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  2004年5月24日 油彩「午後の渓谷



  雨季もすっかり終わり、ここ一週間は自宅の敷地から久しぶりに渓谷を描いてみた。一ヶ月ぶりに描く渓谷は新鮮で、2度ほど
  乾かし、それぞれの位置の関係が合ったのでタッチが残っているうちに筆を置いた。絵が小さくまとまる前に筆を置くことは実は難しい。
  この絵は結構気に入っている。

  夜は相変わらず本を読む息子を描いている。

  宮嶋も偶然、同じ渓谷の絵を描いていた。彼女のページにアップしてある絵がそれだ。静かで空気感のある画面が広がっている。
  同じ風景を見てもよくもまあこれだけ違う表現になるなあ、と、個性の違いにいまさらながら驚いている。

  ウブドはゴールデンウィークの賑わいも去って、いつものように静かな日々が続いている。それでも旅行者は結構たくさん歩いているので
  昨年よりもずいぶん来ている気がする。そのわりには絵の売れ行きはボチボチなのだが。とほほ…だ。
  生まれた子猫はずいぶん大きくなってきた。名前はなんとなくぼやぼやしててまだ付けてない(^^;)ゝ。
  
  宮嶋の「渓谷T」はこちらで見れます。
  



                            (午後の渓谷U  F 12号 油彩 2004年)

                     






                 


2004年5月15日 また3匹生まれてしまった

メス猫のマリがまた子猫を生んだ。これで3回目のお産だ。この前プリンを生んだばかりで、まだ3ヶ月しかたっていないのにもう産んだ!
これで計8匹産んだことになる。そのうち3匹は近所の子供たちにあげた。1匹は木から落ちて死んでしまった。1匹は家出した。
残っているマリの子供は最初に生まれた4匹の中の「ブチ」と2回目の「プリン」と今回の3匹。計5匹。もっともブチはもうマリよりもずっと大き
くなってしまったが。さすがに3回目とあってマリは慣れたもので、ちょいちょいと1時間くらいの間に3匹をダンボールの中で産んで、平気な
顔で日常生活を送っている。1回目の時は周囲の音や気配にかなり敏感になっていたのに、今はちゃんと見切っている感じだ。貫禄だなァ。
父親はよく遊びに来る野良猫。こいつは図体もブチよりも大きいくらいで、けんかも強い。だからこの3匹の遺伝子には、安産型のマリと
野良の世界を勝ち残ってきた父親猫の血が入っているので健康に育つとは思う。そういう意味では自然界というのはよく出来ている。強い
生命体が子孫を残すのだ。
今回は最初の1匹目だけ息子がへその緒を切ってあげたが、2匹目、3匹目はマリに任せた。マリももう慣れたもので冷静に粛々と作業を行っ
ていた。あー!しかし、また餌代が心配になってきた…。でも、マリやブチは庭でリスやヤモリを取るのが上手なのでまあ大丈夫だろう。


ここ数日、春に池袋のリブロで買ったベラスケスの画集を見ている。この画集は部分拡大写真をふんだんに使ってあるのでベラスケスの
筆のタッチが分かっていい。レンブラントも凄い絵描きさんだが、このベラスケスにはほんとぶったまげている。これだけの荒々しいタッチで位置が
バッチリあわせることが出来るなんて天才としかいいようがない。昔プラド美術館でめぼしいものはほとんど見たが、ほんとうに軽くさらっと描いて
いる。そしてちょっと離れてみるとバシッと絵になっている。ゴヤもベラスケスに憧れ続け、凄い絵を描いたが、ベラスケスは桁違いの才能だ。
特に道化師たちを描いた一連の作品が凄い。タッチでその人間の内面を描き出せる絵描きは長い歴史の中でもそうはいないのだ。ある意味究極
の絵だ。



       生まれたばかりのミケ、黒トラ、白黒ブチ、の3匹。すばやくいきなりオッパイを探し当て吸っていた。人間ではこうはいかない。

                        








2004年5月8日 夜の肖像画

ここのところ雨漏り対策の作業や電話線の修理、ガスの修理、などで夕方まで忙しい。日本だと業者に頼むのかもしれないが、
この地では誰もが自分たちでやる。自分たちで家を建て、自分たちで修理し、自分たちで造りかえる。これが結構面白い。
時間はたっぷり有るので、何日もかけてマイペースでおこなう。息子にも手伝わせる。彼にもいずれ役に立つ。

お陰でここ2週間夕方遅くまで絵が描けない。仕方がないので夜絵を描く。夜の光はあまり美しくない。それはそうだ、人工の光
なんて大味だ。それでも長所もある。いったん夜になれば何時に描いても同じ光で描けることだ。ひそかに息子の暇な時間を
ねらってモデルを頼む。4月に帰国した時、面白そうな本をたくさん買ってきたので、当分はそれらを読みながら気分よく1時間ほど
ならモデルになってくれている。おかげで4枚ほど描けた。下に貼り付けた↓絵は、今晩描いた絵。できたてのホヤホヤ。1時間
くらいで表情がでたので、思い切ってここで止めた。コリコリと何回か乾かす絵もあれば、この絵のように1時間で終る絵もあるのだ。





                              (少年の日U  F 8号 油彩 2004年)

                         









2004年5月3日 日本人で賑わうウブド

今ウブドは日本人のグループでどの宿も賑わっている。昨日買物に行ったスーパーマーケットでもここは日本かと間違ってしまうほど
多くの日本人が食材を探しに着ていた。普通の旅行者は食材をあまり探さないので、けっこう近年はリピーターの方々が直接空港から
ウブドに来て自分で何か料理しながらウブドから動かない、というパターンが増えてきているもよう。納得である。
またここ数年、このスーパーの食材の種類は実に豊富になって、日本の野菜はほとんど揃っているし、日本の調味料も一通りある。
外国からの輸入品も実に数が多く、品揃えは日本の大きなスーパーなみになってきた。もちろん魚、肉なども充実している。野菜に関しては
ウブドの市場より安いものも多い!なんとも便利になったものだ。ウブドの町全体も一昨年から今年にかけてずいぶん小奇麗になってきた。
インターネットカフェも激増。24時間営業クリニックも3件もある。(もちろん大きな病気には対応できていないが)24時間営業のミニコンビにも2件
できた。お洒落なアートショップも激増。だんだん本格的な観光地になってきたともいえる。もちろんその分濃厚で原始的な空気は薄くなってき
てはいる。これは絶対当たり前。

私が最初にバリを訪れた1988年の頃はウブドはまだ田んぼだらけでうっそうとした森に囲まれていた。たった16年でよくもこれだけ変わった
なあと思うほど変わった。しかし私は渓谷のジャングルの中に引っ越したのでこの近所だけは昔のままだ。しかし1キロほど離れた同じ
渓谷沿いに外国資本の高級リゾートホテルができつつあったりして、いつまで私の近所が静けさを保てるかはわからない。生活者としての
自分と制作者としての自分が葛藤する日々だ。事実この前近所でとても安い日本のうどんを食べさせる店を発見。麺はコシがあって讃岐風。
ダシは関西風かつおダシ。とにかく値段が安い。普通のテンカスとねぎが入った「テンカスうどん」が9000ルピアなのだ。これは画期的な値段
である。日本円に直すと約120円!他の日本食レストランの3分の1以下だ。このような安い店が出来るのも観光地化が熟してきているからな
のだ。毎朝食べるフランスパンも質がかなり向上し、日本と比べても遜色なくなってきた。こういうのは文句なく嬉しい。これも、有ればうれしい
時代から「質」の競争の時代に移行してきている証拠だ。絵のことで言えば画材屋なんかの品揃えも年々充実して、だんだん質の面で不自由
しなくなった。衣食住はしだいに「もどき」が減ってきて「本物」が入ったり作られたりするようになったのだ。
しかし、その分、伝統的な踊りや伝統的な絵画は魂の抜けたものになりつつある。しかし、もうそんなことを気にする人も少なくなってきた。私も
自分の絵のことで精一杯である。ほんとうはこの地に住む以上、どこかで絶対密接に自分の絵とも関係しているはず!。いまのところこの手付
かずの渓谷のジャングルを隠れ蓑にして私も宮嶋もなんとか制作を続けている。描ける気持ちのうちにできるだけ描いておかなくてはと思っては
いるのだが。まあ、人間とは身勝手な動物なのだ。自分のことを振り返ってつくづくそう思う。





見た目は普通の安食堂だがうどんのコシは本物。家から車で10分。    テンカスがたっぷり入った「うどん」 これで120円!
           










 2004年4月28日 東京春物語 その4 白洲邸訪問

 翌4月2日は朝のうち少し雨が降ったが、9時ごろには晴れ間が見えてきた。今日も午前中に仕事の用事、打ち合わせを済ませ、前々から
 行ってみたかった小田急線鶴川にある白洲次郎さん、と白洲正子さんの住まいである「武相荘」に行く。私も宮嶋も昔から青山二郎の本
 の装丁の仕事や蒐集品、そしてそれらを支配するその鋭敏な感覚に深い感銘を受けていたので青山二郎関係の本を沢山持っている。
 その中でも最も青山二郎の本質に迫った本は白洲正子さんの著書「いまなぜ青山二郎なのか」だ。幼少期からお能を深く学ぶことによって
 培ってきた「ものをみる眼」が青山二郎との出会いと交友によってますます磨かれていったようだ。その磨かれた感覚がどのように住まい
 や蒐集品に生かされているかを見てみたかった。鶴川の町ももう満開の桜で溢れていた。東京は端から端までどこもかも桜、桜だ。
 住まいの近くは今は住宅地になってしまったので昔本で見たような丘全体が白洲邸というわけではなくなってしまっていた。






   母屋は昔の農家の家という感じで、住みやすそうな趣がある。郵便受けやここかしこにある小物たちが実にいい味を出していた。玄関
   先の信楽大壷や、部屋の中のこじんまりした花生けに椿が生けられていた。この屋敷にはたくさんの椿が植えられているので冬から春に
   かけてずっと花には困らない感じ。ちょっとした廊下の端にある暖簾や、温度計や、灯明台、明かりなどが一工夫してあり、それらのうち
   の何点かは白洲次郎さんが作ったものらしい。竹製スタンドなど実に感覚的だった。小物の中では「白磁桃形水滴」の姿かたちがなんと
   もいえない柔らかな膨らみに溢れ、心に残った。小さくてもいいものはいい。右の写真の奥に長屋門が見える。この門はなかなか存在感が
   あった。


                






  家の中には白洲正子さんの書斎があった。文机がどっしりとしていて、この家で一番輝きを放っていた。私にはこの家の中でこの崖に面した
  小さな書斎が一番美しかった。あとで読んだ本によると白洲さん自身も「家の中で最も落ち着く場所」と書いていた。もっとも晩年はもっぱら食
  堂の大きな机で文章を書いていたらしいが。

  どの部屋も器や着物を裸で展示しているせいか、本によく出てくる目当てにしていたものは半分くらいしか展示されておらず、中堅どころのもの
  が中心になっていたのはちょっと残念だった。彼女のコレクションの中で見たいものが何十点もあったのに…。私たち以外にも時々お客さんが訪
  れていた。ほとんどが中年か年配の方。みなさんとても品よく見学されていた。




                     







  庭先に「鈴鹿峠」の道しるべ。もちろんここは鈴鹿ではないので洒落で手に入れたのだろうが、なかなか庭に馴染んでいる。
  石塔や石仏立像などもさりげなく庭に置いてあって風流な感覚がここかしこに残っていた。この向こうは小さな丘になっていて
  しばらく歩くとまた戻ってくる。赤や白の椿があちらこちらに咲いていた。ちょっと横に外れるとすぐ住宅街なので山の中という
  感じではなくなっているが、昔はこうだったんだろうなぁ、と思える場所はまだまだ残っていた。あっというまに2時間がたってしまった。
  

              



  「東京ノイズ」を池袋西武のリブロで見つける。


  帰りも鶴川の駅までの道をゆっくり歩いていった。どの家の庭も春が訪れていた。
  そのあと池袋西武のリブロに立ち寄りベラスケスの画集を買う。ここは結構何でも揃っている。最近は大きな本屋でよく探せば
  千円台で印刷や構成が優れた画集が手に入るようになったので嬉しい。美術書のコーナーに宮嶋の企画展をされた
  美術評論家の大倉宏さんの著書「東京ノイズ」があった。宿に帰り読む。

  大倉さんの文章はいつも独特の味わいがあり、叙情的でリズムがある。自分の言葉をもっている人だ。たとえば↓

  「東京ノイズ」第U章 『世界の始まる地点』のラスト

  「そうした孤独を負うとき人は人々からつながったまま引き裂かれる。つながりが堅固であればあるほど、その孤独は深い。
  時代そのものが引き裂かれているときには、しかし、そのような孤独を通じてしか回復されえないものが多分にあるのだ。
  ふたりの佐藤と牛腸がそうした孤独の井戸の底から汲み上げ、届けてきたもの―それは私(自己)があなた(他者)に触れて、
  動かし動かされる、そうした生きた関係として現れてくる、具体的な世界の始まる地点だった。」

  と言う箇所などは人の中で人が何かを制作表現することの絶望と再起を謳いあげたいい文章だと思った。

  宮嶋はさすがにこの本はすでに持っているようだ。



 母校の「早大絵画会」は今でも健在!大いに活躍中!


 翌4月3日は母校の近くに仕事の用事があったので昼ごはんを懐かしの「金城庵」の天丼にする。味は20年前と一緒。美味かった。
 ちょうど構内は新入生歓迎のサークル勧誘をどのサークルもしていてどえらく賑わっていた。ちょっと冷やかしで15年ぶりでキャンパス
 に入ってみた。知らないうちに新しい校舎が何棟も出来ていたりして変わったところも多いが、概ね同じイメージ。私は学生時代の4年間
 「絵画会」というサークルで絵を描いていたが、なんと一番目立つ大隈銅像の下で、しっかりその「絵画会」の現役の人たちが新入生を
 呼び込んでいるのを発見!そこで勇気を出して自己紹介し、話を聞いてみると今でも「絵画会」はしっかりと存在し、りっぱに活動を続けてい
 るらしい。ちょうど創立100年祭の時の部長(幹事長)だと言ったら、現役の人たちに「ひえー!20年位前ですね!」と驚かれた。
 そうなんだ…。卒業から20年も経っていたんだ…。彼らが生まれた頃私はここの学生だったんだなぁ…。ハァ…二昔前だ。新入生はもう
 40人ほど集まったといっていた。パンフレットも沢山くれてなかなか気さくでしかも頼もしい!ちゃんとサークルのHPもあるようだ。石膏像を
 運んで、セミナーハウスで合宿しながら石膏デッサンをするという絵画会名物「デッサン合宿」も昔と同じようにきちんと行っているそうだ。
 サークルの部屋もしっかり新しいものを獲得していた。うーん、私の頃よりも活気があるかもしれないなぁー、これも時代だなー!
 ただ、私の頃はみんなで毎週裸婦を描いていた。それがなくなってしまったのはちょっと残念。裸婦は美しいし、勉強になる。是非復活して
 欲しい。でも、そのかわりコスチュームや石膏像は描いているらしい。

 帰りに寄った大隈庭園は質が高いわりに相変わらず超穴場で、静かで美しかった。なかには立派なレストランも出来ていた。
 傍にあるリーガロイヤルホテルのカフェでお茶を飲んで休憩したあと夕方遅く懐かしの母校を後にした。タイムスリップしたような不思議な日
 だった。



 絵画会の現役学生と話をする私(リュックを背負っている)。実にみんな気さく。大隈庭園の桜も完全に満開できれいだった。なぜかいつも静か。

             




 というわけで東京の春を満喫して4月4日の夜にバンコクへと旅立っていったのでありました。次回からの更新はバリネタです。(^^;)








 2004年4月22日 東京春物語 その3 柴又界隈

 翌4月1日、午前中に仕事の打ち合わせを済ませて、いよいよわが心の柴又に向かう。今日も快晴でどこもかしこも桜が満開だ。柴又は駒込で
 中学校の先生をしていたころよく訪れたが、そのあとバリに行ってしまって少し縁が遠ざかっていたが、今回「男はつらいよ」の舞台を息子に見
 せてやりたくて超久しぶりに来たのだった。さすがに柴又駅はずいぶん雰囲気が変わっていた。駅前も帝釈様の参道も、高木屋も大和屋もなん
 となく新しくなっていた。息子はそこら中に映画によく出てきた建物や場所があるので、そこに立ってはそのシーンを再現したり、写真を撮ったり
 大はしゃぎだった。私も懐かしい第2のふるさとに帰ってきたような気分になり、感無量でやっぱりはしゃいでしまっていた。来るたびにひなびた
 感じがこの町から失われていくのは少し寂しい気がするが、地元の人にとってはいろいろな施設が出来たり、道が整備されたり、店がリニューア
 ルされたりして活気があっていいのだろう。帝釈様の中に入って源ちゃんをさがしたり、参道で自転車に乗った備後屋さんを探したがやっぱり当
 たり前だがいなかった(^^;)
 あとは写真を見ながらそれぞれの場所を紹介していきましょう。「男はつらいよ」に興味の無い方は退屈でしょうからどうぞ飛ばしてください。




 シリーズ中実に頻繁に出てくる柴又駅。さくらが博を追いかけたあの第1作のころの柴又駅と比べるとずいぶん小奇麗になり、自動改札にもなっ
 てしまった。駅前は石が敷き詰められたりしてずいぶん変わった。恋をした満男がこの改札のところで目を潤ませながら、「ほんとうは僕も伯父
 さんといっしょに旅に行ってしまいたい。」と言っていたことを昨日のことのように思い出す。右の写真はすっかり有名になった車寅次郎の銅像。

         





 左は第1作のオープニングに出てきたモノトーンの参道風景の最初のカットがとられた場所。私は昔の柴又を象徴するあのシーンが大好きだ。
 第1作から35年経つが、当時の雰囲気がまだ少し残っていたのがなんとも嬉しかった。ちょっと向こうに「恋愛塾」で民夫が間違って入ってしまった
 鰻の田中屋さんが見える。 右の写真は参道の真ん中あたり。映画にしょちゅう映っている高木屋さん。ここのおでんと焼団子はうまい!この店
 は山田組の人たちの柴又ロケ時の拠点にもなっていたことはあまりにも有名。


          





 高木屋は以前来た時よりずいぶん変わっていた。おでん、焼団子、磯乙女、ところてん、クリームあんみつ、草団子を食べる。おでんの
 ハンペン、厚揚げ美味い!山田組の休憩所だけあって数々の記念写真が飾ってあった。右の写真は川魚料理の「川千屋」。
 第23作「翔んでる寅次郎」で桃井かおりさんと布施明さんが披露宴を行った店。(寅が仲人)

         





  高木屋の近くに「とらや」がある。昔は「しばまたや」と言った。第1作から数作はこの店もロケで使われた。当時の階段がまだ保存されていた。
  店内に食券の自動販売機が備え付けてあり、時代の流れを感じた。

        





 帝釈様(題経寺)の門、この前でいつも源ちゃんが掃除をしたり、さくらが御前様と寅のことを話したりしていた。この門の柱によく「寅のバカ」とか
 「スケベ」とかチョークで書かれていたことも思い出す。このあたりは数えればきりが無いほどの物語が展開された場所だ。

              





 左の写真の向こうにある鰻の店「宮川」は「寅次郎恋歌」で出てくる喫茶店「ローク」のあったところ。この喫茶店は第8作の後もずっとロークのまま
 ずいぶん後の方まで実際に営業していた。この帝釈様の曲がり角のあたりでもさくらと寅の名場面がもう幾度となく繰り広げられた。特に「続男は
 つらいよ」と「純情篇」でのこの場所での会話が印象深い(詳しくは『男はつらいよ.覚え書ノート』を見て下さい)右は題経寺境内。第1作を初め、この
 場所も数え切れないほどのドラマが生まれた。特に「寅次郎恋歌」での貴子さんとの出会いは印象的。

         




 鐘撞き台の下。この扉を開けて源ちゃんが毎夕鐘を撞いていた。「相合い傘」の『メロン事件』のあと寅が源ちゃんにラーメンを持ってこさせて隠
 れて食べていたのもこの扉の中。(真似をする息子)右は第1作で寅が二十年ぶりに御前様に遭った場所。境内の隅。(まといを持ちながら御前
 様と話をする寅を真似る息子)

          




 柴又に来たら必ずみんな寄る、「寅さん記念館」の中。大船撮影所から移されてきたとらやのセットでオチャラケる息子。右はリリーが唯一出した
 シングルレコード『夜明けのリリー』「島の娘はリリー、リリーのバラード、レッツゴーリリー」これも記念館に展示されている。
 

         





 左の写真は川魚料理で有名な割烹料亭「川甚」ここでさくらと博の結婚式、披露宴が行われた。また、寅の小学校の同窓会もここで行われた。
 仲人のくせに結婚式に遅れそうになり、スクーターでこの玄関に突っ込んだシーンが印象的だった。右は御前様が経営する「ルンビニ―幼稚園」
 満男もこの幼稚園卒業。「新.男はつらいよ」のマドンナ春子先生もたぶんここの先生。
 

             





 春のうららの江戸川土手。昔はこの土手中桜並木があったという。今は10本ほどがアクセント程度に植えてある。それでも見事に満開になってい
 た。土手は以前来た時よりもいっそう小奇麗になり、寅が映画のなかで釣りをしていた頃の風情はなくなりつつある。右の写真は、よく朝日印刷の
 工員達が野球をしたグラウンド群のひとつ。マドンナも時々一緒に野球をしていた。「葛飾立志篇」の礼子さん、「寅次郎恋愛塾」の若菜さん、など。
 若菜さんは特大のヒットを打っていた。

              



 お馴染み、「矢切りの渡し」渡し舟のおじさんの話によるとこの船の管轄は向こう岸の千葉県だそうだ。渡りきると「野菊の墓」まですぐだ。
 片道まだ100円くらい。(往復200円だったかな)思ったよりたくさんの人が乗っていた。映画でも何十回もこの渡しに乗って、故郷柴又に
 帰る寅次郎の姿が映し出されていた。そういえばここの歌を歌った細川たかしも特別出演していたなぁ。夕方遅くなってもなかなか人がひか
 ないので渡しのおじさんたちは困っていた。おじさんと長話をしてしまう。もう今度こそこれが最後だ。って言って漕いでいった。お疲れ様。

                     


 


 柴又駅のホーム。第1作のさくらが博を追いかけてこのホームで追いつくのだ。あと、シリーズ屈指の名場面「純情篇」でのさくらと寅次郎の
 ホームでの別れ。「ハイビスカスの花」でのリリーとの別れ。その他もろもろの別れがこのホームで繰り広げられた。右の写真はホームの端。
 この場所は「口笛を吹く寅次郎」で朋子さんが寅次郎の名シーンが撮られたところ。あの時の竹下恵子さんは可哀想だった。罪な男だ。

             










 2004年4月14日 東京春物語 その2 神田明神

 そのあと素早く用事を済ませて夕方宿に向かう。宿は御茶ノ水の神田明神の鳥居のすぐそばにある小さなホテルに予約してあった。
 神田明神は銭形平次で有名だが今まで一度も行ったことはなかった。ここも桜がほぼ満開で夜桜を楽しむ人でいっぱい。宿のすぐ前で
 江戸情緒がたっぷり味わえるなんて幸運だ。神田明神の鳥居の前の道を挟んで向こうは湯島聖堂。ここも森があってなかなかの雰囲気だった。
 神田明神は甘酒を売る店が多く、せっかくだから飲んでみた。神田明神で夜桜を見ながら甘酒を飲む。あー…日本だなぁ…。しつこいようだが
 私にとっては6年ぶりの「春」なので見るもの全てが新鮮ではしゃいでいる自分がいた。どうぞ、お笑いくださいまし…。
 次の日も快晴。午前中に仕事を済ませて、午後からいよいよ懐かしの柴又へ行った。このことはまた数日後に「東京春物語その3」で書きます。



      (境内では夕方になると花見の宴が始まる)       (朱塗りの門と桜はよく似合う。ここから徒歩0分が宿)

              








 2004年4月8日

 東京春物語 その1 上野公園

 ようやくウブドに帰ってきた。ウブドではほんとうによく寝られる。旅で疲れがたまっていたのだろう、爆睡してしまった。
 日本ではいろいろな仕事上の用事を片付けながら、合間を縫ってエキゾッチックジャパンを味わった。滞在中全て晴天で幸運だった。
 じつに久しぶりの春爛漫の日々だった。

 成田についたのが3月31日朝。思ったより寒くなく、6年ぶりの上野公園へ向かった。成田からの電車はガラガラで窓から見える風景のいたる
 ところに7分咲きから満開の桜が見え、なんとも懐かしく、穏やかな気分に。息子は東京生まれだが、バリに移住したあと数回しか東京に
 来ていないので、彼にとっては異郷の地であるらしい。

 上野公園に着くと、桜はもうどの枝も満開に近く、春真っ盛りだった。平日にもかかわらず花見客でいっぱい。東京に11年も住んでいたが
 こんなに満開の桜を見たことはなかった。このあと滞在中いたるところでいやというほど桜を見ることになるのだが、とにかく上野の桜は見事だ
 った。

 そのあと予定通り、国立博物館と西洋美術館の常設を観る。いつ行ってもこの二つの常設は素晴らしく、そして館内はすいている。ゆったりと観
 れるので嬉しい限りだ。博物館の裏手にはなかなか風流な広い日本庭園があるのだが、一般にはあまり知られていないらしく、いつ来てものんび
 りと散歩できる。ここでも桜がたくさん咲き誇っていた。ここの場所は穴場だ!

 西洋美術館のゴッホのバラの絵は10年ぶりくらいだろうか。やはりこの絵は強い。小さい絵だが、ものすごい凝縮感だ。ちっとも荒々しくなく穏や
 かな画面なのにエネルギーが充満している。息子は数年前に大規模なゴッホ展を観ている。彼は14歳なりにゴッホの絵が持つ独特のパワーを
 感じているようだった。でも彼はどちらかと言うとモネの何枚かの絵が気に入ったらしく、結構見入っていた。ここのモネもいい作品が多い。
 私も大好きだ。まあとにかくいきなり春の洪水に遭遇して、もう文句なしに嬉しく、楽しく、6年分の春を頂いた気分だった。




(博物館の前まで桜並木がこれでもかっという感じで続く。) (上野公園とは打って変って博物館の裏手の庭園は実にバランスよく春が来ていた。)

           





                        (ゴッホのバラの絵。この絵を描いた翌年ゴッホはこの世を去る)

                       



2004年3月19日

東京の桜はもう開花したそうだ。今年は、なんと6年ぶりに桜が見れるので嬉しいのだが、この分だと日本に到着する3月末には
すでに満開はちょっと過ぎている感じだ。それでも桜はまだまだ見れるだろうから春の感じが味わえるのがなんとも懐かしい。

バリはもうすぐ新年のニュピだ。今年は選挙の関係で前日のオゴオゴは全島で中止。残念だ…。まあしかし、静かな大晦日もいいのかもし
れない。バリ人は新年の前の儀式がたくさんあってこの時期は大忙しだ。今年はニュピの次の日にビザと仕事の関係でバンコクに一週間、
その後日本に5日間滞在するので、今年のニュピはちょっとだけ忙しい。もちろん外出は一切出来ないので静かにしているしかないのだが。

ニュピは外出はもちろんのこと、夜の明かりも厳禁で、部屋の中でひっそりとつけることは黙認されるが、とにかく島全体が眠る日なのである。
体も心も休める日。昔は食事も取れなかった。とはいえ、そのための儀式がここんとこ一週間ずっと行われているので、バリ人にとっては疲労
こんぱいのあとの骨休みになるのだが…。

日本でも有無を言わさず一日や二日くらいそういう日を作れば人の心にゆとりが出来るし、空気も澄み渡るのだが、そんな悠長なことを提言
しても誰も賛成しそうにもない。まあ、せめて私は自分の人生の中でそういう日を歓迎し、楽しむことにしよう。
私の感覚的には何もしない日、してはいけない日は一ヶ月に一、二度は必要だ。実際そういうペースでここ3年ばかり暮らしている。宮嶋は
一週間に一度くらいニュピがあっても平気そうだ。のんびりしている。


  3月22日から4月7日まで用事で海外に出ますのでバリ日記の次の更新は4月8日ごろです。よろしくお願いいたします。


          (渓谷風景を撮ろうと思ってスイッチを入れていたら、猫の「ブチ」がレンズを覗きに来たので思わず撮った。笑える。)

                    









2004年3月10日

ここ1週間ほど、どういうわけか息子が素直にモデルをしてくれるので(といっても長椅子で寝ているポーズなので楽なのだが)何回か
乾かしてコリコリしたリアルスタイルの絵にしてみた。息子は日々顔立ちが変わっていくのでまあ一応こういう絵も描いておこう、と
思い立ったのだ。このあともう少し描きすすめるかどうかは未定。夕方彼が眠がっている時を狙えばまだまだ何枚かは描けそうだ。




                            ( 彼の日々(午睡)  F 12号 油彩 2004年 )

                     









2004年3月8日

今日は久しぶりに一日中晴れて夜も満月がしっかり見れた。雲間に見える満月でなかなか風情があった。風にたなびく雲の絶え間より、
もれいづる月のかげのさやけさ。っていう感じの風景だった。

アグンライの家族はここ数日朝から夕方までずっと稲刈りで大忙しだ。ほとんど家にいない。バリの稲刈りは一切機械を使わずにすべて
日本の明治時代なみの設備で行うのですごく重労働だ。だいたい稲が伸びるのが恐ろしく早い。ついこの前まで苗だったのに、あっという
間にもう稲刈りだ。穀物だけでなくバナナやパパイヤなどの果物もあっという間に成長し、実をつける。そこら中に繁殖する。当然食べきれな
い。このような食物の実りの豊饒さは、バリ人の気質を形作る上で大きな影響を与えている気がしてならない。彼らは物を貯め込む習慣が
あまりない。お金も貯め込まない。稼いだ分だけすぐに使おうとする。明日を考えない。とても楽天的で享楽的だ。このインドネシアがもっと
経済成長を遂げようとする時に確実にこの国の人々の気質は足を引っ張り続けるだろう。お金がなくなっても彼らは飢え死にしないというDNAが
体に染み込んでいる。そのような宵越しの金を持たない彼らが面白くて14年もこの土地に暮らしてしまった。いったい私は何を考えているのだろ
うか。自分でも呆れている。この先いったいどこへいくのであろうか。自分でも皆目見当がつかない。今年、たまたま手に入った格安チケットのお
陰で5年ぶりに日本で桜が見れる。日本も美しい…。
しかし去年から今年にかけて2ヶ月に1枚か2枚ほどしか絵が売れない。なかなか厳しい状況が続く。日本の四季を毎年味わいながらもバリに住み
続けるなんて当初の計画は来年以降当分お預けになりそうだ。もっともバリにいたほうが私も宮嶋もダントツ絵は描けるので、それはそれで嬉しい
ことではある。


髪の毛が伸びすぎて遂にウエストの近くまできてしまった!ので、ついに今夜、3年ぶりに髪の毛を20センチほど切ってもらった。すっきりした気分。
行動がしやすくなって嬉しい。ちょっと名残惜しかったが、まあいいだろう。


                     (3月6日午後7時。ちょうど私が髪の毛を切ってもらっていた時の満月。息子が撮影)

                          







2004年2月28日

麻原彰晃の地裁判決が出た。それでも麻原の無実を信じて祈る信者は今だ数百人いる。世間もマスコミも彼らに対して「どうして
まだ目が覚めないんだ?」と不思議がるが、私にいわせれば不思議でもなんでもない。こちら側の世界から観れば理屈に合わない
バカな行動に見えるかもしれないが、彼ら側からみると私たちの日常や行動こそが理屈に合わないバカなものに見えるのだ。どちらに
も絶対に壊れない超合金でできた『バカの壁』がそびえていてお互いが歩み寄ることは絶対にないのだ。数の原理で圧倒的に私たち
の側が多いので、いかにも私たちが正しくて、彼らが間違っていると思っているだけであり、思い込みという点ではどちらにも『盲点』は
存在する。養老孟司さんがこの本を刊行する数十年前、岸田秀さんは「ものぐさ精神分析」と「続ものぐさ精神分析」の2冊にこの世の
中の根本原理を全ての分野に置いて見事に分かりやすく展開している。ただ、分かりやすさといういう面では養老さんの「バカの壁」は
さらに分かりやすいし、字も大きいので読み易い!私は今までにこのお二人に大きな影響を受け、今も物を考える時の指針としている。
また、養老さんと岸田さんはお互いの著書の中で「唯幻論」と「唯脳論」の接点についての対談をし、影響を与えあってもいるようだ。

ちなみに、岸田秀さんは1979年にこのような文章を書いている。

『良心』はわれわれの自我の安定がかかっている世界の『外側』にいる人たちに対するわれわれの
残忍な攻撃の歯止めにはならない。


このことはオウム真理教の人々側にもいえるし、私たち側にも言えることなのだ。
その昔、西武開拓時代の白人達はネイティブアメリカンの人々をまるでゲームを楽しむかのように殺していった。しかしそれと同時に、
まったく同じ人がこんどはご近所の白人に対してはとても人道的で平和的な紳士として振舞うのであった。彼らにとって自分の自我の
安定に大きくかかわってくるのは同じ白人仲間であって、その意識の外にいるネイティブアメリカンの人々に対しては人間扱いをしなか
ったわけだ。このようなことは、過去の事でも、極めて特殊な事でもなく、現在でも世界各地のいろんな場所で個人レベルから国家レベル
まで幅広く行われている。テロリストもブッシュ大統領も、フセイン元大統領も北朝鮮の拉致もちろんお互いのバカの壁がとてつもなく厚く、
お互いが自分達の自我がかかっている世界の外側に相手を置きあっているので、どんな残忍なことでも彼らの気持ち的には、平気な
のだ。もちろん世界世論があるので『平気でないふり』はするが…。
まったくいつも念仏のように言っているが、この人間の世は悲しみと憎しみに満ち満ちている。

ウブドここ一週間、毎日夕方遅くから朝方まで雷が鳴りまくっている。いつ近くに落ちても不思議ではない状況だ。特に私の家は渓谷の
てっぺんなので、心配だ。猫たちも雷がなり始めると本棚の上に集まり何時間も避難している。猫も雷が苦手らしい。
昨日も雨の中雨漏り修理のため屋根に登ったが怖かった。博打のようなものである。もちろんこの場合は当たったら困るのだが…。




        (亡くなったアグンライが植えた花が今年も咲いた。私はまた年をとったが、彼はあの日のままだ。)


                         









 2004年2月22日


 ここ1ヶ月くらい私のパソコンにインストールしているアンチウイルスソフトが時々ウイルスを見つけている。Eーメールに入っているのだが、
 なにか巷では、とても流行っているウイルス群らしい。3日に一度くらいの感覚で発見される。いままでの経験の中では最高に多い。もちろん
 すぐにアンチウイルスソフトが反応してくれるのでそのまま削除しまい、今のところ安心なのだが…。アンチウイルスソフトも2日おきくらいに自動
 更新していっているところをみると、世界中でウイルス対アンチウイルスの果てしなきイタチごっこが私達の知らないところで日夜繰り広げられて
 いるのだろう。どの分野にも「影」はあるということなのだ。

 人間の心の闇は果てしなくきりがない。光があれば必ず影ができるように、人間社会の「影」の存在は必然で、一人の人間の中にも必ず存在
 する。聖人君子も、極悪非道の人間もその点では同じなのだ。理念や教育、倫理の問題では断じてない。人間という動物は「自我」という不安
 定な人工物をかかえながら複雑な社会を構成しているので、それぞれ一人一人が社会に認知されない部分を抑圧しながら正常人を装っている。
 その抑圧が影を作る。その影が時々美しい芸術を作り上げることも稀にある。しかし、誰もがいつでも影を「昇華」できるわけはないのだ。ここが
 人間の悲しみだ。

 子猫のプリンはもう普通に大人と同じ餌を食べている。ここ数日部屋であろうがテラスであろうが暴れまくっている。いやはや、人間も猫も
 幼児のこの時期はもうやんちゃ極まりない。指定の場所でトイレをしないし、ミャ―ミャ―いいながら他の猫たちにぶつかって行くしたいへんだ。
 時々書いていることだが、猫には抑圧しなければならない「影」の部分がない。生物的生命を生ききっているからだ。「自我」などという危なっかし
 い人工物を作る必要がないのである。

 PS:息子は最近またこのHPの4コママンガを描きはじめている。チラッと見たところあと数日で完成しそうだ。3ヶ月ぶりかな?なんともはや、のん
 びりしている。まだ14歳だが、さすがにこのあたりの年は毎年どんどん顔や骨格が変わるので、ちょっと無理を言ったりおだてたりしてできるだけ
 絵のモデルになってもらっている。もちろん1回に30分くらいしかしたがらない。まあしかたがないだろう。



               (午前6時朝霧が濃かったので、息子はデジカメでいろいろ撮っていた。私も撮られた。)

                    









2004年2月14日


今日の午後いつものウブドのスーパーに行ったら、チョコレートがわんさと置いてあった。バリでもバレンタインの時はチョコレートを贈るのかぁ…、
と、あんぐりしていたら、女の子よりも男の子のほうがたくさん買って、きれいに包んでもらいリボンまでつけてもらっている。変だなあ、と
思って聞いてみると、インドネシアでは男の子が女の子にプレゼントするパターンの方が多いそうだ。知らんかったー!!  
このチョコレートを贈る習慣は日本の森永製菓が聖バレンタインデーにこじつけであみ出したのが最初らしい。いまや世界のどの国にも
それなりに広まっていると聞く。私も先生時代は生徒から「義理&義務チョコ」をよくもらったもんだ。

今年の雨季はほんと雨が少ない。この一週間は晴れる日がほとんどで雨はほんの少しだけ。とても過ごしやすい。しかしそのせいか、
先週から今週は断水が多く、2日に一度は水が半日出ない。バリでは断水はしょっちゅう起こることなのでどの家もいつもまる3日分の
水をタワーに貯水している。そして水道が復旧するとすぐにタワーに補充しなければならない。先週は雷と長い停電。今週は断水と、
ほんと一筋縄ではいかない。水が出るとうれしい。電気がつくとうれしい。これは日本では味わえない感覚だ。もちろんはっきり言って
しまえばインドネシアの行政や公共サービス面での遅れが悪いのだが、私は別に経済評論家でも、政治評論家でもないただの隠遁する
絵描きなのでこのくらいのサービスでちょうどよいのではないか。と勝手に思っている。行政や公共のサービス事業が充実していくと、なぜか
その社会の隙間、というか緩みが無くなっていく。これは私の経験からそう思う。この国はなんだかんだといっても私がこの島でこのよう
な生活をしながら勝手な絵を描くことを『見逃してくれている』。もし私が、逆に東南アジアの人で日本の田舎で隠遁しながら絵を描きたいと
住み始めたら、物価の事は別にしても、滞在ビザのことも含めていろんな義務や制限が蜘蛛の巣のように細かく私の周りに張り巡らされて、
半年くらいで本国に逃げ帰っていたことだろう。熱帯のおおらかさといい加減さがもう14年以上私を守ってくれている。

こんなにありがたいインドネシアなのに日本への郷愁は年を重ねると共に募るばかり。それでこの前奇跡的に超格安日本行きチケットが手に
入ったのでちょうどビザが切れる4月初めに数日間用事がてらに桜を見ようと思っている。6年ぶりに見る桜になりそうだ。そういえば男はつらいよ
第1作のオープニングで寅次郎がこう一人語りしている。

 「桜が咲いております。懐かしい葛飾の桜が今年も咲いております。思い起こせば20年前つまらねえことで
 おやじと大喧嘩、頭を血の出るほどぶん殴られてそのままプイっと家(うち)をおん出て、もう一生帰らねえ覚
 悟でおりましたものの、花の咲く頃になると決まって思い出すのは、故郷のこと、ガキの時分ハナタレ仲間を
 相手に暴れ回った水元公園や江戸川の土手や帝釈様の境内こことでございました。
 風の便りにふた親も秀才の兄貴も死んじまって、今、たった一人の妹だけが生きてることは知っておりました
 が、どうしても帰る気になれず、今日の今日までこうしてこうしてごぶさたに打ち過ぎてしまいました。
 今、江戸川の土手に立って生まれ故郷を眺めておりますと、何やらこの胸の奥がぽっぽと火照ってくるような
 気がいたします。そうです。私の生まれ故郷と申しますのは葛飾の柴又ででございます。」


わたしのいまのこころを代弁してくれているようなこころに染み入る名文だ。


子猫のプリンは明日辺りからいよいよ離乳に切りかえていこうと思う。もうそこらじゅう暴れまわっている。





                     







  2004年2月4日


 ここ3日ほどウブドは夜、雷の嵐だ。ものすごい音!近くに何個も落ちた。これはほんとに恐怖だ。もう2時間も3時間も鳴りまくり。この世
 の終わりか、と錯覚するような激しさ。おかげで停電は続くし、パソコンはほとんど使えないし、で大変だった。今日も朝7時から夕方まで
 8時間も停電してちょっと困った。2日前も夜に4時間の停電。さすがインドネシア、日本では1年に1度も起こらないような停電が1年に
 何十回と起こる。夜の停電は、一瞬完全に真っ暗になるのでほんと滅入ってしまう。それでも蝋燭をつけた後は心は落ち着いて、テラス
 でぼーっとする。すぐに寝てしまえばいいのだろうが、なんとなく起きていて薄暗い渓谷を見、川の音を聞いて長椅子に寝そべっている。
 停電になっても猫たちは不思議にぜんぜん困っていないようだ。相当暗くても目が見えるのだろう。簡単にいろいろ走り回っている。ただ、
 雷だけはかなり怖がって一目散に部屋の中に入ってちぢこまっていた。今夜もいつ停電になるかわからない。
 
 ところで今年からアップした「男はつらいよ覚え書ノート」の評判が意外なほど良い。まだ初めて1ヵ月くらいなのに多くの反響をいただ
 いている。この寅さんページはほんとに100パーセント楽しみだけでやっているので、そのこころが滲み出て親しみやすいのだろう。こうい
 う作品ごとに詳しくマニアックに書かれたサイトが他にないことも多くの人が見てくれる要因だろう。興味のない方には本当につまらない
 ぺージだと思う。ただ、この「男はつらいよ」という映画は映画関系の人たちにはほとんど評価されていない。あからさまにバカにする人
 までいる。シリーズが48作品も続いたのでテレビの水戸黄門のようなものだと思われている。そしてそう思っているほとんどの人はこの映
 画を1作も完全に腰をすえて観ていない場合が多い。つまり、先入観がものすごいのだ。「寅さん」の名前でみんな知っているが、ほとんど
 の人は実はまともにこの映画を観ていない。映画好きの人も結構食べず嫌いで観ていない。寅さんは私に言わせればスルメのように噛めば
 噛むほど味がどんどん出てきて、奥がとても深いものだと思っている。私のこの寅さんページを見た後、レンタルビデオ屋さんで1つでも2つ
 でも寅さんを借りて観てみようと思う方がいるとすればこんなうれしい事はない。それでもまあ、究極的にはこんなページは自分のためだけに
 やっているのでほんとは、ほんの一部の「寅マニア」が立ち寄ってくれればそれで大満足だ。


                             (親兄弟みんなで育てている。幸せだなプリンちゃん。)

                      






  2004年1月25日
 
  
  昨日はクニンガンだったのでご先祖さんは天界に戻っていかれた。前日にまたもやラワ―ルをたらふく食べ、この世の
  極楽を味わった。
  今年の雨季は比較的雨が少なく、過ごしやすい日々が続いている。でも観光客はそんなに増えていっていない。おまけに
  2月から一般旅行者に対して滞在税の支払いの義務化がはじまる。25ドルを支払ってしかも1ヶ月までしか滞在できないのだ。
  (今までは無税で2ヶ月滞在できた) もっとも、私達のような 長期ビザを取れば今まで通り6ヶ月滞在が可能だが、観光の
  人たちはそんな面倒な手続きを取ってまでバリを選ぼうとはしないだろう。プーケット、グアム、ハワイ、などなどライバルの
  リゾート地に逃げてしまうに違いない。政府は外貨獲得を狙っているのだろうが、これはあきらかに逆効果になりそうだ。
  まあ、しかし何事もやってみて初めて分かることが多いので、やらせるしか方法がない。

  今年はバリの新年にあたるニュピの前日のオゴオゴ練り歩きも選挙の影響で中止!おまけにここ数日鶏の大量死の情報、
  ああまたまた旅行者が減っていく…(TT)
  昨年の10月から3ヶ月以上たったが自分のギャラリーやその他の委託も含めて私と宮嶋の絵はたった2枚しか売れていない。
  宮嶋の画集の売れ行きはまあまあだが、なかなか厳しい状況が続いている。(実はそんなに焦ってはいない)

  子猫のプリンは一人っ子(今回は)のせいか随分成長が早い。あっという間に耳が立ち、目が開いた。足腰もえらく強い。
  母猫のマリも余裕で育てている。

  猫の世界はシンプルだ。食べる、寝る、ぶらぶらする、じゃれる、餌を捕る、寝る、いいなあ…、状況がいいのではなく、その生物学的
  生命を生き切ることだけで完結しているその小宇宙的世界にあこがれる今日この頃だ。
  


                      (ガラは父親のガラと同じ黒トラ。もうちょっとで離乳が始まる)

                    








   2004年1月18日

   ちょうどガルンガンの深夜にメス猫のマリが2回目のお産をした。前回は四匹生まれたが、今回は1匹だけ。
   3匹くらいを覚悟していたので、少しほっとした。なんといっても餌代がかかるので大変なのだ。それにしても1匹と
   言うのは猫にしては珍しい。
   今回はへその緒も自分で噛み切って完全に私達の助け無しで自力出産ができたようだ。やはり2回目なせいか、
   どことなく余裕を感じた。子猫は黒トラのしっぽ長で、とても大きく育っていた。黒トラは今までの経験上とても
   体が強いので安心だ。オス猫のプーとメス猫のマリの子供なので両方の字を1字ずつもらって「プリン」と名づけた。
   たぶんオスだと思うが、オスにしてはちょっと可愛すぎる名前だ。まあいいだろう。適当適当。

   朝方まで生まれた赤ちゃんのことで遊んでいた息子は、疲れたのか翌日の夕方になって長椅子で午睡をしていた。
   これはチャンス!!と思い、道具をだして4号のキャンバスを立てかけ、早描きで寝顔を描いていった。途中で一度
   ポーズが変わってしまったのでごちゃごちゃして濁ってしまったが、そのときの雰囲気はでたかな、と、思う。
   
   宮嶋もここ半月くらいはよくアトリエにこもって制作している。時々できた絵を見せてもらうが、なかなかひろがりのある
   絵が多い。調子がいいのだろう。私は結構コンスタントに制作する方だが、彼女は気持ちが乗れば何日もぶっ続けで
   制作し続けるし、乗らなければ、1週間くらい何も描かない日が続くこともざらだ。ほんと人それぞれだなって感じている。
   ちなみに息子はごく気がむいた時にちょこちょこっと描く気質だ。彼が最も気まぐれ。描き出すと一気に描いてしまうのだが。



                           ( 休日の午後 2004年 F4号 油彩)

                           





                           (1匹だったせいか大きい赤ちゃんだった。)

                    









   2004年1月11日

   最近深夜のパソコンタイムを「男はつらいよ」のアップ、更新にかまけてしまい、バリ日記の更新が遅れてしまった。

   昨日「続.男はつらいよ」を書いている時「老病死別」という人間の四つの苦しみが出てきたが、仏教でいう「四苦」
   とは本来「生老病死」という。生まれることも苦しみのひとつというのがインドで修行した釈迦らしくて含蓄がある。
   赤ん坊は泣きながら生まれてくることからもそのことがわかる。

   「四苦」のなかでもとりわけ「死」の苦しみが人間の悩みの根源だろう。しかし実際はどの人も「死」は未体験で、
   誰も「死」のことは実は分からないのだ。だから厳密にいえば「身近に迫った死の恐怖」の苦しみのことといえる。

   「死を恐れる」なんてことは「自己」という作り物をかかえこんで生きなくてはならない人間だけが感じる心で、生物学的
   生命を生きる他の動物達には痛感はあっても「死の恐怖」なんてものは存在しない。
   もちろん厳密にいえば自己の消滅が怖いのであって、決して肉体の消滅ではない。その証拠に脳がそのままで体だけ
   入れ替えても結構人は我慢できるが、体を残して脳を別人にされるのは「死」を意味するのだ。

   本来この「自己」というものは実に不安定で、かつ、自分ひとりの考えでその芽を育てることはできない。必ず他者からの
   自分への評価、発言、などを通してのみ「自己」が確立される。逆のことを言えば他人がちょっとでも侮辱したり、批判したり
   すると、とたんに私たちの「自己」は揺らいでもっと不安定になる。しかし私たちにとってこの弱々しい「自己」が人生の全てなので
   常にとてもナイーブになって生活しているのである。ましてや「自己」が完全に跡形もなく消滅してしまう「死の恐怖」は
   絶えがたい恐怖で、全ての人間の企て、営為は、すべて根源にこの不安定な「自己」の死の恐怖からの逃亡が見え隠れ
   している。死の恐怖からの逃亡はいくら逃げてもこれでいいということはない、どこまでいってもやはり怖いので際限がない
   のである。ブッシュ大統領を見るまでもなく、人間の支配欲や権力欲に限りがないのも、ヒトラーやポルポトのようにその
   殺戮がとどまるところがないのも、すべて背後にこの「死の恐怖」がある。

   限りなく続くこの悪循環を断ち切るためには「死」を見据え、その恐怖に耐えて生きていくしかない。それは日々苦しいと言えば
   苦しいだろうが、飽くなき欲望に振り回される苦しさからは逃れられるのである。
   昔の人はそれを「足るを知る」と言ったのだろう。



              (寅次郎はやんちゃで人迷惑な男だが、御前様がおっしゃるように「無欲な男」である。)

            








    2004年1月2日

    みなさん、あけましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

    

    年末の紅白歌合戦は白組の圧勝に終わったが、当然といえば当然で、あれで赤組のほうに入れる人の気が知れないほど
    白組は充実していた。森山直太朗の「さくら」、森進一の「狼たちの遠吠え」、平井堅の「見上げてごらん夜の星を」、
    長渕剛の「しあわせになろうよ」、SMAPの「世界に一つだけの花」と、なかなかの充実ぶりだった。
    
     出会った頃のふたりにもう一度戻ってみよう
    そしてふたり手を繋ぎ、しあわせになろうよ。

    初めて出会った場所に もう一度戻ってみよう
    そして青い空に抱かれ しあわせになろうよ
    


    これは「しあわせになろうよ」の歌詞であるが、毎年毎年元旦になると、一番最初に絵を描きたいと思った10代の頃を
    思い出そうとし、その心に戻って「再生」をはかる。その最初のこころを焼き付けるのだが、この「初心」を一生保つことが出来れば
    どんなにか嬉しいだろう。40歳を過ぎると、捨てても捨ててもしがらみが雨の日の黴のようにどんどん自分の生活にくっ付いてくる。
    贅肉をもっと取り除かなければ…、と思う。もっとシンプルでありたい。車寅次郎の人生のように画材が入ったトランクひとつだけ
    もってイーゼルとキャンバスを担いで人生を旅とともに過ごしたい。
    
    「初心」を取り戻すことはすなわち「末期の眼」を持つことに他ならない。この眼を毎日保つことは至難の業だ。オーヴェールでのゴッホは
    死ぬまでの100日間この眼を持ち続けた。つまり、言い換えれば、日々生まれ変わっていたのだろう。

    日々を生きることは日々を死ぬことなのかもしれない。
    




                  (2004年元旦の早朝、このあと太陽がドーンと出たが、私は寝てしまった。)

                     


     追伸:1月2日の早朝(5時)にウブドで震度2か3くらいの地震がありました。
      ロンボク海峡が震源地。マグニチュードは6、1






    2003年12月25日


    世界に一つだけの花

    さすがにクリスマスともなると旅行者は激増している。それと同時にバリヒンドゥーの大きなウパチャラと重なったものだから
    ウブド中大忙しだ。ギャラリーの絵が少し動いてくれるといいのだが。
    ところでNHKの紅白歌合戦の白組の大トリがSMAPの「世界に一つだけの花」に決まった。これは大改革だ。
    この歌はブッシュ大統領に前々から聴かせたいと思っていたので、これをきっかけになんとか世界中に広まって欲しいと思う。
    メロデイは極めて単純、歌詞もとても平易。音楽性もそんなに高くはない。歌っている人たちも特別歌唱力があるわけでもない。
    どちらかというと下手なほうである。ある意味どこにでもありそうな歌だ。しかし歌詞の内容に強烈な今日性があり、今世界が最
    も必要としている歌のような気がしている。特に後半の歌詞が普遍性を持っている。

    名前も知らなかったけれど
    あの日僕に笑顔をくれた
    誰も気づかないような場所で
    咲いてた花のように

    そうさ 僕らも
    世界に一つだけの花
    一人一人違う種を持つ
    その花を咲かせることだけに
    一生懸命になればいい

    小さい花や大きな花
    一つとして同じものはないから
    NO.1にならなくてもいい
    もともと特別なOnly one



   アイドル歌手のナンバーワンを極めたSMAPがこれを歌うのは皮肉と言えば皮肉だが、これくらいのスターが歌わないと
   世界に発信できないとも思う。ジョン.レノンの「イマジン」のような高い音楽性と品格はないが、世界中の街角で流れて欲しい
   歌だと思う。
   ブッシュ大統領、そして小泉首相、そしてサダムフセインにも是非聴いて欲しい。アイドル歌手のよくあるみせかけ若者向け応
   援歌だとバカにしてはいけない。深刻ぶっている知識人たちの演説や書物より浸透性は高い。
   この歌は「瓢箪から駒」かもしれない。

              
   

               (クリスマスの日。モンキーフォーレスト通りも家族づれで賑わっていた。)

                 








    2003年12月17日

   
    久しぶりに雨の合間に夕暮れのアグン山がくっきり見えたが、買い物途中だったためデジカメに撮れなかった。ウブドは
    少しだけ旅行者が増えたかもしれない。しかし、私のギャラリーの絵は小さいものが1つ出ただけで、焼け石に水状態。
    困った…。まあここは気持ちのふんばりどころだと思い、制作している。前から言っているが絵は売れないほうが自分の心
    が分かっていいのだ。絵が売れないから絵を描いているどころではなくなり絵をやめる人もいるだろう。それはそれでいいと思う。
    絵が売れなくて生活が苦しくなってもなお、その中でもがきながらも絵を描き続けたいのなら、その人は本当にごはんを食べる
    ように絵を描きたいのだろう。もちろんだからと言って偉大でもなんでもなく、ただそれだけのことなのだ。
    まあ実際のところは、春の八重山行きをあきらめたのでその分まだまだ生き延びれると楽天的に思っている。
    日本の画壇にも属さず、大きな個展を東京で開くでもなく、絵もさほど売れず、売れても安く、それでも懲りずに絵を描き続け
    られるとしたら、いつかはちょっとは今までよりもましな絵ができるかもしれないなあ、などと思いしぶとく筆を握っている。

    サダム.フセインが遂に捕らえられた。悪のブッシュが悪のフセインを捕らえただけなので私としては何の感慨もないし、何に
    も嬉しくない。ただ、フセインがしてきた少数民族クルド人の大虐殺をはじめ数々の悪行をイラク人民が裁く日が来ると思うと少
    しは気が晴れる。その際、ブッシュのコントロールが暗躍するのは目に見えているが、その裁判が、ブッシュが行ったこの戦争
    による虐殺行為の正当化の材料にだけはならないで欲しいと願うばかりだ。そしてブッシュもフセインのように裁かれる日がいつ
    か来ると私は信じている。どんな戦争も正義と言う言葉は存在しないが、このたびのイラク戦争はあまりにも、子供でも分かるくら
    い傲慢な戦争だった。こんな戦争が許されてよい訳がない。

    かつてジョンレノンは「War is over, if you want it. 戦争が終わる日は来る.もしあなたがそれを望みさえすれば」と歌ったが
    ブッシュにはまだこのジョンの声はとどかない。



             (雨が降った次の朝は渓谷いちめんに「朝もや」がかかり、幻想的だ。 アトリエのテラスより)

                   










    2003年12月9日

    毎夕、日増しに雨の降る時間が長くなってきた。もう完全に雨季の真っ盛りだ。この状態が3月初め頃まで続くのだ。
    せっかく植物がきれいなのになかなか夕方の美しい光で風景をかけない。昨日も雨だったので息子に頼んで1時間
    早描きで肖像を描く。朝少し太陽がさすのがまだ救い。
    ウブドの旅行者はまだそんなに増えていない。どの店も暇そうだ。私のギャラリーもここ2ヶ月ほとんど絵が動いていない。
    委託であちこち置かせてもらっている絵も動いていない。宮嶋の画集だけがまあまあ売れてはいるが、これでは来年の
    春先の八重山再訪は諦めるしかなさそうだ。うーん残念!

    遂に小泉政権は2人の外交官のテロ死に対しても微動だに動揺することなく、すぐさま自衛隊イラク派兵を断行することと
    なった。どうしてああまでに小泉さんはアメリカを恐れるのだろう。ほんのちょっとまえまでカンボジア派兵反対と訴えていた
    ひとが、どうしてこうなってしまうのだろう。川口さんは何も感じずただ人形のように小泉さんに追従しているだけ。「川口賞」
    は笑えるが、やっぱり寒々しい。自衛隊派兵を断ればほんとうに国際社会は日本を恨むのだろうか。イラク国民への物資援
    助を自衛隊派兵予算よりもずっと多めに行えば、少なくともイラクの人々は日本に感謝し始めるだろう。アメリカは自国以外の
    国々がテロに巻き込まれるようになってから意外にも精神が安定しているように思える。
    何度も言うがアメリカに追従するしかないにしても、どうして小泉さんはもっと、考える、迷う、恐れるという行為をしないのだろ
    う。どうして、まるで機械のように、催眠術にかかったように「テロに屈しないで派兵する」って言い続けているのだろう。
    テロリストは完全に狂った悪魔ではあるがブッシュもまた仮面をかぶった悪魔であることには違いないのだから、日本は
    やはり独自の道でイラクを支援するべきなのだ。たとえそれが日米間をギクシャクしたものにするにしてもだ。日本国民は
    みんなでそのギクシャクのあげくのハンデを受け止める覚悟をすればいいのだ。
    だいたい自衛隊は正当防衛しか出来ないので、いろいろな局面で「見てみぬふり」をするはめになるかもしれない。これも
    また違った意味で不気味で冷血なことだ。そして、もし純粋な復興支援、人道支援だとしたら、なぜ具体的な復興の数値目標
    を基本計画に盛り込むこともなく莫大な派兵費を使って現地に赴くのだろう。。それらの矛盾が如実にこの派兵の弱点を物語っ
    ているのではないだろうか。
    



    
    

                            (少年の日U 油彩  F4号  2003年)

                             






                              (早朝の渓谷 油彩  F4号  2003年)

                    









    2003年11月26日

    いよいよ雨季に突入した。ここのところ毎日夕方から雨だ。まだ激しい雨にはなってないがだんだん頻度が増してきた。
    案の定、家の電話回線の調子が悪くなってきた。家の電話回線は3年前自分でケーブルを買って自分で引いたので、
    何箇所か繋ぎ目が出来てしまって雨が続くとそこから水が少しづつ入りすぐにかかりにくくなる。もちろんこうなるとインターネット
    を使うことも、ホームページを更新することも出来なくなってくる。それで1ヶ月に1,2回ほど繋ぎ目を切断して新しく結び直す
    作業をしなければいけない。あーまたこの作業が始まったかア。と嘆いている。とほほ。
    それでも朝のうちはまだきれいに晴れるので今は早朝の風景を描いている。雨の風景も植物が輝いて大好きなのだが、道具も
    キャンバスもびしょびしょになるので体力がものをいう。相当やる気の時でないと雨の中で描き続けることはできない。
    電話線だけでなく機械類も雨季は調子が悪くなる。私の車も今ベンケルで修理中。仕方ないからべモ(乗合ミニバス)でウブド
    中心街まで出かけた。べモに乗るのは2年ぶりだ。たまにはこれに乗らないとバリにいる気がしない。
    なんとなくほっとする。バリの庶民の本当の顔が見えて興味は尽きない。旅行される方々も、滞在中1回はべモに乗ることを
    お薦めする。バリの本当を観たければ「村のワルン」「早朝の市場」「乗合べモ」を体験すること。



     (ベモの車内はぼろいが乗客は皆優しい目をしている。)           (11月26日早朝6時 アトリエより渓谷の丘を望む。)

           








    2003年11月20日

    1週間ほど前からようやく油絵を描きはじめた。夕方の光を狙って風景を描こうとしていたのだが、ここんところ毎日夕方に雨が降る。
    しょうがないのでアトリエのテラスで息子に少しの間モデルになってもらった。最近はやることが多いらしくなかなか長くモデルをやって
    くれないがまあなだめすかして一時間ほど椅子に座ってもらった。
    ウブドのアトリエで絵を描くときの利点は道具や絵の具を散らかしながら描けることだ。天上もバカ高い。広い場所で絵を描くと不思議
    に絵から不自由さが取れるから面白い。もちろんだからといって気に入った絵がどんどん出来るわけはもちろんない。
    
    息子はようやく長い沈黙を破り、最近4コマ漫画に手をつけ始めた。もう完全にバリ人ペースでやっている。やれやれ…。
    前から書いているように4コマ漫画は専門の方も含め、多くの方々に支持されているこのHPの一番の人気ものなのなのだ。そうはいって
    も息子がやる気になるまで私からは何も言わないようにしている。
    みなさんあと1週間ほどお待ち下さい。彼はやり始めるまでは遅いですが、いったん始めると1週間で作りますから。お楽しみに。
    




                             ( 少年の日 油彩  4号F 2003年 )

                        









    2003年11月15日


    バリに戻ってから土着的なものばかり食べている。ちょっと間があいたので飢えていたのかもしれない。ここは熱帯だからなかなか
    あくの強い食べ物が多い。ドゥリアンもそうだし、ラワールなんかもそうだ。きょうは「ルジャン」をたらふく食べた。まだ熟していない若い
    酸味のある硬いマンゴを薄く切ってサンバル(辛い唐辛子のソース)をしっかりかけて、ひーひー言って食べる。まあ、慣れない
    うちは辛すぎて手におえないが、何回か食べると不思議にあの酸味と辛さとコリコリした歯ごたえ感がたまらなくなって唾が出てくる。
    私は二人前をいっぺんに食べる。口の中は火が燃えたように熱く汗がだらだら出てきて目はうるうるになる。食べたあとはもうこんなもの
    ヒンドゥーの神に誓って二度と食べないでおこう。って思うのだがまた数日すると食べたくなる。
    先月滞在した沖縄の八重山にもゴーヤというなかなかあくのある野菜があったが、実はバリにもゴーヤはある。バリのゴーヤに比べたら
    八重山のゴーヤは普通の甘瓜に思えるほどバリのものは恐ろしく苦い。強烈だ。しかし私達家族はこのバリのゴーヤが大好きでよく
    ゴーヤチャンプルなどをして食べる。それも思いっきりたっぷり入れて苦味を楽しむ。これも慣れれば病み付きになる。
    この土地の人たちも同じだ。あくが強くて手におえないことも多いが、人間くさくて憎めない。もう二度と会いたくないと思っても、しばらく
    たつと妙に懐かしくなる。そしてたくさんのビタミンがそこに入っている。





                         これだけの量を食べると、さすがにちょっと水を飲みたくなる。

                        









    2003年11月9日


   昨日(11月8日)は久しぶりに夕方から豪雨になった。それもただの雨じゃない。ものすごい風で、うちの母屋の屋根に取り
   付けてあった雨漏りよけシートが重石ごと吹っ飛んでしまった。植物にとっては何日かぶりの恵みの雨かもしれないが私に
   とってはやんちゃな雨だった。
   瞬間風速は30キロを越えていたと思う。雷も鳴りまくり状態で、地球の終りにに遭遇したかのごとき騒ぎだった。暗くならない
   うちに雨の中、泣く泣く屋根に梯子をかけ屋根に上り、雨漏りよけシートを掛け直した。こういう時の常としてすぐに村中停電状態。
   この島は雷が鳴りまくるとすぐ停電になってしまうのだ。それも昨日は長かった。外が真っ暗になっても一向に復旧する気配がなく
   結局3時間も待たされた。まあここウブドでは5時間6時間はよくあることだ。おかげで久しぶりに蝋燭の夜を味わった。夜になって
   丸く明るい月が出てきた。そういえば明日は満月だなと思い、蛍が飛ぶ真っ暗闇の月見を楽しんだ。バリはこれが出来るから凄い。
   人が一生で一度か二度くらいしか味わえない神秘的な時間をこの渓谷の上でちょくちょく味わっている。ウブドの夜の気は濃い。
   しかし私はかつてこれよりももっと濃い気を数日間味わったことがある。今から7年程前ヒマラヤの雪のアンナプルナベースキャンプで
   見た深夜の満月だ。あの時は地球が惑星であることを生まれて初めて肌で感じた衝撃的な日だった。

   そういえば竹富島の夜もなんとも言えない気が村中に漂い毎日のように夜の散歩に出かけたものだ。日本にもまだ美しい土地はある。
   


                           (停電の夜はいろんなドラマがある。)

                  







   2003年11月1日

   10月29日にバリに戻ってきた。さすがにもう飽き飽きしているはずなのに、ウブドの風景をみたらすごく嬉しくなってしまうのは
   なぜだろう。その夜は爆睡してしまった。やっぱり住み慣れたこの土地も捨てがたいものがあるのだろう。住めば都なのだろう。
   ウブドは残念ながら今旅行者は少なく、クリスマスまで増えそうにない。
   八重山で1ヵ月ほど滞在したせいか、ウブドで買う野菜はほんと安い。トマトや人参などほぼ10分の1ほどの値段。果物も相当安い。
   ここ数日はキャロットバナナジュースを一日に何度も作ってみんなでがぶ飲みした。トマトを贅沢に使って料理をしたり、ここ2ヶ月の
   野菜不足を補っている最中だ。ここ数日はキャンバスを張らずにちょっと休息しよう。




                            ( 茅葺の家.竹富島 油彩 F4号 2003 )

                  








   2003年10月18日  期間限定  「八重山日記」 そのE

  
 竹富島で頻繁に出くわしたものはまず水牛、と猫、蛍、そして屋根の上にあるシーサーと呼ばれる魔よけ焼き物だ。
    水牛と猫はどこにいってもいるので宮嶋とって格好のモチーフになっていた。
    八重山の猫は白黒ぶちがダントツ多く、どこへ行っても白黒ばかりだ。野良猫も多いがほとんど逃げない。
    人間と野良猫がなぜか共存している。野良猫なのに家猫のような猫が多い。宮嶋はこのような猫をイリオモテヤマネコ
    をもじって、タケトミイエネコと命名していた。猫が逃げない、こんな土地ははじめてだ。私は家並みと道との関係が気に
    入って家並みばかりを描いていた。今滞在している石垣の川平(カビラ)は石垣牛がたくさんいる。どこへいっても
    さとうきび畑と牛小屋だ。どこまでも続くさとうきび畑は荒涼としていて気持ちがなごむ。昔から荒涼とした寂しい土地が
    なぜか好きだ。人とは逆らしい。
    来年の早春あたりになんとかまた訪れるつもりだ。それまでになんとかバリで何枚か絵が売ることができればの話だが。
    7月初めの「うりずん」(初夏)の頃にもいつか来てみたい。さらば 美ら島。

    22日からバンコクへ行き、28日にバリに帰ります。次の更新はまたバリで30日あたりに行います。




                          (南風の道 油彩 F4号 2003年 )

             




       (この竹富家猫は私もとても気に入ってずっと取材した。みゃ−みゃ−言いながら近づいて来てはたたずんでいた。)

      



 (どのネコもカメラを向けてもきょとんとしているだけで逃げない。)  (早朝7時半水牛の「マー坊」のご出勤、このあと水牛車を引く。ご苦労様。)

       




  (石垣はもうそこら中サトウキビ畑。歩いても歩いてもサトウキビ畑。なぜか心が休まり落ちつく)(竹富の屋根はもうシーサーだらけ。)

      






    2003年10月9日  期間限定  「八重山日記」 そのD


    5日間の竹富島での制作を昨日終え、ひーひー言いながら石垣に戻ってきた。5日間で10枚の油絵を描いた。
    まったく朝から夕方まで絵漬けの毎日だった。村の家並みがやはり一番のモチーフ。すべて早描きの絵になった
    が、村中いたるところに静かで穏やかな空気が流れ全ての道や家並みが絵になる風景だった。
    やはり夕方から夜がいい。とにかく静かだ。そしてものすごい蛍の数。ちょうど繁殖の時期にあたったのかも
    しれない。
    先日も書いたがほんとに小さく平坦な島なので自転車で30分も走ればどこでも行ける。自分のイメージのなかに
    この島のすべてが簡単に入っていった。両手を広げるとちょうどこの島が手の内側に入るという感覚だ。
    こういう場合、静けさが好きな人はまるで第2の故郷のように思うだろうし、刺激的な都会の暮らしが好きな人は、
    一時期この島でこころを休めることはあっても、5日もすればやることがすべてなくなって、この島からの脱出をはかる
    だろう。とにかく刺激的な遊び場も、リーゾートホテルも何もない。ただただ昔からの家並みと、汚されていないバカに
    静かな浜辺があるだけなのだから。暇で気が狂いそうになる人もいそうだ。だいたいの観光客は数時間だけ水牛車
    や自転車で観光して石垣に帰っていく。それほどにも小さな人口300人の島だ。

    私は人生の残りの時間をこの芥子粒のような島からずっと出ないで生涯ここで暮らせ、と言われてもほとんど迷う
    ことなく喜んでそうするだろう。

    それにしてもどうして竹富の人も石垣の人もこんなに他人にこころの窓を開けてしまうのだろう。今までに日本のい
    たるところを旅行したり、仕事で回ったが、この八重山の町や村の人々はほとんど例外なく豊饒な愛情を実に簡単に
    私のこころまで流してくれる。バリ人も恐ろしいくらいの人懐っこさがあるが、熱帯東南アジア特有の強烈で露骨な
    弱肉強食の怖さも同時に持っている。しかし、この八重山のひとたちにはそのようなアクや邪気はあまり見受けられない。
    もちろん村に入れば因習や嫉妬、しがらみがあるのは分かるが、バリ人に比べればそんなもの可愛いものである。
    とにかく人への眼差しの温度が本土とちょっと違う。私が桃源郷作りにそう思いたいのでなく、事実がそうなのである。
    バリで13年間ドロドロになりながらバリ人に鍛えられた私の眼はそんなに節穴ではない。
    東南アジアの人懐っこさと、日本人の中庸さ、繊細さがうまくチャンプルされた地域、と言えばいいのかもしれない。
    
    
    そういえばネパールのカトマンドゥの人々も心が凛として邪気がなかったことを今思い出した。
   



                            (竹富島の午後 油彩 F4号 2003年)

                  

              









    2003年10月3日  期間限定  「八重山日記」 そのC

    ここ1週間ほど石垣と竹富の海をスケッチしていた。息子がシュノーケリングにはまっているので、それに付き合うかたちで
    島のいろいろな海をめぐった。バスの5日間島中乗り放題券(激安!)があるのでそれを利用してどこでも行った。やはり
    八重山の海は色がいい。そしてその割には海で遊ぶ人が少ない。ピークの時期は過ぎているし、沖縄本島と違い、辺境の
    地なのでどの海岸もとても静かだ。もともと私は海よりも、村の中のほうが好きなのだが、たまには海岸の木陰でぼーっと
    するのもいい。石垣も海岸の林などを丁寧に散策すると「御嶽(うたき)」が見つかる。御嶽が見つかると、とても嬉しい気持
    ちになる。それで海よりも林を見ている時間のほうが長くなっていく。
    もともと古神道の流れをくんでいると思われるので本州にも御嶽に似たものがあるがこのようなささやかな美しい姿では存在
    していない。もっとも八重山の御嶽も大きいものになってくるとセメントで祠を作ったり、大きな鳥居を作ったりしてちょっと仰々
    しくなり眼が横についた感じになる。絵ごころがちょっとしぼむ。ガイドブックに載っているような有名な御嶽は「気」がいまいち。
    やはり御嶽は森や林の中のちょっとした空間にただお祈りの道具が置いてあるのがいい。まあそれはともかく、海岸はさすが
    に暑く、息子は変に元気でいつまでもシュノーケリングに興じるのでこちらはちょっとバテ気味になる。

    明日から竹富島に5日ほど滞在するので、バリ日記の更新は6日後です。パソコンが壊れそうで壊れないでまだなんとか生きている。
    でもそろそろ壊れる。


     (石垣島.白保浜)                            (竹富島.カイジ浜)

          



                                                (竹富島.コンドイ浜)
    (↓石垣島.カビラ浜)
              


     

  
(竹富島の御嶽に咲く花を描いた木版。 「海辺の花」 2003年  [Miyajima.N] )    (  「夕暮れの海」 2003年 木版  [Miyajima.N] )

          



    




    2003年10月1日  「新潟 絵屋」訪問記


    宮嶋紀子の企画展に行ったのは9月中旬のよく晴れた日だった。新潟駅からさほど遠くないにもかかわらず意外に見つからない。
    なかなかたどり着けないのもいかにも宮嶋の個展会場らしくて面白いぞ、と道に迷ったことを楽しんでだらだら絵屋探しを味わった。
    ようやくたどり着いたあともひっそりとたたずむ古い民家がそこにあるだけで、新潟 絵屋と書かれた板と手染めの布、そして
    宮嶋紀子展という貼り紙がなければ誰もそこが画廊だとは気づかないにちがいない。これまた宮嶋の個展会場にとてもふさ
    わしいではないか。と、思った。
    入り口にかぶせる雨戸に開廊時間や休廊日がやさしい字で書かれてあったが、この有り方が美しい。外の入り口の天井に
    貼りついている電灯も和紙で美しくお化粧されていた。魂は細部に宿るというがまことこのことか、と納得。
    
    入り口の引き戸は丸いガラスがはめ込まれ直線の中の曲線がなんともいえない味わいを作り出している。
    中に入ると一応区切られた土壁で覆われた一坪ほどの空間がまず有り、左に芳名禄、右に美術評論家である大倉宏さんの文章の
    ボードと宮嶋の略歴のボードがあり、その隣にはすぐ絵が掛かっている。額の中の絵はマットで被されておらず、和紙の「みみ」まで
    全部見えるので絵の味わいが失われず、絵がきちんと呼吸をしていた。
    うしろの土壁は細い格子の木を取り外したあとをわざと残しその上から額をかけてあり、その危うさが宮嶋の絵と調和していて
    気持ちが良い。
    そして土壁の楕円半アーチの空間をくぐるとメインの展示室になる。こちらの床は最初の小さな部屋よりほんの数センチだけ高くなって
    いるためか境目の床に小さく「靴のままどうぞ」と小さな紙に掛かれた文字が貼ってある。これも気に入った。

    メインの展示室に入ると、なんと半分以上の絵に額が入っていない。絵を約5センチほど壁から離し、柔らかい素材で裏から優しく
    留めてあった。はだかで絵を飾るということは一歩間違えば小学校の児童画展のようになりがちだが、絵の雰囲気を壊したくない気持ちと、
    優れた展示のセンスが合致してようやく一歩踏み込んだ緊張感のある空間ができる。絵と和紙で覆われた壁の間にグレーのアート紙を
    入れ、かつ絵と壁の距離を微妙に見きることによって壁に負けることなく「もの」としての絵が力を持って存在していた。絵そのものも元々
    バリのバナナ紙等でしっかり裏打ちされているので「もの」としてはそう弱くない。また額なしの生々しさを中和するために絵のタイトルは
    小さな白のボードにパソコンフォント文字で打ってある。このことにより「ベタ」な感じが消え、展示に品格が出ていた。また短い辺の土壁に
    ある絵はすべて額に入っており四角い部屋を利用して緩急のバランスがとれていた。小さな6枚の木版画は部屋の真中の机の上
    に置かれ額に入れず、作品の上にガラスを浮かせて展示され、部屋の真中にもポイントを置き、絵の展覧会に有りがちな単調さを防いで
    いた。隅々まで神経が行き届いた凝った展示であるにもかからず、決してこれ見よがしでなく、静かな趣が部屋を支配しており、
    展示をされた大倉宏さん、越野泉さんの宮嶋の絵に対する思いが風となってすっと通りぬけていった。
    
    また道沿いのほうの壁の下方に細長い格子窓があり、時々ひとがその前を通る姿や植物のツルや葉っぱが見えておもしろかった。

    
    絵屋のURL:http://www.hanga-cobo.jp/eya/
    宮嶋紀子 作品:Miyajima Noriko  top


                          (遠くから見ると古い町屋がひっそりそこにあった)
    
                    




  (それぞれのありかたのバランスが気に入った)        (入り口の引き戸の丸いガラス窓もこの空間の中で見え方がとても美しい)    

   




    (入り口の小さな空間。ここの気は美しかった。)           (開廊中は端に置いてあるこの板と文字のたたずまいがいい)

     




                   (質素で穏やかな味わいの中にも動かしがたいはりつめた空気が漂う)

      



 (置かれているテーブルと椅子も部屋によくマッチしている。)             (下の格子窓から外の風景が見れる。)

       






    2003年9月30日

   期間限定  「八重山日記」 そのB

    竹富島は先島の中でも人口が300人あまりの小島だが、石垣から10分で来れるせいで昼間は日帰りで島巡りをする人
    たちで賑わう。ほとんどの旅行者は夕方の船で石垣に帰っていく。そのあとはおそろしいほどの静寂が訪れる。翌朝の
    9時ごろまでこの静寂は続く。特に夜の村を一人歩いていると、自分が昭和初期にタイムスリップしたようだ。この村の
    夜も近々描いてみたい。また夜明けのころもまた格別で、もやの中に見え隠れする整然とした琉球瓦の家々や美しく掃き
    清められた白砂の庭、まっすぐに続くフクギの並木道は、昔から人々が高い誇りをもってこの島に息づいていたことを現代に
    生きる私に見せてくれる。この島はまさに奇跡の島だ。
    島の人々はゆったりと人懐っこい。本土とは相当異なるキャラクターだ。どちらかというと気持ちが開放的なところなど
    東南アジアの田舎の人々の気質に似ている気がする。人に対する思いが「豊饒」なのだ。
    愛情を人に対してどんどん浪費している。と、いってもよい。じつにおもしろい。その気質は信仰のあり方にもよくあらわれている。

    この土地には古代の信仰が今もなお根強息づいている。八重山諸島には御嶽(うたき)または(おん)とよばれる神様の降りてくる
    小さな聖地が数多くあり、その場所は常にきれいに掃き清められて聖水や花が供えられている。小さな竹富島にも100近い大小の
    御嶽があり、自転車で森や海岸を巡ると森や林の奥に必ず何箇所かの御嶽を見つけることができる。
    さすがに村人が聖地に選ぶ場所だけあって小さな御嶽でさえも木々に囲まれたその空間は独特の濃い空気が溜まっていた。そして
    必ず、お線香立てと聖水容れが掃き清められた白砂の上にひっそりと置いてあるのだった。これらの御嶽のあり方は宮嶋の絵の
    世界そのものであり、まるで彼女がひとりでそこにささやかな神様の居場所をひっそりと作ったかのような独特の趣だった。
    私も宮嶋も自転車で小さな御嶽を探しに行ってはスケッチした。ちなみにこのような森の中の小さな聖地はバリの村や田んぼにも
    いたるところに見られる。
    御嶽を探しに自転車で村を少しはずれるとどこまでも続くさとうきび畑が広がりなぜか懐かしい気持ちになる。一度も来たこと
    のない土地なのになぜこんなに懐かしいのだろう。バリと気候や植物が似ているせいなのか、それとも私の探している美しい文化を
    持った日本がそこにゆるぎなく存在するからなのか、今はわからない。とにもかくにもどうやら私はこの土地が気に入った。

    PS: 今、八重山で使っているノートパソコンはただ今瀕死の重傷なので、壊れてしまった場合はバリに戻ってからこの続きを更新します。




                      (朝早く高台から村を見渡してみる。琉球瓦が美しい。 竹富島にて)                                                                                              

               
  
           






                     (竹富島の夜の「気」を一度味わうと麻薬のようにまた味わいたくなる。)

                    





                     (御嶽(うたき)のある場所はやはり神様の気配がするから不思議だ。)

                    










    2003年9月27日

    期間限定  「八重山日記」 そのA
    作家の故司馬遼太郎さんは『街道をゆく』の「沖縄.先島への道」で竹富島をこう書いている。

    「竹富島というのは波の上から見るとカレーライスの皿を伏せたようなかたちをしている。山はなく、海面から
    じかに樹木が繁茂しているという感じだった。波止場に人はいない。桟橋以外何の施設もない。つねに無人で
    あるという。船が去ったあと、われわれは樹林のなかに通っている細い一本道を歩かねばならなかった。
    両側は亜熱帯なりの密林といってよく、小道はじつに単調である。
    やがて、集落に入った。
    集落はじつに美しい。本土の中世の村落のように条理で区画され、村内の道路はサンゴ礁の砂でできている
    ために、品のいい白味を帯び、その白さの上に灰色まだらともいうべきサンゴ礁の石垣がつづき、その全体として
    白と灰色の地の上に、酸化鉄のような色の琉球瓦の家々が夢のようにならんでいるのである。」

    司馬さんのこの紀行文からかれこれ30年が経つが島はほとんど当時のままなのではないか、と思うほど落ち着い
    ていて、時が止まっているようだった。東京のようなにぎやかな場所が好きな人は3日も我慢できない島だろう。

    もう本当に村のどこを歩いても絵になる「気」が充満している。絵を描きに場所を探すことはなく、今立っているところが、
    そのまま絵になるという、日本でもめずらしい濃い空気の漂う土地だ。
    
    村内は建物のほとんどが沖縄伝統の赤い琉球瓦だが、村の中ほどに1軒だけ大きな萱葺きの家があった。
    地元の人に聞いてみると、村でもかなり古い家らしくて家の中からも、その庭からも、言うに言われぬ太古の気を放っていた。
    この建物が気に入ってしまった私は、なるべくこの家のそばの民宿に泊まって、たくさんこの家をスケッチしたいと、思い、
    すぐ近くの民宿に行ってみたが、4つある部屋はあいにくすべて満室だった。
    宮嶋も例のカヤ吹きの家が気に入っていたので、残念な気持ちでいたところ、ちょっとした会話の中であの茅葺の家が
    その民宿の方たちの管理下にあり、なんと時々客を泊めることがあるらしい。そこで私たちの事情を話すと、快く承諾して
    くださり、なんとそこに泊まれることになったのだ。お陰で滞在中はいろいろその滞在した茅葺民家をスケッチできた。
    このあといったん石垣に戻り、その後すぐにこの茅葺民家で一週間滞在してタブローを何枚か描くつもり。





                   こんな趣のある家に宿泊できて幸運だった。江戸の末期頃に造られたらしい。

                 







    2003年9月26日


   期間限定    「八重山日記」

    9月19日から沖縄の八重山諸島に滞在している。
    ついに、私たちはやってきたのだ。八重山に恋焦がれてもう6年。経済的事情でなかなか来れなかったが今、夢が
    かなって嬉しくてしょうがない。近い将来バリを半分に減らし、この地方に住みつく可能性があるからだ。
    ようやくその、ほんの最初の一歩を踏み出した。

    石垣空港につくと空気はバリそのもの。凄く開放的な空気が漂っている。しかもここはまだ日本なのだ!パスポートも
    ビザも要らない!治安はバリとくらべものにならないほどいい。
    人々の対応がどこに行こうがとてもゆったりしていて思っていた以上に私のリズムにぴったり合う。物価は一割弱ほど
    本土より高め。でもほぼ同じ。
    空港から直行でまず最も興味がある島「竹富島」にすぐ渡る。船でたった10分だ。
    竹富島はさすがに文化保護地区に指定されているだけあって、昔の沖縄がそこにある。もう島中どこもかも絵になる風
    景と家並みだ。民宿は10軒ほど。
    きわめて平坦な小さな島なので自転車で1時間もあれば島中どこでも行けてしまうところがとても気に入った。
    ああここなんだな。人口300人あまりのこの島が遠く自分を招いていたんだな。とすぐ直感した。
    そしてそのことがはっきり分かる出来事がこの後すぐ起こるのだがそのことはまた2〜3日後に書きます。

    竹富島の海はそれはもう綺麗だが、それよりもここは家並みのあり方が実にいい。最高に気に入った。暖かい空気は
    バリによく似ているが、植物がバリよりも濃い。これは意外!夜の村々の雰囲気がこれまたいい!
    とりあえず今日はここまで。いろいろスケッチで駆けずり回って眠い。おやすみなさい。また数日後書きます。


        (人々はきわめてのんびりしていてすごく元気。島住いたるところに「気」が宿っている)

           
    



    2003年9月11日

    ここのところ2つの地元での展覧会(富山、金沢)を立て続きに行ったのでなかなか時間が取れず更新できなかった。
    ようやく少し時間が空いてPCに向かっている
    オリジナルの染色作品は結構売れ行きがよく、ほっとした。肝心の絵のほうも少しだが売れたし、大きめの絵も1枚、
    毎年お世話になっている茨城のコレクターの方が気に入って引き受けてくださった。この方はお医者さんで、私の絵を買
    ってくださるコレクターの中でも最もたくさんの絵を持っていてくださり、眼も大変肥えていらっしゃる。もう十数年来の仲である。
    だから私がとても気に入っている絵も何枚も持っておられるのでありがたい。やはり自分がかなり気に入っている絵はよく知った
    人に持っていただきたい。いつかお借りすることがあるからだ。絵を売るというのはそういう面がとても難しい。バリで絵が
    売れるときはほとんどお客さんは欧米人なので、彼らの本国へ訪ねていかない限りその絵を2度と私が見ることはない。
    これは本当のことを言うと私にはとてもつらいことだ。でもまあ生活しなくてはならないので、割り切ってはいるが。
    その点日本で売る場合は買ってくださる方の7割がたはずいぶん昔からのコレクターの方たちで、飛び込みで買われる方は
    少ない。それゆえお互いよく知っているのでとても安心なのだ。まあなんにしてもこれでなんとか石垣に行けそうだ。
    まったく毎年毎年自転車操業が続く、それも時々自転車のチェーンが外れたりパンクしたりするのでお先真っ暗のなかで
    手探りで生きている感じだ。ほんともう体力がないとこの生活は続かないよ。とほ。

    宮嶋の企画展が明日から始まる。これも楽しみ。
    


                                   (胡弓の人 油彩F8号  )

                          





    2003年8月29日 「越中八尾 おわら風の盆」― 八尾町上新町

    初めてバリ日記を日本から更新できる喜びに浸っている。もっとも「バリ」日記ではなく「越中八尾日記」だが。
    しかし日本は暑い!ウブドの私の敷地が昼でも28度、夜は25度くらいなのに比べ、越中八尾上新町の自宅は温度計が
    いつも30度を超えている。日本の夏はこうも暑かったか、と今更ながらに戸惑っている。私はクーラーを買わない主義なので、
    もう20年以上何所に住もうがクーラーはとりつけない。だいたいクーラーなんかつけて感覚的な絵が描けるとも思えない。
    やはり窓をあけてその日その時の風を頬に受けないと五感を使う仕事はできないと思う。お寺のお坊さんがクーラーの
    きいた部屋で魂の入ったお経を読めるとも思えない。まあ、しかしこれは貧乏人の僻みもちょっとあるかな。
    バリに来て9年くらいは、クーラーどころか、テレビも、電話も、ラジオも持たなかった。あれはあれで実によかった。

    今、私の街は「おわら風の盆」の前夜祭で賑わっている。三味線と胡弓、太鼓に合わせてしっとりとおわら節を歌い、踊る。
    9月1日からの3日間が本番なのだが、8月末からも少し夜だけ踊る。この前夜祭のときに私はよく踊りのスケッチをする。
    本番は人が多すぎ、気持ちが乗らない。その点、前夜祭はひっそりとしていてまだ趣があるからだ。
    この八尾町(やつお)町は5月には、曳き山がでて町中を練り歩く。これも絵になるので昔はよく描いたものだ。日本は日本で
    エキゾチックなことこの上ない。特にこの越中八尾には日本の情緒がまだ色濃く残っている。


           (おわらの踊りは所作が難しいので集中力が鍛えられる。 2003年8月24日「おわら踊る娘」八尾和紙に着彩)

                              






                               (越中八尾.曳き山の日  10号F  1998年)

                             





                  




    2003年8月21日

    関空に降り立ってすぐ大阪駅へ行き、阪神デパートで阪神タイガースグッズを物色する。まあ、有るわ有るわ、
    これでもかと、いうくらいある。夏休みの最後とあって、親子づれで超賑わっていた。
    それにしても大阪は暑かったー!
    昼は「湯葉料理」を食べる。日本やのー!エキゾッチクだ。
    私は今、富山県の八尾町に滞在している。自宅があるからだ。昨日から「おわら風の盆」の前夜祭がはじまり、
    この静かな町も大勢の人たちで賑わっている。9月1日から3日までのおわら風の盆の本番は20万人の人たちが
    全国から集まるのだ。哀愁漂う胡弓と三味線の音色がこの坂の町を深夜まで彩る。
    
    とりあえず今日は日本帰国のご挨拶でした。
    デジカメを修理に出しているので今日は文字だけ。
    








    2003年8月16日

    ようやくカレンダーの仕事が終り、昨日から出発の準備におおわらわだ。1年も使ったそれぞれの部屋を
    大掃除し、片付ける。まるで年末の大掃除のようだ。
    それとは別に、1週間前からアグンライの家族もお葬式の準備のために大忙しだ。なんせ一辺にここ数年に
    亡くなった25人ものお葬式をするのだから、村人も半端な忙しさではない。ましてやアグンライの家族は当事
    者の家族のひとつだから村の集まりのどこにでも顔を出さなくてはならないのだ。牛やライオンの作り物も25
    体分必要だし、飾りつけも燃料の椰子の実の皮や灯油も25体分、何から何まで25倍必要なのだ。でも何百人
    という村人が一斉に動いて協力するので、経費は安くて済む。昔からの生活の智恵だ。二年ほど待たされた人
    もいれば、昨日なくなったばかりでぎりぎり滑り込みで今回の合同葬式に参加してくる家族もいる。今の日本で
    は考えられないことだ。みんな何を協力し合うにしても個々の能力が高い。たいしたものだ。
    葬式のための大きな屋根つきの集会所兼作業場施設なんか3日で作ってしまう。速い速い。彼らはサバイバル
    に実に強そうだ。
    
    昨年は日本に戻った時、このHPの更新をお休みしたのだが、今年は日本でも、どこかのプロバイダーと契約して
    更新してみようかとも思っている。そういう時間とやる気があればの話だが。とりあえずノートパソコンは日本にあ
    るので試してみようとは思う。昨年は日本ではHPの更新をやる気がしなかった。なぜだかわからない。日本のあ
    る種の空気がそうさせるのだろう。困ったものだ。今年は沖縄の八重山諸島に行くので、そこでも更新できれば、
    と、思っているのだが…。

    このあと18日に帰国しますのでしばらくはバリ日記の更新をお休みします。もし日本で更新
   できれば8月25日ごろからまた更新します。それまで少々お待ちください

    
    




       (火葬の時の燃料である椰子の実の皮もこんなに集められた。その向こうでは資金集めの闘鶏が行われている。)
                   
                          


         (作業場ではたくさんの人を入れる牛が作られている。)    (広大な作業場兼集会所。この葬式のためだけに3日で作られた。)
           





                           




    2003年8月5日


    バリ日記の更新が少し遅れてしまった。ここのところ注文されていたカレンダーの仕事が忙しくなかなか書けなか
    った。(言い訳です)その割には「はるかなる甲子園」のほうはきわめてまじめに更新!してしまっているのが笑える。
    先日関空発石垣行きの飛行機3人分を遂に格安でゲット!なんと一人1万円だ!この格安チケットが取れなかったら
    どうしようと心細く思っていたので嬉しい!決め手は息子の誕生日だった。
    その名も「バースデー割引」という。この制度(誕生日の前後一週間が対象で同乗者3人まで可能)を利用して予約日の初
    日の予約時間開始と共にインターネットで予約に成功。眠い目を擦りながら早起きした甲斐があった。これが成功しなかっ
    たら、よくある「早割り」で買わなくてはならなかった。「早割り」は一人約2万8千円だ。3人で片道5万円以上も違う!
    いやー、こういうことも稼ぎのうちだと思うけどどうでしょうかみなさん。これももPC及びインターネットに強い息子のお陰です。
    感謝!
    宮嶋の方もようやく展示する絵を日本に昨日送ったところ。ほっとしている。
    
    ところでこのHPがきっかけでメル友になった大の阪神ファンのY子さんがガムラン修行の合間をぬってギャラリーを訪
    ねてくださりなんとタイガースグッズをお土産にくださった。これは嬉しい!まさかウブドに持ってきてくださるとは思わ
    なかったので、部屋の中に飾って試合のたびに手を合わせて祈願している。(ちょっと変か?)

    いよいよ帰国まで後2週間をきった。思えば今回の滞在はどの日々もどの場面も猫たちと一緒だった。私のパレットに乗っかって
    足に絵の具をつけては猫足ハンコをペタペタと部屋中テラス中に付けまくっていたものだ。親友のアグンライの死から始まってしま
    った今回の辛く長い滞在もたくさんの猫たちのお陰で精神的に何とか乗り切れた気がする。動物って本当にいい「気」をだす。
    去年の9月戻って来てすぐに知人からもらったシマトラ猫の「プー」はこの10ヶ月でいきなり一番大きな大人猫に成長した。




       (昨年10月の来たばかりの「プー」)            (今年7月のいやにデカクなった「プー」目が据わってきたぞ…)

            

 



   




    2003年7月26日

    私の敷地の鉢植えでまた今年もアグンライが植えた白い花がきれいに咲いた。彼が亡くなる1年前に近所で探してきて
    鉢に植え替えてくれた花なのだ。今年は猫が花を迎えた。亡くなった人を思うとき、思い出の中の彼はいつも亡くなったときの
    若さだ。10年後、20年後に彼をふと思い出すときもやはり42歳の風貌が浮かんでくるのだろう。死者は年をとらないのだ。
    風貌だけでなく心も同じ。私はこの先どんどん世俗の垢にまみれていくのだろう。心の有りようも変わる。でも彼はそのまま。
    ほんとに毎年同じように美しく可憐に咲くこの名もない白い花のようだ。
    紀貫之の「ひとはいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににおいける。」の気持ちが今は分かる気がする。

    そろそろ帰国の準備を本格的にしなければならなくなってきている。前年度から注文されているにもかかわらずうっちゃっておいた
    カレンダーの制作にようやくヒーヒーいいながら取り掛かっている。どうもややこしいことは後回しにする性格なのでこうなるのだ。
    宮嶋の方も先日ようやく今年9月中旬の企画個展に出す23枚が出来上がったもよう。ふたりともここのところヒーヒー言っている。
    もっとも彼女はやっつけ仕事などは絶対するような人ではないので、昨年9月からじっくり制作していたのだがなんせ、きわめて
    のんびりした性格で、納得できる作品が貯まるまでには1年かかってしまったらしい。彼女が絵を描くのをほんの時たま遠くから
    垣間見ていると、絵を描いているというより、なんとなくアトリエにぼんやり半日くらいいるうちに気づいたら鶏が卵をポコッと
    産み落とすように彼女も絵を産み落としている。という感じだ。とても不思議な人だ。
    


                   (子猫も大きくなった。アグンライの彫刻の上がお気に入り)

                       










    2003年7月20日

    近頃息子はなかなか4コママンガを更新してくれない。彼はマンガは夜毎日描いているのだが、それは自分が好きで
    個人的に描くものがほとんどで、なかなか私のHPの4コママンガまでは手が回らないようである。
    それでもさすがに1ヶ月ほどたつと少しはやる気になるようで、この前から気がむいた時間にぼちぼち手をつけている。
    彼の4コママンガはこのHPの大黒柱!なのでいろいろな方から更新を待つ声が届くのだが、こればっかりは本人がやることだ
    から、本人のペースでやらせている。なんせまだ13歳。いろいろなことで遊びたい盛りなのでしょう。これが締め切りなどを作って
    義務で描き始めたら、もう途端にマンガにパワーがなくなってしまうのだと思う。もの作りというのは「好き」でやらないともともこも
    なくなってしまうのである。ということで、彼も気がむくと描いている。今回の彼のテーマは「パダン料理屋」らしく、私と一緒に何
    度か行きつけの美味しいパダン料理屋に行き、食べ食べ、きょろきょろ眺めては眼で取材していた。もちろん実は単に食べたい
    だけで行っているのだろうけど。まあそれでもよしだ。
    パダン料理というのは、ご飯にかけてくれるあの「ソース」がポイントで、あの味が後を引いて、また食べに行きたくなるのだ。
    そして第2のポイントは手で食べること。美味しさが全然違う。ラワールなどと同じである。ちなみにバリの人々は家庭でご飯を
    食べる時100パーセント手で食べる。理由は簡単、これの方が美味しいのである。そして彼らは昼も夜も食べる時は一人で食べる。
    小学生も、大人も、みんなバラバラな時間にひとりひとり別々に食べるのである。これはどこの家に行ってもそうなのだ。ほとんど
    例外はない。食事時の一家団欒はバリには一切存在しない。不思議だ。聞いた話によると人と一緒に食べるのは恥ずかしいのだ
    そうだ。別の人はリラックスできない、とも言っていた。所変われば…である。





    (手で食べる息子。彼のお気に入りの具は「イモコロッケ」「茄子煮」「マグロツナ」「野菜かき揚げ」などなど、野菜のおひたしは無料
     なので栄養バランスを考えてどっさり入れてもらう。辛いサンバルをたっぷりつけて食べる。90円くらい出せば満腹。鶏肉のから
     揚げなどを足すと完璧で、全部で120円くらい。)

       











     2003年7月13日

     ここのところHP内の阪神タイガースページの更新が忙しく、つい、バリ日記の方が遅れてしまった。なんせ18年ぶりのの快挙だし、
     この先今年以降また10年くらいダメかもしれないので、あと2ヶ月10年分くらい盛り上がってしまうのは無理ないよ、といいわけして
     いる。
     それにしても、ここ2日間のタイガースの戦いは凄まじいものがあった。さんざん過去に痛めつけられてきた巨人相手に、ボコボコに
     叩きのめして、2日間でなんと24点も入れたのだ。こんなこといくらあの85年の優勝した年だってなかった、と、思う。

     バリからこんなマニアックなことが書けるのも、NHKとインターネット実況放送のお陰だ。ほんとにインターネット革命になんとか間に
     合ってよかった。と、いつもながらつくづく思う。近年、空気は悪くなるし、温暖化は進むし、凶悪犯罪は増えるし、閉塞感は強まるし、
     身近なところでテロは起こるし、で、だんだんこの世の中がおかしくなってきている。だから、せめて少しは文明の良いところも享受した
     い。だからインターネットに出会えたことは、闇のなかのわずかな光だと、思う。確かに情報過多になったり、目が悪くなったり、時間を
     とられたりするかもしれないが、それをはるかに上回る利点がある。今までは一部の限られた人々や権力者、だけが隠し持っていた
     おいしい情報、詳しい情報、得をする情報、裏の真実、などが私にも行き渡るようになったのだ。それもこの辺境の地で。
     東京のど真ん中にいるのと、バリ島の山奥にいるのと情報的にはもう、年々同じになりつつある。実際、バリの山奥で毎日阪神の試合
     を味わえるなんて夢のようだ。もちろんこれらのことの裏には害や欠点も多々存在する。それらをすべて含めてもインターネットはありが
     たい。そして、PCに強い息子にも感謝。彼は私の影響で今や大の阪神フアンになってしまった。

     昨日、私の敷地のコーヒーの木が豆をたくさんつけたので、アグンライのお父さんが採って、煎って私達にお裾分けしてくれた。近所の鶏
     たちも私の敷地でよく卵をポコポコ産み付ける。これは密かにいただくことにしている。新鮮で滅茶苦茶美味しい!(ご近所には内緒の
     話) 自給自足っぽくて嬉しい!得をした気分になる。(実際得をしているし…。)





                            (敷地で採れたコーヒー豆を天日干しにする。)

                        
     










    
     2003年7月4日

     大学時代のサークルの先輩であるOさんが久しぶりにはるばる日本からやって来た。彼は数年前フィリピンのネグロス島のジャング
     ルの中で家を建て、1年間絵画制作三昧の生活を送った筋金が入った人である。私のように中途半端な観光地に住むのでなく、旅
     行者がほとんど訪れることのない森の中でひたすら孤独と向き合い絵を描いた凄い人なのだ。8年前にもウブドに来られたがそのと
     きに私達家族を8ミリビデオで撮ってくれたのだが、そのコピーのCD-Rを、今回いただいた。

     画面の中には8年前のまだ若い私や幼く人形のような息子が映っていていきなり時間がタイムスリップしたような錯覚に陥った。
     画面の中の私はOさんに何かペラペラしゃべっていたが、考え方が未熟で、恥ずかしいようなことを平気で言っていた。そんな8年前
     の自分を見て、、あー、今は、少しは自分も成長したんだなあ。とも思えた。そして今回は少しはOさんと実りのある会話ができた。と
     ほっとしている。

     私は幼少期からの自分の人生をかえりみて、もし年齢が戻れるとしてもどの年齢にも戻りたくない。中学時代も、高校時代も、大学時
     代も、もうこりごりだ。10代も20代も30代もほんとに未熟で、ぶざまで、そのくせ偉そうで、空回りばかりしていた。現在の自分がまだ
     一番ましだと思う。しかし昔の自分の絵も悪くはないものが少なからずある。と、いうことは、まあ結局その時代その時代に、悪いなり
     にもその時代にしか発揮できないそれなりの輝きがあった。ということなんだろう。
     そしてひとつ確実に言えそうなことは、現在の私のことも、10年後の私から見ると「未熟で、偉そうで、空振りだらけの時代」と振り返る
     のだろう。そして、「まあ、あの恥ずかしい時代も少しは悪いなりに輝いていたんだろう。」なんて呟くに違いない。
     
     


                        
               (  4歳の時の息子龍太郎。Oさん撮影の動画よりコピー。 ちなみに現在息子は13歳だ。 )

                        











     2003年6月26日


     ここ数週間夕方の光がとてもきれいだ。少し寒くなってきているので空気が澄んでいるせいかもしれない。こういうときはイーゼルを
     渓谷の上に立て、絵を描く。イーゼルの足を伸ばして、セッティングしているだけで心がうきうきしてくる。冒険ごっこをしている子供
     の気持ちと同じだ。そして地塗りをした真っ白なキャンバスに最初の一筆を大きな筆で思いっきり入れる。壮快だ。この感覚がなんとも
     いえないくらい快感で20年以上も絵の世界にまみれてきた。日本の画壇とも関係なくよくもまあ長続きしてるなあ、と本心あきれ返
     っている。ちょっと変人なのかもしれない。しかし変人でよいとも思う。とにかく絵も人生もシンプルでありたい。しがらみから極力離れた
     ところでこれからも絵を描いていきたい。最近孤独にはずいぶん強くなった。と、いうか慣れてきた。まあ、家族がいるから本当の孤独
     とはいえないだろうが。
     
     八重山の安い長期滞在宿(プライベート台所付き)をインターネットで見つけたので清水の舞台から飛び降りたつもりで9月からの1ヶ月
     を予約した。たった1ヵ月とはいえ、ついに長年考えていた八重山とバリの二重滞在計画の小さな第一歩を踏み出すことになる。
     とにかく八重山諸島は沖縄に属するのでパスポートやビザがいらないのだ!このことがどんなに嬉しいことかは外国に何年も住んだ人
     なら絶対分かってもらえると思う。それに日本語が通じる!これも涙が出るほど嬉しい!
       

     家の子猫のうち、チャイ(茶トラ)とメイ(ミケ)は村の子供達2人がそれぞれ飼いたいと言ったので、お嫁にいった。少し寂しいがこれで
     よいのだ、とも思う。残ったブチ、とチョコ、そしてお母さんのマリ、そしてボスのプー、は少し寂しそうだったが、最近はようやく慣れて平
     常心で駆けずり回っている。プーの弟分のスーは恋人を求めて2ヶ月前に旅立っていった。

     ところで、久しぶりにNHKワールドが阪神対巨人戦を実況していた。今年は阪神が珍しく強いので楽しみに観ていたら、案の定終盤に阪
     神の大逆転劇!凄まじいばかりの破壊力だった。それも次のために繋ぐ気持ちが生んだ長打が目立った。10点も一挙に入れたのにベン
     チは誰一人笑っている者がなく、全員身を乗り出してグランドを睨み、緊張感は全く途切れていなかった。みんなとても凛として、燃える
     目をしていた。私はこのベンチの光景を見たとき、優勝する。と、確信し、胸が熱くなった。





                           ( 午後の渓谷 油彩 F10号 2003年)

                    










      2003年6月16日

      18日からガルンガン(バリのお盆)だ。早いものだ。ついこの前ガルンガンが来たと思ったのに、またすぐ次のガルンガンが来て
      しまった。バリ人たちは昨日くらいからどこの家でも膨大なお供え道具を小屋から外に出して準備を始めている。

      ここ1週間ほど沖縄の八重山について調べている。3人の体調さえよければ今年の9月から1ヶ月ほど絵を描きに行こうか、と考えて
      いる。石垣、西表、竹富を中心にたくさん描いて来るつもりだ。この前も書いたがそろそろ日本にも1年のうちの3ヶ月ほど滞在し
      てこようと思っている。そのうちに4ヶ月、6ヶ月と延ばしていくつもりだ。一昔前だと費用が高くてとてもそんなことが出来なかったが、
      最近は国内線の飛行機が早めに予約さえすればどこでもだいたい1万円台で行けるようになった。これは凄いことだ。だから東京
      へ行こうが沖縄、八重山の石垣に行こうが値段がほぼ一緒なのだ。宿泊も、10年ほど前だとせいぜい民宿の素泊まりが一番安い
      滞在方法だったが、今は部屋を一ヵ月借りれるところ(マンスリー)が増え、値段も安くしてくれるのでかなり節約できるのである。
      私達は3人なので特にこの方式だとお得。民宿の素泊まりの3分の2の費用ですみ、かつ、プライベートなバス、トイレ、台所、
      生活道具などがが付いている。
      本当に最近は日本でもインターネットなどで上手に探せば安くで滞在できるようになった。本にはあまりこういう裏技は書いていない。
      食費を上手く節約すれば八重山でも家賃を除いて、バリ滞在とさほど変わらない金額で住めることもわかった。私達にとっては高い
      パソコンというものを買って本当に良かったと思っている。このような辺境の地に住んでいても、インターネットで、東京や、八重山諸島
      の詳しい最新情報がわかるのだから。なんといってもHPが作れる。何度も言っているが、まったくすごいシステムを人類は考え出した
      ものだ。

      もちろん安くつくといっても私達は絵を描くために節約の覚悟を持って滞在するので安くつくのである。もしこれが観光めぐりをしたり、
      物をたくさん買おうとしたり、外食ばかりするといきなりバカ高くなる。私達家族はこの13年間で、粗食にも、孤独にも、死の恐怖にも
      強くなっているので他の人が我慢できないようなこともわりと平気なんだと思う。他の人にはかわいそうでお薦めできない。
      私も宮嶋もほとんど服や物は買わない。家の修理も、道具の修理もほとんど人を雇わないで自分達でやる。3年前に家を建てた時も
      できるだけ自分達とアグンライの知り合いとでやったので、費用が半分以下!ですんだ。何かやむを得ず買うときもよく調べて、何件も
      店を回って最も質が高くてかつ安い方法を根性で探し出す。じっくり、頭をクリアにして探せば必ず見つかる。(時間はたっぷりあるので。)
      遠出はほんとによっぽどでないとしない。バリでも日本でも人とは最低限以上はつきあわない。(これは節約と制作にはとても大事!)。
      病院にはよっぽどでないと行かない。(3人とも、もう4年行っていない。)
      私達家族の合言葉は 「使わないのも稼ぎのうち」「動かないのも稼ぎのうち」「死ぬ時は死ぬ。」だ。
      


                    (今日の夕焼けはことのほか美しかった。6月15日)

                   


       



      2003年6月9日


      3日前にパソコンが壊れたがデンパサールで見てもらうと、簡単に直った。たった20分だった。馬鹿を見たなあ。と思ったが
      直らないよりましか。とも思い、保障期間中なので無料だったこともあり、まあ、ほっとした。ほっとした反面、なんか便利になり
      すぎてねえか。と、ちょっと怖くなった。
      久しぶりのデンパサールは新しいタイプの家電製品やコンピューター機器などが昨年よりまたまた増えていて、物が溢れている。
      近年ほんとに何でも手に入るようになった。その波はウブドにも忍び寄っている。
      こうなってくると、町全体のパワーが弱くなってきて、ウブドの町にますます不思議さや原始の気がなくなっていく。十数年前の
      半分以下の「気」しかないのではないか、と、最近はそう感じる。私の敷地の近くは渓谷のジャングルの中だからパワーが溢れて
      いるが、ちょっと外に出るとウブドの中でさえ、やはり「便利住みやすい世界」が人々を待ち構え、消費社会に取り込まれていく。
      一昨年もこのことで悩んでいたが、昨年に入ってからますますウブドが小奇麗になるのを見、今年はその加速度がもっと増してきた
      感じで、これならいっそのこと、極端に理不尽でかつ高いビザ更新もなく、年2回の超バカ高い3人分の飛行機代も要らない日本
      の山奥の方が、まだ気楽に住めるのかもしれない。日本と「気」がそんなに変わらなくなるのなら、日本のほうが行政、医療、流通、
      治安、言語、ですべて私達にとって上まっているので、今後は、バリには1年の半分くらい住んであとのの半分近くを日本の山奥や
      離島で生活費を節約しながら絵を描こうか。とも思っている。(お金が続くかどうか分からないが)特に沖縄の八重山諸島や北海道の
      山奥には前々から強い興味を持っているのだが。でも、急に環境を変えるのも寂しいし、ほんとに迷っている。それでも決断の日が
      近づきつつあることは確かだ。ほんはナウシカにでてくる「風の谷」のような村に住みたいのだけれど…。

      私が最初にバリに来た1980年代後半のウブドの気はそれはそれは深く濃く頭がおかしくなるような怪しい気が村のあちこちに
      充満していた。その分とても不便!で、水道は無いし、電気はほとんど停電状態だし、それゆえ夜なんかどこもかしこも真っ暗で夜の
      9時には寝たものだ。店には日用品もろくに売っていないし、だいたい店自体があまりないのでほとんど原始生活のようだった。でも
      プリミティブなパワーに溢れていた。観光地というイメージではなかった。バリに住居を移した1991年の時点でもまだ、パワーはそう
      とう残ってはいた。それがほんとここ7,8年ですっかり変わった。
      私がビジネスマンだったらこの傾向を喜んでいたかもしれない。ほんとに絵を描くという行為は目に見えないものを大事にする我がま
      まな行為だと、つくづ思う。悪く言えば資本主義にとっては要らない無益な行為なんだろう。
      いずれにしても、この13年間のような、1年の11ヶ月をバリで過ごす。というバリ漬けの日々は今後はそう続かないような気がする。
      
      

                  (1991年、私が当時住んでいたウブド.ニュークニン村への道。いまこのような「気」は無い。)

                            










      2003年6月4日


      昨日の夕方、ウブドから7`ほど北に離れたテガララン村に出かけた。人に会う用事があったからだ。テガララン村付近はとても
      ライステラスが綺麗で私は月に1度ほどそこまで絵を描きに行ったり、ドライブをしたりする。昨日は用事があったので絵は描けな
      いだろうと思ったが、念のため一応画材と8号のキャンバスを車に詰め込んで行った。晴れわたった澄んだ空の下車中から見える
      ライステラスは夕陽にキラキラ輝き、なかなか出会えない神秘的な風景が続いた。私は、すぐにでも車を止めて絵を描きたいと思
      ったが、用事を先に済まさねばならず、残念に思いながらも、知人の家に向かった。
      話が終わって、知人の家を出たときはもうかなり、日は西に傾き、大きな雲が出始めていた。これはこれで向こうの丘まで続くライス
      テラスと雲の関係がとても面白い。と思い、いつものように発作的にイーゼルを立て、8号のキャンバスに太筆でぐいぐい色を置いて
      いった。こういう場合、勝負はだいたい最初の10分くらいで決まる。で、その絵は10分描いても自分の感じたイメージが画面に出て
      こなかった。あー、だめか。くそっ。と思い、もう止めて帰ろうと思ったら、雲がさっきよりいっそう美しくなったので、もうあと少し、がん
      ばろうと思い、一からまたやり始めた。
      やり直すといってもキャンバスは一枚しか持ってきていないので、今までのせた絵の具を、パレットナイフで大急ぎで削り取った。
      もうこの時点で何がなんだかわけがわからなくなっている。そのあと、20分ほど格闘して、なんとかライステラスの丘と雲の関係が
      少し掴めた絵になった。小さな絵のわりにはとても疲れたが、自分としては珍しく少し気に入った。
      一度絵の具を全部削り取った時はどうなることかと思ったが、その決断がよかったのかも知れない。起死回生というのはこういうこ
      となのだろう。もっとも、気に入っているのは私だけで、この絵を見る他の方々は「よく分からない変な絵」と一笑に付すかもしれない。
      まあ、そんなことはよくあることだ。いつもこの日記に書いているように、ひとの評価や感想は千差万別。勝手にいろいろ思ってくださ
      い。ということ。私だって1年後はその絵をどう思うか分からないのだから。
      とにかく、昨日はなんだかとても得をした気持ちになって、嬉しかった。単純なものだ。
   



                        ( 丘にかかる雲  2003年 油彩  F8号)

                    







      2003年5月28日


      昨日、絵を置いている倉庫で探しものをしていたら5枚ほどのキャンバスを外した絵が出てきた。懐かしい絵だった。それらは
      全て1992年に描かれたもので、ちょうど偶然にも今住んでいる渓谷付近を描いたものだった。そのころのだいたいの絵は
      売ってしまったか、日本に持って帰ってしまっているので今11年前の絵を見れるのは貴重なことだ。
      あのころは先生をやめて間もない時で、一日中絵が描ける生活がもうとても新鮮で、嬉しくて、しょっちゅうキャンバスを抱えては
      遠出をして思いっきり筆を動かして描きなぐっていた。ほんとにこの2枚の画像のような、即興的なわけが分からない絵も多く描い
      た。今こうして見てみるとそんなに悪くないし、絵にもまあ、なっているな、と思うから不思議だ。やはりあの頃の心のあり方が
      出ている開放的な絵だ。当時は「あーまた失敗した。」と思ってキャンバスから外してしまったのだろう。それで陽の目を見な
      いで今まできたのだ。なんだかかわいそうだな。と思い、このページに2枚ほど紹介する。ほんとにHPというのはありがたい。
      今までなら、ギャラリーに飾るか、展覧会に出すか、ポストカードを作るかしないと陽の目を見なかった絵が、HPを通して多くの
      人々の眼にともかく触れることができるのである。もちろん画面を通してみるのは実際に本物を見るより相当劣るが、それでも
      なんだかとても救われた気がする。近年インターネットの弊害がいろいろ言われているが、私はやはりインターネット時代に絵を
      描いていてよかったとしみじみ思う。ほんとうにこのシステムは人類の大きな転換期を作ったのだなと驚嘆している。




          (  「ウブド遠望」 1992年 P15号 油彩 )              ( 「ウブドの青い山脈」 1992年 F20号 油彩 )


             











      2003年5月22日


      先日の満月は澄んだ空気のもと、昼のように明るかった。満月などというものは、ボーと眺めるもので、決して絵など
      に出来るものではないだろうと、日頃から諦めていたが、この前「真夜中の渓谷」を描いた時、妙に気分壮快になったの
      で、今回も夜の8時頃、草むらにイーゼルを立て、ランプをつけ、8号のキャンバスと格闘した。
      満月が美しいからといって「満月」を意識して描いても左脳的な絵になる。なんともいえない「この夜の妖しい雰囲気」が
      でるかどうかだ。勝負は1時間以内で決まる。夜の風景というのは昼と違って小さなディテールが見えないのでかえ
      って大きな構造を掴める。これは利点。欠点はキャンバスの色が見えにくいので翌日「ひえー」というようなことになりがち。
      しかし、夜の風景画制作はその行為自体が天然モルヒネ出っ放し状態でやはり「楽しい」。楽しいからと言っていい絵が
      できるわけではないが、いい絵を描くことを「目的」にはしたくない。そんな目的を持ってもいい絵ができるわけはない。
      むしろ結果としては逆の効果だろう。いい絵かどうかはあくまでも結果であるし、超主観だし、時代によっても評価が変
      わるし、描いた本人だって、時間と共にその絵に関する評価、感想が変わるのはよくあることだ。だから、絵を描いている
      時の精神の覚醒が、そのときの心と感覚の有り様が、絵を描く人にとってはすべてだとやはりつくづく思う。
      





                          (満月夜の渓谷 F8号 油彩 2003年)

                     








      2003年5月15日


      昨日大きなオダランの行列に遭遇したが、お供え物を頭に乗せた女性達が長い列を作りながら堂々と歩いていく。
      いつもの光景ながら凛々しい雰囲気だ。バリの女の人は小さい頃から頭に物を乗せ、いろんなお供え物を作り、
      家族を仕切ってきた。一応男尊女卑なのだが、ちっとも従っていないし、しおらしくもない。とにかくみんな逞しいのだ。
      特に結婚したらその度合いは何倍にもなる。失敗をしでかしたってめったに謝らない。日本人の価値観でいう「謙譲」の
      心はあまり無いのかもしれない。だからといって威張っているわけではない。人にはとても優しい。もちろん人によって少し
      ずつ違い、それがまた面白いのだが。それでもだいたいのバリの妻はその夫と比べてダントツ甲斐性がある人が多い。
      私の近くにも夫は家でぶらぶらし、妻が家計を支えている、という家族がゴロゴロある。
      私も絵を売っているが、たいして売れないので日本では肩身が狭い。しかしバリでは、バリの男達は結構私のような気まま
      で甲斐性がない人が多いのでほんとに嬉しい。そして絵の売り買いに関してもとてもシンプルで透明性があるので日本の画
      壇のようなわけの分からないものに巻き込まれなくてすむ。だいたい私が日展の理事をしていたとしても外国で絵を売る時は
      残念ながらその肩書きは屁のツッパリにもならない。女も男も絵も闘鶏も農作業もそのあり方がシンプルでパワーがある。
      
      ここにいると本当に人間の生活や喜怒哀楽がとても分かりやすく見えてくる。日本にいたときは人生も社会も、私の頭では
      解けそうにない難しい数式のように感じられたが、この地の人々の人生を垣間見ると、とても分かりやすい足し算引き算のよ
      うだ。私ももう13年この地にいる。複雑で無意味に忙しい日本社会には二度と適応できないかもしれない。
      しかし、一方では、前々から書いているように、日本の美しい四季も日本人の謙譲の精神も私の心に今でもしっかり息づい
      ているし、日本の繊細な江戸期までの文化は大好きだ。つまり、言い方を変えれば、どうやら私は、現実の現代日本社会を
      愛しているのでなく、過ぎ去ってしまった、或いは消え入りそうになっている日本の心と自然、に愛着を強く持ち続けている
      のかもしれない。

      それはそうと、この地がいくらシンプルで分かりやすくても、違う面では厳しい弱肉強食の面も持っていることは言うまでも無い。
      この地は生きやすいが、決してなまぬるくは無い。やはり心身ともに強くなければこの地で生きぬくことはできない。

      近年、バリで老後を。と、考えている人も日本にはちらほらいる。と聞くし、時々相談もされるが、この地に甘い気持ちで入
      ってくると、凄いことが待ち受けている。60年間日本以外で住んだことのない人たちの手におえる場所ではない。ただし、
      若い頃から東南アジアでちょくちょく長期滞在して苦渋を味わいながら住んできた人なら、大丈夫かも。
      まあ要するに、東南アジアの甘味な暖かい風土は人の心を優しくし、開放もするが、そのなかにとんでもないウイルスも同
      居しているということだ。「それらも全部含めてOKだ。どうなっても自分の身一つ残れば良し!」という人は、住めます。
      
      
     
  (↓貫禄十分でお寺に向かって闊歩する「イブイブ」たち。5月14日)   (↓未婚の彼女達もいずれは左のようにすぐに貫禄がつく。とほ…)

            









      2003年5月9日


      ちょうどクタでの爆弾テロ事件の直後、この日記で紹介した椰子の木に登る青年が今日も敷地の横の木に登って、椰子の実を
      たくさん落としていた。彼はかれこれもう3回ほどこのあたりの椰子の木に登り、実を落とす仕事をしている。その度ごとに椰子
      の実を私達にくれる。彼はこれが「仕事」で、方々の村から、お呼びがかかって重宝がられている。しかし、ほんとうのところこの
      仕事は実に危険な仕事なのだ。
      実は、彼は2ヶ月前も、私の敷地の傍で今度は椰子の「木を切る」仕事を引き受けた。これは椰子の実落しよりも何倍も難しくて危
      険な仕事なので、滅多に引き受ける人は無い。だから木を切りたい人は、大きな電気ノコギリを賃貸して職人に切ってもらうのが一
      般的だが、それでは費用が高くつくので、時々彼のような木登り名人が呼ばれて、木に登りながら、徐々に幹を切っていくのだ。
      しかし、幹を切るとき、ものすごく揺れるので、時々人が落ちて大怪我をする。私の知り合いのお父さんは2年前、落下して死んでし
      まったし、私が以前通ったバリ式マッサージの名人も落ちて、膝の皿をこなごなに割ってしまった。もっともこの名人は、病院へも行
      かずに、自分で固定したあと、独自のマッサージ法で独力で治してしまった!うそのような本当の話。凄まじい人間もいるものだ。
      この時、例の青年も、案の定、幹の上の方で大きく幹に振られてしまい、耐え切れずに滑り落ちてしまった。空中落下ではなかった
      ので、大怪我はしなかったが、ものすごい勢いで幹を滑り落ちたせいで、両肘の皮がそうとうはがれてひどい状態になってしまった。
      彼自身も精神的なショックが相当激しく、村人達にアルコール消毒されている間も荒い息はまだ続き、目は呆然としていた。
      このままではウイルスにやられる、と、思った私が、近くの診療所に車で運んであげたのだ。彼はとても感謝していた。薬代は雇い
      主が払ったので、彼に余計な出費はなかったが、その日はやはり熱が出て、ずいぶん苦しそうだったらしい。そして、今、なんとか回
      復して、こうしてまた椰子の木に登っている。この仕事は危険な割には報酬が少ない。しかし、ヌガラという、ウブドから50キロ以上も
      離れた遠くの村から出稼ぎにきている彼にとっては、自分の得意な木登りしか稼ぐ手立ては無いのだ。まったくこんなに危ないのだか
      らもう少し手間賃を弾めばいいのに村人は足元を見て安くで彼を雇う。外国人相手に物を売ったり、作ったりしているウブドの人々が、
      とても簡単に高賃金を貰うのに対して、彼のようにローカル相手の、安いわりには危険な力仕事は、地方の村や違う島から出稼ぎに
      来たひとが請け負うことが圧倒的に多い。また、たとえ、レストランのボーイなどの職が見つかっても、、食事はつくものの、これまた
      足元を見られてタダみたいに安い給料しかもらえない。それでもまだウブドは職があるだけましだ。と地方出身者たちは口々に言う。
      本当に厳しい現実の中で人々は翻弄されている。

      私と宮嶋のギャラリーもSARSの影響で、訪れる人が減り、最近2ヶ月で絵が1枚しか売れてない。私もまた明日をも知れない生活をして
      いるのだ。本当にひとごとではない。しかしこんな時こそやけくそで、たくさん絵を描く気になるから不思議だ。いつも、「もうこれが最後の
      絵だ。」と思って描いている。
      漫画の「エースをねらえ」で「この一球は絶対無二の一球なり」という台詞があるが、お金がないと、絵を描く時にそういう気持ちになるか
      ら面白い。まあ、しかし、結局は、なんとかなる。(と、思うことにしている。)

      ところで、彼はあの怪我以来、近くで椰子に登るたびにわざわざ椰子の実を持ってきてくれる。親切で素朴な好青年である。
      だから人疲れのするレストランのボーイや店の売り子をしないで、深い森のなかで木に登る仕事をしているのであろう。
      この椰子の実の中には飲みきれないほどの甘い汁がつまっている。飲み干したあとは、皮の内側についた白い果肉を椰子の皮で
      こしらえた即席スプーンで食べる。これが柔らかくて、栄養があって、美味い!のだ。私も、宮嶋も、息子も、これには目が無い。
      至福の時だ。お金がなくなっても椰子の実やバナナやパパイヤはそこらじゅうにあるのでまあ死なないだろう。
      破産しようが、恥だらけの人生であろうが生きて生きて生き抜いて、描いて描いて描きまくってやろうと思っている。
      あのゴヤのように、しぶとく、たくましく!だ。



                    (殻を割るのにものすごい力が必要だが、中はとろけるような果肉がいっぱい)

                         
      










      2003年5月2日


      先日の夜の三日月は幻想的だった。中世の水墨画の世界に入り込んだ様だった。しばらくテラスで寝転びながら眺めていたが、
      急に絵にしてみたくなった。油絵で真っ暗な夜の渓谷を絵にすることが出来るのだろうか。と不安はあったが、とにかく無性に
      キャンバスに絵の具を置きたくなったのだ。そういう気持ちになったらどのようなハンデがあっても描いてしまうのが私の絵の描き
      方なので夜の1時ごろ突如野外で絵を描きはじめてみた。さすがに手元とキャンバスにはランプをあてて、色が分かるようにして1
      時間ほど格闘した。上手くいったかどうかは見る人に任せるとして、ちょっとシュールな時間が持てたことが楽しかった。まあ、
      シュールというならば、こんなジャングルの渓谷の中で暮らすことそれ自体がシュールなのだろう。もうこんなことを13年もやって
      いる。いつの日か美しい四季がある日本に帰りたいとも思っているのだが、もうあと数年、もうあと数年と、ついつい長引いている。
      私の息子は1歳の時からウブド暮らしだが、彼はこのような暮らしをどう思っているのだろうか。
      そしてこの暮らしも制作も来年はどうなっているか全く分からない。いよいよお金に行き詰まって、破産してしまうのではないか、と
      毎年思いながら制作してきたし、実際今まで2回ほど生活できないほど苦しい収入の年もあったが、その度に何人かの人や法人
      が続けて絵や染織作品を買ってくれたりして助けてくれた。なんとかなるものである。とにかくいまのところ栄養失調で衰弱してい
      ないし、画材もまあなんとかなっているので来年もこの生活を続けると思う。(2年後はもう全くわからない…)
      先が読めない生活はとても体力を消耗させるが、絵も描かせる。まったく皮肉なものだ。





                           ( 真夜中の渓谷  油彩   F20号 2003年)

                       










      2003年4月27日


     子猫たちは遂に部屋から出て生活し始めた。お母さんであるマリのオッパイを飲む回数もかなり減ってきた。
     食事は大人猫と全く同じものをパクパク食べれるようになった。
     茶トラは「チャイ」、白黒ブチは「ブチ」、ミケは「メイ」、黒は「チョコ」、と呼んでいる。時々ガラの名前で呼ぶときもある。

     実は、マリは人に捨てられた猫だった。その理由は、この猫だけ与えた餌を食べないからだ、ということだった。捨てられたところを
     見てしまった私が不憫に思い、迷ったあげく家に持って帰ったのだ。小さくてやせ細ってガリガリだった。もうだめかなとも思った。
     その猫が今や4匹の子猫のお母さんで、子猫たちも、もうすぐ親離れの時期がきている。あの時思い切って拾ってやってよかった
     と今はつくづく思う。マリがいなければこの子猫たちも今、この世に存在しないのだ。
     しかし熱帯であるバリはウイルスが強く、人間も猫や犬も、死ぬ時はあっという間にバタバタ死ぬ。私達3人も13年の中でそれぞれ
     1、2度は極めて危ない状況を体験してきた。バリ島は地上の楽園だが、日本では体験しない凄まじいウイルスにも必ず遭遇する時が
     来る。そういう時は薬以外に自分の「体力」が重要なポイントになる。体力が落ちると命にかかわることも多い。その覚悟無しに熱帯の
     途上国に住み続けることは出来ない。
     ましてや猫や犬はよく死んでしまう。この子達の未来にもまだまだ大きな危険がいっぱい待ち受けている。

     日本は春が終わりを告げようとしている時期か。時々、4月になると無性に日本に帰りたくなる。少し暖かくなった風を受けて夜桜を
     見たくなる。その願いは贅沢だ。とは分かっているがやはり日本の移ろいゆく4つの季節をそれぞれ味わいたい。
     宮嶋も雪国育ちなので時々雪を見たいと言っている。もっとも去年の夏、剣岳に登った時、雪渓を嫌というほど歩いたので、雪は3人とも
     見ている。しかしやはり、冬にしんしんと降る雪を見たいのだ。そして秋に、ひんやりと頬を刺す透きとおった風も受けてみたい。また、
     あの晩秋のなんともいえない物悲しい夕暮れも味わいたいのである。日本にいればバリを思い、バリにいれば日本を思う。
     自分の現在手に入らないものはいつも美しく感じる。この感覚は私だけのものではないのだろう。
     

     


                            (マリと4匹の子猫たち。生後40日を越えた。)
                            







         2003年4月22日

         ひさしぶりに13年前に描いた絵が私の元に戻ってきた。昔一度、あるギャラリーに売ったのだが、私の最近作と昨日交換
         してもらったのだ。野球の交換トレードのようなもの。バリでは珍しくない。お互いが納得すればすぐ交渉成立。

         この絵は私には懐かしい絵だ。今より絵の具使いが慣れていないところもあるが、それ以上に絵から熱い思いを感じる。
         今でも心を熱くして描いているつもりだが、やっぱり比べてみると分かってしまう。この絵には中学校の教師を辞めて、
         バリに長期滞在したばかりの頃の「開放感」が画面からほとばしっている。こういう絵は日本ではほとんど売れない。小汚いし、
         未完成に見えるし、風景がバリっぽくないからだ。一方、バリでは絵を飾り物としてではなく、「絵」そのものとして買う現地の
         美術館やギャラリーが意外に多いし、欧米の旅行者のほとんどは自分の感性を信じて「絵」として買うことが多い。だからこの
         ような外面が悪い絵も拾われることが多い。外国では日展理事も無名の絵描きも「絵」の中身で買われる。ある意味とても
         シビアな世界だ。
         この頃の絵はずいぶん売ってしまったので手元にあまり残っていない。
         だからこの絵はもう売らないことにした。

         
         昨晩のNHKで放映された山田太一さん作の「ながらえば」は感動した。もう何度も見ているし、脚本もバリに持ってきているけれども
         見るたびに新しい発見がある。笠智衆さんと宇野重吉さんの緊張感のあるやり取りは絶品だ。1時間のテレビドラマでも名作はでき
         るのだとあらためて知った。演出は丁寧な作りが美しい伊豫田静弘さん。それにしても山田太一さんと笠智衆さんのコンビは凄い。
         「今朝の秋」(これもNHK)を見たときのあの静かな深い感動は今でもしっかり自分の中に残っている。私の大好きな深町幸男さんの
         NHKでの最後の演出作品でもあった。
         NHKの受信料は高いけれどこういう番組を再放送してくれるので感謝もしている。

         家の子猫たちはここ数日でテラスから飛び降りたり、台所に入ってきたり、行動半径が飛躍的に伸びてきた。親離れは間近だ。




                          ( ウブド.ポンゴセカン村風景 油彩 M20号 1991年作)

                        
         







         2003年4月15日


         昨日NHKが国宝シリーズをしていた。出てきたのは本願寺「黒書院」という江戸初期の数奇屋風書院造りの部屋。
         徳川家光の頃に本願寺の良如上人が作った。
         中は粗木を用いた私的な室で、歴代ご門主が寺務をとった所らしい。当時も現在もほとんど誰も入ることが出来ない
         「裏」の部屋である。 「表」の部屋も隣に有る。「白書院」と言う。それはもう華やかな贅を尽くした接客も兼ねた部屋だ。
         黒書院の中は一の間(門主室)二の間を中心に、茶室、鎖の間、広敷などがある。幾何学絞様(きかがくもんよう)の欄間
         や、一の間の床・違棚の配置、釘隠の意匠にも特殊な考慮がなされて張り詰めた空気と静けさを漂わせていた。何よりも
         狩野探幽筆の襖・貼附の墨絵が素晴らしく、部屋の隅々まで「調和」が一部の隙も無くなされていた。

         私がその部屋のたたずまいからまず感じたのは「母の羊水」のイメージだった。
         隣の「白書院」が豪華絢爛の「人目や評価を気にした表のシャバの世界」ならこの黒書院は「自分だけのための心の空間」を
         再現した部屋だな、と直感した。「自分の居場所」だ。
         話を聞いていくと、当時の良如上人が徳川家に気を使って、白書院などの豪華絢爛な部屋や門を接待のために作ったのだ
         が、実際の彼の心は、ちょうどそれとは逆の「静寂」を求めていた。とのことだった。それで白書院で思いっきり色を使いまく
         って豪華な絵を描いた探幽に、今度はそれとは全く逆の、静かで内省的な水墨の世界を要求したのだそうだ。良如の気持ち
         を理解した探幽はその部屋に見事に調和したそれまでの狩野派とは異質の水墨画を精魂込めて描いたという。
         完成して後、良如はこの部屋を心の棲家としてこよなく愛し、5年後にこの世を去ったという。

         2年前に建てた私の住んでいるこのジャングルの棲家も私と宮嶋が「自分達の心の棲家」として造ったものだ。どの部屋もどの
         場所も人の目を排除して自分の眼だけを掬い取って造った。それぞれの場所を大事にしたいので、台所も、食堂も、浴室も、
         トイレも、寝室も、居間も、アトリエも、全て別棟にして、それぞれの場所で不便を楽しんでいる。今年の2月からはアグンライの
         家族数人以外はウブドの友人や日本からの友人をも含めたどなたにも一切来訪を御遠慮いただいている。冷たいと思われるか
         もしれないが、静かな心で絵と向かい合いたいという気持を大事にした結果だ。
         そのかわり家の外や町では人といくらでも会って、楽しんでいる。私や宮嶋にも心の羊水、「黒書院」は必要なのだろう。

         家の子猫たちは瞬く間に大きくなっていく。もう大人と同じ食事をし始めている。成長が早い。メスはこのあとたった6ヵ月後に
         子供をもう産めるのだから凄い。このままではドンドン増えていって猫に家を乗っ取られるだろう。とほ。
         
         

                         本願寺 黒書院

                        






                    (衛星放送の機械の上は温かいので彼らのお気に入りの居場所)

                       
         
            


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