印象的だった。
あの役者さんは間違いなく大器だ。

剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。

この二つを観に行くと思えば良い。



あえて欠点を言えばクライマックス、雪崩れとクレパスの危険性を指摘されながらも決行した一行が
長次郎谷の雪渓を登ってコルまでたどりつき、本峰に取り付いて頂上に着く過程が
あまりにも問題なく上手くいったので肩透かしをくらった感はあった。
しかし谷を登っていく一行の上からの『引き』の緊張感ある映像はなんとも美しかった。
このへんは登山好きには嬉しいところ。

言い換えると、
実際の登山では上手くいく時は、当然あのように緊張感をともなう集中力が持続すれば
事故はなにもおこらないことのほうが多いのだというドキュメンタリー的な感覚が
ついつい入り混じっていたともいえる。


この映画の欠点も実はこのあたりにあると思われる。

映画のリアリティとドキュメンタリのリアリティの混同。

200日以上スタッフが山に入り、危険と闘い、寒さと闘い、高度と闘い、苦労しつくし、
数々の映像を撮り尽くしたゆえの愛着と混同。
それゆえ、山好きの私にはその愛着は分かる気がするが、一般の観客には通用しないかもしれない。
彼らは観客として純粋にただただ「映画」と「物語」を見に来てるのだから。

そう言う意味ではこの映画に「娯楽性」を期待しないほうがいい。

それと聴きなれたクラシック音楽の多様は品格を逆に落とす危険があるので
かつての「砂の器」の時のようなオリジナル曲を作って欲しかった。


しかしそれでも私は言いたい。

剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。

これだけでお金を払う価値はある。




             














2009年6月6日  初夏の海を描きたい


5月27日に帰国した。
おそらく9月末まで滞在すると思う。

蔵の雨漏りが無いか今回もチェック。
以前は雨漏りがあって絵が数枚やられて痛んでしまっていたので、昨年屋根を修理したのだ。
で、今年はさすがにOKだった。ほっとした。
それで作業中今回も懐かしい絵を取り出して見ていた。


学生時代、この新緑から初夏の季節には必ず海に絵を描きに行った。
当時は海を描くのが大好きだったのだ。
この日記でも学生時代の海の絵を何枚か紹介したことがある。

バリに移住してからは山に住んだので、山や田んぼを描くことが多くなり、
すっかり海とはご無沙汰になった。
私はバリのような常夏の海よりも、温暖湿潤気候の新緑の頃の海の光が一番好きだ。
今回、昔(私が21歳の頃)描いた5月の下田の海を紹介します。

まだ21歳くらいの時なので、技術的には稚拙だが、やはり岩場にイーゼルを立てて
塩水や突風と格闘しながら描いたその臨場感は出ていると思う。
強い日差しの中、たった一人でキャンバスに立ち向かったことはなかなか貴重な体験になった。




                     油彩 「初夏の下田」  F25号 1981年ごろ(私が21歳のころ)

            











2009年5月24日  靴の中で居眠りする子猫たち


派遣社員の問題だといえばマスコミがワーワーと、一律に何週間も騒ぎたて、
新型インフルエンザだといえば1ヶ月毎日トップニュースで大変だ大変だと取り上げる。
その結果、追加でやっと作った1億枚のマスクが凄い勢いであっという間に売り切れる。

今回の22日付けニューヨークタイムスのアジア太平洋ネット記事が書いているように
日本人は『集団的な魔法にかかりやすい』のかもしれない。

記事では「他国と同様に感染者の症状は軽度で死者もいないが、日本の対応は危機状態のよう」と述べ、
学校閉鎖や日用品の買いだめ、マスクの売り切れ、
感染を心配して一切の外出を控える母子の様子を取り上げている。

I think everybody is too paranoid

すべての人々がパラノイア(偏執狂)的だ。と言って締めくくっている。



さすがに『too paranoid』は明らかに言いすぎだが、
確かになにがいったいおこったんだろうと思ってしまう騒ぎだ。
その背景にはメディアがこぞって報道競争をせざるを得ない末期的な商業主義があるだろうし、
行政のお役人的保身の考え方があるだろう。


こういうふうに書くと、必ず、『万が一、ウイルスが強毒化したら責任が取れるのか』と言われる人がいるが、
それはいかにも一見まともな考えに見えるが、冷静に考えると、そもそも古今東西どのような地域でも、
どのような状態でもそのいかなる局面にも全ての問題で『万が一』は必ず存在するはずだ。
実は今回の問題よりも、よくよく考えるともっと生命が危うい問題も少なからずある。

全ての行動を『万が一』キーワードで動いてしまうと、全てが疑心暗鬼になり、
その『神経症』は永遠に繰り返されていき、ついに社会は機能不能に陥る。

今回の出来事はその恰好の見本だろう。

もちろん、医学的な分野なので油断大敵は百も承知だし、WHOによると、この新型は『肺炎』が特徴なので
そのへんは忘れてはいけない。
そしてマスクに関しては他人のことを考えて人ごみだけではするべきだと私も思う。

しかし、

それでも、やはり感覚を柔らかにしていることだ。ワーワー騒がないほうがいい。
万が一万が一と心で唱えながら極端なことを考えるという愚行は避けなければならない。

何事もバランスだ。
冷静になり、ある程度は通常通り行動することが最も大事だ。


と、いうことで私の意見もパラノイアにならぬようこのへんにしておこう((^^)




生まれて1ヶ月のトルテ(左)とモカ(右)↓
偶然連れ合いの靴の中で寝ていた。

あ、やらせではありません(^^;)



           






このあと数日後に日本に帰国します。
次回のアップは6月初旬です。












2009年5月16日  油彩 『青年の日々W』


毎晩、清志郎を聴いているが、それと同時に色々動いている。

絵もしぶとく描き続けている。

帰国が近いので、遠出せずにパッと短く描けるモチーフを選びがち。
つまり自分の家族だ。
息子をクロッキーがわりに油彩で30分描く。

ニュアンスが上手く行ったような気がしたので一見破綻だらけだが筆をおく。


今回も日本に持っていく絵を選び、明日あたりから、木枠からキャンバスをはずす。
だいたい30枚くらいか。
半分以上がプライベートな絵なので、そういう絵は売れる売れないではない。
下に貼り付けた絵もそんな一枚。


今はまだ、人の経歴や権威つきの中に絵があるが、
150年後には今生きている人間は間違いなく全員死んでいる。

そして、文化勲章の絵描きも無名の絵描きも関係なく絵だけが独立して残る。
良い絵は残る。どうでもいい絵は消えていく。

描いた人の人生は忘れられても強い絵は残る。

基本的に絵を描いている時だけが至福なので、残ろうが、残らなかろうがおかまいなしだが、
何かの規範に合わせることなく、完全に一個人として納得できる絵を描きたい。
ただただそう思って今日まで描いてきている。

この絵がそういう絵かはわからない、数ヵ月後にもう一度見て感じようと思う。



                              油彩 「 青年の日 W 」 F8号 

              











2009年5月7日   窓に君の影が揺れるのが見えたから…




窓に君の影が揺れるのが見えたから

僕は口笛にいつもの歌を吹く

きれいな月だよ

出ておいでよ

今夜も二人で歩かないか




窓を開けて君のためらうような声が

僕の名前呼んで何か囁いてる

きれいな月だよ



今夜も二人で歩かないか


今夜も二人で歩かないか





      
 夜の散歩をしないかね

      





毎日 清志郎の歌をずっと聴いている。

止まるときついのでこうして日記を書いて動いてもいる。


今日もう一日お付き合いください、次からはいつものバリ日記に戻ると思うから…。



「夜の散歩をしないかね」

「スローバラード」


この二つは連れ合いと知り合った頃、テープが擦り切れるまで聴いた歌。

擦り切れてまたダビングして、擦り切れてまたダビングして…。


思い出という枠をはるかに超えて今も光り輝いている。




      
スローバラード

      














2009年5月3日   内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ




woo 授業をさぼって yeah 

日のあたる場所に いたんだよ

寝ころんでたのさ 屋上で 

タバコのけむり とてもあおくて

内ポケットにいつも oh トランジスタラジオ



彼女教科書ひろげてる時

ホットなナンバー 空に溶けてった



Ah こんな気持ち Ah

うまく言えたことがない NAI AI AI



ベイエリアからリバプールから

このアンテナがキャッチしたナンバー



彼女教科書ひろげてる時

ホットなメッセージ 空に溶けってた




授業中 あくびしてたら 

口がでっかくなっちまった


いねむりばかりしてたら 

もう目がちいさくなっちまった No no


内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ



彼女教科書ひろげてる時 

ホットなナンバー 空に溶けてった



Ah こんな気持ち Ah 

うまく言えたことがない NAI AI AI




Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・


Ah 君の知らないメロディー メロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・





     








清志郎さんの歌は私の青春そのものだった。

あまりにも強く影響を受けすぎてきた。




私はこの30年間ぶれずに言い続けてきた。

『日本を代表するシンガーは後にも先にもたった二人、

美空ひばりと忌野清志郎だ』 って。


きつい…、悲しい…、

久しぶりに、何年かぶりに、ちょっときついです。
しかし乗り切らないと明日は無い。

そう思ってわざと、あえて、これを書いている。




清志郎、私はあなたを忘れない。

万感の想いをこめて  

ありがとう。





      ヒッピーに捧ぐ

      


















2009年4月14日  親を選べない子供たち



昨日、母親ネコのキウイが12月に次いでまたもや赤ちゃんを産んだ。
今度も2匹だった。母子ともに健康。一匹目を産んでからなんと8時間後に
2匹目を産むというとても珍しい産み方をしていた。

深夜12時ごろ、一匹目を産んだあと、数時間経って、これ以上産む気配が無かったので、
私たちも寝てしまった。それで午前中見てみると、なんと2匹目を産もうとしているではないか、

ということで、またもや子猫が増えてしまった。

今度は2匹とも父親のシンディ似の黒トラだ。
ちなみに前回は母親のキウイ似のキジトラだった。

バリの人々ならこういう時は、さっさと田んぼに子猫を捨てに行ったりもするのだが、
私にはとうていそんなことはできない。
また、日本のように次から次へ避妊手術という手がある。
一時期私もネコたちにそうしていた。
これはとても理にかなっているが…しかしどうもこれもあやしい…。
そんなに正しいのだろうか…、と、前々からひそかに思いはじめている。

それで、しょうがないからここ十年は生まれたら飼うのである。

結構可愛いと言って、欲しがる人もいるからその時はオシモのしつけが終わったらあげる。
もらい手が無い限りは飼い続けるつもりだ。




                     
   生まれてすぐの子猫たち、まだ目は開いていない。

             





どうも生まれたばかりの子猫の赤ちゃんを見ていると車寅次郎が産みの母親に捨てられた
いきさつを思いだしてしまう。

赤ん坊は親を選べないのだから、私の考えとしては、なるべく成人になるまでは母親と一緒に
育って欲しいのである。




ところで、ここからが「男はつらいよ」ネタである。



寅はもちろん生まれてすぐに捨てられたという悲しい身の上を持っているが、
このシリーズに出てくるマドンナも寅並に親に恵まれていない幼少期思春期を持つ人が少なからずいる。
山田監督はマドンナにも過酷な運命を与えるのである。



ちょっと思い出してみると…



たとえば、第4作「新男はつらいよ」の春子さんは、父親の顔を知らずに育ち、
ついに最後まで父親に会おうとはしなかった。そうとうの悲しみを背負っている春子さんだった。
そして娘に会えないまま父親は死んでしまうのである。



             





第9作「柴又慕情」の歌子ちゃんも、母親が父親から逃げ出し行方不明になってしまうのである。
歌子ちゃんは思春期から残された父親と二人暮しで生きてきたのだ。




第11作「忘れな草」のリリーも、中学校のころから母親が男を作って出て行ってしまったので
印刷工の父親との二人暮しをせねばならなかった。その淋しさに耐え切れなくなってリリーは、
寅のように中学生から家出をしてしまうのである。



            




第17作「夕焼け小焼け」の芸者ぼたんも、思春期に両親ともいっぺんに亡くなってしまって、
幼い弟と妹を芸者をしながら育てて行ったのだ。




第26作の「かもめ歌」のすみれちゃんも、父親はヤクザもので博打好きの酒飲み、
母親は家を出て逃げてしまうという最悪の中で思春期を過ごさなければならなかったのだ。




第27作「浪花の恋の〜」のふみさんも、親に恵まれず、
小さな姉弟が離れ離れに暮らさざるを得なかったのだ。




第28作「紙風船」の光枝さんは両親の顔をほとんど覚えていない悲しい境遇にさらされ、
親戚をたらいまわしにされたあまりにも厳しい過去を持っている人だ。
この人と寅との相性は抜群だった。



           



第29作「あじさいの恋」のかがりさんも、本当の親とは小さい時に別れ、伊根にもらわれてきたのだ。
小さな頃からあきらめることを見につけてしまった悲しい人だ。




第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」の風子も母親が家を出て逃げてしまい、若くして亡くなってしまう。
自分も結局は母親と同じようなフーテン暮らしをしてしまうのである。




第35作「恋愛塾」の若菜さんも、母親が東京から来た男にだまされ若菜さんを産んだ。
そのあげく村の噂に耐え切れなくて海に身投げしてしまうのだ。
カトリックにとって自殺は許されない行為だったのだから悲しみは計り知れない。
このように、若菜さんはこのシリーズのマドンナの中でも最も深い悲しみを背負っている。



           




等々とあ〜キリが無いくらい多いのだ。
山田監督もよくもまあこれでもかと言う感じで悲しみをたくさん考えられるものだ((^^;)




このように、寅に惹かれる女性たちのその多くは、寅同様、幼少期や思春期から
人生の悲しみや苦しみをいやというほど味わってきた苦労人なのだ。

だからこそ、ある意味、見た目がたいして良くない寅の、
その瞳の奥を見抜くことができるのだろう。












2009年3月26日  バリの新年 究極の静寂『ニュピ』 



今日はバリが一年で最も清められる日『ニュピ』である。
簡単に言えばバリの暦(サカ暦)における新年である。


バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』。毎年微妙にずれていく。今年は、今日3月26日が新年である。

いつもの年なら、前日の大晦日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を深夜まで鳴らす。

しかし、今年2009年は4月にインドネシアの総選挙が行われるため、政党間の争いが絶えない。
で、バリ州政府もついに今年の大晦日のオゴオゴ儀式を取りやめさせたのだった。

それゆえ昨夜はいつにもなく大きな爆竹の音が村中のいたるところで1分に一度くらい響き渡っていた。
巨大な竹筒に火薬を詰めて思いっきり大きな音を出して悪魔を追い払うのである。
オゴオゴが出せないので若者たちは爆竹の音をさらに巨大化させて気を紛らわせていたのだろう。

そしてそのような爆音狂乱が終わり…明け方、
空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。

この24時間は、バリの全ての場所で、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、
灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、音楽を聴いたりもできない。
もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。

島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。
これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。
救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。



私の敷地の渓谷にはチャンプァン川が流れている。
今、その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが敷地に聞こえてくる。
車の音はもちろん、人の声も聞えない。どの家の敷地からも『音』は感じられない。
もちろんどの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。
夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。

昨夜の大晦日は満天の星。そして『ニュピ』の今日は快晴。


もっとも私の隠遁生活であるこの敷地はジャングルの奥、渓谷のてっぺんにあるので、毎日が『ニュピ』である。

毎日『静寂』の中で暮らしているというわけだ。




                    ニュピの日。 いつもと全く同じ趣の敷地から見たチャンプァン渓谷

              







                      この敷地の猫たちにとってはいつだってニュピ

                  





                      村の道に出てみるともちろん車も人も通っていない。

                  















2009年3月16日  新作油彩 『バンコク 早朝 』 


今回のバンコク行きでは、珍しく油彩道具を持って行った。
まあ、いろいろ忙しくてあまり描く時間はなかったのだが、
宿のベランダから見た早朝のバンコクを何枚か走り描きした。

ゆったりと流れる曇天のチャオプライヤー川(メナム川)の先にうっすらと太陽の赤がにじむ。
しかし、雲が厚く、太陽は出ずじまい。
それがいかにもグレー色の街バンコクらしくて気に入ったので15分ほどで描いた絵が下の油彩画だ。
バンコクは東京よりも複雑で奥が深い。何年通っても掴みきれないカオスの街だ。
私はこの街が好きなのだ。




                            油彩 「 バンコク 早朝 」 F4号 2009年3月

              











2009年3月2日  『長良川 鵜飼 2009』 手描きろうけつ染め完成


明後日3月4日から10日間、タイのバンコクへ仕事がらみ&ビザ取得の用事で行く。
しばらくは更新ができないが、ご了承ください。

今夜、出発準備であわただしい私の家に夜遅く、染色担当の職人さんが
新しい手描きろうけつ染め(手描きバティック)を持ってきた。
彼の名前はヘンドロ。私と同い年だ。

ちょうど1年前のバリ日記にも登場してもらったので、覚えている人もいるかもしれない。

彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。

で、本日、

岐阜市内での展覧会用のモチーフ『長良川 鵜飼 2009』のタペストリが完成したのだ。

もう岐阜での絵と染色工芸の展覧会は14年以上行われている。
今年のメインは新しいタペストリ3種類だ。

全て私のオリジナルデザインとろうけつの線。最後に職人さんの何色かの染色が何度か入って完成。

3種類ともなかなかのでき。その中でも特に気に入ったデザインを紹介します。

何度も試行錯誤して完成したので愛着のある作品たちだ。


今回のモチーフ『鵜飼』は当然夜の風景、しかし雲の流れをどうしても描きたかったので、
夜なんだけれども、雲がくっきり見える幻想的な空間にしてみた。
上は果てしなく濃紺の空が広がり、下は果てしなく濃紺の水が漂う広がりのある構成。
とはいうものの、普通はなかなかてごわくそうそうは上手く行かない。
しかし、今回はやっと上手く行った。上手く行った日くらいは写真を撮って喜びたいので久しぶりに完成記念写真。

この未曾有の大不景気、絵も染織も作ったって例年のように売れるかどうかまったく分からなくなってしまったが、
まあなんとかなるとひたすらいろいろ作ってみる日々なのだ。
どうせもともと地獄にいるようなものだから、ダメならダメで居直ってやろうとまな板の鯉を実践している。





             思いのほか上手くイメージどおりにいったので、機嫌よくヘンドロ(右)と完成を喜ぶ私

             






          手紡ぎ糸使用、全手描きろうけつ草木染 『長良川 鵜飼 2009』 (部分) 全体180p×45p

                   





それではバンコクへ10日間行って参ります。








2009年2月24日  人ひとヒト物語  百点満点つけっかな



先日、私の最大の支援者であり、私の絵を20枚近くも持っていらっしゃる大コレクターでもあられるY.I さんから
読売新聞社会欄の「人ひとヒト物語」の記事がメールに添付して送られてきた。

それはY.I さんとお母様との絆の話を取材した記事であった。

Y.Iさんはエッセイも書かれるが、今回の記事は以前書かれた彼の文章を基にした取材だったようだ。
私もそのエッセイは読ませていただいているし、私のアトリエでもお母様のことは何度かお聞きしていた。
昨年9月にアトリエに来られた時、そのことで取材があるかもしれないと話されていたので、
もし記事になったらぜひ読ませていただきたいとY.Iさんにお願いしてあったのだ。


Y.Iさんは、今はつくば市の大きな総合病院の外科部長さんだが、彼の人生は決っして順風満帆ではない。

彼はお金持ちのお坊ちゃまでもなければ、お医者さんの二代目でもない。ごく普通の家に育ったのだ。
高校卒業後、不運にもお父様が病気で亡くなられてしまった。

お母様はそれでも、気丈夫に黙々と和裁や田や畑仕事をされ、たった一人で、
医者を志すY.Iさんや妹さんたちの面倒を見られたのだ。特に受験勉強をするY.Iさんのために毎日夜食を作り、
Y.Iさんの5年間にも及ぶ浪人生活を寡黙にただただ信じて支えられたのだった。

そして浪人生活が許される本当に最後の年にY.Iさんは、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)に合格された。

それゆえ、医師国家試験に合格されたのはちょうど30歳になった誕生日だったと聞いたことがある。
お母様に電話でまず連絡されて、そのあと友人たちと過ごして夜に家に帰ると、

お母様はちょっとまじめな顔をして、

「よかったな、これ、母ちゃんの宝物、おめえにやっとくから。」と古びた封筒を渡されたそうだ。

中を開けて見ると、

遠い昔、小学校低学年の幼い彼が母の日に作文用紙に書いた作文が入っていた。



おかあさんへ


毎日おべんとを作ってくれたり、ふとんをしいてくれてどうもありがとう。
ぼくはこれからまい日ふろのそうじやひよこのせわをやります。
ひよこのせわは、ぼくとみずえでやります。
学校におくれそうな時はお母さんにやってもらいます。

それと、寝る前に肩たたきをしてやります。
それと、ぼくが大きくなっていしゃになったら、おかあさんのびょうきをみてやります。

これから田やはたけでいそがしくなる時があると思いますから、
ぼくにもてつだいができれば、てつだってあげます。


                                  幸夫より




封筒にはお母様の名前と『寳物(たからもの)』という文字が書かれてあった。

お母様はなんと二十年近くもその手紙を持ち続け、毎日祈り続け、
さらにそこから五年もの間、お守りとして彼が医師になるその日まで胸に抱き続けたのだ。

その夜、Y.Iさんはしばらく布団の中で寝付けず、気がつくと布団の中で嗚咽していたそうだ。
合格の喜びよりも『親を想う心に勝る親心』に深く感動してしまったとおっしゃる。

小学校しか出ていなくて、四十八歳で夫を亡くし、大学入試や医学部受験のなんたるかを
ほとんど知らず、ひたすら息子を信じ続けたお母様の心情を思うと今でも胸が張り裂けそうになると言われる。

今、その手紙はY.Iさんの宝物になっているそうだ。


その後、病院で勤めるようになってからは、今度は年々仕事が増え、近年はあまりもの激務に
ストレスで心がくたびれてしまうことも多くなっていく。
そんな日々が続くと、しばしばY.Iさんはご自分の道歩んできた道がこれでよかったのか
考え込まれることが増えてきたそうだ。


そんな時、膝を長く病気されていたお母様が、今回ついに人工関節に代えることになり、
その大事な手術をY.Iさんがされることになったのだ。
こうしてはからずも長年果たせなかった大事な約束を果たす時が今まさに彼に訪れたのだった。

そして無事手術は終わり、お母様はリハビリをされながらY.Iさんにこう言われたそうだ。

「百点満点つけっかな」




実は、私事だが、
私の母親も数年前に、Y.Iさんのお母様同様、膝の大きな手術をし、人工の関節を入れている。
それゆえ、今回の記事は、私には他人事とは思えない出来事に思えた。

Y.Iさんは、今回見事百点満点の親孝行をされたが、私の方はほとんどなにも孝行らしいことはしないまま、
体の弱い母親は今年なんとか入退院を繰り返しながら七十二歳を迎えた。
このようなフーテン暮らしの業を背負った一人息子を持った病弱の母親のことを思うと不憫でならなくなる時がある。
まこと申し訳ないと思っている。しかしこればかりはどうしょうもない…。

車寅次郎じゃないが『そこが渡世人のつれえところよ』なのである。




           
少年だったY.Iさんのお母様への手紙の一部

            






■ 読売新聞「人ひとヒト物語」の記事














2009年2月15日 マンゴケーキと『男はつらいよ』


昨日はバレンタインデーだった。
バリ島では、バレンタインデーの日は、結構男の子が女の子に渡すのだ。
スーパーでもバレンタインデーのためのコーナーがあるが、
たいてい若い男たちがたむろしている(^^;)


一方、私の家は、バレンタインデーと言えば、近年は『ケーキ』を作る日であり、
食べる日なのだ。

本来の目的と相当かけ離れているのだが、一向に誰も気にしない。

ここ数年はケーキを作るのはもっぱら息子が担当している。
スポンジの焼き方が連れ合いよりも上手になってしまったので、
彼が一人で奮闘してくれるのだ。

で、今回はトッピングはなんとマンゴ。これはちょっと珍しい。
つまり
マンゴケーキだ。
今までは圧倒的にイチゴが多かったのだが、今日はそういう気分なのだろう。

できばえはすばらしいものだった。
で、前回10月の誕生日同様、たいへん美味しくいただきました。





         


       



ところで、『男はつらいよ』にもケーキは出てくる。


と、無理やりこじつける(^^;)




印象深いところではやはり
第13作「恋やつれ」での歌子ちゃんが青山で買ってきたケーキを思い出す。
あの時寅は『せんぶりコーヒー』を作ってみんなの顰蹙をかっていた。



          



それ以外でも第15作「相合い傘」でのリリーのケーキ、
これは寅のアリアの時だったので、ちょっぴりせつなかった。



             



第16作「葛飾立志編」での礼子さんの家庭教師の際のロールケーキ。
寅、いったん口に入れて出していた。


第20作「頑張れ!」での映画を観て来たさくらたちのお土産ケーキ。
満男は夕食前なのにもらっていた…ずるい(−−)



             





第28作「紙風船」での、諏訪家のご近所さんのまぐろのお返し手作りケーキ。
このシリーズ唯一の手作りケーキ。



             


それ以外では

第36作「柴又より愛をこめて」でのあけみが諏訪家にお礼で持ってきたケーキ。


第38作「知床慕情」でりん子ちゃんの親父がカステラを
手で引きちぎって寅に出していた。きちゃない…((^^;)


とまあ、結構あるもんだ。






そういえば小津監督の『麦秋』(1951年)での紀子さんが銀座で買ったショートケーキはあまりにも有名。
1回目は紀子さんのおごりで少し小さめ、2回目は義理のお姉さんの注文でちょっと大きめ。



         
現代に換算すると1万円以上もするケーキ

         



これは銀座の高級ケーキ、当時の値段で九百円。
これは恐ろしく高かい。なんせ月収が一万五千円の時代なのだ。
今なら一万数千円のケーキという感じだ。

めったに口に入らないのでみんな目の色変えて本気で身構えていたのが笑える。

うまいうまいと真剣に食べる。



           





子供が来たら黙ってテーブルの下に隠す。とりあえず知らん顔(^^;)


              
           




なんともユニークな微笑ましいシーンだった。

もちろんこのシーンには、山田監督も影響を受け、後に『男はつらいよ』第15作『相合い傘』での
あの衝撃のメロン騒動に繋がっていくのだ。↓            



             














2009年2月12日 仲間に入った捨て猫の『ラテ』


2週間ほど前に、連れ合いが敷地の向こうの森で猫がずっと鳴いていると言って様子を見に行った。
案の定、茶色と白の小さな二毛猫を抱っこして戻ってきた。どうやら、また子猫が誰かに捨てられたらしい。

バリの人は猫をねずみ対策で飼っているが、増えすぎると部屋が汚れるし、餌もかかるので、
結構たんぼや森に捨てるのだ。まあある程度乳離れした頃を見計らって捨てているので、たいていの
捨て猫は死なないでそのまま野良になるのだが、それでも雨期に捨てられると結構猫も生命が危ない。

こうして私たち3人は捨てられて困っている猫をこの十数年でもう25匹以上飼ってきた。
さっそくお湯と薬用石鹸で蚤取りをしてやった。
つい最近まで人に飼われていたのがすぐわかる。人にいきなりなつくからである。
オシモもちゃんと猫砂の中でやってくれるのでしつけは要らない感じだった。これは楽である。

12月に私たちが飼っている猫のキウイに子供が二匹生まれて、ようやく近頃大きくなってきた矢先に、
それよりちょっと月齢が小さな新参者がやってきたのだ。

こういう場合、子供猫どうしは2日くらいで慣れて、一緒に寝たりしだすが、母親猫のキウイは、
さすがに5日間は警戒を怠らなかった。ニ毛猫がキウイにじゃれるとゥゥゥゥと唸りだすのだ。

まあしかし、新参者とは言え所詮子猫なので、キウイも6日目あたりからは、心を許し、一緒に寝てくれるように
なった。ただ、オスなので結構気性はヤンチャで、キウイの子供の「マロン」や「ココア」とゴロゴロからまって
追いかけっこをいつもしている。

でも、眠くなったりお腹がすいたら、「マロン」や「ココア」と一緒に「キウイ」のおっぱいを飲もうとする。
「キウイ」も気づくと、ちょっと「???」が出ている感じだが、そんなに嫌がってもいない。

新しく来た子猫は毛色が「ミルクたっぷりのカフェ.ラテ色」なので「ラテ

このように、あっと言う間にキウイの子供のようになってしまった世渡り上手な猫なのである。





                母親のキウイ。おっぱいを吸う子供の「ココア」と「マロン」そして新しくやって来た「ラテ」
               













2009年1月13日 レゴンの衣装を着るアノムの肖像



先日夜中に降った超スーパー集中豪雨でデンパサールの町はたいへんな状態になっている。
このウブド村も大変だ。あちこちでがけ崩れが起こっている。
渓谷のてっぺんにある私の敷地の一部も例外ではなく、
爆音とともに一部が谷底に崩れ落ちた!マジで危なかった。

敷地には大きな木が結構あるのでそれ以上の被害をかろうじて免れたといえる。
近くの渓谷の石切り場はがけ崩れが4箇所も5箇所もおこった。本当に怖かった。
バリ滞在19年のベスト3に入るであろう怖さだった。

日本では考えられないすさまじい雨量だった。
雨が集中した深夜4時間近くだけでも500ミリ以上は確実に降った感じだ。

雨が上がった翌日、さっそく、近所の人に手伝ってもらって、崩れた部分に根っこがつきやすい
木をたくさん植えた。熱帯なので根付くまでに早い。早く根が生えて欲しい…。


とは言え、それとは関係なく絵を描くことはマイペースで続ける。

毎年のようにお願いしている近くの娘さんにレゴンの衣装を着てもらって、一気に描ききる。
ここ一ヶ月はとにかく雨雨雨なので、人物画を一時間ほどで描くことが多くなった。

絵は全体に上手くまとまっても、肝心の動きが出ないとダメ。

今日は一枚だけ、ほんのちょっと上手く行った。↓





                      油彩 「レゴンの衣装を着るアノム」 F6号 2009年1月


                














2009年1月5日 痛んでしまった『プトゥの肖像』


昨日荷物部屋の雨漏りをチェックしていたら、今まで知らなかった場所で微妙な雨漏りが見つかった。
ずいぶん長く雨がチョビリチョビリ漏れていたらしく、気づくのが何年も遅れてしまった。

私は普段は自分の絵は全て湿度の少ないアトリエの二階に上げているし、
展覧会などの機会があるたびに日本に持ち帰ってもいるのだが、
大きいサイズの未完成の絵や描き損じだと思った絵は
ついつい面倒くさくてカビ臭い荷物部屋に置きっぱなしにしているのだ。

で、今回運の悪いことに、途中で描くのをやめてしまった50号Pの絵に雨がかかっていた。
大慌てで移動したが、水滴がたまる絵の下部十分の一ほどはいつも湿っていたせいで
キャンバスがかなり傷んで、もう絶対張りなおせないほど弱ってしまっていた。

以前にもこのような不注意で描きかけで放置した絵を数枚再起不能なまでに痛ませてしまったことがある。
そして今回、またやってしまったのだ…。まったくトホホな人間だ。

熱帯雨林では布であろうが紙であろうが鉄であろうがどんなものでも湿度によって痛んでいく。
いつもは気をつけているのだが、この絵はちょっと気に入らないところがあって途中で描くのをやめて
ほっぽらかしにしていたのだ。

もう13年くらい前の絵なので、雨漏りの水滴も何年もかかり続けたのかもしれない。
ほんとうに可哀想なことをした。

その絵が下↓に貼り付けた50号Pの『プトゥの肖像
(傷んだ部分はお見せするに忍びないので考慮して実物を数センチずつ全体にトリミングした。)

これは、よく家に遊びに来ていた息子と同い年の近所の小学一年生の女の子をモデルに描いたものだ。
この娘さんも今では19歳だ。

描いているうちに絵に勢いが無くなり、絵が硬くなってきたので全部壊して描き直そうと思いながら
新たに他の絵を描いているうちに、上にも書いたようにこの絵を描き直すのをやめてしまったのだ。
しかし今、こうして痛んで再起不能になってしまうと、いい部分も新たに見えてくるから不思議だ。

バックに当たりをつけただけで変なところでやめてしまったので人物とバックの絡みが不完全だし、
肝心の人物も一度硬くなったところでやめているのでちょっと動きが固まって絵として面白くないのだが、
当時の気持ちがひしひし伝わって来ることだけは確かなのだ。

50号ゆえにロールにして日本に持ち帰るとしても、絵の下の部分の痛みが激しいので
二度と人の目に触れさせることはできないだろう。
ああ…本当にバカなことをした。たとえどのような状況でも、
もう二度とこんなバカな保存の仕方はするまいと今回硬く決意した次第だ。


それで、せめてこの日記に添付して、みなさんの目に触れさせたくなったわけである。





                        油彩 「プトゥの肖像」 未完 P50号 1996年ごろ

                  














2009年1月1日  新年のごあいさつ




新年 明けましておめでとうございます。




            

            イラスト RYOTARO



皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が例年に無く
ものすご〜〜く遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
遥か遠い南の島より皆様の幸せをお祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノートなど、
相変わらず成長することなく、
ダラダラと愚かで無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


渓谷から
の鳴き声が聞こえるバリ島ウブドにて

2009年 正月

吉川孝昭




今年も

「人は幸せになるために生まれてきたのではない、
 自らの運命を成就するために生まれてきたのだ」

というロマンローランのこの言葉を胸に抱いて暗闇の中を
歩んで生きたいと思います。




         
    私は寝ていたが、息子は早起きして元旦の暁の光を撮っていた。

             













2008年12月24日 渓谷の中のクリスマスケーキ



私は実は、クリスマスも正月もあまり好きではない。
巷がにぎやかしいのはなんだか落ち着かないのだ。
バリ中が最も静かになる『ニュピ』の日が最も好きだ。
バリに住むようになってから19年経ったが、ずっとクリスマスも正月も静かにすごせてとてもうれしい。
もう頭も体も完全隠遁モードになってから十年近く経つ。


たいして売れもしない絵を描き、巷とは違う生活をしている私や連れ合いにつき合わせて
息子にはちょっと可哀想かなとはずっと思っているが、
小さいころからバリの田舎のリズムで生きている彼は実はそんなに気にしていないような気がする。
バリの青少年たちは日本と比べてクリスマスや正月にはさほど関心がない。

それでも、こんな寂しいクリスマスを送る私たちを哀れに思ってか息子は毎年のようにクリスマスケーキを
手作りで作ってくれる。だんだん上手になってきて、近年は連れ合いが手伝わなくても
一人で立派にスポンジから生クリームまでプロ並みに仕上げる。
今年は誕生日にも作ってくれたが、どちらもほぼ完璧な出来である。

で、今回は渓谷をバックにケーキを撮ってみた。






              













2008年11月27日 キウイに赤ちゃんが生まれました。


もう完全に雨季に入った。
それと同時に先日ウチの猫のキウイが2匹の赤ちゃんを産んだ。
産む一時間前からうろうろし始めたので、これは来るな、と思い、心の準備をする。
産む30分くらいになると、私の足元に寄ってきてしきりに私を見ながら鳴き始める。

私はキウイをだっこしてあらかじめ作っておいたダンボールのお産場に連れて行った。

キウイの目が見る見る潤んで、様子が明らかに変わってきた。

その後、30分で一匹目がすんなり生まれる、と思いきや、逆子!だったので
息子が手助けをしてやる。柄は『黒トラ』父親も母親も黒トラだったのでやはり同じ柄。

その後一時間ほど経って2匹目が生まれた。今度は頭から出て来た。
柄は同じく『黒トラ』親子4匹全部黒トラ。

今回は2匹だけ。
母子ともに健康。

キウイは初産だが、別段おどおどしている様子はなかった。
数日経っても場所を引っ越そうとしなかった。
このキウイは小さなころから精神が安定している猫。
そして思慮深く頭のいい猫である。

離乳食が始まるとまたちょっと大変だがまあ、私たちは慣れたものだ。
かれこれ20匹以上の子猫を育ててきた経験はだてじゃない。

連れ合いが今、子猫たちの名前を考えている。


どこもかも不景気になったので、今年の下半期も日本だけでなくウブドでも絵はさほど売れない。
近年はもう慣れっこで、せっせと副業のオリジナル染織品(風の盆)のデザイン、レイアウト
を今年も進めている。こちらのほうはそれなりに人気がある。

ポストカードと画集はまあまあの売れ行きなので少しは日銭にはなる。
このさらなる不景気にこれはありがたい。





             子供たちは父親に似て柄の色がはっきりしている。キウイはこのように淡い色。

          










2008年11月13日 マウスを占領したカミキリムシ君


前よりも一層雨の割合が増えてきた。
毎日2時間くらいは必ず雨が降る。それもかなり強い雨だ。
こうなってくると雨季はもう目の前。

この時期から私の描く絵も風景よりも人物が多くなってきたりする。
まあ人物と言ってもモチーフはお馴染みの人たち。身内かいつもの近所の人だが。


夜になると最近は結構蛍が飛ぶ。居間にも入ってくるのだ。
パソコンなどに止まったりする。
しょうがないのでそっと包んで茂みに返すのだが、また次の違った蛍が飛んでは家具や壁に止まる。
まあ時々は部屋を暗くして眺めたりもしている。日本じゃなかなかこんなこと無い風景だ。

蛍だけではない。
私の家はジャングルの中にあるのでカブトムシは毎日のように入ってくるし、どでかいカミキリムシなども
バンバン明かりめがけて入ってくる。

今年の2月の改築時に、部屋の前の部分を全部ガラス張りにしてからは、
余計に明かりが外に漏れるので大きな昆虫が入ってくる。(改築の写真は2月の日記参照)
これを書いている時にもカミキリムシが飛んできた。こいつは大きな羽音をたてて実によくやって来る。
長さが10センチはある。触覚は20センチはある。結構近くで見ると恐い(^^;)


で、ついに私の使っているパソコンに止まった!

そしてなんと、そのままマウスまで近寄ってくるではないか。

ちょっと恐いので手をのけてしばらく見ていたらなんとマウスの上で休憩しだした。
マウスを乗っ取られてしまったのだ。なかなか動こうとしない。
仕方ないので、急遽デジカメを取り出してマウスごと写し、日記のネタにすることにした。



実は今日はウブドであった王家の親戚のバカでかい葬式の話をするつもりだったのだが、
このようなハプニングがおこったので、虫の話になってしまった。ま、いいか、どっちにしても四方山話だ。


この11月は、ちょっと台所の柱を1本直さねばならないし、
ウチの猫の『キウイ』のお産も近いし(たぶんあと10日くらいか)お腹のふくれ方から子供は3匹はいそう。

このあとはちょっと忙しくなりそうだ。







             カミキリムシ君は「メンチ」を切りながらマウスにしがみつき占拠

          




           そのあとのそのそ移動し、キーボードも占拠。なすすべもなし(TT)

          






         お産が間近の『キウイ』 衛星テレビチューナーの上は暖かいのでお気に入り。

         







  ウブドの王家はとにかく葬式が派手。今回、これでもまだ小さいほうだ。晴れたので久しぶりに取材。バリは基本的には公開型葬式。

           















2008年10月23日  渓谷を描く日々


ここのところ昼間は必ず晴れるが、夜は必ず雨が降る。もう1週間もこのような状態が続いている。
しだいに雨季が近づいて来ているということなのかもしれない。
通常雨季は12月初旬からであるが11月に入ると雨が定期的に降り続くこともある。

で、昼間晴れている今のうちに自宅付近を描いている。
特に自宅の前から見える渓谷を描くことが今のところ多い。

今年の2月に母屋を改築した時に、小さな見晴台をついでに作ったことはこの日記にも書いたが
その見晴台に立って絵を描くことも多い。
いつも見慣れた風景だが、刻々と変わる光と影の動きが面白く、夕方になるとキャンバスを出す。

ほとんどが、1時間ほどで筆を置くような、描きなぐりのような絵だが、自分の好きなように描かせてもらっている。
売れようが売れなかろうが描いている時はそんなこと一切どうでもいい。

で、今日もまた未完成のような絵が誕生する。

しかし、この高揚感は私だけのものである。
私は高名な絵描きでも売れっ子絵描きでもないが、絵を描く至福は誰も邪魔をすることは出来ない。
これが唯一私の人生での小さな幸せ。

今日は、息子がデジカメで絵を描いている私を気づかれないよいうに遠く背後からそっと何枚も撮影したらしい。

私は絵を描く姿をもう十数年間ほとんど誰にも写真に撮らせてないのでこれはとても珍しい写真となった。


渓谷


            







                      「 夕闇迫る渓谷 ー 月の入り − 」 油彩 F6号 2008年10月22日

              














2008年10月19日 『風のガーデン』の緒形拳さん 


緒形拳さんのアリア





緒形拳さんといえば僕にとってはあの『砂の器』に登場する島根県亀岳の三木謙一巡査だ。
あの純粋で人が良く、なによりも高潔な人格は緒形さんそのものだった。

テレビドラマでは1985年NHKのドラマ『破獄』が飛びっきりいい。


そして今、緒形さんの遺作となったテレビドラマ『風のガーデン』を襟を正して毎週この目に焼き付けている。
遠くバリ島にいてもあのドラマを見る手立ては実はあるのだ。あれだけはなんとしても見ようと思った。



緒形さんの言葉ひとつひとつが胸に染み渡る。

彼が演ずるのは主人公、白鳥貞美の父親白鳥貞三。



第1話と第2話を見た限りでは、中井貴一さんと緒形拳さんが絶品である。


第1回 『スノードロップ』 花言葉は『去年の恋の名残の涙』

第2回 『エゾエンゴサク』 花言葉は『妖精たちの秘密の舞踏会』



全体としての物語は、絶縁関係にあった医師である息子が
不治の病に侵されたことをきっかけに故郷に帰り、
彼の父親や子供たちと最後の日々を過ごし、失ってしまった『家族』を人生の最後に取り戻していく物語だ。



そして、数日前の第2話で『緒形さんのアリア』を見ることができた。


第2話の後半、

祖父の貞三(緒形拳)が富良野の自宅へ戻ると老犬・蛍がいなくなったと弟の岳(神木隆之介)が泣いている。
貞三と一緒にガーデンへ探しに行ったルイと岳は、4kmも離れたグリーンハウスで倒れている蛍を見つける。
蛍はすでに息を引き取っていた。

蛍の遺体を泣きながら抱きしめる岳に貞三は静かにぽつりぽつり語りかける。




悲しむって言葉はね、
つらいって気持ちももちろんありますが
もともと愛しい(いとしい)って意味なんです。

愛しい、愛する、…大好きな言葉。 みんな同じ言葉の意味です。
愛しいから悲しい、もう会えないからつらい。
だから泣くのは全然かまいません。



             




おばあちゃんやお母さんが死んじゃった時、
おじいちゃんもルイさんもいっぱい泣きました。
覚えてるでしょう。

あの頃君はまだ小ちゃかったから、
不思議そうな顔をして、きょとんと見てた。

でも、今はもう君は大人になった。
大人になったから涙が出るんです。


でもねえ岳君。

生きてるものは必ず死にます。

おじいちゃんもいずれ死ぬ。

君だってルイさんだっていつか死ぬ。


死ぬ…ってことはね、

生きてるものの必ず通る道です。


君は犬の死に今泣いてる。

だけど、花が命を終え、枯れて死ぬ時は
いちいち涙流さないでしょう。

動物と植物違いはあってもどっちも同じ命なんです。

でも花は死ぬ時血を流さない、
だから人間はそれほど同情しない。
でも、おんなじ命なんですよ。



              



蛍がわざわざここへ来て死んだのは、
おばあちゃんやお母さんに早く飛びついて、
一刻も早く遊んで欲しかったからです。
今もうきっと二人に会えて嬉しくてキャッキャと遊んでます。

君とかルイさんとかおじいちゃんのことはたぶんもうすっかり忘れてるでしょう。

死ぬっていうことはそういうことなんです。

おそろしいことじゃ決してありません。


明日、裏山に埋めてあげましょう。




紅茶がさめますよ…。

熱いうちに、飲みなさい…。




                   






緒形さんありがとうございます。 




合掌











2008年10月14日  いちごのケーキと世界に広がるおわら踊りの布


今日は満月であり私の誕生日でもある。
もうこの歳になると、別段うれしくもなんとも無い。
っていうか、近年は誕生日自体も忘れがちになっている。
たんたんと歳月が過ぎて行くのみである。

まわりの人たちのほうが覚えていてくださって、メッセージをいただいたりする。
ありがたいことだ。

ここ数年は、私や連れ合いの誕生日に息子が手作りケーキを作ってくれる。
これも淋しい私の日常の中で数少ない嬉しいことだ。
ありがたくさきほどいただいた。

今年のケーキのできばえは今までの中で最高だった。
スポンジのふんわり度といい、生クリームのホイップのタイミングやバランスといい、かなり洗練されて来ている。
このあたりの才能は、私ではなく、料理の上手な連れ合いに似たようだ。






                 






で、夕方ケーキを食べ終わると、オリジナルの染物を頼んでいる職人さんが家にやって来た。
クタの町でまた面白いものを見つけたという。

見せてくれたのは、なんと私がデザインした『風の盆』を題材にした『おわら踊り』文様の浮織り布である。
しかし、完全に私のデザインのままではなく、現地のスンバ島の職人のアイデアが混ざって
面白い雰囲気を作っているのである。

実は、このような、アレンジ版『おわら踊り』の布は、ここ数年、バリ島のかなり多くの店で見られるようになったのだ。
踊り自体はインドネシアではなく、越中八尾風の盆で踊られる「おわら踊り」なのに、外国人の観光客がアジアの文化として
買っていくという。欧米人にとって、日本の踊りも、インドネシアの踊りも共通点があり、どちらもエキゾチックなのかもしれない。

私が自分の展覧会のために織ってもらっている『おわら踊り』の布が人気を得て、めぐりめぐって今や、インドネシアの一つの文化に
なろうとしている。これはある意味とても嬉しいことである。インドネシアならではの現象だ。

かつて、10年以上前、連れ合いの宮嶋が展覧会のために考案した、手絞りの草木染ストールのデザインが、
今やインドネシアの輸出品として年間30万枚以上作られているのと同じだ。
そうなのだ。彼女のデザインした布は、あらゆる日本のエスニックグッズの店に今や置いてあるという凄い現象がおこっている。
これは嘘のような本当の話。もちろんバリのほとんどのアートショップにも置いてある。

この国は著作権という概念が無いので、連れ合いや私には著作権使用料は全く入ってこない。
しかし、その分、私たちのアイデアが急速にこの国の染織文化の中に広まっていくのだ。
このことはとてもダイナミックな現象なのである。そしてバリ島という世界的な観光地であり、染織地であるゆえに、
輸出先は日本にとどまらず、欧米をはじめ全世界に輸出されていく。
これは実に面白い。

で、ありがたく彼が持ってきたこの布は買わせていただきました。コレクションにいたします(^^)
非常に丁寧に渋く作ってあり私も感心しきりだった。




                      越中八尾風の盆「おわら踊り」文様 浮織り
                     














2008年9月28日  『まどろみのバリ』に帰ってきました


太陽が照りつけるバリのングラライ空港に到着し、ロビーに降り立った瞬間、
あのむせかえるような甘い花の香りというか、果実の熟した香りが漂ってくる。
もう十八年間いつもこの匂いだ。

ただ、ここ5〜6年バリがかなり小奇麗になりつつあることも否めない。
私が住み始めた1991年の頃はそれはもう強烈な世界だったのだが…。

で、この独特の甘い香りもここ数年は若干弱くなってきている気がしないでもない


それでもまだまだ熱帯のパワーは残っている。

ふと見ると、到着ロビーでの手持ちエックス線検査の検査官が口を半開きにして居眠りしている。
荷物だけが黙々と箱の中を通過し、オートマチックに全部OKだ。

日本やUSAならえらい騒ぎになるだろうが、ここは熱帯の辺境の地。
すべてがぼんやりまどろんでいる。
誰も彼の惰眠に文句など言わないのだ。

この検査官の居眠りを許す『ゆるみ』の感覚があるうちは私はこの国に通おうと思う。
私も連れ合いも、十八年間、この『ゆるみ』の中で生かされてきた。
私の息子もこの『ゆるみ』の中で1歳から育ってきた。

先日まで滞在していたタイは、同じ熱帯でもそのようなゆるみはもう無い。
マレーシアやシンガポールはもう十数年も前からヒステリックなほどに厳しい。

ウブドの自宅に着くと、さすがに4ヶ月以上留守にしたので、不具合が生じていて、
電気工事少々、水道工事少々、屋根直し少々、と修理の日々だった。

で、本日ようやく落ち着いて日記を書いている。

これからようやく自分の感覚を外に吐き出す日々が徐々に始まる。

明日あたりから「男はつらいよ」の作業も再開します。
第19作「寅次郎と殿様」本編完全版完結篇は10月初めにアップできる予定です。




           バリは今乾季。暑くもなくとても過ごしやすい。11月末までこの過ごしやすさは続く。

            




               この風景の中で私の孤独な絵画制作がまたはじまる

              













2008年9月15日  「なんとか間に合った 『おくりびと』」



もう明後日に日本を出発するのであるが、予定を無理やりこじ開けて3時間だけ時間を作り、
動物的勘で昨日『おくりびと』を駆け込みで映画館に観に行った。

なんだかどうしても見なくてはならない映画だと胸騒ぎがしたのである。
これを観ずしてバリには行けない気がしたのである。

公開初日ということや、富山出身の関係者がスタッフキャストに多いこともあって
全席指定のその映画館は完全満員だった。この手のテーマでこんなことは超久しぶり。



なんとも清溢(せいいつ)な映画だった。凛とした空気に満ちていた。

観てよかった。心からそう思える数少ない映画だった。



         




この1年で観たDVDも含む全ての新作日本映画の中でもっとも私の心を打った映画だった。



誰にでも必ず訪れる死。
愛する人との永久の別れ。

そして、死びとを愛を込めて送り出し、棺に収める 納棺師。

病院での始末とは根本的に違う『古式納棺の儀』

厳かで厳粛な所作、

そしてそれらを包み込む透明な空気の中の山形庄内の四季、月光川、鳥海山、

人々の無理解や差別感の中で、それでも自分の新しい道を今徐々に信じつつ歩み続ける大吾。

そして彼の大粒の涙。



                     




哀しくどこまでも白い空に響くチェロ。
久石譲さん作曲の「おくりびと」のメインテーマだ。
この曲は果てしなくいい。
ナウシカのメインテーマも美しいが、この『おくりびと』のメインテーマの澄んだ音色は絶品だった。
彼は遂にやったのだ。



         


なによりもまず、オリジナルの脚本がいい。
『本』がよければ7割は成功したのと同じ。
そしてバランス感覚に秀でた滝田洋二郎さんの演出。

慧眼としかいいようのないこの原作の映画化を推した本木雅弘さんの感覚、
そして役者としての彼の納棺師の『所作』が美しいのは観れば分かる。

その傍らで、山崎努さんの人生をかけたニュアンスと存在感も渋く大きく光る。
彼の芝居ほど説明の不要な芝居もないだろう。もう彼の真似は現存する役者では誰も出来ない。


笹野高史さんのいぶし銀の名演技、実にいい役もらってました。
ラスト近くで私たちは彼に驚き胸を打たれるのだ。

そして何よりも忘れちゃならないのが、今回、地味だが、山田辰夫さん。
出番は少ないが彼がほんとよかった。この映画は彼が役に出会った映画でもある。
私は彼の芝居にも泣きました。


         


ぶっちぎりの本木さん、山崎さん、笹野さん、そして山田辰夫さん、

そして…吉行和子さんの合わせた手の指をしっかり見てください。


それだけではない。
この映画の随所に小さな笑いが施され、この映画がそれらの笑いによって
上質のふくよかさをかもし出しているから、う〜んこれはたまらない。



この映画の感想はバリに戻ってから、襟を正して腰をすえてもう少し書こうと思う。
たいして書けないかもしれないがそれでももうちょっと具体的に感想を書きたい。

映画館で金を出して観て、観終わった直後に、
またもう一度金を払って二度観たいと思った映画なんてそうそうはない。


日本映画は今大きな財産を得た。


そしてこの奥ゆかしき厳粛な日本文化を、その生死感、そして父と子の見えない絆を、
外国人よりも何よりもまず私たち現在の日本人が見るべきなのだ。



臨時増刊号でした。
















2008年9月13日「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ」


いやはや、あと数日で日本出発である。
9月16日に大阪に行き、関西空港からバンコクへ旅に出る。

で、最後の展覧会も大詰めなのと家の後片付けにも時間をとられ
この10日間ほとんどパソコンをいじれていない。っていうか睡眠時間も削っている…(TT)

そういえば、
第19作「寅次郎と殿様」の中で、寅が『マリ子』さんを探すために、柴又中を
駆けずり回って夕方へとへとになって戻ってくる哀れな姿があった。





寅、源ちゃんに担がれてとらやに戻ってくる。
目がペケになり、よろけながらながら、


寅「
最初の50軒目までは何とか数えてたけれど、
 それから先はもう…、
 目は霞むし、もうふらふらだよ…



おばちゃん「
おふ、お風呂が沸いてるからお入り

寅、よろけてこけそうになる。

おばちゃん「
あら、大丈夫かい

寅、階段に倒れて手すりにつかまりながら

寅「
いや…それより先に、ちょっとでもいいから寝かせてくれよ

おばちゃん「


這いずるように階段を上がりながら

寅「
あれだね、おばちゃん

おばちゃん「
ん?

寅「
東京中探すのには…4日や5日じゃ、無理だねえ…

這うように階段を上がって、エネルギーがゼロになり、
ついにガタガタガタずり落ちてしまう寅。




              


おばちゃん「
あああああ…

源ちゃん「
大丈夫ですか」源ちゃん寅を起こそうとするが

寅「
ここで寝るここで寝る…ここで寝るよ、おーいここで寝る」と、弛緩している。

寅、ヘロヘロ

みんな困った顔

              




ここ10日間の私はあの寅ように↑ヘロヘロのヘトヘトのガタガタなのだ。



それゆえに第19作「寅次郎と殿様」本編完全版完結編があと少しのところで
止まったままになってしまった。あ〜〜〜〜!もう数日だけあればアップできたのだが、残念!

で、完結編のアップはバンコクに10日間滞在したあと、バリに戻り、
ADSLの契約を再開したあとの9月30日ごろだと思う。

完結編を待ちわびておられたほんの一部の皆々様(^^;)
どうかもうしばらくお待ちください。
バンコクを10日間旅してバリに戻った後、また作業を開始し、9月30日にはなんとかアップします!



しかし、これは毎回書いているように、
日本滞在というのは、私にとって『稼ぎ(生業)』の日々と同時に『充電』の日々でもあることを
ご理解いただければと思う。
どうしても、少しでも空いた時間は「自分から吐き出す」よりも「自分の中へ取り入れる」ほうに
行ってしまうのである。そうでないとそのあとに「吐き出し」ができない。

で、バリに戻った9月末以降はまじめに本編もダイジェスト版も日記も制作していくつもり。


それではみなさん、
数日後の9月16日からくふらふらと旅に行ってまいります。

それゆえ明日からバリに戻るまでの2週間ほどはサイトの更新作業ができません。
9月末まで気長にお待ちください。


ああ…、もうこの放浪癖は生涯消えそうにもない。
私が寅に惹かれるのもここのところ。
寅と私は同じ渡り鳥の業を背負っているのだ。


第9作「柴又慕情」で、
さくらが「どうしてまた旅に行っちゃうの?」
って聞いた時、江戸川土手にねっころがりながら寅が空を指差し言うセリフ、

ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ…」 

結局は、私の人生もこの言葉に尽きるのだ。




                




【遠い旅の空から掲載記事画像


なお、上にも書いたが、記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080729-OYT8T00155.htm












2008年9月4日 4年ぶりの里帰りを果たした油彩「おわら かかし踊り」



今から4年ほど前、
私の大コレクターであるY.Iさんは、「風の盆」で踊るおわら踊りの中でもダイナミックな「かかし踊り」
の絵(12号M)を買ってくださった。
実はその絵は、私はまったく人前に出す気がなく、自分で勝手気ままに描き殴ったものだったのだが、目の肥えた
Y.Iさんは、展覧会場の隅に何気なく置いてある、きちんと額にも入れていなかったその絵を指差して、
「もしよろしければこれをいただきたいのですが」と仰られた。

自分では密かに気に入っていたものの、乱雑に描いたせいもあって、いかにも未完成のような風体のその絵を
人が買ってくださるなんて思いもよらなかった私は、なにかとても幸せな気持ちになっていったのだった。

そのあと、Y.Iさんはご自分の書斎にずっと飾られておられたのだが、私はあるミスを犯していたのだった。
それは、あの絵をデジタルカメラに収めるのを忘れてしまったのだ。

かなり気に入っているのも関わらず、ちょっとしたタイミングのズレで、写真にすることをうっかり忘れてしまう。
そういうことは人生でときたまある。

そのあとY.Iさんにお願いして、絵の写真を撮っていただいたのだが、なかなか上手くいかず、それ以来あの絵を
画像として残すことを半ば諦めていたのだった。しかしあのような半ばプライベートな絵こそ、画像を持っていたいので
毎年もんもんとしていたのだった。

それが、先日8月31日、今年も展覧会に見に来られた際に、なんとご自宅のある茨城県から
あの絵を手で持って来てくださったのだった。これは感激した。

さっそく、額をはずし、必死でカメラに何枚も収めたのが↓の画像だ。

ほぼ実物の色と質感が忠実に出たと思っている。

4年ぶりに里帰りしてきた自分の絵というものは実に愛おしいものだ。

ましてや、記録に残せぬまま売ってしまったのが心残りだっただけに再会に感激もひとしおだった。
そのこただけでなく、今回もY.Iさんは決して小さくない油彩画(4号と8号)を2枚もお買い上げになり、
またもや来年の私の制作活動を助けてくださったのだ。

そのうちの一枚が下の絵↓「おわらの日 西新町」



Y.Iさんにはいくら感謝してもしきれない恩がこれでまたもや増えてしまった。
私は十数年に渡るこの膨大な彼のご恩にどのように報いればいいのだろうか。
この先も出来る限り、命の終わりの日が来るまで、1枚でも納得できるまともな絵を描き続けること、
もうそのことしかないだろう。もちろんそんなことでY.Iさんんの大恩に報いることができるなんて到底思えないが
私に絵を描くこと以外一体何が出来るというのだろうか。





              油彩「 おわら かかし踊り 」 油彩 M12号 2004年7月

          





              油彩「 おわらの日 西新町 」 油彩 F4号 2008年8月

            














2008年8月26日 新作油彩 「雲間に見える剣岳」


五月のある日、雨上がりの後、立山連峰がくっきり見える午後があった。
その時地元の村まで行って描いた絵が以前6月24日にバリ日記で紹介した「五月の剣岳」だ。
あの絵は我ながら気に入っている。

で、実はあの時、他にも何枚か油彩を描いていたのだが、
どれもこれもめまぐるしく状況が変わる風景の中で描いたせいか、何が描かれてあるのかよくわからないような
破綻だらけの絵になってしまったので、デジカメにも撮らないで、お蔵入りしてしまった。

昨日、用事で全ての絵をストックしてある蔵に入った時に、この前の破綻だらけの絵たちが目に入った。
その中の一枚は、今冷静に見るとそんなに悪くないのである。それがこの絵「雲間から見える剣岳」だ。

あれからちょうど3ヶ月経って、他人の絵のように自分の絵を見れる気持ちになったのか…、
それはよくわからないが、とにかく、この絵、相変わらずごちゃごちゃした破綻は著しいものの、
なにかそこの場の空気のようなものを感じるので良しとした。
絵は描いてから数ヶ月経たないと分からないものだとつくづく思う。





                          油彩「雲間に見える剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

            












2008年8月21日 上野由岐子投手 奇跡の413球


いやあ、ついさきほどオリンピック ソフトボール女子で日本が優勝したばかり。
展覧会の仕事をしながら隙を見てはこの3試合ずっと観戦してきたが、
上野投手の気迫と集中力の持続は奇跡とも言えるものだった。
何かが乗り移ったように粘りに粘っていた。

誰よりも強い心で攻めまくる。

たった一人で、2日間で3試合、なんと400球以上を投げきった。丁寧に丁寧に…
キャッチャーのリードとバックをひたすら信じて。。

絶体絶命の満塁のピンチ!!
攻めのインコースシュート回転のストレート!!

感動させていただきました。

そして…最後はやっぱり全員で勝ち取った勝利だった。見ていればそれはわかる。
最後じつによく守り、しぶとく打った。


おめでとうみなさん。





       




       




       











2008年7月31日 【遠い旅の空から】新聞連載開始


先日7月29日(火)より読売新聞朝刊「東京版」にて
『男はつらいよ40周年』にちなんで、
『寅さんに影響を受けた人たち』というテーマで連載が行われている。

タイトルは【遠い旅の空から

この「男はつらいよ」という映画に人生で大きく影響を受けたいろいろな人たちを毎回一人ずつ紹介し、
映画と関連付けてその人たちの人生をも紹介するという企画だそうだ。

毎日連載で9回ほどに渡って、毎回100行〜120行ほどの長さで五段抜きで連載している。
読売新聞朝刊の中でもかなり大きな連載記事だ。


上にも書いたように東京版なので東京以外の道府県にお住まいの人は残念ながら読めない。
それと多摩地区の方々も読めない。

ただし、読売新聞本社内の
『ヨミプラザ』(03−3217−8399)に電話連絡すれば
全国どこからでも過去2ヶ月以内の読売新聞「東京版」は2ヶ月以内なら何日のものでも、
何部でも、通販で買えるから、ぜひとも読みたい人は送料(100円ほど)さえ足せば
2日ほどで手元に届いて読める仕組みになっている。


普段世間の企画ものに対して不精な私がどうして珍しくこのような公的なお知らせを
細々と、個人的な『日記』などに書くかと言うと、
実は私も4週間ほど前に取材を申し込まれたからだ。

私などは関係者でもないし、映画人でもないし、有名な文化人でもないし、芸能人でもないし、
仕事自体もちっとも有名な画伯でもないし…、つまり地位も名誉もついでにお金もない男だ。

場違いもいいとこじゃないかってお断りしようと思ったのだが、
私のささやかなサイト「男はつらいよ覚え書ノート」を見て感動してくれたその記者さんは
とても熱心な方で、ぜひ直接越中八尾の自宅へ行って話を聞きたいと仰る。

ずいぶん迷ったが、これによって少しでもこの映画が見直されればと、
結局僭越ながら己を無にして直接取材を受けることにした。


『国民映画』『寅さん』などとマスコミにさんざん表面的には持ち上げられながら、
一方でこの映画を評価しないことをまるで文化人、知識人のステイタスのように考えている輩が大勢いるこの国で、
この映画に人生を救われた人間がまさにここにいるのだと伝えたいと思ったからだ。
人の人生を変えてしまえる映画なんてそうあるものではないのだから。



7月初旬の大雨の翌日、
わざわざ読売新聞東京本社から汽車を乗り継いで山を越え5時間以上かけて
山深い越中八尾に来てくださった記者さんは
私の自宅1階板間のアトリエで3時間にもわたる熱心な取材をされた。



地元の北日本新聞、富山新聞やテレビには時々仕事の展覧会に取材していただいて
小さな記事を載せていただいているが、今回は仕事の展覧会でなく「寅さん」。

しかし記者さんの仰るには「寅さん」の詳しい話だけでなく、
その映画に影響を受けた人間そのものを実は取材したい、ということだった。

この映画のことだけでなく、バリのこと、絵のことなどを全部一つに関連付けての総合的な取材。

それゆえ私の心の底の隠したい部分や苦悩の人生の影の部分を
あえて探るような緊張感のある深い取材だった。

新聞記者さんのプロ意識というのはたいへんなものだなとつくづく感じた一日だった。


実は…、
あの徹底した取材を受けて私はもう一度精神を解体された。
そして、あらためて自分の裏表を総合的に見つめることが出来たのだ。
だからあの取材は違った意味でもとても私にとって意味のあるできごとになった。


取材の後、せっかくはるばる越中八尾まで来られたのだからと、
夕方の淡い光の中、自分の住む多くの絵のモチーフにもしている八尾の町を
ゆっくり1時間ほど歩いて案内させていただいた。これも大事な取材の一環だ。
こういうことはとても大事。その土地を知らないとその人は分からないものだ。
記者さんはとても町並みがしっとりしていると気に入ってくださった。

で、帰り際に「7月末頃からおそらく連載が始まります」と言われていた。

そのあとも時々メールを通して本質的なこと、精神的なことを何度か聞かれ、
それに自分なりに誠実に答えることによって自分がもっと見えてきたから面白い。



そうこうしているうちに先日連載が始まったが、

なんとその前日に「連載第1回目は吉川さんです」と、言われた。つまり私だった。

第1回目というのは「つかみ」なので本来とても重要なのだ。
第1回、2回、3回あたりが悪ければ後はこけるとも一般には言われる。

しかしこの場合、厳密に言えば私は『モチーフ』にしか過ぎず、
ポイントは記者さんの優れた筆力の方。
だから私は記者さんを信じるほかなかった。


それで掲載された翌日送られてきた記事を読ませていただくと、

自分の人生を変えた第15作「寅次郎相合い傘」での寅のアリアを文章の核として、
私の人生の明暗がドラマチックに浮かび上がる構成になっていた。

特に最終章は私の気持ちを代弁してくれるような鮮やかで無駄のない、それでいて温かいタッチで
締めくくられていたのはさすがの一言だった。

また、最終章に、私の最も敬愛する、恩人であり最大のパトロンであるY.I さんのお言葉が載せられていたのも
嬉しかった。記者さんは、Y.Iさんともコンタクトを取られ、取材されたのである。


見た感じ、思っていたよりずっと大きな記事で120行くらいはあると思われた。


世間受けを狙った寅さん寅さんした面白おかしい記事では全くなく、
逆にその影響を受けた人間そのものにじっくりとシリアスにスポットが当てられている
優れた本物の企画だったと思う。取材されたから言うわけではない。
こうして記事を眺めながら今しみじみそう感じているのだ。


それでは記事をご覧ください↓。


【遠い旅の空から掲載記事画像



なお、私の記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓

http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyo23/feature/tokyo231217264378697_02/news/20080729-OYT8T00155.htm













2008年7月7日 キャンバスの裏に油彩発見!「春の伊豆下田」



5月に雨漏りがあった倉庫から大量の絵を移動させた時に、キャンバスの裏にもう一枚風景画が見つかった。

私は学生時代に春によく海を描きに行ったが、この絵は21〜22歳の私が4月の伊豆下田の岩場を描いたものだ。

あの時は3枚ほど20号の絵を描いて、一枚だけ気に入った絵を展覧会発表したが、残りの二枚は気に入らなくて
未発表のままだったが、そのうちの一枚がどこに行ったのか行方不明だった。

今回の大移動で、ある異なる風景画の裏になんとその伊豆下田の海辺の絵があったのだ。
裏にアクリルジェッソを塗ってあとに、違う絵を描いたのだった。

まあ、上から違う絵を描いて潰してしまうよりはましだったが、それでも半分闇に隠されたようなものだ。


今こうしてこの隠された絵を眺めているとそんなに悪くない。
絵は稚拙だが、大胆な構図としっかりと乗せられたタッチが当時の高揚感を表していた。
写生とはこういう絵を言うのだ。

これだから絵は怖いのだ。その時の若気の至りで壊したり、裏から絵を描いてはいけない。
少なくとも数年は待たねばその絵のことは冷静には見れない。
当時若者だった私は、このいかにも不恰好なゴテゴテした無骨な絵に執着することはなかったのだ。

『蟹は自分の甲羅に似た穴しか掘れない』と、昔から言われるが、
ほんとうに絵というものは人生とともに分かってくるものなのだ。
できることなら描いた絵は残したほうがいいとしみじみ思い知らされた。
未来の自分がきっとその絵を分かってくれるのだから。





                         油彩「春の伊豆下田」 油彩 P20号 1982年頃 4月

                      













2008年6月24日 新作油彩 「五月の剣岳」


ここんとこ毎日雨が降る。それでなくても越中八尾は雨が多い土地なのだ。
それでも時々外に行っては絵を描き、散歩をする。

先月新緑の頃、雨上がりの直後、一瞬きれいに立山連峰が見えた。
さっそく近くの村まで30分かけて行ってスケッチ、油彩でも一気に描きあげた。
こういう時は、タッチが全部一発で決まりそうな予感があり、やはり決まる。

ささやかな至福の時だ。

この絵↓は剣岳の頂上付近が鮮やかに顔を出した一瞬。


私は2002年の晩夏、あの山に一週間いた。
そしてまさに同じ時に、遥かインドネシアで同い年の親友が天国に召された。

私は剣岳を見るたびに亡くなった彼を思い出す。

不思議なものだ。まったく関係のないふたつの出来事なのに、時期が一致すると
いつまでも関係が離れないのだ。

だから、意外にも、この油彩画も私にとっては親友のアナック.アグン.ライに捧げる気持ちになってしまう。
まあ、それもいいだろう。そういう人間が一人くらいいたっていい。




                       油彩「五月の剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

         







そして現在。
梅雨入りした近頃、自宅裏山の森(城ヶ山)は、下の写真のように紫陽花満開。毎夕散歩している。
時々無理やり家族もつきあわせている。で、私の写真を撮ってくれたのだ。↓
フクロウの雛にはあの日以来逢わない。あの日が最初で最後のご対面だったんだな…。


               











2008年6月16日 出を待つ絵たち その3 Mの肖像


越中八尾はここのところちょっと天気がぐずつき気味だ。
もう梅雨がそこまで来ている。
自宅の裏に城ヶ山という大きな森があって、私はよくスケッチに行く。
森というより低い山といったほうがいいくらいのなかなかの森林地帯だ。

この森のてっぺんに火災除けの神社である秋葉神社があるが、そこまでの階段も
今は紫陽花の花でいっぱいだ。ここ数週間、時間が空く夕方遅くにその森に絵を描きに行くが、
先日は木の枝に白いフクロウの雛が止まっていた。胸が毛でふわふわだ。文句なしにかわいい。
雛といってももうかなり大きく、巣立ち寸前といったところだった。
4メートルほど下にいる私を見ても逃げようとしない。

私も暇だからスケッチもせずにずっと雛を見ていた。
時々かわいい声で「チューチュー」と鳴いている。親を呼んでいるのだろう。

何十分経っても一向に逃げようとしないのでこちらのほうが飽きてしまって、フクロウにさよならをした。


さて、先日から続けている「出を待つ絵 シリーズ」だが、(おいおい何がシリーズだ ヾ(^^;))
今回貼り付ける絵は、私がバリに行くちょっと前に友人に頼んでモデルになってもらった絵だ。
確か数時間だけモデルをしてもらったので、2時間ほどで描いた絵だと思う。
ほとんど右往左往試行錯誤無しで、全部一発でぐいぐい決めていった記憶が今でも残っている。
普通はそうしたくても上手くはいかないのだが、この絵はそれなりに決まった。

当時は習作だと思っていたが、今回蔵から出してみてみると、なかなか動きがあってこなれていていい。
タッチも生きたまま終えている。

しかし、こういう絵はやはり当然売れないのだ。モチーフがただの青年では誰も家に飾りたがらない。
だから展覧会候補から外れがちになる。こればっかりはどうしょうもない。

しかし安心してくださいM君。君をモチーフにしたこの絵は、いつかきっと…、僕らが死んでしまった後かもしれないけれど、
何十年か後に多くの人が見てくれると思うよ。

なんてなんの根拠も展望もなく思い込んでいる私だった。
この、『根拠なく思い込める人』が絵を描き続ける人なのだろう。いいも悪くもない、そんなこと偉くもないし、馬鹿でもない。
ただそう言う類の人というだけのこと。





                      「Mの肖像」 油彩 P6号 1991年頃

                










2008年6月3日 出を待つ絵たち その2 『チャンプァンへの道』


バリ滞在初期に一気に30分ほどで描いたこの↓自宅近くの田園風景画を私は気に入っている。
バリでは自分のギャラリーにしばらく飾っていたのだが、日本では遂に一度も人の前で見せることはなかった。

なぜ気に入っていたのに飾らなかったのかっていうと、当時この絵がなんと行方不明に
なっていたからなのだ。

大事に保存していたのにもかかわらず、木枠からはずして大量に持ち帰ったゆえに
他の絵に混ざって蔵に平積みされてしまっていた。

5年ほど前にこの絵は蔵で見つかったのだが、タイミングがちょっと合わずに
今日までずるずる来てしまった。いつの日か必ずどこかの個展で見せてみたい。




                       「チャンプァン風景」 油彩 P20号 1992年頃

            









2008年5月26日 「覚え書ノート」TOPをFLASHアニメにしました。


昨日、「男はつらいよ 覚え書ノート」のTOPアニメーションを、息子がFLASHアニメーションにしてくれた。
彼は今、FLASHの勉強をしているので練習代わりに作ってくれたのだ。それでも一人で何から何まで
全部作るせいかやはりこんな短いものでも2週間近くかかっていた。
まあ、何事も数をこなさないと目と感覚が磨かれないので、今はなんでもやってみているようだ。

いろいろ絵的に未熟な部分も多いが、長い目で見てやろうと思ってはいる。





             








2008年5月23日  寡黙に出を待つ絵たち


この10日間、超多忙で更新がまったく出来なかった。
腰もすっかりよくなり、今回滞在の前半のメインイベントをしていたのだ。
と、言っても別に展覧会の話ではない。

昨年秋、バリ出発直前に離れの蔵の屋根の雨漏りの修理をしたが、今回は蔵の中の雨漏り跡の修理。
そしてそこに保存してあった昔描いた絵の大移動。これにはどえらく時間がかかった。
枚数も多かったが、一枚一枚写真で記録をとっていたからだ。
この蔵の絵には悲しいかなほとんど記録が取られていない。

蔵の中のほとんどの絵は売れなかったのはもちろん、なんと発表すらしていない。
いままでに発表した絵たちは売れた絵はその方たちの家に。
残った絵も母屋の2階のほうに別枠で置いてある。

悪く言うとこの離れの蔵に置いてあった絵は『忘れられそうになっていた絵たち』だったのだ。
忘れていたわけではないが、やはり今描いている絵のほうに意識が行くのは当たり前のことでもある。
絵を描く者の業というものだと思う。

自分で描いていうのもなんだが、これらの膨大な絵たちはなかなか飾ってもらえない運命にあるのだ。
特に2001年以降はいままでの日本中心の個展しまくり生活を切り上げ、
ウブド村のより奥地で隠遁生活を始めてしまったおかげで、絵の発表の機会が極端に少なくなったのだ。

そういうこともあって今までに描いた絵のなんと70パーセントが未発表のままである。
こりゃ文字通り孤高の画家であるわな…(^^;)

その中には私と家族以外誰も知らないようなほとんど誰にも見せていない可哀想な絵も少なくない。
だからといってその絵が質が悪いわけではない。プライベートなモチーフなので数少ない発表の時に選に
もれてしまうのだ。

今回の絵の保存場所の大移動で、あらためて過去20数年の自分の描いた絵を一枚一枚確認できたことは
とても有意義だったと言える。

ウブドにもまだ近年の作品を200枚くらいは残してきているが、
それ以外の過去のものは日本に持って帰って来ている。
この絵たちの居場所作りが今回2ヶ月も早めに帰国した一番の目的だったのだ。

かつて失敗だと思っていた絵が十数年の歳月を経て見て見ると、なかなかいい絵だったりするから面白い。

そこで今回から何回かに渡って一枚〜ニ枚ずつ『完全未発表の絵』の中で気に入っている絵を
紹介させていただこうと思う。ここで今誰かに見ていただかないと今度いつお披露目できるかわからないからだ。




今日のこの絵↓は息子がまだ幼稚園くらいの時の私の自画像だ。バリと言えども7月8月は夜は結構冷える。
ゴアテックスを着て絵を描いたのだろう。1995年頃か。

同じころに、同じく防寒の毛布を巻きつけた息子を描いている。(その下の絵参照)

まあ、この手の絵は日本ではまず売れない。
完全プライベートなモチーフなので発表のタイミングも後手後手に回り、ついに二つとも
文字通り何の日の目も見ないまま、『お蔵入り』してしまったというわけだ。
私個人としては2枚とも気に入っている。






                   「Yの肖像Y」 油彩 8号P 1995年頃

             




                         

                      「RYOYTAROの肖像」 油彩 15号P 1995年

             







                   

              

2008年5月8日  絵の嫁ぎ先を見せていただきました − 絵のある風景 −



『絵画』というものは普通の方にとってはずいぶん高価な買い物であり、非日常的な買い物だ。

それゆえ、今まで私が売ってきた何百枚と言う絵は全て買われた方の家に
大切に飾られているのである。大抵は玄関か応接間か自室(書斎)だ。
公共施設にも何枚か買って頂いたが、やはり目に付くところに大切に飾られている。

特に自宅がある越中八尾町の家々には結構私の絵が飾られているのだ。
たいして売れない無名の絵描きを同情してか、同じ町のよしみかいろんな方が買ってくださった。
絵を複数お持ちの方も少なくない。
モチーフが風の盆や曳山祭りや町の四季の風景の時もあれば、
全然関係ないバリの風景画の時もある。とてもありがたいことだと今でも心でお礼を言っている。
人にとっては、生活必需品を買うのはごく当たり前の行為だが、そうでない非日常的な物を買うのは大変なことなのだ。
このような応援者のおかげでなんと生きながらえているのだから、感謝してもしきれない。

それで、先日も日記に書かせていただいた、私の絵を4月に2枚買ってくださった私の最大のパトロンであるY.Iさんから、
ゴールデンウィークの最中に、ご自分が外科部長としてお勤めになられているつくば市の記念病院に
早くもそれらの絵を飾られたというお便りをいただき、飾られたあとの様子を撮られたお写真も添えてくださった。

Y.Iさんはいろいろこの2枚を飾られる場所を考えられた末、
みなさんが最もよく通るリハビリセンターと大会議室を結ぶ通路の正面の壁に掛けてくださったそうだ(写真参照)
ここなら多くのリハビリの患者さんとご家族の方々が時間を過ごされることが多いし、勤務されているスタッフの
方々も大会議室に全体の会議に向われる時に必ず視野に入るということらしい。

患者さんがご家族やスタッフと毎日リハビリをされながら、ふと向こうを見ると
『越中おわら風の盆』の『男踊り』『女踊り』の絵が何気なく目に入るのだ。

そのような真剣で懸命な日々の中で、ほんの少しでも気持ちの安らぎや心の静けさの時間を持てる
お手伝いになれば絵描としてこんな冥利はない。

私はもう18年もこんなギリギリの生活を続けていて正直苦しいことばかりで、もうダメだと挫けそうにもなるが、
絵を描き続けてきてよかったと、Y.Iさんが送ってくださったお写真を今こうして眺めながらしみじみ思っている。
絵をやめなくてほんとよかったと。
 
絵とは、普段は日常生活の中で要らない物だ。
そして忙しい日常では要らないものだからこそ、
人は時としてそんなものにふと救われたり癒されたりするのではないかと常々思ってもいる。





             







             











2008年5月5日  絢爛豪華 十数年ぶりの春祭り


今回は十数年ぶりで、春に越中八尾に戻ったので春の「祭り」を味わうことが出来た。
この越中八尾で「祭り」というと、「風の盆」のことではない。祭りと言えば五月に行われる
「越中八尾曳山神事」のことなのだ。今年も一昨日の五月三日に行われた。

越中八尾は越中と飛騨の要の地にあり、江戸時代、越中売薬の隆盛とともに蚕種の生産によって築かれた
莫大な繁栄は大きな財力を生み、富山藩を支え続けた。そのような八尾町人の心意気を示すため、藩の庇護のもと、
「八尾曳山」を次々と作り出していったのだ。
曳山は、上部には人形(御神像)、下層内部には囃子方が入る二層形式の屋台山で、各町で微妙にその特徴が違うのが
なんとも興味深い。ちなみに曳山は上新町・東町・西町・今町・諏訪町・下新町の六町にあり、
六町それぞれに十数種類の曳山囃子が伝承されている。


県有形民俗文化財でもあるその「八尾町祭礼曳山(ひきやま)」は昨年までは、
起源が寛保元(一七四一)年とされてきたが、六基の中で、最初に製作された私の住む上新町の曳山が
一年前の元文五(一七四〇)年にはじめられていたことが分かり、記録が書き換えられた。

もちろん中の御神体(人形)も外の大彫刻もほとんどが江戸時代に越中を代表する名工たちによって作られたもの。


20年ほど昔、まだ息子が生まれる前、私は東京で教師をしていたが、5月の連休になると、連れ合いの宮嶋の故郷である
この富山を訪れ、越中八尾の曳山祭りを見に帰ったものだ。

一昨日は雲ひとつない晴天の中、三味線、笛、太鼓などの古式ゆかしい曳山囃子が奏でられる中、
棟梁、彫刻、彫金、漆工、金箔、を究極までほどこした六基の絢爛豪華な曳山が坂の町を一日中練り歩いた。

八尾はどの道も写真のとおり曳山が通れるギリギリに作られており、メインはその上がり坂、下り坂と辻曲がり(角回し)。

揃いの法被を着た若衆を中心に力の限り曳山を90度回転させ、見事成功すると、観客から盛大な拍手がおくられるのだ。

夜は六基とも、曳山を覆うよう全部で1000の提灯が取り付けられ、各町を同じように巡行していく。

今回の帰国は、この祭りを味わうのもそのひとつの目的だったが、私はその日に合わせて自宅で展覧会を
開いたので、もっぱら曳山が自宅の前を通るのを狙って二階へ駆け上がり窓から眺めていた。

私の家は上新町の大通りに面しているので曳山が実によく見えるから嬉しい。

かつて私も上新町の曳山は絵にしたことがある↓



                      越中八尾曳山祭り 上新町曳山  8号F

             








          私が展覧会で抜けれないので、息子が代わりに高台に上って諏訪町通りと曳山たちを撮ってくれた。

                  







                       諏訪町通り(日本の道100選)を練り歩く六基の曳山

             





              曳山は本体だけでなくこのように車輪に施された彫刻もそれはもう見事(東町) 自宅家の前で撮影

             







              私の家の2階窓から撮影した「上新町曳山」 屋根に鳳凰がついているのが特徴。

                





  
                 同じく同日夜に私の家の玄関から撮影した「上新町曳山」

               



こうして越中八尾は新緑の季節を迎えていくのでした。



先日息子は、このサイトにも貼ってあるFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』
You Tubeに試しに貼り付けていた。中身は一緒ですが、お時間がある方はどうぞご覧になってください。


YouTube のFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』











2008年4月27日  主なしとて春な忘れそ




22日に帰国してからようやく時間ができたので更新作業をこうしてしている。

4年ほど前、春に東京に降り立った。
見事な桜を見ることが出来た。

しかし、今年は4月22日に帰国したので、桜も葉桜気味のものをちらほらとしか見れなかった。
でも、少しでも見れたのはラッキーかも。

実は自宅のある富山に4月末に帰るのは10年以上後無沙汰しているのだ。
いつもなら早くて7月だ。

で、玄関にたどり着くと、道沿いのわずかな土の部分になんとチューリップが咲いているではないか。
赤いチューリップだ。
息子に聞くと、ずいぶん昔、小学校の低学年のころ確かに咲いていた記憶があるとのこと。
私も連れ合いも完全にチューリップが玄関に忘れていた。

私たちが帰らない10年以上もの間、この赤いチューリップは咲いては枯れ、咲いては枯れ、
と、健気に生きていたのだ。
なんだかちょっと可哀想な話だが、嬉しくもある話だ。
もちろん花はただ咲きたくて咲いているのであってなんの感情もない。

だからこそ花は限りなく美しい。


美しい花がある。花の美しさというようなものはない。



そう言えば、その昔、平安時代、
菅原道真(845年〜903年)が901年 大宰権帥(だざいのごんのそち)に任ぜられ、
京を発つ際、自宅の紅梅殿に植えてあった梅を見て

『 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ 』

と詠んだことを思い出した。


チューリップは主のいないこの家で、春を忘れないで毎年毎年真っ赤な花を咲かせていたのだ。

私は対面したそのチューリップにはじめて水をやり、その不思議なご縁に感謝した午後だった。





                      











2008年4月15日  4月15日FLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』




毎日降っていたスコールの数がここ一週間は減り、もうさすがに雨季は終ったかもしれない。

もう毎日毎日、帰国準備で絵画制作がほとんどできずにいる。出発前の一週間はいつもこうだ。
サイト更新も、バリを出発してからは10日間ほどはたぶん多忙で出来ないと思う。

で、まだ少しだけ時間のある今のうちに息子が作ったフラッシュアニメーションを貼り付けておこうと思う。




ここ数ヶ月、息子はフラッシュアニメに凝っている。
まあ、いずれ美術関系の仕事をするつもりらしいので、なんでもトレーニングである。

私のTOPページ(絵のページの方)のアニメも彼の手によって3月にGIFアニメーションから
Flashアニメーションに変えたばかりだ。

で、今回は彼にしては長い1分間の、『寅と鳥獣が戦うアニメーション』を作っていた。

彼は彼なりに普段忙しいらしく、時間の空いた時を利用して、ちょろちょろと作っていたので、
なんと1ヶ月もかかったようだ。いつもなら速攻で作りあげるのが得意な息子にしては、
変に腰の据わったまじめな作業の日々だったようだ。

昨日、一応出来上がった後、アニメーションのBGM用に、私の音楽CDコレクションの中から、
私の大のお気に入りである19世紀イタリアの作曲家「プッチーニ」を選んでいた。
アニメーションのBGMとして成り立つのか??。

そして、「プッチー二」の中の、唯一の喜劇オペラである「ジャンニ・スキッキ 
Gianni Schicchi
の中、ラウレッタが歌うアリア「私のお父さん O mio babbino caro 」を最後は採用していた。


ラウレッタは恋人のリヌッチョと結婚させて欲しいと父親のスキッキに懇願するのだ。
もしそれがかなわないならばアルノ川に身を投げるわと、半分脅しながら迫っていくのである。



O mio babbino caro,          
mi piace,                
e bello bello.
Vo'andare in Porta Rossa
a comperar l'anello        
           
Si, si, ci voglio andare       
E se l'amassi indarno.        
andrei sul Ponte Vecchio,     
ma per buttarmi in Arno      
Mi struggo e mi tormento    
O Dio, vorrei morir         
Babbo, pieta, pieta         





あの世紀の名曲と寅次郎とどう結びつくのか、???という感じで、出来上がったものを見てみると
これがなかなかな感じで成功している。ちょっとエンディングロールのノリかな…。
さすがに1分間だけあって15〜16ほどのシーンが作ってあり、なかなか本格的なものになっていた。
特にラスト20秒は幻想的で気に入った。

で、私にしては珍しく、この作品はちょっと褒めてやった。初めてかもしれない。(親バカ…(^^;))


いずれにしても、今までの彼の小粒なアニメーションの中では
初めて手ごたえのある作品となったことは間違いないだろう。

せっかくなんで、ここに僭越ながらみなさんに紹介させていただきます。



【注意】

容量がなんと5,5MBもあるらしく、
日本のADSL(ブロードバンド)の方は15秒〜30秒ほど待つそうです(^^;)ゞ
光ファィバーの方は待ち時間はたった10秒程度だそうです。

最初は、ダウンロードが完了していないので、絵とBGMに物凄い不具合や短い繰り返しが
生じるかもしれませんが、
全てダウンロードが完了したらもう一度最初から見てください。普通に見れます。



ちなみにバリ島の私の通信速度のかなり遅いADSLネット環境では、
この重さ(5,5MB)のフラッシュでは、最後までなかなかダウンロードしづらく、
待ち時間も長いです。2分間も待ちました(TT)

でもなんとか見れます!(^^)




           

FLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』










2008年4月6日  油彩レゴンラッサムに扮する村娘



いよいよ帰国が近づいてきた。今年は個人的な用事があり、早めに一時帰国するのだが、
最後の2ヶ月は、実は忙しかったのだ。12月末から2月初めにかけて家の修築を行ったので
2月中旬から今日までの2ヶ月で絵画制作のラストスパートをしていた。
毎日同時に数枚描き進める日々が60日あまり休みなしで続けられた。
お陰で「覚え書ノート」の更新が滞りがちだったが、実はそれはいつものことなのでお許しください(^^;)ゞ

で、4月に入ってから、近所の子供にまたレゴンの衣装を着てもらって再度何日か制作してみたが、
途中までいい感じだったのだが、また硬くなってしまった。
それで、いつものように徹底的に壊して、一気に1時間でやり直したら、ちょっと生き返った感じになったので、ここで筆を置いた。

ベラスケスに憧れ、レンブラントに憧れ、ひたすらそれだけを光として続けてここまでやってきたが、
あの確かで、しかもしなやかな線と大胆なタッチの中の強靭なフォルムの裾野にさえ至っていないことを
痛感する今日この頃だ。




                   「レゴンラッサムに扮する村娘」 油彩 20号P 2008年4月

                  









2008年3月31日 危機一髪起死回生の福音



それにしても昨年から今年にかけてバリの自分のギャラリーでも委託先のギャラリーでも絵の売れ行きがイマイチだ。
ここ5年くらいもうずっとそうなのだが、私も宮嶋もなかなか絵が売れていかない。一ヶ月に1枚も売れない月も時々ある。
これは大きな流れ的なもので、バリ島全体で絵画というものがあまり売れなくなってきている。

だから私たちだけではないのだが、そうは思ってもやはり先立つものがないと困る。
どんなに貧しくなってもいわゆる売り絵の類はさすがに描きたくない。
日本での絵と染織工芸の展覧会はまだ随分先だ。
いったいどうすればいいんだろう…。
特に今年は4月末に一時帰国するので、当面の日本での生活費も必要なのだ。

もちろん貯金など逆立ちしても無い。全く無い。何度逆立ちしてみてもコインどころか鼻血ももう出ない(TT)

もう今年こそダメか、と膝を折りそうになると、助け舟がどこからともなくやってくる。
この不思議な現象は、もう何年も続いている。

しかし、今回は家の修復をしてしまったので、いつものギリギリをはるかに越えてせっぱ詰まってしまった。
これがまずかった。ああ、修復などしなければよかった…(TT)

助け舟ももうさすがに来そうにない…。

と、思ったら、なんと昨年の日記にも書いた私の大恩人であり、偉大なるパトロンのY.Iさんから2月末に連絡があり、
ご自身が外科部長として勤める大きな記念病院に新しい建物が出来るので風の盆の絵を2枚いただきたいとおっしゃったのだ。

Y.Iさんはかれこれこれで十数枚私の絵をお持ちではないだろうか。
4〜5枚ほど持っていらっしゃる方は何人かいらっしゃるが、Y.Iさんほどの枚数を持っていらっしゃる方はいない。
なによりも彼ほどの目利きはまずいない。ちなみにY.Iさんは風の盆を舞台にした美しい脚本も書かれる。
私も一度読ませていただいたが、柔道と空手の有段者であるがっちりした彼の風貌からは想像できない
幻想的で美しい脚本だった。多才なのだ。

私が今まで描いた風の盆の絵の中でも売りたくないほど気に入っていた絵も彼には何度か持って行ってもらった。
昨年彼の元にお嫁に出したバリ島の踊り子を描いた「踊りの前」も私は好きゆえに売りたくないと思っていた絵だった。
このことは、昨年9月のこの日記に書いたので読んでください。
(後日病院に飾っているお写真をY.Iさんから送っていただいた)

彼なら自分が気に入っているがゆえに売りたくない絵を持って行ってもらっても信用できるのである。


やはり天は私を見捨てなかった…起死回生の福音…うるうる(TT)


それで、今回のお話。
Y.Iさんに買われるのだから、前回同様、私と彼、両方が最も気に入った絵をお嫁入りに出さねばならない。
で、私が気に入った絵たちからY.Iさんに最終的に選んでいただき、
男踊り一枚と、女踊り一枚(それぞれ20号)をお嫁に出すことになった。

そのうちの一枚を紹介しましょう(下の20号の絵参照)

これはおわら男踊りの中でも直線的でダイナミックな新踊りのなかの『大かがり』という所作で、
鳶が大きく空を舞う様子を表現したものである。
所作のかたち、勢い、リズム、…自分でも納得するできだ。

もう一枚の「女踊り」も自分でも気に入っている。
こちらはまだデジカメに撮っていないのでこの日記では「男踊り」の絵を紹介する。

これで、その大きな記念病院には、昨年の「踊りの前」と合わせて3枚私の絵がかかることになった。


病気や怪我で心が沈んでいる患者さんや忙しく働く看護士さんやお医者さんが、ふと空いた時間に
足を止めて、何気なくこの絵を見て、心を潤わせていただければ絵を描くものとしてこんな冥利なことはない。





                Y.Iさんが買われた「おわら風の盆.男踊り『大かざし』」 油彩 20号P

                    





                 







2008年3月22日 奇跡の復活、アグンライの白い花


私の親友だったアグンライが亡くなったのは、私が剱岳に登っていた2002年の晩夏だった。
それから毎年アグンライが植えていった白い花がバリのお盆のころになると
不思議に毎年何輪もの花を咲かせてくれたのだ。
あの白い花が咲きはじめ、散り終わるまでの数日間彼が私の家に滞在するのだ。
私は勝手にそう決めていた。
そして熱帯ゆえに、水と肥料さえ普通にやっていると毎年咲き続けるものだと思っていた。

しかし昨年はその根っこがだめになってしまって、枯れてしまった。
彼が亡くなる前の年に植えたのでかれこれ5年近く咲いてくれたのだが、
こういうのも寿命というものがあるのか、土が固くなったのか、肥料が足らなかったのか、
よく分からないが、とにかく枯れたのだ。昨年から水はけが悪くなったので根腐れしたのかもしれない。

なんとか再生させようと、土を入れ替え、肥料を撒きなおして、丁寧に世話をしたら
枯れてから1年後、なんと奇跡的に完全復活してくれた。
そして数日前に花が次々に咲いたのだ。

なにやら、アグンライがまた訪ねて来てくれたようで嬉しかった。

バリはもうすぐ雨季が終るが、ここに来て雨が続いている。
もう毎日雨雨雨…。





                 






                           















2008年3月7日 狂乱と静寂の日々



バリが最も狂喜乱舞する日が昨日の『大晦日』の夜。
バリが最も静寂で物音一つ電灯一つともらない日がこの『新年.ニュピ』である。

この両極端は凄い。



私の敷地の渓谷に流れるチャンプァン川。
その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが聞こえてくる。
車の音はもちろん、敷地からは人の気配は感じられない。
どの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。

午後までは快晴。夕方はスコールだった。そして夜半からは満天の星。
私も宮嶋も息子も深夜、新しく作った見晴台で一時間近くボケーっと夜空の天の川を見ていた。
なんとも贅沢な時間。究極のひとときだ。


この静寂は前も書いた通りバリ島中で行われる。誰もどこも例外はない。
この状態が24時間続き、これを書いている今、その静寂は終ろうとしている。

私も今日ばかりはアトリエで絵を描く以外ほとんどなにも行動しなかった。
夜はテラスの明かりを消して、部屋の中で映画を見ていた。




その反対に、昨日は夜中中魔よけのオゴオゴが5体も練り歩き、巨大な竹から発射される爆竹が鳴り響き、
若者たちがガソリンを口に含み火に噴射し、空中で爆発炎上させる。

小さな幼稚園児から、小学生、中高生、大人までそのオゴオゴは5種類に分かれる。

魔よけなので道幅いっぱいにわざと揺らしてジグザグに運ぶのである。そして悪魔を追い払うのだ。
葬式の時もこのようなことを行う。その姿はまさに『狂気』誰もそれを止めれないし、止めてはいけない。
さかんに、沿道の人たちが冷水を彼らに掛ける。『気』を入れるのだ。



百聞は一見にしかず、それでは私のギャラリー前を通過する瞬間の私の村の3つのオゴオゴをご覧下さい。





★まずは可愛いオゴオゴ。私の村の幼稚園児が制作したもの。一応魔よけ(^^;)
 オッチラオッチラ運んでいた。


              








★次は3月3日のバリ日記で、取材した、私のギャラリーの道向こうで制作していた中高生たちのオゴオゴ。
  息子の友人たちが作ったものだ。大人顔負けの迫力があり、これはもう完全に悪魔は退散すること間違いなし。


              






★次は20代の大人達が作った、本格的なオゴオゴ。さすがに造形力がある。
  揺らし方も担ぎ方もサマになっていた。悪魔の入る隙はないようだ


              



魔よけ儀式は深夜まで続き、お祈りをし、オゴオゴを焼き清め。ニュピの準備に入る。
そして夜明けとともに『原始の静寂』が24時間やって来る。


すべての汚れが清められていく一日だった。














2008年3月3日 遂に来たオゴオゴの季節!




いよいよニュピの日が近づいてきた。ニュピとはバリのサカ暦で『新年』にあたる。


このバリの新年である『ニュピ』は太陽暦とサカ暦のずれによって、毎年微妙にずれていくのだが、
今年の新年(ニュピ)は3月7日だ。

前の日の大晦日の昨日は島中で爆竹が鳴り響き、ドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行う。
そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。

この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。

私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。

さて、その大晦日に向けてのオゴオゴ作りもどの村々も佳境に入っている。
私の村もちょうど私のギャラリーの斜め前で2週間ほど前から大人は大人のグループ。少年たちは少年たちのグループで、
毎日夕方から魔よけの恐いヤツをそれぞれ作っている。

このオゴオゴは魔よけなので、大きければ大きいほど、恐ければ恐いほど素晴らしいのだ。
写真で見て分かるとおり、目がぎょろりとして顔全体が爆発したようなイッチャッテル顔なので、今年も悪魔がこの村に寄り付かないこと
請け合いである。作り方を誰に学んだわけでも無いのに実に上手だ。写真に写っているのはみんなごく近所の子供たち。
息子とほぼ同い年の子らだ。

私は、彼らが赤ちゃんの頃からこの村に住んでいる。今も外に出るたびに顔を合わす。だから彼らは私の心にもきちんと住んでいる。
そういう子らだ。性格も知っている。だからこのイベントには特別愛着があるのだ。







                    















2008年2月26日 今年も出来あがったオリジナル染織品


昨晩は忙しくて絵を描けなかった。
というのも、私の工房の職人さんが夜に私と宮嶋がデザインし、線を引いた壁掛けと暖簾を持ってきたからだ。

彼の名前はヘンドロと言う。私と同い年だ。
彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。歳月はほんと矢の如しである。

この写っている布は、まず私が『風の盆の男女混合の踊り』や雲や月、鳥、稲穂などを線画であしらう。
そのあと連れ合いの宮嶋が全体のコンポジションを決め、両端の手絞りの場所などを微調整する。
まあ、アートディレクターの役目だ。

そして、染色の職人であるヘンドロが最後に草木染をするのだ。時として私たちも手伝う。

風の盆の絵や鳥模様などを入れないで、宮嶋が手絞りだけのコンポジションで抽象模様のストールを作る場合も多い。
まあ、用途によっていろいろ作るのだ。

近年はこのようなオリジナルの染織作品が時としては油彩画よりも沢山売れる。
絵がそんなにも売れない私たちの影の大切な稼ぎ頭なのである。

特に宮嶋が12年ほど前からデザインを始めた手絞りの抽象模様のストールは、近年では私たちの手から離れ、
デザインが職人たちを通してジャワ島に流れ、そのジャワ島の東部の町々でたくさんの別の職人さんたちが宮嶋と同じデザインで
海外への輸出用ストールを作っており、日本を始め、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアから来るバイヤーの人々が
好んで何百枚もオーダーしていくようだ。

今や日本の多くの輸入雑貨店やネット販売などにも、かつての宮嶋のデザインがそのままの形で沢山並んでいるのを見聞きするにつけ、
いかに宮嶋の発案した最初のデザインが普遍的なコンポジションを持っていたか、近年ヘンドロも私もあらためて思い知ることと
なったのである。


そういう意味では一介の絵描きに過ぎない彼女も、インドネシアの染織文化の歴史の流れのささやかな一端を
確かに受け持ったと言えるであろう。こういう事象は私たちにとってとても愉快なことであり、ここに十数年も根を生やしてよかったと
思える数少ない思い出のひとつなのだ。


で、話は戻るが、今回出来上がった『風の盆』をモチーフにした何十枚もの作品をみんなで一枚一枚批評していると、
ちょうど息子がデジカメを持て来た。いつもは写真に撮られるのが余り好きでないシャイな宮嶋にしては珍しく、
今回染織作品がたくさん上手くいき気分が良かったのか、昨晩はヘンドロと一緒にスナップを撮られることをなんとOKしていた。
めったに無いことなので、彼女の気の変わらないうちにこの日記にもはやく貼り付けておこうと思う。





         左が私と同い年のヘンドロ。 右が宮嶋。 布は手紬ぎ糸使用、手描きろうけつ草木染めの『風の盆文様壁掛け』

             












2008年2月19日 最後に『見晴らし台』も作ってみました


母屋が完成したのでここ2週間ほど、ゆっくり休息するはずが、4平方メートルの『小ちゃな見晴台兼絵の制作場所』を作ってしまった。
作ったのは敷地の端、渓谷寄りの難しい場所。それゆえまたもや休息できなかった。ま、いつも休息しているようなものだったから
良しとするか。夜はちゃんとアトリエのテラスで勤勉に絵の制作をしていたので結構疲れた。

この小ちゃな見晴台は、母屋の改築時、テラスのタイルとセメントと石がちょっと余ったのがきっかけで、つい欲が出たのだ。
毎日スコールが1時間ほど降る中、1週間かけて息子と二人でえっちらおっちら作っていた。余りモノで作ったたった4平方メートル
の小ちゃな見晴台。それゆえほとんどお金はかかっていない。

土台の一番下は土地が斜めなゆえに難しいのでちょっと大工さんにも手伝ってもらったが、あとは家族でがんばった。眺めは最高である。
敷地の端から渓谷よりに2メートル以上突き出ているのでちょっとだけ鳥になった気分だ。眼下を鳥が飛ぶ。
渓谷の風景画もここで描ける。見晴台の『屋根』は見た目がうるさくなるのでつけなかった。(お金が無いからだろ ヾ(^^;))
だから雨の日は使えない。まあ、それもいいだろう。
本当は絵の制作よりも夕方からの風を受けてのんびり寝そべるのが一番の目的…。
実はこういうことがしたくてこの土地に居るのかもしれない。究極の隠遁生活だ。まあ半分人生を降りているゆえの幸せか…。
それにしてもネコたちと一緒に寝そべるのは実に気持ちいい。




                             2匹の猫と見晴台で遊ぶ私
                
                










2008年2月3日  ホロホロ鳥(ちょう)発見!



ここ数日、大工さんは休み。昨日は『クニンガン』と言って、お盆である『ガルンガン』が終わり、神様ご先祖様が
天上にもどる日なのだ。どの家々でもまたもやガルンガン同様儀式料理のサテとラワールを作り、供え、そして食べる。
もちろん私たちもおすそ分けをたっぷりいただいて思う存分食べた。今日もその余韻で大工さんはもう一日休み。

で、昼私たち家族だけで最後の仕上げの作業をしていると、敷地の奥ですさまじいがなり声がした。鳥の声のようだ。
しかし近所の鶏とも鴨ともガチョウとも違う声だ。とにかく凄まじく鳴き声が大きい。


数日前に猛毒のグリーンスネークが門の屋根に出現し、格闘した後、焼き殺したばかりなので、
体は戦闘態勢のまま維持している(^^;)ま、鳥の泣き声なので害は無いだろうと、興味深々でデジカメ片手に近づいていくと、
孔雀のような七面鳥のような鳥が3羽がなり声をたてて仲間を呼んで鳴いている。家で飼われていたものが
どこからかまぎれこんだのか、迷子になって遠くここまでたどり着いたのかわからないが、
とにかく鶏よりもでかく、獰猛そうである。しかし、どことなく愛嬌もあった。

1時間ほどひとしきり鳴きながら敷地の周りをぐるぐるしたあと、近くの森に紛れ込んで行った。

あとで調べてみるとあの鳥は『ホロホロ鳥(ちょう)』と言ってキジ目ホロホロチョウ科だそうだ。
高級食材で食鳥の女王として有名だとか。
普通はアフリカ各地で見られるというが、なぜかこのバリ島ウブドで3羽いたのだ(^^;)
危険を察知すると大声で『ホロホロ』とがなりたてるところからその名前がついたようだ。
私の耳には『ホロホロ』ではなく『ガァー、ガァー』としか聞こえなかった。それも大音量で!あーうるさかった(^^;)


母屋の方はほぼ完成。壁はお化粧に竹の編んだものをはめ込み、前の左右に大きなガラス窓をはめた。
ガラスと木枠の隙間にシリコンを入れて、入り口の上を竹で太陽の光模様にお化粧をしてふさぎ…、あとは
まあ、数日間細々した部分のフィニッシングとまわりをきれいにするだけだ。これでシンプルな母屋が完成する。
中は完成しているので私たちは数日前から、自前の家具や彫刻を置き、PCやテレビを置き、さっそく住み始めた。
こうして1ヶ月にわたる台所生活とスーパーヘビーな重労働からようやく開放されたのだ。この一ヶ月はみんな実に
よく働いた。肩がパンパンに張って、手のひらも指も爪もボロボロだ。

おまけに敷地に生えている大きな竹を何十本も使ったので、さすがに、あー疲れた。当分は体をしっかり休めたい。




                        大声で鳴き続ける3羽のホロホロチョウ  2月3日午後 敷地奥にて

                 







        テラスの前から見た母屋。今回は大きなガラスを左右にはめた。部屋の中は今までの1、5倍の広さ。天井が高くゆったりと住みやすい。
   
                 













2008年1月22日  バリのお盆『ガルンガン』がやって来た



一昨日から大工さんは休み。5日間はやって来ない。お盆だからだ。つまり盆休みっていうやつ。
村のローカルな店はこの期間はみんな休み。

バリの暦(サカ暦)ではこの期間は『ガルンガン』といわれる。ガルンガンは西洋暦とのズレが
あるので、毎年スライドしていく。今年は1月末がガルンガンになった。だから年末から子供たちは
ほとんど休みっぱなし。大人は大変だ(^^;)

昨日は儀式料理の『ラワール』をもらって食べた。
私はヒンドゥー教徒ではないので、私にとってはガルンガンとは『ラワール』を
腹いっぱい食べる日なのだ。あ、ちなみに『ラワール』とは豚肉や鶏の生肉料理だ。
これにはまるとやみ付きになる。全く臭みはない。独特の香辛料がくせになる。

ガルンガンは『お盆』なのでご先祖様が地上に降りてくるのだ。
この十八年間で亡くなった私のバリの友人たちも敷地に訪問してくれるのだろう。


大工さんが来ないので、ひたすら私たち家族だけで家作りを進めている。
昨日今日で、夕方遅くまでかかってテラスへの石の階段を2つ作り、経費を節約できた。

ようやく私の母屋も壁の骨組みが出来上がってきた。
このあとテラス側の前の壁に左右に大きなガラスが2枚入る予定。
先が見えるところまで来た。

おかげで絵の制作はここのところずっと深夜だ。
ま、涼しくていい。深夜なのである意味かなり集中できる。



                 前のアグンライの家寺も綺麗にお化粧がされ、お供え物がたくさん飾られている。

               







                 屋根の下の骨組みが入ってきた。電気工事も一昨日完了。完成がちょっと見えてきた。

                     











2008年1月14日  悪戦苦闘 油彩 『レゴンの衣装を着る村娘』


今日も夕方まで土木建築作業。

それでも、その後、前の家のアグンライの親戚の娘さんにレゴンの衣装を着けてもらい、肖像を描く。

レゴンクラトンの衣装はなかなか可愛いので今まで何十枚と描いてきたが、なかなかこういう華やかな被り物は
バランスが難しいのだ。華やかさに引きずられることも多い。
数日前も2時間描いたが上手くいかず、今日も新しくキャンバスを変えて1時間描いたが、なかなかタッチが決まらない。
またダメかと思いながら思い切って全部壊して、夕闇迫る頃、最期の20分でぐいぐいやり直した。で…、なんとか形になったかも。
ま、本当の感想は1ヶ月ほど後になって他人の絵のように自分の絵を見た時にわかるもの。
とりあえず今日は良しとしてこの絵はこれで止めた。ダラダラ加筆してもダメなのだ。





                     「レゴンの衣装を着る村娘」 2008年1月14日 油彩  F4号 

                   












2008年1月11日  家を作る楽しみ 土木作業の日々



もう台所に住み始めて2週間になる。別に台所が好きなのではない。
12月末から母屋を建て直しているのだ。屋根の痛みが激しくなったのでこの際思い切って
部屋を大きくして 全部やり直している。大してお金も無いので、大工さんたちにだけ任せていては破産するので、
私も宮嶋も息子もいろいろ手伝っている。今まで17年間でバリ島で六棟も七棟も家をデザインし、大工さんに混じって家を建ててきたので
『普請』は結構自信がある。もちろん難しいところは大工さんだが、簡単なパートはどんどん自力でやる。
チリも積もればで、最後は経費がかなり違ってくる。

と、いうことで暗くなるまで今日も土木作業。
屋根や柱は大工さんが作るが、土台や壁は私も手伝えるのだ。絵の制作は大工さんが帰った夕方遅くに描いている。
なかなか両立は難しいが、まあ、あと3週間ほどで完成しそうなのでその間は両方をがんばろうと思う。

絵だけ描いている日々より、なぜか食事が美味いから不思議だ。木を運んだり、土を掘り起こし、運んだり、竹を伐採したり、細く切ったり、
セメントをこねたり…などなど、土木作業というのはしっかり働いたという気持ちになれるので美味いのだ。




そういえば普段は怠け者の車寅次郎もそんなことが一度あった。

第35作「寅次郎恋愛塾」で、九州 上五島(中通島)で老婆と知り合った寅は彼女の最期を看取るという縁を得る。


「寅さん、じゃったね…。
 あなたにも神様のお恵みがありますように…」

その深夜 老婆は寅に見取られながらロザリオを握り締め天国に召された。



そして、翌日ヒーヒー言いながら、おばあさんの墓をしっかり掘ってやるポンシュウと寅。
久しぶりの汗を流した肉体労働のあと、差し出されたおにぎりや漬物を美味そうに食べる二人。




            



ポンシュウ「うめえなあ!」

寅「
働いた後だからな。
  労働者ってのは毎日美味い飯食ってるのかもしれねえな


ポンシュウ「そうだな」

おそらく寅が今まで食した食べ物の中で最も美味いものだったに違いない。

というわけで、私も寅同様、肉体労働のあとは何でも美味いのだ。







    屋根までは出来上がった母屋。絵画制作そっちのけで夕方遅くまで土台作りに励む私を息子がデジカメで撮ってくれた。

             













2008年1月7日  5年ぶりにTOPページの表紙アニメーションをリニューアル


雨季なんだけれども奇跡的に昼間から夜まで好天が3日ほど続いている。
もちろん時おり雨はあるが、なんとかすぐに止んで晴れ間が覗く。
それで、すぐにえのぐを搾り出して絵を描くのだ。今はアグンライの親戚の娘さんにレゴンダンスの踊り子の
モデルになってもらって油彩を何枚か描いている。たとえテラスで描くにしてもやはり雨よりも晴れていた方が
気持ちはいい。体がよく動く。

ところで、最近息子はフラッシュアニメを練習している。今までずっとGIFアニメで制作していたのだが、今回フラッシュのソフトを
使用し、遊んでいる。で、この前もご存知のように「寅次郎な日々」のフラッシュを作ったばかりだが、
ここ数日また何か作っているな、と思っていたら、なんと私のTOPページの表紙アニメを5年ぶりにリニューアルしようとしていた。

モチーフは2002年版と同じ「家の敷地で下の渓谷を描く私」だ。

下の渓谷の石切り場で石を掘り出すお兄ちゃんや、夕方目の前を飛んでゆく白鷺、赤とんぼ、などを取り入れて
最後に、風景が、絵にそのまま変わり、制作している私の背中が映っておしまいとなる。
前回も入っていた『YOSHIKAWA TAKAAKI』のタイトル文字は不要だと思ったので今回は消させた。

まだまだ『フラッシュ』を使い慣れていないせいか、『寅次郎な日々』のフラッシュアニメーション同様
ぎこちなさや稚拙さも残るが、せっかく練習で丸二日かけて作ったのだからと、親バカでTOPページに載せてやることにした。


昨日まで使っていたアニメーションはGIFアニメーション。息子が13歳の時に作ったものである。
これはこれでなかなか味がある。名残惜しいのでこれも一緒に今日の日記に貼り付けます。






     今回制作した  TOPページの表紙用フラッシュアニメーション  2008年1月6日制作


             








     昨日まで使っていたTOPページの表紙↓。息子が13歳の時にGIFアニメで作ったもの。2002年制作   


              














2008年1月1日  新年のご挨拶




新年あけましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
2007年は思い起こせば更新が遅れます事の数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ、

遥か遠く雨降りしきる南の島から皆様の幸せを
お祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画作品をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらず未だ愚かな内容ではありますが、
私のかけがえのない分身でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


遠き南の島にて

2008年 正月元旦  

吉川孝昭  拝







今日も、男寅次郎はさくらに新年の挨拶を電話で入れたあと、初春の風を受け、旅立って行くのでした。





              
             




そのころとらやのさくらたちは大忙し、いつにもましてこの年の正月はお客さんがいっぱいで、
新年の挨拶に来たマドンナも店を手伝っていました。

さて、この時の若く美しいマドンナは誰でしょう?(^^)

ヒント:上の場面↑で、寅が歩く町が分かれば作品が導き出せます。で、あとは簡単です。


             


              















2007年12月25日  台所で迎えるクリスマス


もうひたすら毎日雨だ。それもすさまじいスコール。

現在母屋の屋根を茅葺から瓦葺に変えてもらっている最中なので、いつにもまして慌しい年の瀬になっている。
毎年雨季の度に3週間に一度ほど屋根に上り、自力で雨漏りを修理してきたが、
もうさすがに萱が薄くなって限界が遂にやって来た。そこで思い切って屋根を朱色の瓦に変えてもらうついでに
部屋もこの際大きくしてもらうことに。
もちろんお金がそんなに無いので改築費節約のために私も家族もかなり改築を手伝っている。

もう18年もバリに住んでいるので、改築費用も、バリの人々よりも安くつかせることが出来るのだ。
こういうことは、ちょっとしたコツがいる。

★お金が無いときにあえて改築する。普通とは逆。
  お金に余裕があるときに改築や新築をすると集中力や工夫が弱く、必ず失敗する。
  お金が無いのであらゆる箇所、あらゆる場面で自然と工夫するのだ。

★建築材はなるべく地元の石や地元の材木を使う。ケミカルな出来合い物は使わない。

★南国幻想にありがちな余計なデコレーションや彫刻はしない。

★安くて信用できる材木店を数ある店々から前もってじっくり選び抜き、普段からいろいろ聞いて情報を確保しておく。

★上手で丁寧な仕事をしてくれるかなり年配の大工さん数人と普段から仲良くしておく。

★人任せにしないで進展具合を毎日常にチェックし、自分も手伝い、ペースを自ら作る。
  それゆえ、次に何をするのか、すべて自分も大工さんと同じように頭に入っていないと見透かされてしまう。


などなどだ。これでだいたい費用は、人に丸投げの場合と比べると7割くらいになる。そして材料もいいものが手に入る。
このようなやり方の欠点は、お金をたくさんかけた時よりも自分自身の手間隙がずっとかかるということだ。
私は『時間』だけはたっぷりある。まあ、散々バリで数々の建築に携わってきたので、母屋の改築など軽いものだ。

ということで、母屋は現在改築中なので、なんと今、昼間は台所で生活している。パソコンもテレビも台所に臨時に置いている。
私の家は母屋も、寝床も、台所も、アトリエも、風呂も、全部棟を違えているので、こういうことが出来るのだ。
しかし台所で暮らすのはどうも不思議な気分だ。ちょっとせまいし…。まあ、母屋の改築が終るまでのあと10日間ほどの辛抱なのだから、
面白い体験として楽しめばいいのだ。


で、今日はクリスマス。

毎年、それぞれの誕生日とバレンタインデーとクリスマスには、息子がケーキを作る。
もちろんスポンジも焼く。今年のケーキのデザインは下の通り。現代美術のようになんだかよくわからない形と飾り付けだが、
いつものように味は良かった。

ちなみに、私はケーキを食べた後は必ず、味噌汁を作って飲む。今日も宮嶋と一緒にけんちん汁を作ってみんなで食べた。
腹が『中和』を要求するのだろう。近年はゴボウが手に入るので助かる。







                     
















2007年12月16日 新作フラッシュアニメーション『寅次郎な日々』



普段は怠け者の高校生の息子が、久しぶりにフラッシュソフトを使って、アニメーションを作っていた。
最近は、フラッシュを使っていろいろなものを作っている。なるほど動きがスムーズだ。
モチーフはまたもや『寅ネタ』
彼は、私のように「男はつらいよ」依存症でもなんでもないが、幼い頃から
『男はつらいよ養成ギブス』を全身に取り付けられたかのように、この映画のことはよく知っている。
面白いような、可哀相なような…。

アニメ自体はなかなか上手く出来ている。
帝釈天参道が雲の切れ目から映るところがなかなか味わい深い。
参道の自転車や、旗や焚き火などが微妙に動いているところも気に入った。
円盤の影が雲に映ったりして臨場感もなかなかのものだ。
古い映画のフィルムに出来る痛んだキズ、いわゆる『雨』も再現していてなんだか小憎らしい。
息子の作品の中ではこれはまあ、完成度がちょっと高い部類だ。






                











2007年12月12日 これは何かわかりますか?


いよいよ雨季到来だ。ついに毎日雨が降るようになった。まだそんな長い時間スコールにはならないが、
時間の問題で雨量が増えていく。18年もバリに住んでいるとだいたいの雲行きや空の色であとどれくらいで
降り、何時間くらい続くかがわかるようになるから不思議だ。
私は絵を描くためだけにこの地で生きているのだが、自然に月の満ち欠けとともに生きている自分を発見して
苦笑いをしている。雨が降るようになると絵の制作は野外は少なくなり、当然アトリエやテラスが増える。
そうなると必然的に身近な人々を描いた人物画が増えてくる。私は人物画が好きで、描く絵の70パーセントは
人物画だ。残りは風景画。静物画はほとんど描かない。セッティングしたものはあまり描く気になれないのだ。
展覧会や委託で売れるのはバリの風景やバリの踊り。身近な人物を描いた絵は、褒められる事や感動されることは
あっても、ほとんど誰も買わない(TT)

しかし、これは悲しいことではあるが、自由なことでもある。絶対買わないであろうモチーフを描くのは実に快感なのだ。
初めて絵を描いた十代の気持ちが蘇ってきたりもする。あのころは売るなんて考えもしないでひたすらキャンバスに
絵の具を塗りたくっていた。ああいうのが絵ごころというのだ。

もっとも近年は、バリの風景画であろうがバリダンスの絵であろうがあまり売れなくなっている。 おいおいヾ(^^;)
今年もまた私の絵も宮嶋の絵もたいして売れなかった。ああ…(TT)小さな絵は時々出ていくのだが、それだけでは
到底食えない。(日本での展覧会の稼ぎがあるのでなんとかつじつまがあってはいるが)
現地で、絵が売れにくくなっているのは私も宮嶋もバリでも日本と同じ価格をつけているせいかもしれない。
私達の絵はバリの土着の絵と比べるとやはり高いのだ。
しかし、こればっかりは変えられない。日本からの私のお客さんも来るし、誰が見ているか分からないし、
どちらもほぼ同じにしなくては失礼に当たるからだ。それでもほんの少しだけバリで売る時は安くするのだがそれでも
なかなか買い手がつかない。

ま、…ということで、絵は相変わらずあまり売れないが、なんとか画集とポストカードが細々と売れているので日銭を稼げている。






さて、話は変わって、これは一体なんでしょうか?何か分かりますか?↓
私のテラスによくいます。


               





答えはカマキリです。
通称エダカマキリです。上↑のように擬態化されてしまうともう絶対分かりません。
小枝にしか見えません。私はしょっちゅうこのカマキリをテラスで見ているのですぐ見やぶってしまいますが(^^;)

ちなみに後ろで笑っているのは高校生の息子です。このサイトの全てのマンガとアニメーションを作ってくれています。

               











2007年12月5日 心がひとつになること  静かな名シーン


現在バリに住んでいるが、いろいろな方との縁あって、オリンピック野球アジア予選、
一昨日の日本対韓国と昨日の日本対台湾を幸運にもバリ島で見ることが出来た。

2試合ともなんとも緊迫した試合だった。2試合ともこれぞ日本野球。
ありきたりな言葉だが文字通りチームが一つとなっていた。なんだかしみじみうらやましく思った。
いい年をした酸いも苦いも知っているプロ中のプロがそうなっているのである。

2年前、WBCの時にも感じたことだが、シビレる試合とはこういうことを言うのだ。

MVPは間違いなく選手全員だろう。

適当に人当たりよく言っているわけではない。私は試合を何度も見た。ベンチで応援していた選手もコーチも、
コーチャーズボックスでゲキを飛ばしていた選手やも、みんな一つの気持ちになっていた。
遂に一度もグラウンドに出なかった和田や長谷部もだ。

いみじくも解説の東尾さんが言っていたように、星野監督の胴上げの時、誰もテレビカメラの方に向かってバンザイを
していなかった光景がなんともすばらしかった。全員が背中を向け輪の中の星野監督に集中し胴上げしているのである。



                  



MVPは阿部がもらっていたが、それはその通り、タイミングさえ合えば絶対にヒットにする技とキレとセンスは超プロ級だ。
しかし私なら、陰のMVPはやはり上原だ。そして優秀選手は、もちろん完璧な阿部をはじめとして、緊張のスクイズを決めたサブロー、
見事なチーム掌握とスライディングを見せた宮本、ここぞと言う時の頼れる新井、鉄壁の二遊間西岡と川崎。
粘りに粘って最小失点で抑えた若き先発投手陣たち、同じく必死で追続を断ち切った中継ぎ陣たち…特にあの韓国戦での8回、
岩瀬が投じた最後の内角ギリギリストレートは長く語り継がれるだろう。彼の精神力の強さを垣間見た瞬間だった。
…などなど、それこそ活躍した選手達は枚挙に暇がない。

今回の上原はまさしく完璧だった。あの上原が最後に控えてくれている。それだけでみんなどんなに心強かったか。
体のリズム、ひじ、手首、指の使い方…等々、完全に完成されている。すばらしい制球力。
マウンドでの完璧な自己コントロール。絶妙のフォークボールのコントロール。そしてなによりも国際試合連続22試合無敗の貫禄。

WBCでのあの韓国戦の上原の存在は私の記憶に今でも生々しく残っているが、今回もう〜んと唸ってしまった。
特に宿敵韓国戦はたった一点差で最後に登板。よほどの大投手でもこれだけの緊張した場面ではすんなりは終らせる事が出来ないものだ。

そして今大会で私がリプレイでなんども見てしまった場面がある。意外にもそれはゲームの中の決定的な場面ではなかった。

最後の台湾戦で、9回上原が、ブルペンからマウンドに向かう直前、ブルペンで一緒にいたピッチャーたちは、最後に汗を拭き、帽子をかぶる
上原を囲む。

上原はそんな彼ら一人一人の思いを受け止め、彼らと『グータッチ』を交わし、最後にブルペンキャッチャーを務めてくれた矢野捕手とも
交わすのだった。

彼らの熱い思いが全て上原に託されて彼はマウンドに上がっていったのだ。

あの映像に私は胸が熱くなり、思わず涙が潤んでしまった。






上原浩治と川上憲伸

                   



上原浩治と涌井秀章

                   



上原浩治と小林宏之

                  



上原浩治と岩瀬仁紀

                 



上原浩治と長谷部康平

                



上原浩治と矢野輝弘

                




私が見たかったのは、もちろん勝って歓喜に沸く日本チームの姿だが、実は本当に見たかったのは、やはり、
みんながひとつのことのためにひたむきにまとまっている姿だったのかもしれない。
この映像を見た時、私は心底彼らを誇りに思った。素晴らしいチームだ。来年夏に彼らに再び会える。
全員怪我無くオリンピックのグラウンドに立って欲しい。



それでは、静かでなにげないあの名シーンをアニメでどうぞご覧下さい。



                

















2007年11月21日   昼下がりのテンガナン村


バリに帰ってから、ようやく体をしっかり休めることができた。それで、2週間ほど日前からあちこちで絵を描いている。

数日前はバリで一番お気に入りの場所、バリ先住民の村である「テンガナン村」を取材。
今回は宮嶋も息子も一緒。天気に恵まれ、夜のとばりが下りるまで、たっぷり描かせてさせてもらった。

この村は私はもう何十回来た事だろうか。50回以上は来ているかもしれない。
私の住んでいるウブドからかなり離れているにもかかわらず、やっぱり来てしまうのだ。

風景画は、活きがいいことが命。大きな筆でぐいぐい描く。うまくいかないこともあるが、そんな時は
違うキャンバスをまたイーゼルに取り付け、気持ちを入れ替えて、エイッと描く。

息子は牛やアヒルや犬がたくさん道端で寝転がっているので面白がって長い時間飽きなかったようだ。
かなり奥地まで一人で入り込んでいったということ。

このテンガナン村の様式は先住民だけあってバリのほかの村と全然違う。全てが異文化なのだ。
この村の結婚相手はこの村の中で選ばなければならない。他の村人と結婚したい場合は、この村を出て行かねばならないのだ。
このようにして、この村は独自の文化を意固地なまでに守り通してきた。

今も村のいたる所に、プリミティブな場所や空気が違う場所があり、興味は何度行っても尽きない。
一言で言うならパワーが宿った村。それがバリ島東部の奥地テンガナン村だ。

とりあえず、気に入った絵が何枚か出来たので、その中の一枚を下に紹介しましょう。






                          「昼下がりのテンガナン村」 2007年11月17日 油彩  F4号 

                   










2007年10月31日   たとえ明日地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す


ようやく4ヶ月ぶりにバリに帰ってきた。バリの10月は乾季の最後。暑からず寒からず適度に雨も降るいい気候だ。
で、さっそくベットのマットを太陽の下に出し干す。

私の好きな映画『阿弥陀堂だより』の中で主人公の学校時代の恩師が布団を干しながら言うセリフを思い出す。

『たとえ明日、地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す』

私が大好きな言葉だ。こんなこころで生涯を送れればどんなに安らかだろう。

そんなこんなでここ数日は絵も描かず、ひたすらバリに体を慣らしていった。

ところで、今回からようやく私の住んでいるウブドも日本同様インターネットのADSLが開通した!

さっそく息子は大喜びで電話局の担当者に来てもらい私の家でも可能かどうか機械でチェックしていた。
チェックの結果『OK、使えます』ということで、さっそく古い電話回線を使わず、新しく丈夫な電話回線を
ジャングルの中200メートルに渡って木々の間を梯子を使って釘で止めながら私と息子で設置していった。
日本ではこういう時は電話局かなにかの専門の人が来て電線工事同様やってしまうのだろうが、この田舎のジャングルの中では
そんな悠長な事は言ってられない。
なんでも自分の足と手でやるしかないのである。まあ何度もやってきたことなので慣れてはいるが半日たっぷりかかった。

日本の普通のADSLと比べてかなり遅い速度であるが、それでもダウンロードが飛躍的にアップし、日本のyou−tubeのような動画が
普通に見れるのでこのウブド村では歴史的な進歩である。

ま、だからといって私のこの地での生活が飛躍的に向上するわけでもなんでもないのだが、インターネットを一番使う息子はとにかく喜んでいる。
あまりパソコンを使わない連れ合いの宮嶋は、まあ、今までのワイヤレスでもADSLでも結局は無制限(アンリミテッド)なので
どちらでもよさそうな顔をしている。スピードの違いは彼女にはさほど興味が無いらしい。その気持ち私も分かる気がする。

とにかくだ。『たとえ明日地球が滅ぶとも晴れた日は布団を干す』ことのほうが大事なことだけは確かなのである。




                    チャンプァン渓谷の風を受けながらマットを干すことからバリ生活は始まるのでした。
                  












2007年10月14日   尾瀬の森からの贈り物


ここ一週間はもう涼しいを通り越して肌寒い感覚がある。
こうなってくるといよいよ秋真っ盛りだ。私の誕生日は、今日10月14日。
今日のように空が高く、透明な冷たい風が吹く日に私は生まれたそうだ。

後数日で、関西空港からタイのバンコクへ旅立つが、その間際の今日、嬉しい贈り物が届いた。

『きらっしゃい.尾瀬の森映画祭』のスタッフさんであるNPO『尾瀬和楽舎』のKさんがなんと蛾次郎さんの直筆色紙を送ってくださったのだ。
「きらっしゃい」とは群馬県の片品村の言葉。「いらっしゃい」「お越しください」の意味。なんともいい響きだ。


『尾瀬の森映画祭』は、尾瀬や利根沼田の自然を活かした人間との共生を掲げる群馬県片品村のNPO『尾瀬和楽舎』が中心になって
2005年から片品村文化センターで松竹山田組スタッフ、キャストの皆さんとの交流をしながらユニークな映画祭を続けておられる。
片品の人々がみんなボランティアで長い期間準備をされ、ひとつひとつ地道に積み重ねていかれた本当に手作りの温かみのある映画祭なのだ。


山田洋次監督の作品に求める日本の風景を、同じく自然が豊かな尾瀬の麓、片品の地でシンクロさせ、関連付け、そしてもう一度日本を
再発見することはとても意味がある行為だ。


その映画祭の準備期間の時にKさんと私は、越中八尾と尾瀬の片品で何度かメールのやり取りをし、私も超微力ながらこの映画のことや
画像処理、チャプター、プリントのことで助言などをさせていただいた。また私のサイト『覚え書ノート』も少しは役に立ったようだ。

 
当日は、映画『男はつらいよ』第1作上映をはじめ、佐藤蛾次郎さんや備後屋,さんでお馴染みの山田組スタッフ露木幸次さんなどの
トークショウも開かれた。屋外では、面白いミニイベントや懐かしい縁日や出店を復活させたりもしたらしい。
 

それで、Kさんはお礼の意味を込めて今回蛾次郎さんからいただいた色紙や手作りの『源ちゃん名場面集(NO1〜NO4)』ポストカードを
送ってくださったのだ。私は、生業の染織の展覧会が重なり、現地にも行けなかったし、ほとんど何のお手伝いも出来なかったが、
Kさんのその心が嬉しかったので恐縮しながらも贈り物をありがたくいただいた。

色紙はさっそく手持ちの色紙額に入れてアトリエの壁に飾らせていただいた。



尾瀬の森映画祭に関わられた全ての皆様に感謝の意味を込めて、
いただいた品々を今回この『バリ日記』の中でご紹介させていただきます。





似顔絵と日付が入っている蛾次郎さんの色紙と源ちゃん名場面集の数々。   さっそく額に入れました。嬉しい…(〜〜)

         





きらしゃい.尾瀬の森映画祭の公式ページはこちらです→ http://www.maron.gr.jp/ozefilm/


このあと10月17日に関西空港からタイのバンコクへ出発します。
バリへ戻るのは10月末になると思います。
それゆえ、更新は10月末以降です。











2007年9月20日   『今朝の秋』って感じです。


ようやく先日金沢郊外での最も大きな展覧会が終わった。もうすっかり秋の気配だ。『今朝の秋』って感じだ。

あとは、10月の初旬に行われる自分の住む八尾町の『アートフェスティバル』の3日間を残すのみとなった。
それが終わったらバンコクへ向い、10日間ほどタイに滞在した後、10月23日ごろにバリに戻る予定だ。
今回の滞在中はいつにもまして深夜に映画やテレビのDVDを見続けた日々だった。

シリーズものだけでも『白い巨塔.田宮版全話』『早春スケッチブック全話』『ふぞろいの林檎たちT全話とU全話』
『北の国から全話+8スペシャル』『優しい時間全11話』『Dr.コトー診療所2003、2004、2006全話』『時間ですよ71年、73年全話』
『寺内貫太郎一家全話』『寺内貫太郎一家2全話』といったところか。それ以外にも「男はつらいよ」以前の山田洋次監督作品を
もう一度全作品見直した。
あとは単品で見たいものを30作品程度ランダムに見た。新作も見れるかぎり見た。どこに掘り出し物があるか分からないからだ。
近年は半額レンタルや100円レンタルの期間があるのでさほどの出費を考えなくても大量にDVDを借りれるようになったのが助かる。

読書は、仕事の美術書以外では、今回は映画関係の本が多かったように思う。キネマ旬報をもう一度数十年分読み返したり、
面白く過ごさせていただいた。おかげでこの数ヶ月間慢性の睡眠不足で何度か体調不良で寝込んだが、現在はすっかり睡眠も
取れているので体調は回復。

そして肝心の生業である絵と染織のそれぞれの展覧会は長年のコレクターさんたちのおかげで、なんとか目標に到達した。
これで来年もなんとかギリギリ生き延びれそうだ。凌いで凌いで、生き延びるしかないのだ。
特に最後の金沢での展覧会では多くの方々に助けていただいた。感謝以外の何ものでもない。
しかし、それでも限界がゆっくりではあるが近づいてきている気もしないでもない。先は依然としてまったく見えない状況だ。

と、いうような状況ゆえに、なかなかこのサイトの更新ははかどらず、第3作「本編完全版」も第28作「紙風船」ダイジェスト版も
作業が大幅に遅れている。

いつも書いているように、大量の充電ができなければエネルギーを吐き出すこともできない。どうかご理解ください。
それでもなんとか9月末には第3作『フーテンの寅』の一回目の更新だけは成し遂げたいと思っている。

最後に…

昨日は、『阿修羅のごとく』の映画版を見た。四人姉妹の中で、深津絵里さんが美しく光っていた。
連れ合いだった奥さん(八千草薫さん)に先立たれてしまった、浮気亭主(仲代達矢さん)が、三女の滝子さんがお膳を拭いている
姿を後ろからしみじみ眺めて、そっと「母さんそっくりだ…」とつぶやくのである。
気配を感じて、お膳を拭きながら、ふと振り返る深津さんのお姿は美しかった…。
あまりに気に入ったので、パソコンの壁紙にしたところだ(^^)ゞ






               











2007年9月1日   ようやく嫁がせた油彩『踊りの前』


今年の展覧会はまあまあ好調だ。特に初日に来られた私の一番のコレクターさんであるY.Iさんが長年私が気に入っていた絵を買ってくださった。
Y.Iさんはもう私の絵を10枚以上お持ちの方だ。つくば市の、ある大きな記念病院の外科部長さんをされているのだが、この度、私の15号の絵が
新築の病棟の美しい待合室にかけられることになった。

一般的には大きさに比例して値段をつけるのだが、特に気に入った一枚か二枚の絵だけは私は相場より1,5倍くらい高めにつけてしまう。
それゆにそれらの絵はお嫁に行き遅れてしまうのだが、描いた側としては手塩にかけた可愛い娘だからいつまでも手元に
置いておきたい気持ちも強いのだ。こういうことを本当は絵描きは決してしてはいけない。当たり前である。しかし私の業がそれをさせてしまうのである。

数年前に私が開いた個展の時も二枚ほど高い値段をつけた作品があり、案の定売れなかったのだが、
その絵にずっとその頃から目をつけておられたY.Iさんは果敢にも今回の展覧会に展示していなかったにも関わらず、その絵を見せてほしいとおっしゃり、
見たとたん譲るようにおっしゃられた。数年前から狙いをつけておられた感じだった。こうなるともう私の負けである。

そして案の定私のつけた例の言い値で何の躊躇もなく買われた。
この方の絵の買い方はいつもながらきっぷがいい。間違っても値切ったり、私の顔色を見たりしない。
今回もその絵がいつもの私の絵より何割か高いことを百も承知で一発で買われたのだ。彼に言わせれば何年来の恋が実ったような気持ちだったそうだ。
私にしてみれば、可愛い一人娘を嫁がせる父親の気持ちだった。しかし嫁ぐ相手が、私の一番のコレクターさんであり、パトロンである
Y.Iさんなら、承知できない理由はもうどこにもないのである。私などが持っているよりずっとその絵を大事にしてくれるのは明白である。

Y.Iさんは一度たりとも、買う時の目に鈍りを見せたことはない。必ず私が気に入っている絵を自然に選ばれるのだ。
それも静かに黙って見続けた後、一言だけ意思表示をされる。真のコレクターとは彼のような人のことを言うのだろう。
私のあの絵も彼のような方に貰われて幸せであろう。





                  今回Y.Iさんが買われた 「踊りの前」 2000年7月ごろ制作 油彩 F15号  

                  












2007年8月26日   雨上がりの越中おわら風の盆



現在、越中八尾町では風の盆の前夜祭が始まっている。毎夜毎夜旧町のどこかの町がおわらを踊り、おわらを演奏するのである。
今年の前夜祭は雨がちだが、雨がやんだら、すぐに演奏を始める。また雨が降ると楽器が傷むのですぐにやめる。
どなたも観光のためにやっているわけではないので、見に来た人は、雨が上がれと祈るのみ。

雨上がりのおわらは格別だ。雨が降ると風が涼しくなることと、見る人が少なくなるので、風情が増す。
さっそく取材。素早く何枚かスケッチ。その後アトリエで30分ほどで一気に仕上げる。雨が上がったあとは大きな赤い月が出ていた。





                          「雨上がりのおわら風の盆」 2007年3月4日 油彩 F4号
                       
                   







2007年8月12日   ただいま栄養をバンバン補給中


とにかく帰国してからずっと多忙だ。この「日記」や「覚え書ノート」がなかなか更新できない。
純粋な生業としての仕事だけなら絵の展覧会、染織工芸の展覧会と、絵画制作だけなので、時間にまだ余裕があるのだが、
それとは別に『自分へのストックの時間』が必要なのだ。

私は8ヶ月以上日本を離れていた。だから、その間に、見ようと思っていた映画(DVD)、書籍(絶版もの多し)を1ヵ月半以上かけて
深夜2時ごろまで一気に集中して見、読んでいる最中なのである。

それらは遊びといえば遊びなのだが、自分のエネルギーのもとなのだ。自分の精神の懐を深くするための欠かせない栄養素なのである。
車で言うとガソリンみたいなものだ。熱エネルギーがないと、物体は動かないのである。

もし、それらの活動を遊びと言うのなら、このサイトも遊びだし、私が絵を描くことだって遊びといっていい。

帰国してから1ヵ月半以上経つが、それらの合間をぬってのサイト更新はなかなか進んでくれない。でも、これを読んで下さっているみなさん、
どうかご理解ください。私はほとんどテレビも見ないし、いわゆる娯楽施設にも行かない。世間の義理も欠きっぱなしだ。で、ただひたすら、
毎日、外やアトリエで絵を描くか、旧作映画のDVDを見るか、複数の図書館で借りてきた何十冊と言う山のような書籍を読んでいる。
これをしないで、文章を書いていると、自分がスカスカになってくるのだ。いわゆる充電というやつだ。で、このサイトのそれぞれの更新は気長に
お待ちください。

ところでここ2週間ほどで日本はようやく夏になった。これでようやく朱夏だ。これくらい暑くなると私の体調はすこぶる良い。
もちろん扇風機もエアコンもまったく要らない。汗はかくが平気である。食欲もバンバンにある。とにかく気温が27度以上になると私は
生きかえるのである。もう、完全に体が熱帯動物に変化している。バリ島での17年間はそれほどにも私の体を変えてしまったのだろう。

私の自宅の食堂の横に中庭がある。毎年帰国すると7月は紫陽花が咲き、10月は紅葉が色づく。植えたわけではないので勝手に根付き
育ったのである。

嗚呼…今日本にいるのだなとしみじみ思える空間である。このような日本の花を眺める時間も充電のひとつであろう。




              











2007年7月8日   聖少女の舞踊『レゴンラッサム』のデッサン 


いつもの年ならまだバリ島にいるのだが今年は絵や染織工芸作品の展覧会の都合ですでに富山に帰ってきている。
早く帰ってきた分、新聞やテレビも取材に来てくれて、そのせいか、売り上げは結構上がっているので、良しとしよう。
なにはともあれ作品たちを気に入ってくれるのはありがたいことなのだ。早く帰ってきた甲斐があったかも。

ただ、ちょっとバリに残してきた3匹のネコたちが心配だが、アグンライの家族がいつもどおり世話をしてくれているので
まあ大丈夫だろう。例年なら1ヵ月後の8月中旬に帰ってくるのでおわら風の盆の踊りの作品などを載せるのだが、
今はまだまだその季節ではない。

で、今日は踊りは踊りでも、バリの踊りの絵を貼り付けようと思う。帰国前に描いたレゴンの衣装を着た村娘のデッサンだ。
バリ島の舞踊はご存知のとおり世界的にも有名で、連れ合いの宮嶋も8年間以上もSTSI(バリ芸術大学)の客員教授でもある
70歳をとうに過ぎたおばあさん宅に通いつめ、今のレゴンダンスの原型となった、いにしえの古典舞踊の指南を受けた。
バリ舞踊を、メモリーとして習ったり、趣味で習ったりする人は多いが、宮嶋のように10年近く週に何回も通い続ける人は
ほとんどいない。ましてや古いバリの舞踊など、バリ人だってほとんどそこまではしない。
だから、宮嶋は仕事は絵描きだが、実はある意味、人のうかがい知れない境地と普遍的な『型』で踊りを踊ることができる。
ほとんどの人々は振り付けは1年ほどで覚えるが、『アガム」といわれる『型』の習得はできない。私の知る限り最低でも
5年ほどはかかる。センスのない場合は何年指南を受けても身につかない場合も多い。ちなみに宮嶋はその舞踊の習得後、
富山県の砺波にある神社の祭礼で、深夜、真っ暗な中、神様に捧げるこの踊りを奉納したこともある。


このレゴンという舞踊(一般的にはレゴンラッサムと言う。旅行者にはレゴンクラトンLEGONG KRATONという名前の
ほうがわかるかも)は、本来は、まだ大人の女性になる前の、強いインスピレーションを持っている少女が選ばれ、
訓練を受け、大事な宗教儀式の際に踊るのである。バリ・ヒンドゥー教にとって『踊り』はとても重要な意味合いを持ち、
ウパチャラ(宗教儀式)やオダラン(寺院祭礼)などではメインの儀式として人々最も大きな関心事項になっている。
バリの人々にとってバリ舞踊とは神様に捧げる『貢物」なのである。すなわち踊りを見せる相手は村人たちでなく神様なのである。

近年では私の住んでいるウブドなどで数多くのグループによるレゴンの観光客向け定期公演が行われているが、もちろん現在でも
本当の祭礼や儀式の際に舞踊は奉納され神様に捧げられている。

私はこの舞踊が好きで今までに数え切れないくらい描いてきた。このデッサンの子供(10歳くらい)もこの30分ほどのポーズのあと、
宗教儀式の踊りのために緊張の趣で寺院へ出かけていくのだった…。



             「レゴン.ラッサムの衣装を着るウブドの村娘」 2007年6月 鉛筆 バリの手漉き紙 B5縦長

                   










2007年7月4日  燃やさずにはこの世界の闇を灯せはしない。

再びの『Dr.コト−』 吉岡秀隆さんの声
 

日本に帰国し、いきなり展覧会の搬入と会場通いの毎日で体調を崩してしまった。いつもの年ならこれくらいの忙しさは平気なのだが、
今年は梅雨の時期に帰国したせいか意外に日本はまだ寒い。富山県八尾町の家の温度計は25度を上回ることがない。これは、
私にとっては辛いのだ。気温が25度を下回ると私にとっては「冬」だ。それゆえにガクッと体調が悪くなると言う宿業を背負ってしまったゆえに、
夏以外は日本に長く滞在できないのである。で、昨日からスケジュールを調節し、遠出を控えて、自宅の二階で暖かくしている。
日本のじめじめした肌寒い梅雨を経験するのはなんと13年ぶり!なので体がびっくりしたようだ。
思いがけず時間ができたので、「男はつらいよ」の更新作業をしようと思ったが…、なぜかそれは先延ばしにし、バリでずっと思っていたことを
実行した。私は、『Dr.コト−』2003、2004、2006を丸一日かけて一遍にもう一度見たかったのだ。

私はどうしてこんなにもこの『Dr.コト−』というテレビドラマが好きなのだろうか…。いつも自分の中で自問している。
だいたい民放の連続テレビドラマは昔からほとんど見ない。どれもこれもくだらない質のものが多いからだ。どんなに話題に
なっていても大抵第1話第2話あたりを見て、失望し、止めてしまう。ましてや繰り返してみるに値する連続ドラマなどほとんどない。
NHKのドラマだって録画に値する物はほとんど見当たらない。なかなか『今朝の秋』や『早春スケッチブック』のような傑作は誕生しないのである。
大抵は暇つぶしにはなっても自分の人生とはほとんどシンクロしない。特に連続テレビドラマになるとほぼ全滅状態だ。連続ドラマの中で歴史に
残るものといえばあの膨大な長編ドラマ『北の国から』くらいか。あのドラマの価値は今後もっと高まっていくのは間違いないだろう。

で、Dr.コト−である。コト−先生こと五島健助は病気であろうが怪我であろうがことごとく治してしまうスーパードクターなのだが、
だからといってそういうヒーロー的な部分が気に入っているわけではない。別に柴咲コウさんのファンでもない。実際私がこの長い連続ドラマの
中で、最も気に入っている話は、コト−先生がたった一度だけ病気を治せなかった、あの『あきおじ』の物語なのである。この物語の格は
あの話の中にある。あれがコト−先生の原点であり、このスタッフ、キャストたちの原点であり、吉岡秀隆さんの新しい役者人生の原点であり、
見ている私の新たな原点でもある。

人間の生きる実感というのは、病気が治ることとは別のところにあるということを、あんなに静かにあんなに優しく謳いあげたドラマは他にない。



                 



もちろん名演出の中江功さんをはじめとしたスッタッフたちの気持ちの入れ込み具合が一般のテレビドラマを遥かに超えていることは
誰だって見ていれば分かるのだが、それだけで私がこう何度も見ることはないのである。

まずすぐ分かる理由のひとつには、このドラマが亜熱帯の島(ロケは与那国島)のせいもあるだろう。私は30歳で東京の教員生活を辞し、
熱帯のバリ島に暮らしてもう十数年になるが、このような人生がコト−先生に対する共感に繋がっているのは間違いない。
しかし、それだけならほかにもそのような亜熱帯移住ドラマは昔から何本もある。

それでつらつら考えて、今回もう一度ドラマを全て見なおして、ようやく今、自覚できたことがある。それは吉岡秀隆さんの声だ。
コト−先生が、患者さんや家族の人たちに言う言葉『大丈夫ですよ』をはじめとした全ての言葉の波長がとても良いのである。

私の主治医さんがかつて言った言葉に『治せる病気は必ず治しますが、治せない病気は治せません』がある。
このことはあきおじだけでなく、全ての生きる人々にいずれ最後は訪れる宿命なのだ。人はその時までを誰とどこでどう生きるか、
ひたすらそこに人生はかかっている。
だからこそ、決して元の体に戻ることがない彩佳さんのお母さんの手に寄り添うお父さんの手を見て私たちは救われるのだ。



                 



そしてそれらの全ての原点に『あきおじ』の話がある。

『命は神様に。病気は先生にだ。』

だから医者は患者の心に寄り添い『大丈夫ですよ』と白魔術をかけてあげることが大事なのである。しかしそれはテクニックの
問題ではない。方法論的、技術的な域をでない言葉は患者は見抜く。患者は敏感になっているので医者の『お仕事』を見抜くのである。
そんな一人一人に気持ちを入れていたら生身の医者の身が持たないのが現実の医療なのは百も千も承知で、それでも私はコト−先生が
持つ言葉の『気』とその丁寧な触診に今日も救われ、生きているのだ。自分と真摯に向き合い続けるゆえに深い悲しみを常に抱え、
その絶望と向かい合って、闘い続けてきた者だけが発することができるあの声と言葉。見る人の血流までを変えることができる役者さんは
日本の俳優さんの中では吉岡秀隆さんしかいない。彼はある意味、命を削ってあの言葉を発していることが私には分かる。誰も信じないかも
しれないが、あのような芝居は、ただ一生懸命すればできるものではないのだ。いつも言っているように役者はその時一生懸命頑張れば
人の心を打つ芝居ができるほど甘くはない。絵描きも役者も歩んできた人生が全て出るのだ。

もちろん彼は未だ若いゆえに体には影響はないが、心身の限界まで突き詰めているのはわかるのである。だからこそ、彼の言葉を聞いて
私のからだの凝り固まり、錆付いた血液がサラサラ流れ始めるのである。

人は歩んできた道でしか人を変えることはできない。渥美清さんが私の血流をサラサラにしてくれるように、吉岡秀隆さんのその飛びぬけた
センスと感受性、そして孤高の決意と長い日々の実践が私を救ってくれる。

考えてみれば悲しいほど残酷な話だ。人知れず命を削り、人生に傷を負いながら何かを作らないと受け取る人は人生が変わらないのである。
なんて受け取る人たちというのは傲慢で我侭なのだろうか。しかし、それは古今東西の紛れもない真実であり、逆に言うと、命を賭けて何かを
成し遂げる行為こそがこの世で真に報われるのだとも言える。自分の命を燃やさずにはいつの時代もこの世界の闇を灯せはしないのだ。




                







2007年5月22日  『映画人の一分』 『武士の一分』 聴こえて来る美しい和音  
 

不思議な縁あって、『武士の一分』を見せてくれる方がおり、こんな地球の果てで、帰国前にDVDで見ることが出来た。
バリの月夜を眺めながら徳平じいさんのぼそぼそ声を聞くのも悪くないなと思えた夜だった。



【最高のラストシーン】




新之丞
「徳平」
徳平「え、 へえ」
新之丞「また鳥籠買わねばの」
徳平「へえ、…んだの。 ツガイの、小鳥ものう…」
新之丞「フフ、 だの…」



まず、全ての良い悪いの前評判も、役者の経歴も取っ払って真っ白な心になってから見た。

とてもシンプルで濁りのない作品だった。私の中では時代劇三部作の中で最もスッキリした後味のいいものになっていた。
山田監督にはこのシンプルさがあるから好きだ。
そしてこんな心が和やかになるラストシーンは久しぶりである。
たとえ主人公が目が見えなくても、そんなもの関係無しに見事な愛の賛歌のラストである。
バックに流れる富田勲さんの音楽が、あの美しいラストをさらに引き締め、いつまでも私達の中に余韻を作ってくれた。
繰り返すあの低音のリズムがたまらない魅力だった。才能とはああいうことを言うのだ。

家族、幸福の黄色いハンカチ、、はるかなる山の呼び声、寅次郎ハイビスカスの花、等々
山田監督のラストシーンというものは濁りがない。

ああ、見てよかった。見る意味のある時間だったと心からそう思えてくる作品というものは
そうそうあるものではない。決して大作でも、派手でもないシンプルで淡々としたこの映画は、それでもお金を出して見て
決して損はないない数少ない映画だと思う。




            




【チームで作り上げた木村拓哉さんの『位置』】


なによりも木村拓哉さんが淡く美しく光り輝いている。そしてその微妙な芝居の階調を熟したスタッフとキャストが
丁寧に掬い取り、美しい和音に変え、絶妙のハーモニーを作り出している。このことは、心を透明にして見れば分かることだ。

あの木村さんの感覚を不協和音と見た多くの人は、この作品を理解できていないのだと思ってしまう。
もしくは私とはそもそも感覚が違うのだとも思う。

あの役は彼でしか出来なかった。真田広之さんや永瀬正敏さんでは、あの三村新之丞はもっと『それらしく』なる。
その結果、緩急のバランスが弱くなり全体が硬くなってしまっただろう。渡辺謙さんでもあそこまでイメージは広がらなかった。
木村さんだからこそ私達は、自分のこととして身につまされるように泣き、笑い、幸福感に浸れるのである。

ちなみに、剣道における基本は木村さんもかなり出来てはいるが、最も大事な足さばきや腰の入り方、立ち姿、格闘時のスケール、
などは真田広之さんの方が木村さんより格上だ。その部分は二人は人生が違う。目が見える見えないではなく、やって来た
道のりが違うのである。しかし、今作品は実はそういう体育系のチャンバラ映画ではない。男女の愛の賛歌である。

木村さんのまろやかで微妙にはにかむあの表情と庄内弁が、重くなりがちなこのテーマを中和し、再度見たくなる余韻を
作ってくれたのである。もしあの彼の『純情』を事前に山田監督が見抜き、起用したとすれば、山田監督の中に、よほど強い
イメージがこの作品に対してあったと言えるだろう。とにかく全体の中の彼の『位置』がとてもいいのである。これはある意味、
バランスを考え続けたスタッフとキャストたちの勝利だとも言える。私はこの鉄壁のチームワークに唸り、舌を巻いた。

また、時代考証に支えられたすべてのもののあり方や生活様式、『灯り』や『音』へのこだわりは三部作とも尋常さを遥かに超えていて、
この部分への執着はどんなことがあっても集中力を切らさない。相変わらず、この組のスタッフたちにはさすがの一言しかない。

チームワークの中では、笹野さんの間合いは凄まじい。やっぱり彼は『役者』だとつくづく思わされる。そして、加世を演じた檀れいさんの
間合いもこれまたいい。木村さんとのバランスを考えた、絶妙な間合いは、静かなスケールさえあり、すでに完成された大人の風格を
感じさせられた。

ある意味、みんなが坂東三津五郎さんや小林稔侍さんや緒方拳さんになる必要はないのである。
いや、そうなってもいいものは実は出来ない。ここが全ての芸術に当てはまる不思議なところ。
今回の映画を観て思ったのは、坂東さんや小林さんや緒方さんは、確かに様になっているし、実際貫禄も有りすぎるくらい有る。
しかし、ひょっとして彼らの代わりは探せば実はいるような気がしないでもない…。
しかし、木村拓哉さんの代わりはひょっとしていないんじゃないかと、ギリギリではそういうことだと思う。

重々しい正統派の時代劇は一見非の打ち所がないように見えるが、実は作品自体に余韻がなく、現代に生きる私たちにとって
イメージが広がらないものになっていることがしばしばある。ま、要するに重々しくは有るが硬直していて一本調子で退屈なのである。
映画というものはみんなで作るもの。それゆえ、ハーモニーが大切だということは私はすでに「男はつらいよ寅次郎相合い傘」で
学んでいるのだ。


ちなみに、笹野高志さんが演じた新之丞の父の代から務める中間の徳平役は実はとってもおいしい役である。映画人なら
誰でもわかる。あの役こそがこの物語の核なのだ。身分も格好もみすぼらしい冴えないじいさんだが、見て分かるように、
実は、物語的には陰の主役だと言ってもいい役なのだ。だから、あの役をもらった時点で、その役者はかなりおいしいのである。
そして笹野さんの凄いところは、スタッフや観客の期待を遥かに上回る、静かなれども大きな力強い芝居を今回見せてくれたところだ。
中間の爺さんのふにゃふにゃした中に黒光るあの腰の据わった静けさと間、貫禄はなかなか出せるものではない。笹野さんの懐は深い。
近年の笹野さんの演技は凄いのだ。




               




とにかく適材適所。この映画のまとまり方は尋常じゃない。撮影、音楽、美術、効果録音、編集、衣装、小道具、…
どれも全体の中でバランスを崩してはいない。ひとつひとつのパートがこれ見よがしに力んでいるわけでもない。
熟したスタッフと熟したキャストによって作られた濁りのない極めてシンプルな夫婦の愛の物語である。

山田監督の『映画人の一分』をしかと目に焼き付けさせてもらった。


最後に、桃井かおりさんのあの濃ゆい『味』にはニヤつきっぱなしだった。
「翔んでる寅次郎」から28年の歳月が流れ、本物のいい女優さんになられたことを実感しました〜(^^;)

あ、もう一つ、加世さんの『芋がらの煮物』を一度でいいから食べたいでがんす(^^)


6月末に一時帰国します。次回更新はそのちょと後になります。





2007年5月22日  雲の上で読む『絵の話』


2週間前から。パソコンがひどい状態になっている。まず最初はまったく起動しなくなった。
友人のパソコン屋に見てもらい。マザーボードを変え、完全にOSを入れなおしたらかなりよくなったが、今度は2時間に一度ほど
勝手に消えてしまう現象が起きた。CPUの熱暴走かはたまた後ろのコネクションが悪いのか、マザーボードの相性が悪いのか
よく分からない。いろいろ試してもいいのだが、ちょっとめんどくさいのでこのまま今は使っている。←おいおいやばいよそれって… ヾ(^^;)
描いても描いても反比例するようになかなか絵が売れていかないので(TT)修理もできるだけ小さくしたいのだ。とほほ。
買い換えるなんてもってのほか。マザーボードの交換だけでもヒーヒー言っている状態だ。ううう…。
まあもっとも、6月末に一度日本に帰国するから、それまで騙し騙し使い、9月末にバリに戻ってくる時に、しっかり修理するしかない…(TT)

日本で使っているノートパソコンは何年も前から瀕死の重傷だし、いやはや機械というのはなかなかやっかいだ。お金もそれなりにかかる。
ま、そのおかげで、こうして日記を書いたり、ページを作成したり、多くの方々とメールのやり取りをさせていただけるわけだから
これはこれで良しとしている。サイトを運営しだしてからいろんな人の意見を伺い考えの幅ができたって言う感じか。
また、友人や知り合い、先輩方、後輩たちのサイトを読んで、近況を知り、ヒントをもらったり、頷いたりもしている。15年前なら考えられなかった
ことだ。ジャングルの中に引越し、完全な隠遁生活をしだしてから5年以上たったが、サイト運営は、数少ない私の『外』との交流と言えよう。


それと、『先輩』で思い出したが、このサイトの『リンク』のページにも紹介させていただいている、私の大学の大先輩である画家の菊地理氏が
先月から、またもや雑誌に連載を始められた。数年前の連載は『わーずわーす』というアジア文化を紹介する雑誌だったが、
今回はANAの機内誌『翼の王国』だ。
日本の飛行機会社の機内誌の中で前々から私がもっとも気に入っているのが、この『翼の王国』だ。機内誌とは思えない充実した内容と
吉田カツさんの表紙が印象深い。

今回は、『わーずわーす』の時と違って、長丁場になるとの事だ。そして最後はなんと本になる可能性もあるとのこと。
昔も書いたように、私は菊地氏の勢いのある躍動的な絵と、肩肘張らない読みやすい文章にとても魅力を感じ、ブログもホームページも
欠かさず読ませていただいている。画集も持っている。特に絵の話の内容はとても面白く、なによりためになる。ぐいぐい引き込まれていく
不思議な魅力がある。なぜ、あのようなユニークで感覚的な文章が世の中にもっと広がらないのかずっと不思議に思っていた。
その辺の評論本や美術書などより菊地氏の文章のほうがずっと魅力的だ。で、今回ようやく日本中にその文章が広がる機会が訪れようと
している。

菊地氏によると、残念ながら機内誌なので、店頭販売はしていないとのこと。しかしANAに乗れば、日本中、世界中、必ず座席についてくる。、
ANAに乗ればどこでも読めるのだ。もちろん、私のように定期購読をANAに申し込めば簡単にできる。1冊300円ちょっとで毎月届けてくれる。
私はこんな地球の僻地に住んでいるので、毎月は読めないが日本に帰って、実家に預かってもらっている『翼の王国』をまとめ読みする
つもりだ。あのパワフルな文章が雲の上で読めるなんて実に面白い(^^)ちなみに私はANAの会員である。

下に、菊地氏のホームページより拝借しました画像を添付いたします。どうぞ、ANAに乗る機会のある方は是非お読み下さい。



                 



菊地氏のブログはこちら。 イッキ描きブログ 菊地理の油絵作品と絵の話

ホームページはこちら。   イッキ描き ギャラリー http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikkigaki/











2007年5月8日  漆黒の闇を照らす一筋の光  

今日、委託で置いてもらっている画集やポストカードの集金を3ヶ月ぶりにしてきた。近年私も宮嶋もなかなか思ったように絵が売れなくて
文字通り自転車操業の日々が続いている。だいたい今から10年ほど前の売り上げの半分以下になっている。昨年の後半に、委託で置いて
もらっているギャラリーで、ポンポンポンとテンポよく、アメリカ人2名と、なんと南アフリカ共和国の方々に絵を買っていただいた。ちなみにこの
17年間、バリ島で私の絵を買ってくれる人はオランダ人、フランス人、イタリア人などのヨーロッパ人が結構多く、次いでアメリカ人、
シンガポール人、オーストラリア人、そして地元インドネシア人あたり。意外にも日本人が私の絵をバリ島内で買うことはなぜか滅多にない。
もちろん日本の展覧会では当たり前だが日本人ばかりなのだが(^^;)不思議だ…。そのかわりポストカードのような小物や画集は日本人も
バリでよく買ってくれる。ありがたいです(^^)

しかし!、せっかく今回まとまって売れたのに、インドネシアのイミグレーションが気まぐれで滞在ビザのシステムを一斉に変えてしまったので、
急遽12月にバンコクにビザを再度取得しに行かねばならなくなり、その時の売り上げのほとんどをその費用に使ってしまった。ああ…(TT)
その後は忘れた頃に小さな絵がぽつりぽつりと出るだけで、なかなかシビアな神経戦が今年もまた続いている(^^;)ヾ

そういう時、小物であるポストカードや画集がコンスタントにさばけていくと助かるのだ。いわゆる日銭が入ってくるからだ。
しかし、今回、いろいろチェックしてみるとポストカードはいつものようによく売れているが、画集の方がいつもの半分も売れていない!…うううう。
画集は単価が高いのでいつも臨時収入が入り助かっているのだが、今回は残念…。今のところなんとか生き延びているが、
またもや真っ暗闇の未来へ突入する勢いである(^^;)私がいつも助けていただいている佐々成政の重臣、井口太郎左衛門の言葉
『一寸先は闇、一寸先は光でございます』の中の『闇』が結構続いている。ま、しかし、近年は慣れっこになってなんとか、しのいでしのいで、
上手に負け戦を戦っている。もちろん絵描きになってから勝ち戦などはほとんどしたこともない。いつも負け戦か引き分け…。ま、駄目な時は
なにをやっても駄目なのだが、知恵と我慢でふにゃらららとなんとか乗り越えてしまうのだ。

当たり前だが、近年、絵があまり売れなくても餓死したり、栄養失調にならないことがわかってきた。この発見は実はとても大事なのだ(^^)
そしてこのことはギリギリの状況を数多く体験し、体で覚えないと分からないことなのだ。人は意外に死なないし、欲を捨てればひょうひょうと
生きていける。

学校の教師を辞め、バリ島で本格的に絵を描き始めた17年前はすぐにお金がなくなって絵を止めなくてはならなくなるかもしれないと
恐れていたが、お金がなくなっても、ギリギリのギリギリでなんとかなるものである。お金がないと余計なことに対する欲望がなくなる。
無いものは無いので諦めることができるのだ。遠くへの旅行や、50号以上の大作の制作、などはポンと平気で諦められる。
それでもどこかで不安は付きまとい。私の人生もかなり悲惨で危ういなと沈んでしまう時もある。そのような時は車寅次郎のあの無欲と
身軽さを思い出し、ゴッホの手紙を思い出し、恩師坂崎乙郎先生の講義を思い出し、同じ画家である先輩の言葉を思い出し、
親友がかつてくれたひとつの手紙を思い出す。

それは正に漆黒の闇の中の細い一筋の光。

そして偶然だが、ちょうどさきほどポストカード補充のために、ハガキ類が入った箱をチェックしていたら、上で書いた親友がかつて私にくれたその
ハガキの文章が載った個展のDMが出てきた。私は彼のこの言葉が好きで、1993年10月東京の京橋で大きめの個展をした時、そのDMの
中で使わせてもらったのだ。

それは、当時、エゴン.シ―レ展を見に行った感想を私が彼に読んで欲しくて送ったハガキに対して丁寧に返信してくれたものだった。



光を生きながら消費している―。
本当にそうなのかもしれない。

刻一刻、身体的にも思考的にも変化していて『永遠』なんてものはないのだろう。
でも、もし変わらないものがあるとすれば
うつり変わっていく身体の「光の輝き」そのものかもしれない。

例えばシーレの絵を見つめていると、
その光に僕は小躍りしたくなるような喜びを感じた。
「やっぱりこれで良いのだ。」と。
たぶんシーレの肉体の独自の光は煙も灰もでない輝きそのものだろう。

僕は決して観念的、宗教的になっているわけではないよ。
シーレの絵を見て君を考え、坂崎乙郎さんを考え、ゴッホを考え、
職場のおじさんを考え、私の友人たちを考える。

先のことは見えないが恐れは消えている感じがする。
そしてまた、やっていこうと思う。



このハガキからもう二十年近く経ったが、今もなお、この言葉を胸に抱き、
私は今日もこの地球の果てで紙に線を引く。

2002年より私がバリでの本格的な隠遁に入ってしまったため、ここ数年は彼とは会っていないが、
彼もまた遥か日本で、絵を描き、音楽を奏で、そして草花や木々を育てる静かな日々を今も送っているに違いない。




       
5月になると、少し涼しくなったバリ島です。南半球だからね。(アトリエのテラスより)

             








2007年4月19日  僕もこんなに大きくなりました


ようやくバリ島の僻地ウブド村でも3月末から無制限ワイアレスインターネットの格安サービスが行われるようになった。
バカ高い料金設定のものは以前からあったのだが、ようやく日本なみの安い料金設定になってきた。それで試しに使ってみることにした。
使ってから今日で10日ほど経つが、もちろんADSLじゃないので相変わらず速度は遅く、やはりダイヤルアップ並みにしか出ない。
しかし、まあ無制限定額制なのでお金のことを気にしないで済む。このことがなによりも救いだ。それに今までのダイヤルアップよりも
かなり安い。それに、電話回線に水が入ろうが、さび付こうがワイヤレスには無関係なのでサイトを更新する時も以前よりはトラブルが
少なくなるかもしれない。なんせ、私の家の電話回線は私が自分で200メートルのジャングルの中を独力で引いたものなのだ。
それゆえこの数年間にダイヤルアップ接続のトラブルは無数にあり、それこそ日常茶飯事だった。

しかしそれでも油断はできない。専用モデムではなく、携帯電話内臓のモデムを使って電波を拾っているゆえ、極めて心細い(^^;)
いわゆる、日本なら外出時に臨時でノートパソコンなどの横に置いて使用するようなものを、日常で使っているのだから違和感はある。
しかし無制限定額制格安料金はビンボウな私には応えられない魅力だ。速度がダイヤルアップ並みに遅いとは言え、接続料を
気にしないで使えるなんて夢のようだ。今年の末ごろにはウブドにもADSLが来るらしいが、それまでの繋ぎでしばらくは使おうと
思っている。

ところで、例の、捨てられていた猫を拾ってきた話を2ヶ月ほど前に書いたが、(2月16日の日記参照)
あれから、すくすく育ち、今では下の写真のように大きくなった。ウチに前からいるプータという猫に似ているので『プーマ』と適当に名づけた。
名前はいつも連れ合いの宮嶋が付けている。あまり考えないでパッと決めるのが面白い。





        2月15日の来たばかりのプーマ                       4月15日の大きくなったプーマ
         












2007年3月19日  『とらやの草団子』を作るニュピの前日


明日からはバリ島の新年が始まる。バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』なので、明日3月19日が新年である。
この新年はニュピと言われ、この『新年.ニュピ』は毎年微妙にずれていくのだが、今年の新年(ニュピ)は3月19日だ。
前の日の大晦日の昨日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの化け物『オゴオゴ』が町中村中を夜中まで練り歩き、
お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を鳴らす。こう書いている今夜の1時でも、まだ村のあちこちから大きな爆竹の音が
聞こえてくる。そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。後5時間ほどか。

この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。

私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。私の連れ合いの宮嶋などは一年中ニュピでもいいと言っている。
私も一週間に一度くらいこういう日があっていいと思っている。

で、大晦日の今日はなぜか『とらやの草団子』を作って食べた。と言っても私や宮嶋が作ったわけではない、息子が作ってくれた。
ここ数年デザートはほとんど息子が作ってくれる。宮嶋が一度教えると、息子は完全に把握してしまうのであとは自分で改良に改良を
加えてほとんどプロ並みに作りあげる。乾燥ヨモギは日本から良質の物を持ってきた。小豆や白玉粉は現地でいいものが手に入る。
柴又へ行くと必ず私は、とらやのモデルになった『木屋の草団子』を食べるが、あの味である。さあ、腹も満たされたし、あとは、
ひたすらニュピが終わるまでジッとしているだけだ。渓谷の音を一日中ぼんやりただ聴いているだけ。そんな日があっても面白いではないか。






                 












2007年3月4日  停電の日に『バリの農夫.アグン』を描く


いやはや、今日は起きたらいきなり停電。ここ数年バリ島は停電が少なくなってきている。
うまくいくと1ヶ月丸々停電が無い月もあるくらいだ。7、8年前まではちょっときつく雨が降ったり、
雷が鳴ったり、風がきつく吹いたりするとすぐ停電になった。それも4時間、5時間は当たり前!
なんていうぶっ続け停電だ。ヒマラヤに行った時、下のポカラという町で丸4日間ずっと停電になった時は、
ネパールという国の奥深さを思い知らされたが(^^;)さすがにインドネシアはそこまで酷くは無い。
しかし、今日の停電は長かった。夕方遅くにようやく復旧。原因は不明(^^;)とにかく村中停電。

ま、停電や断水ごときでびくつくほど私はやわくない。そんなものハナからあてにはしていない。
いつものように粛々と絵を描く。最近はアグンライのお父さんを何枚も描いている。
今日も私の敷地の竹で作られた垣根を直してくれたので、ちょっとコーヒーを出して休憩してもらい。
その時に一気に油彩で描く。アグンライのお父さんは最近白髪が増えてきて、以前より随分渋くなられた。
彼の顔がなぜか私は好きなのだ。バリの古きよき時代の顔。インドネシア語は一切話さずに、バリ語で
話しかけてくる。生粋のバリの農民だ。普段は田んぼ作り、時々下の川で石切。時々木登り。そして
時々私の敷地の手直しを手伝ってくれる。彼の仕事はとても丁寧で美しい。亡くなった奥さんは儀式の
お供え物を作る仕事をしていた。このご両人のもとに生まれ育ったアグンライが彫刻の仕事をしていた
ことは実に納得できる。『血』というものはあるのだ。




                    「バリの農夫.アグン」 2007年3月4日 油彩 F6号

               









kagakutokokei

2007年2月22日  ふたつの『日高川』 村上華岳と小林古径




昨日、「寅次郎な日々」に第29作「寅次郎あじさいの恋」のかがりさんの隠された情念のことをちょろちょろと
書いた時に、かがりさんと寅のあの関係はまるで、お能の『道成寺』で有名な『安珍と清姫の物語』のようだ
とふと思った。



「法華験記」
や「道成寺縁起」などによると「安珍清姫の物語」はこうである↓。


平安中期、紀伊国牟婁郡真砂の家の娘(清姫)は熊野詣での途中で宿を借りた
僧侶の安珍を見て恋に落ちる。
安珍恋しさのあまり、清姫は安珍の寝床に夜這いをかけて告白する。
安珍は、なんとかその一途なまでの情念をそらそうと、嘘をつき、その場をごまかす。

参詣の帰りにはきっと立ち寄るからと騙って、参詣後は立ち寄ることなく行ってしまった。

待てど暮らせど安珍は戻ってこない。
騙されたことを知った清姫は怒り、狂ったように髪を振り乱し裸足で走り続け
安珍に追いつくのだ。しかし安珍は再会を喜ぶどころか逃げ腰で、人違いだ
と嘘に嘘を重ね、逃げ出そうとするのである。

不誠実な安珍に清姫の怒りは爆発し、遂に蛇身に化け日高川を渡り、安珍を飛ぶように
追いかけ、道成寺に逃げ込んだ安珍を鐘の中に見つる。清姫は鐘に巻き付き、
遂には火を噴いて安珍を焼き殺してしまうのであった。
安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水自殺する。

蛇道に転生した二人はその後、道成寺に現れて供養を頼む。
住職の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、
天人の姿で住職の夢に現れた。

この二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と
法華経の有り難さを讃えて終わるのだ。



かがりさんの一途さはこの「清姫」にも通ずる怖さがある。




           





で、何が言いたいかというと、この「安珍清姫」を題材にした日高川の場面を描いた2枚の絵をさきほど
思い出したのである。
私は、学生時代にたまたまこの下の2枚の絵を実際に見ている。どこの美術館のなんという展覧会で見たかは
忘れてしまったが、絵自体はあれからもう20年以上経っているのにまざまざと覚えている。


物語に忠実なのは見て分かるとおり小林古径の絵だ。清姫の恐ろしいまでの情念を直接的に描こうとしている。
それにたいして村上華岳の清姫は、なにか彷徨い、悲しんでおろおろしているようだ。愛情のその果てにある
激しい『業』を内側から表しているとも言える。

まあ、しかし、それらの解釈は本当はどうでもいい。物語など何も知る必要はない。

問題は絵の造形である。絵は全て抽象なのだから『絵』として見なければならない。
なんなら上下ひっくり返して見たっていい。必ず同じ感動が待っている。

村上華岳の『線』を見て欲しい。この線のリズムは凄いの一言だ。こんな線を描ける人は今の日本にはまずいない。
山も木も清姫も川も空も全て線で響きあっている。正に線の勝利だ。動かし難い造形。これだけ省略しても山は正に山、
木は正に木、地面も川もリアリティに溢れている。抑制された絵画的空間の中に確かな形がうごめくように息づいている。

小林古径は、いかにも風景や人物を『動』的にとらえて、一見格好がいい絵だが、しかし効果が先走り、
結局は絵が説明的になっている。絵の中に形が無く、スカスカだ。色も飽きる。
いや、そもそも土俵が違うと言ったら小林さんに失礼だろうか。
あ、一応言っておくが、小林古径もそん所そこらの日本画家ではないのだ。それはもう凄い線を描く人なのだ。
この『日高川』を題材にした戦後の他の絵描きの絵と比べると、いかに小林古径が凄いか分かる。
その小林古径の絵がスカスカに見えるほど村上華岳のこの線は揺るがし難くそして生きている。

私は村上華岳は明治以降の日本画の画家の中で最も好きな人の一人だが、その中でもこの絵は一番感動した。
「絵」とはこういうものを言うのだ。逆さまにしようが、一部だけ見ようが、どこからみてもこの絵の冴えは動かし難い。








                      




左.村上華岳
  日高河清姫図
  1919年(大正8年)
  絹本.彩色 .軸
  143.0×55.3
  1幅


右.小林古径
  『清姫(その6) 日高川』
  1930(昭和5年)
  紙本・彩色・額(全8面の内1面)
  48.9x130.4












2007年2月16日   新米猫がまたまたやって来た。




一週間前に、染織の仕事で職人さんの家に打ち合わせに行った時、敷地の裏にあるゴミ捨て場で猫の泣き声が
ずっとしていた。私が聞くと、彼らが言うぶんには、隣の家の人が屋根裏で育っていたたくさんの野良猫のうち2匹を、
あのゴミ捨て場に捨てに来た。と言っていた。私は「あー、またか…」と思いながら、その子猫の場所には近づかないように
していたのだが、その家のおかみさんが、私に見せるために持ってきてしまったのだ。見てしまったら、もう無視は出来ない。
私が引き取らなければ、この雨季の中この猫は数日以内に死ぬだろうことは、猫の格好と表情で分かった。
見るからに『明日までは持ちません、ダメですワタシ…』っていう風体をしていた。

私は、このような場面に遭遇するたびに、仕方無しに家に猫を持ち帰っては、育ててきた。
今飼っている大人になった3匹も元々捨てられていた猫が産んだ子供が一匹と、捨てられそうになっているのを、
もらって来たのが2匹である。
そして、この日、またチビ猫が増えて合計4匹。今までにこのような形で育てた猫は20匹を下らないだろう。
一時は8匹くらい同時にいたこともある。

まずぬるま湯と石鹸でしっかり洗ってやり、病気用の目薬を差し、猫用のミルクをやる。数日で結構健康状態は快復し、
今日でちょうど一週間目である。

他の大人猫も最初はチビ猫を警戒していたが、今日あたりから一緒に餌を食べていても唸らなくなった。
ようやく共存できる体制に入った。オシモの習慣は猫によってうまい猫下手な猫があるが、このチビはうまいほう。
あまり世話を焼かせないで、指定のお砂場でけっこうしてくれる。えらい!ここが飼い主には最も大事なところ。

この名前もまだ無き子猫の未来に幸多からんことを祈る。




                      引き取って3日目のチビ

              




                  ようやくみんな、仲良くし始めた。

         











2007年2月9日    猿、毒蛇、サソリ、そして第49作「寅次郎花へんろ」の台本


今年は世界中どこもかしこもちょっとヘンな気候だが、このバリ島も明らかに例年より雨が少ない。
昨年の今頃は雨雨雨の連続、しかし今年の雨季は降ることは降るが半分くらい。
そのせいで先日からまた部分断水。一日に5時間ほど水道が止まるのだ。まあ、貯め水用のタワーを
取り付けているから大丈夫なのだが、それでも少し心配だ。でもおかげで雨季にもかかわらず風景画も
描けてちょっとラッキー(^^)

で、たまにしか雨が振らないので、スコールの後は、いろんな動物が餌を求めてここぞとばかりやって来る。
先週はこの日記にも書いた「オオトカゲ」 そしてなんと3日前は、猿!。私の敷地の木で木の実をあさっているのを
野犬たちに見つかって降りれなくなっていたのを宮嶋が見つけた。デジカメを部屋に取りに行った隙にどこかに逃げてしまった。
撮影に失敗(TT)ここから4キロのところに猿の森があるので、そこからはぐれたか、ハブになった猿が、このあたりの
ジャングルで棲息しているのであろう。

そして2日前はなんと大きな毒蛇が蛙を探しに敷地に現れたのだ。例によってウチの猫たちが唸っているので
またもやオオトカゲかと、デジカメを持って、外に出てみると、見たこともない大きな緑色の毒蛇が猫と睨みあいをしていた。
バリ島では毒蛇と言うと緑色をした小さな蛇(ウラール.ヒジヨウ)だ。体は小さいが、噛まれると死ぬことがある。
しかし、2日前に訪問されたのはもっとでかい、もっと獰猛なヤツだ。山奥の川や谷の奥深くに棲息し、雨の後などに
蛙やヒヨコを狙いに来る。私は17年の滞在で島民がもっとも恐れるこのデカイ毒蛇をはじめて見た。
もっとも息子は5年ほど前、もっとデカク獰猛なコブラを見つけていたが…。

ただ単にデカイ蛇は、昔、敷地で4メートルの大蛇(ニシキヘビ系)を見たが、今回は毒蛇なので全身の毛が逆立つほど
緊張した。しかし猫のおかげで見つけることができてよかった。バリ人は、毒蛇を見つけたら必ず成仏させる。蛙やヒヨコなどの
味をしめてまた再来されたり、卵を近場に産んで繁殖されるのを避けるためだ。とにかくここは頑張らねば、と思い、
デジカメで数枚撮ったあとは、丈夫で長めのこん棒を探し、真剣に格闘し、何とか蛇君には昇天してもらった。
その具体的な闘いは今思い出しただけでも汗が出るのでここには書きません(^^;)
剣道を若い頃していて少しよかったかなとも思った。こん棒の頭部への打突が正確だったのでなんとかなった。ま、なにが役立つか
分かりません。あーこわかった。噛まれていれば、まず死んでいただろう。その夜に駄目押しで12センチくらいの「サソリ」にも遭遇。
これは時々出没するので慣れているが、刺されると時々重症になる。これも成仏させなくては増えてしまうので同じく短い格闘の末
昇天されました。蛇君、サソリ君ごめんね。合掌。

そして、またまた嘘みたいな話だが、なんと昨日も大きな2メートル級の蛇が敷地をうねって蛙を追いかけていた。
これまた猫たちが唸る。しかし今度は普通のシマヘビ系。毒は持ってません。OK。で、早々に帰ってもらった。







       この画像を近くの農民に見せると、こいつは獰猛で噛まれるとまず助からないと言っていた。怖すぎ(TT)

          






怖い話題をしてしまったのでお口直しに下の絵をどうぞ。



2007年2月10日追加

昨日息子が「第49作寅次郎花へんろ」の台本を書いていた。
書いていたと言っても台本の中身を書いていたわけではない。
「台本」のイラストを描いていたのだ(^^;)
この台本を見開いて、心行くまで脚本をスミからスミまで読んでみたいものだ。
ちなみにこの台本は山田監督所有のものらしい。それで、「山田」と書いてあるのか。
なるほどである。テープで補修したり丸めたりして相当使い込んであるなあ。





               












2007年1月31日    白い花。そして西瓜と藁草履



私の敷地の白い花が今年も咲いた。この鉢の中の花は2003年9月に42歳で亡くなった私と同い年の
親友であったアグンライが、亡くなる半年ほど前に私のために山から持ってきて鉢に植えてくれたものだ。
この白い花が咲くたびに私は彼を思い出す。そして在りし日の彼との思い出を辿るのだ。

彼は、その昔亡くなったお母さんと同じ病気になったが、私がいくら勧めてもジャカルタでの手術を拒み、
聖水と漢方薬だけを頼りに自宅で療養をし続けた。病気になってからも、体調のいい日は仕事の彫刻をしたり、
絵を描いたりしていた。

次第にやせ衰えて行く様子が痛々しかったが、彼が自宅にいてくれたお陰で、亡くなる少し前まで私は彼と
四方山話をすることができた。彼は随分苦しそうだったが、時々涼しくなった夕暮れ時などは、ティンクレックという
竹の打楽器をテラスで演奏したり、私と一緒にワールドカップの話をしたり、散歩したりして心は落ち着いていた。

私は、仕事をどうしてもキャンセルするわけにはいかないので、一旦日本に帰って展覧会を次々にこなしていたが、
その時に彼は亡くなった。私はその最期に間に合わなかった。なくなる前日に、部屋の前の小道を人が通った時、
「孝昭が帰って来たのか?」と家族に聞いたそうだ。彼の家の敷地を通って私はいつも自分の家に戻るからだ。

最期の2ヶ月ほどは家族たちは昼となく、夜となく苦しむ彼の世話をしなくてはならないので大変だったと思うが、
彼は生まれ育ったその敷地で最期の時を迎えることができたのだ。あんなに若くして亡くなってしまうことが
どんなに無念だったか、想像すらできないが、ただ、彼の最期の日常は穏やかだったと聞く。




命は神様に。病気は先生にだ。

これは吉岡秀隆さん主演のテレビドラマ
「Dr.コトー診療所(2003).第8話『救えない命』」で、
志木那島の農家の老人『あきおじ』こと山下 明夫さんが、大腸がんの
手術を本土で行うことを拒否し、「コトー先生」こと五島健助先生に、
島での手術をお願いする時の言葉だ。




       




あきおじは、もし自分が死ぬとしても好きなコトー先生の手にかかって死ねるのなら本望だと言う。
長年丹精込めて耕してきた西瓜畑の土地にも愛着がある、とも言う。
藁草履作りは子供たちに伝承しているほど上手。そういう意味でもこの島を離れたくないのだ。


そして命は神様にしか分からないと言う。


結局、人は誰でも必ずいつの日か死ぬ。
それまでの黄昏を何をするか。そして誰と共に生き、誰に見守られて死にたいか。
最後の黄昏の日々をどんな風景を見て、どんな音を聴いて暮らしたいか。
人はただそれだけである。生きる長さでは決してない。



私はその昔、ちょっとした病気をし、不安に陥った時、
長年お世話になっている主治医の先生に優しく諭された言葉がある。


「治る病気は必ず治します。治らない病気は治せません。」

この言葉を私は心に持ちながら今日も日本から遠く離れた辺境の地で生きている。


第48作「紅の花」の渥美さんも、スクリーンで見る限りはとても辛そうであったが、
私は、彼は自分の人生を全うしたと思う。悔いの無い人生だったと確信がある。
最後まで彼は「役者であること」を選んだのだ。



すべての人には天命がある。

この「Dr.コトー診療所」というドラマでは、いろんな人が病気やケガをこれでもかというくらい
するが、まあことごとくコトー先生が治してしまう。スーパードクターなんて巷では言われてもいる。

しかし、『あきおじ』の天命だけは変えることができなかった。


そして、その命が終わるその日までコトー先生も彩佳さんも患者と寄り添い、
共に生きていったのである。
このことこそが、人の間に生きると書く人間としての務めなのだろう。

あきおじは日々思う。
ここからは庭の木が見えるし海の音も聞こえる。
鳥が鳴いているのも、孫達が遊ぶ声も、それから息子が
役場から帰ってくる足音も全部わかる。そしてなによりも毎日コトー先生や
彩佳さんが顔をだしてくれるのが嬉しい…。

ゆったりとした静かな日々…。


しかしやはり別れの日はくる。


あきおじが亡くなった日、無力感が押し寄せるコトー先生。


そんな時、息子さんからそっと手渡されたあきおじの部屋にあった手紙と藁草履。


手紙はこう記されてあった。



コトー様 

夏 涼しくて 冬 温かい 
わしの自慢は
西瓜と藁草履
人生で このふたつ

あきおじ




遂に泣き崩れるコトー先生。



コトー先生の、そして吉岡秀隆さんの、新しい第2の人生はこの『あきおじ』
の手紙と残された藁草履から本当にはじまったのではないだろうか。

彼は今日も、あの手紙を心に持ち、藁草履を履きながら生きる。



この「Dr.コトー診療所」は、近年のテレビドラマというものが好きじゃない私が、
珍しくぐいぐい引きこまれたドラマである。日本にもこういう、確かな人の
息づかいや風の音が聞こえてくるテレビドラマが誕生する土壌がまだ
残っているのだと安心した覚えがある。映画では出せないテレビドラマ
ならではの軽快な臨場感がなんとも言えず快感だった。


そして、吉岡秀隆さんの新たな出発がはっきり見て取れる記念すべきドラマでもある。

彼の白衣をひらめかして優しい南風が吹き抜けていくような、そんなドラマだった。





        




(先日バンコクでまとめて見た2004年度版も、2006年度版も実に良かった。
 モチベーションは落ちてはいなかった。これは滅多にない凄いことである。
 そのことはまたいつの日か書きましょう)














2007年1月16日    体長1、5メートルのオオトカゲ現る!



先日アトリエで絵を描いていると、敷地の端で猫たちが「ウ〜〜〜」っと唸っている。
こういう時はだいたい蛇がいるのだ。
どんな蛇だろうと、遠くから覗いてみた。もし毒蛇なら大変だからだ。バリの毒蛇は、緑色で小さい。しかし噛まれると
タイミングによっては死んでしまう。毎年何人もの島民がこの小さな毒蛇によって亡くなっている。で、おそるおそる
遠くから見てみると、おお!なんと!久しぶりの「オオトカゲ」だった。それもアトリエのテラスからたった9メートル向こうにいる。

私の家はジャングルの一番奥、渓谷のてっぺんにあるので、下の川からいろんな動物が餌を探しに登ってくるのだ。
4メートルの大蛇だったり、今回のオオトカゲだったり…。こわ(^^;)

だいたいが近くで遊んでいる「ひよこ」を狙いに来る。私の家の敷地には親鶏がひよこをたくさん連れて
残飯をあさりに来る。その鶏の臭いと気配を文字通り動物的カンで遠くからでも察知して、大型肉食獣たちがやって来る。


デジカメを持って、そおっとそおっと近づいたが8メートルほど近づいた時、オオトカゲ君は不穏な空気に気づいたようだった。
ウチの猫たちが「ウー、ウー」唸って50センチまで近づいてもオオトカゲ君は、猫をなめているのかまったく動じない。
しかし私が8メートル付近から一歩でもそぉ〜〜〜っと近づくと、すぐ逃げようとするのだ。カンが鋭い!いったん気づいてしまうと
逃げる体制に入るのがこの手の動物だ。そのうち、ススっと下の渓谷の方に消えていった。結局ご対面はたった30秒くらい
だったろうか。そして8メートル以上近づくことはできなかった。で、デジカメも8メートル向こうからズームで撮らざるをえなかった。


実物を見ているときは体調 1メートルくらいかなと思ったのだが、今こうして画像を見ながらしげしげ見てみると、尻尾が
かなり長い。あの長い尻尾も入れると体長1、5メートルはゆうにあるんじゃないかな、って思えた。とにかく喉が太い。

ちなみに、彼の正式名称は「Varanus salvator 」日本名は「ミズオオトカゲ」である。よく日本の動物園にいる。
主にインドからインドネシア、フィリピン のジャングルに棲息。大きいものは2メートルにもなる。


オオトカゲ君は忘れたころによく私の敷地にやって来る。彼がちょくちょく来ると、その年は臨時収入があったり絵がたくさん
売れたりもする。縁起物なのだ。めでたしめでたし。今年は生活に困らないかも(^^)




             
            見た時は「ドキッ!!」とした。やはりちょっと恐怖(^^;)カメラを向けるとくるっとむこうを向いた。

            







          尻尾を曲げているがよく見てみると尻尾だけでも70センチはある。全長1、5メートルはゆうにあるな。

           






              首をググッと持ち上げて睨みをきかしていた。とにかく腕と喉が太く、体が長い。

          














2007年1月8日    お遍路が一列に行く虹の中




第49作「寅次郎花へんろ」のポスター  



山田監督は1972年に民放テレビ局の日曜劇場で「あにいもうと」と
いうドラマを書いている。
成瀬巳喜男監督の「あにいもうと」のイメージもあったのかもしれない。


大工の兄は渥美清さん、妹は倍賞千恵子さん。

映画の「男はつらいよ」はフーテンで甲斐性無しの兄を、優しく堅実な妹が
時には助け、諭し、人生を共に歩んでいく物語とも言える。

それに対して、このテレビドラマは真逆の設定なのである。


放送日=1972.09.03

スタッフ

原作=室生犀星 脚本=山田洋次、
演出=宮武昭夫 
プロデューサー=石井ふく子


出演

渥美清、倍賞千恵子、宮口精二、乙羽信子 ほか



大工で気性の一本気な兄「伊之助を渥美さんが演じ、男に捨てられ水商売に
身をやつしている妹「もん」は、昔は本当に仲の良い兄妹だった。
ところが一年前、もんがある男の子供を身籠もった上、
捨てられて家に帰って来て以来、この兄妹は喧嘩が絶えなかった。

そんな妹を伊之助は本当はとても不憫に思っていて、
もんをかばう為に時には悪態をつき、時には喧嘩をした。
ある日、例のもんを捨てた男がもんに謝りたいと訪ねて来た。
もんは留守で、男が帰る途中で伊之助は彼を待ちぶせていた。
そして一発しかなぐらなかったのに、もんに半殺しにしたと言っってしまったので
もんが怒り大喧嘩になる。ドラマはこのような修羅場の中で終わるが、兄と妹の
心が芯の部分では分かり合えていることは見ていてよく分かった。
最後の喧嘩の場面は倍賞さんの渾身の演技が光っていた。まったく映画のさくら
役とは180度逆の設定がなんとも不思議な空間を作っていた。



         






そして「男はつらいよ」の第49作「男はつらいよ 寅次郎花へんろ」は、
この「あにいもうと」の激しい葛藤をもう一度、今度は映画で撮ろうとした
山田監督のねらいだったのだ。



一本気の兄が西田敏行さん。

出戻りの妹が田中裕子さんである。




しかし、残念ながら渥美さんの死によってそれは叶わぬ夢となってしまった。


もっとも数年後に制作した「虹をつかむ男 .南国奮斗篇」でこの設定が生かされ、
兄役を哀川翔さん、妹役を小泉今日子さんが演じて、形あるものにしていた。


ともあれ、第49作「寅次郎花へんろ」は大まかな構想で止まったまま、山田監督の
心の奥底に仕舞い込まれてしまったのである。


山田監督は数年後、あるインタビューで語っていたところによると
この「寅次郎花へんろ」の物語は凡そ次のような内容だらしい。


★ヤクザっぽい兄と、その妹の、愛するが故の乱暴なののしりあいの大喧嘩になっていく
 シーンが見せ場。渥美さんにもうその役は無理だ。だから西田敏行さんにその役を
 考えていた。

★まず、妹の田中裕子さんがふらっとアメリカから帰ってくる。アメリカ人と結婚したんだけれど
 別れて、十五年ぶりくらいで高知県の田舎に帰ってくる。

★そこには工事現場で働く気性の激しい兄がいて、兄と妹が大喧嘩になる。
 その一部始終を、縁があり滞在している寅が見ていて、ハラハラしたり、怒ったり、
仲裁に入ったり…。(もちろん妹に寅は想いを寄せている。)

★一方、満男と泉ちゃんはついに結婚式をすることになる。

★しかし、寅が行方不明でどこにいるのかわからない。
 みんなでいろいろ探したが見つからない。
 そして最後に、寅がヒュッっと結婚式場に現れて、味わい深いスピーチをぶって、また
 風のように去っていく。

とまあ、このような物語にするつもりだったらしい。

これ以上詳しい内容は山田監督の中にもまだ無かったようだった。






渥美清さんは平成八年(1997年)8月4日に転移性肺癌のために亡くなる。

実はそのひと月ほど前、渥美さんは、山田監督や倍賞千恵子さん、
松竹宣伝部の大西さんらと代官山のレストラン.小川軒で食事をしたのだ。
そしてその年の秋からはじまる第49作「寅次郎花へんろ」の撮影に渥美さんは
意欲を燃やしていたそうだ。食事も肉を全部食べたそうだ。
この様子を見て、山田監督も、倍賞さんも、大西さんもみなさん誰もが第49作が
作られるであろうことを疑わなかったらしい。


渥美さんは俳句も好きで、週刊誌「アエラ」主催の「アエラ句会」の常連でもあった。
俳号はフーテンの寅にちなんで「風天」


お遍路が一列に行く虹の中


前の年に作られたこの句が、渥美さんの最後の句となった。



この第49作「寅次郎花へんろ」は、物語の脚本も、ポスターもなにも無い。あたりまえである。
もう山田監督もこの作品の脚本を書くことは無いかもしれない。
ましてやポスターなんか作っているわけがない。

そこで、私の息子が先日数時間かかって他のポスターや、いろいろな本編、
他の山田監督の映画などから合成し、そのあと細部をマウスで描き、
勝手な第49作「寅次郎花へんろ」のポスターを
作ってみた。


第49作のキャストは私が自分の想いを込めて下のように書いてみた。
そしてそれをポスターの中に入れ込んでもらった。




渥美 清

倍賞 千恵子

田中 裕子

吉岡 秀隆


下條 正巳
三崎 千恵子
太宰 久雄
佐藤 蛾次郎
関 敬六

笹野 高史
すま けい
桜井 センリ
イッセー尾形
犬塚 弘
神戸 浩

田中 邦衛

前田 吟

夏木 マリ

後藤 久美子


浅丘 ルリ子


西田 敏行





田中裕子さんと浅丘ルリ子さんは二人マドンナになってしまうが、
ラスト付近に行われる満男と泉ちゃんの結婚式にリリーもぜひ出席して
欲しいのだ。リリーは満男と泉ちゃんの縁結びの神さまのようなもの
と、私は思っている。

ギリギリでスピーチに間に合った寅はどんなことを満男たちに語るのだろうか…。

そして最後の最後に寅とリリーの小さな物語があるのだ。


もちろんこれら全ての運びは私の勝手な妄想なのだが…(^^;)ゞ





それでは勝手に作った第49作「寅次郎花へんろ」のポスターをお楽しみください。






           










2007年1月2日       新年のごあいさつ



新年 明けましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
遥か遠い南の島から皆様の幸せをお祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらずダラダラと愚かで無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。


狐の嫁入りが続くバリ島ウブドにて

2007年 正月

吉川孝昭









         

                                                
イラスト 龍太郎






                    第16作「葛飾立志篇」の元旦

            





                                       
                                               





まつこ





2006年12月31日  隠されたリアリティ 「嫌われ松子の一生」


バンコクからようやくバリに戻ってきた。
今回のバンコク行きはインドネシア側の長期滞在ビザの法規改定により、仕方なくたった2ヶ月で再出国し、
新しいビザを取りに行くという最悪の事情で、心も沈んでいたが、さすがバンコク。クリスマスの1週間前から
この巨大な街はどこも華やかなイルミネーションとオーケストラの生演奏などの数々のアトラクションもあって
実にみんな楽しげだった。

私は、昔からクリスマスや正月といった行事ものが大嫌いだが、自分が参加しないで、はたで見物している分には
そう悪い気もしないから不思議だ。
それと、日本の民放テレビがリアルタイムで見れるようになっていたのには驚いた。お陰でDr.コトー2006の
最終回をリアルタイムで見ることが出来た。(第10話まではレンタルで借りて見ていた。)
なんだか儲けた気分だ。夜は結構時間に余裕があったのでレンタルDVD屋でいろんな映画やテレビドラマを借りまくって
見ていた。30本くらいは見た。倉本聡さん脚本のテレビドラマ「優しい時間」も全話見た。寺尾聡さんはいやはや全く
近年ほんとうにいい。お顔がますますお父さんの宇野重吉さんに似てきた。

そんな中、軽〜い気持ちで見た映画「嫌われ松子の一生」は意外にもバンコク滞在中のベストワン作品だった。
監督はあの2004年の「下妻物語」で奇妙な女の子の友情をシュールにそしてポップに描いた
鬼才中島哲也監督。「下妻物語」の初々しさは飛びぬけていい!



彼のアクの濃さにアレルギーを起こす人は今でも数限りなく存在するのだろう。真面目な映画ファンならなおさらだ。
狂ったような粘着質な密度と極彩色に吐き気をもよおし、席を立つか、さもなくば涙を流し感動するかどちらかだ。
とにかく中途半端なきれい事の監督さんではない。どんな悲惨な物語も全てリアリティをもぎ取って
「作り物」として見せようとするエンターテイメントな感覚は、ある意味山田洋次監督とは逆の感覚である。
ただし、ひとつひとつのカットに気が遠くなるくらいにこだわり続けるところが似ているともいえる。
ほんと文字通り、気が遠くなるくらいにだ。この中島監督の感覚はこの作品の中の音楽作りにも、美術にも、キャメラにも
全て伝染し、アリ地獄のような底なしの恐ろしいまでの密度が展開されていた。




                




それにしてもこの映画は一つのシーンにおける情報量が異常とも思えるくらい膨大なのである。
さすがCM作りに長年携わってこられているだけあって映像の最前線にあると思われる「硝煙の臭い」が
スクリーンに立ち込めていた。中島監督は明らかに闘っている。自分のイメージを超えようとしているのであろう。
今の日本の映画監督でこのような闘う姿勢を果てしなくとり続ける監督さんは、はたして何人いるだろうか。
おそらくほとんどのカット、和やかに楽しく撮ったなんてことは皆無だったのではないか?
あのような密度の濃い映像を実現するためには生半可な覚悟では絶対不可能だ。それは物作りに携わった人なら
必ず分かるはず。まったく感覚は真逆のように違うが小泉堯史監督なども最前線の硝煙の臭いがする。中島さんが
ギラギラした目で激しく闘っているとしたら、小泉さんもまた静かに粘り強く闘っているのだ。

とにかく先ほども書いたがこの「嫌われ松子の一生」にはある意味「リアリティ」がない。全部が「短い作りもの」のモザイクで
構成されていると言ってもいい。しかし、その奥底に密かに棲みついている「ほんとう」が透かし模様のように見ている私の心を
揺さぶり続けたのである。

ハイテンポのコメディと最高質のミュージカルという派手なエンターテイメントのデコレーションの中に密かに棲みつくこの
「隠されたリアリティ」こそ中島監督が実は最も力を入れた部分であろう。


その「核」が松子が死んだ直後の夜のカットからエンディングロールの終わりまでの12分間に凝縮されている。
蝶々となった松子が荒川を上流へと登り、過去の数々の自分に遭遇しながらいつしか懐かしい故郷の筑後川とだぶり、
そしてずっと後悔し、想い続けていた妹に会いに行くのである。この部分の映像は他の映画の追従を許さないほどの幻想美だ。
NHKの「新シルクロード」でウイグル自治区を真っ赤なパラグライダーを操りながら飛び、鮮やかな映像を見せてくれた
モーターパラグライダーカメラマン矢野健夫さんの神秘的とまで言えるあの映像がこの映画に魂を入れた瞬間、
中島ワールドはようやく完成したのだ。ヘリコプターやセスナではあの映像は絶対出せない。人間がそのまま空を飛び撮った
映像というのはやはり限りなく美しくいとおしい。


だから、実は…、何を隠そうこの物語の勝利は矢野健夫さんの勝利である。




               



そしてエンディングロール、めまぐるしく映像が変わり、全てが凝縮され映し出される。
この、これでもかと畳み込む果てしなくしつこい走馬灯的エンディングロール。音楽編集をはじめとしてその運動神経は
見事の一言だった。もうやめてくれ〜、エンディングしつこ過ぎ!という方も多々いると思われるが、私にはあのしつこさは
快感以外の何物でもない。その証拠にバンコク滞在中、あのエンディングロールを合計十回以上私は深夜に見続けたのだ。
全く見飽きない。私はしつこい作家さんが大好きなのだ。中島監督はこれだけの集中力を今後映画作りで果たして出せるの
だろうか。「足し算」の演出としてはこのへんが人間の限界である。


主演の川尻松子を演じた中谷美紀さんもまた、現地点でこれ以上の集中力と冴えはもう当分出せないだろう。
中島ワールドが伝染し、オーラが出すぎるくらいに出ていたからだ。もしこれ以上出すとしたら、今度は別の形で、
別の次元で出すしかない。「体当たり演技&足し算の冴え」としてはもう限界である。そして人生の醍醐味「引き算の演技」は、
今度は膨大な歳月と膨大な人生経験が必要だ。なりふりかまわない必死の演技ではもう超えられない壁がこの向こうに
そびえ立っている。ただ、これだけの冴えゆえに中谷美紀さんの人生の代表作は間違いなくこの「嫌われ松子の一生」に
なるのかもしれないが…、実は人生はまだまだ長い。「引き算の演技」の体得が叶う日が来ないとも限らないのだ。

あのルネッサンスの彫刻家ミケランジェロにはふたつの代表作がある。若き日の、この世で目に見えるものを全て表現した
誰もが認めるあの有名なヴァチカンのピエタと、目に見えないものを表現した最晩年、死の3日前まで彫っていた
ロンダニーニのピエタである。ミケランジェロの最高傑作はこの、目に見えない世界がこの世に存在することを私たちに
知らしめてくれた最晩年のロンダ二ー二のピエタのほうなのだと私は思っている。


ともあれ、この鬼才の監督もこの溌剌女優もこの世の「見える世界の物語」を鮮やかに描くことに一応の成功はした。
そしてこの先にある「見えない世界」のなんと果てしないことか。これはさすがに十年や二十年じゃ描ききれない。
この先の世界はテクニックやその場の頑張りが作品を作るのではない。その作家の、その俳優の「世界観」が作品を作るのである。
そう意味ではこの「嫌われ松子の一生」はちょうど表側だけの成功とも言える。

世阿弥が一生をかけて追い求めた世界が、渥美清さんが命を削りながら孤独のうちに追い求めた世界が、そしてミケランジェロが
示してくれた世界がその先にあるのだ。




                













2006年12月10日  風に揺れる洗濯物


ようやく長いバリのお盆が終わった。
昨日はクニンガンと言って、天国から地上に帰られていた人々が、天国に戻られる日である。
そして再びラワールを食べる日でもある。たくさん食べてしまったのでちょっと体重が増えたかも…。

さすがにここ一週間はいよいよ雨が降るようになった。これで完全に雨季到来だ。夜はかなりきつく降る。
しかし、今日はずっと晴れた。12日からのバンコク行きが近いので、洗濯をたくさんした。バンコクへは
半月ほど滞在する。
雨季の中の晴れ間は貴重だ。風も強かったのであっという間に乾いた。

洗濯物が風に揺れている光景を眺めていると、ある映画の一シーンが頭をよぎる。
映画「男はつらいよ」、第32作「口笛を吹く寅次郎」のラストシーンだ。

偶然再会した寅と熊さん。熊さんは以前奥さんに逃げられて悲しんでいた。寅はそんな熊さんを慰めていたのだ。
そして今、熊さんは因島大橋工事現場で働いているのだった。なんと娘さんの傍らには職場で知り合った
再婚相手のあき竹城さんが笑っている。このあき竹城さんの楽天性が鮮やかである。




               




彼女は第26作「寅次郎かもめ歌
」でも物語のラストを明るく締めくくってくれるが、ひとつの
物語のラストを鮮やかなハッピーエンドに変えてくれるスケールの大きな役者さんである。

やはり、ハッピーエンドの女神は、あき竹城さん、そして第14作の春川ますみさんだ。

この映画のなんともいえない奥ゆかしい深みは、このような本物の役者さんがさりげなく
しめるべきところでしめていると言う点にも現れている。山田洋次監督はこのような役者さんの
力を引き出させるのが天才的に巧いのだ。

あき竹城さんは叫ぶ

「あれー!!洗濯物とぉり込むの忘れたよぉ〜!」


そしてラストに映る風に揺れる3人家族の洗濯物。

私は第32作「口笛を吹く寅次郎」の中で、どのシーンが一番好きかと自分に問うた時、
実はこのラストの風に揺れる洗濯物のシーンなのである。

まあもっとも、こんなこと人に言っても、物語の本流と関係のない、なんでもないこの洗濯物の
シーンがどうして一番感動するのか説明が厄介なので、そういう時は、同じく最高に切ないシーンである
寅と朋子さんの柴又駅での別れを言うことにしている。

しかし、ほんとうは、あの風に揺れる洗濯物の風景の中にこそ人間の営みの真実がある。絵を描くなんて
行為はあの風景の中に吸収されてしまうほどちっぽけな行為なのかもしれない。




               




第32作のシーン2つ  龍太郎  作


                   





10月12日より16日間バンコクに用事で出かけます。
その間、バリ日記、覚え書きノート、寅次郎な日々などは
お休みです。次回更新はすべて12月30日ごろになります。









2006年11月29日  アンパンを食べる寅次郎


10日ほど前にアップしたアニメーション「矢切の渡し」が評判いいので、気をよくしたのか、昨夜からまた息子は
新しくアニメーションを作っていた。覗くと、どうやら第27作「浪花の恋の寅次郎」のある場面を作っているらしかった。
あの物語の序盤、瀬戸内の小島で寅が高台から海を眺めながらアンパンと牛乳を食べるシーンがあるのだが、
あのゆったりとした時間の中の涼やかなひと時がどうやら気に入っているらしい。

今夜早くも作り終えていたが今回も前回同様結構風を感じる作品に仕上がっていた。
で、今回も採用ということで、このバリ日記でも紹介します。

タイトルは「アンパンを食べる寅次郎」だそうだ。そのまんま(^^;)

息子は、寅の服やズボンにも風がそよぎ、ちょっとめくれたりしているのが気に入っているようだ。




            

               アンパンを食べる寅次郎   龍太郎作









2006年11月26日  『家路』 雨季なのに雨季じゃないような…。


あと3日でガルンガンだ。ガルンガンとは日本でいうお盆。ご先祖様が地上に戻ってくる期間。
バリの人々は、今日あたりペンジョール(七夕のような竹飾り)をどの家も作っている。
明後日は儀式料理のラワールを早朝に作る。そして3日後はガルンガンだ。そして2週間ほど
の長いお盆がはじまる。私がバリに住み始めた17年前は、このガルンガンの間は、どの店も
休みがちだったが、近年は大型スーパーはもちろんのこと、ちょっとした店も休まなくなった。
私にとっては生活が滞らなくて安心だが、なんだかバリがバリでなくなっていくのが淋しくもある。


もうさすがに雨季なのに、なかなか雨がまとまって降らない。それで、時々断水がある。
それも毎回半日は水が出ない(TT) こっちもそれように防衛して3日間持つ貯水タンクを常備してはいる。

しかし、雨が降らないお陰で今日も田園の絵を描けた。絵を描くという行為も高揚感があっていいが、
夕方の涼しい風にただボーッと吹かれるのもいいものだ。

最近絵をアップしてなかったので、とりあえず今日描いた絵を載せましょう。
絵が上手くいったかどうかは時間が経たないと私にはわからない。




                          「家路」 2006年11月26日 油彩 F6号

              







11月27日 追加 記事


私の家の近くに住むアグンライのおじいちゃんとお孫さんがペンジョールの飾り物を作ってた。
ちなみにこのおじいちゃんは、私の絵のモチーフとなっていつも活躍してくれている。TOPページに
貼り付けてある「バリの農夫」もこのおじいちゃん。亡くなった私の親友のアグンライの父親でもある。





     












2006年11月18日  大人1クリック、小人も1クリック


ようやく時間の流れがいつもの緩やかさになってきた。ここ4日間ほどは田んぼの夕焼けを描いている。
上手くいかなかろうが上手くいこうがお構い無しに、絵が描けること、それ自体が至福の時間だ。
雨季にもう入っているはずなのになかなか大雨にならない。しかしお陰で絵の制作ははかどる。
上にも書いたがいい絵になるかどうかは別。

息子もここ1年くらいは結構忙しそうだが、今日の夕方から超久しぶりにこのHPのために
ミニアニメボタンを作ってくれた。数年前、春に江戸川に行ったときの印象を表現していた。
『風そよぐ矢切の渡し』だそうだ。ここを押したら『男はつらいよ覚書ノート』の一番上に行くようになっている。

絵の中の看板を見てみると『大人1クリック、小人も1クリック』と書いてある。このへんが私の発想では
出てこない馬鹿馬鹿しさ(^^;)面白いので何も文句を言わずそのまま採用した。


木の葉が揺れて、小舟も揺れる。

新緑の頃、もう一度あの舟着場に行きたいと思う。



             

                 風そよぐ矢切の渡し  龍太郎作
              









2006年11月5日  恐るべき数寄者の眼  − 青山二郎展 −


私はバリ島の部屋の壁に、先週から「青山二郎展」のポスターを貼った。
日本を出発する直前の10月13日に何時間もかけて滋賀信楽の山の中にあるMIHOミュージアムに立ち寄ったのである。
もう信楽の山々はすっかり秋の気配で、5年前に剣岳で感じた以来のなんとも美しい透き通った日本の秋だった。
私は日本の秋が大好きである。自分が生まれたこの秋という季節があるばかりにいつも日本に帰りたいと思ってしまう。
それならば日本に住めばいいと思われるだろうが、絵を描くとなるとやはり今の日本では、なかなかインスピレーションが
湧きづらいのだ。それでももういい加減日本を中心に考えて生きたいとも近年は真剣に思っている。

まあ、それはそれとして、MIHOミュージアムで開催されていた『青山二郎展』は本当に見てよかった。
日程が限られていたので大阪市立美術館のスペイン絵画展の『ベラスケス』を選ぶか、青山二郎展の『唐津盃』を
選ぶかの究極の苦しい選択を迫られたが、ベラスケスはプラド美術館で一度すべて見ているので、青山二郎の方を取った。

しかしまあ、一人の人間が人生を通して命がけで選んだ物というものはまことに凄みがある。
中国古陶磁、李朝白磁、日本の骨董…どの器にも選んだ眼をひしひしと感じることができた。形が鋭敏でそのくせ
ゆったり、たっぷりしている。その究極は李朝白磁丸壷の中で青山さんが『白袴』と記した器である。あのようなジャープで
かつ有機的な、タメのある不思議な形は西洋的な感覚では出せないものだ。レオナルドやミケランジェロもあのような形は
出せていないと思う。

そして遂に見ることが出来たあの小さな小さな『唐津盃』
手の平にすっぽり入る小さく、なんでもない形。それなのにやはり紛れもなく強い形態。
青山さんはこの盃を「人が見たら蛙になるよ、と言いたげだ」と呟いていたと言われる。
それほどにもなにげなく、そして味わい深い。これに限らず、青山さんの眼にかなった唐津盃は
どれも文句なしにいい。

緊張感のある危ういバランス。何万という器の中から彼の『眼』が選んだものは青山さんその人そのものだと思えた。

かの小林秀雄さんが「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と言い切った男。それが青山二郎さんである。
青山さんに小林さんは痛烈に文章や骨董の眼を批評されては何度も目の前で涙をこぼしたらしい。
彼の感覚を最も愛した愛弟子の白洲正子さんは青山二郎さんのことを「生涯を通じて本業を持たず、何もせず、
何も遺さず、『数寄』に命を賭けたと言っても過言ではないだろう」とエッセイの中で書かれているが、まさに
「何者でもない人生」から選び出された数寄者ならではの切れ味を、それらの器を見るごとに感じてしまった。

こんなに感動した展覧会は何年ぶりだろうか。ここ十年の中ではこの『青山二郎展』が飛びぬけている。

私は昔から日本に帰るたびによく東京博物館で国宝展などを見たが、なるほど立派な器が並んではいるが、
当然ながらそれを発見し、選んだ人の『眼』『感覚』というものは感じられない。名品ばかりをとりあえず集合させた寄せ集め
だからだ。眼は言葉であり、美の発見は個人の眼を通しての一期一会の真剣勝負なのだと今更ながら思う。


このMIHOミュージアムには常設もあって、東洋やペルシャ、エジプトの古代美術がたくさん展示してあったが、
どれもあれらの器を見た後では生ぬるく、一つとして青山二郎が選んだ器たち以上の感銘を私に与えなかった。
そればかりか、そのあと大阪で西洋の名画たちを画集で見たが、あの器たちを見た後では、ほとんどの絵は頼りなく、
ただそこにあるそれだけのものにしか見えなかったのである。つまり私は青山さんの眼によって吸い寄せられた
ものたちを見て宇宙の広がりを感じたのだろう。こんな体験は初めてだった。
青山さんの眼とはなんと恐ろしい眼なんだろう。

かつての日本人はあのような『眼の文化』を持っていたのだ。




このMIHOミュージアムの設計はあのルーブル美術館の前のピラミッドやワシントンナショナルギャラリー東館を設計した
人だそうだ。広大な山全体を使ったゆったりしたしかし雄大な設計であった。


        






         ほぼ実物大だと思う。 口径4、8cm  唐津盃 桃山時代

          







            李朝白磁丸壷 銘「白袴」 高さ23、0cm

        











2006年10月31日  今日なら間に合う、明日なら遅い


以前山田監督の「15才.学校W」を見た時にちょっとひっかかったことがあった。
それは人間関係に悩み不登校気味の主人公の少年が家出をし、旅を続ける中で、
人間として成長していく過程の最終段階として、家に戻った彼はとりあえずまた中学校に
ちょこっと行き始めるのである。あの結末を見て傷ついた子供はたくさんいただろうな…、と
まず思った。

あれはある意味、学校へ行くこと(戻ること)が良いことのように取ろうと思えばとれるのだ。
少なくても学校へ戻らないよりは戻った方が気持ちが元気になったとか人間的に成長したと,
つい思ってしまう。実は学校という袋小路から開放されたゆえに元気になる子供たちはたくさん
いるのだ。いじめや人間関係の軋轢で不登校になり、悩んでいる子供たちを元気付けるのは
あのような学校復帰の映像ではないはずだ。

学校という組織は、本音の部分は、地域作りや国作りのためにまずあるのであって、
その子供本人のためというのは実は二次的なものとも言える。

ここ数ヶ月でいじめを苦に自殺してしまった子供たちがかなりの数出てしまっているが、
本気でその子を守れるのは友人や担任でなくギリギリでは親だと思う。
親は子供がうすうす学校でいじめられていることを知っていることが多い。子供が帰宅後も
毎日家でも悩み、時には泣いて苦しんでいることを知りながら親はつい今日も子供を学校に
送り出してしまう。親自身も仕事が相当忙しいのだろうし、子供に対しても、もっと何事にもくじけないで
強くなって欲しいと思うから「気にするな」とか「負けるな」とか「先生に相談しろ」とか適当なことを言って
今日も、そして明日も学校に送り出すのだ。

今現在、いじめで真剣に悩んでいる子供が私のこの日記などを読むはずがないとは思うが、
もし万が一たまたま読んでいてくれたとしたら私ははっきり言いたい。
明日学校に行くことがもしある意味『地獄』ならば、明日から学校を全く行かなくていい。
後に元気になってもまだ行きたくないならば、ずっと行かなくていい。行かなくても実は
人生では死ぬほどには困らない。少なくとも『生き地獄』には絶対にならない。
誰がそのことに反対しても、私はそんな学校に100パーセントいく必要などないと
言い切れる。学校は君のためになどない。君は学校に御奉仕する必要は全くない。

そして親はそんな子供を100パーセント支持してやって欲しい。どこの世界に
『地獄』に毎日子供を送り込む親がいるだろうか。仏教で言う人間の苦しみの中に
怨憎会苦(おんぞうえく)』というものがある。ある人と会いたくないのに会い続けねばならない
苦しみである。これは本当に苦しい。ましてや一対多数の怨憎会苦だ。
学校はある子供たちにとっては『楽しいところ』だが。別の子供たちにとっては正に『地獄』なのだ。

お願いだから不登校の子供たちの最終目標を『学校復帰』などということにしないで欲しい。
不登校の子供たちの最終目標などないのだ。目標などというカッコいいことを決めてプレッシャーを
与えないでほしい。今精神の限界に来ている子供たちにまずしなくてはならないことは、
『今日から学校休んでいいよ。もう学校へ全く行かなくていいんだよ』と言える親かもしくはそれに近い
親しい大人の存在である。

よく、マスコミなどが、親と担任、学校を交えた話し合いや文章交換によるいじめ事実の客観的な把握や
カウンセラー通いや担任を交えた加害者たち(その親も含む)との相互理解、教育委員会への直訴などを
しゃべったり書いたりしているが、そんな悠長なことはそのあとのずっとあとで十分である。

まずはなんらかの理由で『地獄』を味わっている子供を親は抱きしめ、自分は子供の『完全な味方』で
あることをはっきり言ってあげ、学校へ行かなくていいということを自信を持って子供に言ってあげること
である。のんびりとカッコいいことを思わないでほしい。閉鎖的な空間での一対大勢の恐怖を自分も子供の
身になって想像してほしい。ひょっとして一刻を争うことなのだ。

そして親は自分の仕事を一時中断して、子供を守ってやってほしい。会社なんて休んだって、本当は
誰かが貴方の代わりをしてくれるものだ。会社などよりも自分の血を分けた子供の方が大事に決まってる
ではないか。子供と一緒に静かな闘いを始めてやってほしい。
『学校に行かなくていいんだよ。私と一緒に居よう』と言ってやってほしい。

『今日できること』はこのことしかない。今なら間に合うのだ。明日はもう遅いかもしれない。




              
      猫も人間も最後の最後、子供を守れるのは親

              











2006年10月21日  あなたにも神のお恵みがありますように

     


とにかく、テロや暴動に会うことなくなんとか昨日バンコクからバリに戻ってきた。
神のお恵みがあったのかもしれない。昨年はちょうどバリに着いた日にテロがあったので
気にしていたのだが、とにかく何事もなくてとりあえずほっとしている。

しかし、今回からビザに関する規制が厳しくなり、外国人の長期滞在が一層難しくなってきた。多くの外国人が
泣く泣く出国していった。
私も今までのビザでは上手く行きそうにないので、12月頃に一度近くの海外に出てビザを変更してくるつもりだ。


神のお恵みで思い出したが、今日は日本ではBSで第35作「寅次郎恋愛塾」が放送されるのだろう。
あの作品の江上若菜さんは素敵な人だった。見た目はひょろっとキャシャだが中身は一本気な性格で、
野球が上手くて、浴衣が似合って、行動力もある。
なによりも樋口可南子さんは美しい…。そして彼女は近年どんどん美しくなっている。

樋口さんで一番思い出すのは「阿弥陀堂だより」である。あの映画で彼女は何かを掴んだと私は見ているのだが
どうでしょうか。近々その「阿弥陀堂だより」も紹介しようと思っている。



               



そしてこの「恋愛塾」はポンシュウこと関敬六さんが大活躍する作品でもある。

長崎県、上五島での顛末はなかなか見ごたえがある。

はっきりポンシュウと何度も寅から呼ばれ始めるのもこの頃から。
 
寅「おいポンシュウ!ここどこだ?」

ポンシュウ「九州だろう?」

この物語では焼酎を一気飲みしたり、タコの料理をしようとしたり、歌を歌い、踊り、墓を掘り、教会の燭台を盗み、
教会で懺悔と奉仕の日々と、もう大活躍。


上五島 (中通島)

寅とポンシュウは一人の老婆と縁ができる。それが若菜さんのおばあちゃん。

ポンシュウ「もったいないことしちゃった
       焼酎一気飲みしちゃった」

ポンシュウ「板前の修業したことあるんだよ」


そして夜、

若菜さんのおばあちゃんの家で
あの何とも不思議なポンシュウの歌と踊りが始まるのである。

おばあちゃんにとっては生涯の最後の夜であり最後の宴。


このポンシュウの踊る影に神様の気配を見たのは私だけではないだろう。


ポンシュウ「♪あ、それェ、あ、それェ!

       杯に映る明りを
       飲み干して、
       今宵も歌おうよ 
       我が友よ〜

       楽し さわぐ酒の中から
       浮いてくるくる
       酒の中から 
       どんとどんとどんと!♪


           杯に映る明りを、飲〜み干してェ〜
            


このポンシュウの歌と踊りには『白魔術』の気が間違いなく入っていた。
見る者聴く者の心を解きほぐしてくれる力があった。
おばあさんに対しての最後の日のはなむけのために神様がポンシュウの姿を
借りて歌い踊ってくれたのだ。

ポンシュウはあの踊りの時神聖な神様だった。嘘のような本当の話。

「寅さん、じゃったね…。
あなたにも神様のお恵みがありますように…」

その深夜 おばあさんは寅に見取られながらロザリオを握り締め天国に召された。


そして、翌日おばあさんの墓を掘ってやるポンシュウと寅。
久しぶりの汗を流した肉体労働のあと
おにぎりを美味そうに食べる二人。

ポンシュウ「うめえなあ!」

寅「働いた後だからな。
  労働者ってのは毎日美味い飯食ってるのかもしれねえな」

ポンシュウ「そうだな」

久しぶりに充実した日々を送る寅とポンシュウ。


           


しかしそのあとが悪かった。

宿で若菜ちゃんのことをめぐって大喧嘩。

ポンシュウ「しかしいい女だったな〜 あの孫娘。
       喪服着た女ってのはたまらねえな。なあ寅」

寅「…。オレはおめえと一緒の旅はやめてえな」

ポンシュウ「あ〜??」


寅「仮にだ、おまえが死んで葬式の時、
   お前の娘が喪服を着てボロボロ泣いてるのを、
   どっかの助べえ野郎が『いい女だなあ』
   そう言ったら、棺桶の中にいるおめえは腹が
   たたねえのか?

ポンシュウ「へへへ、そんなたまじゃねえや。
       オレが死んだって涙なんか流すもんか
       あのバカ娘は!」

(ポンシュウに娘がいたことがわかる!)

タオルを投げつける寅

ポンシュウ「な、なにすんだよ!」

寅「親の死を悲しまねえ娘がどこの世界にいるんだ!
  てめえそんなこと言ってるとバチが当たるぞ!」

ポンシュウ「へ、偉そうな口ききやがって、悔しかったら
       娘持ってみろ!なんだい、女房も持てねえくせによ!」

寅「それを言っちゃおしめえよ!てめえの面は二度と見ねえ!」


と宿を出ていく。

ポンシュウも怒って階段を下りていった寅に

ポンシュウ「おめえまたあの娘に惚れたのか!
       いい年こきやがって!へッヘェー!!」


そして物語は起承転結し、ラストシーン。


上五島 青砂ケ浦教会

そして寅はラストで、もう一度懐かしきあの上五島町奈摩郷小字青砂ケ浦
の小高い丘を切り開き、奈摩湾に臨んでそそり立つ煉瓦造りの青砂ケ浦教会を訪れる。
ここは若菜さんのおばあさんのお葬式が行われた場所だ。


神父さん「ポンシュウさあ〜んお迎えが来ましたよ〜!」

寅「???」


へとへとに労働やつれしたポンシュウがなんと教会にまだいた。

ポンシュウ「寅!寅じゃねえか!」

寅「なにやってんだおまえ??」

ポンシュウ「聞いてくれよ」

ポンシュウ「墓掘ってからよ、全く運が落ちてよ、全然稼ぎにならねえんだ。
       つい、でき心でこの教会忍び込んで銀の燭台盗んで、
       御用なっちまったんだ」



           



寅「なんてことするんだこのバカ!」

ポンシュウ「警察にやってきたあの神父さん、なんて言ったと思う。
       『この燭台はこの人が盗んだものではありません。
        私が差し上げたものです』
       それ聞いてよ、さすがのこのオレも心を入れ替えて
       恩返しでここで働いているんだ。

それってユーゴーの「レ.ミゼラブル」のパクリだよ(^^;)


寅「…」


寅ポンシュウの耳をひっぱって

寅「こっちこい」

ポンシュウ「あたたた  なにすんだい」



寅「神父様 ありがとうございます。
  どうぞこの男を一生奴隷としてこき使ってやってください」

ポンシュウ「…!」

十字をきる寅

寅「ありがとうございます」

ポンシュウ「!!お、おい!それはないよおめえ、
       いままで一生懸命務めてきたんだ。
       このへんで帰してくれるようにおめえからも頼んでくれよ、な」

寅「ポンシュウさん...、」

ポンシュウ「え?」

寅「あなたにも神のお恵みがありますように。

   さ や う な ら 」(^^;)

と、十字をきる寅

追いすがるポンシュウ。

ポンシュウ「冷たいこというなよ寅 頼むよ頼むよ!」


              


テーマ曲高鳴って


「終」



と、いうことで、第35作「寅次郎恋愛塾」は小粒だが、なかなか見所も多い楽しい作品だ。
















2006年10月13日  真実一路の旅をゆく      



いやはや、多忙な10日間だった。ほとんどパソコンの前に座れなかった。
とにかく仕事の全日程がようやく終わった。どの展覧会も最低予想を下回らなかったのが救い。
なんとか次の1年も生きてゆけそうだ。

明日富山を発ち、大阪の実家に向い、15日に関西空港からバンコクへ
向う。そして19日夜にバリに戻る。

ようやく今夜、「男たちの旅路」の2作目「路面電車」を書こうと思ったが、そろそろ寝なければ
ならない時間となった。「男たちの旅路」の続きはバリに戻ってから書きます。すみません。

明日は大阪に行く途中、滋賀に立ち寄り、「青山二郎展」を見に行く。昭和の最大の目利きである
青山二郎の全仕事が今回展示されている。こんな機会は滅多に無いであろう。行くしかない。
信楽のどえらく山深い中にあるMIHOミュージアムはたどり着くだけでもたいへんな道のり
なのである。だから明日は早朝に出なくては…。

ところで、次回BS2の「男はつらいよ」は確か第34作のはず。「寅次郎 真実一路」だ。
私はこの題名が好きである。牛久沼に住むスタンダード証券の富永課長の自宅に
泊まってしまった寅が、翌朝妻のふじ子さんとご対面するのだが、その時壁に
掛かっていたのが

 
真実諦めただひとり
  
真実一路の旅をゆく

  
真実一路の旅なれど
  
真実鈴ふり思ひだす


という北原白秋の「巡礼」の詩。

作家の山本有三が書いた「真実一路」にもこの白秋の詩は引用されているので
そちらのほうが一般的には有名かもしれない。


白秋もこの当時、道ならぬ恋で悩んでいたらしいから、この詩は寅のその後を暗示するようで、
とても興味深いものがある。人妻に恋をしてしまう寅は現代の「無法松」だ。「オレは汚ねえヤツです」は、
無法松そのもの。そしてしだいに失踪した亭主が帰ってこないことを密かに考えてしまう恐ろしい寅の心。
膨らんでしまったその闇の心を振り払うように旅に発つ寅。真実一路の旅。

不倫に陥ることなく、正に真実を貫くために熱き気持ちを奥に隠して、潔く孤独を行く寅の姿に、
見る側の私たちはどこかでほっとしたはずだ。

それにしてもこの物語の大原礼子さんにはぞっとさえするような大人の色気を感じる。
第22作「噂の寅次郎」ではまだ開花しきっていなかった美しい花がこの「真実一路」では
見事に花開き、私の心をクギ付けにさせてしまった。これは作品のよさとはまた、別の問題ではある(^^;)
あの声、あの瞳、あの立ち振る舞い。ほんと寅が道を踏み外す気持ちが分かるよ(^^;)



            




次回はバリに戻った10月20日過ぎに書きます。











2006年9月21日   警視庁捜査一課 今西刑事よ、永遠なれ    


丹波哲郎さんが亡くなられた。ここ数年持病の心臓病があり、大変そうだったが、やはり…と言う感。
残念だ。そしてやっぱり淋しくてしかたがない。

山田洋次監督の「十五才.学校W」での「バイカルの鉄」は忘れがたいキャラクターだった。
「たそがれ清兵衛」でも清兵衛を叱咤する頑固伯父で、存在感のある演技をされていた。

それ以外で印象深いのは大河ドラマの「利家とまつ」だ。 佐々成政の重臣、
井口太郎左衛門で、なんとも渋く、メリハリのある演技が光り輝いておられた。

殿である成政に
「一寸先は闇、一寸先は光でございます」
と言った彼のセリフは今の私の座右の銘になっている。


まあ、私くらいの年齢の人々にとって丹波さんと言えばまず思い浮かぶのは
なんと言ってもテレビの超人気番組だった「Gメン75」なんだろうが、私にはやはり
映画「砂の器」の警視庁捜査一課の今西刑事だ。

何を隠そう、今までの人生の中で映画館まで足を運んで観た「邦画」の中で、最も観た回数が
多かったのがこの「砂の器」なのだ。封切り時、私はまだ中学生だったが、少ない小遣いを
はたいてこの「砂の器」を何度も見に行った。当時は家庭ビデオも何も無い頃で、
何度も見たければそれはもうリバイバルを探して遠くの映画館まで見に行くしかなかったのである。
中学生ごときであのようなシリアスな映画を見ている人はあまりいなかったが、私は我が道を行くで、
ちょっとかんばって一人で観に行った。高校生になっても幸いこの映画は根強い人気が続き、
ちょくちょく名画座などで放映してくれたお陰で合計10回以上は映画館で観たと思う。
映画館で上映していない時はサントラ盤のLPレコードを聴いていた。そのレコードには役者さんたちの
セリフもかなり入ってあったので少しは臨場感が味わえたのである。


橋本、野村コンビによる力強い構成力、粘り強く組まれた緻密さ、そして映画独特のダイナミックな広がり…。
映画というものの面白みを全部見せてくれた映画で、スタッフたちとキャストたちの過剰気味(^^;)
ともいえるあの熱気が、観ている私にもグイグイ迫ってきて何度観ても圧倒される奥が深い映画だった。
日本映画もタイミングが合うとこんなにも大きな広がりのある映画ができるのかと当時も子供ながらに
驚嘆していた。


それにしても、暑い中、東北を捜査しながらさりげなくできたての俳句をメモに書いている丹波さんは
実直でちょっと涼やかで、素敵な存在だった。



 北の旅 海 藍色に 夏盛り 』



この映画は脚本家橋本忍さんの一生一品。
野村芳太郎監督の一生一品。
本浦千代吉役をされた加藤嘉さんの一生一品。
丹波哲郎さんの一生一品。
音楽家芥川也寸志さんの一生一品。
子役だった春田和秀さんの一生一品でもあろう。
そして出番は少ないが緒方拳さんが人のいい三木巡査を見事に演じていた。
緒方拳さんの味わいのある独自の輝きを最初に見たのがこの映画だった。

この映画の後半、千代吉、英夫の放浪シーンは美しく切なくそして悲しく見る私たちの胸に迫ってくる。 
私はこの本浦千代吉英夫父子が、雨が降り、凍えるような寒さの夕暮れ、火を焚いてお粥をふたりで
すすっているシーンが忘れられない。英夫は千代吉にお粥をはやく食べたいとねだる。その姿に
父親は息子が可愛くて思いっきり抱きしめてしまうのである。


ラスト近く、
名曲「宿命」とシンクロしながら映し出される千代吉の姿。そして英夫の写真を見て震え、絶叫するのだ。
この時の加藤嘉さんと丹波さんのやり取りは、この後私たちの間で何百年も語り継がれていくであろう
歴史的な名シーンだ。




             


ラスト


吉村刑事「今西さん…、和賀は、父親に会いたかったんでしょうね」

今西刑事「そんなことは決まっとる!今、彼は父親に会っている。
       彼にはもう、音楽…、音楽の中でしか父親に会えないのだ」

なんとも悲しい真実の言葉だった。


ちなみに、当時まだ若かった山田洋次監督も
橋本忍さんのアシスタントとして脚本にその名を連ねている。


あの映画の中、警視庁捜査一課の課長役の内藤武敏さんが会議の中で
「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」を「じゅんぷうまんぽ」と間違って言っているにもかかわらず、
なぜかNGにならずにそのまま映画の中で使われているので、当時の私はすっかり
「じゅんぷうまんぽ」だと思い、それから何年も間違いに気づくことがなくその後高校でも
何度か間違ったまま使った覚えがある。思いこみというものは恐ろしく、…恥ずかしい(^^;)
内藤武敏さんは、私が好きな画家である「鴨居玲」の絵を何枚か持っておられる。
鴨居玲好きなのだ。…ということで、あのことは、まあ、水に流しましょう(^^;)

そしてあの映画では「男はつらいよ」のキャストの人たちも当然何人も出られていた。
渥美さんも伊勢の映画館のオヤジ役で丹波さんとちょいとからんでいる。
笠さんや春川ますみさんも事件を解決する重要な証言をされていた。
タコ社長の奥さん役の水木涼子さんなどもちょい役で加籐嘉さんたちとからんでいた。


渥美さんがスクリーンにちょろっと出てきただけで映画館の中がパッと華やいだ雰囲気にいつも
なるのが嬉しくて楽しくてしかたなかったことを覚えている。



             



私はあの今西刑事さんの、ある種の「節度と礼儀」というものがしみじみ好きだった。
そしてあの「地道な粘り」に憧れていた。
彼は当時の日本人の美しさを確かに持っていた。
あのような人柄になりたいと映画を観るたびに思いつづけていたものだった。



警視庁捜査一課 今西刑事よ、永遠なれ。


謹んでご冥福をお祈りいたします。












2006年9月21日  「二十四の瞳」と「二十三半の瞳」

今回の日本滞在はいつにもなく多忙で、参っているが、それでもなんとか時間を
作ってDVDを深夜に見ている。木下恵介監督の作品をいろいろ見ていたが、
やはり「二十四の瞳」はすばらしい。
あんなに小豆島を美しく撮った人はいないし、あんなに子供たちの表情を美しく撮った
人もいない。そしてあんなに美しい高峰秀子さんもめったにいるもんじゃない。
高峰j秀子さんさんといえば成瀬監督の「浮雲」がダントツ魅惑的だが、
この映画の快活な大石先生もなかなかどうしてとてもチャーミングである。

そういえば、山田監督はこの「二十四の瞳」のラストに演出された同窓会
のカットをそのまんま第36作「柴又より愛をこめて」に使っている。
同窓会でのプレゼントの自転車も「ななつの子」の合唱もそのままだった。
山田監督はあの映画が好きなんだね。

まあもっとも「柴又より愛をこめて」の生徒たちは11人なので「二十二の瞳」。
あの時は途中で知り合った寅も入れてやっとこさ「二十四の瞳」になったわけだ。

寅「
あーそうかこれでオレ一人が入ると二十四の瞳になるわけだ。
  でもちょっと目がちっちゃいから二十三半ってとこだな


みんな大爆笑。


それにしても映画「二十四の瞳」に出てくる贈り物の「自転車」は素晴らしい
存在感を醸し出していた。あんな自転車今日本のどこを探してもないだろう。
古いという意味ではない。物としてとてもいいのだ。
「柴又より愛をこめて」のスマートで軽そうな自転車と比べた時に、
日本はいい意味でも悪い意味でもこのように変わったのだとしみじみ思ってしまった。


          
  「柴又より愛をこめて」の自転車
         



「柴又より愛をこめて」では当然ながら小学校の卒業生はみな健康で全員島へ
同窓会のために戻ってきていた。しかし「二十四の瞳」では貧困や戦争でたくさんの
教え子が若くして死んでしまうのである。男の子は大部分が戦死。生き残って帰ってきた子も
目が見えない…。そして戦後の苦しい日々。

戦後まもなく、生き続けること自体が大変だが、それでも仕事にリアリテイを持ちながら
物作りができた時代の職人さんによって作られた自転車が、それから30年経って、
衣食住が満ち足り、物が大量生産されている時代の自転車より存在感があるのは
考えてみれば当然なのである。

私が16年間住んでいるバリ島では今でも40年くらい前の自転車を直し直し乗っている
凄まじいおじいさんたちがかなり多いが、それがまた譲ってほしいくらいのいい味が出た
ヨダレもん黒光り自転車なのだ。手作りの良さと使いこんだ良さと、なによりも手入れの
良さが光る骨董のような姿かたちなのだ。最後はこの「手入れ」のクオリティでものが決まる。
心は物に宿る。

乗り物の中でも自転車は人間に近い。だからこそ独特の魅力を感じてしまうのだろう。
「二十四の瞳の」あの黒い自転車の存在感とあの映画の存在感はやはり繋がっているのだ。


           
「二十四の瞳」の自転車
         








2006年9月3日 八尾諏訪町通りを行く町流し

風の盆は町流しがいい。夕方にも流すし、真夜中にも流す。夜明け前も。大勢でも流すしたった一人でも流す。
私の住んでいる上新町から徒歩一分のすぐ隣町が石畳の諏訪町。日本の道100選の道がある。
この諏訪町を流す光景はなかなかのものがある。即興で油彩を仕上げてみた。
  
今回の風の盆では絵を結構買っていただいた。



                 諏訪町通りを行く町流し ー 越中八尾風の盆 ー  2006年 F4号 油彩

              








2006年8月30日  『風の盆』の季節がやってきた。


今年も私の自宅がある越中八尾町で9月1日から3日まで風の盆が行われる。もう前夜祭は当の昔に始まっていて、
今年もいろいろ取材した。本番は混むので取材どころではなくなってきている。で、前夜祭にスケッチや油彩を何枚も制作。
今年も自宅で展覧会を開催する。幸い雨が余り降らないのでどの町(11の旧町)も順調に前夜祭を成功させている。
で、私も順調に制作を続けてさせてもらっている。絵の質のほうは時間がたたないと冷静になれないが、まあいいほうかな。
今年は例年になくどの町も準備に気合が入っているように見える。9月1日、2日、3日の本番が今年は週末に当たっている
せいだろうか。

すでに2ヵ所展覧会が終わった。2ヵ所とも例年通りの成績。いや、昨年よりちょっとよかったかな。




                       編笠を背中にかける少女たち 2006年 P4号 油彩

                   










2006年8月22日 井上堯之さんという存在  「カーテンコール」


映画というものはまず、原作や脚本があり、演出があり、そしてキャストたちの
演技がある。しかし時として、その中のたったひとりの演技が平凡な映画に品格を与えることがある。

昨日見た佐々部清監督の映画「カーテンコール」もそのような映画だった。
時代設定やねらいは「ALWAYS 三丁目の夕日」に似ている。しかし「三丁目の夕日」の方が
構成力、物語の簡潔さ、力強さ、広がり(スケール)、エンターテイメント性などが秀でていた。

ただ、このカーテンコールの主人公安川修平(昭和の映画全盛の時代に映画と映画の幕間芸人として生きた人)の
晩年の役の方がただものじゃない存在感だった。いかにもという感じの説明的な存在感ではなく、実にひょうひょうとして
いるのである。実はこの方は役者さんではなかった。あの、もとスパイダースのメンバーであり、井上堯之バンドのリーダーの
井上堯之さんだった。

まあ、はっきり言って役者としては彼はほとんど素人だろう。彼の出番は最後の方。つまりさほど多くない。しかしその全てにおいて
なんともいえない柔らかな表情が漂い、あの独特の歌声で「いつでも夢を」を歌われた。

私は実はなんの予備知識もなかったので、最初この老人がどなたか分からなかった。どこかで見たことのある顔なのだが、
こんな柔らかな表情が出せる役者は誰なのだ?イメージを温める時間の許されない今の日本の役者さんにはこんな表情の
方など渥美さんや笠さん、宇野さん亡き後もうどなたもいないし、存在の基盤すらないはずだが…、と驚愕しながらも、誰かは
思い出せないままだった。それで見終わった後気になったので調べてみると、あの音楽家の井上堯之さんだったのだ。

以前から書いているように、役者として素人だからというだけでいい演技ができるほどこの世界は絶対甘くはない。
しかし、役者ばかりやってきたからといっていい演技ができるほどやはりこの世界は同じく甘くはないのである。
これは芸の世界全てにあてはまる恐さなのである。

渥美さんを、そして笠さんを見れば分かる。あれが役者だ。
つまり、役者は膨大な日々の生き様が、そして隠された日常が露出してしまう恐ろしい職業なのだ。
私は井上堯之さんのここ20数年を全く何も知らないが、彼の日々の活動の中でギターや歌が彼自身の心を
洗い続けていたことは間違いない。そうでないとああいう表情や歌声は絶対に出せない。

私は残念ながら井上さんがこの映画によってどれくらい評価されたかは全く知らない。だいたいこの映画自体が説明的な部分や
消化不良な部分、構成的に弱い部分が目立つゆえに映画自体の評判が悪そうだ。ましてや井上さんは出番が少ないので、
『あの人いい味出してたね』程度で終わっている気もする。しかし、一方で密かに私と同じようにラストの彼のなんともいえない
穏やかな表情に心を打たれた方は実は多いのではないだろうか。
藤村志保さんの落ちついた温かみのある演技や鶴田真由さんのラストの迫真の演技はとても光り、これらも心に残ったが、
やはりそれらはギリギリでは所詮は私の予想や過去のデータ―の範ちゅうにあるものなのだ。
しかし、井上堯之さんのラストの「姿」には参った。それこそ心を揺さぶられた。


鶴田さん扮するみさとさんと30年ぶりに再会した時の井上さんのあの表情は演技どうこうでなく井上堯之さんの人生が出ていたと思う。
この映画の陰のテーマであり、実はこれこそが本当のテーマであるところの「宿命としての親子の情愛」の表現に成功したとするならば、
ラストの井上さんの表情が全てだったといってもいい。

その昔山田太一さん脚本、笠さん主演のテレビドラマ「今朝の秋」で、ラストに蓼科で杉村春子さんを見送る笠さんの表情は絶品で、
あれが日本の俳優さんが成しうる最後の到達点だと確信したことを今思い出していた。


これだから芸術は怖いのだ。演技をする前からすでに勝負はついているのだから。

歌うたいも絵描きも歌う前に描く前に勝負はほぼついているのだ。人生はどこまでも厳しく正直だ。






                 










博士
2006年8月11日 快適な暑い日本に降り立つ  ― 『博士の愛した数式』 覚え書き ―


8月5日に関西空港に降り立った。外に出るとモワッと熱風が吹いていた。35度くらいはあったと思う。
あとで聞くところによるとここ1週間は天候が不順だったのだが4日あたりから急に暑くなったそうだ。そういえば、みんな
喘ぐように息をしていた。私は平気である。建物の中でエアコンなどが効いていると、すぐに長袖を着る。暑いのは苦ではない。
つい先日まで、肌寒いバリ島にいたのだ。何度でもどんとこいという気分だ。もちろんエアコンは私のアトリエがある富山の自宅には
ない。扇風機はあるがほとんどつけない。どんなことがあっても肌寒いよりマシである。

仕事の合間をぬって昨年同様深夜は新作のレンタルDVD三昧である。で、その中で『ALWAYS.三丁目の夕日』はなかなか
作りが丁寧で気持ちがたっぷり入った佳作だった。見て良かった。そしてもうひとつすがすがしい静かな感動に包まれたのが
『博士の愛した数式』だった。

これは『美しい映画』だった。美しく見せようとしている映画は古今東西今もごまんとあるが、美しい映画はほとんどない。
以前『阿弥陀堂だより』を見た時もこの種の感慨があった。繰り返し見るに値する作品とはこのようなものなのだ。私は一発で虜に
なってしまった。

そして原作をすぐ買って読んだ。
無駄のない構成、省略の妙、日本語を知り尽くした自信に満ちた、しかしとても謙虚な文章。綴られた言葉はどれも美しいとしか言いようの
ない。その原作の清澄な香りを見事に映像化することに成功した小泉監督とその仲間たちの鋭敏な感覚に今回も脱帽。
こんなにも物語を読み進めることが楽しかったことはここ数年なかったし、こんなにも映画が終わってしまうのが切なかったことも
ここ数年なかった。3年ほど前に見た『裸の島』以来だ。『博士の愛した数式』は『珠玉』という言葉がぴったりな「宝物」がたっぷり入った
小説であり、映画だった。

この作者さんの小川洋子さんは、山下和美さんのマンガ『天才柳沢教授の生活』を読んでいたのかもしれない。
昔からの『天才柳沢教授の生活』の熱烈なファンである私にとって、この『博士の愛した数式』の博士には柳沢教授とだぶるものを直感した。
小川さんはなんて言うか分からないが、実際影響を強く受けていることは間違いないだろう。


映画のキャストではなんといっても深津絵里さんがなんとも素敵だった。素直さと謙虚さ、絶え間ない好奇心の発露が時に淡く、
時に大きく輝いていた。これは間違いなく彼女の当たり役だとこれまた直感できた。彼女は役に出会った目をしていた。
吉岡秀隆さんや寺尾聡さんはさすがに自分の持ち味を十二分に出し切っていた。それにしても浅丘ルリ子さんの存在感は並外れていて
美しい着物姿がゾクゾクするほど艶やかだった。なによりもセリフを発するあの口跡がすばらしい。そしてなによりもあの『姿』。あれが役者だ。
彼女があの物語の要をしっかり支えていたのは言うまでもない。浅丘さんのような役者さんは滅多にいないだろう。
音楽の加古隆さんの気品のある曲、そしてソプラノを聞かせる森麻季さんの声。これらも見事にはまっていた。


それにしても小泉堯史監督の波長と私の波長は合うのだ。『阿弥陀堂だより』はもうそれこそ何十回と見ている。
この『博士の愛した数式』ももちろんすぐDVDを購入した。



下に物語の覚え書きをちょろちょろっと記します。
時に小説、時に映画と混ざり合い、私にとってのひとつの大きなイメージを狙いたい。






博士の愛した数式  

小説and映画混ぜこぜ  抽象的覚え書きノート(イメージ)


あくまでもイメージ重視(抽象)ノートなので物語があちこち飛ぶことをご了承下さい。


信州在住(小説では瀬戸内)の派遣家政婦でありシングルマザーである「私」と、彼女の10歳になる息子「ルート」、
そして派遣先である母屋の離れに住んでいる初老の「博士」の三人によって密かに築きあげられていった日々の
静かな営みとその心の襞を丁寧にそして謙虚に四季折々の風景の中で写しだし、紡ぎだした真実の記録が
この小説であり、この映画だ。

「博士」はイギリスのケンブリッジ大学の博士号をとったほどのすぐれた数論専門の大学教授であったが、47歳の時、未亡人である
兄嫁との密会の旅の最中に巻き込まれた交通事故で脳(おそらく海馬)に損傷を受け、それ以来、80分しか記憶を保つことができなく
なってしまっていた。そのため、博士を相手にする者は何度も同じことを繰り返し説明しなければならず、また何度も博士から
同じようなことを聞かなければならない羽目に陥ってしまうのだった。しかし彼は1975年までの記憶は全く侵されていない。
そして、それゆえ彼の古い記憶は常に1975年で止まったままだ。


小説では、全体の語りは、家政婦である『私』に委ねられている。
しかし、映画では、博士に親愛を込めて√(ルート)と名づけられた10歳の少年が、数学の教師となり、
ある年の新学期の教室で、自己紹介ということで、博士との不思議な出会いと体験したできごとを「数学概念」の
説明とともに、生徒に優しく語り始めるという設定になっている。



素数を愛した人

ところで

博士は初対面の人(80分を過ぎればみんなリセット。よっていつも初対面)に対し、その不安からくる緊張を避けるために
自分のためにも相手のためにもさまざまな数字の話を必ずするのだ。



博士「君の靴のサイズはいくつかね」

私「24です」

博士「ほう、実に潔い数字だ。階乗だ」



博士「君の電話番号は何番かね」

私「576の1455です」

博士「576万1455だって?素晴らしいじゃないか、一億までの間に存在する素数の数に等しいとは」



授業中のルート

ルート「素数の『素』は素直。何もくわえない本来の自分と言う意味。この素数は夜空に光る
   星のように無数に存在します。現れ方はいかなる法則にもあてはまらない。私はここ。独立自尊。
   なんとも潔く妥協せず孤高を守り通している数字。
   博士がこの世で最も愛した数字。それが『素数』です





博士「誰よりも早く真実に到達するのは大事だが、それよりも証明が美しくなければ台無しだ。
   ほんとうに正しい証明は一部のスキもない完全な強さとしなやかさが矛盾せず調和して
   いるものなんだ。何故星が美しいのか誰も証明できないのと同じように、数学の美しさを
   証明するのも困難なんだ。


博士「直感は大事だ。素直に直感で数字を掴むんだよ





博士 「284約数の和220。 220約数の和284。…友愛数だ。

私「友愛数?

博士「神のはからいを受けた、絆で結ばれた数字なんだ


博士「美しいと思わないかい?君の誕生日僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェ―ンで
   繋がっているなんて





            





博士「子供の頃からタイガース」
私「私も息子も大の阪神タイガースのファンなんです」(偉い!)


彼が大好きな江夏豊の背番号は28

28完全数だ。

博士が忘れないために袖にくっつけている新しい家政婦さんの似顔絵は最高だった。
なぜか似ている。原作ではもっとへたくそな絵ということになっていた(^^;)


子役のルート(√)少年は幼き日の吉岡秀隆君そっくり(^^)

博士は彼に『ルート』と名づける。(頭が平たいので)

博士「これはなかなか賢い心が詰まっていそうだ。いいかい、君はルートだ。
   どんな数字も嫌がらずに自分の中にかくまってやる。実に寛大な記号ルートだよ


これらの言葉は当然毎回繰り返されることになる。






寂しい心が支配し、博士がその昔書いた手紙を読む未亡人である兄嫁


博士の文字

子供たちの元気に遊ぶ姿を見るにつけ古い歌を思い出します。

人の子の遊ぶをみればにはたづみ
流るる涙とどめかねつも

僕の心は

のπi乗=−1です。

この数式が永遠に−1であるように宿した命の一滴を
を取り戻すことはできないでしょう。
道を踏みはずした二人に、もう手を取る友達はありません。
不幸を共に悲しむ。そうありたいと願っています。

愛するN へ






『私』と博士のはじめての散歩

博士「「数学に最も近い仕事は農業だよ。
    土地を選び、耕し、種を蒔いて育てる。
    数学者もフイールドを選び、種を蒔けば、あとは一生懸命育てるだけ、
    大きくなる力は種の方にあるんだよ






ルートと博士の会話

博士「いいかい、問題にはリズムがあるからね。口に出してそのリズムに乗っかれば
   問題の全体を眺めることができるし、落とし穴が隠れていそうな怪しい場所の
   見当がつくようになる





ルートの授業

ルート「いつ、どんな場合でも博士が求める物は正解だけではありませんでした。
    博士はどんな愚かな袋小路に落ちこんでしまっても、必ず何かいいところを見つけだし、
    そして誇りを与えてくれた






ある日『私』は28の約数を全て足すと28になることを発見し、博士に言ってみる。

私「あのー、私の発見についてお話しても構わないでしょうか」

博士「…」

私「28の約数を足すと28になるんです」

博士「ほう、完全数だ」

私「完全数?」

博士「完全の意味を真に体現する貴重な数字だよ。デカルトはね、完全な人間がめったにいないように完全な数も
   また稀だ、と、言っている。この数千年の間に見つかった完全数の数は30個にも満たないんだよ」

私「たった30個ですか」

博士「うん。完全数28は阪神タイガース江夏豊の背番号なんだ」





ルートの授業

ルート「この完全数の性質をもうひとつ示してみる。完全数はね、連続した自然数の和だけで表すことが出きるんだ。

28=1+2+3+4+5+6+7

この完全数は今でも神秘のベールに包まれている。

究極のバランスを身につけた美しい数だ。





博士とルートが滝のそばで会話

ルート「じゃあこの葉っぱも1でしょう」
博士「そう、その葉っぱだって1枚だ。あの、葉っぱがたくさん集まっている杉の木だって1本だ」
博士「全体が一つで枯葉なんだ。ルートも全体で1。一つの中に全体が調和していて美しい。
   良いこととはそういうことなんだよ





私「永遠の真実は目に見えない。心で見るんだって…




台所

私「あのー、何かご用でしょうか」

博士「君が料理を作っている姿が好きなんだ」

博士「なぜそうやって肉の位置をずらす必要があるのだろう」

私「フライパンの真中とはじのほうでは焼け具合が違いますからね。均一に焼くためにこうやって時々場所を
  入れかえるんです」

博士「なるほど、一番言い場所をひとりじめしないよう、みんなで譲り合うわけか…。
   あー…なんて静かなんだろう



小説でも映画でも博士の心が感動し、高揚した時彼は必ず「なんて静かなんだろう」と呟くのである。





博士を今も愛する兄嫁
そして1975年、二人で見た薪能の夜で記憶が止まっている博士。

兄嫁当時のわたくしの姿がそのまま今も、
   これからも生き続けて行くのです


薪能の場面の収録日は5月11日12日、実際の興福寺薪御能の日と同じ。
ちなみに映画の後半、数学雑誌の懸賞の当選案内が来るのが同じく5月12日。
その直後に薪御能の場面が挿入されている。


阪神タイガースのエース「江夏」は「オイラーの数式」に匹敵する象徴。




『私』とルート、そしてみんなの約束

「その話は聞きました、って絶対云わない、って約束しよう」





         





『直線』を愛した女性 『私』


博士「本来の直線の定義には端がない。無限にどこまでものびてゆかなければならない。
しかし、現実の紙に、本物の直線を描くことは不可能なのだ


博士「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない

博士は自分の胸に手を当てた。虚数について教えてくれた時と同じだった。

博士「物質にも感情にも左右されない、永遠の真実は、
 目には見えないのだ。目に見えない世界が目に見える世界を
 支えているんだ。肝心なことは心で見る。

 数学はその姿を解明し、表現することができる。
 なにものもそれを邪魔できない



小説
空腹を抱え、事務所の床を磨きながら、ルートの心配ばかりしている私には、
博士が言うところの、永遠に正しい真実の存在が必要だった。
目に見えない世界が、目に見える世界を支えているという実感が必要だった。
厳かに暗闇を貫く、幅も面積もない、無限にのびてゆく一本の真実の
直線
その直線こそが、私に微かな安らぎをもたらした。


君の利口な瞳を見開きなさい



博士の言葉を思い出しながら、私は暗闇に目を凝らす。





兄嫁と『私』の軋轢

無意識に『私』に嫉妬を覚え解雇し、詮索する兄嫁。

未亡人「義弟はあなたたちのことを覚えることは1日たりともできません。わたくしのことは
    一生忘れませんけれども



私「私とルートにとって、博士と過ごすひと時は、ほんとうに大切な時間でした。
 それは80分に限られた記憶がたとえゼロになっても…はっ…
 『直線』、直線と同じ。
 目に見えない永遠の真実。そうなんだ、

 心で見れば時間は流れない
 
大事なのはこの今ではありませんか


博士は「僕には失うものはもうなにもない。
   ただ、あるがままを受け入れ、自然にまかせきって、
   ひとときひとときを生きぬこうと思う
」と兄嫁に呟き、


紙にある数式を書く。


のπi乗+1=0


涙を流す兄嫁。


そして…


ルートの誕生日11歳

博士「11...美しい素数だ。素数の中でもことさらに美しい素数だ。
   しかも村山の背番号だ



博士の懸賞獲得とルートの誕生パーティーの最中に、母屋から兄嫁がやってきて、
『私』に自分の胸中を打ち明ける。子供を宿し、そして産む勇気がなかったことも…。

兄嫁と『私』そして兄嫁と博士との間にもあった垣根がなくなっていった夜だった。


兄嫁「すべてまかせますわ」

兄嫁「(母屋と離れの間の木戸をは)この木戸は、これからはいつでも開いております


兄嫁はようやく呪縛から少し解き放たれたのだった。



オイラーの法則
のπi乗+1=0

これは単調関数である指数関数と周期関数である三角関数が、
虚数を取り込むことにより結びつくという、難解な数式。
もちろん映画ではイメージとして扱われている。

そして、この数式が、ルートの最初の生徒たちへの授業で、
示されこれが宇宙のバランスのなぞを解く重要な鍵であることが暗示されている。




は−1の平方根で、ルート−1 虚数。(Imajinary number)


ルート「虚数(i)の虚は虚心の虚、そして謙虚の虚。普段目に付くところには
    決して姿を現さないんだけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、
    小さな両手でこの世界を支えています。恥ずかしがり屋のi
    
 はに通じるんです。



そして問題は(ネピア数)

eはπと同じく循環しない無理数。無限の宇宙。


ルートはこう説明する。

πもiもeもひっそりと身を寄せ合って生きている。
これらは決して繋がらない。
でも、たった一人の人間がたったひとつだけ足し算をすると
世界が変わります。
矛盾する物が統一され…ゼロ つまり無に抱きとめられます。






        







小説では

『私はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、
決して正体を見せない虚ろな数が、簡素な軌跡を描き、一点に着地する。
どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπがeのもとに舞い下り、
恥ずかしがり屋のiと握手する。
彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が
一つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。全てが0に抱き留められる。
オイラーの公式は暗闇に光る一筋の流星だった。暗黒の洞窟に刻まれた詩の一行だった。
そこに込められた美しさに打たれながら、私はメモ用紙を定期入れに仕舞った』


博士「しかし、ゼロが驚異的なのは、記号や基準だけでなく、正真正銘の数である、という点なのだ。
最小の自然数1より、1だけ小さい数、それが0だ。0が登場しても計算規則の統一性は
決して乱されない。それどころかますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。

さあ、思い浮かべてごらん。

梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、
羽にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。
もはや梢には影さえ残っていない。ただ、枯葉が揺れているだけだ。

ほんとうにたった今小鳥が飛び去って行ったかのように、博士は中庭の暗がりを指差した。
雨に濡れ、闇は一層濃くなっていた。


「『1−1=0』 美しいと思わないかい?





終章そしてラストシーン

そして、同じく小説では、終章に、次のように描写されている。
(博士は病状がかなり進み海辺の施設で残りの生涯を暮らすことになる)

もう博士の記憶は1分たりとも前に進まなくなりつつあった。


「ルートは中学校の教員採用試験に合格したんです。
来年の春から、数学の先生です」
私は誇らしく博士に報告する。
博士は身を乗り出し、ルートを抱きしめようとする。
持ち上げた腕は弱弱しく、震えてもいる。
ルートはその腕を取り、博士の肩を抱き寄せる。
胸で江夏のカードが揺れる。

背景は暗く、観客もスコアボードも』闇に沈み、江夏ただ一人が浮かび上がっている。
今まさに、左手を振り下ろした瞬間だ。右足はしっかりと土をつかみ、ひさしの奥の目は、
キャッチャーミットに吸い込まれていくボールを見つめている。マウンドに漂う土煙の名残が、
ボールの威力を物語っている。
生涯で最も速い球を投げていた頃の江夏だ。
縦縞のユニホームの肩越しに背番号が見える。

完全数  28






映画のラストは博士がルートからあの日プレゼントしてもらった
江夏豊のウインドブレーカーを着、施設の浜辺でキャッチボールを
している姿で終わる。

遠くで二人の姿を見ている『私』と兄嫁


そしてウイリアム.ブレイクの言葉が添えられる。

一粒の砂に一つの世界を見

一輪の野の花に一つの天国を見

てのひらに無限を乗せ

ひとときのうちに永遠を感じる



そして

私はもう一度主人公の『私』が吐露した彼女の心を今最後に思い出している。


小説
『空腹を抱え、事務所の床を磨きながら、ルートの心配ばかりしている私には、
博士が言うところの、永遠に正しい真実の存在が必要だった。
目に見えない世界が、目に見える世界を支えているという実感が必要だった。
厳かに暗闇を貫く、幅も面積もない、無限にのびてゆく一本の真実の直線。
その直線こそが、私に微かな安らぎをもたらした。



君の利口な瞳を見開きなさい




博士の言葉を思い出しながら、私は暗闇に目を凝らす。




        




私はおそろしく静かで美しいこの小説と映画を生涯忘れないだろう。










2006年7月30日 出発前の大掃除と霊峰アグン山


私の家の近くの寺では8月2日から大きなオダラン(寺の記念祭)が大々的に始まる。ウブドの王宮近くでは
今月から来月にかけて大きなフェスティバルが開かれていて、毎日のように踊りや催しものが開催され、とても賑やかである。

そのような喧騒とは無縁の生活を送っている私だが、いよいよ明日バリを発つ。今回はバンコクにしばらく滞在し、
用事を済ませ、8月初旬に日本に帰国する予定だ。
荷物小屋を新築したので、今回の出発前大掃除は若干いつもの年より楽かな…。
それでも3人で夜遅くまで後片付けや移動作業を続け、ようやく本日片付いた。大晦日が近づくと日本ではどこので家も
「大掃除」などというものをするが、私の家はこの帰国直前が一年の大掃除の日々なのだ。丸々一週間かけて全部の
部屋と小屋を掃除し、片付けた。だから私にとっては今日が大晦日のようなものだ。

というわけで、明日からバリを離れるのでしばらくパソコンをいじれません。日本に帰って、しばらくしてからこの日記や寅さんなど
またいろいろなページを更新します。『寅次郎な日々』も本日7月30日更新の後は次回更新は8月6日
あたりになると思います。気長にお待ちください。

ただ、私の日本のノートパソコンはもう何年も瀕死の重症で、時々止まってしまう(^^;)
うまく更新できるといいのだが…。どうなることやら。


29日夕方、霊峰アグン山がくっきり見えた。縁起がいい。


それでは行ってきます。8月6日頃にまた書きます。




              










2006年7月17日 『猫の寝そべり部屋』建築の日々


私は、ほとんどものを買わない。服関係など、下着が破れたら買い換えるが、上着やシャツなどは全部で3枚か4枚づつ
持っているだけである。家族もそんなに物を買わない。しかし、唯一例外がある。それが『本』だ。日本でたくさん
買い込み、こちらへ持ってきて何度も読む。画集なども結構多い。あと絵がたいして売れていないので、売れない絵が
どんどん溜まる。キャンバスからはずして結構日本に持ち帰っているのだがそれでも溜まる。で、いよいよ4年前に建てた
荷物小屋が膨大な絵と本で手狭になってきた。遂に母屋やアトリエにまで本を入れたダンボールが押し寄せ始めたので、
思い切って、寝室の下の中2階に荷物部屋を増築する事にした。

ちょうど帰国が近づき、クソ忙しいのに、ダブルで忙しくなってしまったが、タイミングをはずすとまた先延ばしになり、
どの部屋も本が入ったダンボールでぐちゃぐちゃになるので、一気に作ることにした。しかし、私だけではさすがに難しい。
知り合いの大工さんに手伝ってもらいながら2週間かけてなんとか作った。

もともと寝室は伝統的なバリの超高床式の米倉を改造したもなので、いわゆる2階の高さで寝ている。で、その下の
中2階がずっと6本の柱と床だけで壁がなく、それゆえそのスペースには何も置かず、ずっとその空間は開いていたのだ。
そこでその中2階部分に木を縦横に打ちつけ竹で編んだ壁を中外に2重に貼り、観音開きの小さなドアを3箇所に作って、
電気を呼び寄せ、電燈ととスイッチを作り、10uの荷物部屋が完成した。中2階なので湿気もあまり来ない。

事前にパソコンを駆使して完成予想図を作ったせいであまり決定的なミスもなくまあまあの仕上がりになったかな…、と思う。
息子が、虫除けのニスと、雨よけのニスを中外に3度塗りして完成。材料や人件費は安く上がった。
16年間の経験とこの敷地の家を一から大工さんたちと一緒に建てた経験がものを言い、もっとも安い方法で造ることができた。
3万円くらいかな…。

日本でこのような仕事を大工さん任せにするとおそらく少なくても30万円!くらいは当たり前のように取られるのではないだろうか。
このバリでさえ、外国人が相場や人件費や材料費が分からないまま同じものを造ろうとすると10万円くらいの費用がかかってしまう。
なにごとも長く住まないとできないことがあるのだ。私の場合は材料はもちろん大きな材木から、釘まで全て長年の付き合いのある
店たちから現地価格で私が直接買う。そして私が家まで直接運ぶ。
私を手伝ってくれる一人の大工さんも前のアグンライの親戚の方で、近所でよく知っている人。日当も当然現地価格。

なによりも何をどう作ればどうなるか、ということが頭に入っていないと、必ずおおきなロスが生まれるので、材料集めの段階から、
最後のフィ二ッシィングまで、自分の中で完成イメージがしっかりできていないといけない。ここがポイント。

難しい観音開きの3つのドアは大工さんに任せるが、あとは自分も一緒に作る気持ちがあれば、なんとかなる。

しかし、荷物部屋のことで頑張りすぎたのと、寒さが厳し過ぎたので、さすがにちょっと体調を壊してしまった。もう無理が利かない
年なのかなあ…。哀しいことである。30代の頃はこれくらい平気のへだったのに…。だんだんいろんなことができなくなっていく
のかもしれない。その代わり人生経験と人間関係、知恵などを総動員してそれをカバーしていくのだろう。まあ、うまくできている。

うちの猫たちにとってはその荷物部屋は居心地がいいらしくて、ドアを開けるといつもかたまって中で寝そべっている。猫にとっては
自分たちの『寝そべり部屋&惰眠むさぼり部屋』を増築してもらったことになったようだ。彼らはラッキー!






                  ここ1ヶ月は寒くて夜は毛布を首まで被って寝ている。月も寒そう。

                 











2006年6月30日 枯葉散る秋の気配のバリ



先日から始まったアトリエの雨漏りは一番高い部分なので、私一人の世界では無理。他の屋根ならともかく、
このアトリエは3階建ての高さに近く、建築様式もササック様式といって、雨季対策として側面が急激に垂直に
作ってある。なかなか雨漏りがしないのだが、いったんし始めると修理がしにくいのだ。
特にこの屋根は高く、この村で最も長いはしごを使ってようやく登れるしろもの。そこでこの村の木登りの
職人さんに来てもらって、とりあえず萱の上にゴムのシートを被せてもらった。とりあえず一安心。

で、修理したした次の日からもう1週間激しい雨は降らず、なんだか拍子抜けしてしまった。しかしまあ、
あまり降られてもいい加減にしてくれと言いたくなるので、これでよし。

しかし、ここ2週間で気温はかなり低くなってきた。熱帯雨林といえども微妙に南半球にあるのでやはり
7月、8月は寒い。日中は晴れた日でも25度Cくらい。夜は下手をすると20度Cを切りそうになる。
日本に住んでおられる方は、これを読むと、なんだちょうどいい気温じゃないか、寒くも暑くもない。
っておっしゃるだろうが、雨季の間は昼は28〜30度C、夜でも25度Cはあったので、5度も気温が下がると、
皮膚がついていけないのだ。16年間も熱帯に住んでいると20度Cを切る気温は耐え難い(^^;)ゞ

だから日本の11月から3月末までは帰国できないのだ。たぶんすぐその日のうちに風邪をひいてしまうと思う。
7年ほど前に従兄弟の結婚式のために3月中旬に帰国したことがあったが、1日でやはり風邪をひいてしまった。
結婚式までには風邪は治ったが、二度とあんな寒い季節には帰れない(^^;)ゞましてや冬などもってのほかだ。
だからもう10年くらい日本での正月を知らない。息子はほとんど日本の冬そのものを知らない。ヒマラヤ中腹の
腰まで積もった雪や剣岳の雪渓は知っているが、平地にしんしんと降り積もる雪を彼はほとんど知らない。
かわいそうだなと思うが、それも人生かな、とも思う。

で、ここ数週間で敷地に落ち葉がたくさんできたので、かき集めて焼き芋を焼いた。この季節になると
焼き芋は恒例になっている。近年は日本の「サツマイモ」がバリ島でも手に入るので日本の味そのものの
焼き芋が味わえるようになった。

そういえば、この前スーパーに行ったら、なんと柿が売っていた。それも安い!聞いてみるとなんとバリで
作っているらしい。おおお、と感動してとりあえず1sほど買ってみる。ああ、懐かしい日本の柿の味がした。
得した気分!このようにバリは日本人のニーズに応える食材がどんどん増えてきている。
ほんとに住みやすくなったもんだ。その分森やジャングルの『気』が少し弱くなったかも。
まあ、私は軟弱なので、このへんのバランスが最近では心地よい。あまりプリミティブなのも疲れるものだ(^^;)




                   ほとんど垂直の屋根は木登り名人のみが修理可能
               











2006年6月15日 オリンピックの常連さんとワールドカップの常連さん



ここ数日久しぶりに雨が続いた。
乾季で2週間ぐらい一滴も降らなかったのでまあたまにはいいだろうと、思っていたら、
なんと、アトリエが雨漏り…何で今頃(TT)。雨季に散々雨漏りしてイタチごっこで直しまくってやれやれと思っていたら、
またもや…。私のアトリエは高床式でかつ2階なので屋根が相当地面から高い。あ〜直すのが大変だあ…。
いやになっちゃうよもう。

それに追い討ちをかけるようにここのところ染織関係の仕事のことでも忙しい。絵の売り上げだけではここ数年はなかなか
生活できなくなっているという厳しい現状の中、副業で染織工芸のオリジナルデザインとその展覧会などをしているのだが、
私のアトリエがある富山県越中八尾町の「風の盆」を織った経絣(たてかすり)やろうけつ染めを大小いろいろデザインして、
何枚も作ったりしているものだからこの日記もここ数ヶ月は毎回遅れがちになっている。(単なるいいわけです、はい)手紬糸、
草木染、手織り、にこだわった作品たちなので、手間隙かかるのだ。ましてや織ってくれる職人さんはインドネシアの
スンバ島のプリミティブな人々なので、まあいろいろごちゃごちゃと一筋縄ではいかなくて大変なのだ(^^;)ゞ 
で、ここ数週間は結構暗くなるまで時間がとられてしまう。



それはそうと先日のワールドカップの日本対オーストラリアをローカルの地上派で見た。私はこのサイトにも書いているが
高校時代に硬式野球をしていたので野球は日米のプロ野球を興味を持ってみているが、サッカーはほとんどやったことが
ないしそんなに見ることもない。Jリーグも時々しかテレビで見ない。それでも、いつかの小柄な大黒選手の電光石火の動きが
もう一度見てみたいし、巻選手の一生懸命くらいつくように動き回るあの若々しい姿も見たいなあって思ってはいた。
息子が日本を一生懸命応援しているので、よし!っと最初から最後まで試合を見た。

最初思ったことはあの競技場はなんだかいやに日差しが強くてとても暑そうだった。よくは分からないが日本はなんとなく
ぐずぐずしているなあ…ミスするなあ…最後の思いっきりが悪いなあ…なんて思っていたら、中村さんがなんとなくポワンっと
1点を入れていた。おおーっ!と感心していると、その後結構危ない場面が続出し、ゴールキーパーの川口さんが頑張って
何度も止めていた。あの川口さんって人は集中力があって気持ちが攻撃的でインスピレーションも高度にありそうで
上手いなあ…って感心して見ていたが、ちょっとタイミングが狂ってゴールがお留守になった隙に同点にされていた。あれれ?と
思っていたら、ちょっとみんなの落胆も手伝ってか心の隙間ができたようだった。動きがなんとなく悪かったのであの暑さで
体力の限界がきてしまったような気もした。その隙間で途中出場の相手の活きのいい元気な選手たちにあっという間に
結局3点も入れられてしまっていた。だいたい私が興味ある数少ない選手である大黒さんがちょっとしか出なかったのが
ちょっと不満。巻さんはいつ出るんだろうか…。特に大黒さんはなんとかする勝負強さがあると思うんだけどなあ…。
サッカーっていうのは、いろいろその時その時の作戦上の編成やそれぞれの選手の相性があるらしくてなかなか難しい
ということだそうだ。


前日にインドネシアの友人に聞いていた話しでは、日本の方が経験も豊富だし、テクニックも上手と言うことだったので、
この結果は意外だった。しかしWBCの時もそうだったし、この前の柔道の全日本選手権の鈴木選手もまさかの負けもそうだったが、
勝負ごとというのは何が起こるか分からないのだ。たぶんクロアチアもブラジルも「なんだァ日本は思ったより弱いな」、って今は
どうしても感じてしまっていると思う。そしてこれだけはいえる。諦めた奴は必ず負けるし、微妙に気が緩んだ奴も必ず負ける。
柔道の鈴木選手は優勢勝ち目前の残り10秒で、ちらっと遠くの時計をなにげに見た。この時に気が落ちてしまったのだ。

一寸先は闇、一寸先は光
、ということだ。


そのあとしばらくして今度はチェコとアメリカが戦っていたが、チェコの選手の
迫力、スピードはそれはもう凄かった。凄い攻撃力。
なるほどねえ、上には上があるもんだと感心してしまった。

ところで、日本ではサッカーワールドカップもさることながら夏のオリンピックがかなり盛り上がるようだが、世界的には
結構サッカーワールドカップのほうが盛り上がる国も少なくないらしい。夏のオリンピックだとアメリカ、ロシア、ドイツ、中国…
と昔からずっと経済的、政治的に力のある国がメダルをたくさん獲得しがちだが、サッカーワールドカップはブラジルを中心とした
中南米諸国やアフリカ諸国がヨーロッパのドイツやフランス、イタリアなどと互角もしくはそれ以上の戦いを平気で繰り広げている。
これはなかなか意外性があって面白い。さきほどのチェコもサッカーはかなり強いそうだ。昨日見た限りでは素人の私の目にも
彼らはそうとう力強く映った。そういえば前回2002年の時のトルコも「これが世界レベルというものだな」と私のようなものが
感じるほどどえらく力強かったことを今思い出した。そんなことを思い出しながら日記を書いているとなんだか今回もオリンピックの
常連さんとは違うある意味普段地味な国々も勝ち残りそうなので決勝まで時々見ようかなという気分になってきたから不思議だ。

私の住んでいるインドネシアバリ島ももちろんオリンピックよりもワールドカップが比較にならないほど関心が高い。
だいたい、インドネシアはオリンピック放送が地上波でどこも映さないという凄い国だ。とほほ。その代わりサッカーワールドカップ
は予選から決勝まで全試合!ほぼライブで放送している。この事実だけでもいかにワールドカップに熱があるかが分かる。






                     越中おわら風の盆文様経絣(下はその部分写真)
                   275cm×135cm ハンドスパン糸(綿)使用、草木染、手織り

                   








2006年6月4日 ショートアニメーション「寅の怪獣退治」


3日ほど前だったか、『寅次郎な日々』のギララの夢のことを書いた文章を息子が読んでいた。そのあとDVDで興味深く、
その夢の部分を再生し、見ていたので、こんなの何が面白いんだ?と聞いたら二昔くらい前のヘンテコな特撮や合成が
いやに新鮮だったのと、帝釈様のお守りから光線がでるのが笑えるらしくて、急に下書きの絵コンテ抜きで直接アニメを
作り始めた。彼は私くらいに不精な人間だが、一旦乗ると手は私より速い。私はこれでも絵も文章も考えるのとほぼ同時
くらいに作るので速いのだ。それよりも彼はもっと早い。なんでもほとんど即興だ。考える前に手が動いている。で、数日で
奇妙な8秒のアニメを作ってしまった。ミサイルが草だんごだったりして、いつもの4コママンガ同様なんだか意味が分からない
変なものができたようだが、あえて意味を聞かないでそのまんま貼り付けますので、暇つぶしに見てください。
なお、『覚え書ノート』の方にも貼ってあります。

このアニメの中で、閑散とした映画館で寅が寝ているシーンは、第15作「寅次郎相合い傘」の寅を思い出させてくれて、ちょっと
嬉しい気分になった。映画館の雰囲気ってああだよなあ、なんてニヤついてしまった。





                  


                  アニメーション制作:龍太郎



あ、さっき、NHKで樋口可南子さんが出演されていて、家族でよくバリ島に行くとおっしゃっていた。
あの第35作「寅次郎恋愛塾」のマドンナ『若菜ちゃん』がよくバリに来ているなんてちょっと嬉しい。
ウブドにも来るのかな?

それと、彼女は学生時代は運動が大好きで、得意だったとも言っていた。はは〜んどうりで、
あの作品で野球が上手かったわけだ。納得。








2006年5月28日 人々に笑顔を与え続ける男


今日5月27日朝(日本時間同)私の住むバリ島から飛行機で1時間半の
ジャワ島中部でマグニチュード(M)6・2の大地震が発生した。
同国政府の災害対策本部はさきほど深夜、ジョクジャカルタ特別州を中心に少なくとも
3068人の死亡が確認されたことを明らかにした。
インドネシアとしては昨年3月28日に
1700人以上が死亡したスマトラ島沖地震を上回る大惨事となった。

バリ島は幸いにも地震はほとんどなく、津波もなかった。


現地からの情報によると、ジョクジャカルタ特別州では民家などが倒壊し、
多くの住民が逃げる間もなく壊れた建物の下敷きになったらしい。
震源地に比較的近い同州南部のバントゥル市では、大半の建物が全半壊したとの情報もある。
深夜になった現在も停電や断水が続き、病院は治療が十分にできていない状態。
道路や橋が破壊されており、負傷した人々を病院に搬送するタクシーや軽トラックも行く手を
さえぎられる状況となっている

私の仕事仲間にもジョクジャカルタに奥さんと子供さんを置いてバリに来ている人がいるが、
心配になり、午後に電話で安否を聞いてみたところ、物は壊れたが、みんな無事で、家もなんとか
無事だったそうだ。

とにかく亡くなられた方々のご冥福を祈るしかない。



スマトラ沖地震の時同様、私も宮嶋も、チャリティの展覧会があれば、すぐに参加するつもり。




            大統領も午後急きょ現地入りし、被災した人々を励ましていた。

               






そういえば『男はつらいよ』で、

第48作「寅次郎紅の花」、普段みんなに役立たず扱いされている寅が
被災地のみなさんの役に立っていた。


長田区、神戸パンの石倉さんの話では
支給品を配る時、『ばあさんが先だよ!』、と混乱を避けるために整理したり、

『市長、おまえ大将にそう言いいなよ。四角四面じゃ物事進まないんだよ!』
と、世の中の機微を誰よりも知る寅ならではの、活躍が光っていた。

博は、
「兄さんみたいな、既成の秩序もしくは価値観とは関係のない、メチャクチャな人がだよ、
ああいう非常事態では意外な力を発揮する」

と、寅の持つ『柔軟性のあるしなやかでパワフルな心』を評価していた。




             


この第48作に限らず寅はいままでに多くの人々を幸せにし、結びつかせもしてきた。

綾さんのこと…、そして秀吉のこと、順子ちゃんのこと、花子のこと、あけみのこと、
ぼたんのこと、、ふみさんのこと…、歌子ちゃんのこと、ひとみちゃんのこと、リリーのこと、
すみれちゃんのこと、光枝さんのこと、…結局このように書いていくと男女を問わず
出会った人全部になっていく。これは凄いことだ。
そして何よりもこのシリーズを見ている私たちをも幸せに、そして優しい心にしてくれる。

御前様が言うように、私も、仏様が寅の形を借りて、この世の中の悲しみや苦しみを
和らげてくれているような気がしている。

人生の中で「与えること」を仏様から業のように背負わされた寅。財産も、権力も
何も持たない寅。しかし、人々が幸せになった時の柔らかな顔が見たくて、今日も旅を続け、
一期一会の出会いを繰り返しているのかもしれない。

彼は『旅人』を天職とする人なのだ。


私は今、綾さん亡き後、新潟の雪深い分校へ雅子先生に必死に会いに行った時のあの寅の笑顔と、
雅子先生のくしゃくしゃな笑顔を思い出していた。




今日は夕方から家の水道のパイプに付いているレバーがぶっ壊れてようやくさきほど修理を終えた。
4時間もかかったああ…(TT)疲れた〜〜〜。


で、本日は、『バリ日記』と『寅次郎な日々』の折衷のようなコラムになってしまったが御了承ください。


追伸:その後、上に書いた私の友人のジョクジャカルタの家族は、家に亀裂が
入って危ないので、修理し終わるまでテントで今は寝泊りしているそうだ。
もちろん、修理のめどは立っていないらしい。それで、家族を手伝うために
彼は今日6月1日ジョクジャカルタへ戻っていった。私も気持ちだけだが餞別を渡した。










2006年5月25日   ワールドカップへの道 バリ篇   竹に差しこんだアンテナ  
 

4年前に日韓ワールドカップを見たと思ったら、もうドイツワールドカップだ。
早いものである。4年前の今ごろは、まだ私と同い年の親友のアグンライも存命で一緒にワールドカップを見たことを
覚えている。彼はその年の9月13日に亡くなってしまった。あの年はそのことがありとても辛い日々だった。

そして今年、ドイツワールドカップは私の契約している国際衛星放送群ではどこも見ることが出来ない。
オリンピックもそうだが何年も前から世界中の国際放送はBBCであろうがCNNであろうがNHKであろうが
ワールドカップやオリンピックは見れないのだ。どうやら放送権の問題らしい。ただ、実はここインドネシアでは、
地元のSCTVという地上波チャンネルでワールドカップを見ることが出来る。SCTVは衛星放送もあり、内容は
全く地上波と一緒。もちろん私の家のパラボラアンテナでも見ることが出来るので、4年前はそのチャンネルで見ていた。

ところが!今年からSCTVが放送権の問題で、地上波のみワールドカップが見れることとなってしまった。つまり私の
パラボラでは地元の地上波は入らないので、今年からは家では見れなくなった。う〜む…ま、いいか。と諦めていたら、
5年程前に今のテレビを購入した際、地上波のアンテナもおまけで付いてきたことを思い出した。使う必要が無いので
そのままにしてあったのだ。荷物小屋を探してみると、意外にすぐに見つかった。しっかり箱に入れ、ビニールで包んで
あったせいか新品のままだった。さっそくアンテナケーブルを買ってきて、取り付けてみた。慣れてないのでなかなか
方角や、場所が上手くいかなかったが、敷地にある6メートルくらいの真っ直ぐで長い竹を切って、その先端にアンテナを
くくりつけ立てかけてみたら、まあほどほど綺麗に映った。しかし、パラボラよりは当たり前だが映りが悪い。

そこで近くの電気屋に相談に行ったら『♪見えすぎちゃってェ困るのォ〜』でお馴染みのマスプロアンテナ社の
アンテナブースターがなぜか!?その電気屋でたまたま激安で売っていて、これでOKみたいなことを言われた。
期待度ゼロ、駄目もとで買って来てチマチマ作業し、これも一緒に取り付け、よっこらしょっともう一度こいのぼりの
要領で立てかけたら、実に良く映った!衛星放送と変わらないではないか。さすが宣伝であのように歌っているだけの
ことはある(^^)

テレビアンテナを大きな竹にくっ付けるのはいかにも東南アジアの田舎らしくてなかなか風流でよい。

これで、ワールドカップが見れると息子は喜んでいた。私は自分が高校で硬式野球をしていたせいで、
ワールドカップよりもWBCの方が、興味があったが、息子はワールドカップが見たいようである。
地球の果てバリでの他愛もないワールドカップ観戦への道でした。あー疲れた、午後から半日かかってしまった。


下の写真は息子がデジカメに、双眼鏡を手でくっつけ、月を撮ったもの。なるほどね。いろいろアイデアを考えるなものだ。



                     バリの月 2006 5.14    龍太郎 撮影

            













2006年5月13日    我が青春の「日吉食堂」そして「ベラスケス」




さっきまで「新世界」のことを「寅次郎な日々」に書いていた。

「新世界」と読んで、お、ドボルザークか。と思う方もいらっしゃるだろうが、この「新世界」はあの通天閣のある
大阪の「新世界」の話題である。『なんや、そんな泥臭い話すんのん?バリ島の話せえへんのん?』と
おっしゃる方は今回はパスしてください(^^;)ゞ

ここのところ第27作「浪花の恋の寅次郎」を更新すべく、作業しているのだが、この第二回目の更新の部分は
私の青春前期(幼少期〜高校まで)を過ごした懐かしい大阪市が舞台だ。それも浪速区通天閣のお膝元、
『新世界』だからなおさら懐かしい。私の大学時代からの愛読書「じゃりン子チエ」の舞台、西成区荻ノ茶屋も
ちょっと南に歩けば比較的近くにある。

私が親と一緒に住んでいたのは生駒山がよく見える、大阪市鶴見区。花の博覧会があった街。中学生の時は
連休があると悪友たちと一緒に片道電車で30分以上かけてよく新世界のあたりに通ったものだ。なぜなら日本橋の
電気街にラジオの組み立て部品をまとめ買いに行くついでにぶらぶら立ち寄っていたからだ。

まず、天王寺動物園前で降りて、天王寺公園や動物園の近くでぶらぶらしたあと、新世界にちんたら入りこみ、
通天閣南本通りの入り口にある老舗の安食堂の『日吉食堂』で必ず熱々の『きつねうどん』を七味たっぷりかけて
ゆっくり食べるのである。ここのきつねうどんの味が忘れなくて、わざわざ部品を買いにいった覚えがある。
この『日吉食堂』は、「浪花の恋の寅次郎」でも大きく映っていた。

そのあと、じゃんじゃん横丁をこわごわ冷やかし、将棋クラブの常連の女装爺さんに、目で挨拶をし、
近くの『八重勝』『てんぐ』などの串カツ屋を覗きながら、ブラブラ歩いて、通天閣に行き、時々そこの近所の
立ち食いうどん屋でもう一度「きつねうどん」を食べる。このへんのおっちゃんは「きつね」ではなく「けつね」と言う(^^;)
立ち食いだけれども、それなりにレベルは高い。そして電気街日本橋へ北上。ってパターンだった。

あのあたりを中学生ごときがウロウロするのがスリルがあり、ちょっと大人に近づいた気持ちになれたのだ。
梅田界隈や、天満、淀屋橋、中の島、じゃ面白く無いのだ。家から近い京橋界隈もなかなかの『なにわ』だったが、
心斎橋から道頓堀界隈とこの新世界あたりがより『大阪の深い懐』の匂いを漂わせていた。まあ、実際いろんな意味でも
あぶない街、怖い街、泥臭い街でもあったわけだが。

特に上に書いた『日吉食堂』は私の青春の居場所のひとつだった。

15年程前に連れ合いと一緒にジャンジャン横丁を歩いた時も、まだあの『日吉食堂』も何軒かの将棋クラブもあった。
2006年の今も、なんとか将棋クラブはあるようだが、なんと日吉食堂がなくなったとなにかのブログに書いてあった。
ショックで調べてみたが、他のサイトでも壊されてそのあとに大きな新興の串カツ屋さんが巨大な『ビリケンさん』を
設置して話題を呼んでいるそうだ。ビリケンサンは通天閣名物のはずなのに…。
あ〜時代は確実に流れているのだ(TT)
(あ、『ビリケンってなんやったかなあ?』と言う方はネットで調べてください)

それで、もう少し調べてみるとあの界隈は、もう『ジャンパーのおっさんら』の街でなく、今は家族連れや女性たちで賑わう
普通の大阪の串カツグルメの観光地に変わったようだった。そういえばここ数年、時々NHKでもこの界隈を紹介していたっけ。

ところで、

この騒がしい街のすぐ隣が広々とした天王寺公園であり、その中に『大阪市立美術館』がある。

今年の夏の帰国した際、大阪市立美術館に『プラド美術館展』を見に行く。(現在は東京都美術館で開催中)この展覧会には
ベラスケスの「道化師.ディエゴ.デ.アセ-ド、エル.プリモ」短くは「エル・プリモ」という絵が来ている。
ベラスケスには宮廷の道化師たちを描いた連作があり、「エル.プリモ」はその中の一点。べラスケス40代中ごろの作品である。

私は24歳の時スペインに行き、そしてマドリッドのプラド美術館でこの道化師の連作を見、感動でその場を離れることが
出来なかった。今回はその中の一枚が来ている。この絵は『ラス.メニーナス』や『王女マルガリータ』などと比べると小さな
作品ではあるが、その気品と気高さは一歩も引けをとらない。ベラスケスの生涯の傑作の一枚であることは疑う余地が無い。
なんというタッチ!なんという色の冴え!なんという省略の冴え!タッチで生命感や、そして人間の尊厳までを描ける画家は
ティツィアーノ、レンブラント、そしてベラスケス。私の大好きなゴヤは生涯このベラスケスを追いかけ、憧れ続けた。
ベラスケスの究極の『本気』がこの絵にある。この一枚を私は9月に見に行く。

この美術館は例の天王寺公園の中にあり、新世界のすぐそばなので息子にあの界隈の雰囲気を味わわせてやろうかと
思っているのだが…。まあ、しかしいつの時代でも新世界は生まれ変わり、脱皮していくのだ。明治時代からすでに変革の
街だった。だからこそ『新世界』と言う名前もついたのだ!その名の通りこれからもこの街は新世界の名を背負っている限り
新しい時代を模索し、力強く生き抜いていくのであろう。




                    「エル・プリモディェゴ.ベラスケス
                  




                      スクリーン左が日吉食堂
                 












2006年5月3日    ガルンガンの朝に描く


昨日のバリ日記の追伸です。

今日はガルンガンの当日。

朝、制作がてら散歩。どの家もみんなお寺に行っているので村は静か。どの家も家のお寺に装飾がきれいにほどこされてある。
チラホラと人が歩いてるぐらい。道路にはほとんど車は走っていない。手早くペンジョールのある村の風景を描く。
30分ほどで形になったので筆を置く。後で自分のアトリエで眺めると、若干の破綻があるが、空気が感じられたのでOK、とした。
1ヵ月後くらいに頭を冷やしてもう一度チェックしないと、ほんとうのところは分からない。





                   「ガルンガンの朝」 2006年5月3日 油彩 F4号
              







                 アグンライ家の敷地内のお寺もきれいに化粧されていた。

            











5月2日
2006年5月2日    還ってきたアグンライの手の『温もり』



この一週間、下の渓谷はとても静かだ。石堀の職人たちも、今のところは自重している感じだ。
いわゆる「喪」が明けていないのであろう。

それとは別に今朝からジェゴグの音色がいくつかの谷を乗り越えて私の敷地までもう何時間も聞こえてくる。
ジェゴグとは、たくさんの巨大な竹の打楽器群の総称で、バリの伝統音楽をそれらの竹楽器のみで
演奏するもので、その大きく深い重低音は一度聴くと、ほとんどの人が虜になってしまうくらい魅力的だ。

もともとは、バリの西部ヌガラ県が発祥で、一昔前は、私の村から4時間もかかるその町へ、わざわざ聴きに
行ったものだった。近年はこうしてウブドに泊り込みで来て、大きな寺院などで出張演奏してくれるのである。
今日はひょっとしてその練習の日なのかもしれない。午後になってもまだ聞こえてくる。

あの大地に響き渡る重低音を、間近で聴くのもいいが、家のベットでうつらうつらしながら、いくつかの丘を越えて
聴こえてくる音を耳で拾うのもオツなものである。この渓谷は車の音も聞こえず、とても静かなので、こうして
何キロも向こうのガムラン音楽がよく聴こえて来るのである。こういう音たちは、私のこの寂しい隠遁暮らしの
数少ない慰めにもなっている。


それはそうと、今朝久しぶりに、3年前に亡くなった親友のアグンライの夢を見た。夢の内容はこうである。
私がこの村の誰かの結婚式に前のアグンライの家族たちと一緒に出席していると、なんと亡くなったはずの
アグンライが儀式の手伝いをしているではないか。それも10年くらい前の元気なころの彼の姿だ。あれは確かに
アグンライだと思い、彼の弟に聞いてみたところ、こういう儀式には地上に降りてきていいんだよ。って不思議がる
でもなく平気でそう言っている。私はアグンライをもっと近くで見たくて近づいて行った。彼は気づいて、笑いながら
私に握手をしてきた。私も思わず手を出し、彼の手を握っていたが、なんと彼の手は温かいのである。夢の中で
私は「あ、温かい…」とはっきり思った。彼は今、蘇っているのだと…。

その後、彼は何事もなかったように、また大勢の人たちと一緒に儀式の用意をし始めた。夢の記憶はそこから先は
曖昧になっていったのだが、彼の手が温かかったことだけは、目を覚ました後もはっきり自覚があった。

それで、今こうして記憶にとどめようとしてバリ日記に書いているのであるが、そもそも夢において、温かいとか冷たい
とかを感じたことは、私は40数年の人生の中で一度たりともなかったような気がする。(まあ、この過去の記憶も曖昧
なのだが)あれはどういうことなのだろうか?夢の中で温度を感じるということが可能だなんて初めて知った。それも
熱いとかでなく、微妙な手の温もりをだ。私にとってこの体験は実は嬉しいものだった。目で見るだけでなく、文字通り、
肌で感じることができたのだから、よりリアルに彼と再会できたのだ。それも元気だったころの彼と。


バリはいよいよ明日から半年に一度やってくる『ガルンガン』が始まる。ご先祖様がこの地上に降りてくる日、つまり、
日本で言うところの『お盆』なのだ。そして2週間後のクニンガンの日に天上に帰られる。今、村中が『ペンジョール』
(長い笹の飾り物)で埋め尽くされている。このペンジョール風景は私にとってのバリの原風景でもある。

アグンライは1日だけ早く、私に会いに来たのかもしれない。
と、ジェゴグの音色を遠く聴きながらそんなことを思い浮かべていた。

それでは、今からバリの究極の儀式料理『ラワール』をお呼ばれします。また来週。





         家の小さな祠も今日からみんなお化粧されている。       カメラを持って村を歩いてみるとちょうどペンジョールをどの家も立てていた。

            












2006年4月22日    ただ祈るしかない凄まじい現実



今朝、まだ寝ている時に渓谷の下で凄まじい激音がした。
私はうっすら起きてしまって、また谷の崖が崩落したのだなと、ぼんやり思っていた。この私の住む渓谷は
バリ島でも有名な美しい砂岩が産出される所で、毎日晴れた日は朝から夕方遅くまで、砂岩を削る音が
トンチンカンチン聞こえてくる。しかし、長年岩を削りすぎたせいか、雨季などは一週間に一度は大きな音を
響かせてこの近くの崖の一部が崩落している。こんなこと日本ならどえらい騒ぎで、即立ち入り禁止だろう。
この島の人たちは、時々起こる崩落を気にかけながらも、晴れた日は崖下に行って、石を削っている。

そして、雨が上がり晴れた今朝も…。しかし、今朝の崩落は状況が違っていた。
その激音の直後、谷から大きな叫び声が聞こえてきたのだ。そして、その音を追いかけるように数人の号泣
する声が渓谷中にとどろいていった。私は渓谷のてっ
ぺんに住んでいるので、その叫び声と泣き声が谷の下から
せり上がって聞こえてきたのだ。そして渓谷中を駆け、こだまして響き渡る。最初は何かのバリヒンドゥの宗教儀式かと
思っていたが、何分もそれらのシリアスな泣き声は続いたので、
これはいよいよ何か事故があったのだと私にも
分かってきた。

川向こうの丘では何人ものお百姓さんが、崖上から下を見ている。とりあえず、前のアグンライの家族にこのことを
知らせようとした時、谷から駆け上がってきた女性が号泣しながら、助けを求めに村に入っていく光景が見えた。
続いて男性が上がってきて、電話をしたい、警察を呼ばないと…、と私に近寄って言って来るので、私は家に
案内し電話を貸してあげた。彼が警察に電話をしているのを聞いていると、どうやら一人の若者が崩落した岩の
下敷きになったようだ。電話の彼は真っ青になっていた。犠牲になったのは、バリ島東部のカランガッサム地方から
出稼ぎに来ている石堀の家族の末っ子の若者らしい。この村の人たちは、みんなこの家族の事をよく知っている。
私の家から5分ほどの渓谷の近くの長屋に住んでいる家族だからだ。

結局そのあと、村人が何人か谷に降りて行って、石切り場の人々と共に岩をのけて、ようやく若者を岩の外に出したが、
無念にもすでに彼は息絶えていた。
おそらくお母さんや兄弟だと思われる男女の泣き叫ぶ声は、その後もなお何十分もの間止むことはなく谷に響き
渡っていた。亡くなった青年は17歳で、それはあまりにも若い命だった。

私たちは思考停止になりながら自分の敷地でうろうろし、何も手につかずにいつまでも渓谷にこだまし続けるその
悲しみの声を聞きながら、ただ呆然とするしかなかった。
この凄まじい現実に自分の感覚はとうてい追いつかず、ただただ渓谷の上におろおろ立っているばかりだった。

やがて、村人にかかえられ、悲痛の心を引きずりながら彼のお母さんやお父さんや兄弟たちは若者の遺体と共に
この渓谷からゆっくりと立ち去っていった。石切の職人たちも同時にみんな立ち去り、後には今度は恐ろしいほどの
静寂が残った。

この島はまったくいつもこうだ。容赦無しに厳しい現実がぶつかってくる。簡単に死が後ろから覆いかぶさってもくる。
その破壊力は私の頭の処理能力や想像力の限界をはるかに超え、それゆえただただ愕然とし、手を合わせ祈るだけ
しかできない。何をやっても死んだ若者はもう生きて還ってくることはない。しかしもう目を閉じ祈る以外に私などに
なにができるというのだろうか。


合掌。





                23日早朝。この深い朝もやの下にたくさんの石切り場がある。

           












2006年4月12日    やったね兄貴!凄い!

我が阪神タイガースの金本知憲(ともあき)さん、つまり我らが『兄貴!』は9日、大阪ドームで行われた横浜戦で、
遂に遂に…連続試合フルイニング出場を904試合に伸ばし、世界新記録を達成したあああ!(TT)
兄貴は38歳!これは凄い記録だ。なおかつDH制のないセ.リーグでの記録だから完全に申し分が無い!
ある意味野球のどの世界記録よりも本当は凄いかもしれない。
ちなみに、これまでの記録は、米大リーグ・元オリオールズのカル・リプケン内野手が1982年〜87年に作った903試合。
連続フル出場は、広島に在籍した99年7月21日の阪神戦(甲子園)からスタート。兄貴は38歳の今も4番!そして
常に阪神リーグ優勝の立役者だった。

勝ち負けのあるスポーツはバランス感覚が優れていないと必ず時々故障する。イチローもそうだが、優れた選手は
精神と肉体のバランスがいい。そしてなによりも『野球が大好き。誰よりもなによりも野球が大好き』
とにかくこの記録は偉大だ。おめでとう兄貴!


記録で思い出したが、今日(4月12日)の夕方、私の『男はつらいよ覚え書ノート』のカウンターが20万アクセスを突破した。
ページを開いてみるとすでに突破していた(^^;)ゞもちろんこれは別に偉大でもなんでもないふつ〜の数字。でも2004年から
「男はつらいよ覚え書ノート』を始めたので2年ちょっとで20万アクセスを超えたことになる。2年間で20万アクセスは当初
思っていたよりもずっと多い数字だ。毎回飽きずに見てくださっている皆様、本当にありがとうございます。これからもマイペースで
やっていきますので、見放さないでお付き合いいただければ嬉しいです。よろしくお願いいたします。


ところで、バリは雨季がほとんど終わったはずなのに3日間雨が無茶降り。なんと今年の雨季で一番の降水量!だったと思う。
どうしてこの時期に…(TT)
渓谷の下の川は荒れまくり、あちこちで水が氾濫したり、川向かいのがけが崩れたり、たいへんだった。ようやく今朝、4日ぶりに
太陽が燦燦と出てくれたので、つい嬉しくてアトリエのテラスで朝日を写真に撮ってしまった。(^^;)ゞ 
数日間風邪をひいていた息子もようやく元気になり、チャッカリ写真に写りに来た。

今夜は満月だ。



            













2006年4月3日    『混乱の抗議デモ』 と 『静寂のニュピ』


4月1日の夜にバリに戻ってきた。

今回のバンコクは仕事関係も長期滞在のビザ取りもわりとスムーズに行き、満足できる結果だった。
バンコクが政治に関する抗議活動で物騒なこの時期に行く事に少しためらいはあったが、前々から予定が組み込まれて
しまっていたし、バンコクはかれこれ、もう十数回は訪問滞在しているので気をつけて行動すれば大丈夫だろうと思い決行
したわけだが、空港などはまったく普段どおりで、警備もいつもどおりだった。毎回滞在するアパートメントの近辺も全く
いつもどおりの様子。人々も落ち着いていた。

ただ、ちょうど着いた次の日、バンコクの中心街のスクンビット通りで、日曜日だということもあってかタクシン首相に
対するデカイ抗議デモと偶然鉢合わせしてしまった。

その時はデパートで少し買い物をしてちょうど外に出ようとした時だったのだが、デパートの正面も横も大きな出入り口は
全て一時的に鍵がかかけられてしまい、ガードマンたちが厳重に警備しはじめたので外に出れず、後ろの小さな出入り口から
客たちは出入りしはじめていた。

とりあえず私たちも何時間も足止めを食うのはいやだったのでそこから出て行ったが、デモをする人とヤジ馬とでごった返して
なかなか前に進めない状態が続いた。結局20分ほどデモを横目で見ながら人ごみの中をカタツムリのようにのろのろと
進んでいくしかなかったのだ。

しょうがないのでデジカメで何枚かデモの様子を撮っておいた。とにかく凄い熱気でみんな口々に何かを叫んでいた。しまいには
ヤジ馬の人々まで何かを叫びだす始末。長蛇のデモは1時間ほどで自分たちを追い抜いて遠くへ進んでいった。そのあとはまるで
何もなかったかのように車が動き始めて、日常に戻っていた。

バンコクに行く時は結構いろいろ大変な時期が多い。何年か前はちょうどイラク戦争が始まってすぐに行かなくてはならなかったし、
SARSが流行っていた時期にも行かなくてはならなかった。デング熱が猛威を振るっている時期にもいく羽目になったこともあった。
そして今度はタクシン首相問題でタイの国会が解散され総選挙が行われる直前のバンコク入りだった。

私はそれとは別にバンコクが好きだ。あの東南アジアの美と醜を全て内包し、ギンギラに輝く夜の街バンコクは何度通っても、
飽きる事はない。日本のビジネスマンやその家族たちが多く住んでいるので、日本人のニーズにこたえれるような、本屋、古本屋、
DVD屋、スーパー、デパート、レストラン、屋台、総菜屋、パン屋、アパート、宿、などがひしめいていることもうまみのひとつだ。

まあ、ともかく私は今回も幸運にもバリに戻ってくることができた。事故無し、病気無し。これが一番。



ところで、私がいない間にバリは『新年』を迎えていた。バリの暦は太陽暦ではないのでこの『新年』は毎年微妙にずれていくのだが、
今年の新年(ニュピ)は3月30日だった。前の日の大晦日に島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの化け物『オゴオゴ』が町中村中を
夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を鳴らす。

そして次の日の新年は『ニュピ』と言って、24時間、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りを
つけたり、大きな声で話をしたり、音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も
離着陸しない。島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも
義務づけられているので、まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に
病院にいくことを許されるが、それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でもひっそりと食事をしているようだが…(^^;)。

私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きなのだが、今年はバンコク滞在中だった…。ちょっと惜しかったかな。





                     車道も歩道も階段も駅も人だらけで動けませんでした(^^;)
                   
              












2006年3月21日   サソリのから揚げ


今日(20日)の朝、起きて外に出ると、息子が何か喚いて私を手招きしていた。
何かが寝室の近くにいるらしい。駆け寄ってみると大きな蛇がニョロロロと、走り去っていくではないか。
だいたい3メートルはあった。猛毒の蛇ではなかったので少し安心。ウチの猫たちも蛇の去っていく方向を
唸って威嚇していた。蛇の場合本当に怖いのは小さな緑の蛇。これは猛毒があり、毎年島でも死人がでている。

わたしの敷地はもともとジャングルの森の中の隅っこを更地にしてもらったので、怖い動物たちが多いのだ。
なかでもとてもよくご対面するのがサソリである。強い雨の後などに、風呂場やテラスの近くに出没する。
一般的には小さいサソリはバリのどこでもよく見かけるのだが、私の敷地にいるのは結構大きい。尻尾には
もちろん猛毒がしこまれている。毒蛇と違ってさされても死ぬ確率は比較的低いが、重症を負う人は結構いる。
蛇は自分からも逃げてくれるが、サソリはそこでじっとしているので知らずにその上を通ってしまうと稀に
刺されることもあるらしい。

この敷地を更地にするとき、ジャワ島の職人さんたち10人に1週間ほどかけて地ならしをしてもらったのだが、
サソリの巣が何個かあったらしく、何十匹という大きなサソリが出てきた。それを彼らは現場で直ぐにから揚げに
していた。もちろん毒の部分は取り除いて。彼らに聞いてみると見た目は怖いが、油で揚げると香ばしくて後を引くらしい。
いくらでも食べれると言っていた。そういえば、日本人もタコを食べたりする。バリ人も豚を生で食べる。
食べてみれば美味しいのかもしれない。私は好き嫌いがほとんどなくなんでも食べれるが、サソリはちょっと…(^^;)



お知らせ

3月25日から4月2日までタイのバンコクに出張します。その間は更新ができません。それゆえ次回バリ日記はおそらく
4月4日か4月5日ごろになると思います。

また「寅次郎な日々」なども同じ理由で3月25日から4月2日まで休みます。御了承くださいm(_ _)m

         



                   激しいスコールが上がった今日の朝のような時によく大きな蛇が出る。

             











2006年3月8日   桃栗3年ナンカ8年



バリの果物といえば一般的には、マンゴ、ドゥリアン、マンゴスティン、パパイヤ、などなど数十種類に登るが、
最近は温帯で育つイチゴ、梨、リンゴ、なども種類が豊富になってきた。ほぼ世界中の果物が食べられるといっていいだろう。

実は、私はナンカが結構好きだ。一般的にはジャックフルーツと言われる果物。インドネシア語で『ナンカ』という。
若いナンカは野菜代わりに油で揚げたり、煮たきものに使われる。これはなかなかコクがあって美味しい。
中にある大きな種も油で揚げたりして食べる。これは子供のおやつにもなる。
実がもっと熟すと果物に早変わり!そのまま食べても凄く甘くて酸味があって後を引く味なのだ。
パパイヤも若いときはサラダにされ、熟すとそのまま果物になる。

ナンカはそれだけではない、あっという間に20メートル以上の大木になる。この木はきめが細かく、品があるので
家の母屋の木のドアに使われたり、楽器や家具に使われることが多い。私のギャラリーの大きな観音開きのドアもナンカの
木で作られている。

この敷地にもナンカの大木が数本ある。毎年スイカの2倍くらいある大きな実をたくさんつけてはいい香りを放っている。
実の付き方は『幹生果』と言って、太い枝や幹に直接付き、通常重さ10kg〜15s以上!にもなる。そのため世界一の
果実(世界記録は48.6kg)とも言われている。


それでバクバクいくらでも食べるのだが、中の種は、もちろんその辺にバンバン捨てる。


2年前、なんとその一つが奇跡的に芽を出し伸びてきた。母屋の屋根のそばだったので、引き抜こうかとも思ったが、
なんとなくそのままにしているうちにどんどん伸びてきて背丈を超えてしまい、幹も太くなってきたので、このまま成長
させることにした。何百という種からたったひとつ成長したこの木は私と縁があったのだと思い、近頃は水をやったりして
世話まで焼いている。あと4〜5年も経てばあの大きな実が付きはじめるかもしれない。最近はうちのネコたちも、この木に
登って遊びだした。

私はこの敷地にあと何年住むか分からないが、もしいつの日かこのナンカの実を食べる事ができるとすれば、とても幸せなこと
なのではないか…とぼんやりそんな先のことを、まだ少年のようなナンカの若木を眺めながら考えていた。







                




                    この実一つで10人前以上の量になる

                  












2006年2月28日   増殖する『もの』たち


私のアトリエも、パソコンの部屋も、またもや『もの』が押し寄せ迫ってきた。
しょうがないので昨日からえんやこらと整理したり、荷物小屋に入れたりしている。べつにものを買って
増えているわけではない。要するに整理整頓というものが下手なのだ。ものを使った後、きちんと戻せば
いいのだろうが、つい、そのまま置いてしまう。この傾向は大昔から治っていない。家族に「いい加減に
なんとかしたら?(▼▼メ)」とキツメに直訴されるまで、ものは増殖していく。

私の教員時代もそうだった。机の上が、富士山になり、K2になり、チョモランマになっていく。そして雪崩や
崖崩れが頻発する。(^^;)

画家の野見山曉治さんや村井誠成さんのアトリエをテレビか何かで見たときも、私と同じ傾向になっていたので
「あー、世の中にはそういう人がいるんだなあ」と自分のことは棚に上げて呆れていた。私のような人はどんな大きな
部屋に住んでも自分の身の回り2メートル以内だけで生活する羽目になるんだろうなあ。

今も片付けている最中だがなかなか進まない。一度きちんとしまいこんでしまうと、数ヶ月はどこにあるか分からなく
なってしまう(^^;)ゞので、箱に入れるものを厳選するため、時間がどんどん過ぎていく。

おまけに一昨日の豪雨で、今まで、雨が漏っていなかった荷物部屋まで漏りだした。
というわけで屋根の修理も相変わらず止めれない状態。母屋の屋根の方も先月修理した場所を5日前に
我が家の猫たちが4匹で思いっきりかけずり回って壊してしまった。ああ…(TT)、で、またもや、やり直し。
この建物を建ててからかれこれ5年ほど経つので、あちこちにガタがきはじめたのだ。
熱帯の建物は壊れるのが結構早い。だから建てる時も、そのつもりで簡素にしておく。


あ〜〜、このようにまたもやなんだかわけのわからないことをしていたので、
ここ数日は絵も描けていないし、映画「寅次郎ハイビスカスの花」のアップも4日間進まず(TT)

相変わらず、「♪今日も〜、涙の日が落ちる、日が〜落〜ち〜る〜」




最近で唯一嬉しかったことは、バレンタインデーに、息子が手作りチョコケーキを作ったことくらいか。
これは激ウマ!だった。彼はもう何度もケーキは作っているせいか、スポンジを焼くのが特に巧くなってきたようだ。
まあ、相変わらずかなり助言はしてもらっているようだったが(^^;)

見た目はまだまだだが、味的には進歩していてそのへんの手作りケーキ屋のレベルは超えたな、って感じ。

ちなみにうちの家族はバレンタインデーというのは「チョコレートケーキを作ってみんなで食べる日」だと決め付けている。
「本来の意味合い」は、もう十年以上も前に遥か1億光年の彼方へ飛び散っている。ああ。。。(TT)




                    ケーキは実は中のスポンジの味と食感が命なのだ

           













2006年2月19日   懐かしき人との再会




2002年の「バリ日記」で、激変するウブドの町の中で変わらない店(ワルン)や人がいると書いたことがある。
私が昔、バリ菓子をしょっちゅう買っていたワルン(何でも屋)が町外れにあるのだ。私が最初のバリ訪問で
初めてその店を訪れた1987年から全く変わっていない。周りの家や店や道路がどんどん変わってもその店は
何の影響も受けず、いや、受けるセンスが無く、そのままのたたずまいだった。むしろどんどん風化しているので
重要文化財のごとくかえって異様に目立っていたのだった。売っている品物も相変わらずのものばかり、しかし私に
とってはこの店が落ち着き、一歩中に入ると妙に居心地がよく、つい通ってしまっていた。変わらないことも「静かな凄み」
だとつくづく思う日々だった。

昨日3年ぶりくらいでその店の前を通った。驚いた事に、というかやっぱりというか全く同じまま現在もワルンを
経営している。この店のおじいさんも健在で、私が覗くと中から出てきてくれた。もう年はおそらく85歳を過ぎていると
思われるが、まだまだお元気そうだった。ちょうど今から髪の毛を孫に切ってもらうんだと言って、椅子に座り始めた。
これは面白いぞ、とピンと来た私は、とりあえずカバンの中からスケッチブックを出し、ラフスケッチを何枚も描いた。
彼の名はレノさんと言って、戦争を体験しているので、その頃日本軍が教えた日本語を今でもかなり覚えていて、
日本の歌も歌うことができる。彼の日本語を聞くたびにちょっと複雑な、申し訳ない気持ちになるが、彼はそんな事
お構い無しに相変わらず上手な日本語でいろいろ話しかけてくる。彼と私との仲はもうそろそろ20年!になるのだ。
凄い年月になってきたなあ…。

家に戻って、スケッチから直ぐに油彩画に起こしてみる。こういう場合は描いてから1〜2時間までが全て。
ここでうまくいかない場合は、そのあと何時間粘っても駄目。懐かしさがあったせいかイメージが強く残っていたせいか、
1時間ほどでなんとか筆を置けた。うまくいったほうだと思うので、ここにも貼り付けておきます。




            

                   2002年当時のレノさんのワルン  2002年8月20日頃撮影
                                                
                






                    「レノさんの肖像」 2006年2月18日 油彩 F4号

                











2006年2月9日   10勝9敗2引き分けの極意


今日ようやく体調が元に戻った。いやあ、たいへんな1週間だった。頭が痛くなり、歯が浮き、
体の節々がギクシャクし、咳が出続け、そして最後遂に熱が出た。

これだけ毎日洪水のように雨が降り続ければ、だいたいの村人はさすがに体調を崩している。私の場合も、崩れマクって
ゼイゼイだった。

私と3日ほどずれて家族も同じ症状に。特に息子は私より熱が高い。明らかに私から移っていったのですまんすまん、と
思ってしまう。みんな熱が出たので、看病できる人がいなくなり、一番最初に病気になり、峠を越したばかりの
私が病みも上がっていないのに動かざるを得なかった。非ピリン系の副作用の少ない下熱剤は常備しているが、
解熱剤は40度近くでもないかぎり安直に飲む物ではないので、息子は様子を見ながら、こまめに水を飲んだり、着替え
たりして4日ほどで乗り切った。息子の事では医者を呼ぼうか迷ったりもしたが、5日目あたりからようやく全員の熱が
36度台に戻ってきたので、徐々に動けるようになった。で、今日で8日目。咳が少し残っているものの、もう大丈夫だろう。

熱帯に住んでいると、菌がとんでもなく強いせいか、なかなか風邪もしぶとく、そう簡単には治らない。16年間の間に
たぶん20回以上は大きく体調を崩したが、そのうち2〜3回は生命の危機までいった。それ以外でも5回ほどは、相当
きつい菌、またはウイルスにやられていたと思う。熱帯ウイルス性の病気なんかにもすでに昔に1度ずつ罹っているのかも
しれない(^^;)ゞ

熱帯で病気になったときのコツは、直ぐに病気をやっつけようと、右往左往しないことである。病院がちょっと遠い場合などは、
家で寝ている。少々熱が上がっても39度くらいまでならビビラないこと。2日連続高熱が続いても、水をよく飲み、汗を拭き、
よく睡眠をとること。のんびり2週間ほどで治そうと思うことだ。明日仕事が!っていう人は熱帯の病原菌に負ける。

体力さえあれば、だいたいの病気はギリギリで勝てる。ただし、ぼろ勝ちはできない。ぼろ勝ちしようとして、注射打ちまくったり、
薬飲みまくったり、病院に何度も行ったりすると、意外に負け戦になって、大きなできごとになっていく。

どんな病気でも、大きな内臓疾患以外は、たいてい自力で治せるものである。

体力がそれなりにあることと、時間がたっぷりあること。(一応ドライバーと設備の良い病院は頭の中で確保しておくこと)


病気だけでなく、絵画制作でも、日常のできごと、かけひきも、だいたいのことはこの熱帯のジャングルの中では、
ぼろ勝ちはできない。イメージ的には10勝9敗2引き分け。を狙う。要するに、最終的に勝ち越せばいいわけだ。
焦ってはいけないし、ケミカルなものを解決の中に混ぜてもあまりいい結果になったためしがない。

10勝9敗なく、10勝9敗2引き分けと『2引き分け』が入っているところがミソ。この2引き分けの意味は果てしなく
奥深いのだ。いつかこの意味を書いてみたい。



ようやくここ3日間は、バカ晴れ!雲無し。
毛布も枕も座布団も何でも干して、気分一新。久しぶりにアトリエでなく外で絵を描く。




                     ひさしぶりに…、晴れた日のチロ 2006年2月7日
                   











2006年1月31日     即興10コマ漫画 『小川の魚』



息子は4匹の猫の世話やアロエなどの世話、果物の実の世話などを毎日しているが、最近、小さな鯉も何十匹と飼い始めた。
私の近所の小川には小さいながらも鯉がいる。息子はそれらを獲って大きな瓶で飼いはじめたのだ。といってもまだ稚魚ばかりで
一番大きくても親指の爪ほどなのだが、大きな魚は捕まえられないらしい。一見メダカのでかいヤツかなと思ったが、彼によると
断じてメダカではないらしいのだが、私にはまあどちらでもいい。瓶の中には一緒に獲ってきた、貝や、ゲンゴロウのような虫もいる。

ということで、ここのところ夕方になると浮き草を増やしに行ったり、餌をやったり、水を替えたりでマメに世話をしている。
こういうこともどうやら好きらしい。

で、例のごとく、私がバリ日記に書いていいか?と聞くと、またサラサラっと即興でマンガを描きはじめた。
これは彼のいつものパターンなのである。案の定出来上がった作品は、いつものように起承転結を思いっきり無視した
物語があるような無いようななんだかよくわからないものだったが、まあ、いつものマンガもこんなふうなので『抽象マンガ』だと
思って載せます(^^;)





                     龍太郎(RYOTARO)  作   小川の魚   


                













2006年1月22日      再び海へ 『少年とカヌー』



この前海に行ったばかりだが、気に入った絵が描けたので、2匹目のドジョウを狙ってまたもや曇天の中車で
30分の海に出かけていった。今日は前回見ることが出来なかったヌサペニダ島が見えた。

私は、このバリに寄り添うようにたたずむあの小さな島を何度も描いてきた。美しい赤い緯絣(よこがすり)の布を織る島だ。
しかし、どういうわけか船で渡ろうという気にはならないのだ。あの島は遠くから眺めていたい。

息子はカヌーが好きだ。ゆっくり漕いでちょっと沖まで出かけて行った。水平線に消えると思われるまで小さくなって
行く姿をずっと眺めていた。ああいう姿は絵には出来ない。ただ見ているだけ。そしてそれでいいのだとも思う。


海は雲の動きが面白い。2時間ほどでまたもや雲行きが怪しくなっってきた。雲行きが怪しければ怪しいほど
風景は私の目の前で生き生きし始めるから面白い。

案の定、スコールが叩き付けるように襲ってきた。水遊びしていた人々も逃げ、私たちも逃げる。ほんとうは
こういう時の海こそが一番面白いのだが…。







                           少年とカヌー     2006年1月21日

                 














2006年1月13日      筋金入りのナベ猫



昨日寝る前に高床式の寝室に上がろうとしたら、階段がガクッと壊れてしまった。長年長雨にさらされてきた階段なので遂に
ガタがきたのだ。一度1年ほど前に修理したのだが、今度は根元から腐ってきていたことは気づいていた。
そろそろ大修理が必要なんだよなと心の隅では常々思っていたのだが…。

と、いうことで、またもや今日も泣く泣く家の修理だ。特に木の梯子式階段はなかなか厄介だ。息子と近所のバリ人の
友人にも何とか手伝ってもらって、腐った部分をこそげ落とし、新しい木を左右に継ぎ足し、土台を高くしてセメントと
赤レンガで作り直し、半日以上かかって夕方真っ暗になる直前まで、ヒーヒー言いながら、新しい階段の土台を作った。
ということで、今日は絵を1秒も描けなかった〜。こんな日多過ぎ(TT)

それでも、絵を描いたからって直ぐに売れるわけでもないし、…いや、ここ数年は日本で個展をする時は別としても、
バリのギャラリーでは忘れた頃にポツリポツリとしか売れなくなってきている。だから絵を描いていろんなギャラリーに飾って
もらったりしても、まあただそれだけってことが多くなってきている。

その分、宮嶋の2冊の画集がコンスタントに売れるのと、ポストカードがそれなりにさばけているので日銭をちょっと稼ぐ
程度にはなっているのがせめてもの救いか。

しかし、居直るようだが、たいして売れもしない絵を描くのは実にある意味気分がいい。ここ4〜5年の中で一番
思い切って筆を動かせているのかもしれない。絵を描くという原点の中でのみ絵が描けているのは不幸中の幸いと
さえ思っている。もちろんだからといって納得できる絵が次々に生まれているかというと、そうでもない。このへんが哀しい
ところだ。しかし、確率は明らかに高くなってきている。まあ、それもこれも所詮「結果」の話であって、絵を描く人は絵を
描いた時点で完結である。それ以外の先のことも、その描いた絵のことすら、知らぬ存ぜぬで、いいのではないだろうか。
そういう意味では前述の、階段を修理する行為も、毎日料理を作る行為も、さほど変わりがなくなってくる。
いや、実際変わりはないと本気で思う。

娑婆の余計な事を考えないで描いて、そしてまた描いて、そしていつかそんなことすら忘れて40年以上かかって身につけてきた
しがらみと欲という重い荷物を軽くしたいと思っているのだが、なかなか上手くはいかない。


昔、渥美清さんが、第34作「寅次郎真実一路」の制作発表の会場で
「渥美さんの中で寅さんはどういう存在ですか?」なんていう、実に安直な質問をされた時に、優しい声で

「はっきりスケベなところもあるし、欲深なところもあるし、いろんなとこがあるわけですよ、そういうのを寅ってのはどんどん
削り落としてっててね、こう、裸ですーっと空に昇天して行くような感じがなんとなくしてくるのね。うん、そういうところがこう、
ちょっとかなわねえなァって感じはします」と言っていたことを思い出す。


こういう話を聞いた後で、ふと台所の小型ナベの中で2匹の猫が同化するように丸くなって寝ているのを見ると、
つくづくこういう奴らにはかなわねえなあ、と思うのだ。全く迷いがない。潔く生き、勝手に死ぬのだ。筋金が入っている。





                     自分の体より小さなナベで丸くなっているプータとチロ。
  
                













2006年1月5日       新年のごあいさつ



明けましておめでとうございます。

皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば恥かしき事の数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
遥か遠い南の島から皆様の幸せを
お祈りしております。

なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらず愚かな内容ではありますが、
かけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。

南の島にて

吉川孝昭







     今年は戌年、犬といえばとらやで飼っていた『寅』、いや失礼、『トラ』を思い出す。

             












2005年12月29日       曇天の海で泳ぐ犬



昨日はバリ島南部のサヌールの海に絵の取材に行った。海のモチーフは大好きなのだが、近年すっかり出不精になってしまった。
それでも海には3ヶ月に一度ほど行くが、みんなが泳いでいるような賑やかな場所に行くのはなんと1年ぶりだ。

宮嶋が海を見たがったので冬眠中にもかかわらず、よっこらしょっと出かけていった。車で30分の近場の海なので
現地の人がほとんど。バリ人は以前と比べてずいぶん海で泳ぐ人が
増えてきた。もともとはバリヒンドゥでは海は悪魔が棲むと
われているので、漁師以外は海などで泳がなかったものだ。旅行者を長年見てきて、海水浴というものに馴染んできたのかも
しれない。
私も宮嶋も絵の取材なので泳がない。以前は私もよく泳いだ。ここ数年は海では泳がなくなってしまった。
もっぱら泳ぐ時はプールである。


バリはそんなに大きな島じゃないので、渓谷のジャングルに住む私の家からも
車でちょっと飛ばせば泳げる砂浜がある海に
たどり着く。



現地の人に混じって犬も一匹飼い主と一緒に気持ちよさそうに長い間泳いでいた。バリに住居を構えてそろそろ16年目になるが、
犬が海で気持ちよさそうに泳いでいるのは初めて見た。

しばらく取材しているうちに遂に雲行きが怪しくなり、そしてまもなく豪雨。あっというまに海には人も犬もいなくなった。
誰もいないグレーの海も凛としていてまたいいもんだ。




                    犬と海   2005年12月27日

              












2005年12月19日    草に埋もれては寝たのです。



日本は今、北海道も北陸も大雪らしい。こちらはもちろん雪は無し。そのかわり大雨。
この前、敷地の草を刈ったと思ったら、ものすごい勢いでまた伸びてきた。雨がどんどん降るので草や木々の香りが凄い。
特に雨上がりは強い草の香りがする。寝る時も草の香りの中で寝る。これは実はなかなか気分のいいものだ。

そういえば昨日NHKの衛星放送でBSの『井上陽水 空想ハイウェイactU』の再放送をしていた。
そこで、高田渡さんや友部正人さんが出演されていて、友部さんは「一本道」を、高田さんはあの伝説の「生活の柄」を
歌っていた。実はテレビで友部さんや高田さんのお顔を見ながらあれらの歌を聴いたのは初めてだった。感激した。
特に「生活の柄」は正に私のこの15年のバリのジャングルでの生活を言いえている。
高田渡さんはあの収録の1年くらい後、今年の春に56歳で亡くなられた。私は昔からあの沖縄の詩人、山之口貘さんの
詩「生活の柄」が大好きで、それに曲をつけた高田渡さんの歌も大好きだった。

『夜空と陸との隙間にもぐり込んで草に埋もれては寝たのです』

雨季のバリは正にこれだ。冬眠にはぴったりだ。




『生活の柄』

歩き疲れては
夜空と陸との隙間にもぐり込んで
草に埋もれては寝たのです
ところかまわず寝たのです
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです

このごろは眠れない
陸を敷いては眠れない
夜空の下では眠れない
揺り起こされては眠れない
歩き疲れては
草に埋もれて寝たのです
歩き疲れ
寝たのですが
眠れないのです

そんな僕の生活の柄が夏向きなのでしょうか?
寝たかと思うと寝たかと思うと
またも冷気にからかわれて
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない
秋は秋からは
浮浪者のままでは眠れない




ところで
息子が今度はスポンジケーキを作った。安直なベーキングパウダーを使うことなしにスポンジを膨らませる
という本格的なヤツだ。ちょっと宮嶋に助言を貰ってはいたが、おおむね一人で作っていた。
できあがったスポンジに生クリームとイチゴを乗せて出来上がり。美味い!の一言だった。




             












2005年12月10日    雨上がりの午後


5日前の雨は凄かった。朝から夕方まで降って降って降りまくり、敷地も前の森の道も、全部水だらけ。
遂に私のアトリエも雨漏りがおこった。この2階建てのアトリエの屋根はササック族の高天井を真似て作ったので、いざ雨漏りに
なると直すのが大変なのだ。登るだけでも恐ろしく長いはしごが必要なのである。あ〜〜、もう疲れる〜〜〜。まあ、しかし
ここが踏ん張りどころだと、早めに起きて根性を出して村人に手伝ってもらいながら屋根の上に登り、雨漏り部分を直した。
もうへとへとである。

遂に電話線にも少し雑音が入りだしたので、この雨季の間にまたもや250メートルの新しい電話線をジャングルの中を引く
羽目になりそうだ。この作業は結構厄介なのだ。しかし、これをしないとインターネットができない。つまり、このサイトが
更新できないのだ。もうなんでもかんでもやるしかない。もう何回修理したか…。ほぼ毎年しているのではないだろうか。
とほほのほ…。息子が大きくなってきたので結構役立っているのが唯一の救いか。

一昨日は衛星放送のパラボラアンテナの延長上20メートル向こうに電波障害となる木の繁みがかかってきたので、それも伐採。


昨日も午前中から雨。しかし、時として、その隙間に晴れ間があり、山がサーっと蒼く見えるときがある。
今日も、雨が止んだ夕方から思い切って少し風景を描く。うごめく雨上がりの空気を一気に描いてみた。
1時間ほど格闘して納得できたので筆を置いた。いつも思うことだが絵は出来る時は瞬時に出来る。出来ない時は出来ない。
そんなもんだ。

驟雨の合間の風に咲く小さな花もあるのだ。と、描き終わった絵を見ながらそんなことを思っていた。





                        「雨上がりの午後(ウブドよりの遠望) 2005年 油彩 F4号 

              











2005年12月2日  小さな日本がやってきた


今年10月初旬にバリに戻ってきた時に、バリの南部クタ地区に、ジャカルタにある日本人向けスーパーマーケット.パパイヤの支店が
新しくオープンしたことは知っていた。しかし、ウブドのスーパーにも簡単な日本食、日本の調味料ならあるし、たいした事ないだろう。
とあまり気に留めていなかったが、ちょっとしたきっかけがあって情報が入った。どうもそんな適当な物でもないらしいと聞いた。モドキでは
ないらしい。各種刺身、日本豆腐、日本納豆、日本惣菜、日本ベーカリー、お菓子、そして日本のスーパー1個分の日本食一式。日本の薬。
などがしっかりあるらしいとのこと。

私は遠出が苦手だ。ここウブドからそのスーパーまで車で45分かかる。ここ近年は1年に数回しか遠出をしなくなった。もうほぼ1年中
ここの村でひたすらじっとしている。そんな完全隠遁生活に浸かっている私でも、そこまで日本日本したスーパーがバリに出来たなんて
聞くと、重い腰を上げ、ちょっと冷やかしにいこうということになった。クタはなんともう1年間行っていない。

ジャカルタには何軒もこういう日本人専用スーパーはある。私が年に2度立ち寄るバンコクも日本人専用スーパーは何軒もある。しかし
バリに出来たところで需要はあるのだろうか?おそらく年々増えてきているリタイアされた後老後をバリで…、という人達用なのかな?
バリはジャカルタやスラバヤのように日系企業が多いわけではない。いや、ほとんどないと言っていいだろう。

日本人でこちらの人と結婚されている人は何百人もいるが、彼らは現地に馴染んでいるパターンが多いので高いお金をだしてまで
日本食を買おうとは思わない。私のような日本人だけの家族はバリにいることはいるが日本人に合った仕事がないのでそんなに
多くはない。バリは世界的な観光地ではあるが、ジャカルタなどと比べると、やはり超田舎なのだ。


まあ、なんにしろ、一度は見ておこうと思い、ちょっと道に迷いながらも50分でスーパーマーケット.パパイヤにたどり着いた。
入るとまあ、日本語だらけ(^^;)「火曜得の市」の広告は参った。

表示の一番上が全て大きく日本語なのだ。ゴボウがある!それもしっかりした大きいものがたくさん。刺身もたくさんある。
日本豆腐も、納豆も、日本の薬も…。今ここで作りたてのカレーパン、アンパン、その他日本でよくあるパンたちがズラリ勢ぞろい。
日本の冷凍食品、レトルトパック、インスタント品、こだわりの人のための無添加食品も結構ある。お寿司、惣菜、おにぎり等々…。
豆腐や納豆、うどんなどは現地で商品開発しているので値段も高くないし、味もほぼ日本のものと同じ。

まあ、私がゴタゴタ書くよりも画像でご覧下さい。ここが南半球にあるインドネシア共和国だということを忘れてしまいがちになった。






      300uのどの棚も日本人のための日本食材がぎっしり                安売りの品を毎日作っているのは日本そのもの
        




   インドネシア在住の日本人チームが開発して豆腐、納豆などが作られている       このような即席物も充実してそれだけで何十種類もあった。
      




   何棚も食材が有って完全に日本の普通のスーパー並みにそろっている。           揚げたてのコロッケやてんぷらも日本そのもの。
          




        海鮮ものも普通のスーパー並みに陳列されている。         隣のガラス張りの工房で作ったばかりの日本のベーカリーの味をしたパンがズラリ
        


            ここはほんとうにインドネシアか?                                  刺身も新しそうだった
          
         


豆腐、納豆、ゴボウ、などを買って家で食べてみたが、もう日本の味!
現地にありがちなモドキでないところが新しい。値段は日本並みから3割ほど高めまで。
調味料、乾物、インスタント物などは輸入のため日本の値段の1,7倍くらいか。
バリも年々住みやすくなってきた。でも毎回50分もかかって行くのは面倒くさいので、
ウブドに小さな支店が出来るのを待ちましょう(^^)











2005年11月25日  雨漏りはつらいよ  



遂に雨が立て続けに強く降り出した。スコールだ。もう1週間以上凄い雨量だ。それで私の居間と寝室が
いきなり雨漏り…。またこの季節か…。雨季が来てスコールが続くと、まず、雨漏り、電話回線250メートル張替え、毒蛇、サソリ対策、
などなど、もう大変だ。ここ数日、屋根の雨漏り直し、草刈り、柱直し、塀直し、と立て続けに忙しい。屋根の上で雨にぬれながら
ヒーヒー泣いている日々である(TT)

2日前には毒蛇にも久しぶりにご対面!なんとか退治したが、噛まれると死ぬ事があるので、ちょっと緊張した。

ここのところ夕方からスコールになり始めたので写生で油彩を描くのはちょっと諦め、もっぱら夜に息子を描いている。
息子も気の毒がって、1時間ほどならモデルになってくれる。息子を描いた時の最大の欠点がある。それは日本の個展ではめったに
売れないということだ。よほど歴史的にでも有名にならない限り、自画像も含めて男性モチーフをただ描いただけのものは
売れない。ほんとうに哀しい現実である。これが若い女性のモチーフならかなり売れやすくなる。風景や踊りはもちろんOKだ。
どうして絵の中身よりもモチーフがそれほどまでに影響するのだろう…、何て愚痴を言ってみても現実がそうなのだ。

ただ、こちらの美術館やギャラリーはオーナーが絵の良さで選ぶことが稀にあるので、私の自画像も、息子やその辺の爺さんを
を描いた肖像もひょんなことから売れる事がある。インドネシアはめちゃくちゃなどうしようもない国だが、そういうまともな初々しい
精神や真摯にものを見る眼もあるところにはある。私は生きていかないといけないので日本でももちろん絵は売るが、日本では
なかなかこうはいかない。もちろん自画像や男性の肖像を気に入ってくださる方はほんとうにたくさんいる。嬉しいことだ。
しかし気に入ることと買って飾ることは時として微妙にずれるらしい。私が絵を買う時は絶対にそこはずれないんだけどなあ…。

それでも描きたいものを描かないとなんのためにこのような地球の果ての僻地に隠遁しているのか分からなくなるので当分は息子を
モチーフにして絵を描こうと思ってはいる。

「寅次郎な日々」は結構毎日続いている。書いていて、まあ楽しいのと、短い時間で書けるので、あと数週間くらいは続くかも…(^^;)ゞ
飽きて、書くのがめんどくさくなったらそこでやめようかな、なんて不謹慎な事を思っている。今のところは大丈夫ですが、飽きたらお許しを。




明日、25日の「寅次郎の日々」は小さい頃の寅とさくらの話でも書くかな…、なんて呟いていたら、
息子が例のごとくチョロチョロっとイラストを描いてくれた。聞いてみると、どうやら寅が家出をする半年前あたりの2人らしい。
最近は彼のイラストも手馴れたものになってきたなァとひそかに感心している。





                   龍太郎 作   幼き日の寅次郎とさくら

               











2005年11月16日  ただ今、四日坊主中  ― 寅次郎な日々 ―



第32作「口笛を吹く寅次郎」で、高梁のお寺の長女であるマドンナの朋子さんに惚れた寅が、ひそかに寺の婿に納まろうとして、
題経寺で坊主の修行をするが3日で逃げ出して、御前様がカンカンになって怒りに来たところ、おいちゃんが悪乗りして「これが
ほんとうの3日坊主です」なんて言うもんだから、御前様はもっと怒り出してしまう、という場面があったが、私も今までの人生で
3日坊主のオンパレードである。3日持たなかった決意も盛りだくさんにある。今回もよせばいいのに、「男はつらいよ覚え書ノート」
にお気楽コラム『寅次郎な日々』を連載し始めた。

別になにもたいそうなことは考えていない。ちょろちょろとその日思いついた『寅ネタ』を書いてみようかな、なんて軽い気持ち
で始めたのだ。まあ、アイデアはそれなりに浮かぶので、それは心配していないのだが、問題は「やる気」がどこまで続くか…。
わが阪神タイガースの金本の兄貴は連続イニング出場の記録をどんどん更新し、来年は世界記録にも迫る勢いだ。う〜〜ん。
ここらで私も奮発して「毎日アップするぞ!」と思うことにする。とりあえずどこまで出来るかわからないが、ちょろちょろっと書くだけ
なのでまあ続くとは思うが、「毎日」ではなくやっぱり「ほぼ毎日」とセコイ目標にしておこうと今思った。

どーせ、私のことだから、毎日なんて書けばそれこそ義務化して、いやになってくるに違いないので、毎日かな…、いやいや…
やっぱり時々はパソコンが壊れるので2日に一度かな…、いやいや仕事が忙しい時は3日に一度かな…、バンコクに行ったり、
日本に帰ったら一週間に一度かな…、という感じでやっていこうと思っている。だから、これはあくまでも「だいたい毎日」もしくは
もしくは「毎日だったらいいなあ」ということにする。あ〜〜最初からこんな決意ではもう先は見えたようなものだ。まあでも、、2日に
一度であろうが、飽きてやめてしまおうが困る人なんていないのが最大の強みだ!(とほほ)。 
で、ちゃんと今日も書いたので今日で4日坊主中。


3日まえに息子が生まれて初めて、うどんを打った。小麦粉と水と塩を使って一から作るまっとうな手打ちうどんである。
彼はパンを作るのが上手いので、さすがに手馴れたもので、塩の入れ方も、足で踏む時も、麺棒で伸ばす時も失敗はほとんどなく
最後まで成功した模様。さっそく茹でてバジルのてんぷらうどんにしてみんなで食べた。見た目はちょっと悪いがこれがなんと美味いのである。
う〜〜ん、なかなかやるな…。歯ごたえは讃岐うどん風で、関西出身の私としては涙が出るほど嬉しかった。これからも彼をおだてて
週に1回ほどは作ってもらおうと密かにもくろんでいるのだが…。






                    息子の人生初めての手打ちうどん。コシがあって美味かった。

                  














2005年11月7日  思うだけで動く指、見えずとも見える風景  ― 驚愕の神経工学 ―


先週、サイボーグ世界をドラマにした攻殻機動隊のことを書いたが、昨日のNHKスペシャル(1時間15分)で、その分野の開発が、
ほんのここ数年で急速に発達していることが紹介され衝撃を受けてしまった。取材は立花隆さん。取材地は全世界に及んでいた。

その名も「神経工学」
たとえばアメリカ・テネシー州の男性は、感電事故で両腕を失ったが、今、頭でそう思っただけで動かしたいように動く「人工の腕」を
すでに手に入れている。完全に視力を失ったカナダの男性。ビデオカメラで撮った映像を直接脳に送りこみ、光を得ている。現在は
僅かに光が動く程度だが、2014年頃には1000画素の実現が可能らしい。
また、頭で思っただけ!で、少し離れた場所にある人口の腕と指が思ったとおりに動かすことができるのだ。これも映像で映った。
頭で思っただけで、パソコンのマウスのポンターを自由に動かすことが出来る映像!これも紹介された。

このように、医療・福祉の分野でサイボーグ技術によって、人々は人生を取り戻し、今までの人類が体験したことのない新たな感覚を
得ていることが実際に神経の手術をした人たちへの詳しい取材によって明らかにされていった。

また、パーキンソン病などの難病の治療に劇的な効果をもたらしている。これも具体的に患者さんが正に症状が消える瞬間が2例
取材されていた。しかし、この研究は、現在、うつ病、強迫神経症などにも応用され、「人の心」に関する部分の調整にまで今や急速に
踏み込もうとしている。

どのような科学も治療も諸刃の剣。この神経工学が軍事技術に使われるのは目に見えてはいるし、アメリカの国防省も膨大な予算を
この研究に投資しているし、そもそもケーブルを脳や腕、足などの神経に入れるその手術そのものが危険が伴わないとは言い切れない。
それでも完全な盲目の人が、脳で感知した光によって、人生を激変させた事実はあまりにも私にとって衝撃的で感動的だった。


これらはほぼここ5年ほどで飛躍的に伸びたものばかり、あきらかにここまで来ると、あと10年後には、凄い時代になっているはず。
攻殻機動隊の時代設定は2030年代。おとといまでの私は、2030年代はいくらなんでも設定が早すぎるよ、と、せせら笑っていたが、
あながちそんなに早くはないかも…なんて思ってしまった。



思えば、あの1995年、ウィンドウズ95が世に出た時、このネット社会が大きく開かれたことを自覚し、私は生まれてから未だかつてない
衝撃を受けた。実際、この日記も全世界の人が見ようと思えばちょっとした環境さえ整えれば誰でもどこでも一度に見れるのだ。
昨日の「神経工学」の奇跡も、あきらかにそれに似たぶっ飛びだった。

「神経工学」のインターネット上でのサイトは私たちでも理解しやすい総合サイトや紹介サイトがまださほど見当たらないが、そのうち研究成果が
もっと明らかになっていくにつれ、私たちの目の前に次第に紹介されていくだろう。

『攻殻機動隊の世界』はもうそこまできているのだ。どおせなら、ついでにタチコマも一緒に来て欲しいものだ。






先日も書いたように、攻殻機動隊の最終回でタチコマたちは全滅するが、最後の『タチコマな日々』で天国に行ったタチコマが出てくる。
そこでタチコマの後に造られたウチコマと遭遇する。そのときの様子を息子が手作りアニメで再現した。↓


                           













2005年10月30日  『タチコマ』よ永遠なれ! THE GHOST IN THE SHELL



ようやく長いドメイン移管とサーバー換えが全て完了した。長い長い苦闘の2週間だった。いろいろ大変な事もあったが、
とにかく移管は成功した。昨日から日本の優良サーバーを、使用できている。
もちろんドメインネームもURLも今までどおり使用。よかったよかった。

それと昨日「寅次郎夕焼け小焼け」の3回目をこれまたようやく更新できた。ここのところ仕事が忙しいのと移管作業がちょっと
手間取った事で更新が遅れてしまった。「予告篇」特集は長い間休んでいるが、来週あたり1つ作ろうかな、って思ってはいる。
期待しないでゆっくりお待ちください。

あと、これは前々から気になっている事だが「男はつらいよ、覚え書ノート」のアップした作品の中で、第1作から
第9作あたりまでとそれ以降の作品たちとの気合の入れ方が違うのだが(^^;)ゝ、これも徐々に手直しして、同じような
質の物に近々改良するつもり。最初の頃は、そうとうお気楽な気持ちで軽くアップしていたので、未整理な状態や、
やり切れてない部分、考察されていない名場面などがそのままになっている。それらの改訂を待ってくれている
方々もいらっしゃるのでがんばって手直ししようと思っている。11月あたりから第1作から第9作までを1ヶ月に2作品くらいの
ペースでなんとか改訂、補充、整理、させ、より一層中身を充実させたい。第10作以降はあまり手直ししなくてもまあ
大丈夫だろう。しかし、生来の怠け者ゆえこれも気長〜〜にお待ちください。

バリはいよいよ雨が多くなってきた。もう雨季は目の前に来ている。敷地の植物も勢いよく伸び始めた。
雨が多いので、写生は控えて、テラスで息子を描いている。あまり長くモデルになってくれないので大変だ。
それはそれで集中力が養われていいのではないかとも思う。



ここ1年ほど息子は「攻殻機動隊」(THE GHOST IN THE SHELL)というテレビ連載のアニメーションをバリでも日本でも
見続けている。日本ではDVD、バリでは衛星放送のANIMAXで。これはテレビアニメーションだが子供ではなかなか理解できない。
中学生からなんとか理解できるくらいの大人が見るアニメーションだ。実によく練られた秀作だと思う。
私はこう見えてもアニメにはかなりうるさいのである。この「攻殻機動隊」は映画も2本作られている。


物語は科学技術が発達した近未来日本が舞台のSF。普通の人間と義体と呼ばれるサイボーグが混在する社会で
起こる様々な犯罪に立ち向かう武装組織公安9課の活躍を描いた物語。主人公は実質上のリーダーである少佐と
呼ばれる草薙素子とチームメイトのバトー。彼らもほぼ完全なサイボーグ(義体)で、脳だけが生身の人間を残している。
物語の世界となっている近未来では、人間が身体の一部あるいは全部を機械化し、現実の世界と仮想現実の
世界(電脳世界)が複雑に入り混じった社会が訪れており、(正にマトリックス!)その歪みが全ての事件に絡んでいく。

絵としては、ジブリに迫るくらい背景画が上手い。動画(人物)はまあまあ程度。普通。しかし世界水準はしっかりある。
音楽も実に凝っていて、なぜだかロシア語が中心。日本の民謡の声も交じり合った魔か不思議な音になっている。

しかし、それよりもなによりもその独自の『世界観』がたまらなく面白い。
それぞれの事件の設定もその展開も実に綿密にマニアックに描かれていて感心しきりなのだ。現実のリアルな問題、
例えば薬害や難民問題などをかなりの考察の末に展開させている。このアニメーションに影響を受けてあのハリウッド映画
「マトリックス」が作られたくらい多大な影響を各方面に及ぼしたらしい。

ところで、この物語には実にユニークな「タチコマ」と呼ばれる公安9課専属の水色をした思考型戦闘車両(人工知能ロボット)がゾロゾロと
登場する。目の様に見える三つの光学素子を持つ球形の外部観測機器と口の様に見える短砲身のロケット砲を特徴とする。
高度の人工知能(AI)を塔載し喋る事が可能で、物語が進むに連れて各自の個性なるものが進化して行き、独自に問題を解決しようと
する傾向にあった。

性格は隊員の心を柔らかくするためか「童心」を持ち、知能は逆に優れた科学者と哲学者のセンス、そして 攻撃部門はA級戦闘能力を
備えている。そのアンバランスさと可愛い姿かたちがどんどん人気を呼び、遂には各物語の最後にタチコマだけが登場するギャグアニメ
「タチコマな日々」が作られ、本編に負けないくらいの人気を誇っている。私もこの「タチコマな日々」は大好きで全て見つくしている。

しかし、本編物語の最終回では核爆弾で難民たちを皆殺ししようとした裏の国際プロジェクトに立ち向かい、核爆弾の粉砕と引き換えに
タチコマたち全員で死滅する、という悲しい運命が待っていた。

ともあれ、私は今、この「タチコマ」にハマッテいる。



下に息子が考えたタチコマを使った変な1コマまんがを掲載します。



                         絵:龍太郎  「 AI将棋名人戦 第9局 」

                  



                                    










2005年10月23日  鯖よ、考えるな、感じるんだ! Don't think. Feel!  


ここ半年ほど、サーバーがよく落ちる。このサーバーは私の村の友人がらみのサーバーなので、なるべく使ってあげようと
我慢しているのだが、特にここ3ヶ月はひどい時は10日に一度の間隔で落ちてしまう。それも3時間4時間落ちはあたりまえ、って感じだ。

特に今年に入ってからこのサイトは多くの人が毎日見てくださるので、昨日からいよいよ日本の質の良いサーバーに変えるべく作業中。

ドメインネームは、なるべくそのままwww.yoshikawatakaaki.comを使おうと思うが、移管が上手くいくかどうかはわからない。
日本のサーバーから日本のサーバーに移るときなどは、別段問題ないことが多いが、このインドネシアのサーバー(この場合、中間業者)は
技術的にも倫理的にも(これが問題)たぶんめちゃくちゃなので、どうなるか分からない。信じられないだろうが、これがこの国の現状なのだ。
まあたぶん大丈夫だとは思う。

もし上手くいかなくてなんだかメチャクチャになったときはとりあえず臨時避難サイトのwww.takaakiyoshikawa.comから見れるようにはする
つもり。この臨時避難サイトは、ドメインもサーバーも全て日本の信用できそうな会社なので大丈夫。
(もし上手くいっても今度は反映されるまで丸2日ほどかかるらしいのでこの場合は広い心でお待ちください。)


もし、移管が上手くいかなかった時は、いっそうのことこの際全部捨てて、ドメインネームを新しくしてしまうか…。
うーむ。長い目で見ると全部変えてしまったほうがいいかも。しかし、そうなるとURLを変えなくてはならない。これもいろんな人に迷惑が
かかる…。


この国では、インターネットに限らずなんでもめちゃくちゃだ。正に仁義なき闘い。ウブドに常時接続が来ると正式に発表されてからもう半年も!
たつのにまだ来ていないらしい。なんでもかんでもこうなので、私はなにがあっても深刻に考えないようにしている。突き詰めて考えてしまうと
明日にでもこの国を出たくなる。広い心でこの国の人々の心を『感じ』「まあ、それもいいだろう。」と意識を飛ばすしかないのだ。逆にこの国の
めちゃくちゃさや、いいかげんさが、私の心を開放してくれてもいるのだから。目先の問題に執着せず、遠くを見るようにしている。

【燃えよドラゴン】でのブルース.リーのセリフが座右の銘だ。

Don't think.FEE〜L !」 「考えるな、感じるんだ!

「 It is like a finger pointing away to the moon」 「それは月を指さし感じることだ。」

彼の指先をつい見てしまう少年をまた叱り、

「Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory.「指先にとらわれるな、とらわれると真の栄光を見失う」

私は、この言葉を胸に15年間、この国に生きてきた。まあ、別にいいか。大きな流れの中で感じようと…。そのスタンスこそがこの豊穣な
自然が宿る熱帯には似合うのだから。




「サーバー落ち」のことを息子は茶化して2ちゃんねるっぽく「鯖落ち」と言っている。下に息子が描いた変な漫画を貼り付けます。




                        龍太郎  作     『鯖落ち道場』

                  




一応下にあのシーンを書いておきましょう。


Lee: Kick me. Kick me.
Lee: What was that? An exhibition? We need emotional content. Try again.
Lee: I said, emotional content, not anger. Now, try again. With me.
Lee: That's it. How did it feel to you?
Lao: Let me think....
Lee: Don't think. Feel. It is like a finger pointing a way to the moon.
Lee: Don't concentrate on the finger or you will miss all that heavenly glory. Do you understand?
Lee: Never take your eyes off your opponent, even when you bow.
Lee: That's it.








2005年10月13日  粘って粘って生き抜くこと


ただいま、バリ島はお盆の真っ最中。ガルンガンという。10月5日から15日まで亡くなった人々が家に戻ってきている。
バリの暦は半年で1サイクルなので西洋暦では1年に2回お盆が来る。不思議なことに同い年で親友のアグンライが
亡くなってから、お盆のたびに彼が私の鉢に植えた名もなき白い花が咲くのである。毎年ガルンガンの度にこの話題をするが、
本当に偶然が続いているのだから仕方がない。今年は6月に咲いたばかりで、その事は6月の日記にも書いた。
だから、今年のガルンガンはさすがに間に合わないだろうと思っていたら、なんと今年もガルンガンの最初の日に見事に咲いた。

この花は咲いてから枯れるまでだいたい1週間くらい。1年に3回ほど咲くのだが、そのうちの2回がいつもちょうどガルンガンの
時なのだ。もう3年も全く同じことが起こっている。この静かな事実に私は独り驚愕している。やはり、本当にアグンライが
この敷地に降りてきているんだ、と思わざるを得ない。彼は私に何を訴えているのだろう。あの白い花はなにを私に
伝えようとしているのだろう。あの花のように清楚に生きろと言うのであろうか。この退廃した混迷の世の中で…。

どうしてアグンライはあんなに早く死んでしまったのだろうか。彼は病気がはっきり分かった後も、私も兄弟たちも手術を勧めたにも
かかわらず結局彼は手術を選ばず、ほとんど西洋医学的な治療を受けないまま、聖水だけをお坊さんから毎日貰い、飲んでいた。
そのうち、ゆっくりゆっくりやせ細っていき、最後の2ヶ月は1日中部屋に引きこもって、私とも会わなくなり、私は時々家族と
話している彼の声をテラスから聴くだけになっていた。
私は日本に一時帰国し、北アルプスの剣岳に登っている時に彼は静かに自分の部屋の中でお父さんや兄弟姉妹に見守られながら
42歳の人生を閉じた。彼が亡くなる2日前、彼は自分の部屋の前の道の足音を聞いて、タカアキが日本から帰ってきたのか?と
聞いたそうだ。私は私で以前書いたように、亡くなる前の日に、剣岳の山小屋で彼の夢を見た。


あのような生きざまがこの世にはあるのだ。彼は彫刻家だが、そんな肩書きは一度も意識していなかった。展覧会もやろうとも
しなかった。お寺のための彫刻をいつも彫っていた。私も展覧会という西洋人の考えた過激な自己主張の行為を彼には
あえて勧めもしなかった。結婚もしないし、子供もいない。酒も飲まないし、コーヒーも飲まない。彼のような静かな気持ちで
私も絵を描きたいし、彼の彫刻のような何ものにもとらわれない絵を描きたい。しかしこの雑音があまりにも多い世の中で、
生活費も稼ぎながら、そのような絵を描き続ける事がどれだけできるだろうか。孤独との闘い、そして孤独との共存しかないので
あろう。絵を描き続けること。暗闇の地べたを這いずり回っても粘って粘って生き抜くこと。絶望の中でも描いて描いて諦めないこと。
これしかない。地獄の中にも白い花は咲くと信じたい。




                1991年頃のアナック.アグンライ.ブディアルタ(当時30歳くらいか)

              











2005年10月4日  地獄の隣に生きる



10月1日の夕方にバリにようやく着いてほっとしていたら、いきなりローカルテレビでテロ事件の生々しい映像が映し出されて来た。
日本人の犠牲者も…。10月1日の3時ごろに空港にいたので、空港でテロを起こされていたら…、と考えるともう自分ごとに限りなく
近い事件となってしまった。この島はここ十数年世界中から注目を集めるリゾート地になっているので、何があってもおかしくは
ないのである。私はまたもや今、地獄の隣に腰を下ろしているのだ。今でもちょっと頭の中が混乱している。

それにしてもなぜバリなのか?そしてテロの目的は何なのか?非常にこのあたりが不鮮明なのである。

一番考えられる事は上にも書いたがバリ島は世界有数のリゾート地だから、その地でテロを起こした場合注目度が非常に高い。
組織の宣伝になるということだろう。ジャワはイスラムが多いがバリはほとんどいないということもあるかもしれない。

しかし、ではなぜテロを?テロリスト指導者たちは何を要求しているのであろうか?
それが実に不鮮明なのである。アルカイダとジェマ・イスラミアの利害関係、多額の報酬。またはその組織間での地位の確立
という事なのかもしれない。そして、大きな流れとしてイスラム世界の世界支配という妄想が起爆剤となっているのかもしれない。
 
今、ウブドは南部のリゾート地から非難してきた観光客でどのレストランも溢れている。



こうなってくるとずるずるともう暗い話ばかりになってしまうので今回は無理やりでも明るい話もしようと思う。

ついに阪神タイガースがセリーグの覇者となった。
前回の優勝の時はこのホームページで賑やかしく特集を組んだが今年はわざと静かに見守っていた。前回の優勝のカギを握っていたのは
矢野捕手だった。今回の優勝のカギは若い藤川投手だ。彼はこのペナントレースの間投げて投げて投げまくった。
あまりにも投げまくったので1シーズンの登板日本記録を作ってしまったほどだ。とにかく今のセリーグで、ストレートがストライクゾーンに
来ることが分かっていて三振を取れるのは彼だけである。これは凄いことだ。野球小僧たちみんなが夢見たことなのだ。
高校時代硬式野球のピッチャーだった私にとっても夢だった。昔で言えば全盛期の江川がそうであった。彼はケレンがない。
あの気迫とがむしゃらさが阪神をグイグイ引っ張っていったのだ。

パリーグは親子2代のホークスファン。ホークスもこれまたレギュラーシーズン1位獲得だ。プレーオフ、日本シリーズとこの後あるが、
誰が何て言ったって136試合のレギュラーシーズン1位を獲得するのが一番難しい事は当たり前。このことは結構みんなよく分かっていない。
冷静に考えるとレギュラーシーズン1位のチームが本当の意味で優勝なのだ。リーグを面白くするために、プレーオフをするが、やはり
長い長い136試合のレースを勝ってきたチームは偉いのである。この重みを世間はもっと評価してほしい。ほんとうによくやった。

これで2003年のタイガース対ホークスの日本シリーズの再来が近づいてきたのだ。どちらも勝たせてやりたい。この前はホークスが
勝ったので、今度はタイガースかな。


ところで、我が家の猫は45日間の空白にもかかわらず、なんとか家出もせずに、敷地で暮らしていた。もっとも、前のアグンライの家族が
毎日餌や水を与えてくれていたので一応安心だったが。人間も猫も一寸先は闇の中だ。偶然が重なってみんな何とか奇跡的に
生き抜いているのだろう。





                    45日間の空白の時をなんとか生き抜いた我が家の猫たち

                 







                さまざまなホテルなどが王宮に弔意の看板を捧げていた。4日午後ウブド

                










2005年9月12日 これがエンターテイメントだ!


ようやく大方の展覧会が終わろうとしている。現在開いている金沢郊外の展覧会が最後で、これが19日に終わる。
これで仕事の日程は一応終わる。全体的に昨年並の成果という感じだ。昨年同様絵のほうは大きめの油彩画が数枚、
小さめの油彩画、水彩画が十数枚ってところか。オリジナルの染織作品の方は昨年同様安定した成果をあげることができた。
おそらくこのままいけばまたなんとかギリギリバリに戻れる。8月末は雨が続いたせいかお客さんの出足が悪くて今度こそ破産か、
と思ったが後半なんとか持ち返して辻褄が合った。

しかし、昼の展覧会の仕事と夜の映画鑑賞過密スケジュールが続いたため、バリ日記と第17作「寅次郎夕焼け小焼け」
の更新が大幅に遅れてしまった。どうしても日本滞在中は、日本滞在中でしかできないことを優先してしまう。
で、ようやく今日から夕焼け小焼けのアップに取りかかろうと思う。
おそらく第1回目の「寅次郎夕焼け小焼け」の更新は9月21日ごろになります。みなさん広〜いお心でゆったりとお待ち下さい。

ところでこの「寅次郎夕焼け小焼け」は私が全48作の中でもっとも多くの回数を観た映画である。特に人生の中で精神的にも
肉体的にもかなり苦しかった30代の終わりに1年に何十回と観た記憶がある。

このシリーズで私が最も好きな作品は
第1作「男はつらいよ」第8作「寅次郎恋歌」第15作「寅次郎相合い傘」第17作「寅次郎夕焼け小焼け」である。
この4作品は私の中ではダントツで、どれも甲乙つけがたい名作だ。しかしこの中でなぜかこの第17作を頻繁に
観てしまう。たぶん一番観易いのだと思う。この作品の中には映画というものの全てが凝縮して詰め込まれている。
これこそ映画!活劇!エンターテイメント!

瑞々しく永遠に光り輝く密度の濃い傑作である第1作。シリーズ中最も力強く奥深い名作長編第8作。このシリーズ最高の切なく美しい
恋の物語であり、マドンナの魅力と演出の冴えがシリーズ中群を抜いている第15作。そして映画と言うものがこんなにも素晴らしい
ものなのかと知らしめてくれた、笑って、怒って、泣いて、感動する第17作。

それゆえ、じっくり腰を据えて取りかかりたいし、楽しんで進めていきたい。どうかもうしばらくお待ち下さい。


エンターテイメントといえば、昨日小泉活劇がクライマックスを迎え、役者も、観客も見事に小泉さんの演出どおりに
動いてくれた。という感じだろうか。日本における自民党の本来の潜在的な基礎票の多さを見せつけられた結果とも言える。


役不足という言葉があるが「岡田代表」は『主役の星』を持っていないことがばれてしまって、途中降板されたともいえる。
意外性のない学級委員タイプは退屈だ。ということなのだろう。さらに不運だったのは、今回の活劇の助演俳優の役を元自民党の
郵政民営反対グループに持っていかれて、自分は外野に回ってしまったということなのだろう。国政選挙は「単純で強いイメージ」を
持ったほうが勝つ。要するに新しくのし上がってきたボスがそれに反抗する古株ボスたちをコテンパンにたたきのめすという『暴力活劇』を
観客は観たがったのであろう。

この退屈で閉塞感のある人生で、頭の固い学級委員の理屈理念より、クノイチ多数登場の似非勧善懲悪の暴力活劇を観たくなるのは
古今東西の人間の性である。

しかし、そうそう民衆というのはバカにもできないものがある。民衆は細かい理屈には極めて苦手で雰囲気やイメージに弱いが、匂いを
かぐ嗅覚や、動物的カンは鋭いものだ。大きな流れ的にはそんなにも間違った選択をしないのも民衆である。こんなバカ勝ちをした自民党は
やっぱり面白くないや。と、いちはやくゆり戻しを期待して言いはじめるのもやはり民衆なのである。今回自民党幹部が勝ったにもかかわらず
いやにビビッているのはこのへんのことが永い政治歴史の中で、彼らのDNAのなかに組み込まれているからであろう。

それにしても比例代表東京ブロックであまりに超大勝したため、全員当選しても、まだ一人分余ってしまった自民党。
そしてなんと社民党の保坂さんが、自民党の敵にもかかわらずおこぼれ当選してしまった。この矛盾は誰が言い訳してくれるのだろうか。
前代未聞の珍事である。社民党は超ラッキーだw。




                     山田洋次監督「寅次郎夕焼け小焼け」1976年8月24日封切り

                 










2005年8月28日   越中八尾 『聞名寺の見える風景』


 
越中八尾に戻ってきている。ここ数日ちょっと涼しくなった。朝がたはしっかり布団を被って寝ている。前も書いたが
バリに体が慣れてしまっているので少しでも涼しいのは苦手なのだ。困った体になってしまった。
8月20日から毎夕胡弓や三味線の調べがこの坂の町に鳴り響いている。おわら風の盆も絵になるが、この八尾と言う町そのものも
なかなか絵になるのだ。特に、私は越中八尾の顔である古刹の聞名寺の屋根が遠くに見える、井田川からの景色が気に入っている。
もう何枚もこのあたりからの景色は描いた。八尾小学校もここからの眺めを描いた30号の大きな油彩をコレクションとして買いとって、
ホールに飾ってくれている。 

展覧会の合間をぬって井田川風景を描く。
今回は一気に描いて、バランスが上手くいったので、ここであえて筆を置いた。こういう絵はめったにできない。柳の下にドジョウは
2匹いないのだ。それゆえ上手くいったときは実に気持ちがいい。この瞬間のために生きているようなものだ。


ところで、数日前からこの胡弓と三味線の音色に混じって選挙カーのがなりたてる声がうるさい。自民党も民主党もその他も
ガーガ-わめき散らしている。政治改革.郵政民営という美名のもとの限りなき欲望渦巻く権力闘争に日本中躍起になっている。
ちょっと離れてみていると子供じみたみっともない姿を新勢力も旧勢力もさらけ出している。人間のある側面が見事に露出した解散と
選挙だ。もともと政治の世界と言うのは下品なものだが、それにしても今回は滑稽なくらい露骨だ。仁義なき闘いとはこのことを言うのだろう。
しかしそれでも闇から闇へ邪魔者が消されたり、新興勢力がなあなあで押さえ込まれたりしていた一昔前の村社会的しがらみ政治よりは、
天下の国政選挙で決着をつけようとする気構えは一歩も二歩も前進とも言える。巷で非難されているいわゆる落下傘部隊も私には別に
気にならない。これは国政だ。地元に密着しすぎて、しがらみでがんじがらめになっている旧勢力よりもずっとまし。地元にしがらみのない身軽な
議員の方が最終的には日本のためになる。そういう意味では、小泉さんの行動力は新しい波だと認めざるを得ない。それにしてもちょっと
ヒステリックすぎだとも思う。しかし、その露出したヒステリックさと上手いドラマ作りゆえに国民の関心がどんどん高くなり投票率が増えるとしたら、
こういう意図された揺さぶりもあながち悪くはないのかもしれない。

まあしかし、小泉さんは実に喧嘩が好きだ。三度の飯より好きなんじゃないかとさえ思う。そして相当強い。よほど冷徹なリアリズムが
血の中に入っているのだろう。そして今、ゲームは再び始まったのだ。

ここ1ヶ月以上サーバーの調子が悪い。2週間に一度くらいダウンする。
昨日も半日もHPを開けることができなかった。インドネシアのサーバーっていったい…。安かろう悪かろうってことか。




                         「聞名寺の見える風景」 2005年 油彩 F4号

            


















2005年8月17日   胡弓の音を聴きに行く


今回の滞在も、今日で一区切り、このあと夕方の飛行機で日本に向かう。バンコクで
用事を済ませてから19日朝に帰国。今、私のアトリエのある富山県八尾町は胡弓の音で
染まっている。越中八尾おわら風の盆が今年も始まるのだ。

この更新は、帰国後も出来ると思うが、しばらくは忙しいので、次回更新は9月5日頃になってしまうが
お許しいただきたい。とにかく帰国後の最初の2週間のスケジュールは凄まじく。更新は夢のまた夢だ。

おっと、出発の時間が近づいてきた。今日17日はインドネシアの独立60周年の日なので盛大なセレモニーが
どの町でも開かれている。それゆえ早めに空港に行かねば、渋滞に巻き込まれる。それでは行って参ります。

バリに戻ってくるのは10月初旬になります。






                      胡弓の音 油彩 サムホール  2004年

               














2005年8月8日   無言館の絵


7月頃から、このHPの「男はつらいよ覚え書ノート」のページアクセス数がどんどん増えている。
やはりNHKで男はつらいよシリーズ関係の番組が始まったからかもしれない。テレビというのは影響力がほんとうに
大きいとつくづく思う。たくさんの人々がこのHPを見てくれるということは、ありがたいことだし、とても嬉しいことだ。
とはいえ、リアルな私の実生活はなにも変わらない。質素で平穏な日々である。

8月のこの終戦の日に近い時期になると、毎年、必ず『無言館』のことを思い出す。無言館に行ったのは、数年前の夏、台風一過の
翌日で、お客さんは私たち家族しかいなかったせいか、とても静かな中で絵を見ることが出来た。このバリ日記でも紹介したが、
何枚かの絵に強く惹かれた。純粋に絵のことを考えて描かれたこれら何枚かの絵はいわゆる美術界の人々が「若描きの絵」と
言っているのとは違う、もっと生きることをギリギリまで追い詰めていく過程における、彼らの強い視線が入っている。前にも書いたが、
あの場所に飾られている絵の全てがそうであるとは決して思わない。絵は絵であるから、やはり、当時の流行に流された絵や、
甘さが残る絵もなくはない。しかし、あの絵たちの中に私の琴線に触れる絵が何枚もあった。絵はどんな理由があろうが匿名である。
これは私の持論だ。そのように、作家のすべての余計な情報や背景を消し去って見た結果、たくさんの絵が私の琴線に触れたのだ。
無言館の絵も、ルーブルの絵も、近所の公民館の絵も私は同じように見る。やはり絵が最初にある。

無言館のこれらの絵はしがらみのない絵と言ったらいいのか、生きる事がそのまま絵を描く事になったと言えばいいのか、その画家の
呼吸が切ないくらいにタッチに託されている。タッチの中に彼らの人生の風が吹き、その風は60年後の私の頬に確かに届いたのだ。

今の絵描きさんはああいう絵はもう描かない。描きたくもない、と言うかもしれない。しかし、絵は様式ではない。本物の絵といえるのか否か、
それだけである。絵を描くに値する日々を持ちえたのかどうかにすべてはかかっているのだ。私が感動した何枚もの絵は、やはり、絵が
人生だった、人生が絵だった日々の中で生み出された、まぎれもない本物、ということだろう。間違いなく彼らは現代のどの絵描きよりも
必死で今、この時を生きたのだ。

下の4枚を見ていただきたい。これは甘さの残るいわゆる学生くさい絵では決してない。
かといっていわゆる職業画家の臭みがない。紛れもなく「絵」そのものなのだ。こういう絵を私は「絵」と言いたい。



PS: この文章を書いている最中にNHKワールドプレミアムの『新日曜美術館』でなんと無言館の絵が紹介されていた。
山田洋次監督も館主の窪島誠一郎さんと一緒にゲストで出演されていてさらに驚いた。伊沢さんの下記の絵も紹介されていて
『何気ないいつもの身近な風景がもう明日から見ることが出来ないと思うと違ったように見えてくる。そのような濃密な時間の中で
描いた絵』というようなことを言っていた。全く同感である。
窪島さんは『これらの絵を自分が見るのではなく、絵に自分が見られている気がしている』と告白していたのが印象的だった。








左:日高安典 「ホロンバイル風景」
右:伊沢洋「風景」







       










左:桑原喜八郎「少女」
右:吉田二三男「港」






                  







★ 『無言館のこと』のページへ















2005年8月2日   フライパン猫の惰眠


ようやく、現地サーバーが少し復旧し、ページが更新できた。珍しく6ヶ月ほどサーバーが調子良かったので
今度のサーバーは当たりかな、って思っていたら、ここ10日ほど酷い状態…。この国はこの手の通信ものはたいてい最悪。
バリ島にも先月からADSL(常時接続)が来た。このウブド村にも今月から来る予定だが、いい噂は聞かない。もちろん日本の
大手プロバイダー会社のように、最初の2ヶ月無料とか、格安モデムレンタルなんていう設定はバリではありえない。
結構お金がかかる。お金の払い損になるかもしれないのでちょっと考えている。


ところで、いよいよウブドの、私が住んでいるこの渓谷も気温が1年で一番低い季節になった。この島は南半球にあるので、
熱帯雨林といえども一応は冬である。一番気温が高い2月頃と比べて夜の気温で7℃程違う、なんだたった7℃の差かと、
思われるだろうが、熱帯に住んでいるとこの7℃の差は致命的である。日本の冬は、もう9年ほど経験していないがおそらく
今日本の冬に帰国したら数日で入院は間違いない。15年も熱帯で住んでいると、もう全く体がこちらの暑い気候に順応して
しまっているのだ。こんな体になってしまってこの先どうしたらいいのだろう。これじゃ日本の冬に一生帰れない。困った〜。

逆のことをいえば、日本に帰っても暑いのは全く平気。37℃であろうがなんであろうが、富山の自宅にはエアコンはないし、
たとえあってもつけないだろう。小さな扇風機もあるにはあるが、窓を開けるだけのことが多い。だから帰国はいつも夏である。
そして、私は停電にも、断水にも、雨漏りにも、怖い動物にも、アリにも、蚊にも強い。もう全く大丈夫、ほとんど気にならない。
まあ、もっとも、今の日本で、そんなプロブレムは遠い離島に行ったってめったにおこらないのだろうが。

ところで寒さに弱いのは人間だけでなく、私の家の猫たちも同じ。彼らは天然毛皮をしっかり着用しているくせに、いやに寒がりな
ところがさすがバリ猫だ。ちょっとでも寒いと、調理直後のガスレンジの上や、電子ジャーの上、冷蔵庫の裏などでみんなで
かたまって丸くなっている。小さいと何かと居場所が多いから得だ。昨日は洗い終わって熱した後の鉄のフライパンの上で
丸くなって惰眠をむさぼっていた。

まあ、気持ちは凄く分かる。私も大きなフライパンの中で何も考えずにホカホカとぐっすり眠りたい。






       フライパンに乗る猫、寄り添う猫。                   台所の隅の壊れた洗面器の中で身を寄せ合う洗面器猫

       













2005年7月25日    秒の殺し屋.スプリンターたちの情熱 


昨日、近所のDVD屋で今までなかった黒澤明映画が入荷された。「用心棒」、「椿三十郎」、
「羅生門」、「乱」、「まあだだよ」などである。つい先日、松村達雄さんのことでこの日記にも
「まあだだよ」は書いたばかり。日本ではそれぞれ持っているが、バリ島には持って来ていない。
それで、つい全部買ってしまった。5作全部買っても合計800円!日本では絶対ありえないこと。
(良い子の皆さんは真似をしてはいけません)。家に戻って百關謳カを演ずる松村さんをあらためて
見たが、やはり見事な存在感で、悠々とこの難しい役を演じておられた。あの人は本物だ。



ところで、昨日から新しいページをアップした。題して『男はつらいよ.予告篇集』

松竹映画「男はつらいよ」のDVDには本篇以外にもうひとつ貴重な宝が入っている。それは『予告篇』だ。
陸上選手で言うなら本篇は長距離ランナー。予告篇はスプリンターだ。スピード感とリズム感の妙。
この予告篇は、たかだか2分から3分だが、実に味わい深い編集がなされている。

それもそのはず、この予告篇を見て、お客さんは、実際に本篇を見ようかどうか決めるのだ。
編集に携わった人々は常に1秒1秒の編集に真剣勝負だったと思う。ある数秒のカットで観客がコロッと
参ってしまって、本篇に強い関心を示す事なんてたくさんあるのだから、百のゴタクよりも一つの映像が
強いのだ。だから、時としていろんな物を挿入する。それが本篇にあろうがなかろうが、筋が読めなかろうが、
まず、テンポが良くて、面白く、印象深いカットがあること。だから、時としていきなりロケ現場やNG場面や、
物語上ありえないカットがポンポン挿入されていたりする。音楽も本篇と若干違う事も多々ある。もうなんでも有り。
たった3分間だがどのカットも本篇採用のカットとは、微妙に違うシーンがわざと入れられてあるのが心憎い。
どちらかというと本編と全く同じカットを使っている方が少ないくらいだ。いや、ほとんどないといっていいだろう。
とにかくこの3分に全てを賭けるわけだから時として輝くような印象深い予告篇も何作もある。
そういう意味では予告篇は「具象」でなくてどちらかというと「抽象」なのだ。

しかし、一般的には、この『予告篇』たちは、いつも本篇の陰に隠れて日陰者扱いになっている。
そこで作日から私がその『予告篇』をこのページで簡単ではあるが週に1度か2度ずつ全48作品を9ヶ月かけて
紹介していきたい。秒の殺し屋.スプリンターたちの一瞬に賭ける情熱を甘く見てはいけないのだ。



それにしても「篇」と「編」。どちらを使おうかいつも迷う。今回の予告編は、松竹さんの記述を見習って、本来の使い方
である「篇」を採用して「予告篇」とした。




21日の夜の満月は、明るくて、ジャングルの中でも十分に夜の散歩ができた。息子が例のごとく粘って写真を撮っていた。





                               21日の満月   撮影:龍太郎

                 














2005年7月17日     拝啓   NHK 様 



8月から、いよいよNHKBS2で「男はつらいよ」全48作が2年間の長丁場で放送される。
何年か前にテレビ東京でも全作が放送されたが、今度はNHKBSだ。コマーシャルも
カットもないので楽しみである。それだけではない、それに先立って7月30日(土)から
放送前日の8月5日にかけて「BSまるごと大全集 男はつらいよ」を放送。
山田洋次監督、倍賞千恵子さん、マドンナ役の女優さんなどをゲストに迎えて
寅さんの魅力のすべてを紹介するそうだ。このことを企画したNHKの方々の並々ならぬ
情熱と見識の高さに敬服している。ある意味よく通ったなこんなマニアックなこと。
とも思うが、さすがNHKだ。志が高い。いっそのこと映画の中の放送禁止用語など気にせず
完全ノーカットで放送していただければ最高なのだがそのへんのところはどうだろう。
この一連の放送によって、ますますこのシリーズが世の中に浸透し、ファンも激増するだろう。

この映画は昔から、食べず嫌いの人が驚くほどいる事を私は知っている。しかし、一度見ると
必ずこの映画は不思議に見る人の心を洗ってくれるのである。そしてすぐに次の作品が見たくなる。
気づいた時には48作を全部見てしまっている。


ただ、しかしだ!私の住んでいるバリ島はNHKワールドプレミアムしか衛星放送は映らない。
このNHKワールドプレミアムというのはNHK総合を核としてNHKの5電波(NHK総合、NHK教育、
BS1、BS2、BSハイビジョン)を適当にセレクトして番組編成している放送局なのだ。
それゆえBS2も一部しか見れないのである。

今のところ7月30日からの「BSまるごと大全集 男はつらいよ」を放送する予定は
NHKワールドプレミアムにはないようである。(あくまでも推測だが)


NHKの皆々様。外国にも寅さんファンはたくさん住んでいます!というよりも外国で
長く暮らしている故に「男はつらいよ」を何度も見ては日本を懐かしみ、心を慰めている方たちが
どれほどいるか私はよく知っています。みんな美しい日本、そして、美しい日本人の心を見たいのです。





拝啓

NHK様 突然のお便りをお許しくださいまし。
祖国日本を出しより15年余り、思えば月日の経つのは早いもの。
風の便りに「BSまるごと大全集男はつらいよ」の知らせを聞き、
寅さんファンとして喜びこれに優るもの無く、
是非、NHKワールドプレミアムにおかれましても放送していただけますよう、
恐惶万端引き立って、よろしくお頼み申します。

                   遠き南の島より  吉川孝昭 拝

 

     






                     



         絵・龍太郎










2005年7月11日   巨大棺おけの中で眠る日々 



乾季の真っ最中なのに3日間激しく雨が降った。ここは一応熱帯雨林。こんなことは実によくある。

で、つい数ヶ月前に修理したばかりの部屋の屋根からまた雨漏り。
雨の中息子と屋根のてっぺんにゴアテックスを羽織って上がり、泣く泣く修理。これがまた雨が降っているので作業がはかどらず
長引くのだ。どろどろのびしゃびしゃ。下着までずぶ濡れ。強い雨が何日か続くと必ずこういう雨漏りがどこかでおこる。

1年中こんなことばかりやっている気がしている。4年前、この家を作る時に面白がって台所も風呂もアトリエも
居間も寝室も全部別棟にして屋根も当然ながら別々にした。それゆえ、昨年あたりから、いつもどこかの屋根が何かの問題に
巻き込まれる。

なにも修理しなくていい1週間なんてここ数年あったためしがない。直しても直しても一寸先は闇の暮らし。いや、一寸先どころか
闇のど真ん中だ。まるで自分の人生そのものだなと苦笑している。

絵がたまに売れても、次にいつ売れるか全く分からない。毎日が暗闇の中にいるようだ。そして、いよいよもう破産だ、
という頃に、ひょんなことからまた絵が少し売れる。そしてまた生き延びる。、せっかく生き延びたのに、絵を描く以上の膨大な
時間を、いろんな修理ごとや修繕ごとに使っている。まあ、修理できた時はそれなりに嬉しいが、やはり果てのないジャングルの
暗闇の中に生きているのだなと思う。

しかし、たとえどのような人生を選んでいても暗闇の中に生きているという感覚は消える事はなく、同じだったのかもしれない、
とも思う。この感覚は私の気質というか生涯背負って歩く業かもしれない。

そして、暗闇の中がひょっとして意外に好きなのかもしれないとさえ思うときがある。たとえば、3m×4m私の寝室は高床式米倉を
改造したもの。だからガラス窓が一切ない。観音開きのドアも木だし、壁も木。いったん閉めれば、屋根は茅葺きだが、米倉を
改造しているので天井は低め。当然ぐるりは棺おけの中のように真っ暗。しかし、これが実に寝心地がいい。毎日、寝るたびに
木の梯子を上って巨大な棺おけの中に眠りに行く。ジャングルの中なのでこの世の終わりのように静か。そして、朝、起きて、
また分厚い木の観音開きの扉をギギッと開ける。そうするとまた白く眩しい外の世界が目の前に現れるのだ。この瞬間、生まれ
変わったように実に新鮮な気持ちになれるから不思議だ。『昨日は過ぎ去り、もう存在せず、明日はまだ来ない。今を生ききれば
それで良し。何も考えない。』という気分になれる。これは体験した者でないと分からない。まあ、体験したくもないと言われる人も
多いだろう。これまた良い子の皆さんは真似しないように。








                    雨の中泣く泣く修理する私と息子、雨が少し小降りになったのでデジカメで撮ってもらった。

                     












松村達雄


2005年7月3日    金無垢の人  − 松村達雄さん −


黒澤明監督の作品「まあだだよ」の主人公内田百關謳カを演じた松村達雄さんは、百關謳カの醸し出す
飄々とした柔らかなキャラクターを見事に実に長丁場に渡り演じて見せた。すばらしい演技だった。
あの、小柄で、か細い松村さんが、そうそうたる俳優たちに囲まれても、ひときわ大きなオーラをだしていたのは
実に爽快だったと同時に、松村さんの役者としての奥の深さを垣間見た気がした。生徒たちは百關謳カのことを『金無垢先生』と
呼び、その純粋無垢でかつ、高邁な見識をもった美しい人生は多くの教え子たちの人生の羅針盤となったのである。

まこと飄々とした無欲な百關謳カは松村さんそのもの。「男はつらいよ」で、知り合った渥美さんも、人生観に共通点を感じ、
松村さんを慕い、渥美さんには珍しく、プライベートでも付き合い、松村さんの自宅にもよく遊びに行ったそうである。
病気がちな松村さんは、第13作「恋やつれ」を最後においちゃん役を降りる事を決意。もともと、そういう約束でおいちゃんを
山田監督から頼まれて引き受けていた。渥美さんも山田監督も、引き止めに必死だったが、松村さんの決意は変わらなかった。

最晩年もお互い重い病気を抱えていた二人は時々会ったり、電話をしたりと交友を続けていたそうだ。どんな真面目な
インテリ役をしても、どこか可笑しみが滲み出ているそのキャラクターは、ほかの人には出せない、正に「軽妙洒脱」を
地で行く人生だったと思う。

松村達雄さん、2代目おいちゃん。 
パチンコ好きで、ちょっと怠け者で、ちょっとスケベで、駄洒落好きで、喧嘩っ早くて、涙もろくて、キップが良くて、男気があって、
そして寅のことを誰よりも想っていて…。

あんな役者さんはもう絶対出ないだろう。私たちはまた、大きなものを失ってしまった。冗談でなくそう思う。




 
        第12作「私の寅さん」でとらやのみんなを笑わせる松村おいちゃん         第13作「恋やつれ」で駄洒落を言って喜ぶ松村おいちゃん
                












2005年6月25日    二十二歳の私へ


今年あたりからNHK教育(NHK映像ファイルより)で「あの人に会いたい」という番組をしていて、バリのNHKワールドプレミアム
でもこの番組は見れる。ろくな番組がない中でこの番組は実に面白い。
昔、活躍したいろいろな才能溢れる方々の往年のインタビューが10分ほど見れるのだ。
林芙美子さん、向田邦子さん、寺山修司さん、今東光さん、梅原龍三郎さん、などなど多彩な顔ぶれで、実に興味が尽きない。

先日は、青春期に私が影響を受けた司馬遼太郎さんが、10年程前にインタビューに答えていたフイルムが放映された。ご自分の
青春期にあの太平洋戦争を経験された司馬遼太郎さんは、二十二歳の終戦の年から、大きな挫折と深い疑問をかかえ、
悶々と生きてこられた。あの戦争の終わった年以降、彼の書くものは、全て当時の22歳であったご自分へ向ける言葉として
書かれてきたそうだ。そのことに私は胸を打たれた。

私も二十二歳のころは精神があらくれていた。何に対しても怒っていたし、挑戦的だった。絵を描くことに対してもそれは同じで、
絵というものに対して分かった気になっていたし、何かを強烈に信じていた。そして何かに対して強烈に劣等感も持っていた。
そんな、やんちゃな自分がぶつかっても正面から真正直に受け止めてくれるような自分の道の指針となるような『まともな大人』を
探していたような気がする。

当時の私が今の私を見たらなんというだろうか。人と随分違う変な生き方をしているので、ちょっとは興味を持ってくれるだろうか。
早々と四十歳あたりで隠遁してしまったので、爺くさい消極的な人生だと思うかもしれない。

私の描く絵はどうだろうか。適当な売り絵もどきは一切描いていないつもりだが、それでも、あの頃の血気盛んな若者に対して、
答えるべき作品が何点あるのだろうか。

私は間違った方向へは歩んでいないと思うし、どうしようもない腐ったしがらみはできるだけ落としてきたつもりだが、当時の自分が見たら
まだまだしがらみと妥協だらけのおじさんに見えるかもしれない。

あの当時の二十二歳の自分に語るに値するような絵を描くことは才能の問題もあるので難しいかもしれないが、語るに値するような
人生そのものを送らなければいけないと思う。三十代の自分と比べて年々まともな人間になってきているような気がしているのだが、
二十二歳の血の気の多い頃の自分から言わせると三十代の自分も今の自分も「同じ穴の狢」だと言うかもしれない。
司馬さんの言葉に胸を打たれたからには、私は死ぬその日まで「二十二歳の自分」に折々の時に語り続けようと思っている。
それが唯一心を動かされたことの証だからだ。それにしても二十二歳の私の視線を意識して生きるなんていうのはほんとはキツイことだ。
しかし、それぬきにして、私の未来はあるだろうか。







                           22歳の頃に描いた「筆を持つ自画像」 F30 油彩
                      













2005年6月17日    描く者としての冥利


今年もアグンライが植えていった白い花が咲いた。彼が亡くなる前に植えた花だ。
毎年ちょど7月末頃咲く。今年はしっかりまめに水をやったせいか、1ヶ月ほど早めに咲いた。
私はこの花が咲いている間、毎年彼がこの敷地に滞在していると思っている。

私と同い年でこのウェブサイトの題名にもなっている彼との仲は彼が42歳で亡くなるまで12年もの間続いた。
30歳でバリに移住した際に一部の親友を除いてそれまでの全ての人間関係を無理やり断ち切ってきた私にとって、
ほんとうに数少ない友人と呼べる人だった。バリ人にしては繊細すぎる気質で、その彫刻にも実に味わい深い趣が
漂っていた。時々お寺から頼まれては、彼のお父さんが下の川から削って運び上げた砂岩を使って神様だけを彫っていた。
彼の彫る物はアートなんていう実体のない脆弱な物体でなく、お寺の中の神様こそがふさわしいと思えた。
亡くなったから持ち上げてそう言うのでなく、実際本当にそのような彫刻だった。彼が彫る穢れがないその神様の顔は
いつも彼の亡くなった母親そっくりで、実に慈悲深い姿かたちだった。そのような彼の分身のような神様が近隣の寺々に
置かれているのは、彼にとって冥利であったのではないだろうか。

バリ島にはそれこそ腐るほど石彫が巷の店で売られているが、彼の彫っていたような穢れのない姿をしたものは、昔のものを
除いては未だ見たことがない。彼は自分が彫刻家だとは最後まで思っていなかったし、そのような浮ついた名前は彼に
相応しくない。彼は『石を彫る人』であった。

私は絵を描いて細々と売ってはいるが、自分をアーティストなどという実体のないよく分からないものだとは思っていない。
生業としては『絵描き』かもしれないが、それ以上に『絵を描く人』でありたいと、敷地に点在している彼の彫刻を
見ながら日々覚悟し、心して生きている。

今、アグンライの家族たちの部屋のテラスに、その昔私が描いた彼のお母さんの肖像画と彼を描いた肖像画が
それぞれドアを挟んで左右の壁に大切に飾られている。彼らの日々の中で、ふとした黄昏時、それらを眺めつつ
思い出に耽り、故人を偲んでいるのだとすれば、私にとっても絵を描く者として正に冥利である。




                         アグンライの彫刻に乗ってじゃれる子猫のプータと白い花。
                       







                        内寺に設置されているアグンライが生前彫った聖水置きの彫刻
                        顔は彼のお母さんの面影が濃い。

                          














2005年6月8日   豚の丸焼き攻め


昨日から、隣の寺の大き目のオダラン(寺院の記念祭)が開かれている。昨日はラワールとサテ、
今日はバビグリン(豚の丸焼き)、を前のアグンライの家族からもらって食べた。2日連続の儀式料理で
さすがにちょっと参っている。時にバビグリンは絶対食べれないほどの量をくれたので、困ってしまった。
朝から晩まで、ガムラン演奏が聞こえてくるし、タジェン(闘鶏)は始まるし、この村は今、バリヒンドゥーづいている。
バリ人というのはとにかくこのラワールとバビグリンが大好きで、目を血走らせながら、何度もおかわりをしている。

さしずめ日本人にとっての捕れたてのネタで握った寿司ってところか。
私はラワールは大好きで4人前くらいは食べれるが、バビグリンは、実はちょっと苦手。宮嶋と息子もバビグリンは
さすがに刺激が強いみたいだ(^^;)


ちょうど、今更新作業をしている「寅次郎相合い傘」の中でも、『メロン騒動』というものがあって、お土産に
もらった高級マスクメロンが原因でおこる喜悲劇だが、普段人格者と、言われている人でも、好物でかつ
値段の高い食べ物のことになるとこうも変わるのか、と思われるくらい人が変わることもある。
とらやの人々の隠れた一面がこういうときにポロポロこぼれてきて興味深いエピソードだった。

食べ物もそうだが「お金」も人の人格を変えてしまう。お金を支払う、受け取るという時に、その人の
本質が露出することが多い。特に支払う時にその人が出る。ある意味怖いことだ。お金は本当に恐い。
私も金銭に関する約束、貸した借りたは、いつも心して不備のないように、誤解のないように、卑しい行動に
ならないように気を引き締めて注意している。それでも、つい、卑しい気持ちや、さもしい心が、ポロリと出そうに
なる時はある。そういうときは必死で歯を食いしばって踏みとどまっている。必死にならないと踏みとどまれない
ところが、とほほなところである。まあ、人間はせいぜいこのへんかな…、なんて言い訳をしてもいる。




                 今朝まで飼っていた豚を丸焼きにする。バリ人なら誰でもこの料理はしなくてはならない。正式な宗教儀式だからである。

                     











2005年5月31日   まことの花



ここ数日、渥美清さんの長セリフを何度も見、聴き、していた。
ちょうど『寅次郎相合い傘』の中で、マドンナであるリリーの夢の舞台に想いをはせる2分間の場面があるのだ。

渥美さんの数々の長セリフは、監督をはじめスタッフたちから『寅のアリア』と呼ばれ、このシリーズの大きな見せ場になってきた。
今回の第15作「寅次郎相合い傘」のアリアはこの長いシリーズの中でも、最も美しいものだと私は思っている。

この場面、山田監督の脚本段階では、まだどこか未整理な部分が残っている。予告編部分は違うカットが使われているが、
そのアリアでさえ、まだ浅い。
しかし、最終採用された本編では正に簡潔で美しいものになっている。絶妙の間とテンポ、贅肉のない見事な演技だった。
何個かのカットで構成されているため、厳密に言うと、演出、編集も含めた、この映画の勝利といってもいい。


巷の映画やテレビドラマを見ていると、役者が、過剰ともいえるくらいに涙をぼろぼろ出して泣きじゃくり、怒鳴り、叫んでいる。
いわゆる体当たりの演技、を見させられる。そのような演技には、たいてい、本人もスタッフもその業界の人々も『迫真の演技』とか
言って満足げなことが多いが、それらは、未醗酵なわりに激辛な演技は底の浅いものであるから、その時はそれなりに、ピリピリ辛く、
こっちも感情移入して見ていても、結局醗酵による『うまみ成分』が出ていないので、あとを引くような、見るものの人生を変えるような
普遍性のある演技にはなりえていない。

やはり、俳優は、ものを創る作業なのだ。行き着くところは、私たちにこの世界の成り立ちを知らしめてくれるはずである。


結局、その演技が普遍性を帯びるのは、その役者がどれだけ必死でその役を演じているかではなく、
それまで日々の生活の中でどのような生き方を選んできたか、どのように感覚を鍛えてきたか、によるところが多い。
役者ほど、その『人間』が直接的に出る芸術はないだろう。それは当たり前のこと。その人の身体のあり方そのものが芸術だからだ。
渥美さんが人生をかけて何を守り、何を捨ててきたか。何に感動し、何を憎んできたか。何を慕い、何に抗ってきたか。
何をしゃべり、何をしゃべらなかったか。その孤独の闘いを考えると、彼の人間関係の葛藤をも含めた壮絶ともいえる役者人生が見えてくる。
あれだけの『姿』が醸し出せる人。ただでは済まないのだ。


と、ここまで書いていて、ふと、ある人のことが今、頭に浮かんできた。

もうかれこれ10年ほど前。バリ島に伝わる古い舞踊(現在のレゴンクラトンの原型)を唯一体得しているサンガユという老婆の住む
山深い村へ宮嶋と一緒にほぼ毎日バイクで通い詰めたことがあった。宮嶋が熱心にその老婆に稽古をつけてもらっていたからだ。
私も、毎回一緒に行くので、その見事にその醗酵され、熟成されたいにしえよりの『型』を熱心に見続ける運に恵まれていた。
縁があったのだろう。合計おそらく300回くらいは通っただろうか。こんなに熱心に一人の人間に関心を持ち続けたのは、後にも先にも
この時期だけである。まるで何かに取り付かれていた日々だった。

当時、70才を越えていたその老婆は、本人の日常はとてもアクの強い個性的なものではあったが、彼女の踊りの中に「個人的な我」は
不思議なほど見られなかった。踊り始めると『気』が明らかに豹変するのだった。
その踊る姿は、近頃の曲芸的、表層的な旅行者向けのレゴンクラトンとは全く違う、奉納のための踊りであり、神に捧げるために
淘汰されてきた、いにしえよりの『型』であり『姿』だった。
自分が踊っている姿を、遥か遠くからもう一人の自分が冷静に眺めている。そのような踊りに見えた。

1週間に5回、毎回1時間半ほどの稽古。 毎回2種類くらいの踊りを見ているのだが、いつも同じものを見ているのに不思議に全く
見飽きない。この、『見飽きない』と言う体験ははじめてのものだった。まるで毎回初めてその踊りを見るように見続けることができた。
毎回奇跡を見ている気持ちだった。人間が自然の動きや成り立ちを完全に写実できている、とでも言うのか、人間は淘汰された『型』に
よってここまで自然と融合できるのかを見せつけられた日々だった。私は、日々の途中から、こんな『秘舞』を毎日見続けていて
いいのだろうかと恐怖すら感じていた。結局、サンガユが加齢のため関節を悪くして踊れなくなる1996年ごろまでひたすら見続けた。
どうも私や宮嶋にはこのように、何かを気に入れば何年もそればかりをしてしまう、という粘着質な気質があるようだ。
そしてこの気質がいまのこのジャングルでの隠遁生活をさせてもいる。


ところで、話は戻るが、今回、渥美さんの、このアリアをもうここ数日だけで20回ほど見聴きしたが、
これも不思議なほど『見飽きない』。見るたび、聴くたびに、その姿そのものに新しい発見と深い感動がある。


その昔、今から600年程前に世阿弥が記した『風姿花伝』の中で
『ただことば卑しからずして、すがた幽玄ならんを、受けたる達人と申すべきか』と書かれているが、
『真(まこと)の花は、咲く道理も、散る道理も、人のままなるべし』とは正にサンガユや渥美さんのことを言うのだと、
このアリアを聴きながらそう思わざるを得なかった。
『風姿花伝』の奥義にある『花を知る』『秘すれば花』という領域は、ほんとうにこの世に実在するのだ、と。

私にとって、この二人は大事な共通点がある。それは、ふたりのその『姿』によって私の人生が根本から変えられてしまったことである。
私にとって自分の人生を変えてしまうような芸術こそが、芸術の名に値するのだ。私は別に評論家ではないので、好き勝手に
このように思ったままを断定してもいいのだと、いつものように居直っている。



寅のアリアがある「寅次郎相合い傘」覚え書ノート: http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/15saku.htm




                             寅次郎相合い傘より『寅のアリア』

                      












2005年5月24日   お母さんごっこ [ 授乳に勤しむオス猫コピ ]
 


亡命者たちが家に来てから、不思議なことが起こっている。オス猫のコピが、なんとオッパイを毎日あげているのだ。
コピは、生後まだ5ヶ月ほど。ようやく大きくなってきたばかり。だいたい彼は【オス】!なのだ。いくら授乳しても絶対
ミルクは出ない。2匹の子猫はそれでもむしゃぶりついて、そのうち眠っている。精神的に満たされた状態になるのだろう。
コピのお腹は毎回授乳(?)のたびに子猫たちの唾液でべちょべちょ。なかなかお母さんごっこも楽じゃない。


それにしても、なぜオス猫でかつ、まだ大人になりきれてないコピが、自ら積極的に子猫に乳をやろうとするのか??それも毎日。
生命の不思議だ。他の猫は子猫たちとジャレルだけで、このような授乳ごっこのようなことはしないので、コピの個性なんだろう
とは思うが、それにしても不可思議だ。ま、いいだろう。別に悪いことではないのだから。



近頃は実に良く晴れる。雨はもう2週間降っていない。今日も夕方から近所の森で、木立を描いた。日本の都会に住んでいると
土を見つけるのも一苦労だが、この地では土がほとんど。私は土と木が大好きで、絵を描く手を休めて、森の中でぼんやりして
いることもある。いや。絵なんか描かないでぼんやり木々を眺めている方が好きなのかしれない。今日は1回で上手く決まったのでこの絵
はこれで完成。こういうことはしばしばある。じっくり腰をすえて描こうと思ってイーゼルを立てたのだが、急きょ予定を変更して、
筆を置いた。こういう絵はなかなか引き取り手がないが、臨場感が出ていて私は好きである。この木々の向こうはパーンと視野が広がり
深い渓谷が待ち構えている。ここは森の一番はずれである。神様が宿る場所でもある。


昨夜の満月は雲と月の関係が絶妙でめったにない名月だった。撮影は、最近は私より粘って写真を撮る息子が担当。




                                 「木々」 2005年 油彩 F8号

                      








                            オス猫コピのオッパイを吸うチロ(白)とプータ(黒)

                    








                           5月23日の満月はバカに大きかった。撮影:龍太郎

                    












2005年5月17日   2匹の亡命者たち


前のアグンライの家族たちが飼っているメス猫に2匹の子供が生まれて、ようやく屋根裏部屋から、降りてくるようになったらしい。
たまたま買い物で通りかかったら、彼の家族たちは、田んぼに捨てに行くという。彼らの家には猫が2匹に大きな犬が2匹いる。
もう、これ以上は、経済的に飼えないらしい。
私は、ちょうど、そこの娘さんが捨てに行く時に鉢合わせしてしまったようだ。バリ人は飼えないと思ったら生まれたばかりの動物を
平気で田んぼの畦や、川に捨てに行く。私の家も猫が4匹いるので、もうこれ以上飼うことは家計を圧迫しかねない。
だからそういう動物情報が入ると、しばらくの間彼らの家には行かないようにしているのだが、今回は、たまたま
その子猫たちを見てしまったのが運のつき。(猫たちにとっては救いの神)知らなければ知らないでよかったのだが、
知ってしまうと、どうも見捨てるわけにはいかなくなる。寝つきが悪いのだ。なんだかんだでこれまで15年間でたぶん20匹以上の
猫を飼ってきたと思う。一番多い時は8匹もいたこともある。

私は日本人。いい意味でも悪い意味でもバリ人にはなれない。しかたなくその子猫2匹を抱きかかえ家まで持って帰ってきた。
命拾いをした猫たちは、2匹とも母親猫のオシッコとウンチの躾がよかったのかその日からなんと箱のお砂場で用を足していた。偉い!
餌も好き嫌いなくなんでも食べる。偉い!人間の亡命者はその土地に根ざすためにその土地の者たちと仲良くなるべく必死の努力するが、
彼らも畜生ながらも自分たちの死すべき運命を知っていたのか、命拾いしたことがまるで分かっているかのように、私に迷惑をかけさせない。
ノミとりのためにタライのぬるま湯風呂に入れたときも、全く嫌がらず、粛々と体を擦られていた。偉い!

これは、健気だ!そういえば、私の家の母親猫の『マリ』も、ダンボール屋で、たまたま、今まさに捨てられそうになっている
のを目撃してしまった私が不憫に思い、家に持って帰ったのが始まり。それ以来10匹以上の子猫を次々に産み、
人にもらわれたり、旅立ったり、死んだりで、今4匹。そして今また、前の敷地から命の危機を脱して『亡命』してきた2匹の子猫が…。
私が、そのような「与える役目」をこの人生で負っているのであれば、それに素直に従おうと思っている。






                      我輩たちは『亡命者』である。名前はまだない。

               



先週紹介した息子のサイコロアニメは思いのほか反響があったので、昨日一層面白く改訂したようだ。
戦闘シーンと、カツシカ島へ向かう船中を改訂したとのこと。
その改訂版「キャプテンタイガー」を、ここに貼り付けておきます。どうぞお楽しみください。



 改訂版「 Captain Tiger 」    龍太郎 作   











2005年5月9日   何も起こらないという物語


5月に入ってから、空いた時間を利用して男はつらいよの「寅次郎相合い傘」の覚え書ノートを作成しているが、
この作品は、シリーズ全48作中及び他の山田作品たちと比べても、物語の中に大きな事件が少ない作品である。
寅次郎が、最愛の人、リリーと旅の途中で再会し、旅を続けながら、小さな物語が生まれ、故郷で
花を開かせて、またその花が散り、寅次郎は再び旅に出る。それだけである。(この花は多年草である)


主人公たちはもちろん、脇役の人々も誰も死なないし、不治の病にもならない。主人公が大きな事件に
巻き込まれるわけでもない。超大物俳優が共演で、出てくるわけでもない。ロードムービーという特徴はあるが、
それもそれほど長い時間ではない。しかし、それにもかかわらずこの作品は私の好きな邦画の作品の中でも
確実にベスト10に入る。「男はつらいよシリーズ」だけで考えても全48作中自分のベスト3から漏れたことはこの20年間
一度もない。この作品は「物語」の構成が絶妙なのである。登場人物たちの心の動きとその絡みが全て見事な
バランスと調和で成り立っている。「人の心の機微」で見させる稀有な映画なのだ。

そういえば、山田洋次監督が大きな影響を受けた小津安二郎監督の傑作「東京物語」や「麦秋」も日常の中の人々の
静かな人間模様だけで構成されていたことを思い出す。

近頃流行の韓国純愛ドラマや日本の純愛ドラマなどは、主人公たちのどちらかが不治の病だったり、恋人が大きな事件に
巻き込まれたりと、激辛スナックを食べているようにピリピリ刺激的だが、静かな深い感動からは遠い。しかし、どちらかと
いうとこの「相合い傘」のような作品の方が世界的に見れば珍しいのであり、一般的には主人公や恋人なんてどんどん死んで
しまったり、不幸に遭遇したりするのである。人が死ぬ物語は刺激的だ。誰もが自分たちの日常でその背後にある死を恐れ、
悲しむからだ。死ぬかもしれない、大きな不幸が近づいている、という設定だけでも十分切実だ。しかし、それはなんて大味な
切実さなんだろうか。ハラハラと涙はこぼれても、ただこぼれるだけ。そこには一期一会の静かだが豊穣な感動はない。
ましてや観る者の人生を変えてしまうような力はない。

この物語は織物で言えば、たて糸が人とともに生きていきたいと切に願う人の心。よこ糸がそれでも気ままな自由と放浪を愛する
人の心。それらが複雑に重なり合い、たてにもよこにも「絣の模様」を織りなす。だから全体としては平面の織物のように見えて、
実はふくらみのある柔らかで立体的な作品になる。しかしもちろんこのような作業は織物としては最高の技術と、絶妙ななバランス
感覚、粘り強い持久力、抜きん出た集中力。そしてなによりも強い完成のイメージに支えられた総合的な創造力が必要だ。

「日常の物語」で人を感動させることができる映画監督は、どんな映画でも作ることができるであろうし、絵も描けるし、踊りも踊れる
であろう。これらの感覚は全ての分野に共通することだからだ。そして映画の場合は大勢の人が作る団体作業ゆえに「運」が必要だ。
コンダクターである演出家(監督)が強列なイメージを持ちえて、かつ、それを凌駕するようなキャストとスタッフがいて、初めて真の傑作は
生まれるのだと思う。そういう意味で正にこの「相合い傘の制作メンバー」はそれぞれの人生における高揚期を迎えていたのだ。
実に運もよかったといえるであろう。神様の気まぐれで、射った黄金の矢が当たった。そんな映画だ。

この作品の『覚え書ノート』はこちらへ→  http://www.yoshikawatakaaki.com/lang-jap/15saku.htm




                           山田洋次監督「寅次郎相合い傘」1975年8月2日封切り
                     





この作品にも、他の寅さん作品同様、冒頭に「夢のシーン」がある。これが実に傑作で「キャプテン タイガー」という海賊の話。
今回息子がサイコロのように小さな「キャプテン タイガー」のサイコロアニメーションを遊びで作ったので下に貼っておきます。↓
暇つぶしにどうぞご高覧ください。ストーリーは例によってめちゃくちゃでこの映画の海賊の夢とはほとんど関係ないようです。


    「 Captain Tiger 」    龍太郎 作    ←2005年5月17日に改訂されました。
       












2005年5月1日   3年目の赤い月 

息子がデジカメで夜、月を撮っていた。彼はここ数ヶ月カメラが気に入って、あれこれ撮っているようだ。
彼が撮ってきたのは大きな赤い月だった。外に出て空を見上げてみると、赤い月の周りを流れ行く雲がよかった。雲は中世の
ヨーロッパのテンペラ画のごとき硬質な透明感があり、1000年以上も昔にタイムスリップしたようで、実に幻想的だった。

赤い月を見るたびに I のことを思い出す。

私には I という友人がいた。彼は2002年の5月24日にクモマッカ出血のために40歳で亡くなった。彼は2005年の
今年もまだ40歳である。ましてや私の良く知っている彼は22歳で止まったまま。22歳以降会っていなかったからである。
3年前のあの亡くなった日、月は夜半から赤く変わり、不思議な心持になった。そして、あっという間に3年がたった。
今後、同じようにあっという間に私は老人になり。死んでいくだろう。その最期の時に思い出す彼も22歳のまま。

私は彼と青春時代の苦しい時期に渋谷の旅館の相部屋で出会った。1980年のまだ寒い早春だった。
お互いにまだ大学が決まっておらず、苦しい時期に出会ったことが、お互いの結びつきを強め、その後、大学は違えども
下宿もたまたま近かったせいもあって、しばしば下宿に遊びに来たり、行ったりした。彼は役者志望で、卒業後も窓掃除のバイトを
しながらも自分の道を進んでいた。私も彼も卒業後は忙しくなり、ほとんど会うことがなくなったが、毎年年賀状で近況報告をしていた。
彼はその後も役者の道を歩み、私は中学校の先生になっていた。その後、突然、私は絵の道に行き、発作的にバリに旅立ってしまい、
彼も含めた全ての過去の人間関係を断ち切ってしまった。

彼は30歳を過ぎても食えない状態が続いていたらしいが、自分の人生を変えることはなかったようだ。ようやく、近年時々テレビに
その顔をちらほら見始めた矢先の死だった。私のバリの部屋にはあの相部屋時代に写した古ぼけた写真のプリントが飾ってあるが、
その時の彼は18歳!。まだ青春にいたってないような幼い顔だ。彼も私もなにかに怯えるような表情でもあり、なんでも出来ると
心から信じている楽天的な表情でもあった。夜明け前の薄暗い空気の中で、そのあと、お互いに波乱万丈の人生を歩むことに
なろうとは知るはずも無かった。あの20歳頃のことは強烈に懐かしいが、もう絶対あの当時には戻りたくない。あまりにも恥ずかしき
数々の言動をしてきたからである。今はただ、後悔と反省の日々を遠き地の果てにて過ごしている。
青春の日々のことは思い出したいことも多いが忘れたいことがそれ以上に多すぎる。困った人生を歩んできたものだ。とほほである。





                                 撮影:龍太郎 
                       










2005年4月21日   『人生最初の風景画』発見

先日、PCが壊れてしまったので、調べてもらったら、ウィンドウズのシステムが傷ついて壊れてしまったようで
システムを直すときにデスクトップのCデータ−が、壊れるという。それでとりあえず他のPCにコピーしてもらった。それまでも
時々CD−Rにコピーして、大体のデータ−は保存してあるのだが、やはり洩れているものもあるので、データ−が
失われることがなかったのはホッとした。あとでもう一度コピー漏れがなかったかチェックしているときに、懐かしい画像が
見つかった。数年前に富山県のアトリエでデジカメに撮った風景画が出てきたのだ。

この絵は紛れもなく私が1980年、大学1年の春「絵画会」というサークルに入り、千葉県の鵜原への3泊の風景画制作合宿に
参加した時のものだ。

私は高校時代は硬式野球をしながら、油絵を描くという変わり者の高校生だったが、ほとんどが静物画か人物画で、
なかなか風景画を描きたくても恥ずかしくて野外で描けなかったのだ。

それで、大学に入ってからはあちこち出かけては風景画を描いていったが、この「鵜原風景」の絵が一番最初の風景画だった。
今でもその時のことははっきり覚えている。まだ4月だというのに、海に突き出した半島の上は日差しがきつく、腕や首が真っ赤に
なった。3日間ずっと晴れっぱなしだったのだ。当時は恥ずかしながら、絵の具やオイルの選び方も、使い方も、ほとんど我流で、
油絵というものを理解してはいなかったが、生まれて初めて野外で、それもダイナミックな風景を描くことに感動して、夢中でキャンバスと
格闘した記憶がある。絵の具が形にならず、自分としてはぜんぜん上手くいかなくて、がっくりしていたのだが、その時一緒に
参加してくださった、大先輩であり、当時すでに画家だったKさんが、この絵を「いい絵だ」と言って下さった。
私は褒められて嬉しかったが、どこがいいのか当時自分ではさっぱり分からなかったのだ。技術的には稚拙なことはさすがに当時の
自分でもわかっていたので、ただただ恥ずかしいだけだった。

ちょど四半世紀たった2005年の今。この絵を見るといい絵だと素直に思える。なぜあの時Kさんが褒めてくださったかが、分かる。

物を見て感じると言うことはこういうことをいうのかもしれないな、と思う。新生活を送って間もないころの昂揚感を背景に野外制作初体験の
強さ。人生でたった一度しかない最初の1枚。

絵は技術でも知識でもないということをこの稚拙な絵が今でも私に教えてくれる。絵とは不思議なものだ。





                        人生最初の風景画  1980年春 「鵜原風景」 P8号

                     












2005年4月14日   椰子の実がドドッとやって来た。


ここのところ、雨季が終わったと思ったら、なんと5日間雨続き。3日前の深夜、裏の斜面のところで地面を揺るがす大きな音がした。
遂に土砂崩れかと、テラスに飛び出した。音は「ドドドド!」という爆音を出しながら家の壁に近づき、10秒ほどで止まった。

ヘッドランプを付け、裏の斜面を照らしたが、土砂が崩れた後はない。ちょっとほっとして、あたりを見渡すと、そこら中に丸い
サッカーボールのような物体が散乱していた。光で照らすとなんと椰子の実だ。約10メートル四方に10個ほど散らばっている。
何かの加減で高い樹の上からからまとまっていっぺんに落ちたのだろう。ひとつが落ちても凄い音がするものだ。10個いっぺん
ともなるとさすがに外に逃げ出したくなる。
何ヶ月か前に書いた「ドゥリアン」の襲撃も当たれば痛いが、やしの実はとてつもなく高いところから落ちてくるので危険極まりない。

バリ島でも1年に何人かはこの椰子の実が頭に当たって大怪我をしたり、中には死んでしまう人もいる。私の敷地は安全のため椰子の
樹を全て切ってあるが、敷地のすぐ外にはたくさん樹がある。不用意に樹の下にたたずむのは厳禁なのだ。

じつは、私も宮嶋も息子もこの椰子の実に入っているジュースと皮にくっついている白くて柔らかい果肉が大好物だ。
落ちた時にひびが入ってたものが何個かあったので、まずそれからたいらげた。落ちてきたばかりの実なので果肉が新鮮で
柔らかく甘い。あっというまに4個。次の日に3個と平らげて、もう3個しか残っていない。それをデジカメで撮影。10個ある時に
撮影すりゃ良かった〜!と思ったが、食い気の方が先に来て、気づいたら何個も大型の包丁でドンドン叩き割っていた。

バリ人はこの椰子の実から、食用油を作り、アラックというとびっきり強い酒を造り、砂糖を作り、お菓子を作り、最後の殻は重要な
台所の薪となる。椰子の樹が家の近くに何本かあると、そこの家は飢えない。といわれるくらい需要が多く、優れものなのだ。

まあ、私たちの場合は、ひたすらジュースを飲み、果肉を食べるだけ。やしの実づくしの3日間だった。

また、いつものように息子がひょいと後ろから覗き込んでこの話を読み、即興でオチのない4コママンガを描いてきたので、載せます。




                             散々食べて、あと3つとなりました(^^;)ゝ

                    








                              『クラパ(椰子)だ!』   龍太郎  作

                          













2005年4月4日    フルーツポンチの季節

雨期が終ろうとしている。この雨期の終わりは1年で最も暑い時期だ。このあとゆっくり涼しくなり、7月頃は今より夜の気温で
4℃ほど違う。この時期には毎年、夕方遅く冷たいデザートを作る。かき氷に凝った年、白玉クリームあんみつに凝った年、
アイスシャーベットに凝った年などいろいろあったが、ここんところはフルーツポンチに凝っている。ポイントはまず、寒天。ミルク寒天、
コーヒー寒天、ココナッツ寒天、素寒天、マーマレード寒天などを、その日の気分で何種類か作り、近所の農民が売りに来るくだものを
数種類買って同じサイコロ状の大きさに切って適当に入れる。シロップは気分に応じて白にしたり黒にしたり…。
寒天の作り方を間違わなければあとは簡単。たっぷり作って、夕食後にたらふく食べる。くだものはメロンやパパイヤ、スイカ、柑橘類
リンゴ、マンゴなどが合う。小さなライムの汁と細い皮も入れる。この地は寒天や果物が安いので助かる。



ところで、先週紹介した青年猫のプリンの弟たち(ピーとコピ)もここのところどんどん大きくなって一気に大人に近づいてきた。
小さな猫や小さな子供はまこと成長が早い。たった4ヶ月前に手のひらに乗るくらいの大きさだったのに今は、遠目には
母親猫と変わらなくなった。ほんとあっという間だ。

私などは当たり前だが老けては来ているが、この15年間ほどほとんど見た目が変わらない。それに対して息子などは赤ん坊から
青年(15才)へと心も身体も大きく変わって来た。

このサイトでも紹介している映画「男はつらいよ」があんなに続いていったのも、あまり変わらない寅次郎やさくらなどとは対照的に
劇的な変化を遂げていった「満男」の存在があったからだ。あのシリーズの成長は、満男の成長でもあった。子どもは変わる。自分が
納得したらどんどん平気で丸ごと変わることが出来る。これはある意味とても羨ましいことだ。私も以前、生死の境を何度かくぐりぬけて
ようやくちょっと変わることが出来た。

大人が自分の感覚や生き方を変えるというのは大変しんどいことなのだ。相当の外圧がないと、おいそれと変わろうとしない。
分かっていても頭がしがらみでカチンコチンになっている。変わらないことのよさももちろんあるが、たいていの場合変わるのが怖くて
変われないで、感覚が硬くなって干乾びていくことのほうが多いのかもしれない。
今日子猫のピーとコピを見ながらそんなことをふと考えていた。




                  絵を描くのもデザート作りや料理をするのも基本的には同じ。料理は絵より家族への貢献度が高いので嬉しい(^^;)ゝ

                       






                          2匹とも見た目はいよいよ大人猫。物凄く動き回る時期だ。

                        






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