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2010年2月18日 油彩画 『 バリの農夫 Rの肖像 』
バリはまだ雨季。ここのところよく降る。
最近、雨のよく降る日は、昨年亡くなったあのアグンライ爺さんをアトリエの中で描いている。
とはいえ、数年前までのエンピツスケッチをもとにタブロー化しているのである。
前にも言ったが、私のほとんど全てのスケッチは、油彩よりもずっとラフに描くので、それを
油彩に起こすときも、必然的に30分以内の早描きになる。
そのうちの一枚、事前にちょっと地塗りに工夫をした。
で、一気に描こうとしたが、一時間ほどぐねぐねいじりすぎてしまってので軽みとリズムが半減した。
しかしこういう絵もそんなに嫌いではないので日記に載せてみます。
いつものように、この絵がいいか悪いかは描いたばかりでは思い込みがあるので今は分からない。
数ヵ月後にもう一度見てみる。
パパイヤの見える風景 油彩 F4号 2010年2月

母親ネコのマロンが産んだ子猫はようやくみんな目が開いた。名前はまだない。

2010年2月10日 ネコのマロンに赤ちゃん3匹!
2008年に母親ネコのキウイが産んだ子供のマロンが、早くも今日2月9日今度は自分が赤ちゃん3匹を産んだ。
この時のキウイの初産は2008年11月27日の日記を参照してください。
昨日からミャアミャア鳴きながら生む場所をうろうろ探し始めたので、
息子がいつものようにダンボールで産み場所を作ってやっていた。
今日夕飯を食べ終わった後段ボール箱を見てみるとちょうど赤ん坊を3匹産み終わったところだった。
マロンは他の母親ネコと比べてとても安産だった。
かれこれもう13年間ほどいろんな捨てネコを飼ってきたが2世代にわたってのお産は初めての経験。
つまり今回のマロンの赤ちゃんたちにとってキウイはおばあちゃんということになる。キウイにとっては孫だ。
なんだか感慨も深い…。
あ、ちなみにこの子達のお父さんはちょうど1年前の同じ2月に連れ合いが連れて来たあの子ネコ、
そうだ前の敷地で捨てられていた『ラテ』だ。
詳しい『ラテ』の物語は2009年2月12日の日記を参照ください。
今回子供を産んだマロンの母親であるキウイも私の知人の家のゴミ捨て場で捨てられていたのだ。
どのネコも見るに見かねて連れ帰ったネコばかり。
今回の3匹は2匹は茶色と白のニケで父親のラテ似、もう1匹は黒と白のニケでちょっとマロンに似ている。

ちょうど1年前、
外から拾われてきた幼いラテはあっという間にマロンの横で
一緒にキウイのおっぱいを吸い始めたのだった。↓今回この2匹の間に子供が生まれたのだ。
詳しい『ラテ』の物語は2009年2月12日の日記を参照ください。
2009年2月.母親のキウイ。左からおっぱいを吸う子供の「ココア」と「マロン」そして新しくやって来た「ラテ」
このマロンとラテの間に生まれたのが今回の3匹↑の写真だ。

2010年2月2日 敷地にパパイヤの実がつきはじめた!
7年ほど前に成長し始めたテラスの前ののナンカ(ジャックフルーツ)の木は母屋の屋根をはるかに越え大木に今や成長した。
ナンカの実が食べれるまでもう少しだ。
…と、思っていたら昨年末からそのちょっと横にパパイヤの木が今度は成長し始めた。
パパイヤはバナナと同じで、幹部は木質化しないのであっという間に成長し、あっという間に実をつける。
とにかくバナナ同様繁殖力が強いので私たちには嬉しい果物なのだ。多年生でもある。で、それゆえ市場でも安いのがさらに嬉しい。
ナンカもパパイヤももちろん自分たちが食べる時に捨てた種が自生したものだ。熱帯雨林の力はまこと恐ろしい(^^;)
自分の敷地に自生した果物を食べるのは実に精神衛生上好ましい行為だ。バナナの実はいたるところにある。
これだから熱帯暮らしはやめられない。
そういえば映画「男はつらいよ」第48作『紅の花』でも奄美のリリーの家にバナナが自生していて食べていた。まさにああいう感じ。
今、ちょうど雨季なので、パパイヤの木は雨を吸って日々成長し、遂に数日前から早くも実をつけ始めた。
人間で言うとまだ少年のようなパパイヤの木だが、もう子供ができているのだ。
晴天の今日、早速油彩でスケッチ風にささっと数枚描いてみた。
例によって何がなんだかわからない絵。うまくいったかどうかは数ヵ月後に判断。
パパイヤの見える風景 油彩 F4号 2010年2月

2010年1月21日 長旅から帰って来た人には…。
1月13日に日本を離れ、バンコクに一週間滞在し、常夏のバリ島に昨日帰ってきた。
厳寒の北陸との気温差は25℃近くにもなる。
それにしても昨年秋から義父の死に直面したこともあっていろいろきつかった。
11月から12月まで一度バリに戻ったが、今度はまさかのアグンライの父親の死の知らせを受けてしまった。
納骨を控えて、少しあわただしくバリ滞在を過ごしていった。
その後年末にもう一度日本に納骨のため一時帰国し…、
ようやく今、じっくり腰を落ち着けて3ヶ月間絵を描き、ものを作ろうと思っている。
それにしても精神的にもきつかったこの数ヶ月だったが、
アグンライの家族が、留守宅を毎日しっかり守ってくれていたので助かった。
屋根の修理、門の修理、垣根の修理、草刈、猫のえさなどを全部やってくれていた。
バリに住みはじめて今年で20年目を迎えるが、いろいろな人との人間関係が年月と共に深まってきているので
留守の日々が長くとも自宅も仕事もさほど心配が要らなくなってきている。
特に長旅から戻った当日は心身ともに疲れているので、
しっかり敷地も部屋もきれいにしてスタンバイしてくれていると本当に助かるのだ。

第12作「私の寅さん」で留守番をする寅が、九州旅行から帰ってくるさくらたちを心を込めて迎えてやるが、
ああいうやり取りは実に心温まるものだ。
寅は旅人なので、誰よりも旅の心労は骨身にしみているのだ。
寅「あーあ、久しぶりの長旅から帰ってきて家の中が
カッ散らかってると気分が悪いからなー、なあ、社長」
寅「いずれそのうちにその入り口からおいちゃん、
おばちゃん、さくらがよ、
こんな大きな荷物を抱えて、
あーあー、くたびれたくたびれた、
家が一番いいよー、
なんて言って帰ってくるんだよねー」

寅「そのときの、この迎える言葉ってのが大切だな。
『あ、お帰り疲れたろう?さあ、上がって上がって』ねー!
熱い番茶に、ちょっと厚めに切った羊羹のひとつも添えて出す。
ホッと一息いれたところで、
『風呂が沸いてますよ』っと手を差し出す。

長旅の疲れを、すっと落とす。出てくる。
心のこもった昼飯が待っている。ねー!
温かいご飯!しゃけの切り身 山盛りのお新香
『どうだい、旅は楽しかったかい…?』
たとえこれがつまらない話でも『面白いねー』って
聞いてやらなきゃいけない。
長旅をしてきた人は
優しくむかえてやらなきゃナー…」

なんともいいアリアだね。名場面だ。
2010年1月5日 油彩画 『雪の越中八尾 諏訪町』
昨夜、とにかく寒いので一気に15分程で描いては次の絵、次の絵と描いていった。
どの絵も久しぶりの冬景色のせいか、まあまあのできと…思うのだが、こればっかりは神のみぞ知るだ。
雪の越中八尾 諏訪町 油彩 F4号 2010年1月

2010年1月4日 越中八尾 雪の諏訪町
越中八尾は一昨日かなり雪が解けたが、昨夜はまたかなりひどく吹雪いた。
越中八尾の私の自宅の道向こうは諏訪町と言い日本の道100選に選ばれている。
この町の道は、おわら風の盆の時に賑わう。この写真↓は夏の風景。

だが、実はこの諏訪町の道は、雪の積もる真冬にこそ味わいの出る道なのだ
雪の諏訪町は、はてしなく静かだ。夜はなおさら。
この寒く白い風景を知らねばおわら節の哀愁はわかるまい。
今日も凍えながらこの道にイーゼルを立て絵を描く。

2010年1月2日 新年 あけましておめでとうございます。
寅次郎と雪のバス停
新年 あけましておめでとうございます。
皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
旧年中は思い起こせば更新が一昨年同様
遅れ続けることの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ
皆様の幸せをお祈りしております。
義父の納骨のこともあり、喪中であることは承知しておりますが、
みなさまの日ごろのお励ましに感謝いたしまして
あえて新年のご挨拶をいたしましたしだいです。
なお、わたくし事ではありますが、
絵画をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノートなど、
相変わらず稚拙で、ダラダラした無教養な内容ではありますが、
私のかけがえのない作品でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。
雪の剣岳が見える丘にて
2010年 正月
吉川孝昭

RYOTARO 作画 寅次郎と雪のバス停 2010年1月2日
2009年12月25日 巨大な雪だるま出現!?
ようやく雪も止み、昨日あたりからあたりはかなり解け始めた。
熱帯育ちの息子は名残惜しそうに庭の雪を集め、3時間もかかってこんなものを↓作ってしまった。
15年ぶりの日本の真冬体験でのドカ雪は、いきなり強烈パンチを食らった感じだ。
せっかく車のタイヤを新品のスタッドレスに履き替えたのに、雪が減ってちょっと肩透かしだが、
日本滞在はあと2週間あるので油断はできない。
昨夜はクリスマスイブ、みんなでケーキを食べた。15年ぶりの日本でのクリスマス。雪のクリスマス。

2009年12月18日 雪の降りたるはいふべきにもあらず
義父の納骨が終わったあとも連れ合いの実家で事務処理のためしばらく寝泊りしている。
富山は昨晩から異常な冷え込みが始まり、寝る前に『雪起こし』の雷が鳴りまくる。
ああ。。。これは来るな…。
と思ったら、朝起きて寝室の二階から窓の外をみるとやはり下の写真のごとく雪景色が広がっていた!
私にとっては15年ぶりの雪景色である。
息子も5歳のころに雪だるまを作ったかすかな思い出が蘇ったようだった。
まさに「枕草子」のとおり、
『冬は つとめて。 雪の降りたるはいふべきにもあらず』 だ。

亡き義父が育て、秋に干し柿として取った柿の木(左)もすっかり今日で雪化粧(右)。
→
雪の中、お昼に用事のため車で神通川付近を通ったその時に、雲がサーッと切れて青空が見えた!
雪と青空との見事なコントラストに、思わずカメラを向けていた。

夕方、雪に慣れている義母は、義父の残した畑に立ち寄り、雪の中から大きな大根を引っこ抜いてきた。
雪も一緒にくっついてきた大きな大根

その大根を、イカ、豆腐、サトイモ人参と一緒に煮こんで義母の十八番の煮しめが出来上がる。

今日の富山の雪景色を見て凍えながら息子がしみじみこう言った。
「この雪景色が長く続くから、あの春の桜がきれいに見えるんだねきっと」
かつて、常夏の国から日本の春にやって来て肌寒い思いで桜を見ていた息子が
今回初めて実感した彼にとっての新しい感覚だった。
冬の次に春が来る。雪が解けて春になる。
追記 12月18日午後は↓のように雪が降り続き、夕方にはかなりの積雪量になって行った。
















2009年9月26日 望郷を歌う
金沢での展覧会も終わり、ちょっと時間が空いたので先日、晴れた日、金沢兼六園横の
石川県立美術館に立ち寄って鴨居玲を見てきた。
ここの学芸員に私の展覧会の常連さんがいて鴨居さんの小さな企画展のことを教えてくださった。
石川県立美術館の横の博物館では「本願寺展」を開催していたので、それも観る。
この博物館は旧陸軍の倉庫をそのまま3連使っているので建物の有り方がいいのだ。
日本ではもうこのような気持ちが入った煉瓦造りの建築物はほとんど残っていないだろう。

ところで、石川県立美術館は日本でも有数の鴨居玲のコレクションを持っている。
それも質のいいものが多い。
鴨居さん没後の回顧展はもちろんのこと、
それぞれの5年、10年、15年、20年の回顧展も実に質のいいものを全国から集めて展示してきた美術館だ。
鴨居玲は絵を売って食べていたので、評価された絵のセルフコピーも多く、
そう言う類のものはちょっと色が浮ついていることが多い。
しかしこの石川県立美術館の鴨居玲作品はそのような彼のセルフコピー版でなく
オリジナル版が多いのである。
私が鴨居玲の絵で最も気に入っている5枚ほどの絵の3枚がこの美術館にある。
特に好きなのが「望郷を歌う」
亡くなった鴨居さんの親友である、韓国人の高英洋氏に献じられた作品である。
白いチマ・チョゴリを着てステージで望郷のアリランを熱唱する歌手、
李順子(イ・スンジャ)さんのコンサート実現を手伝い、その歌を聴いて感銘を受けた鴨居さんは、
彼にしては珍しく人生そのものを肯定する賛歌を一気に描いたのだった。
韓国への切ない思いを悲しみと共に高らかに謳いあげる彼女のその昇華されたエネルギーが
白の上に薄く乗せられた透明感溢れるビリディァンの硬質なマチエルに集結している。
中年期以降の作品でこのようなポジティブな要素がわずかに入り込んだ作品はこれ一枚である。
実は私はこの絵を初出品の時に東京銀座の日動画廊で見ている。
1982年3月末だったと思う。
まだ学生だった私は、なんとこの絵を買おうと本気で考えたのだった。
ちょうど知り合いに日動画廊の新入社員がいたので、まじめに値段を聞いてみた。
確か600万円だったと思う。
もちろんその時は鴨居さんは存命で、私の恩師の坂崎乙郎先生も存命だった。
数日間大真面目に考えたが、どうしても600万円を都合つける手立てが見つからず(そりゃ当たり前)
購入を断念したのだった。
学生のくせにバカかと思われるだろうが、当時の私はそれなりに本気だった。
それで3年後に鴨居さんと坂崎先生が亡くなった後、石川県立美術館が購入したことを知り、
それならいつでも観に行けると胸をなでおろしたものだった。
そしてそれから遥か20年以上経った今、
19歳の私の息子がこの「望郷を歌う」を会場で観ている。
ただそれだけのことがちょっと嬉しかった初秋の午後だった。

2009年9月14日 天賦の才 その世界観
ここ一週間は今度は金沢郊外の展覧会で時間が取れない。
それゆえサイト更新が出来ていない。
そして日本滞在もあと1ヶ月を残すところとなった。
実はちょっとしたわけがあってもう少し日本に滞在したいのであるが、どうもそういうわけにはいかない。
航空機チケットの有効期限が迫っているのでどうしても10月中旬には日本を飛び立たなければならない。
もう少し日本に滞在したいわけとは牧谿(もっけい)の最高傑作『煙寺晩鐘』が11月末からの2週間畠山記念館で見られるからだが
それを私もどうしても見たいのだ。
まったく国宝というものはなかなか動かないばかりか長くは見せてももらえない。
北陸などには「煙寺晩鐘」は来ない。
ああ…、しかしその頃に東京へ行くのは上記の通りやはり無理なのである。
それでしかたなく先日畠山記念館の学芸員さんに電話で無理を言って図録だけを富山の自宅に送っていただいた。
牧谿は13世紀後半、南宋から元にかけて中国南部・揚子江周辺で修行し続けた禅僧である。
絵を描いて描いて描きまくることによって修行をしていったお坊さんだ。
なんとも引き締まった強い絵だ。いい絵はいつも静謐でかつ動かしがたい強靭さが漂っている。
彼を慕って彼の真似をし続けた桃山時代の絵師長谷川等伯の絵など吹っ飛ぶ強靭さだ。
当たり前だが現代ではありえない絵。
なによりも彼の生きた世界が違い、社会的土壌が違う。
そしてそれ以上に禅僧として彼の「信じていったもの」がゆるぎないからこうなる。
描く腕も凄まじいがそれ以上に実は牧谿の持っている「世界観」の問題。
そのような世界観を持って生きていないとそういう絵は描けない。

そういえば渥美さんも森川さんもその存在の有り方が、その芝居が静謐で凛とした緊張感に包まれていた。
どんなに面白いおかしい演技をしようがその芝居に媚やパターンを感じなかった。
なんともいえない揺るがしがたい独自の世界観が有った。
その昔、山田監督が森川さんの芝居と空気を渥美さんと話している時
「森川信さんは長い役者生活の中であの独特の空気をどうやって体得したのだろうか…」と渥美さんに質問したところ、
渥美さんは言下に「いや、それは天賦の才です」と言い切ったそうだ。
渥美さんのこの確信は、天才は天才を知るということなのだろう。
いつも言っていることだが、がんばっても一生懸命にやっても芝居も絵も才能の有無だけはどうしょうもない。
が、しかし、そう諦めたものでもない。
生涯をその分野に一心不乱に純粋に捧げつくせば、なんらかの小さな結果は残せることも歴史が物語っている。
ただし「一生をそのことに純粋に捧げつくすこと」はこのしがらみと雑音の多い今の娑婆では奇跡に近い難行である事も間違いない。
その場だけがむしゃらにがんばってもダメなのだ。一生涯を純粋な気持ちで捧げなくては鼻にもひっかからない。
それはおそらく生活者としてはある意味破滅的な人生。
レンブラントやゴッホの生涯をたどっていってもその困難さがひしひしと感じ取れるのだ。
ゴヤもレンブラントもゴッホも渥美さんも森川さんも実生活では波乱万丈だったが最後までその純粋さを失わなかった。
これこそが才能であると言えば言いすぎであろうか。
そして、人生は後にも先にもたった一度限りであることも自明である。

2009年9月5日 兄と妹 胡弓弾きの涙
映画『男はつらいよ』の中で寅とさくらの深い絆が様々な場面で描かれているが、
実はこの兄と妹は実際に暮らした年月はたった5、6年ほどなのだ。
しかし相性というのはその年月ではない。
また、離れ離れに暮らしているゆえに結びつきが深まることもある。

ようやく風の盆も終わり数日間休息中だ。
今年は天気予報が3日間とも雨だったにもかかわらず、まったく雨は降らなかった。
これは全国各地からはるばる見に来た人々にとってはこんな嬉しいことはなかったろう。
ただ、昨年今年と、昔に比べて見に来る人は若干少なくはなっている。
私の展覧会では6枚ほど絵が売れた。
3枚の油彩と3枚の水彩だ。
オリジナルの染織工芸品は、数年前までよりちょっと少なめではあったが
それでもたくさんの人々が喜んで買われていった。
ところで、私の家とちょうど道を挟んでプロの女性胡弓演奏家のMさんが住んでいる。
彼女もそして昨年亡くなられた彼女のおばあちゃんも近所のよしみで私の絵を何枚も買ってくれているコレクターでもある。
また、彼女たち家族が住むその家は、戦前、私の連れ合いの祖母が青春期にそこに住んでいたという深い縁がある家なのだ。
複雑な家庭事情の元に育ち、身体も弱かったMさんは幼少期から両親と離れこの越中八尾の祖父母宅で
静かに育っていったらしい。胡弓の名人だった祖父の影響もあって彼女も胡弓を弾く。
その音色は濁りがなく澄み、技術はかなり高い。
ただ、他の胡弓を演奏する人と比べてその技術の高さゆえか手技で音をころがす傾向にあるのが私としては残念なところだが、
一般の聴衆にとってはそういうところは『演奏家としての個性』として捕らえているのかもしれない。
今年も彼女は9月1日から三味線や唄うたいの人々と深夜に町を流していたが、
最後の9月3日の夜流しもいつものように彼女の家の前で三味線や唄は鳴り止んだ。
私は、ああ今日もいつものように自分の家の前で流しが終わるんだなって思っていると、
しばらく静寂の間があって、今度は彼女の胡弓だけがゆったりとしたソロで鳴り出したのだ。
道を行く多くの人々も足を止め、彼女の音に耳を傾ける。
私は毎年、胡弓、三味線の音は自分の展覧会場のアトリエから間接的に聴くのが好きで、家の前の道には出ないのだが、
今回はちょっと不思議に思い、二階に上がり、窓から真下を眺めつつ、その音を聴き、
最後の一節で彼女の背中からの写真を撮った。
その音色はいつも通りに粗がなくハイレベルだったが、
しかしなぜかスローテンポで、いつもよりいっそう澄んだ、ある意味なんだか悲しげな孤独な音だった。
この町では珍しく胡弓演奏を職業にしている彼女はいわゆるステージに乗って銭の取れる音を出せる演奏家だが、
この時の音はコンサートで人々に聴かせるそれではなく、一個人の胡弓弾きとしてのプライベートな音のように聴こえた。
あきらかに何かを想いながら弾いているのである。
頬には涙がつたっている。
演奏が終わって、何か大きな事情があるのではないかと近辺の人にそれとなく聞いて見ると、
どうやら幼少期から離れ離れに育った彼女のお兄さんが若くしてちょうど今日の昼に亡くなられたということだった。
遠くにある病院から彼女は先ほど夜に一時戻ってきたという。
彼女にはお姉さんがいて私の展覧会にも何度か来てくれてよく知っているが、お兄さんがいたことは実は知らなかった。
他人にはわからない複雑な事情の中で離れ離れになって成長していった寅次郎とさくらのような兄と妹。
あの演奏をしながら彼女は幼い頃の兄との数少ない思い出をたぐっていたのだろうか。
プロの『胡弓演奏家』から一人の『妹』に一瞬戻ったその音色は、まぎれもなく『胡弓弾き』のそれだった。
私が長年待っていたのはあのようなプライベートな音色だったのかもしれない。

2009年8月30日 油彩『おわら風の盆2009』
私の場合速描きは水彩が多いのだが、近年は油彩でも行うことが多い。
っていうか、筆をそこで置くと言ったほうがいい。
で、昨日もそういう絵ができたのでアップしてみる。
『風の盆』本番がいよいよ9月1日から3日間始まる。
油彩 「 おわら風の盆2009 」 0号 2009

2009年8月19日 今年も『風の盆』がやってきた。
明後日から『風の盆』の展覧会が自宅のアトリエの板間を開放して始まる。
自宅で展覧会を始めてからもうかれこれ16年ほどになる。
ギャラリーで展覧会をする場合は全て企画展なので、
DMは私がまずデザインして、ギャラリーに注文してもらいギャラリーのオーナーに切手を貼って出してもらうのが常だ。
しかし、この自宅展だけは自分自身が手書きでお客さんにDMを出す。これも16年間変わらないやり方。
1枚1枚おわらの水彩画を描いて出している。
もちろん全て違う踊り、違う所作だ。同じものは二度と出来ない。
で、今回はちょろっとDMの水彩画を紹介してみましょう。
DMの絵も油彩画も同じ気持ちで描くので、上手くいった時はいい絵になる。
そういう絵を貰ったお客さんはラッキーだが、それはあくまで作者の私が思うこと。
受け取ったほうはどう感じているかは知らない。
まあ、人それぞれの感じ方があるのでお客さんに任せている。
結構額に入れて飾ってくださる方も少なくない。
そういう時はやっぱり嬉しい。

たまには自分でも額に入れたいほど気に入ったものもできるが、涙を呑んで黙々と郵送する。

2009年8月6日 いつかは蓮(はちす)の花と咲く
雨がようやく止んだ。梅雨明けかな?ものすごく遅い梅雨明けだ。
生業はこの長雨のためイマイチ(TT)
しかし、どこにも眼の利く人はいるもので少なからず助けてくれる。
人の持つ賢さ、人の持つ鋭い感覚に支えられ、今日も何とか凌いでいる。
人の持つ弱さや愚かさにつけ込む商売だけはしないで生きてゆきたい。
それはそうと、
ご存知「男はつらいよ」の主題歌に「どぶに落ちても根のあるヤツはいつかは蓮の花と咲く」という名文句が
あるが、そろそろどこでも蓮の花がしている季節になった。
で、蓮を描きにいったが、描き出しの30分でいいタッチがでてきたのでピタっと筆をおいてやめてしまった。
このあとはまとめてしまうのは目に見えているのでここでやめた。
こういう絵は今は破綻だらけに見えても、数年後には加筆しなくてよかった…となるものだ。
文字通り『いつかは蓮の花と咲く』という類の絵かもしれない。もちろんいわゆるただの初日の天才かもしれない。
大学に行きながら同時に絵の学校にも通っていたころ、よくそこの先生に言われたものだ。
初日は結構いい雰囲気になるものだ。しかしそこでやめたらいつまでたっても絵のことは分からない。
とりあえず今はとことんまで描くことだ、と。
この先生の言葉は当たっているし、外れている。
ま、そう言う時期もあるのかもしれないが、絵は絵である。
いつ何時素晴らしい絵がひょいと生まれるか分からないのだ。
描き込めばいいというものでもない。
しかし、何百枚も描き込んでようやく分かってくる造形センスもある。
で、ここ数年はこういうところで筆を止めてもいいんじゃないかって思うことが多い。
絵は常に匿名で純粋に絵だからだ。
絵にいわゆる練習はないのだ。
青春期に描く人生の最初の一枚にすら一期一会の凄みはあるのだ。
一枚一枚が唯一無二の奇跡なのだからすべてあなどれない。
油彩 「 雨上がりの蓮田 」 12号M 2009

2009年8月2日 劒岳の見える丘にて
暑中
御見舞い申し上げます。
私 反省の日々を過ごしつつ、
みなさまの御繁栄とご健勝を心より祈っております。
劒岳が見える町にて
吉川孝昭 拝
男はつらいよ第38作「知床慕情」のラストで寅の暑中見舞いのハガキが紹介されるが、
その時の渥美さんの言い回しがなんともカッコいいのだ。
『しょちゅう、おんみまい申し上げます』と本来の言葉の意味をかみしめつつ渋くナレーションスルのだが、
暑中、で一度切るのがとても素敵だった。
ここ10日間は越中八尾は雨雨雨…
一日たりとも晴れない。
いつも言っているが絵描き殺すにゃ刃物は要らぬ、
雨の3日も降ればいい。。。
ああ…(TT)
昨日、夕方に食材を買いに出かけたら、風が強く厚い雲が切れた。
その一瞬立山連峰がサーッと現れ、劒岳が見事な雄姿を見せてくれた。
たまたまデジカメを持っていたので撮影。
いい形をしている。夏の青い劒もまたいいねえ。

2009年7月6日 ようやく暑くなって来た & 油彩『ウブド 遠望 V』
ここのところ生業の展覧会で忙しい。
それなのに一週間前に腰を痛めてしまった。
梅雨の時は一度は腰がやられる。
この季節、雨など降ってちょっと腰が冷えたら危険信号がともりがちになる。
昨年などは、完全に2日間寝っぱなしで、3日目は杖をついて家の中を歩いていた。
今回はまだ少しはましで、仕事をセーブしていたら4日ほどで元に戻ったが、
ほんとうに気をつけなくてはならない。
とはいえ、6月末ごろから晴れたら昼間はかなり気温が上がる。
私の家の二階は特に暑い。30度くらいにはなる。
日本の皆さんはいやな暑さだろうが、私はとにかく暑いのは得意。
室内気温33度くらいまではまったく平気。外の気温も体温以下なら大丈夫。
もちろん汗はかくが、シャワーを浴びれば気持ちがいい。
それでも今の季節、暑くなったり雨で冷えたり。冷えた時は一階のアトリエは板間&吹き抜けなので腰に来る。
で、今年は、雨の日や冷える日は、アトリエから階段を上がり、二階の息子の部屋で小さな絵を描いている。
息子が自作アニメを作っている横で、ちょろちょろ描いているのだ。トホホ…。
まあとにかくそんなわけで気温が高くなってくれたほうが嬉しい。
しかしそれも程度もので、それが連続2週間続くとさすがにきつくはなってくる。バテ気味にはなる。
そういう時は逆に一階の板間でずっと過ごす。
絵だけではなく、パソコンも一階に引っ越す。
映画は今年はどの大手レンタル店も1枚100円一週間貸しで競争しているので、新作以外は借り放題放題って感じ。
今滞在は「刑事コロンボ」全45話を全制覇するつもりだったので、これはラッキーだ。
新作にはみんな群がっているが、昔の旧作は無風状態でバンバン見ている。
活字のほうは、この10日間ほどは「今昔物語集」の本朝仏法の部分をいろいろ拾い読み。
博のお父さんの諏訪ひょう一郎さんじゃないが、これがなかなか面白い。
こう見えてももともと私は日本の古典は好き。
とにかく毎年日本滞在中は生業の時間以外は自分の感覚のために活字&映像を吸収する日々なのだ。
ということで、なかなか「男はつらいよ第23作『翔んでる寅次郎』」の本編完全版の作業が
できないですがお許しください。
でも、さすがに1ヶ月手をつけなかったのでそろそろ作業始めようと思っています。
油彩 「 ウブド 遠望V 2009 」 変形15号 2009
2009年6月26日 「今昔物語集」と紫陽花の花
今回はバリの話でも絵の話でもなく、
小難しい日本の古典の話をくどくどするので、退屈な方は速攻で飛ばしてください(^^;)ゞ
映画「男はつらいよ」第22作「噂の寅次郎」の中で最も好きなシーンは、と、もし聞かれた場合
私は木曽路で諏訪ひょう一郎が寅に今昔物語集のある説話を話して聞かせるあの静かなシーンだと
言うことにしている。

一口に「今昔物語集」と言ってもひょう一郎さんの持っていた文庫本一つくらいじゃ到底追いつかないのだ。
あれはおそらく表紙の模様から推測するに一昔前の角川文庫の今昔物語集『本朝仏法部【下】』であろう。
角川文庫「今昔物語集『本朝仏法部 下』

とにかく今昔物語の世界はどこまでも広く大きい。
十二世紀の前半、平安時代の末期にあたる院政期に形成されたが、あまりにも膨大で多岐にわたっているため、
未完成で終わってしまったのだ。ただの寄せ集めでなく考えられて編纂されているゆえの未完成だったと言われている。
その後鎌倉期には、この『今昔物語集』は完全に世の中から忘れられていった。その後原本は失われたが、
鈴鹿家旧蔵の鈴鹿本と言われる写し本が発見され、それによって再認識されてはまたしだいに歴史の中で忘れられ、
江戸時代に本朝部分だけがとりあえず一部の人々に親しまれ始めたのだった。
全部で三十一巻もあり、
一から五までは天竺の話、六から十までは震旦(中国)の話、
十一から三十一までが本朝(日本)のことが書かれてある。
全部でなんと千話を越える説話が書かれているのだ!舞台も日本だけを取ってもほぼ全国に渡り、
階層も実にさまざまだ。
こうなってくると、読むにしたがって果てしない海にさまよう舟のようになってくる。
その表現も王朝文学などどは違い、筆致は力強く、質朴で、実に簡潔である。直球で感動させてくれ、
直球で笑わせてくれもする。そしてたっぷりと怖がらせてくれもする。
そしてこの第22作「噂の寅次郎」に出てきた説話は『仏法』の枠に入るもので、
巻十一から巻二十にいたる説話グループだ。
これらの『仏に仕えたり、出家する話』つまり発心、道心の話は
この大きな大河の中核に位置するものでとても重要なものである。
このあとの『本朝世俗』グループと並んで人々に愛されてきた巻なのである。
特にこの話のように愛するものの死体や匂いなどを直接に体験してしまうことによって
世の中のはかなさを感じ無常を感じる話は、
今昔物語にとどまらず今鏡、発心集など、それ以降の説話集にも時々見られる。
古来より人は近いものの死によってこそ数々の事を感じ学ぶのである。
この、ひょう一郎が語った無常観溢れる話は『春宮蔵人宗正出家語』と言って、
巻十九の10番目に登場する(このグループを『出家機縁譚』と言う)物語の前半部分である。
実際の説話は当然ひょう一郎の語った内容とずれるところもある。
写し 鈴鹿本 巻29 第十八 第十九 一部

それでは具体的にこ第22作「噂の寅次郎」で、諏訪ひょう一郎によって
語られた箇所の部分(第十話の前半部分である)だけを実際の原文通りに紹介してみよう。↓
今回自分なりに、原文からあえて自分の言葉で現代語訳するに当たり参考になった資料は以下の通り。
新日本古典文学大系36 今昔物語四 (岩波書店)
新編日本古典文学全集 今昔物語集2(小学館)
東洋文庫 今昔物語集3 本朝部
新装版 日本古典文庫U 今昔物語
角川文庫 今昔物語集「本朝仏法部 下」
今昔物語集 巻十九 本朝仏法 【出家機縁譚】の第十話 (前半部分)
東宮蔵人宗正出家語 第十 (とううぐうのくろうどむねまさしゅっけすること)
今昔、【三条?】院ノ天皇ノ春宮ニテ御ハシマシケル時ニ、
蔵人ニテ【藤原?】ノ宗正ト云う者有りケリ。
年若クシテ、形チ美麗ニ、心直(ウルワシ)カリケレバ、
春宮此レヲ睦マシキ者ニ思シ食シテ、万ニ仕セ給ヒケル。
而ル間、其の人ノ妻(メ)、形チ端正シテ心アテナリケレバ、
男無限ク、相ヒ思ヒテ棲ミケル程ニ、
其ノ妻世ノ中ノ心地ヲ重く煩ヒテ
日来ヲ経ルニ、夫心ヲ尽シテ嘆キ悲ビテ、様々ニ祈請スト云へドモ、遂ニ失セニケリ。
其ノ後、夫限ク思フト云へドモ、然テ置キタルベキ事ニ非ネバ
棺ニ入テ、葬ノ日ノ未だ遠カリケレバ、十余日家ニ置キタルニ、
夫此ノ死タル妻ノ無限ク恋シク思エケレバ、
思ヒ煩ヒテ、棺ヲ開テ望(のぞき)ケルニ、
長カリシ髪ハ抜ケ落チ、枕上ニヲボトレテ有リ、
愛敬付タリシ目ハ木ノ節ノ抜跡ノ様ニテ空ニ成レリ。
身ノ色ハ黄黒ニ変ジテ恐シ気也。
鼻柱ハ倒レテ穴二ツ大ニ開タリ。
唇ハ薄紙ノ様ニ成テシジマリタレバ、
歯白ク上下食ヒ合セラレテ有ル限リ見ユ。
其ノ顔ヲ見ケルニ、
奇異ク恐シク思へテ、本ノ如ク覆イテ去ニケリ。
果ハ口鼻ニ入ル様ニテ無限ク臭カリケレバ、
ムスル様ニナム有ケル。
其レヨリ後、
此の顔ノ面影ゲノ思へテ、其ヨリ深ク道心発ニケレバ、
「多武ノ峰ノ増賀聖人コソ止事無キ聖人ニテ在スナレ」ト聞テ、
「其ノ人ノ弟子ニ成ラム」ト思ヒ得テ、現世ノ栄花ヲ棄テ、
窃ニ出デタタムト為ルニ、
女子ノ四歳ナル有リケリ。
彼ノ死タル妻ノ子也。
形チ端正也ケレバ、
無限ク悲シク思エケルニ、
母ハ死テ後ハ臥シテ不離ザリケレバ、
既ニ暁ニ多武ノ峰ニ行ムト為ルニ、
乳母ノ許ニ抱テ臥セケルヲ、
長共ニダニ露不令知ヌ事ヲ、幼キ心地ニ心ヤ得ケム、
「父ハ我ヲ棄テハ何チ行カムト為ルゾ」ト云イテ、袖ヲ引カへテ泣ケルヲ、
トカク誘ヘテ叩キ臥ヲ、其程ニ窃ニ出ニケリ。
終道、児ノ取り懸リテ泣ツル音有様ノミ耳ニ留リ心ニ懸リテ、悲しく難堪ク思エケレドモ、
道心固ク発リハテニケレバ、
「然トテ可留キニモ非ズ」ト思念シテ多武ノ峰ニ行テ、
髪ヲ切テ法師トナリテ、増賀聖ノ弟子トシテ懇ニ行ヒテ有ケル…
以下略
ここまでの文章がこの巻十九第十話でのひょう一郎の語った言葉と重なる部分である。
資料や注釈を参考にしながら自分なりに自分の言葉で現代語に直してみた。↓
今は昔、三条院の天皇様が東宮(とうぐう)におられた時(まだ皇太子であられた時期)に、
(宮中に仕える)蔵人の職で藤原の宗正という者がいた。
年は若く容姿麗しく、心が真っ直ぐな気質であったので、
東宮さまは彼に親しみをお持ちになり、なにかにつけて仕事をお言いつけになられていた。
ところで、この男の妻は姿形が美しく、心が優しかったので、
男は限りなく愛しく思って、相思相愛で仲良く暮らしていたが、
ある日、その妻が流行り病にかかってしまい、何日も床に臥せてしまった。
夫は心から嘆き悲しんで神仏に祈祷したが、妻は遂に亡くなってしまった。
その後、夫は妻のことをいつまでも恋しく切なく思い続けたが、
そのままに置いておくわけにもいかず、亡骸を棺桶に収めたのだった。
葬式まではまだ日にちがあったので、十日あまりの間家に安置いておいたが、
この夫は亡くなった妻をどうにもこうにも恋しく思い、
思い悩んだ末に遂に棺を開けて覗いてしまった。
すると、あの長かった髪は抜け落ちて枕元に乱れ散っている。
愛らしかった瞳は木の節が抜け落ちたようにぽっかりと穴が空いている。
肌の色は黄ばみ、黒ずんで、見るも恐ろしげである。
鼻柱は倒れて穴二つが大きく開いている。
唇は薄紙のように縮んでしまっているので白々とした歯が上下合わさっているのが
残らず見えている。
その顔を見ているうちにあさましく恐ろしくなり、
元のように蓋をして立ち去った。
死臭は口や鼻に染み入るようで限りなく臭く、むせかえるようであった。
このことがあってからというもの、
いついかなる時もその顔が浮かんできて離れず、そうするうちに
ついに深く道心(出家隠遁の心)が沸き起こった。
多武の峰におわします増賀聖人こそは真に尊い聖人だと聞いたので、
「その人の弟子にしていただこう」と思いつめ、
この世での栄華を振り捨てて、
こっそり家を出て行こうとした。
そこへ四歳になる女の子が待っていた。
亡くなった妻との間にできた子である。
妻によく似て美しかったので、
どんなにか可愛がったが、
母が死んだあとはいつも一緒に寝ると言ってついぞ離れることがなかったものを
この日ばかりは多武の峰に夜明けとともに旅立つつもりで
前もって乳母に抱かせて寝かせておいた。
家に居た大人たちにも出家のことは露ほどにも悟られなかったものを、
幼心ゆえに敏感に気づいたのであろうか、
「お父様は私を捨ててどこへ行ってしまうのですか」
と、袖をひっぱって泣き出した。
それをさまざまになだめすかし、優しく叩いて寝かしつけ、
その隙に密かに家を出て行ったのだった。
道すがら取りすがって泣きじゃくった幼子の声や姿が耳につき心から離れずに
悲しく耐え難い気持ちに襲われたけれども、
道心(出家し、仏に仕える心)はゆるぎなく固まっていたので
「ここで家に踏みとどまってはならず」と決意し、多武の峰にいたり、
髪を切って法師となり、増賀聖人の弟子となって一心に修行を行っていった。
と、まあこのような話なのである。
ひょう一郎が語った筋とは大きく違う部分が2つある。
■ひょう一郎は男は妻の美しい顔をもう一度見たさに墓場に行って
棺桶を掘り返したというようなショッキングでドラマチックなことを語っていたが、
実際の説話では家に置いてあった棺桶の蓋を開けたのだった。
■ひょう一郎は妻はすぐ死んでしまったと語るが、
実際の説話ではすでに四歳の女の子がいる。
その子との今生の別れもまたこの説話のヤマである。
映画なので、簡略に、そしてドラマチックに脚色したのであろう。
もちろん妻の死体を見てショックを受け『道心』が発せられる肝心の部分は
説話も映画も同じなのでこういう脚色は許されると思う。
上にも書いたように、
この説話には後半部分もあって、かいつまんで書くと以下の通りである↓
その後東宮様がこのことをお知りになり、悲しく哀れに思われて
和歌を詠んでおつかわしになられた。
宗正入道はこの歌を見て深く感じ入って泣いてしまった。
それをそっと見ていた師匠である聖人は、
「この入道がこうして泣くからには真の道心が生じたからに違いない」と
尊敬の念を抱かれて、入道に「なぜ泣いておられるのですか」と尋ねたところ、
「宮様からお手紙をいただきまして、出家した身ではございますが
なんともお懐かしくて泣いてしまったのでございます」
と言ってまた泣いてしまった。
聖人はそれを聞いて、目を椀のように大きく見開き、
「東宮様の手紙を貰った者は仏になれるのか、あなたはそんな考えで頭を剃ったのか、
いったい誰が出家せよとすすめたと言うのか、出て行かれよ、入道。
さっさと東宮様のところへ参られよ」と強く乱暴な口調で追い出した。
入道はそっと出て、近くの坊へ行き小さくなっていた。
やがて聖人の怒りが静まった頃を見はからって、入道はもう一度師の元に戻っていった。
どうやら、この聖人はひどく怒りっぽい気質のようであった。
そしてすぐ腹をたてるかわりにすぐにおさまりもするのだった。
相手が誰でも厳格に対処し、折れることがなかった。
宗正入道はその後も道心が最後まで揺るがず、熱心に尊く修行を全うされた。
世にも稀な道心強固な人であったとみなが褒め讃え、尊んだということである。
以上である。
こうして愚直に原文を写し、下手なりに自分で現代語訳してみると、
この時代の空気がほんの少しつかめた気がしてくるし、この宗正の悲しみと
その後の一途な道心もなんだか分かるような気がしてくるから不思議だ。
常なるものを見失った私たちも、このように古典の原文に触れ、写し、訳すことによって
余計な垢を少しはそぎ落としてゆけるのである。

追伸: 今、私の庭の紫陽花がきれいです。写真を撮ってみました。

2009年6月17日 剱岳 点の記
2つのリアリティの混同
先日近所の映画館で「剣岳.点の記」を観て来た。
私が剱岳を登ったルートが出てきたり、私と連れ合いが22年前に結婚式を挙げた
立山の守り神である雄山神社の立山杉の林が何度も出てきて妙に嬉しい気分になれた。
そのような個人的な思い出を抜きにしても、なかなか見ごたえのある映画であった。
映像の迫力と技術は誰もが異論が無いはずだ。
空撮やCGをほとんど使わない剱岳の映像は臨場感を持ってこちらに迫ってくる。
物語は、登山そのものではなく、
測量を仕事としたプロフェッショナルな主人公たちの寡黙な姿を追っていた。
その平常心に心を打たれた。
俳優では宇治長次郎役の香川照之さんが凄いはまり役!
研ぎ澄まされた感覚的な表情、
徹底的に謙虚で、地味で、それでいて意志の強い目がなんとも印象的だった。
あの役者さんは間違いなく大器だ。
剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。
この二つを観に行くと思えば良い。
あえて欠点を言えばクライマックス、雪崩れとクレパスの危険性を指摘されながらも決行した一行が
長次郎谷の雪渓を登ってコルまでたどりつき、本峰に取り付いて頂上に着く過程が
あまりにも問題なく上手くいったので肩透かしをくらった感はあった。
しかし谷を登っていく一行の上からの『引き』の緊張感ある映像はなんとも美しかった。
このへんは登山好きには嬉しいところ。
言い換えると、
実際の登山では上手くいく時は、当然あのように緊張感をともなう集中力が持続すれば
事故はなにもおこらないことのほうが多いのだというドキュメンタリー的な感覚が
ついつい入り混じっていたともいえる。
この映画の欠点も実はこのあたりにあると思われる。
映画のリアリティとドキュメンタリのリアリティの混同。
200日以上スタッフが山に入り、危険と闘い、寒さと闘い、高度と闘い、苦労しつくし、
数々の映像を撮り尽くしたゆえの愛着と混同。
それゆえ、山好きの私にはその愛着は分かる気がするが、一般の観客には通用しないかもしれない。
彼らは観客として純粋にただただ「映画」と「物語」を見に来てるのだから。
そう言う意味ではこの映画に「娯楽性」を期待しないほうがいい。
それと聴きなれたクラシック音楽の多様は品格を逆に落とす危険があるので
かつての「砂の器」の時のようなオリジナル曲を作って欲しかった。
しかしそれでも私は言いたい。
剱の圧倒的な臨場感と謙虚な宇治長次郎。
これだけでお金を払う価値はある。

2009年6月6日 初夏の海を描きたい
5月27日に帰国した。
おそらく9月末まで滞在すると思う。
蔵の雨漏りが無いか今回もチェック。
以前は雨漏りがあって絵が数枚やられて痛んでしまっていたので、昨年屋根を修理したのだ。
で、今年はさすがにOKだった。ほっとした。
それで作業中今回も懐かしい絵を取り出して見ていた。
学生時代、この新緑から初夏の季節には必ず海に絵を描きに行った。
当時は海を描くのが大好きだったのだ。
この日記でも学生時代の海の絵を何枚か紹介したことがある。
バリに移住してからは山に住んだので、山や田んぼを描くことが多くなり、
すっかり海とはご無沙汰になった。
私はバリのような常夏の海よりも、温暖湿潤気候の新緑の頃の海の光が一番好きだ。
今回、昔(私が21歳の頃)描いた5月の下田の海を紹介します。
まだ21歳くらいの時なので、技術的には稚拙だが、やはり岩場にイーゼルを立てて
塩水や突風と格闘しながら描いたその臨場感は出ていると思う。
強い日差しの中、たった一人でキャンバスに立ち向かったことはなかなか貴重な体験になった。
油彩 「初夏の下田」 F25号 1981年ごろ(私が21歳のころ)

2009年5月24日 靴の中で居眠りする子猫たち
派遣社員の問題だといえばマスコミがワーワーと、一律に何週間も騒ぎたて、
新型インフルエンザだといえば1ヶ月毎日トップニュースで大変だ大変だと取り上げる。
その結果、追加でやっと作った1億枚のマスクが凄い勢いであっという間に売り切れる。
今回の22日付けニューヨークタイムスのアジア太平洋ネット記事が書いているように
日本人は『集団的な魔法にかかりやすい』のかもしれない。
記事では「他国と同様に感染者の症状は軽度で死者もいないが、日本の対応は危機状態のよう」と述べ、
学校閉鎖や日用品の買いだめ、マスクの売り切れ、
感染を心配して一切の外出を控える母子の様子を取り上げている。
I think everybody is too paranoid
すべての人々がパラノイア(偏執狂)的だ。と言って締めくくっている。
さすがに『too paranoid』は明らかに言いすぎだが、
確かになにがいったいおこったんだろうと思ってしまう騒ぎだ。
その背景にはメディアがこぞって報道競争をせざるを得ない末期的な商業主義があるだろうし、
行政のお役人的保身の考え方があるだろう。
こういうふうに書くと、必ず、『万が一、ウイルスが強毒化したら責任が取れるのか』と言われる人がいるが、
それはいかにも一見まともな考えに見えるが、冷静に考えると、そもそも古今東西どのような地域でも、
どのような状態でもそのいかなる局面にも全ての問題で『万が一』は必ず存在するはずだ。
実は今回の問題よりも、よくよく考えるともっと生命が危うい問題も少なからずある。
全ての行動を『万が一』キーワードで動いてしまうと、全てが疑心暗鬼になり、
その『神経症』は永遠に繰り返されていき、ついに社会は機能不能に陥る。
今回の出来事はその恰好の見本だろう。
もちろん、医学的な分野なので油断大敵は百も承知だし、WHOによると、この新型は『肺炎』が特徴なので
そのへんは忘れてはいけない。
そしてマスクに関しては他人のことを考えて人ごみだけではするべきだと私も思う。
しかし、
それでも、やはり感覚を柔らかにしていることだ。ワーワー騒がないほうがいい。
万が一万が一と心で唱えながら極端なことを考えるという愚行は避けなければならない。
何事もバランスだ。
冷静になり、ある程度は通常通り行動することが最も大事だ。
と、いうことで私の意見もパラノイアにならぬようこのへんにしておこう((^^)
生まれて1ヶ月のトルテ(左)とモカ(右)↓
偶然連れ合いの靴の中で寝ていた。
あ、やらせではありません(^^;)

このあと数日後に日本に帰国します。
次回のアップは6月初旬です。
2009年5月16日 油彩 『青年の日々W』
毎晩、清志郎を聴いているが、それと同時に色々動いている。
絵もしぶとく描き続けている。
帰国が近いので、遠出せずにパッと短く描けるモチーフを選びがち。
つまり自分の家族だ。
息子をクロッキーがわりに油彩で30分描く。
ニュアンスが上手く行ったような気がしたので一見破綻だらけだが筆をおく。
今回も日本に持っていく絵を選び、明日あたりから、木枠からキャンバスをはずす。
だいたい30枚くらいか。
半分以上がプライベートな絵なので、そういう絵は売れる売れないではない。
下に貼り付けた絵もそんな一枚。
今はまだ、人の経歴や権威つきの中に絵があるが、
150年後には今生きている人間は間違いなく全員死んでいる。
そして、文化勲章の絵描きも無名の絵描きも関係なく絵だけが独立して残る。
良い絵は残る。どうでもいい絵は消えていく。
描いた人の人生は忘れられても強い絵は残る。
基本的に絵を描いている時だけが至福なので、残ろうが、残らなかろうがおかまいなしだが、
何かの規範に合わせることなく、完全に一個人として納得できる絵を描きたい。
ただただそう思って今日まで描いてきている。
この絵がそういう絵かはわからない、数ヵ月後にもう一度見て感じようと思う。
油彩 「 青年の日 W 」 F8号

2009年5月7日 窓に君の影が揺れるのが見えたから…
窓に君の影が揺れるのが見えたから
僕は口笛にいつもの歌を吹く
きれいな月だよ
出ておいでよ
今夜も二人で歩かないか
窓を開けて君のためらうような声が
僕の名前呼んで何か囁いてる
きれいな月だよ
今夜も二人で歩かないか
今夜も二人で歩かないか
夜の散歩をしないかね
毎日 清志郎の歌をずっと聴いている。
止まるときついのでこうして日記を書いて動いてもいる。
今日もう一日お付き合いください、次からはいつものバリ日記に戻ると思うから…。
「夜の散歩をしないかね」
「スローバラード」
この二つは連れ合いと知り合った頃、テープが擦り切れるまで聴いた歌。
擦り切れてまたダビングして、擦り切れてまたダビングして…。
思い出という枠をはるかに超えて今も光り輝いている。
スローバラード
2009年5月3日 内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ
woo 授業をさぼって yeah
日のあたる場所に いたんだよ
寝ころんでたのさ 屋上で
タバコのけむり とてもあおくて
内ポケットにいつも oh トランジスタラジオ
彼女教科書ひろげてる時
ホットなナンバー 空に溶けてった
Ah こんな気持ち Ah
うまく言えたことがない NAI AI AI
ベイエリアからリバプールから
このアンテナがキャッチしたナンバー
彼女教科書ひろげてる時
ホットなメッセージ 空に溶けってた
授業中 あくびしてたら
口がでっかくなっちまった
いねむりばかりしてたら
もう目がちいさくなっちまった No no
内ポケットにいつも いまも トランジスタラジオ
彼女教科書ひろげてる時
ホットなナンバー 空に溶けてった
Ah こんな気持ち Ah
うまく言えたことがない NAI AI AI
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
Ah 君の知らないメロディー メロディー きいたことのないヒット曲 Ah・・・
清志郎さんの歌は私の青春そのものだった。
あまりにも強く影響を受けすぎてきた。
私はこの30年間ぶれずに言い続けてきた。
『日本を代表するシンガーは後にも先にもたった二人、
美空ひばりと忌野清志郎だ』 って。
きつい…、悲しい…、
久しぶりに、何年かぶりに、ちょっときついです。
しかし乗り切らないと明日は無い。
そう思ってわざと、あえて、これを書いている。
清志郎、私はあなたを忘れない。
万感の想いをこめて
ありがとう。
ヒッピーに捧ぐ
2009年4月14日 親を選べない子供たち
昨日、母親ネコのキウイが12月に次いでまたもや赤ちゃんを産んだ。
今度も2匹だった。母子ともに健康。一匹目を産んでからなんと8時間後に
2匹目を産むというとても珍しい産み方をしていた。
深夜12時ごろ、一匹目を産んだあと、数時間経って、これ以上産む気配が無かったので、
私たちも寝てしまった。それで午前中見てみると、なんと2匹目を産もうとしているではないか、
ということで、またもや子猫が増えてしまった。
今度は2匹とも父親のシンディ似の黒トラだ。
ちなみに前回は母親のキウイ似のキジトラだった。
バリの人々ならこういう時は、さっさと田んぼに子猫を捨てに行ったりもするのだが、
私にはとうていそんなことはできない。
また、日本のように次から次へ避妊手術という手がある。
一時期私もネコたちにそうしていた。
これはとても理にかなっているが…しかしどうもこれもあやしい…。
そんなに正しいのだろうか…、と、前々からひそかに思いはじめている。
それで、しょうがないからここ十年は生まれたら飼うのである。
結構可愛いと言って、欲しがる人もいるからその時はオシモのしつけが終わったらあげる。
もらい手が無い限りは飼い続けるつもりだ。
生まれてすぐの子猫たち、まだ目は開いていない。

どうも生まれたばかりの子猫の赤ちゃんを見ていると車寅次郎が産みの母親に捨てられた
いきさつを思いだしてしまう。
赤ん坊は親を選べないのだから、私の考えとしては、なるべく成人になるまでは母親と一緒に
育って欲しいのである。
ところで、ここからが「男はつらいよ」ネタである。
寅はもちろん生まれてすぐに捨てられたという悲しい身の上を持っているが、
このシリーズに出てくるマドンナも寅並に親に恵まれていない幼少期思春期を持つ人が少なからずいる。
山田監督はマドンナにも過酷な運命を与えるのである。
ちょっと思い出してみると…
たとえば、第4作「新男はつらいよ」の春子さんは、父親の顔を知らずに育ち、
ついに最後まで父親に会おうとはしなかった。そうとうの悲しみを背負っている春子さんだった。
そして娘に会えないまま父親は死んでしまうのである。

第9作「柴又慕情」の歌子ちゃんも、母親が父親から逃げ出し行方不明になってしまうのである。
歌子ちゃんは思春期から残された父親と二人暮しで生きてきたのだ。
第11作「忘れな草」のリリーも、中学校のころから母親が男を作って出て行ってしまったので
印刷工の父親との二人暮しをせねばならなかった。その淋しさに耐え切れなくなってリリーは、
寅のように中学生から家出をしてしまうのである。

第17作「夕焼け小焼け」の芸者ぼたんも、思春期に両親ともいっぺんに亡くなってしまって、
幼い弟と妹を芸者をしながら育てて行ったのだ。
第26作の「かもめ歌」のすみれちゃんも、父親はヤクザもので博打好きの酒飲み、
母親は家を出て逃げてしまうという最悪の中で思春期を過ごさなければならなかったのだ。
第27作「浪花の恋の〜」のふみさんも、親に恵まれず、
小さな姉弟が離れ離れに暮らさざるを得なかったのだ。
第28作「紙風船」の光枝さんは両親の顔をほとんど覚えていない悲しい境遇にさらされ、
親戚をたらいまわしにされたあまりにも厳しい過去を持っている人だ。
この人と寅との相性は抜群だった。

第29作「あじさいの恋」のかがりさんも、本当の親とは小さい時に別れ、伊根にもらわれてきたのだ。
小さな頃からあきらめることを見につけてしまった悲しい人だ。
第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」の風子も母親が家を出て逃げてしまい、若くして亡くなってしまう。
自分も結局は母親と同じようなフーテン暮らしをしてしまうのである。
第35作「恋愛塾」の若菜さんも、母親が東京から来た男にだまされ若菜さんを産んだ。
そのあげく村の噂に耐え切れなくて海に身投げしてしまうのだ。
カトリックにとって自殺は許されない行為だったのだから悲しみは計り知れない。
このように、若菜さんはこのシリーズのマドンナの中でも最も深い悲しみを背負っている。

等々とあ〜キリが無いくらい多いのだ。
山田監督もよくもまあこれでもかと言う感じで悲しみをたくさん考えられるものだ((^^;)
このように、寅に惹かれる女性たちのその多くは、寅同様、幼少期や思春期から
人生の悲しみや苦しみをいやというほど味わってきた苦労人なのだ。
だからこそ、ある意味、見た目がたいして良くない寅の、
その瞳の奥を見抜くことができるのだろう。
2009年3月26日 バリの新年 究極の静寂『ニュピ』
今日はバリが一年で最も清められる日『ニュピ』である。
簡単に言えばバリの暦(サカ暦)における新年である。
バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』。毎年微妙にずれていく。今年は、今日3月26日が新年である。
いつもの年なら、前日の大晦日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を深夜まで鳴らす。
しかし、今年2009年は4月にインドネシアの総選挙が行われるため、政党間の争いが絶えない。
で、バリ州政府もついに今年の大晦日のオゴオゴ儀式を取りやめさせたのだった。
それゆえ昨夜はいつにもなく大きな爆竹の音が村中のいたるところで1分に一度くらい響き渡っていた。
巨大な竹筒に火薬を詰めて思いっきり大きな音を出して悪魔を追い払うのである。
オゴオゴが出せないので若者たちは爆竹の音をさらに巨大化させて気を紛らわせていたのだろう。
そしてそのような爆音狂乱が終わり…明け方、
空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。
この24時間は、バリの全ての場所で、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、
灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、音楽を聴いたりもできない。
もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。
これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。
救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
私の敷地の渓谷にはチャンプァン川が流れている。
今、その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが敷地に聞こえてくる。
車の音はもちろん、人の声も聞えない。どの家の敷地からも『音』は感じられない。
もちろんどの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。
夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。
昨夜の大晦日は満天の星。そして『ニュピ』の今日は快晴。
もっとも私の隠遁生活であるこの敷地はジャングルの奥、渓谷のてっぺんにあるので、毎日が『ニュピ』である。
毎日『静寂』の中で暮らしているというわけだ。
ニュピの日。 いつもと全く同じ趣の敷地から見たチャンプァン渓谷

この敷地の猫たちにとってはいつだってニュピ

村の道に出てみるともちろん車も人も通っていない。

2009年3月16日 新作油彩 『バンコク 早朝 』
今回のバンコク行きでは、珍しく油彩道具を持って行った。
まあ、いろいろ忙しくてあまり描く時間はなかったのだが、
宿のベランダから見た早朝のバンコクを何枚か走り描きした。
ゆったりと流れる曇天のチャオプライヤー川(メナム川)の先にうっすらと太陽の赤がにじむ。
しかし、雲が厚く、太陽は出ずじまい。
それがいかにもグレー色の街バンコクらしくて気に入ったので15分ほどで描いた絵が下の油彩画だ。
バンコクは東京よりも複雑で奥が深い。何年通っても掴みきれないカオスの街だ。
私はこの街が好きなのだ。
油彩 「 バンコク 早朝 」 F4号 2009年3月

2009年3月2日 『長良川 鵜飼 2009』 手描きろうけつ染め完成
明後日3月4日から10日間、タイのバンコクへ仕事がらみ&ビザ取得の用事で行く。
しばらくは更新ができないが、ご了承ください。
今夜、出発準備であわただしい私の家に夜遅く、染色担当の職人さんが
新しい手描きろうけつ染め(手描きバティック)を持ってきた。
彼の名前はヘンドロ。私と同い年だ。
ちょうど1年前のバリ日記にも登場してもらったので、覚えている人もいるかもしれない。
彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。
で、本日、
岐阜市内での展覧会用のモチーフ『長良川 鵜飼 2009』のタペストリが完成したのだ。
もう岐阜での絵と染色工芸の展覧会は14年以上行われている。
今年のメインは新しいタペストリ3種類だ。
普段は宮嶋が企画し、様式の設定、構成、デザインを担当している。私は下絵作り。
今回の鵜飼タペストリは私のデザインと下絵。
そして最後にインドネシアの染色によるしぼりとろうけつで色が何度か入って完成。
6種類ともなかなかのでき。その中でも特に気に入ったデザインを紹介します。
何度も試行錯誤して完成したので愛着のある作品たちだ。
今回のモチーフ『鵜飼』は当然夜の風景、しかし雲の流れをどうしても描きたかったので、
夜なんだけれども、雲がくっきり見える幻想的な空間にしてみた。
上は果てしなく濃紺の空が広がり、下は果てしなく濃紺の水が漂う広がりのある構成。
とはいうものの、普通はなかなかてごわくそうそうは上手く行かない。
しかし、今回はやっと上手く行った。上手く行った日くらいは写真を撮って喜びたいので久しぶりに完成記念写真。
この未曾有の大不景気、絵も染織も作ったって例年のように売れるかどうかまったく分からなくなってしまったが、
まあなんとかなるとひたすらいろいろ作ってみる日々なのだ。
どうせもともと地獄にいるようなものだから、ダメならダメで居直ってやろうとまな板の鯉を実践している。
思いのほか上手くイメージどおりにいったので、機嫌よくヘンドロ(右)と完成を喜ぶ私

手紡ぎ糸使用、全手描きろうけつ草木染 『長良川 鵜飼 2009』 (部分) 全体180p×45p

それではバンコクへ10日間行って参ります。
2009年2月24日 人ひとヒト物語 百点満点つけっかな
先日、私の最大の支援者であり、私の絵を20枚近くも持っていらっしゃる大コレクターでもあられるY.I さんから
読売新聞社会欄の「人ひとヒト物語」の記事がメールに添付して送られてきた。
それはY.I さんとお母様との絆の話を取材した記事であった。
Y.Iさんはエッセイも書かれるが、今回の記事は以前書かれた彼の文章を基にした取材だったようだ。
私もそのエッセイは読ませていただいているし、私のアトリエでもお母様のことは何度かお聞きしていた。
昨年9月にアトリエに来られた時、そのことで取材があるかもしれないと話されていたので、
もし記事になったらぜひ読ませていただきたいとY.Iさんにお願いしてあったのだ。
Y.Iさんは、今はつくば市の大きな総合病院の外科部長さんだが、彼の人生は決っして順風満帆ではない。
彼はお金持ちのお坊ちゃまでもなければ、お医者さんの二代目でもない。ごく普通の家に育ったのだ。
高校卒業後、不運にもお父様が病気で亡くなられてしまった。
お母様はそれでも、気丈夫に黙々と和裁や田や畑仕事をされ、たった一人で、
医者を志すY.Iさんや妹さんたちの面倒を見られたのだ。特に受験勉強をするY.Iさんのために毎日夜食を作り、
Y.Iさんの5年間にも及ぶ浪人生活を寡黙にただただ信じて支えられたのだった。
そして浪人生活が許される本当に最後の年にY.Iさんは、富山医科薬科大学(現富山大学医学部)に合格された。
それゆえ、医師国家試験に合格されたのはちょうど30歳になった誕生日だったと聞いたことがある。
お母様に電話でまず連絡されて、そのあと友人たちと過ごして夜に家に帰ると、
お母様はちょっとまじめな顔をして、
「よかったな、これ、母ちゃんの宝物、おめえにやっとくから。」と古びた封筒を渡されたそうだ。
中を開けて見ると、
遠い昔、小学校低学年の幼い彼が母の日に作文用紙に書いた作文が入っていた。
おかあさんへ
毎日おべんとを作ってくれたり、ふとんをしいてくれてどうもありがとう。
ぼくはこれからまい日ふろのそうじやひよこのせわをやります。
ひよこのせわは、ぼくとみずえでやります。
学校におくれそうな時はお母さんにやってもらいます。
それと、寝る前に肩たたきをしてやります。
それと、ぼくが大きくなっていしゃになったら、おかあさんのびょうきをみてやります。
これから田やはたけでいそがしくなる時があると思いますから、
ぼくにもてつだいができれば、てつだってあげます。
幸夫より
封筒にはお母様の名前と『寳物(たからもの)』という文字が書かれてあった。
お母様はなんと二十年近くもその手紙を持ち続け、毎日祈り続け、
さらにそこから五年もの間、お守りとして彼が医師になるその日まで胸に抱き続けたのだ。
その夜、Y.Iさんはしばらく布団の中で寝付けず、気がつくと布団の中で嗚咽していたそうだ。
合格の喜びよりも『親を想う心に勝る親心』に深く感動してしまったとおっしゃる。
小学校しか出ていなくて、四十八歳で夫を亡くし、大学入試や医学部受験のなんたるかを
ほとんど知らず、ひたすら息子を信じ続けたお母様の心情を思うと今でも胸が張り裂けそうになると言われる。
今、その手紙はY.Iさんの宝物になっているそうだ。
その後、病院で勤めるようになってからは、今度は年々仕事が増え、近年はあまりもの激務に
ストレスで心がくたびれてしまうことも多くなっていく。
そんな日々が続くと、しばしばY.Iさんはご自分の道歩んできた道がこれでよかったのか
考え込まれることが増えてきたそうだ。
そんな時、膝を長く病気されていたお母様が、今回ついに人工関節に代えることになり、
その大事な手術をY.Iさんがされることになったのだ。
こうしてはからずも長年果たせなかった大事な約束を果たす時が今まさに彼に訪れたのだった。
そして無事手術は終わり、お母様はリハビリをされながらY.Iさんにこう言われたそうだ。
「百点満点つけっかな」
実は、私事だが、
私の母親も数年前に、Y.Iさんのお母様同様、膝の大きな手術をし、人工の関節を入れている。
それゆえ、今回の記事は、私には他人事とは思えない出来事に思えた。
Y.Iさんは、今回見事百点満点の親孝行をされたが、私の方はほとんどなにも孝行らしいことはしないまま、
体の弱い母親は今年なんとか入退院を繰り返しながら七十二歳を迎えた。
このようなフーテン暮らしの業を背負った一人息子を持った病弱の母親のことを思うと不憫でならなくなる時がある。
まこと申し訳ないと思っている。しかしこればかりはどうしょうもない…。
車寅次郎じゃないが『そこが渡世人のつれえところよ』なのである。
少年だったY.Iさんのお母様への手紙の一部

■ 読売新聞「人ひとヒト物語」の記事
2009年2月15日 マンゴケーキと『男はつらいよ』
昨日はバレンタインデーだった。
バリ島では、バレンタインデーの日は、結構男の子が女の子に渡すのだ。
スーパーでもバレンタインデーのためのコーナーがあるが、
たいてい若い男たちがたむろしている(^^;)
一方、私の家は、バレンタインデーと言えば、近年は『ケーキ』を作る日であり、
食べる日なのだ。
本来の目的と相当かけ離れているのだが、一向に誰も気にしない。
ここ数年はケーキを作るのはもっぱら息子が担当している。
スポンジの焼き方が連れ合いよりも上手になってしまったので、
彼が一人で奮闘してくれるのだ。
で、今回はトッピングはなんとマンゴ。これはちょっと珍しい。
つまりマンゴケーキだ。
今までは圧倒的にイチゴが多かったのだが、今日はそういう気分なのだろう。
できばえはすばらしいものだった。
で、前回10月の誕生日同様、たいへん美味しくいただきました。

ところで、『男はつらいよ』にもケーキは出てくる。
と、無理やりこじつける(^^;)
印象深いところではやはり
第13作「恋やつれ」での歌子ちゃんが青山で買ってきたケーキを思い出す。
あの時寅は『せんぶりコーヒー』を作ってみんなの顰蹙をかっていた。

それ以外でも第15作「相合い傘」でのリリーのケーキ、
これは寅のアリアの時だったので、ちょっぴりせつなかった。

第16作「葛飾立志編」での礼子さんの家庭教師の際のロールケーキ。
寅、いったん口に入れて出していた。
第20作「頑張れ!」での映画を観て来たさくらたちのお土産ケーキ。
満男は夕食前なのにもらっていた…ずるい(−−)

第28作「紙風船」での、諏訪家のご近所さんのまぐろのお返し手作りケーキ。
このシリーズ唯一の手作りケーキ。
それ以外では
第36作「柴又より愛をこめて」でのあけみが諏訪家にお礼で持ってきたケーキ。
第38作「知床慕情」でりん子ちゃんの親父がカステラを
手で引きちぎって寅に出していた。きちゃない…((^^;)
とまあ、結構あるもんだ。
そういえば小津監督の『麦秋』(1951年)での紀子さんが銀座で買ったショートケーキはあまりにも有名。
1回目は紀子さんのおごりで少し小さめ、2回目は義理のお姉さんの注文でちょっと大きめ。
現代に換算すると1万円以上もするケーキ

これは銀座の高級ケーキ、当時の値段で九百円。
これは恐ろしく高かい。なんせ月収が一万五千円の時代なのだ。
今なら一万数千円のケーキという感じだ。
めったに口に入らないのでみんな目の色変えて本気で身構えていたのが笑える。
うまいうまいと真剣に食べる。

子供が来たら黙ってテーブルの下に隠す。とりあえず知らん顔(^^;)

なんともユニークな微笑ましいシーンだった。
もちろんこのシーンには、山田監督も影響を受け、後に『男はつらいよ』第15作『相合い傘』での
あの衝撃のメロン騒動に繋がっていくのだ。↓

























いやはや、あと数日で日本出発である。
9月16日に大阪に行き、関西空港からバンコクへ旅に出る。
で、最後の展覧会も大詰めなのと家の後片付けにも時間をとられ
この10日間ほとんどパソコンをいじれていない。っていうか睡眠時間も削っている…(TT)
そういえば、
第19作「寅次郎と殿様」の中で、寅が『マリ子』さんを探すために、柴又中を
駆けずり回って夕方へとへとになって戻ってくる哀れな姿があった。
寅、源ちゃんに担がれてとらやに戻ってくる。
目がペケになり、よろけながらながら、
寅「最初の50軒目までは何とか数えてたけれど、
それから先はもう…、
目は霞むし、もうふらふらだよ…」
おばちゃん「おふ、お風呂が沸いてるからお入り」
寅、よろけてこけそうになる。
おばちゃん「あら、大丈夫かい」
寅、階段に倒れて手すりにつかまりながら
寅「いや…それより先に、ちょっとでもいいから寝かせてくれよ」
おばちゃん「ん」
這いずるように階段を上がりながら
寅「あれだね、おばちゃん」
おばちゃん「ん?」
寅「東京中探すのには…4日や5日じゃ、無理だねえ…」
這うように階段を上がって、エネルギーがゼロになり、
ついにガタガタガタずり落ちてしまう寅。

おばちゃん「あああああ…」
源ちゃん「大丈夫ですか」源ちゃん寅を起こそうとするが
寅「ここで寝るここで寝る…ここで寝るよ、おーいここで寝る」と、弛緩している。
寅、ヘロヘロ
みんな困った顔

ここ10日間の私はあの寅ように↑ヘロヘロのヘトヘトのガタガタなのだ。
それゆえに第19作「寅次郎と殿様」本編完全版完結編があと少しのところで
止まったままになってしまった。あ〜〜〜〜!もう数日だけあればアップできたのだが、残念!
で、完結編のアップはバンコクに10日間滞在したあと、バリに戻り、
ADSLの契約を再開したあとの9月30日ごろだと思う。
完結編を待ちわびておられたほんの一部の皆々様(^^;)
どうかもうしばらくお待ちください。
バンコクを10日間旅してバリに戻った後、また作業を開始し、9月30日にはなんとかアップします!
しかし、これは毎回書いているように、
日本滞在というのは、私にとって『稼ぎ(生業)』の日々と同時に『充電』の日々でもあることを
ご理解いただければと思う。
どうしても、少しでも空いた時間は「自分から吐き出す」よりも「自分の中へ取り入れる」ほうに
行ってしまうのである。そうでないとそのあとに「吐き出し」ができない。
で、バリに戻った9月末以降はまじめに本編もダイジェスト版も日記も制作していくつもり。
それではみなさん、
数日後の9月16日からくふらふらと旅に行ってまいります。
それゆえ明日からバリに戻るまでの2週間ほどはサイトの更新作業ができません。
9月末まで気長にお待ちください。
ああ…、もうこの放浪癖は生涯消えそうにもない。
私が寅に惹かれるのもここのところ。
寅と私は同じ渡り鳥の業を背負っているのだ。
第9作「柴又慕情」で、
さくらが「どうしてまた旅に行っちゃうの?」
って聞いた時、江戸川土手にねっころがりながら寅が空を指差し言うセリフ、
「ほら、見な、あんな雲になりてえんだよ…」
結局は、私の人生もこの言葉に尽きるのだ。
なお、上にも書いたが、記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓
そのうちの一枚が下の絵↓「おわらの日 西新町」
油彩「 おわらの日 西新町 」 油彩 F4号 2008年8月

2008年8月26日 新作油彩 「雲間に見える剣岳」
五月のある日、雨上がりの後、立山連峰がくっきり見える午後があった。
その時地元の村まで行って描いた絵が以前6月24日にバリ日記で紹介した「五月の剣岳」だ。
あの絵は我ながら気に入っている。
で、実はあの時、他にも何枚か油彩を描いていたのだが、
どれもこれもめまぐるしく状況が変わる風景の中で描いたせいか、何が描かれてあるのかよくわからないような
破綻だらけの絵になってしまったので、デジカメにも撮らないで、お蔵入りしてしまった。
昨日、用事で全ての絵をストックしてある蔵に入った時に、この前の破綻だらけの絵たちが目に入った。
その中の一枚は、今冷静に見るとそんなに悪くないのである。それがこの絵「雲間から見える剣岳」だ。
あれからちょうど3ヶ月経って、他人の絵のように自分の絵を見れる気持ちになったのか…、
それはよくわからないが、とにかく、この絵、相変わらずごちゃごちゃした破綻は著しいものの、
なにかそこの場の空気のようなものを感じるので良しとした。
絵は描いてから数ヶ月経たないと分からないものだとつくづく思う。
油彩「雲間に見える剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

2008年8月21日 上野由岐子投手 奇跡の413球
いやあ、ついさきほどオリンピック ソフトボール女子で日本が優勝したばかり。
展覧会の仕事をしながら隙を見てはこの3試合ずっと観戦してきたが、
上野投手の気迫と集中力の持続は奇跡とも言えるものだった。
何かが乗り移ったように粘りに粘っていた。
誰よりも強い心で攻めまくる。
たった一人で、2日間で3試合、なんと400球以上を投げきった。丁寧に丁寧に…
キャッチャーのリードとバックをひたすら信じて。。
絶体絶命の満塁のピンチ!!
攻めのインコースシュート回転のストレート!!
感動させていただきました。
そして…最後はやっぱり全員で勝ち取った勝利だった。見ていればそれはわかる。
最後じつによく守り、しぶとく打った。
おめでとうみなさん。



2008年7月31日 【遠い旅の空から】新聞連載開始
先日7月29日(火)より読売新聞朝刊「東京版」にて
『男はつらいよ40周年』にちなんで、
『寅さんに影響を受けた人たち』というテーマで連載が行われている。
タイトルは【遠い旅の空から】
この「男はつらいよ」という映画に人生で大きく影響を受けたいろいろな人たちを毎回一人ずつ紹介し、
映画と関連付けてその人たちの人生をも紹介するという企画だそうだ。
毎日連載で9回ほどに渡って、毎回100行〜120行ほどの長さで五段抜きで連載している。
読売新聞朝刊の中でもかなり大きな連載記事だ。
上にも書いたように東京版なので東京以外の道府県にお住まいの人は残念ながら読めない。
それと多摩地区の方々も読めない。
ただし、読売新聞本社内の『ヨミプラザ』(03−3217−8399)に電話連絡すれば
全国どこからでも過去2ヶ月以内の読売新聞「東京版」は2ヶ月以内なら何日のものでも、
何部でも、通販で買えるから、ぜひとも読みたい人は送料(100円ほど)さえ足せば
2日ほどで手元に届いて読める仕組みになっている。
普段世間の企画ものに対して不精な私がどうして珍しくこのような公的なお知らせを
細々と、個人的な『日記』などに書くかと言うと、
実は私も4週間ほど前に取材を申し込まれたからだ。
私などは関係者でもないし、映画人でもないし、有名な文化人でもないし、芸能人でもないし、
仕事自体もちっとも有名な画伯でもないし…、つまり地位も名誉もついでにお金もない男だ。
場違いもいいとこじゃないかってお断りしようと思ったのだが、
私のささやかなサイト「男はつらいよ覚え書ノート」を見て感動してくれたその記者さんは
とても熱心な方で、ぜひ直接越中八尾の自宅へ行って話を聞きたいと仰る。
ずいぶん迷ったが、これによって少しでもこの映画が見直されればと、
結局僭越ながら己を無にして直接取材を受けることにした。
『国民映画』『寅さん』などとマスコミにさんざん表面的には持ち上げられながら、
一方でこの映画を評価しないことをまるで文化人、知識人のステイタスのように考えている輩が大勢いるこの国で、
この映画に人生を救われた人間がまさにここにいるのだと伝えたいと思ったからだ。
人の人生を変えてしまえる映画なんてそうあるものではないのだから。
7月初旬の大雨の翌日、
わざわざ読売新聞東京本社から汽車を乗り継いで山を越え5時間以上かけて
山深い越中八尾に来てくださった記者さんは
私の自宅1階板間のアトリエで3時間にもわたる熱心な取材をされた。
地元の北日本新聞、富山新聞やテレビには時々仕事の展覧会に取材していただいて
小さな記事を載せていただいているが、今回は仕事の展覧会でなく「寅さん」。
しかし記者さんの仰るには「寅さん」の詳しい話だけでなく、
その映画に影響を受けた人間そのものを実は取材したい、ということだった。
この映画のことだけでなく、バリのこと、絵のことなどを全部一つに関連付けての総合的な取材。
それゆえ私の心の底の隠したい部分や苦悩の人生の影の部分を
あえて探るような緊張感のある深い取材だった。
新聞記者さんのプロ意識というのはたいへんなものだなとつくづく感じた一日だった。
実は…、
あの徹底した取材を受けて私はもう一度精神を解体された。
そして、あらためて自分の裏表を総合的に見つめることが出来たのだ。
だからあの取材は違った意味でもとても私にとって意味のあるできごとになった。
取材の後、せっかくはるばる越中八尾まで来られたのだからと、
夕方の淡い光の中、自分の住む多くの絵のモチーフにもしている八尾の町を
ゆっくり1時間ほど歩いて案内させていただいた。これも大事な取材の一環だ。
こういうことはとても大事。その土地を知らないとその人は分からないものだ。
記者さんはとても町並みがしっとりしていると気に入ってくださった。
で、帰り際に「7月末頃からおそらく連載が始まります」と言われていた。
そのあとも時々メールを通して本質的なこと、精神的なことを何度か聞かれ、
それに自分なりに誠実に答えることによって自分がもっと見えてきたから面白い。
そうこうしているうちに先日連載が始まったが、
なんとその前日に「連載第1回目は吉川さんです」と、言われた。つまり私だった。
第1回目というのは「つかみ」なので本来とても重要なのだ。
第1回、2回、3回あたりが悪ければ後はこけるとも一般には言われる。
しかしこの場合、厳密に言えば私は『モチーフ』にしか過ぎず、
ポイントは記者さんの優れた筆力の方。
だから私は記者さんを信じるほかなかった。
それで掲載された翌日送られてきた記事を読ませていただくと、
自分の人生を変えた第15作「寅次郎相合い傘」での寅のアリアを文章の核として、
私の人生の明暗がドラマチックに浮かび上がる構成になっていた。
特に最終章は私の気持ちを代弁してくれるような鮮やかで無駄のない、それでいて温かいタッチで
締めくくられていたのはさすがの一言だった。
また、最終章に、私の最も敬愛する、恩人であり最大のパトロンであるY.I さんのお言葉が載せられていたのも
嬉しかった。記者さんは、Y.Iさんともコンタクトを取られ、取材されたのである。
見た感じ、思っていたよりずっと大きな記事で120行くらいはあると思われた。
世間受けを狙った寅さん寅さんした面白おかしい記事では全くなく、
逆にその影響を受けた人間そのものにじっくりとシリアスにスポットが当てられている
優れた本物の企画だったと思う。取材されたから言うわけではない。
こうして記事を眺めながら今しみじみそう感じているのだ。
それでは記事をご覧ください↓。
【遠い旅の空から】掲載記事画像
なお、私の記事は新聞だけでなく読売新聞社のwebサイトである『YOMIURI ONLINE』
の中の ホーム→地域→東京23区→企画連載のページに全文掲載もされている。↓
2008年7月7日 キャンバスの裏に油彩発見!「春の伊豆下田」
5月に雨漏りがあった倉庫から大量の絵を移動させた時に、キャンバスの裏にもう一枚風景画が見つかった。
私は学生時代に春によく海を描きに行ったが、この絵は21〜22歳の私が4月の伊豆下田の岩場を描いたものだ。
あの時は3枚ほど20号の絵を描いて、一枚だけ気に入った絵を展覧会発表したが、残りの二枚は気に入らなくて
未発表のままだったが、そのうちの一枚がどこに行ったのか行方不明だった。
今回の大移動で、ある異なる風景画の裏になんとその伊豆下田の海辺の絵があったのだ。
裏にアクリルジェッソを塗ってあとに、違う絵を描いたのだった。
まあ、上から違う絵を描いて潰してしまうよりはましだったが、それでも半分闇に隠されたようなものだ。
今こうしてこの隠された絵を眺めているとそんなに悪くない。
絵は稚拙だが、大胆な構図としっかりと乗せられたタッチが当時の高揚感を表していた。
写生とはこういう絵を言うのだ。
これだから絵は怖いのだ。その時の若気の至りで壊したり、裏から絵を描いてはいけない。
少なくとも数年は待たねばその絵のことは冷静には見れない。
当時若者だった私は、このいかにも不恰好なゴテゴテした無骨な絵に執着することはなかったのだ。
『蟹は自分の甲羅に似た穴しか掘れない』と、昔から言われるが、
ほんとうに絵というものは人生とともに分かってくるものなのだ。
できることなら描いた絵は残したほうがいいとしみじみ思い知らされた。
未来の自分がきっとその絵を分かってくれるのだから。
油彩「春の伊豆下田」 油彩 P20号 1982年頃 4月

2008年6月24日 新作油彩 「五月の剣岳」
ここんとこ毎日雨が降る。それでなくても越中八尾は雨が多い土地なのだ。
それでも時々外に行っては絵を描き、散歩をする。
先月新緑の頃、雨上がりの直後、一瞬きれいに立山連峰が見えた。
さっそく近くの村まで30分かけて行ってスケッチ、油彩でも一気に描きあげた。
こういう時は、タッチが全部一発で決まりそうな予感があり、やはり決まる。
ささやかな至福の時だ。
この絵↓は剣岳の頂上付近が鮮やかに顔を出した一瞬。
私は2002年の晩夏、あの山に一週間いた。
そしてまさに同じ時に、遥かインドネシアで同い年の親友が天国に召された。
私は剣岳を見るたびに亡くなった彼を思い出す。
不思議なものだ。まったく関係のないふたつの出来事なのに、時期が一致すると
いつまでも関係が離れないのだ。
だから、意外にも、この油彩画も私にとっては親友のアナック.アグン.ライに捧げる気持ちになってしまう。
まあ、それもいいだろう。そういう人間が一人くらいいたっていい。
油彩「五月の剣岳」 油彩 F4号 2008年5月

そして現在。
梅雨入りした近頃、自宅裏山の森(城ヶ山)は、下の写真のように紫陽花満開。毎夕散歩している。
時々無理やり家族もつきあわせている。で、私の写真を撮ってくれたのだ。↓
フクロウの雛にはあの日以来逢わない。あの日が最初で最後のご対面だったんだな…。

2008年6月16日 出を待つ絵たち その3 『Mの肖像』
越中八尾はここのところちょっと天気がぐずつき気味だ。
もう梅雨がそこまで来ている。
自宅の裏に城ヶ山という大きな森があって、私はよくスケッチに行く。
森というより低い山といったほうがいいくらいのなかなかの森林地帯だ。
この森のてっぺんに火災除けの神社である秋葉神社があるが、そこまでの階段も
今は紫陽花の花でいっぱいだ。ここ数週間、時間が空く夕方遅くにその森に絵を描きに行くが、
先日は木の枝に白いフクロウの雛が止まっていた。胸が毛でふわふわだ。文句なしにかわいい。
雛といってももうかなり大きく、巣立ち寸前といったところだった。
4メートルほど下にいる私を見ても逃げようとしない。
私も暇だからスケッチもせずにずっと雛を見ていた。
時々かわいい声で「チューチュー」と鳴いている。親を呼んでいるのだろう。
何十分経っても一向に逃げようとしないのでこちらのほうが飽きてしまって、フクロウにさよならをした。
さて、先日から続けている「出を待つ絵 シリーズ」だが、(おいおい何がシリーズだ ヾ(^^;))
今回貼り付ける絵は、私がバリに行くちょっと前に友人に頼んでモデルになってもらった絵だ。
確か数時間だけモデルをしてもらったので、2時間ほどで描いた絵だと思う。
ほとんど右往左往試行錯誤無しで、全部一発でぐいぐい決めていった記憶が今でも残っている。
普通はそうしたくても上手くはいかないのだが、この絵はそれなりに決まった。
当時は習作だと思っていたが、今回蔵から出してみてみると、なかなか動きがあってこなれていていい。
タッチも生きたまま終えている。
しかし、こういう絵はやはり当然売れないのだ。モチーフがただの青年では誰も家に飾りたがらない。
だから展覧会候補から外れがちになる。こればっかりはどうしょうもない。
しかし安心してくださいM君。君をモチーフにしたこの絵は、いつかきっと…、僕らが死んでしまった後かもしれないけれど、
何十年か後に多くの人が見てくれると思うよ。
なんてなんの根拠も展望もなく思い込んでいる私だった。
この、『根拠なく思い込める人』が絵を描き続ける人なのだろう。いいも悪くもない、そんなこと偉くもないし、馬鹿でもない。
ただそう言う類の人というだけのこと。
「Mの肖像」 油彩 P6号 1991年頃

2008年6月3日 出を待つ絵たち その2 『チャンプァンへの道』
バリ滞在初期に一気に30分ほどで描いたこの↓自宅近くの田園風景画を私は気に入っている。
バリでは自分のギャラリーにしばらく飾っていたのだが、日本では遂に一度も人の前で見せることはなかった。
なぜ気に入っていたのに飾らなかったのかっていうと、当時この絵がなんと行方不明に
なっていたからなのだ。
大事に保存していたのにもかかわらず、木枠からはずして大量に持ち帰ったゆえに
他の絵に混ざって蔵に平積みされてしまっていた。
5年ほど前にこの絵は蔵で見つかったのだが、タイミングがちょっと合わずに
今日までずるずる来てしまった。いつの日か必ずどこかの個展で見せてみたい。
「チャンプァン風景」 油彩 P20号 1992年頃

2008年5月26日 「覚え書ノート」TOPをFLASHアニメにしました。
昨日、「男はつらいよ 覚え書ノート」のTOPアニメーションを、息子がFLASHアニメーションにしてくれた。
彼は今、FLASHの勉強をしているので練習代わりに作ってくれたのだ。それでも一人で何から何まで
全部作るせいかやはりこんな短いものでも2週間近くかかっていた。
まあ、何事も数をこなさないと目と感覚が磨かれないので、今はなんでもやってみているようだ。
いろいろ絵的に未熟な部分も多いが、長い目で見てやろうと思ってはいる。
2008年5月23日 寡黙に出を待つ絵たち
この10日間、超多忙で更新がまったく出来なかった。
腰もすっかりよくなり、今回滞在の前半のメインイベントをしていたのだ。
と、言っても別に展覧会の話ではない。
昨年秋、バリ出発直前に離れの蔵の屋根の雨漏りの修理をしたが、今回は蔵の中の雨漏り跡の修理。
そしてそこに保存してあった昔描いた絵の大移動。これにはどえらく時間がかかった。
枚数も多かったが、一枚一枚写真で記録をとっていたからだ。
この蔵の絵には悲しいかなほとんど記録が取られていない。
蔵の中のほとんどの絵は売れなかったのはもちろん、なんと発表すらしていない。
いままでに発表した絵たちは売れた絵はその方たちの家に。
残った絵も母屋の2階のほうに別枠で置いてある。
悪く言うとこの離れの蔵に置いてあった絵は『忘れられそうになっていた絵たち』だったのだ。
忘れていたわけではないが、やはり今描いている絵のほうに意識が行くのは当たり前のことでもある。
絵を描く者の業というものだと思う。
自分で描いていうのもなんだが、これらの膨大な絵たちはなかなか飾ってもらえない運命にあるのだ。
特に2001年以降はいままでの日本中心の個展しまくり生活を切り上げ、
ウブド村のより奥地で隠遁生活を始めてしまったおかげで、絵の発表の機会が極端に少なくなったのだ。
そういうこともあって今までに描いた絵のなんと70パーセントが未発表のままである。
こりゃ文字通り孤高の画家であるわな…(^^;)
その中には私と家族以外誰も知らないようなほとんど誰にも見せていない可哀想な絵も少なくない。
だからといってその絵が質が悪いわけではない。プライベートなモチーフなので数少ない発表の時に選に
もれてしまうのだ。
今回の絵の保存場所の大移動で、あらためて過去20数年の自分の描いた絵を一枚一枚確認できたことは
とても有意義だったと言える。
ウブドにもまだ近年の作品を200枚くらいは残してきているが、
それ以外の過去のものは日本に持って帰って来ている。
この絵たちの居場所作りが今回2ヶ月も早めに帰国した一番の目的だったのだ。
かつて失敗だと思っていた絵が十数年の歳月を経て見て見ると、なかなかいい絵だったりするから面白い。
そこで今回から何回かに渡って一枚〜ニ枚ずつ『完全未発表の絵』の中で気に入っている絵を
紹介させていただこうと思う。ここで今誰かに見ていただかないと今度いつお披露目できるかわからないからだ。
今日のこの絵↓は息子がまだ幼稚園くらいの時の私の自画像だ。バリと言えども7月8月は夜は結構冷える。
ゴアテックスを着て絵を描いたのだろう。1995年頃か。
同じころに、同じく防寒の毛布を巻きつけた息子を描いている。(その下の絵参照)
まあ、この手の絵は日本ではまず売れない。
完全プライベートなモチーフなので発表のタイミングも後手後手に回り、ついに二つとも
文字通り何の日の目も見ないまま、『お蔵入り』してしまったというわけだ。
私個人としては2枚とも気に入っている。
「Yの肖像Y」 油彩 8号P 1995年頃

「RYOYTAROの肖像」 油彩 15号P 1995年

2008年5月8日 絵の嫁ぎ先を見せていただきました − 絵のある風景 −
『絵画』というものは普通の方にとってはずいぶん高価な買い物であり、非日常的な買い物だ。
それゆえ、今まで私が売ってきた何百枚と言う絵は全て買われた方の家に
大切に飾られているのである。大抵は玄関か応接間か自室(書斎)だ。
公共施設にも何枚か買って頂いたが、やはり目に付くところに大切に飾られている。
特に自宅がある越中八尾町の家々には結構私の絵が飾られているのだ。
たいして売れない無名の絵描きを同情してか、同じ町のよしみかいろんな方が買ってくださった。
絵を複数お持ちの方も少なくない。
モチーフが風の盆や曳山祭りや町の四季の風景の時もあれば、
全然関係ないバリの風景画の時もある。とてもありがたいことだと今でも心でお礼を言っている。
人にとっては、生活必需品を買うのはごく当たり前の行為だが、そうでない非日常的な物を買うのは大変なことなのだ。
このような応援者のおかげでなんと生きながらえているのだから、感謝してもしきれない。
それで、先日も日記に書かせていただいた、私の絵を4月に2枚買ってくださった私の最大のパトロンであるY.Iさんから、
ゴールデンウィークの最中に、ご自分が外科部長としてお勤めになられているつくば市の記念病院に
早くもそれらの絵を飾られたというお便りをいただき、飾られたあとの様子を撮られたお写真も添えてくださった。
Y.Iさんはいろいろこの2枚を飾られる場所を考えられた末、
みなさんが最もよく通るリハビリセンターと大会議室を結ぶ通路の正面の壁に掛けてくださったそうだ(写真参照)
ここなら多くのリハビリの患者さんとご家族の方々が時間を過ごされることが多いし、勤務されているスタッフの
方々も大会議室に全体の会議に向われる時に必ず視野に入るということらしい。
患者さんがご家族やスタッフと毎日リハビリをされながら、ふと向こうを見ると
『越中おわら風の盆』の『男踊り』『女踊り』の絵が何気なく目に入るのだ。
そのような真剣で懸命な日々の中で、ほんの少しでも気持ちの安らぎや心の静けさの時間を持てる
お手伝いになれば絵描としてこんな冥利はない。
私はもう18年もこんなギリギリの生活を続けていて正直苦しいことばかりで、もうダメだと挫けそうにもなるが、
絵を描き続けてきてよかったと、Y.Iさんが送ってくださったお写真を今こうして眺めながらしみじみ思っている。
絵をやめなくてほんとよかったと。
絵とは、普段は日常生活の中で要らない物だ。
そして忙しい日常では要らないものだからこそ、
人は時としてそんなものにふと救われたり癒されたりするのではないかと常々思ってもいる。


2008年5月5日 絢爛豪華 十数年ぶりの春祭り
今回は十数年ぶりで、春に越中八尾に戻ったので春の「祭り」を味わうことが出来た。
この越中八尾で「祭り」というと、「風の盆」のことではない。祭りと言えば五月に行われる
「越中八尾曳山神事」のことなのだ。今年も一昨日の五月三日に行われた。
越中八尾は越中と飛騨の要の地にあり、江戸時代、越中売薬の隆盛とともに蚕種の生産によって築かれた
莫大な繁栄は大きな財力を生み、富山藩を支え続けた。そのような八尾町人の心意気を示すため、藩の庇護のもと、
「八尾曳山」を次々と作り出していったのだ。
曳山は、上部には人形(御神像)、下層内部には囃子方が入る二層形式の屋台山で、各町で微妙にその特徴が違うのが
なんとも興味深い。ちなみに曳山は上新町・東町・西町・今町・諏訪町・下新町の六町にあり、
六町それぞれに十数種類の曳山囃子が伝承されている。
県有形民俗文化財でもあるその「八尾町祭礼曳山(ひきやま)」は昨年までは、
起源が寛保元(一七四一)年とされてきたが、六基の中で、最初に製作された私の住む上新町の曳山が
一年前の元文五(一七四〇)年にはじめられていたことが分かり、記録が書き換えられた。
もちろん中の御神体(人形)も外の大彫刻もほとんどが江戸時代に越中を代表する名工たちによって作られたもの。
20年ほど昔、まだ息子が生まれる前、私は東京で教師をしていたが、5月の連休になると、連れ合いの宮嶋の故郷である
この富山を訪れ、越中八尾の曳山祭りを見に帰ったものだ。
一昨日は雲ひとつない晴天の中、三味線、笛、太鼓などの古式ゆかしい曳山囃子が奏でられる中、
棟梁、彫刻、彫金、漆工、金箔、を究極までほどこした六基の絢爛豪華な曳山が坂の町を一日中練り歩いた。
八尾はどの道も写真のとおり曳山が通れるギリギリに作られており、メインはその上がり坂、下り坂と辻曲がり(角回し)。
揃いの法被を着た若衆を中心に力の限り曳山を90度回転させ、見事成功すると、観客から盛大な拍手がおくられるのだ。
夜は六基とも、曳山を覆うよう全部で1000の提灯が取り付けられ、各町を同じように巡行していく。
今回の帰国は、この祭りを味わうのもそのひとつの目的だったが、私はその日に合わせて自宅で展覧会を
開いたので、もっぱら曳山が自宅の前を通るのを狙って二階へ駆け上がり窓から眺めていた。
私の家は上新町の大通りに面しているので曳山が実によく見えるから嬉しい。
かつて私も上新町の曳山は絵にしたことがある↓
越中八尾曳山祭り 上新町曳山 8号F

私が展覧会で抜けれないので、息子が代わりに高台に上って諏訪町通りと曳山たちを撮ってくれた。

諏訪町通り(日本の道100選)を練り歩く六基の曳山

曳山は本体だけでなくこのように車輪に施された彫刻もそれはもう見事(東町) 自宅家の前で撮影

私の家の2階窓から撮影した「上新町曳山」 屋根に鳳凰がついているのが特徴。

同じく同日夜に私の家の玄関から撮影した「上新町曳山」

こうして越中八尾は新緑の季節を迎えていくのでした。
先日息子は、このサイトにも貼ってあるFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』を
You Tubeに試しに貼り付けていた。中身は一緒ですが、お時間がある方はどうぞご覧になってください。
YouTube のFLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣 Final』
2008年4月27日 主なしとて春な忘れそ
22日に帰国してからようやく時間ができたので更新作業をこうしてしている。
4年ほど前、春に東京に降り立った。
見事な桜を見ることが出来た。
しかし、今年は4月22日に帰国したので、桜も葉桜気味のものをちらほらとしか見れなかった。
でも、少しでも見れたのはラッキーかも。
実は自宅のある富山に4月末に帰るのは10年以上後無沙汰しているのだ。
いつもなら早くて7月だ。
で、玄関にたどり着くと、道沿いのわずかな土の部分になんとチューリップが咲いているではないか。
赤いチューリップだ。
息子に聞くと、ずいぶん昔、小学校の低学年のころ確かに咲いていた記憶があるとのこと。
私も連れ合いも完全にチューリップが玄関に忘れていた。
私たちが帰らない10年以上もの間、この赤いチューリップは咲いては枯れ、咲いては枯れ、
と、健気に生きていたのだ。
なんだかちょっと可哀想な話だが、嬉しくもある話だ。
もちろん花はただ咲きたくて咲いているのであってなんの感情もない。
だからこそ花は限りなく美しい。
美しい花がある。花の美しさというようなものはない。
そう言えば、その昔、平安時代、
菅原道真(845年〜903年)が901年 大宰権帥(だざいのごんのそち)に任ぜられ、
京を発つ際、自宅の紅梅殿に植えてあった梅を見て
『 東風吹かば 匂いおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ 』
と詠んだことを思い出した。
チューリップは主のいないこの家で、春を忘れないで毎年毎年真っ赤な花を咲かせていたのだ。
私は対面したそのチューリップにはじめて水をやり、その不思議なご縁に感謝した午後だった。

2008年4月15日 4月15日FLASHアニメ『寅次郎と宇宙鳥獣
Final』
毎日降っていたスコールの数がここ一週間は減り、もうさすがに雨季は終ったかもしれない。
もう毎日毎日、帰国準備で絵画制作がほとんどできずにいる。出発前の一週間はいつもこうだ。
サイト更新も、バリを出発してからは10日間ほどはたぶん多忙で出来ないと思う。
で、まだ少しだけ時間のある今のうちに息子が作ったフラッシュアニメーションを貼り付けておこうと思う。
ここ数ヶ月、息子はフラッシュアニメに凝っている。
まあ、いずれ美術関系の仕事をするつもりらしいので、なんでもトレーニングである。
私のTOPページ(絵のページの方)のアニメも彼の手によって3月にGIFアニメーションから
Flashアニメーションに変えたばかりだ。
で、今回は彼にしては長い1分間の、『寅と鳥獣が戦うアニメーション』を作っていた。
彼は彼なりに普段忙しいらしく、時間の空いた時を利用して、ちょろちょろと作っていたので、
なんと1ヶ月もかかったようだ。いつもなら速攻で作りあげるのが得意な息子にしては、
変に腰の据わったまじめな作業の日々だったようだ。
昨日、一応出来上がった後、アニメーションのBGM用に、私の音楽CDコレクションの中から、
私の大のお気に入りである19世紀イタリアの作曲家「プッチーニ」を選んでいた。
アニメーションのBGMとして成り立つのか??。
そして、「プッチー二」の中の、唯一の喜劇オペラである「ジャンニ・スキッキ Gianni Schicchi 」
の中、ラウレッタが歌うアリア「私のお父さん O mio babbino caro 」を最後は採用していた。
ラウレッタは恋人のリヌッチョと結婚させて欲しいと父親のスキッキに懇願するのだ。
もしそれがかなわないならばアルノ川に身を投げるわと、半分脅しながら迫っていくのである。
O mio babbino caro,
mi piace,
e bello bello.
Vo'andare in Porta Rossa
a comperar l'anello
Si, si, ci voglio andare
E se l'amassi indarno.
andrei sul Ponte Vecchio,
ma per buttarmi in Arno
Mi struggo e mi tormento
O Dio, vorrei morir
Babbo, pieta, pieta
あの世紀の名曲と寅次郎とどう結びつくのか、???という感じで、出来上がったものを見てみると
これがなかなかな感じで成功している。ちょっとエンディングロールのノリかな…。
さすがに1分間だけあって15〜16ほどのシーンが作ってあり、なかなか本格的なものになっていた。
特にラスト20秒は幻想的で気に入った。
で、私にしては珍しく、この作品はちょっと褒めてやった。初めてかもしれない。(親バカ…(^^;))
いずれにしても、今までの彼の小粒なアニメーションの中では
初めて手ごたえのある作品となったことは間違いないだろう。
せっかくなんで、ここに僭越ながらみなさんに紹介させていただきます。
【注意】
容量がなんと5,5MBもあるらしく、
日本のADSL(ブロードバンド)の方は15秒〜30秒ほど待つそうです(^^;)ゞ
光ファィバーの方は待ち時間はたった10秒程度だそうです。
最初は、ダウンロードが完了していないので、絵とBGMに物凄い不具合や短い繰り返しが
生じるかもしれませんが、
全てダウンロードが完了したらもう一度最初から見てください。普通に見れます。
ちなみにバリ島の私の通信速度のかなり遅いADSLネット環境では、
この重さ(5,5MB)のフラッシュでは、最後までなかなかダウンロードしづらく、
待ち時間も長いです。2分間も待ちました(TT)
でもなんとか見れます!(^^)
2008年4月6日 油彩『レゴンラッサムに扮する村娘』
いよいよ帰国が近づいてきた。今年は個人的な用事があり、早めに一時帰国するのだが、
最後の2ヶ月は、実は忙しかったのだ。12月末から2月初めにかけて家の修築を行ったので
2月中旬から今日までの2ヶ月で絵画制作のラストスパートをしていた。
毎日同時に数枚描き進める日々が60日あまり休みなしで続けられた。
お陰で「覚え書ノート」の更新が滞りがちだったが、実はそれはいつものことなのでお許しください(^^;)ゞ
で、4月に入ってから、近所の子供にまたレゴンの衣装を着てもらって再度何日か制作してみたが、
途中までいい感じだったのだが、また硬くなってしまった。
それで、いつものように徹底的に壊して、一気に1時間でやり直したら、ちょっと生き返った感じになったので、ここで筆を置いた。
ベラスケスに憧れ、レンブラントに憧れ、ひたすらそれだけを光として続けてここまでやってきたが、
あの確かで、しかもしなやかな線と大胆なタッチの中の強靭なフォルムの裾野にさえ至っていないことを
痛感する今日この頃だ。
「レゴンラッサムに扮する村娘」 油彩 20号P 2008年4月

2008年3月31日 危機一髪起死回生の福音
それにしても昨年から今年にかけてバリの自分のギャラリーでも委託先のギャラリーでも絵の売れ行きがイマイチだ。
ここ5年くらいもうずっとそうなのだが、私も宮嶋もなかなか絵が売れていかない。一ヶ月に1枚も売れない月も時々ある。
これは大きな流れ的なもので、バリ島全体で絵画というものがあまり売れなくなってきている。
だから私たちだけではないのだが、そうは思ってもやはり先立つものがないと困る。
どんなに貧しくなってもいわゆる売り絵の類はさすがに描きたくない。
日本での絵と染織工芸の展覧会はまだ随分先だ。
いったいどうすればいいんだろう…。
特に今年は4月末に一時帰国するので、当面の日本での生活費も必要なのだ。
もちろん貯金など逆立ちしても無い。全く無い。何度逆立ちしてみてもコインどころか鼻血ももう出ない(TT)
もう今年こそダメか、と膝を折りそうになると、助け舟がどこからともなくやってくる。
この不思議な現象は、もう何年も続いている。
しかし、今回は家の修復をしてしまったので、いつものギリギリをはるかに越えてせっぱ詰まってしまった。
これがまずかった。ああ、修復などしなければよかった…(TT)
助け舟ももうさすがに来そうにない…。
と、思ったら、なんと昨年の日記にも書いた私の大恩人であり、偉大なるパトロンのY.Iさんから2月末に連絡があり、
ご自身が外科部長として勤める大きな記念病院に新しい建物が出来るので風の盆の絵を2枚いただきたいとおっしゃったのだ。
Y.Iさんはかれこれこれで十数枚私の絵をお持ちではないだろうか。
4〜5枚ほど持っていらっしゃる方は何人かいらっしゃるが、Y.Iさんほどの枚数を持っていらっしゃる方はいない。
なによりも彼ほどの目利きはまずいない。ちなみにY.Iさんは風の盆を舞台にした美しい脚本も書かれる。
私も一度読ませていただいたが、柔道と空手の有段者であるがっちりした彼の風貌からは想像できない
幻想的で美しい脚本だった。多才なのだ。
私が今まで描いた風の盆の絵の中でも売りたくないほど気に入っていた絵も彼には何度か持って行ってもらった。
昨年彼の元にお嫁に出したバリ島の踊り子を描いた「踊りの前」も私は好きゆえに売りたくないと思っていた絵だった。
このことは、昨年9月のこの日記に書いたので読んでください。
(後日病院に飾っているお写真をY.Iさんから送っていただいた)
彼なら自分が気に入っているがゆえに売りたくない絵を持って行ってもらっても信用できるのである。
やはり天は私を見捨てなかった…起死回生の福音…うるうる(TT)
それで、今回のお話。
Y.Iさんに買われるのだから、前回同様、私と彼、両方が最も気に入った絵をお嫁入りに出さねばならない。
で、私が気に入った絵たちからY.Iさんに最終的に選んでいただき、
男踊り一枚と、女踊り一枚(それぞれ20号)をお嫁に出すことになった。
そのうちの一枚を紹介しましょう(下の20号の絵参照)
これはおわら男踊りの中でも直線的でダイナミックな新踊りのなかの『大かがり』という所作で、
鳶が大きく空を舞う様子を表現したものである。
所作のかたち、勢い、リズム、…自分でも納得するできだ。
もう一枚の「女踊り」も自分でも気に入っている。
こちらはまだデジカメに撮っていないのでこの日記では「男踊り」の絵を紹介する。
これで、その大きな記念病院には、昨年の「踊りの前」と合わせて3枚私の絵がかかることになった。
病気や怪我で心が沈んでいる患者さんや忙しく働く看護士さんやお医者さんが、ふと空いた時間に
足を止めて、何気なくこの絵を見て、心を潤わせていただければ絵を描くものとしてこんな冥利なことはない。
Y.Iさんが買われた「おわら風の盆.男踊り『大かざし』」 油彩 20号P
2008年3月22日 奇跡の復活、アグンライの白い花
私の親友だったアグンライが亡くなったのは、私が剱岳に登っていた2002年の晩夏だった。
それから毎年アグンライが植えていった白い花がバリのお盆のころになると
不思議に毎年何輪もの花を咲かせてくれたのだ。
あの白い花が咲きはじめ、散り終わるまでの数日間彼が私の家に滞在するのだ。
私は勝手にそう決めていた。
そして熱帯ゆえに、水と肥料さえ普通にやっていると毎年咲き続けるものだと思っていた。
しかし昨年はその根っこがだめになってしまって、枯れてしまった。
彼が亡くなる前の年に植えたのでかれこれ5年近く咲いてくれたのだが、
こういうのも寿命というものがあるのか、土が固くなったのか、肥料が足らなかったのか、
よく分からないが、とにかく枯れたのだ。昨年から水はけが悪くなったので根腐れしたのかもしれない。
なんとか再生させようと、土を入れ替え、肥料を撒きなおして、丁寧に世話をしたら
枯れてから1年後、なんと奇跡的に完全復活してくれた。
そして数日前に花が次々に咲いたのだ。
なにやら、アグンライがまた訪ねて来てくれたようで嬉しかった。
バリはもうすぐ雨季が終るが、ここに来て雨が続いている。
もう毎日雨雨雨…。


2008年3月7日 狂乱と静寂の日々
バリが最も狂喜乱舞する日が昨日の『大晦日』の夜。
バリが最も静寂で物音一つ電灯一つともらない日がこの『新年.ニュピ』である。
この両極端は凄い。
私の敷地の渓谷に流れるチャンプァン川。
その激しい濁流と鳥の声、虫の声、牛の声、鶏の声、だけが聞こえてくる。
車の音はもちろん、敷地からは人の気配は感じられない。
どの家の家族も、敷地からは一歩も外に出ない。夜は部屋の中だけに明かりを灯し、静かに瞑想をする。
午後までは快晴。夕方はスコールだった。そして夜半からは満天の星。
私も宮嶋も息子も深夜、新しく作った見晴台で一時間近くボケーっと夜空の天の川を見ていた。
なんとも贅沢な時間。究極のひとときだ。
この静寂は前も書いた通りバリ島中で行われる。誰もどこも例外はない。
この状態が24時間続き、これを書いている今、その静寂は終ろうとしている。
私も今日ばかりはアトリエで絵を描く以外ほとんどなにも行動しなかった。
夜はテラスの明かりを消して、部屋の中で映画を見ていた。
その反対に、昨日は夜中中魔よけのオゴオゴが5体も練り歩き、巨大な竹から発射される爆竹が鳴り響き、
若者たちがガソリンを口に含み火に噴射し、空中で爆発炎上させる。
小さな幼稚園児から、小学生、中高生、大人までそのオゴオゴは5種類に分かれる。
魔よけなので道幅いっぱいにわざと揺らしてジグザグに運ぶのである。そして悪魔を追い払うのだ。
葬式の時もこのようなことを行う。その姿はまさに『狂気』誰もそれを止めれないし、止めてはいけない。
さかんに、沿道の人たちが冷水を彼らに掛ける。『気』を入れるのだ。
百聞は一見にしかず、それでは私のギャラリー前を通過する瞬間の私の村の3つのオゴオゴをご覧下さい。
★まずは可愛いオゴオゴ。私の村の幼稚園児が制作したもの。一応魔よけ(^^;)
オッチラオッチラ運んでいた。

★次は3月3日のバリ日記で、取材した、私のギャラリーの道向こうで制作していた中高生たちのオゴオゴ。
息子の友人たちが作ったものだ。大人顔負けの迫力があり、これはもう完全に悪魔は退散すること間違いなし。

★次は20代の大人達が作った、本格的なオゴオゴ。さすがに造形力がある。
揺らし方も担ぎ方もサマになっていた。悪魔の入る隙はないようだ

魔よけ儀式は深夜まで続き、お祈りをし、オゴオゴを焼き清め。ニュピの準備に入る。
そして夜明けとともに『原始の静寂』が24時間やって来る。
すべての汚れが清められていく一日だった。
2008年3月3日 遂に来たオゴオゴの季節!
いよいよニュピの日が近づいてきた。ニュピとはバリのサカ暦で『新年』にあたる。
このバリの新年である『ニュピ』は太陽暦とサカ暦のずれによって、毎年微妙にずれていくのだが、
今年の新年(ニュピ)は3月7日だ。
前の日の大晦日の昨日は島中で爆竹が鳴り響き、ドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの巨大な化け物『オゴオゴ』が
町中村中を夜中まで練り歩き、お払いをし、その前後に儀式を行う。
そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。
この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。
私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。
さて、その大晦日に向けてのオゴオゴ作りもどの村々も佳境に入っている。
私の村もちょうど私のギャラリーの斜め前で2週間ほど前から大人は大人のグループ。少年たちは少年たちのグループで、
毎日夕方から魔よけの恐いヤツをそれぞれ作っている。
このオゴオゴは魔よけなので、大きければ大きいほど、恐ければ恐いほど素晴らしいのだ。
写真で見て分かるとおり、目がぎょろりとして顔全体が爆発したようなイッチャッテル顔なので、今年も悪魔がこの村に寄り付かないこと
請け合いである。作り方を誰に学んだわけでも無いのに実に上手だ。写真に写っているのはみんなごく近所の子供たち。
息子とほぼ同い年の子らだ。
私は、彼らが赤ちゃんの頃からこの村に住んでいる。今も外に出るたびに顔を合わす。だから彼らは私の心にもきちんと住んでいる。
そういう子らだ。性格も知っている。だからこのイベントには特別愛着があるのだ。

2008年2月26日 今年も出来あがったオリジナル染織品
昨晩は忙しくて絵を描けなかった。
というのも、私の工房の職人さんが夜に私と宮嶋がデザインし、線を引いた壁掛けと暖簾を持ってきたからだ。
彼の名前はヘンドロと言う。私と同い年だ。
彼とはもうかれこれ15年の付き合いである。彼はスンバ島出身で、20年ほど前から
バリ島で染織の仕事をしている。付き合いだした頃は独身だったが、今はもう3人の子供が
いるのだ。歳月はほんと矢の如しである。
この写っている布は、まず私が『風の盆の男女混合の踊り』や雲や月、鳥、稲穂などを線画であしらう。
そのあと連れ合いの宮嶋が全体のコンポジションを決め、両端の手絞りの場所などを微調整する。
まあ、アートディレクターの役目だ。
そして、染色の職人であるヘンドロが最後に草木染をするのだ。時として私たちも手伝う。
風の盆の絵や鳥模様などを入れないで、宮嶋が手絞りだけのコンポジションで抽象模様のストールを作る場合も多い。
まあ、用途によっていろいろ作るのだ。
近年はこのようなオリジナルの染織作品が時としては油彩画よりも沢山売れる。
絵がそんなにも売れない私たちの影の大切な稼ぎ頭なのである。
特に宮嶋が12年ほど前からデザインを始めた手絞りの抽象模様のストールは、近年では私たちの手から離れ、
デザインが職人たちを通してジャワ島に流れ、そのジャワ島の東部の町々でたくさんの別の職人さんたちが宮嶋と同じデザインで
海外への輸出用ストールを作っており、日本を始め、ヨーロッパやアメリカ、オーストラリアから来るバイヤーの人々が
好んで何百枚もオーダーしていくようだ。
今や日本の多くの輸入雑貨店やネット販売などにも、かつての宮嶋のデザインがそのままの形で沢山並んでいるのを見聞きするにつけ、
いかに宮嶋の発案した最初のデザインが普遍的なコンポジションを持っていたか、近年ヘンドロも私もあらためて思い知ることと
なったのである。
そういう意味では一介の絵描きに過ぎない彼女も、インドネシアの染織文化の歴史の流れのささやかな一端を
確かに受け持ったと言えるであろう。こういう事象は私たちにとってとても愉快なことであり、ここに十数年も根を生やしてよかったと
思える数少ない思い出のひとつなのだ。
で、話は戻るが、今回出来上がった『風の盆』をモチーフにした何十枚もの作品をみんなで一枚一枚批評していると、
ちょうど息子がデジカメを持て来た。いつもは写真に撮られるのが余り好きでないシャイな宮嶋にしては珍しく、
今回染織作品がたくさん上手くいき気分が良かったのか、昨晩はヘンドロと一緒にスナップを撮られることをなんとOKしていた。
めったに無いことなので、彼女の気の変わらないうちにこの日記にもはやく貼り付けておこうと思う。
左が私と同い年のヘンドロ。 右が宮嶋。 布は手紬ぎ糸使用、手描きろうけつ草木染めの『風の盆文様壁掛け』

2008年2月19日 最後に『見晴らし台』も作ってみました
母屋が完成したのでここ2週間ほど、ゆっくり休息するはずが、4平方メートルの『小ちゃな見晴台兼絵の制作場所』を作ってしまった。
作ったのは敷地の端、渓谷寄りの難しい場所。それゆえまたもや休息できなかった。ま、いつも休息しているようなものだったから
良しとするか。夜はちゃんとアトリエのテラスで勤勉に絵の制作をしていたので結構疲れた。
この小ちゃな見晴台は、母屋の改築時、テラスのタイルとセメントと石がちょっと余ったのがきっかけで、つい欲が出たのだ。
毎日スコールが1時間ほど降る中、1週間かけて息子と二人でえっちらおっちら作っていた。余りモノで作ったたった4平方メートル
の小ちゃな見晴台。それゆえほとんどお金はかかっていない。
土台の一番下は土地が斜めなゆえに難しいのでちょっと大工さんにも手伝ってもらったが、あとは家族でがんばった。眺めは最高である。
敷地の端から渓谷よりに2メートル以上突き出ているのでちょっとだけ鳥になった気分だ。眼下を鳥が飛ぶ。
渓谷の風景画もここで描ける。見晴台の『屋根』は見た目がうるさくなるのでつけなかった。(お金が無いからだろ ヾ(^^;))
だから雨の日は使えない。まあ、それもいいだろう。
本当は絵の制作よりも夕方からの風を受けてのんびり寝そべるのが一番の目的…。
実はこういうことがしたくてこの土地に居るのかもしれない。究極の隠遁生活だ。まあ半分人生を降りているゆえの幸せか…。
それにしてもネコたちと一緒に寝そべるのは実に気持ちいい。
2匹の猫と見晴台で遊ぶ私

2008年2月3日 ホロホロ鳥(ちょう)発見!
ここ数日、大工さんは休み。昨日は『クニンガン』と言って、お盆である『ガルンガン』が終わり、神様ご先祖様が
天上にもどる日なのだ。どの家々でもまたもやガルンガン同様儀式料理のサテとラワールを作り、供え、そして食べる。
もちろん私たちもおすそ分けをたっぷりいただいて思う存分食べた。今日もその余韻で大工さんはもう一日休み。
で、昼私たち家族だけで最後の仕上げの作業をしていると、敷地の奥ですさまじいがなり声がした。鳥の声のようだ。
しかし近所の鶏とも鴨ともガチョウとも違う声だ。とにかく凄まじく鳴き声が大きい。
数日前に猛毒のグリーンスネークが門の屋根に出現し、格闘した後、焼き殺したばかりなので、
体は戦闘態勢のまま維持している(^^;)ま、鳥の泣き声なので害は無いだろうと、興味深々でデジカメ片手に近づいていくと、
孔雀のような七面鳥のような鳥が3羽がなり声をたてて仲間を呼んで鳴いている。家で飼われていたものが
どこからかまぎれこんだのか、迷子になって遠くここまでたどり着いたのかわからないが、
とにかく鶏よりもでかく、獰猛そうである。しかし、どことなく愛嬌もあった。
1時間ほどひとしきり鳴きながら敷地の周りをぐるぐるしたあと、近くの森に紛れ込んで行った。
あとで調べてみるとあの鳥は『ホロホロ鳥(ちょう)』と言ってキジ目ホロホロチョウ科だそうだ。
高級食材で食鳥の女王として有名だとか。
普通はアフリカ各地で見られるというが、なぜかこのバリ島ウブドで3羽いたのだ(^^;)
危険を察知すると大声で『ホロホロ』とがなりたてるところからその名前がついたようだ。
私の耳には『ホロホロ』ではなく『ガァー、ガァー』としか聞こえなかった。それも大音量で!あーうるさかった(^^;)
母屋の方はほぼ完成。壁はお化粧に竹の編んだものをはめ込み、前の左右に大きなガラス窓をはめた。
ガラスと木枠の隙間にシリコンを入れて、入り口の上を竹で太陽の光模様にお化粧をしてふさぎ…、あとは
まあ、数日間細々した部分のフィニッシングとまわりをきれいにするだけだ。これでシンプルな母屋が完成する。
中は完成しているので私たちは数日前から、自前の家具や彫刻を置き、PCやテレビを置き、さっそく住み始めた。
こうして1ヶ月にわたる台所生活とスーパーヘビーな重労働からようやく開放されたのだ。この一ヶ月はみんな実に
よく働いた。肩がパンパンに張って、手のひらも指も爪もボロボロだ。
おまけに敷地に生えている大きな竹を何十本も使ったので、さすがに、あー疲れた。当分は体をしっかり休めたい。
大声で鳴き続ける3羽のホロホロチョウ 2月3日午後 敷地奥にて

テラスの前から見た母屋。今回は大きなガラスを左右にはめた。部屋の中は今までの1、5倍の広さ。天井が高くゆったりと住みやすい。

2008年1月22日 バリのお盆『ガルンガン』がやって来た
一昨日から大工さんは休み。5日間はやって来ない。お盆だからだ。つまり盆休みっていうやつ。
村のローカルな店はこの期間はみんな休み。
バリの暦(サカ暦)ではこの期間は『ガルンガン』といわれる。ガルンガンは西洋暦とのズレが
あるので、毎年スライドしていく。今年は1月末がガルンガンになった。だから年末から子供たちは
ほとんど休みっぱなし。大人は大変だ(^^;)
昨日は儀式料理の『ラワール』をもらって食べた。
私はヒンドゥー教徒ではないので、私にとってはガルンガンとは『ラワール』を
腹いっぱい食べる日なのだ。あ、ちなみに『ラワール』とは豚肉や鶏の生肉料理だ。
これにはまるとやみ付きになる。全く臭みはない。独特の香辛料がくせになる。
ガルンガンは『お盆』なのでご先祖様が地上に降りてくるのだ。
この十八年間で亡くなった私のバリの友人たちも敷地に訪問してくれるのだろう。
大工さんが来ないので、ひたすら私たち家族だけで家作りを進めている。
昨日今日で、夕方遅くまでかかってテラスへの石の階段を2つ作り、経費を節約できた。
ようやく私の母屋も壁の骨組みが出来上がってきた。
このあとテラス側の前の壁に左右に大きなガラスが2枚入る予定。
先が見えるところまで来た。
おかげで絵の制作はここのところずっと深夜だ。
ま、涼しくていい。深夜なのである意味かなり集中できる。
前のアグンライの家寺も綺麗にお化粧がされ、お供え物がたくさん飾られている。

屋根の下の骨組みが入ってきた。電気工事も一昨日完了。完成がちょっと見えてきた。

2008年1月14日 悪戦苦闘 油彩 『レゴンの衣装を着る村娘』
今日も夕方まで土木建築作業。
それでも、その後、前の家のアグンライの親戚の娘さんにレゴンの衣装を着けてもらい、肖像を描く。
レゴンクラトンの衣装はなかなか可愛いので今まで何十枚と描いてきたが、なかなかこういう華やかな被り物は
バランスが難しいのだ。華やかさに引きずられることも多い。
数日前も2時間描いたが上手くいかず、今日も新しくキャンバスを変えて1時間描いたが、なかなかタッチが決まらない。
またダメかと思いながら思い切って全部壊して、夕闇迫る頃、最期の20分でぐいぐいやり直した。で…、なんとか形になったかも。
ま、本当の感想は1ヶ月ほど後になって他人の絵のように自分の絵を見た時にわかるもの。
とりあえず今日は良しとしてこの絵はこれで止めた。ダラダラ加筆してもダメなのだ。
「レゴンの衣装を着る村娘」 2008年1月14日 油彩 F4号

2008年1月11日 家を作る楽しみ 土木作業の日々
もう台所に住み始めて2週間になる。別に台所が好きなのではない。
12月末から母屋を建て直しているのだ。屋根の痛みが激しくなったのでこの際思い切って
部屋を大きくして 全部やり直している。大してお金も無いので、大工さんたちにだけ任せていては破産するので、
私も宮嶋も息子もいろいろ手伝っている。今まで17年間でバリ島で六棟も七棟も家をデザインし、大工さんに混じって家を建ててきたので
『普請』は結構自信がある。もちろん難しいところは大工さんだが、簡単なパートはどんどん自力でやる。
チリも積もればで、最後は経費がかなり違ってくる。
と、いうことで暗くなるまで今日も土木作業。
屋根や柱は大工さんが作るが、土台や壁は私も手伝えるのだ。絵の制作は大工さんが帰った夕方遅くに描いている。
なかなか両立は難しいが、まあ、あと3週間ほどで完成しそうなのでその間は両方をがんばろうと思う。
絵だけ描いている日々より、なぜか食事が美味いから不思議だ。木を運んだり、土を掘り起こし、運んだり、竹を伐採したり、細く切ったり、
セメントをこねたり…などなど、土木作業というのはしっかり働いたという気持ちになれるので美味いのだ。
そういえば普段は怠け者の車寅次郎もそんなことが一度あった。
第35作「寅次郎恋愛塾」で、九州 上五島(中通島)で老婆と知り合った寅は彼女の最期を看取るという縁を得る。
「寅さん、じゃったね…。
あなたにも神様のお恵みがありますように…」
その深夜 老婆は寅に見取られながらロザリオを握り締め天国に召された。
そして、翌日ヒーヒー言いながら、おばあさんの墓をしっかり掘ってやるポンシュウと寅。
久しぶりの汗を流した肉体労働のあと、差し出されたおにぎりや漬物を美味そうに食べる二人。

ポンシュウ「うめえなあ!」
寅「働いた後だからな。
労働者ってのは毎日美味い飯食ってるのかもしれねえな」
ポンシュウ「そうだな」
おそらく寅が今まで食した食べ物の中で最も美味いものだったに違いない。
というわけで、私も寅同様、肉体労働のあとは何でも美味いのだ。
屋根までは出来上がった母屋。絵画制作そっちのけで夕方遅くまで土台作りに励む私を息子がデジカメで撮ってくれた。

2008年1月7日 5年ぶりにTOPページの表紙アニメーションをリニューアル
雨季なんだけれども奇跡的に昼間から夜まで好天が3日ほど続いている。
もちろん時おり雨はあるが、なんとかすぐに止んで晴れ間が覗く。
それで、すぐにえのぐを搾り出して絵を描くのだ。今はアグンライの親戚の娘さんにレゴンダンスの踊り子の
モデルになってもらって油彩を何枚か描いている。たとえテラスで描くにしてもやはり雨よりも晴れていた方が
気持ちはいい。体がよく動く。
ところで、最近息子はフラッシュアニメを練習している。今までずっとGIFアニメで制作していたのだが、今回フラッシュのソフトを
使用し、遊んでいる。で、この前もご存知のように「寅次郎な日々」のフラッシュを作ったばかりだが、
ここ数日また何か作っているな、と思っていたら、なんと私のTOPページの表紙アニメを5年ぶりにリニューアルしようとしていた。
モチーフは2002年版と同じ「家の敷地で下の渓谷を描く私」だ。
下の渓谷の石切り場で石を掘り出すお兄ちゃんや、夕方目の前を飛んでゆく白鷺、赤とんぼ、などを取り入れて
最後に、風景が、絵にそのまま変わり、制作している私の背中が映っておしまいとなる。
前回も入っていた『YOSHIKAWA TAKAAKI』のタイトル文字は不要だと思ったので今回は消させた。
まだまだ『フラッシュ』を使い慣れていないせいか、『寅次郎な日々』のフラッシュアニメーション同様
ぎこちなさや稚拙さも残るが、せっかく練習で丸二日かけて作ったのだからと、親バカでTOPページに載せてやることにした。
昨日まで使っていたアニメーションはGIFアニメーション。息子が13歳の時に作ったものである。
これはこれでなかなか味がある。名残惜しいのでこれも一緒に今日の日記に貼り付けます。
今回制作した TOPページの表紙用フラッシュアニメーション 2008年1月6日制作
昨日まで使っていたTOPページの表紙↓。息子が13歳の時にGIFアニメで作ったもの。2002年制作

2008年1月1日 新年のご挨拶
新年あけましておめでとうございます。
皆様にはお変わりなくお過ごしでしょうか。
2007年は思い起こせば更新が遅れます事の数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしつつ、
遥か遠く雨降りしきる南の島から皆様の幸せを
お祈りしております。
なお、わたくし事ではありますが、
絵画作品をはじめ、日記、男はつらいよ覚え書ノート
など、相変わらず未だ愚かな内容ではありますが、
私のかけがえのない分身でありますれば、今後とも
くれぐれもお引き立ての程、よろしくお願い申し上げます。
遠き南の島にて
2008年 正月元旦
吉川孝昭 拝
今日も、男寅次郎はさくらに新年の挨拶を電話で入れたあと、初春の風を受け、旅立って行くのでした。

そのころとらやのさくらたちは大忙し、いつにもましてこの年の正月はお客さんがいっぱいで、
新年の挨拶に来たマドンナも店を手伝っていました。
さて、この時の若く美しいマドンナは誰でしょう?(^^)
ヒント:上の場面↑で、寅が歩く町が分かれば作品が導き出せます。で、あとは簡単です。

2007年12月25日 台所で迎えるクリスマス
もうひたすら毎日雨だ。それもすさまじいスコール。
現在母屋の屋根を茅葺から瓦葺に変えてもらっている最中なので、いつにもまして慌しい年の瀬になっている。
毎年雨季の度に3週間に一度ほど屋根に上り、自力で雨漏りを修理してきたが、
もうさすがに萱が薄くなって限界が遂にやって来た。そこで思い切って屋根を朱色の瓦に変えてもらうついでに
部屋もこの際大きくしてもらうことに。
もちろんお金がそんなに無いので改築費節約のために私も家族もかなり改築を手伝っている。
もう18年もバリに住んでいるので、改築費用も、バリの人々よりも安くつかせることが出来るのだ。
こういうことは、ちょっとしたコツがいる。
★お金が無いときにあえて改築する。普通とは逆。
お金に余裕があるときに改築や新築をすると集中力や工夫が弱く、必ず失敗する。
お金が無いのであらゆる箇所、あらゆる場面で自然と工夫するのだ。
★建築材はなるべく地元の石や地元の材木を使う。ケミカルな出来合い物は使わない。
★南国幻想にありがちな余計なデコレーションや彫刻はしない。
★安くて信用できる材木店を数ある店々から前もってじっくり選び抜き、普段からいろいろ聞いて情報を確保しておく。
★上手で丁寧な仕事をしてくれるかなり年配の大工さん数人と普段から仲良くしておく。
★人任せにしないで進展具合を毎日常にチェックし、自分も手伝い、ペースを自ら作る。
それゆえ、次に何をするのか、すべて自分も大工さんと同じように頭に入っていないと見透かされてしまう。
などなどだ。これでだいたい費用は、人に丸投げの場合と比べると7割くらいになる。そして材料もいいものが手に入る。
このようなやり方の欠点は、お金をたくさんかけた時よりも自分自身の手間隙がずっとかかるということだ。
私は『時間』だけはたっぷりある。まあ、散々バリで数々の建築に携わってきたので、母屋の改築など軽いものだ。
ということで、母屋は現在改築中なので、なんと今、昼間は台所で生活している。パソコンもテレビも台所に臨時に置いている。
私の家は母屋も、寝床も、台所も、アトリエも、風呂も、全部棟を違えているので、こういうことが出来るのだ。
しかし台所で暮らすのはどうも不思議な気分だ。ちょっとせまいし…。まあ、母屋の改築が終るまでのあと10日間ほどの辛抱なのだから、
面白い体験として楽しめばいいのだ。
で、今日はクリスマス。
毎年、それぞれの誕生日とバレンタインデーとクリスマスには、息子がケーキを作る。
もちろんスポンジも焼く。今年のケーキのデザインは下の通り。現代美術のようになんだかよくわからない形と飾り付けだが、
いつものように味は良かった。
ちなみに、私はケーキを食べた後は必ず、味噌汁を作って飲む。今日も宮嶋と一緒にけんちん汁を作ってみんなで食べた。
腹が『中和』を要求するのだろう。近年はゴボウが手に入るので助かる。

2007年12月16日 新作フラッシュアニメーション『寅次郎な日々』
普段は怠け者の高校生の息子が、久しぶりにフラッシュソフトを使って、アニメーションを作っていた。
最近は、フラッシュを使っていろいろなものを作っている。なるほど動きがスムーズだ。
モチーフはまたもや『寅ネタ』
彼は、私のように「男はつらいよ」依存症でもなんでもないが、幼い頃から
『男はつらいよ養成ギブス』を全身に取り付けられたかのように、この映画のことはよく知っている。
面白いような、可哀相なような…。
アニメ自体はなかなか上手く出来ている。
帝釈天参道が雲の切れ目から映るところがなかなか味わい深い。
参道の自転車や、旗や焚き火などが微妙に動いているところも気に入った。
円盤の影が雲に映ったりして臨場感もなかなかのものだ。
古い映画のフィルムに出来る痛んだキズ、いわゆる『雨』も再現していてなんだか小憎らしい。
息子の作品の中ではこれはまあ、完成度がちょっと高い部類だ。
2007年12月12日 これは何かわかりますか?
いよいよ雨季到来だ。ついに毎日雨が降るようになった。まだそんな長い時間スコールにはならないが、
時間の問題で雨量が増えていく。18年もバリに住んでいるとだいたいの雲行きや空の色であとどれくらいで
降り、何時間くらい続くかがわかるようになるから不思議だ。
私は絵を描くためだけにこの地で生きているのだが、自然に月の満ち欠けとともに生きている自分を発見して
苦笑いをしている。雨が降るようになると絵の制作は野外は少なくなり、当然アトリエやテラスが増える。
そうなると必然的に身近な人々を描いた人物画が増えてくる。私は人物画が好きで、描く絵の70パーセントは
人物画だ。残りは風景画。静物画はほとんど描かない。セッティングしたものはあまり描く気になれないのだ。
展覧会や委託で売れるのはバリの風景やバリの踊り。身近な人物を描いた絵は、褒められる事や感動されることは
あっても、ほとんど誰も買わない(TT)
しかし、これは悲しいことではあるが、自由なことでもある。絶対買わないであろうモチーフを描くのは実に快感なのだ。
初めて絵を描いた十代の気持ちが蘇ってきたりもする。あのころは売るなんて考えもしないでひたすらキャンバスに
絵の具を塗りたくっていた。ああいうのが絵ごころというのだ。
もっとも近年は、バリの風景画であろうがバリダンスの絵であろうがあまり売れなくなっている。 おいおいヾ(^^;)
今年もまた私の絵も宮嶋の絵もたいして売れなかった。ああ…(TT)小さな絵は時々出ていくのだが、それだけでは
到底食えない。(日本での展覧会の稼ぎがあるのでなんとかつじつまがあってはいるが)
現地で、絵が売れにくくなっているのは私も宮嶋もバリでも日本と同じ価格をつけているせいかもしれない。
私達の絵はバリの土着の絵と比べるとやはり高いのだ。
しかし、こればっかりは変えられない。日本からの私のお客さんも来るし、誰が見ているか分からないし、
どちらもほぼ同じにしなくては失礼に当たるからだ。それでもほんの少しだけバリで売る時は安くするのだがそれでも
なかなか買い手がつかない。
ま、…ということで、絵は相変わらずあまり売れないが、なんとか画集とポストカードが細々と売れているので日銭を稼げている。
さて、話は変わって、これは一体なんでしょうか?何か分かりますか?↓
私のテラスによくいます。

答えはカマキリです。
通称エダカマキリです。上↑のように擬態化されてしまうともう絶対分かりません。
小枝にしか見えません。私はしょっちゅうこのカマキリをテラスで見ているのですぐ見やぶってしまいますが(^^;)
ちなみに後ろで笑っているのは高校生の息子です。このサイトの全てのマンガとアニメーションを作ってくれています。

2007年12月5日 心がひとつになること 静かな名シーン
現在バリに住んでいるが、いろいろな方との縁あって、オリンピック野球アジア予選、
一昨日の日本対韓国と昨日の日本対台湾を幸運にもバリ島で見ることが出来た。
2試合ともなんとも緊迫した試合だった。2試合ともこれぞ日本野球。
ありきたりな言葉だが文字通りチームが一つとなっていた。なんだかしみじみうらやましく思った。
いい年をした酸いも苦いも知っているプロ中のプロがそうなっているのである。
2年前、WBCの時にも感じたことだが、シビレる試合とはこういうことを言うのだ。
MVPは間違いなく選手全員だろう。
適当に人当たりよく言っているわけではない。私は試合を何度も見た。ベンチで応援していた選手もコーチも、
コーチャーズボックスでゲキを飛ばしていた選手やも、みんな一つの気持ちになっていた。
遂に一度もグラウンドに出なかった和田や長谷部もだ。
いみじくも解説の東尾さんが言っていたように、星野監督の胴上げの時、誰もテレビカメラの方に向かってバンザイを
していなかった光景がなんともすばらしかった。全員が背中を向け輪の中の星野監督に集中し胴上げしているのである。

MVPは阿部がもらっていたが、それはその通り、タイミングさえ合えば絶対にヒットにする技とキレとセンスは超プロ級だ。
しかし私なら、陰のMVPはやはり上原だ。そして優秀選手は、もちろん完璧な阿部をはじめとして、緊張のスクイズを決めたサブロー、
見事なチーム掌握とスライディングを見せた宮本、ここぞと言う時の頼れる新井、鉄壁の二遊間西岡と川崎。
粘りに粘って最小失点で抑えた若き先発投手陣たち、同じく必死で追続を断ち切った中継ぎ陣たち…特にあの韓国戦での8回、
岩瀬が投じた最後の内角ギリギリストレートは長く語り継がれるだろう。彼の精神力の強さを垣間見た瞬間だった。
…などなど、それこそ活躍した選手達は枚挙に暇がない。
今回の上原はまさしく完璧だった。あの上原が最後に控えてくれている。それだけでみんなどんなに心強かったか。
体のリズム、ひじ、手首、指の使い方…等々、完全に完成されている。すばらしい制球力。
マウンドでの完璧な自己コントロール。絶妙のフォークボールのコントロール。そしてなによりも国際試合連続22試合無敗の貫禄。
WBCでのあの韓国戦の上原の存在は私の記憶に今でも生々しく残っているが、今回もう〜んと唸ってしまった。
特に宿敵韓国戦はたった一点差で最後に登板。よほどの大投手でもこれだけの緊張した場面ではすんなりは終らせる事が出来ないものだ。
そして今大会で私がリプレイでなんども見てしまった場面がある。意外にもそれはゲームの中の決定的な場面ではなかった。
最後の台湾戦で、9回上原が、ブルペンからマウンドに向かう直前、ブルペンで一緒にいたピッチャーたちは、最後に汗を拭き、帽子をかぶる
上原を囲む。
上原はそんな彼ら一人一人の思いを受け止め、彼らと『グータッチ』を交わし、最後にブルペンキャッチャーを務めてくれた矢野捕手とも
交わすのだった。
彼らの熱い思いが全て上原に託されて彼はマウンドに上がっていったのだ。
あの映像に私は胸が熱くなり、思わず涙が潤んでしまった。
上原浩治と川上憲伸

上原浩治と涌井秀章

上原浩治と小林宏之

上原浩治と岩瀬仁紀

上原浩治と長谷部康平

上原浩治と矢野輝弘

私が見たかったのは、もちろん勝って歓喜に沸く日本チームの姿だが、実は本当に見たかったのは、やはり、
みんながひとつのことのためにひたむきにまとまっている姿だったのかもしれない。
この映像を見た時、私は心底彼らを誇りに思った。素晴らしいチームだ。来年夏に彼らに再び会える。
全員怪我無くオリンピックのグラウンドに立って欲しい。
それでは、静かでなにげないあの名シーンをアニメでどうぞご覧下さい。

2007年11月21日 昼下がりのテンガナン村
バリに帰ってから、ようやく体をしっかり休めることができた。それで、2週間ほど日前からあちこちで絵を描いている。
数日前はバリで一番お気に入りの場所、バリ先住民の村である「テンガナン村」を取材。
今回は宮嶋も息子も一緒。天気に恵まれ、夜のとばりが下りるまで、たっぷり描かせてさせてもらった。
この村は私はもう何十回来た事だろうか。50回以上は来ているかもしれない。
私の住んでいるウブドからかなり離れているにもかかわらず、やっぱり来てしまうのだ。
風景画は、活きがいいことが命。大きな筆でぐいぐい描く。うまくいかないこともあるが、そんな時は
違うキャンバスをまたイーゼルに取り付け、気持ちを入れ替えて、エイッと描く。
息子は牛やアヒルや犬がたくさん道端で寝転がっているので面白がって長い時間飽きなかったようだ。
かなり奥地まで一人で入り込んでいったということ。
このテンガナン村の様式は先住民だけあってバリのほかの村と全然違う。全てが異文化なのだ。
この村の結婚相手はこの村の中で選ばなければならない。他の村人と結婚したい場合は、この村を出て行かねばならないのだ。
このようにして、この村は独自の文化を意固地なまでに守り通してきた。
今も村のいたる所に、プリミティブな場所や空気が違う場所があり、興味は何度行っても尽きない。
一言で言うならパワーが宿った村。それがバリ島東部の奥地テンガナン村だ。
とりあえず、気に入った絵が何枚か出来たので、その中の一枚を下に紹介しましょう。
「昼下がりのテンガナン村」 2007年11月17日 油彩 F4号

2007年10月31日 たとえ明日地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す
ようやく4ヶ月ぶりにバリに帰ってきた。バリの10月は乾季の最後。暑からず寒からず適度に雨も降るいい気候だ。
で、さっそくベットのマットを太陽の下に出し干す。
私の好きな映画『阿弥陀堂だより』の中で主人公の学校時代の恩師が布団を干しながら言うセリフを思い出す。
『たとえ明日、地球が滅ぶとも、晴れた日は布団を干す』
私が大好きな言葉だ。こんなこころで生涯を送れればどんなに安らかだろう。
そんなこんなでここ数日は絵も描かず、ひたすらバリに体を慣らしていった。
ところで、今回からようやく私の住んでいるウブドも日本同様インターネットのADSLが開通した!
さっそく息子は大喜びで電話局の担当者に来てもらい私の家でも可能かどうか機械でチェックしていた。
チェックの結果『OK、使えます』ということで、さっそく古い電話回線を使わず、新しく丈夫な電話回線を
ジャングルの中200メートルに渡って木々の間を梯子を使って釘で止めながら私と息子で設置していった。
日本ではこういう時は電話局かなにかの専門の人が来て電線工事同様やってしまうのだろうが、この田舎のジャングルの中では
そんな悠長な事は言ってられない。
なんでも自分の足と手でやるしかないのである。まあ何度もやってきたことなので慣れてはいるが半日たっぷりかかった。
日本の普通のADSLと比べてかなり遅い速度であるが、それでもダウンロードが飛躍的にアップし、日本のyou−tubeのような動画が
普通に見れるのでこのウブド村では歴史的な進歩である。
ま、だからといって私のこの地での生活が飛躍的に向上するわけでもなんでもないのだが、インターネットを一番使う息子はとにかく喜んでいる。
あまりパソコンを使わない連れ合いの宮嶋は、まあ、今までのワイヤレスでもADSLでも結局は無制限(アンリミテッド)なので
どちらでもよさそうな顔をしている。スピードの違いは彼女にはさほど興味が無いらしい。その気持ち私も分かる気がする。
とにかくだ。『たとえ明日地球が滅ぶとも晴れた日は布団を干す』ことのほうが大事なことだけは確かなのである。
チャンプァン渓谷の風を受けながらマットを干すことからバリ生活は始まるのでした。

2007年10月14日 尾瀬の森からの贈り物
ここ一週間はもう涼しいを通り越して肌寒い感覚がある。
こうなってくるといよいよ秋真っ盛りだ。私の誕生日は、今日10月14日。
今日のように空が高く、透明な冷たい風が吹く日に私は生まれたそうだ。
後数日で、関西空港からタイのバンコクへ旅立つが、その間際の今日、嬉しい贈り物が届いた。
『きらっしゃい.尾瀬の森映画祭』のスタッフさんであるNPO『尾瀬和楽舎』のKさんがなんと蛾次郎さんの直筆色紙を送ってくださったのだ。
「きらっしゃい」とは群馬県の片品村の言葉。「いらっしゃい」「お越しください」の意味。なんともいい響きだ。
『尾瀬の森映画祭』は、尾瀬や利根沼田の自然を活かした人間との共生を掲げる群馬県片品村のNPO『尾瀬和楽舎』が中心になって
2005年から片品村文化センターで松竹山田組スタッフ、キャストの皆さんとの交流をしながらユニークな映画祭を続けておられる。
片品の人々がみんなボランティアで長い期間準備をされ、ひとつひとつ地道に積み重ねていかれた本当に手作りの温かみのある映画祭なのだ。
山田洋次監督の作品に求める日本の風景を、同じく自然が豊かな尾瀬の麓、片品の地でシンクロさせ、関連付け、そしてもう一度日本を
再発見することはとても意味がある行為だ。
その映画祭の準備期間の時にKさんと私は、越中八尾と尾瀬の片品で何度かメールのやり取りをし、私も超微力ながらこの映画のことや
画像処理、チャプター、プリントのことで助言などをさせていただいた。また私のサイト『覚え書ノート』も少しは役に立ったようだ。
当日は、映画『男はつらいよ』第1作上映をはじめ、佐藤蛾次郎さんや備後屋,さんでお馴染みの山田組スタッフ露木幸次さんなどの
トークショウも開かれた。屋外では、面白いミニイベントや懐かしい縁日や出店を復活させたりもしたらしい。
それで、Kさんはお礼の意味を込めて今回蛾次郎さんからいただいた色紙や手作りの『源ちゃん名場面集(NO1〜NO4)』ポストカードを
送ってくださったのだ。私は、生業の染織の展覧会が重なり、現地にも行けなかったし、ほとんど何のお手伝いも出来なかったが、
Kさんのその心が嬉しかったので恐縮しながらも贈り物をありがたくいただいた。
色紙はさっそく手持ちの色紙額に入れてアトリエの壁に飾らせていただいた。
尾瀬の森映画祭に関わられた全ての皆様に感謝の意味を込めて、
いただいた品々を今回この『バリ日記』の中でご紹介させていただきます。
似顔絵と日付が入っている蛾次郎さんの色紙と源ちゃん名場面集の数々。 さっそく額に入れました。嬉しい…(〜〜)

きらしゃい.尾瀬の森映画祭の公式ページはこちらです→ http://www.maron.gr.jp/ozefilm/
このあと10月17日に関西空港からタイのバンコクへ出発します。
バリへ戻るのは10月末になると思います。
それゆえ、更新は10月末以降です。
2007年9月20日 『今朝の秋』って感じです。
ようやく先日金沢郊外での最も大きな展覧会が終わった。もうすっかり秋の気配だ。『今朝の秋』って感じだ。
あとは、10月の初旬に行われる自分の住む八尾町の『アートフェスティバル』の3日間を残すのみとなった。
それが終わったらバンコクへ向い、10日間ほどタイに滞在した後、10月23日ごろにバリに戻る予定だ。
今回の滞在中はいつにもまして深夜に映画やテレビのDVDを見続けた日々だった。
シリーズものだけでも『白い巨塔.田宮版全話』『早春スケッチブック全話』『ふぞろいの林檎たちT全話とU全話』
『北の国から全話+8スペシャル』『優しい時間全11話』『Dr.コトー診療所2003、2004、2006全話』『時間ですよ71年、73年全話』
『寺内貫太郎一家全話』『寺内貫太郎一家2全話』といったところか。それ以外にも「男はつらいよ」以前の山田洋次監督作品を
もう一度全作品見直した。
あとは単品で見たいものを30作品程度ランダムに見た。新作も見れるかぎり見た。どこに掘り出し物があるか分からないからだ。
近年は半額レンタルや100円レンタルの期間があるのでさほどの出費を考えなくても大量にDVDを借りれるようになったのが助かる。
読書は、仕事の美術書以外では、今回は映画関係の本が多かったように思う。キネマ旬報をもう一度数十年分読み返したり、
面白く過ごさせていただいた。おかげでこの数ヶ月間慢性の睡眠不足で何度か体調不良で寝込んだが、現在はすっかり睡眠も
取れているので体調は回復。
そして肝心の生業である絵と染織のそれぞれの展覧会は長年のコレクターさんたちのおかげで、なんとか目標に到達した。
これで来年もなんとかギリギリ生き延びれそうだ。凌いで凌いで、生き延びるしかないのだ。
特に最後の金沢での展覧会では多くの方々に助けていただいた。感謝以外の何ものでもない。
しかし、それでも限界がゆっくりではあるが近づいてきている気もしないでもない。先は依然としてまったく見えない状況だ。
と、いうような状況ゆえに、なかなかこのサイトの更新ははかどらず、第3作「本編完全版」も第28作「紙風船」ダイジェスト版も
作業が大幅に遅れている。
いつも書いているように、大量の充電ができなければエネルギーを吐き出すこともできない。どうかご理解ください。
それでもなんとか9月末には第3作『フーテンの寅』の一回目の更新だけは成し遂げたいと思っている。
最後に…
昨日は、『阿修羅のごとく』の映画版を見た。四人姉妹の中で、深津絵里さんが美しく光っていた。
連れ合いだった奥さん(八千草薫さん)に先立たれてしまった、浮気亭主(仲代達矢さん)が、三女の滝子さんがお膳を拭いている
姿を後ろからしみじみ眺めて、そっと「母さんそっくりだ…」とつぶやくのである。
気配を感じて、お膳を拭きながら、ふと振り返る深津さんのお姿は美しかった…。
あまりに気に入ったので、パソコンの壁紙にしたところだ(^^)ゞ

2007年9月1日 ようやく嫁がせた油彩『踊りの前』
今年の展覧会はまあまあ好調だ。特に初日に来られた私の一番のコレクターさんであるY.Iさんが長年私が気に入っていた絵を買ってくださった。
Y.Iさんはもう私の絵を10枚以上お持ちの方だ。つくば市の、ある大きな記念病院の外科部長さんをされているのだが、この度、私の15号の絵が
新築の病棟の美しい待合室にかけられることになった。
一般的には大きさに比例して値段をつけるのだが、特に気に入った一枚か二枚の絵だけは私は相場より1,5倍くらい高めにつけてしまう。
それゆにそれらの絵はお嫁に行き遅れてしまうのだが、描いた側としては手塩にかけた可愛い娘だからいつまでも手元に
置いておきたい気持ちも強いのだ。こういうことを本当は絵描きは決してしてはいけない。当たり前である。しかし私の業がそれをさせてしまうのである。
数年前に私が開いた個展の時も二枚ほど高い値段をつけた作品があり、案の定売れなかったのだが、
その絵にずっとその頃から目をつけておられたY.Iさんは果敢にも今回の展覧会に展示していなかったにも関わらず、その絵を見せてほしいとおっしゃり、
見たとたん譲るようにおっしゃられた。数年前から狙いをつけておられた感じだった。こうなるともう私の負けである。
そして案の定私のつけた例の言い値で何の躊躇もなく買われた。
この方の絵の買い方はいつもながらきっぷがいい。間違っても値切ったり、私の顔色を見たりしない。
今回もその絵がいつもの私の絵より何割か高いことを百も承知で一発で買われたのだ。彼に言わせれば何年来の恋が実ったような気持ちだったそうだ。
私にしてみれば、可愛い一人娘を嫁がせる父親の気持ちだった。しかし嫁ぐ相手が、私の一番のコレクターさんであり、パトロンである
Y.Iさんなら、承知できない理由はもうどこにもないのである。私などが持っているよりずっとその絵を大事にしてくれるのは明白である。
Y.Iさんは一度たりとも、買う時の目に鈍りを見せたことはない。必ず私が気に入っている絵を自然に選ばれるのだ。
それも静かに黙って見続けた後、一言だけ意思表示をされる。真のコレクターとは彼のような人のことを言うのだろう。
私のあの絵も彼のような方に貰われて幸せであろう。
今回Y.Iさんが買われた 「踊りの前」 2000年7月ごろ制作 油彩 F15号

2007年8月26日 雨上がりの越中おわら風の盆
現在、越中八尾町では風の盆の前夜祭が始まっている。毎夜毎夜旧町のどこかの町がおわらを踊り、おわらを演奏するのである。
今年の前夜祭は雨がちだが、雨がやんだら、すぐに演奏を始める。また雨が降ると楽器が傷むのですぐにやめる。
どなたも観光のためにやっているわけではないので、見に来た人は、雨が上がれと祈るのみ。
雨上がりのおわらは格別だ。雨が降ると風が涼しくなることと、見る人が少なくなるので、風情が増す。
さっそく取材。素早く何枚かスケッチ。その後アトリエで30分ほどで一気に仕上げる。雨が上がったあとは大きな赤い月が出ていた。
「雨上がりのおわら風の盆」 2007年3月4日 油彩 F4号

2007年8月12日 ただいま栄養をバンバン補給中
とにかく帰国してからずっと多忙だ。この「日記」や「覚え書ノート」がなかなか更新できない。
純粋な生業としての仕事だけなら絵の展覧会、染織工芸の展覧会と、絵画制作だけなので、時間にまだ余裕があるのだが、
それとは別に『自分へのストックの時間』が必要なのだ。
私は8ヶ月以上日本を離れていた。だから、その間に、見ようと思っていた映画(DVD)、書籍(絶版もの多し)を1ヵ月半以上かけて
深夜2時ごろまで一気に集中して見、読んでいる最中なのである。
それらは遊びといえば遊びなのだが、自分のエネルギーのもとなのだ。自分の精神の懐を深くするための欠かせない栄養素なのである。
車で言うとガソリンみたいなものだ。熱エネルギーがないと、物体は動かないのである。
もし、それらの活動を遊びと言うのなら、このサイトも遊びだし、私が絵を描くことだって遊びといっていい。
帰国してから1ヵ月半以上経つが、それらの合間をぬってのサイト更新はなかなか進んでくれない。でも、これを読んで下さっているみなさん、
どうかご理解ください。私はほとんどテレビも見ないし、いわゆる娯楽施設にも行かない。世間の義理も欠きっぱなしだ。で、ただひたすら、
毎日、外やアトリエで絵を描くか、旧作映画のDVDを見るか、複数の図書館で借りてきた何十冊と言う山のような書籍を読んでいる。
これをしないで、文章を書いていると、自分がスカスカになってくるのだ。いわゆる充電というやつだ。で、このサイトのそれぞれの更新は気長に
お待ちください。
ところでここ2週間ほどで日本はようやく夏になった。これでようやく朱夏だ。これくらい暑くなると私の体調はすこぶる良い。
もちろん扇風機もエアコンもまったく要らない。汗はかくが平気である。食欲もバンバンにある。とにかく気温が27度以上になると私は
生きかえるのである。もう、完全に体が熱帯動物に変化している。バリ島での17年間はそれほどにも私の体を変えてしまったのだろう。
私の自宅の食堂の横に中庭がある。毎年帰国すると7月は紫陽花が咲き、10月は紅葉が色づく。植えたわけではないので勝手に根付き
育ったのである。
嗚呼…今日本にいるのだなとしみじみ思える空間である。このような日本の花を眺める時間も充電のひとつであろう。

2007年7月8日 聖少女の舞踊『レゴンラッサム』のデッサン
いつもの年ならまだバリ島にいるのだが今年は絵や染織工芸作品の展覧会の都合ですでに富山に帰ってきている。
早く帰ってきた分、新聞やテレビも取材に来てくれて、そのせいか、売り上げは結構上がっているので、良しとしよう。
なにはともあれ作品たちを気に入ってくれるのはありがたいことなのだ。早く帰ってきた甲斐があったかも。
ただ、ちょっとバリに残してきた3匹のネコたちが心配だが、アグンライの家族がいつもどおり世話をしてくれているので
まあ大丈夫だろう。例年なら1ヵ月後の8月中旬に帰ってくるのでおわら風の盆の踊りの作品などを載せるのだが、
今はまだまだその季節ではない。
で、今日は踊りは踊りでも、バリの踊りの絵を貼り付けようと思う。帰国前に描いたレゴンの衣装を着た村娘のデッサンだ。
バリ島の舞踊はご存知のとおり世界的にも有名で、連れ合いの宮嶋も8年間以上もSTSI(バリ芸術大学)の客員教授でもある
70歳をとうに過ぎたおばあさん宅に通いつめ、今のレゴンダンスの原型となった、いにしえの古典舞踊の指南を受けた。
バリ舞踊を、メモリーとして習ったり、趣味で習ったりする人は多いが、宮嶋のように10年近く週に何回も通い続ける人は
ほとんどいない。ましてや古いバリの舞踊など、バリ人だってほとんどそこまではしない。
だから、宮嶋は仕事は絵描きだが、実はある意味、人のうかがい知れない境地と普遍的な『型』で踊りを踊ることができる。
ほとんどの人々は振り付けは1年ほどで覚えるが、『アガム」といわれる『型』の習得はできない。私の知る限り最低でも
5年ほどはかかる。センスのない場合は何年指南を受けても身につかない場合も多い。ちなみに宮嶋はその舞踊の習得後、
富山県の砺波にある神社の祭礼で、深夜、真っ暗な中、神様に捧げるこの踊りを奉納したこともある。
このレゴンという舞踊(一般的にはレゴンラッサムと言う。旅行者にはレゴンクラトンLEGONG
KRATONという名前の
ほうがわかるかも)は、本来は、まだ大人の女性になる前の、強いインスピレーションを持っている少女が選ばれ、
訓練を受け、大事な宗教儀式の際に踊るのである。バリ・ヒンドゥー教にとって『踊り』はとても重要な意味合いを持ち、
ウパチャラ(宗教儀式)やオダラン(寺院祭礼)などではメインの儀式として人々最も大きな関心事項になっている。
バリの人々にとってバリ舞踊とは神様に捧げる『貢物」なのである。すなわち踊りを見せる相手は村人たちでなく神様なのである。
近年では私の住んでいるウブドなどで数多くのグループによるレゴンの観光客向け定期公演が行われているが、もちろん現在でも
本当の祭礼や儀式の際に舞踊は奉納され神様に捧げられている。
私はこの舞踊が好きで今までに数え切れないくらい描いてきた。このデッサンの子供(10歳くらい)もこの30分ほどのポーズのあと、
宗教儀式の踊りのために緊張の趣で寺院へ出かけていくのだった…。
「レゴン.ラッサムの衣装を着るウブドの村娘」 2007年6月 鉛筆 バリの手漉き紙 B5縦長

日本に帰国し、いきなり展覧会の搬入と会場通いの毎日で体調を崩してしまった。いつもの年ならこれくらいの忙しさは平気なのだが、
今年は梅雨の時期に帰国したせいか意外に日本はまだ寒い。富山県八尾町の家の温度計は25度を上回ることがない。これは、
私にとっては辛いのだ。気温が25度を下回ると私にとっては「冬」だ。それゆえにガクッと体調が悪くなると言う宿業を背負ってしまったゆえに、
夏以外は日本に長く滞在できないのである。で、昨日からスケジュールを調節し、遠出を控えて、自宅の二階で暖かくしている。
日本のじめじめした肌寒い梅雨を経験するのはなんと13年ぶり!なので体がびっくりしたようだ。
思いがけず時間ができたので、「男はつらいよ」の更新作業をしようと思ったが…、なぜかそれは先延ばしにし、バリでずっと思っていたことを
実行した。私は、『Dr.コト−』2003、2004、2006を丸一日かけて一遍にもう一度見たかったのだ。
私はどうしてこんなにもこの『Dr.コト−』というテレビドラマが好きなのだろうか…。いつも自分の中で自問している。
だいたい民放の連続テレビドラマは昔からほとんど見ない。どれもこれもくだらない質のものが多いからだ。どんなに話題に
なっていても大抵第1話第2話あたりを見て、失望し、止めてしまう。ましてや繰り返してみるに値する連続ドラマなどほとんどない。
NHKのドラマだって録画に値する物はほとんど見当たらない。なかなか『今朝の秋』や『早春スケッチブック』のような傑作は誕生しないのである。
大抵は暇つぶしにはなっても自分の人生とはほとんどシンクロしない。特に連続テレビドラマになるとほぼ全滅状態だ。連続ドラマの中で歴史に
残るものといえばあの膨大な長編ドラマ『北の国から』くらいか。あのドラマの価値は今後もっと高まっていくのは間違いないだろう。
で、Dr.コト−である。コト−先生こと五島健助は病気であろうが怪我であろうがことごとく治してしまうスーパードクターなのだが、
だからといってそういうヒーロー的な部分が気に入っているわけではない。別に柴咲コウさんのファンでもない。実際私がこの長い連続ドラマの
中で、最も気に入っている話は、コト−先生がたった一度だけ病気を治せなかった、あの『あきおじ』の物語なのである。この物語の格は
あの話の中にある。あれがコト−先生の原点であり、このスタッフ、キャストたちの原点であり、吉岡秀隆さんの新しい役者人生の原点であり、
見ている私の新たな原点でもある。
人間の生きる実感というのは、病気が治ることとは別のところにあるということを、あんなに静かにあんなに優しく謳いあげたドラマは他にない。

もちろん名演出の中江功さんをはじめとしたスッタッフたちの気持ちの入れ込み具合が一般のテレビドラマを遥かに超えていることは
誰だって見ていれば分かるのだが、それだけで私がこう何度も見ることはないのである。
まずすぐ分かる理由のひとつには、このドラマが亜熱帯の島(ロケは与那国島)のせいもあるだろう。私は30歳で東京の教員生活を辞し、
熱帯のバリ島に暮らしてもう十数年になるが、このような人生がコト−先生に対する共感に繋がっているのは間違いない。
しかし、それだけならほかにもそのような亜熱帯移住ドラマは昔から何本もある。
それでつらつら考えて、今回もう一度ドラマを全て見なおして、ようやく今、自覚できたことがある。それは吉岡秀隆さんの声だ。
コト−先生が、患者さんや家族の人たちに言う言葉『大丈夫ですよ』をはじめとした全ての言葉の波長がとても良いのである。
私の主治医さんがかつて言った言葉に『治せる病気は必ず治しますが、治せない病気は治せません』がある。
このことはあきおじだけでなく、全ての生きる人々にいずれ最後は訪れる宿命なのだ。人はその時までを誰とどこでどう生きるか、
ひたすらそこに人生はかかっている。
だからこそ、決して元の体に戻ることがない彩佳さんのお母さんの手に寄り添うお父さんの手を見て私たちは救われるのだ。

そしてそれらの全ての原点に『あきおじ』の話がある。
『命は神様に。病気は先生にだ。』
だから医者は患者の心に寄り添い『大丈夫ですよ』と白魔術をかけてあげることが大事なのである。しかしそれはテクニックの
問題ではない。方法論的、技術的な域をでない言葉は患者は見抜く。患者は敏感になっているので医者の『お仕事』を見抜くのである。
そんな一人一人に気持ちを入れていたら生身の医者の身が持たないのが現実の医療なのは百も千も承知で、それでも私はコト−先生が
持つ言葉の『気』とその丁寧な触診に今日も救われ、生きているのだ。自分と真摯に向き合い続けるゆえに深い悲しみを常に抱え、
その絶望と向かい合って、闘い続けてきた者だけが発することができるあの声と言葉。見る人の血流までを変えることができる役者さんは
日本の俳優さんの中では吉岡秀隆さんしかいない。彼はある意味、命を削ってあの言葉を発していることが私には分かる。誰も信じないかも
しれないが、あのような芝居は、ただ一生懸命すればできるものではないのだ。いつも言っているように役者はその時一生懸命頑張れば
人の心を打つ芝居ができるほど甘くはない。絵描きも役者も歩んできた人生が全て出るのだ。
もちろん彼は未だ若いゆえに体には影響はないが、心身の限界まで突き詰めているのはわかるのである。だからこそ、彼の言葉を聞いて
私のからだの凝り固まり、錆付いた血液がサラサラ流れ始めるのである。
人は歩んできた道でしか人を変えることはできない。渥美清さんが私の血流をサラサラにしてくれるように、吉岡秀隆さんのその飛びぬけた
センスと感受性、そして孤高の決意と長い日々の実践が私を救ってくれる。
考えてみれば悲しいほど残酷な話だ。人知れず命を削り、人生に傷を負いながら何かを作らないと受け取る人は人生が変わらないのである。
なんて受け取る人たちというのは傲慢で我侭なのだろうか。しかし、それは古今東西の紛れもない真実であり、逆に言うと、命を賭けて何かを
成し遂げる行為こそがこの世で真に報われるのだとも言える。自分の命を燃やさずにはいつの時代もこの世界の闇を灯せはしないのだ。



2007年5月22日 雲の上で読む『絵の話』
2週間前から。パソコンがひどい状態になっている。まず最初はまったく起動しなくなった。
友人のパソコン屋に見てもらい。マザーボードを変え、完全にOSを入れなおしたらかなりよくなったが、今度は2時間に一度ほど
勝手に消えてしまう現象が起きた。CPUの熱暴走かはたまた後ろのコネクションが悪いのか、マザーボードの相性が悪いのか
よく分からない。いろいろ試してもいいのだが、ちょっとめんどくさいのでこのまま今は使っている。←おいおいやばいよそれって… ヾ(^^;)
描いても描いても反比例するようになかなか絵が売れていかないので(TT)修理もできるだけ小さくしたいのだ。とほほ。
買い換えるなんてもってのほか。マザーボードの交換だけでもヒーヒー言っている状態だ。ううう…。
まあもっとも、6月末に一度日本に帰国するから、それまで騙し騙し使い、9月末にバリに戻ってくる時に、しっかり修理するしかない…(TT)
日本で使っているノートパソコンは何年も前から瀕死の重傷だし、いやはや機械というのはなかなかやっかいだ。お金もそれなりにかかる。
ま、そのおかげで、こうして日記を書いたり、ページを作成したり、多くの方々とメールのやり取りをさせていただけるわけだから
これはこれで良しとしている。サイトを運営しだしてからいろんな人の意見を伺い考えの幅ができたって言う感じか。
また、友人や知り合い、先輩方、後輩たちのサイトを読んで、近況を知り、ヒントをもらったり、頷いたりもしている。15年前なら考えられなかった
ことだ。ジャングルの中に引越し、完全な隠遁生活をしだしてから5年以上たったが、サイト運営は、数少ない私の『外』との交流と言えよう。
それと、『先輩』で思い出したが、このサイトの『リンク』のページにも紹介させていただいている、私の大学の大先輩である画家の菊地理氏が
先月から、またもや雑誌に連載を始められた。数年前の連載は『わーずわーす』というアジア文化を紹介する雑誌だったが、
今回はANAの機内誌『翼の王国』だ。
日本の飛行機会社の機内誌の中で前々から私がもっとも気に入っているのが、この『翼の王国』だ。機内誌とは思えない充実した内容と
吉田カツさんの表紙が印象深い。
今回は、『わーずわーす』の時と違って、長丁場になるとの事だ。そして最後はなんと本になる可能性もあるとのこと。
昔も書いたように、私は菊地氏の勢いのある躍動的な絵と、肩肘張らない読みやすい文章にとても魅力を感じ、ブログもホームページも
欠かさず読ませていただいている。画集も持っている。特に絵の話の内容はとても面白く、なによりためになる。ぐいぐい引き込まれていく
不思議な魅力がある。なぜ、あのようなユニークで感覚的な文章が世の中にもっと広がらないのかずっと不思議に思っていた。
その辺の評論本や美術書などより菊地氏の文章のほうがずっと魅力的だ。で、今回ようやく日本中にその文章が広がる機会が訪れようと
している。
菊地氏によると、残念ながら機内誌なので、店頭販売はしていないとのこと。しかしANAに乗れば、日本中、世界中、必ず座席についてくる。、
ANAに乗ればどこでも読めるのだ。もちろん、私のように定期購読をANAに申し込めば簡単にできる。1冊300円ちょっとで毎月届けてくれる。
私はこんな地球の僻地に住んでいるので、毎月は読めないが日本に帰って、実家に預かってもらっている『翼の王国』をまとめ読みする
つもりだ。あのパワフルな文章が雲の上で読めるなんて実に面白い(^^)ちなみに私はANAの会員である。
下に、菊地氏のホームページより拝借しました画像を添付いたします。どうぞ、ANAに乗る機会のある方は是非お読み下さい。

菊地氏のブログはこちら。 イッキ描きブログ 菊地理の油絵作品と絵の話
ホームページはこちら。 イッキ描き ギャラリー http://www003.upp.so-net.ne.jp/ikkigaki/
2007年5月8日 漆黒の闇を照らす一筋の光
今日、委託で置いてもらっている画集やポストカードの集金を3ヶ月ぶりにしてきた。近年私も宮嶋もなかなか思ったように絵が売れなくて
文字通り自転車操業の日々が続いている。だいたい今から10年ほど前の売り上げの半分以下になっている。昨年の後半に、委託で置いて
もらっているギャラリーで、ポンポンポンとテンポよく、アメリカ人2名と、なんと南アフリカ共和国の方々に絵を買っていただいた。ちなみにこの
17年間、バリ島で私の絵を買ってくれる人はオランダ人、フランス人、イタリア人などのヨーロッパ人が結構多く、次いでアメリカ人、
シンガポール人、オーストラリア人、そして地元インドネシア人あたり。意外にも日本人が私の絵をバリ島内で買うことはなぜか滅多にない。
もちろん日本の展覧会では当たり前だが日本人ばかりなのだが(^^;)不思議だ…。そのかわりポストカードのような小物や画集は日本人も
バリでよく買ってくれる。ありがたいです(^^)
しかし!、せっかく今回まとまって売れたのに、インドネシアのイミグレーションが気まぐれで滞在ビザのシステムを一斉に変えてしまったので、
急遽12月にバンコクにビザを再度取得しに行かねばならなくなり、その時の売り上げのほとんどをその費用に使ってしまった。ああ…(TT)
その後は忘れた頃に小さな絵がぽつりぽつりと出るだけで、なかなかシビアな神経戦が今年もまた続いている(^^;)ヾ
そういう時、小物であるポストカードや画集がコンスタントにさばけていくと助かるのだ。いわゆる日銭が入ってくるからだ。
しかし、今回、いろいろチェックしてみるとポストカードはいつものようによく売れているが、画集の方がいつもの半分も売れていない!…うううう。
画集は単価が高いのでいつも臨時収入が入り助かっているのだが、今回は残念…。今のところなんとか生き延びているが、
またもや真っ暗闇の未来へ突入する勢いである(^^;)私がいつも助けていただいている佐々成政の重臣、井口太郎左衛門の言葉
『一寸先は闇、一寸先は光でございます』の中の『闇』が結構続いている。ま、しかし、近年は慣れっこになってなんとか、しのいでしのいで、
上手に負け戦を戦っている。もちろん絵描きになってから勝ち戦などはほとんどしたこともない。いつも負け戦か引き分け…。ま、駄目な時は
なにをやっても駄目なのだが、知恵と我慢でふにゃらららとなんとか乗り越えてしまうのだ。
当たり前だが、近年、絵があまり売れなくても餓死したり、栄養失調にならないことがわかってきた。この発見は実はとても大事なのだ(^^)
そしてこのことはギリギリの状況を数多く体験し、体で覚えないと分からないことなのだ。人は意外に死なないし、欲を捨てればひょうひょうと
生きていける。
学校の教師を辞め、バリ島で本格的に絵を描き始めた17年前はすぐにお金がなくなって絵を止めなくてはならなくなるかもしれないと
恐れていたが、お金がなくなっても、ギリギリのギリギリでなんとかなるものである。お金がないと余計なことに対する欲望がなくなる。
無いものは無いので諦めることができるのだ。遠くへの旅行や、50号以上の大作の制作、などはポンと平気で諦められる。
それでもどこかで不安は付きまとい。私の人生もかなり悲惨で危ういなと沈んでしまう時もある。そのような時は車寅次郎のあの無欲と
身軽さを思い出し、ゴッホの手紙を思い出し、恩師坂崎乙郎先生の講義を思い出し、同じ画家である先輩の言葉を思い出し、
親友がかつてくれたひとつの手紙を思い出す。
それは正に漆黒の闇の中の細い一筋の光。
そして偶然だが、ちょうどさきほどポストカード補充のために、ハガキ類が入った箱をチェックしていたら、上で書いた親友がかつて私にくれたその
ハガキの文章が載った個展のDMが出てきた。私は彼のこの言葉が好きで、1993年10月東京の京橋で大きめの個展をした時、そのDMの
中で使わせてもらったのだ。
それは、当時、エゴン.シ―レ展を見に行った感想を私が彼に読んで欲しくて送ったハガキに対して丁寧に返信してくれたものだった。
光を生きながら消費している―。
本当にそうなのかもしれない。
刻一刻、身体的にも思考的にも変化していて『永遠』なんてものはないのだろう。
でも、もし変わらないものがあるとすれば
うつり変わっていく身体の「光の輝き」そのものかもしれない。
例えばシーレの絵を見つめていると、
その光に僕は小躍りしたくなるような喜びを感じた。
「やっぱりこれで良いのだ。」と。
たぶんシーレの肉体の独自の光は煙も灰もでない輝きそのものだろう。
僕は決して観念的、宗教的になっているわけではないよ。
シーレの絵を見て君を考え、坂崎乙郎さんを考え、ゴッホを考え、
職場のおじさんを考え、私の友人たちを考える。
先のことは見えないが恐れは消えている感じがする。
そしてまた、やっていこうと思う。
このハガキからもう二十年近く経ったが、今もなお、この言葉を胸に抱き、
私は今日もこの地球の果てで紙に線を引く。
2002年より私がバリでの本格的な隠遁に入ってしまったため、ここ数年は彼とは会っていないが、
彼もまた遥か日本で、絵を描き、音楽を奏で、そして草花や木々を育てる静かな日々を今も送っているに違いない。
5月になると、少し涼しくなったバリ島です。南半球だからね。(アトリエのテラスより)

2007年4月19日 僕もこんなに大きくなりました
ようやくバリ島の僻地ウブド村でも3月末から無制限ワイアレスインターネットの格安サービスが行われるようになった。
バカ高い料金設定のものは以前からあったのだが、ようやく日本なみの安い料金設定になってきた。それで試しに使ってみることにした。
使ってから今日で10日ほど経つが、もちろんADSLじゃないので相変わらず速度は遅く、やはりダイヤルアップ並みにしか出ない。
しかし、まあ無制限定額制なのでお金のことを気にしないで済む。このことがなによりも救いだ。それに今までのダイヤルアップよりも
かなり安い。それに、電話回線に水が入ろうが、さび付こうがワイヤレスには無関係なのでサイトを更新する時も以前よりはトラブルが
少なくなるかもしれない。なんせ、私の家の電話回線は私が自分で200メートルのジャングルの中を独力で引いたものなのだ。
それゆえこの数年間にダイヤルアップ接続のトラブルは無数にあり、それこそ日常茶飯事だった。
しかしそれでも油断はできない。専用モデムではなく、携帯電話内臓のモデムを使って電波を拾っているゆえ、極めて心細い(^^;)
いわゆる、日本なら外出時に臨時でノートパソコンなどの横に置いて使用するようなものを、日常で使っているのだから違和感はある。
しかし無制限定額制格安料金はビンボウな私には応えられない魅力だ。速度がダイヤルアップ並みに遅いとは言え、接続料を
気にしないで使えるなんて夢のようだ。今年の末ごろにはウブドにもADSLが来るらしいが、それまでの繋ぎでしばらくは使おうと
思っている。
ところで、例の、捨てられていた猫を拾ってきた話を2ヶ月ほど前に書いたが、(2月16日の日記参照)
あれから、すくすく育ち、今では下の写真のように大きくなった。ウチに前からいるプータという猫に似ているので『プーマ』と適当に名づけた。
名前はいつも連れ合いの宮嶋が付けている。あまり考えないでパッと決めるのが面白い。
2月15日の来たばかりのプーマ 4月15日の大きくなったプーマ
→ 
2007年3月19日 『とらやの草団子』を作るニュピの前日
明日からはバリ島の新年が始まる。バリ島は太陽歴ではなく『サカ歴』なので、明日3月19日が新年である。
この新年はニュピと言われ、この『新年.ニュピ』は毎年微妙にずれていくのだが、今年の新年(ニュピ)は3月19日だ。
前の日の大晦日の昨日は島中でドンちゃん騒ぎをし、悪魔よけの化け物『オゴオゴ』が町中村中を夜中まで練り歩き、
お払いをし、その前後に儀式を行い、爆竹を鳴らす。こう書いている今夜の1時でも、まだ村のあちこちから大きな爆竹の音が
聞こえてくる。そして明け方、空が白み始めた頃、1年で最も静寂の日であるニュピが24時間始まるのだ。後5時間ほどか。
この24時間は、家の敷地から一歩たりとも外へ出てはいけないのはもちろんのこと、灯りをつけたり、大きな声で話をしたり、
音楽を聴いたりもできない。もちろん空港には人っこひとりいない。それゆえ飛行機は一機も離着陸しない。
島中がこの世界の始まり(または終わり)のように完全に静まり返るのである。これは旅行者や外国人にも義務づけられているので、
まったくもう誰ひとりとして家の外、宿の外には出れない。救急車を呼んだ急病の人だけが唯一例外的に病院にいくことを許されるが、
それ以外の人は完全に我慢をする。それはもう、凄い静寂である。そして夜は全部どこも真っ暗である。
聴こえるのは鶏や牛や犬の鳴き声、鳥のさえずり、風の音、川の音だけである。一昔前まではニュピの日は料理をして食べる事すら
許されなかった。近年はどの家でも普通に食事をしているようだが…(^^;)。
私はこの究極の静寂である『ニュピ』の日が一年で最も好きだ。私の連れ合いの宮嶋などは一年中ニュピでもいいと言っている。
私も一週間に一度くらいこういう日があっていいと思っている。
で、大晦日の今日はなぜか『とらやの草団子』を作って食べた。と言っても私や宮嶋が作ったわけではない、息子が作ってくれた。
ここ数年デザートはほとんど息子が作ってくれる。宮嶋が一度教えると、息子は完全に把握してしまうのであとは自分で改良に改良を
加えてほとんどプロ並みに作りあげる。乾燥ヨモギは日本から良質の物を持ってきた。小豆や白玉粉は現地でいいものが手に入る。
柴又へ行くと必ず私は、とらやのモデルになった『木屋の草団子』を食べるが、あの味である。さあ、腹も満たされたし、あとは、
ひたすらニュピが終わるまでジッとしているだけだ。渓谷の音を一日中ぼんやりただ聴いているだけ。そんな日があっても面白いではないか。

2007年3月4日 停電の日に『バリの農夫.アグン』を描く
いやはや、今日は起きたらいきなり停電。ここ数年バリ島は停電が少なくなってきている。
うまくいくと1ヶ月丸々停電が無い月もあるくらいだ。7、8年前まではちょっときつく雨が降ったり、
雷が鳴ったり、風がきつく吹いたりするとすぐ停電になった。それも4時間、5時間は当たり前!
なんていうぶっ続け停電だ。ヒマラヤに行った時、下のポカラという町で丸4日間ずっと停電になった時は、
ネパールという国の奥深さを思い知らされたが(^^;)さすがにインドネシアはそこまで酷くは無い。
しかし、今日の停電は長かった。夕方遅くにようやく復旧。原因は不明(^^;)とにかく村中停電。
ま、停電や断水ごときでびくつくほど私はやわくない。そんなものハナからあてにはしていない。
いつものように粛々と絵を描く。最近はアグンライのお父さんを何枚も描いている。
今日も私の敷地の竹で作られた垣根を直してくれたので、ちょっとコーヒーを出して休憩してもらい。
その時に一気に油彩で描く。アグンライのお父さんは最近白髪が増えてきて、以前より随分渋くなられた。
彼の顔がなぜか私は好きなのだ。バリの古きよき時代の顔。インドネシア語は一切話さずに、バリ語で
話しかけてくる。生粋のバリの農民だ。普段は田んぼ作り、時々下の川で石切。時々木登り。そして
時々私の敷地の手直しを手伝ってくれる。彼の仕事はとても丁寧で美しい。亡くなった奥さんは儀式の
お供え物を作る仕事をしていた。このご両人のもとに生まれ育ったアグンライが彫刻の仕事をしていた
ことは実に納得できる。『血』というものはあるのだ。
「バリの農夫.アグン」 2007年3月4日 油彩 F6号

kagakutokokei
2007年2月22日 ふたつの『日高川』 村上華岳と小林古径
昨日、「寅次郎な日々」に第29作「寅次郎あじさいの恋」のかがりさんの隠された情念のことをちょろちょろと
書いた時に、かがりさんと寅のあの関係はまるで、お能の『道成寺』で有名な『安珍と清姫の物語』のようだ
とふと思った。
「法華験記」や「道成寺縁起」などによると「安珍清姫の物語」はこうである↓。
平安中期、紀伊国牟婁郡真砂の家の娘(清姫)は熊野詣での途中で宿を借りた
僧侶の安珍を見て恋に落ちる。
安珍恋しさのあまり、清姫は安珍の寝床に夜這いをかけて告白する。
安珍は、なんとかその一途なまでの情念をそらそうと、嘘をつき、その場をごまかす。
参詣の帰りにはきっと立ち寄るからと騙って、参詣後は立ち寄ることなく行ってしまった。
待てど暮らせど安珍は戻ってこない。
騙されたことを知った清姫は怒り、狂ったように髪を振り乱し裸足で走り続け
安珍に追いつくのだ。しかし安珍は再会を喜ぶどころか逃げ腰で、人違いだ
と嘘に嘘を重ね、逃げ出そうとするのである。
不誠実な安珍に清姫の怒りは爆発し、遂に蛇身に化け日高川を渡り、安珍を飛ぶように
追いかけ、道成寺に逃げ込んだ安珍を鐘の中に見つる。清姫は鐘に巻き付き、
遂には火を噴いて安珍を焼き殺してしまうのであった。
安珍を滅ぼした後、清姫は蛇の姿のまま入水自殺する。
蛇道に転生した二人はその後、道成寺に現れて供養を頼む。
住職の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、
天人の姿で住職の夢に現れた。
この二人はそれぞれ熊野権現と観世音菩薩の化身であったのである、と
法華経の有り難さを讃えて終わるのだ。
かがりさんの一途さはこの「清姫」にも通ずる怖さがある。

で、何が言いたいかというと、この「安珍清姫」を題材にした日高川の場面を描いた2枚の絵をさきほど
思い出したのである。
私は、学生時代にたまたまこの下の2枚の絵を実際に見ている。どこの美術館のなんという展覧会で見たかは
忘れてしまったが、絵自体はあれからもう20年以上経っているのにまざまざと覚えている。
物語に忠実なのは見て分かるとおり小林古径の絵だ。清姫の恐ろしいまでの情念を直接的に描こうとしている。
それにたいして村上華岳の清姫は、なにか彷徨い、悲しんでおろおろしているようだ。愛情のその果てにある
激しい『業』を内側から表しているとも言える。
まあ、しかし、それらの解釈は本当はどうでもいい。物語など何も知る必要はない。
問題は絵の造形である。絵は全て抽象なのだから『絵』として見なければならない。
なんなら上下ひっくり返して見たっていい。必ず同じ感動が待っている。
村上華岳の『線』を見て欲しい。この線のリズムは凄いの一言だ。こんな線を描ける人は今の日本にはまずいない。
山も木も清姫も川も空も全て線で響きあっている。正に線の勝利だ。動かし難い造形。これだけ省略しても山は正に山、
木は正に木、地面も川もリアリティに溢れている。抑制された絵画的空間の中に確かな形がうごめくように息づいている。
小林古径は、いかにも風景や人物を『動』的にとらえて、一見格好がいい絵だが、しかし効果が先走り、
結局は絵が説明的になっている。絵の中に形が無く、スカスカだ。色も飽きる。
いや、そもそも土俵が違うと言ったら小林さんに失礼だろうか。
あ、一応言っておくが、小林古径もそん所そこらの日本画家ではないのだ。それはもう凄い線を描く人なのだ。
この『日高川』を題材にした戦後の他の絵描きの絵と比べると、いかに小林古径が凄いか分かる。
その小林古径の絵がスカスカに見えるほど村上華岳のこの線は揺るがし難くそして生きている。
私は村上華岳は明治以降の日本画の画家の中で最も好きな人の一人だが、その中でもこの絵は一番感動した。
「絵」とはこういうものを言うのだ。逆さまにしようが、一部だけ見ようが、どこからみてもこの絵の冴えは動かし難い。

















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