バリ日記バックナンバー
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         2003年4月9日


         今回のバンコク行きで、思わぬ幸運が2つあった。ひとつはのシンガポールエアラインで「たそがれ清兵衛」を
         観れたこと。もう一つは日本ではなかなか手に入らない ゴッホ全油彩画集   タッシェン社・ミディアートシリーズの
         Van Gogh The Complete Paintings)の英語版を安く(4000円)で手に入れたことだ。

         このタッシェン社のゴッホの全油彩画集は、「画家への道」「ヌエネン時代」「都会の体験」「絵画とユートピア」「不安の叫び」
         「終章」にわけてこと細かに収録されていて、行方不明の絵や描きかけの絵なども全て収録してあるので、ゴッホの仕事を
         全部見たい時にはとても便利。当時のゴッホを含めた関係者達や関連のあった場所の写真も出来る限り載せてくれて、
         それも親切。それぞれの解説もたっぷり載っているので電話帳くらいの厚さになる。
         96年に全2巻で刊行したものの合本版だ。載っている作品は871作品(ほとんどカラー)!。日本語版はもう入手が極めて
         困難だ。バンコクの紀伊国屋洋書部門のコーナーで見つけた。(英語版はまだ日本でも注文すれば手に入る。)
         こんなもの、もし日本の出版社が作ったら1万円くらいはするだろう。洋書は安い時は安いから嬉しい。

         私はゴッホの画集を何冊も持っているが全て日本に置いてある。1冊1冊が重いのだ。それでつい、バリでは小さな画集で
         間に合わせていた。しかしそろそろまじめに全画集をバリで見たくなっていた。だから、とてもよいタイミングだったといえる。
         もちろんこの本には欠点もある。日本で出ているゴッホの画集と比べて印刷の色の出方が若干よくないことだ。しかしまあ、
         日本の画集の色もひどいものは相当ひどいので私はこの本でも満足である。私の恩師の坂崎乙郎先生が監修された「ゴッホ
         全画集」はおそらくゴッホの画集としては、色とマチエールの出方が最高だと思われるが、とにかく大きいし重い。

         というわけでこの本を暇さえあればぺらぺらめくって見ている。私が見たことも無いゴッホの絵が時々見つかるのでとても嬉しい。
         英語もそんな難しい単語は無いのでまあ大丈夫(だと思う…)。楽をしたければ、スキャナで撮ってパソコンに翻訳させれば
         簡単だ。(ちょっとたどたどしい訳だが)
         
         「たそがれ清兵衛」も静かなリアリティがあって近頃の映画の中では珍しく地に足がついていた。映画の中に風が吹いていた。
         それで時代劇をもう何本か見たくなったのでバンコク滞在中レンタルで自分が好きな黒澤明の「用心棒」と「椿三十郎」を見た。
         やはりどちらも凄まじい映画。たそがれ清兵衛が吹っ飛んでしまった。なんというアクション。なんというテンポ。凄いエンターテイ
         メント!全編を通して全く飽きさせない。スタッフもキャストも燃えている。時代も燃えていたのだ。

         映画は「理屈」や「理念」を表に出して作ってはいけないのだろう。「感覚」と「運動神経」を前面に出して作るのだ。ということが
         よく分かった。絵もそうなのだろう。それでも今の時代で「たそがれ清兵衛」が作れたのは注目に値する。さすが山田洋次さんだ。

         ちなみに、「用心棒」は映画なので2時間観なくては完全に分からないが、「絵」というものは1分でエネルギーが伝わる。
         そして言語も予備知識も何も必要としない。そのうえ誰もが「絵心」さえあれば今すぐに描ける。お金もそんなにかからない。
         すばらしい世界共通の感覚だ。外国で絵を描き、外国人に絵を売ってきて13年。このことはいつも感じる。



                              ゴッホ作 「グラスにアーモンドの花咲く小枝」1888年

                                  








         2003年3月31日

         バンコクから一昨日帰ってきた。途中立ち寄ったシンガポールでは戦争の影響で、空港に何組もの自動小銃を
         持った軍隊の若者達が警備にあたっていた。テロ行為を未然に防ぐためだろうが、少し緊張が走る。
         もちろん飛行機はいずれも空席が目立った。
         その後行ったバンコクではパスポートチェックは厳しいもののそれ以外は例年と変わらない雰囲気だ。
         特にいったん街に出てしまえば、いつものやんちゃな活気がある。
         私は以前このバンコクに住もうとまじめに考えたことがある。
         ちょうどバリ滞在が9年目を迎えようとしていた頃だった。結局、1ヶ月住んでみた結果バンコクの空気の汚れは
         喉が弱い私にはきつすぎることと、私にとっての絵を描ける環境とは少しずれる。ということが分かって断念した。そのあと
         北のチェンマイにもしばらく滞在してみた。美しい街だったが、活気はバンコクの方があった。
         私はバンコクという街が好きだ。人間の気高さはネパールのカトマンズが一番だが(カトマンズも1ヶ月ほど
         住んだが空気が悪くて移住することを諦めた。)、バンコクも捨てがたい。タイ人はまじめで誇り高く優しい。
         (まじめすぎて怒ると厄介だが。)日本人と気質の面で共通点も多い。また、仏教国なのでなじむ。ということもある。
         そして、バリは観光地だがバンコクは人が働く街だ。それゆえ現地の人も外国人もみんな足が地に付いて生きている。
         食べ物も料理のレベルが高いのでとても美味しく飽きない。日本人用の店も、本屋も、日本なみに揃っている。
         不動産物件も豊富で値段も開放されている。その他言えば本当にキリがないがとにかくバンコクは奥深い。
         今は1年に2回ほど10日ずつ滞在するだけだがバンコクという街とはいつかもう少し深い縁が出来るような気がする。
 

         それはそうと…私の家の子猫たちは1週間の留守の間に下の写真のようにそうとう大きくなって動きも激しくなっていた。
         声も大きくなった。
         アグンライの家族がきちんと3食餌をやってくれていたので、安心だった。こういう時は長年培ってきた人間の繋がりが
         ものを言う。4匹とももうすぐ部屋の外に出そうだ。

         ところであさってはいよいよ「オゴオゴ」が街を練り歩く日である。その次の日(4月2日)はバリは「新年」を迎える。

    

                 (子猫たちは何度か下に落ちてその度にマリが口にくわえて戻していた。)

                  




                  (3月23日のシンガポール空港内 厳しい警戒態勢が引かれていた。)
                      








          2003年3月24日

          私の家の青年黒トラ猫(スー)が最近、マリや赤ちゃんたちといっしょにダンボールの中で仲良く寝ている。
          マリは別に気にすることなく、かえって暖かいので歓迎しているようだ。おかあさんでもないのに時々子猫
          たちはスーのおなかに吸い付こうとする。面白いのはスーがそれを嫌がってないことだ。まったく不思議な
          猫たちの世界。
          ちなみに子猫たちは4匹とも目が開いた。そうとう激しく動くようになった。
    
          

          3月24日から29日まで用事でタイのバンコクに行ってきます。それゆえ次回更新は少し間があき、3月30日です。




(黒トラの「スー」はよく子猫と一緒に寝る。子猫も母親と間違っている。)(マリと子猫の場所にスーも寝に来る。温かいのでみんな気持ちよさそう)
        







          2003年3月20日

          ほんとに最近雨が減った。ついに雨季が終わったのだ。思えば、今回の雨季はそれはそれはすさまじい勢いがあった。
          雨季が好きな私も、さすがに今回だけは体調がすぐれなかった。どの家も雨漏りがそうとうあったと聞く。
          ようやく晴れる日が続くようになりオゴオゴの準備も、4月1日に向けて順調に行っているようだ。

          私の家の子猫たちは徐々に大きくなってきた。「黒トラ」は目が開いたもよう。「白黒ブチ」はよくよく顔を見ると茶色も
          少し入っているので「白黒ブチちょっとだけミケ」というミケだった。「茶トラ」は最初に出て来たせいか一番良く動く。
          「ミケ」はおかあさんのミケ遺伝を強く受けた模様。今のところ問題なし。おかあさんの「マリ」はとにかくよく食べる。
          私や家族が台所に入るたびについて来て餌をねだる。オッパイを出す分栄養を取らないといけないのだろう。
          バリの野良猫が子供をたくさん産んだときなんか悲惨だ。子供に全部栄養を吸い取られるし餌を探す時間も制限されるので、
          ガリガリになって栄養失調で死んでしまう時もあるくらいだ。
          時々アグンライの敷地から「おとうさん猫」の「マニス」が遊びに来るが、まったく子供に関心なし。自分の子供と思っていない
          のだろう。猫はおかあさんだけが育てる。という「種」なのだろう。

          もうすぐ戦争が始まる。人間は猫のように、静かに、慎ましくは生きれないのだろう。
          みんな、ブッシュが悪い、フセインが悪い。と言っているが、そもそも人間という種は「戦争」をする動物なのだと思う。
          「理念」の問題ではなく、「種」の問題だと思う。他の動物には必要ない「自我」という、やっかいな作り物をかかえている人間
          にとって、どこまでいっても、なにをしようとも「自我」は不安定で、ウソっぽく、「満足」という感覚はやってはこない。
          そして猫にはない「漠然とした死に対する恐怖」を常に「自我」の中に根深く抱え込んでそのことを抑圧しているため、
          時々ヒステリックともいえる「ガス抜き」をしてしまうのであろう。もちろん表向きは「やむを得ない理由」「大義名分」を主張しな
          がら。

          石油が欲しいから戦争をするのでもなく、テロを無くすために戦争をするのでもない。
          そんなものは最後の引き金、大義名分にすぎない。人間は自分自身の「自我」の問題として「戦争」をするのだと思う。
          漠然とした死の恐怖に絶え間なく脅かされ続けている「自我」の「ガス抜き」は権力が大きくなればなるほど規模が大きくなる。
          
          昔から絶え間なく世界中で続いている民族紛争はその小規模な「ガス抜き」だと思う。超大国アメリカの「ガス抜き」は大きな
          ものになることはそれゆえ必然なのだろう。そして運の悪いことにブッシュ大統領は「幼児性」を根深く持っている。あの顔や
          ポーズ、発言を見聞きしていればすぐわかる。強大な権力を持ったダダッ子だ。これはもう手におえない。
          
         
          人間には猫のような小宇宙的な安定は無い。
          猫はどこまで行っても猫だし、人間はどこまで行っても人間なのだ。




                          (もうすぐ4匹とも目が開く。マリは今が踏ん張り時だ。)
                     








          2003年3月15日


          3月12日に家のミケ猫(マリ)が出産した。1月6日にアグン.ライの家で飼われているトラ猫の「マニス」とお見合い結婚させ
          たら、見事に御懐妊し、昨日夜無事4匹を出産した。さんざんうろうろした挙句、マリが産み場所に決めたのが洋服タンスの中。
          急遽、家族で、吊るしていた洋服を掻きだして、用意してあったオリジナルの箱をタンスの中に設置。箱の中に入るとマリはすぐ
          おしるしがあったので、いよいよかと身構えたが、なかなか1匹目が出てこない。ようやく出てきたと思ったらなんとシッポが
          見えた。逆子だったのだ。人間だと大騒ぎだが、猫の場合は結構気楽に、長めに力んでスルリと出て来た。まだ羊水に
          包まれたままで息が出来ない状態だったが、マリの顔を子猫に近づけてやると、羊水を割って、顔をなめ続けて
          蘇生させた。最初に出て来た子(茶トラ)が逆子だったので、その後少し心配したが、すこしたつといとも簡単に2匹目(黒トラ)、
          そのあと約20分おきに3匹目(ミケ)4匹目(白黒ブチ)と生み続け、あっという間に4匹出揃った。
          マリは母親のくせにヘソの尾を切るのを忘れがちになっていたので、宮嶋と息子で止血用に糸で縛った後、ハサミで切って
          いった。2人とも手がすごく器用なのでとても上手。私はそういうのは気が小さく苦手で後ろでハラハラ、ドキドキしていただけ。
          さすがに猫は人間と違って、自力でいきなりお母さんのオッパイをしっかり探し、吸い始めた。これでもうひと安心。
          とはいえ、翌日も早めに起きて2時間おきに子猫をチェック。その後も1時間おきにいろいろチェック。(過保護)
          当分眺めて過ごそうと思う。
          私は、昔から子猫を里子に出さないで全て飼う方針なので、このあと生計が成り立たないかもしれない。
          ただ今、大人猫3匹、子供猫4匹の合計7匹!あー大変だ―。




                             (それぞれガラやシッポに特徴がありなかなか個性的だ。)
                         





    
          2003年3月11日

          今日買い物に出かけるときアグンライの家の裏で5人ほどの子供達がしゃがんで火を使っていた。焚き火でもしている
          のかと思い、立ち止まって燃やされているものを見ると、張りぼての牛のミニチュアだった。その横には真新しく作られた
          これまたミニチュアのお墓があり、子供達がお祈りをしていた。聞いてみると飼っていた白い子犬が、交通事故でさっき死んで
          しまったらしい。それで自分達なりにバリヒンドゥーの葬式をしているということ。お墓の石にはきちんとその犬の名前らしきも
          のも彫りこんであり、花が飾られ、線香が焚かれてなかなか本格的だった。私もその犬のことは毎日見て良く知っており、
          日に日に大きくなっていく様を楽しんで見ていたものだ。子供達なりに厳粛な気持ちが漂い、悲しんでもいたので、その場は写真
          を撮らずに遠くから眺めていた。買い物から帰ってくると、すでに子供達は帰ったあとで、お墓の周りは、静かな風が吹いていた。
          彼らが作ったお墓や牛はとても優しく、かわいい。





   (犬の名はロビー、ビーズの飾り物が美しかった。)     (牛の作り物。外の皮は焼かれて剥げ落ちて、中の心棒だけが残っていた。)

         







          2003年3月3日

         私のギャラリーの前に簡易ワルン(よろずや)が出来た。しかしこのワルンは期間限定で、前のお寺のオダランが
         終わるまでの短い命なのだ。それでもみんなとても喜んでワルンに立ち寄りいろいろ話し込んで行ったり、ナシチャンプル
         という定食を食べたり、バリコーヒーを飲んだりして人々の「居場所」になっている。このような子供から大人、そして老人まで
         がその場所を共有できる簡易施設というのは、地域社会にとってとてもうれしい。その近くにもほかに3件くらいワルンがもともと
         ある。大体ウブドウのどの村でも50メートルに1件はある。どんな細い路地にもある。つまり村中、島中、住民の居場所があるの
         だ。私がバリに13年も住み着いた理由の一つが、このワルンの存在だ。実に「居心地」がいいのだ。小宇宙がそこにあるといっ
         てもよい。
         夕方、ちょっとぶらっと入る。コーヒーと手作り生菓子を食べる。ボーッとする。
         お菓子やジュースなどの工業製品だけでなく、そのワルン独自の手作りお菓子や、手作りランチがあるのがうれしい。
         大人が飲むビールやアラック(椰子酒)もある。いつもどこかの子供が何かを買っているし、すぐ隣でおっさんがバリコーヒーに
         砂糖をたっぷり入れて、すすっている。その横では私と息子がブブールというお粥に野菜やサンバルを乗せた軽食を食べている。
         という具合だ。日本にはこのような全ての年齢層に適応した簡易よろずやがない。駄菓子屋は子供だけだし、ファーストフード店は
         あまり老人達が行かないし、居酒屋には子供はいない。バリの「ワルン」は駄菓子屋兼ファーストフード兼居酒屋兼よろずやなの
         だ。見た目は貧弱だがとてもみんなに役立っている。日本にこのようなワルンの存在を許す土壌があったなら私は日本に住んで
         いるのかも知れない。あのバリ中にあるおびただしいワルンの数だけ人々の「居場所」があるのだ。そう思うだけで心が柔らかく
         なる。バリで心を癒されたい人は、エステやスパよりも、少しインドネシア語を覚えて、何日か辺境の村々のワルン巡りをすると
         よい。エステ100回分の威力がある。
         
         


                              これは期間限定のワルン。でもちゃんと定食が食べられる。
                            





          2003年2月25日

          この前息子をモデルにしてイスに座らせて描いていたら、彼はうつらうつら寝始めてしまった。最初は起こして
          また描いていたが、すぐまたうつらうつらしてしまう。こういうことは彼をモデルにした場合実によくある。
          こちらも遊びたい盛りの子供に無理をいっているので強気になれない。そこで眠ってしまった彼を一気に描いてしまおう
          と決断し、描きかけの絵の上から、息子の寝顔を描いていった。寝返りをうたれたらそこでおしまい。ハラハラしながら
          なるべく音を立てずに早描きで決めた。幸い息子は1時間近く寝てくれたのでなんとか絵になるところまでこぎつけた。
          もともと私の絵はあまり時間をかけない。1日で終わることも多いし、この絵のように1時間で終わることもしょっちゅうだ。
          コリコリ描く時でも3日ほどで終わらせてしまう。飽きっぽいのとせっかちなのとが災いして描きかけのような絵も多い。
          そういえば先日トップページにアップした「頬杖をつく龍太郎」も頬杖の手が痛くなってきた。と息子がいうので急遽1時間
          で終わらせた絵だ。私の描き方は風景画でも人物画でも発作的に突然始まり、パッと止めてしまうというパターンだ。
          道楽もいいかげんにしなさい。と世間様のお叱りの声が聞こえてきそうだが、どっこいそうはいかない。ここは日本から
          遥か南方の熱帯。この土地の「世間様」は私に味方してくれている。類は友を呼ぶのである。




                            「午睡」 油彩 P20号   2003年2月16日制作

                             








           2003年2月12日


           アグンライが亡くなってからここ半年で彼の家族に余計な出費が続いた。なぜ彼が42歳という若さで
           亡くなったか未だに理解できない彼の家族たちは、いろいろなお坊さんに何か因果関係があるのでは
           と、聞いていったようで、その結果、あるお坊さんは、台所の位置が悪いからだ、と、のたまい、違うお坊さん
           は部屋の数が寺の祠の数と同じなのが悪い。と、のたまった。それで、ちょうど今年、私から借地の更新
           料が入ったこともあって、台所を敷地内の違う場所に新しく作り、祠の和を2つ増やした。私が払った借地
            料の四分の一が消えていった。それでもまあ、アグンライの家族がノイローゼになるよりはましか、と思い
           私も静観した。バリの人々はまだまだこのような私に言わせれば「迷信」のようなものを信じている。
           それはバリヒンドゥ信仰と密接な関係にある。
           その一つが私の敷地のことについてもいえるようである。彼らにとって霊峰アグン山の方角は聖なる方角であり、
           このサンギンガン村でいえば「北東」の方角になる。私の敷地は北東ですぐ下は深い渓谷になっており、サンギン
           ガン村では私の敷地はとても「聖なる」土地で、一般のバリ人はこのような敷地に絶対に家を建てないそうだ。
           不浄な土地も嫌がるが、あまり聖なる土地もヒンドゥの神様に怒られるので近づけないそうである。
           だから当初、ここに家を建てようとしたときアグンライはずいぶん私を心配していた。しかし私はヒンドゥの
           神様を信じているわけではない。むしろ、日本人なので、どちらかと言うと仏教徒だ。私はアグンライを安心
           させてあげようと思いこう言った。
           「大丈夫だよ、私の信じる仏教ではこの方角は最も建築に適していて家内安全、無病息災が続くんだ!」
           と。彼はとても安心した顔になって「そうだったな。タカアキは仏教徒の国の人だからこれでいいのかもな。」
           と妙に納得していた。何事も信じれば救われるのだろう。

           絵を描くということも信じなければできないことで、信じていない人にとってはどうでもいい行為なのだろう。
           どうでもいいどころかゴッホのように怖がられたり、怒られたりして、まわりの人にとってはとんでもない迷惑
           者になってしまうんだろうな。と、つくづく思う。

           しかしそんな迷惑者であったゴッホの小品が6600万円でオークションにかけられるのだから世の中
           は皮肉だ。あのゴッホの絵だってオークションの業者はゴッホの名前抜きで純粋に絵だけだと2万円から
           3万円ほどと評価したわけだ。だから一般の人にとってはあの絵は「なんか昔風のしょうもない習作みたい
           な絵」というのが正直な感想だと思う。
           オークションの底値というのはそのあたりの一般の人々の眼が正直に出てしまうから面白いし、別の言い
           方をすればそんなところの評価や値段なんて実にいいかげんだ。とも言い切れる。まともに相手にする必要
           はない。ゴッホの名前がつけば加筆バシバシで痛んでいようが、ゴッホの中では決して傑作とは言い切れ
           ないような絵であろうがいきなり6600万円なのだ。ゴッホは10年間で相当たくさんの絵を描いていて、
           同じようなモチーフも同期間にたくさん描いている。それゆえに傑作も多いが、失敗作と思われる絵も多い。
           金儲けや名声目的の場合は「ゴッホ」と言う名前こそが全てなんだろうが、私にとってはゴッホの名前なんて
           どうでもいいのだ。これはゴッホだけでなく、古今東西の有名無名のあらゆる画家の絵にも言える。
           私の持論は絵は常に「匿名」であり、となりのおばさんの絵もレンブラントの絵も関係なく「絵」でしかないと
           思っている。私はゴッホやレンブラントが好きだが、突き詰めて書くとレンブラントのあの絵とあの絵、ゴッホ
           のあの絵とあの絵という風に絵が浮かぶ。
           いつも思うし、これまでも書いてきたが、「最初に絵がある」のであり、そのあとに画家の名声や物語や歴史が
           あるのだ。
           ややこしいことを考えない。
           絵というものを信じるのか信じないのか。 絵を描くのか描かないのか。それだけである。

           ちなみにあの6600万円のゴッホの絵はテレビで何度も見たが眼と鼻に対するしっかりとしたとらえ方に
           ゴッホらしい感覚が残っていた。もし加筆前ならば、ゴッホの中では決していい方のできではないにしても、
           もう少し感覚的なタッチが見えて、そう駄作でもない絵だったんだろうと想像はできる。
           ただ、見た感じそうとう加筆が激しいのでずいぶん絵そのものが単調になってしまっている。うまく修復し、洗える
           といいのだが、ちょっと難しそうだ。

           いずれにしてもたとえ10万円でもいいからゴッホと言う名前でなくこの絵そのものが気に入って買ってほしかった。
           この絵を持っていた中川一政さんは、ひょっとして絵の中身を気に入って持っていたのかもしれない。そうであってほしい、
           と思うのは私だけであろうか。




          
                
                 この絵がゴッホでなかったとしたらいったいいくらくらいで落札されたのだろうか。
                 ひょっとしたらゴッホかもしれないとひそかに思った人は博打のつもりで300万
                 円ほどか。ゴッホということをまったく意識しないで、絵だけ見て買う場合はせい
                 ぜい10万円どまりだろう。


                             











           2003年2月4日



           ここ数日私の家の近くが賑やかだ。「闘鶏」(タジェン)が3日間続いたのだ。もう何度も観ているので
           今回は取材しないでおこうと思っていたのだがあの地面から沸き起こるような、人々のかけあう声が私の
           敷地まで聞こえてくると、どうしても観にいきたくなるから不思議だ。だいたい私の家からほんの80メートル
           のところでやっているのだ。みんな近所の人々なので暗黙の了解で取材OK。知らない外国人だと結構警戒
           される。なんせバリの男達の最も燃える日であり、国家も、警察も、メガワティも関係ないバリ独特の神聖な
           宗教行事でもあるのだ。みんな神経を集中させる。
           前にも書いたがこれはお金儲けのギャンブルと割り切れるほど簡単な行為ではない。そんな甘っちょろい
           ものではない。バリの男達の生死観と宇宙観が入り乱れ、半分トランスに入りながら、栄光と屈辱を手塩を
           かけた軍鶏に託すのだ。足につけたナイフが相手の喉に突き刺さる。血が飛び散る。勝っても負けても
           天然モルヒネ出まくりで誰もが眼が血走っている。このように彼らは闘鶏や宗教儀式に全精力を傾けるので、
           日々の仕事は残りのほんの少し余ったエネルギーで賄い、あくびをしながらお茶を濁している。だからといって
           だれた仕事をしているわけではない。あくまでものんびりと、ゆったり、ふわっと、した気で仕事をするのだ。
           なにやらこう書くと、楽な暮らしに見えるが、それと同時に「インドネシアのリアルな現実」が彼らを打ちのめして
           もいる。

           このHPでは今まであまり触れてこなかったが、彼らを取り巻くリアルなインドネシアの日常はまだまだ厳しく、
           国家や行政は一向に社会福祉、衛生管理、治安の確保などを向上させる気配をみせず、横領や賄賂がまるで
           法律上のことのように横行し、公共料金やガソリンが急激に値上がりし、そしてなによりもそのベースになるべき
           「政治」に、強い意志を持った「高い志」が未だほとんど見られない。この国の未来は闇の中だ。
 
           アグンライが亡くなる少し前、彼はほんの2週間だけデンパサールの病院に入院したがその2週間で、手術をした
           わけでもないのに700万ルピア(9万円)支払った。これは彼の弟の1年分の給料にあたる。私も300万ルピア
           ほど支払いを手伝ったが、結局彼の家族もそれ以上支払えないのでその後入院を打ち切って自宅に戻らざるを得な
           かった。輸血代が高いとはいえ1日でも入院するとレストランの店員1ヶ月分の給料分が飛んでいく。薬や血液などは
           国際標準価格になってしまうのと、この国には日本のような「健康保険制度」などというおいしい制度は未だ無いからだ。
           もちろん医療の質もお粗末なことが多い。
           こういうことは例をあげればほんとうにキリが無い。ここでは書けないようなすさまじいこともたくさんおこる。
           「現実」というのはほんとうに救いの無いことが多い。
           
           バリ旅行にくる人々が、この島が東南アジアである「インドネシア」のなかのローカルな一小島にすぎないことを認識
           した時もう一つの違うバリが見えてくるだろう。
           しかしほとんどの旅行者は日ごろの疲れやストレスを癒しに「リゾート」にくるのであり、どろどろした救いようの
           無い「インドネシアの重い現実」には無関心なのかもしれない。当たり前と言えば当たり前のことだ。お金を払って
           「桃源郷」を買いにくるのだから。
           しかしそう割り切れるとすればそれは同じ生きる人間としてひとつの「退廃」だとも思う。
           

           PS:2月3日、このHPの中の「バリの音」に「闘鶏」の動画をアップ!しました。




                             (闘鶏も雨季の間は急な豪雨にそなえてテントが張られる)

                               









            2003年1月26日



            「末期の眼」



            昨日久しぶりに正面の壁にかけている絵を変えた。今まで、ゴッホの「アーモンドの花」、
            モネの「死の床のカミーユ」、レンブラントの最後の「自画像」 、ベラスケスのこびとや道化師の肖像、
            熊谷守一の「陽の死んだ日」、など自分にとってかけがえのない大切な絵を飾ってきたが、
            昨日、新しく、ゴヤの「ボルドーのミルク売り娘」に変えた。
            
            実は、ゴヤは私にとって人生の最初に出会った画家なのだ。私が13歳の時、京都の市立美術館で
            大々的な「ゴヤ」展が開催され、ゴヤに興味を持っていた私の両親についていったのだが、
            それはそれはすさまじい絵だった。生前には発表されなかった戦争の惨禍シリーズ、黒い絵たち、
            など自分が見たことも無い人生の裏側をえぐった絵を次々に見ていくにつれ、あまりの凄さにめまいや
            吐き気に襲われ続けながらも強烈に引き付けられる引力を感じた。この世界にはなんとすさまじい絵を
            描く人がいるんだろう。と。
            そのあと30年ものあいだ世界のいろんな絵を見てきて思うのはゴヤは決してレンブラントやティツィアーノ
            のような優れたデッサン家ではないし、彼が憧れ続けたベラスケスのような天才でもないが、持っている
            生命力やパワーは底なし、ということだ。あのしたたかさと途切れることの無い不屈の精神の持ち主は世界
            でもそうはいない、と思っている。特に耳が聞こえからなくなってからのタッチは生きている。

            1764年スペイン片田舎のメッキ職人の息子から、したたかに43歳で宮廷画家にまで一気に登りつめた
            栄光と、47歳のころ高熱の後遺症で聴覚を失ってからの当時の世相をも背景にした地獄、を身をもって
            味わっていく後半生。心の落差のなんと激しいこと。
            あの銅版画80枚「戦争の惨禍」シリーズは60歳を越えてから。
            あの自宅(聾の家)の壁に描いた「黒い絵」シリーズは70歳を優にこえていた!すごい気力と反骨心だ。

            最晩年、眼も気も弱ったゴヤはフランスのボルドーに亡命するがその絶望の果てにゴヤが最後にみたものは、
            ロバに揺られながら朝日を浴びる少女だった。この死の数ヶ月前に完成した「ボルドーのミルク売り娘」には
            澄み切ったゴヤの最期の境地が垣間見られる。これがいわゆる「末期(まつご)の眼」というものであろう。
            「美しい。」そうしか言いようのない作品だ。
            ゴヤの「一生一品」は、人生最晩年のこの作品だと私は確信している。
            82歳でこの世を去ったゴヤが故郷スペインに埋葬され直したのは亡くなって70年後のことだった。






             (黒い絵― 犬 1820年ごろ  )                  (ボルドーのミルク売り娘 1827年)

                         
          







            2003年1月19日


            ウブドにはギャラリーがたくさんあり、様式も、コンテンポラリーアートから伝統様式まで
            なんでもある。ほとんどは生活のために描いた絵で、売れることを第一目的としている。
            それゆえに変に芸術ぶってなくて好感が持てる絵が多いのだが、生活のためゆえに
            「媚」が絵の中に入ったものも少なくない。また同じ絵を平気で何十枚も見ることもある。
            それでもほんの時々、すばらしいと、感銘を受ける絵もあるのがバリのギャラリーなのだ。
            なかなか侮れない。

            前々から紹介したかった「絵」がある。その作者とは面識がなく、名前も聞かなかったが、
            かなりお年の方らしい。その60号ほどの絵はウブドゥの中心部にあるギャラリーの2階に
            飾られているのだが、作者本人も相当気合を入れて描いたらしく、二度とこの質の絵は描けない
            ということで「非売品」にしている。というなのだ。普通、バリのギャラリーが、利潤を伴わない
            「非売品の絵」を飾るというのはとても珍しい。このギャラリーのオーナーも彼のこの絵を気に入って
            いて是非飾らせていただきたいたい、ということで、もう何年も前から飾ってある。
            その絵には、この世の地獄とその向こうにある救い、が描かれてあり、尋常でない緊張感と品格が
            画面から滲み出している。地獄絵ふうのものはバリ絵画では珍しくはないが、このようにパワーの
            宿っている絵はよほど昔の時代にさかのぼらない限り無い。
            絵画技術もさることながら、作者の生きざま、世界観、制作姿勢、日常、が画面から窺い知れる絵
            だと思う。
            1000枚の「売り絵」に混ざって1枚の凄い絵がある。これだからバリのギャラリーめぐりは面白い。
            日本のギャラリーは露骨な売り絵は少ないかもしれないが、このようなパワーのある本物の絵も
            少ない。東京などのギャラリーを何年見て回ってもテクニックがほどほどにある器用で小奇麗な絵ばかり
            だった。シビアに言えば「土壌」の有無ということになるのか。



                        (様式的にはウブドゥスタイルの一派にあたる。)

                   









            2003年1月13日


           アグンライのお父さんの背中の油彩(15号)を先日アップしたが、あの絵以外にもうひとつ同じポーズで同時に
           細長い60号ほどの大きめの絵を描いていた。全身を描きたかったからだ。しかしなかなか立ちポーズの全身と
           いうのは厄介だ。それでも彼の立ち姿が好きなので、無理を言ってもう何回か同じポーズをしてもらった。ずいぶん
           地味な絵になってしまったが、まあこんなもんだろう。
           それとは別に今、息子を100号Fで描いているが、これは早描きの私もさすがにいつものようにはいかない代物だ。
           絵の価値というのは大きい小さいではないし、古今東西の名作は意外に小さい絵が多い。しかしそれでも時々は
           頼まれもしないのにこのように大きな絵も描きたくなる。理由は自分でもはっきり分からないが、まあひとつの制作上
           の大きなリズムとでもいうものだと思う。大きな絵は上手くいってもいかなくてもほとんど売れたためしがない!売れる
           時は30号までの小さな絵で、60号や100号は飾るだけで終わる。ましてやモチーフがかわいい女の子や風景画で
           ない場合が多いのでなおさらである。それでも時々気に入ってくれる人もいて、ごく稀に大きくても買ってくれることが
           ある。ありがたいことだと感謝している。
           


                           (バリの農夫U 120×60センチ  油彩 2003年 )

                              








            2003年1月9日
           

            昨日も雨、今日も雨、雨雨雨…全然止んでくれない。2週間雨だ。おかげで風呂場の屋根と寝室が雨漏りしだした。
            修理するのに一苦労。この地では、家を作るのも、電話線を引くのも、それらを修理するのもすべて自分達
            でするのだ。まさにサバイバルである。今も下の川の轟音が凄い。

            雨の晴れ間をぬって息子が花火を買ってきた。日本は真冬だが、バリは1年で最も暑い時期に入った。
            つまり南半球のバリは今「夏」である。私も昔は花火が好きで中学校のころまでし続けた思い出がある。
            花火そのものもきれいだが、それをもつ人の顔にあたる光がなんとも妖しく神秘的でその場の雰囲気を
            楽しんでいた。息子は私と違って「アクション ペインティグ」風に花火を振り回したり、走り回ったりする。
            キャラクターの違いってあるなあ…。と唖然としている。彼のパフォーマンス作品?を貼り付けます。
            デジカメを撮ったのは私なので合作ということか。



       (下↓ 好きなように動いていたのを好きなようにカメラで撮ったらこのようになった。)    (左が台所で向こうが東屋兼食堂↓)



               






               





                              


            2003年1月1日元旦

            久しぶりに粘って初日の出を見た。今は雨季だが朝はたいてい晴れる。美しい朝だった。
            昨年はよく絵を描いた年だった。タブローだけでも60枚くらいは描いただろう。成功したしないは関係ないと思っている。
            そんなものは所詮主観だし、時とともに自分の眼も変わってくるからだ。大事なことは、描きたいという気持ちを最優
            先にしてできるだけ描きまくることだと思う。私の場合、描いた絵全てを自分のギャラリーに飾るわけではないし、個展の
            回数も少ない方なので、ひとに一度も見せない絵が全体の40パーセントくらい出てくる。これは絵が何だかかわいそうだ。
            いつかどこかで陽の目を見なかった作品たちを展示してみたいものだ。まあ、なるべくこのHPでその手の絵を掲載しては
            いる。私は個展やギャラリーで展示されないそれらの絵のほうが個人的に好きなことがよくある。
            去年はほとんど病気や怪我なしに絵を描くことができた。このことはなによりもありがたいことだった。神様はまだ私に
            『絵を描いていいよ』、といってくれているのだろう。と、自分勝手にそう思っている。我ながら能天気だ。


                       (朝焼けに染まる渓谷の丘 2003年元旦 ウブドゥ.サンギンガン村)
                         
          







            2002年12月22日

            先日アグンライのお父さんが毎度のごとく庭の草刈を1日がかりでしてくれた。やはり雨季の草は伸びるのが早い。
            つい3ヶ月前に刈ってもらったばかりなのにもう伸びてしまった。彼はもうそろそろ70歳になるがとても元気で田んぼ
            仕事や石切や木登りを難無くこなす。息子のアグンライがこの9月に死んだときは黙って遠くを見ていた。
            私も宮嶋もこの人の立ち姿が好きでよく作業中の彼をスケッチしたり、少しモデルになってもらったりして絵のモチーフ
            にしている。最近ちょっと彼の背中を数日間描かせてもらった。年輪を重ねた美しい背中だった。いつもなら一気に描き
            まくるのだが今回はちょっと多めに描きこんでしまったか。しかしまあ、たまにはこういうコリコリした絵も悪くはない、と
            いいわけしている。
            ウブドウはクリスマスが近いせいか、ずいぶん活気が戻ってきた。旅行者もどんどん増えているようだ。
            日本人旅行者も相当多い。現地の人々はすこしみんなほっとしている。それにしても今日で6日間雨が降らない。つい
            この前まで毎日のように豪雨だったのが嘘のようだ。しかしそろそろまた降るぞ。



                             (バリの農夫  油彩  65×53cm  2002年 )

                              








            2002年12月15日

            電話が壊れたり直ったりしていたのだがようやくきちんと直った。(かもしれない。)こんなジャングルの中に住んで
            いると、実にいろいろな問題が起こる。水はよく止まる。1日2日はあたりまえ。停電は雨季の間は3日に一度はある。
            長い時は2時間続く。衛星放送のテレビもしばしば乱れる。巨大動物や危険動物との遭遇。昨日も息子は2メートル
            近いオオトカゲと台所の傍で目が合った。まあ息子は全て慣れているから驚かないが…。
            そしてここ数年困っているのは電話の不通だ。なんせ通りから道無き道を300メートルも渓谷沿いまで歩いて
            ようやく私の家にたどり着く。バイクも車も自転車も通れないジャングルの中だ。電話線を引く時も自分で引いたので
            一苦労だったが、豪雨が続くと線の繋ぎ目が錆びて通話ができなくなる。だから雨季の間は1ヶ月に1回ほど錆び
            を取りながら繋ぎ直す作業が続く。こんな状況でHPを頻繁に更新できているなんてタフだね。とウブドゥ在住の知り
            合いたちは言う。実際私のように5日に1度くらいHPを更新しているバリ在住の人は極めて数が少ないようだ。それだ
            けこの地でHPを作り、更新していくということは疲れる作業なのだろう。(パソコンに強い息子の手助けのお陰だ。)
            今日も昼はスカッと晴れたのだが夜に2時間ほど雷雨。あまり稲光が続くのでデジカメに撮った。それなりに美しいと
            思ってしまうから不思議なものだ。
            




                   (深夜の11時に30分続いた稲光。近くにもひとつ落ちた。ちょっとびびった。)

                       








            2002年12月7日

            

            最近アグンライが残した絵を、彼の家族達と一緒に写真に撮る作業をした。彼は彫刻家だったが、ほんのちょっとだけ
            だが絵も描いた。もちろん彼は絵を売ったことがない。(厳密にいうと過去に私が1枚だけ買ったことがある。)
            油絵具はバリの人々にとってとても高価なもので、彼がときたま描く時も干乾びた古い絵具を絞り出すようにして
            絵具を薄く引き伸ばして大事に使っていた。残された絵のほとんどはほのぼのとした田園風景や村の風景、踊り子
            などだが、1枚だけちょっと不思議な絵があった。植物と空の関係が不思議な幻想的な絵だ。でもよく見ると
            未完成のようにも見えるが、描かれてから時間がたっているので家族もその絵のことはあまり覚えていなかった。
            私は「いい絵だ」と感じた。残った絵の具で描いたと思われるその絵はそれゆえに青の不思議な世界に包まれ
            ていた。彼の息吹が感じられる切ない絵であった。


            PS:  豪雨の影響で電話が4日間不通になり、更新が遅れてしまいました。よくあることで、今後もいろいろ
                 更新できなかったり、HPが開けれなかったりすると思いますが、根気よくお付き合いください。なんせ
                 熱帯のジャングルのなかで更新しているものですから。(^^;)ゝ




                  (↓風景 アグンライ.ブディアルタ作  油彩 30×60センチ 1999年頃)  

                                   




               (川辺の風景 アグンライ.ブディアルタ作  油彩 45×35センチ 1998年 
                この作品は昔私が買ったので私の部屋にある)

                      








            2002年12月1日

            しかしそれにしても毎日長いスコールが降る。今日などは昼から真夜中まで豪雨が続いている。
            今これを書いている間も真っ暗闇の中を増水した川がものすごい音を立てている。まるで嵐の中でさまよっている
            ように心細く恐い。そしてこの世界で今おこっている数々の恐怖のように果てしない。
            私の人生もこの豪雨のように全く先が見えない「真っ暗闇」だが、そのなにも取っ掛かりのない闇のそのまた
            遠く先に小さな光が見える。その光が唯一私に「平安と勇気」を与えてくれる。それがビンセント.ヴァン.ゴッホの
            何枚かの絵だ。どんなバイブルや哲学書よりも私の心にそのつど付着する錆びや垢を洗い流してくれる。
            そしてこのややこしく入組んだ人生をとてもシンプルに見せてくれる。私は、自分の人生はシンプルでありたいと
            願っている。過去の愚かな過ちも、未来の不安も関係なく今日の一日を「絵」とともに生きれたら。とそればかり
            思っている。
            クタで起こった悲劇もアメリカが今しようとしている戦争もこの現実の世が「無間地獄」であることを私に知らしめ
            る。そしてそれらのことにより虚無に陥りがちになる私の心に希望の光を与えてくれるのがゴッホの絵であり、
            レンブラントの自画像なのだ。優れた音楽や絵には戦争を止める力はないかもしれないがが、戦場にいった兵士
            や残された家族、不安に怯える市民の痛んで傷ついた心を優しく包み込んでくれる力があると思う。
            もちろん私はそのような絵が描ける筈もなくただ自己満足の絵を描いているに過ぎない。またそのような絵の
            効力を思って絵なんて描くものでもない。ゴッホは絵を描くのが好きだから描いたのであって、それ以外のことを
            絵を描く時は考えていない。描いたあとはいろいろなんでも考えるが、絵を描く時は無心である。これがほかの
            画家とゴッホの違いだと思うし、ゴッホの天才性もここのところにあると思っている。つまりゴッホは誰よりも
            「絵が好き」だったのだと思う。ただそれだけのことなのだろう。だからこそ彼の絵はみずみずしく美しい。
            
            





           (9月に見た兵庫県立美術館のゴッホ展から一つ紹介します。 『ローヌ河畔の星空』1888年9月制作)

              








            2002年11月25日

            ようやく本格的な雨季が訪れたのかここのところ毎晩スコールが降る。庭の草木も向こうの丘もようやく
            生き返って深呼吸してきた感じだ。スコールが強く、雷が鳴りまくる時はよく停電になる。短いときで20分
            長いときは2時間ほど暗闇が続く。不便といえば不便だが、暗闇というものもなかなかいいもんだ。何もする
            ことができないので何もしないで長椅子の上でぼーっとする。1時間くらいぼーっとすると心が安らぐ。虫の音や
            子牛の鳴き声、川の音、ガムランの音、がよく聞こえる。

            私が幼いころの日本も時々停電があったように覚えている。今の日本は年に1度あるかないかであろう。機能的には
            とても過ごしやすいが、考え方を変えれば、それだけ緩みがなくなって、身動きが取れなくなってきたともいえる。
            インドネシアはまだまだ国としてはかなり不完全で、公共サービス、福祉、医療、保険、警察、などは未成熟で相当
            深刻な問題になっているが、そのぶん「緩み」もあって、人々の心も開放的である。国家が成熟しているからといって、
            その国に住み続けたいとは限らない。成熟は「管理」をともない、「緩み」を許さない場合があるからだ。
            先日絵描きのジェイソン.モネと再会して話をしたときもそのことを彼の言葉の端々から感じた。成熟したヨーロッパ文明に
            閉塞感を感じ、そのしがらみから遠い東南アジアの地で自由に創作活動をする彼を見ていると、彼が手に入れたいものが
            「便利で衛生的で長生きができる生活」ではないことは明らかだ。

            私もなぜこのような土地に12年も滞在しているのだろうか。
            物価が安い、だけではあるまい。欠点は数え上げたらきりがないくらいある。 泣きたくなるような信じられないようなことも、
            日本では起こりえないような理不尽なことも平気でおこる。しかしこの土地がそれでも私にとって日本より居心地がよいのは
            「人の体温」の差かなと思っている。この土地の人はいろいろあれど、心を開放して生きている。だから彼らの心の喜怒哀楽が
            見える。と、いうことはその「生と死」も見えるということだ。つまり私の生と死もそれによって鏡のように見えてくる。そう、この
            土地には「リアりティ」があるのだ。

            この感覚は今の日本の中では「死語」になるくらい感じられないし、日本の若者たちはそういうものをもう求めては
            いない。しかし、私は求めている。どちらがいい悪いではない。私がそういうものが好きだ。というだけの話だ。死ぬまで求め
            続けたい。だからこそ絵を描くのだ、とも思う。
            
            



              (久しぶりの再会を喜び合うジェイソン.モネと私。彼は本当に人懐っこい。)

                 
            
            






            2002年11月20日

            ついにドリアンの季節がやってきた! 私のアトリエのすぐ裏にもドリアンの大きな木が3本ある。いよいよ実が
            たくさんつきはじめた。大きな木なので一本にだいたい50個以上の大きな実がつく。町の市場もドリアン一色だ。
            ドリアンはこのHPにある息子の4コマ漫画にも出てくるが、「果物の王様」と呼ばれていて、あの独特のイガイガがある
            外見と中の実の濃厚な味わいとが妙にマッチして、絶大な人気を誇っている。日本の大きな果物屋さんでも時々見
            かけるが、ひとつだいたい5000円くらいはする。アトリエの横の3本の木には合わせて合計150個くらいの実がつく
            ので、日本での末端価格は150個で70万円以上である。もちろんここでは1個約100円である。私はお隣なので原価の
            70円でわけてもらう。ドリアンは選び方が難しい。匂いだけでは選びきれないので包丁でちょっと切ってみて中身を
            チェックする。一度好きになると病み付きである。きりがない。台所がドリアンの匂いいっぱいになる。そのかわり
            嫌いな人は、見るのもいやだぁぁ。匂いもやめてぇー。となる。バリでは好きな人8割、嫌いな人2割くらいか。

            病み付きで思い出したが、今日はガルンガンの前の日。アグンライの家族からいつものようにおすそ分けの
            ラワールとサテを今回もまたまたもらう。私たち家族がラワールに目がないことを彼らは知っているので、昼も、夜も
            おすそ分けをしてくれた。私は昼に生を2人前、夜も蒸したものを2人前食べた。それでもまだ食べたい!これはもう
            ラワール依存症。文字通り 「病み付き」だ。今こうして思い出しているだけでもまた猛烈に食べたくなってきた。
            秘密はあの独特の香辛料にある。
            バリ人もラワ−ルのことになると目が血走る。世の中には美味いものがあるのだ。バリにきた人はぜひご賞味を。
            最初はあまりのエキゾチックな味にヒエェーとなるでしょうが、何度目かには夢にまで出てくるほど、とりこになっている
            ことでしょう。保障します。





                   (アグンライのお父さんは今年70歳くらいになるが、ドリアンの大木に足の裏に草鞋を縛っただけで
                    命綱を使わずにひょいひょいと上っていく。凄すぎる。でも本人にとってはただの日常敵行為)

                            








            2002年11月15日

            最近毎日ランブータンを食べている。ランブータンとはライチーをもう少し大きくした感じの果物で、甘くてさっぱりし
            ていて後を引くのだ。どうして毎日食べられるかというとアグンライの田んぼにどっさりランブータンの木があり、一斉に
            実をつけたので、家族の者がおすそ分けをたんまりくれるからである。生前、アグンライがまだ元気だったころ、私達は
            彼の弟が持っている牛小屋によく散歩にでかけたものだ。ギャラリーから5分も田んぼのあぜ道を歩けばもう着いてし
            まう。そしてそこにランブータンの木がたくさんあり、この季節になるとアグンライは必ず私のために何房か持たせてくれた。
            その牛小屋はいごこちがよく、横には牛の番をする時の、人が一人ごろ寝できるほどの小さな休憩所も立てられており、
            彼らの「居場所」という感があった。浮世のしがらみもここまではやってこない。先日もまた彼の弟がランブータンをくれる
            というのでいっしょに牛小屋までついていった。遠くに牛小屋が見えてきたら、アグンライとの思い出が急にまた蘇ってきて
            胸が熱くなった。牛小屋は以前と全く同じ雰囲気で、彼の70歳になるお父さんが牛の世話をしていた。
            その時私は、またまたいつもの癖で、絵が描きたくなり、いったん家に戻って道具と例の超横長キャンバスのもう一枚の
            ま新しい方を持って、また大急ぎで牛小屋に戻ってきた。時々私が急に絵を描きたがることを知っている彼らはただ笑って
            いた。ランブータンをしこたま貰った後も、私だけ残って、夕方遅く、暗くなる直前まで牛小屋とその向こうに落ちる夕陽を描
            いていた。途中でサンダルが壊れてしまってヒーヒーいいながらもなんとか「絵」になったかな、と思い、たくさんのランブ
            ータンと描いたばかりの乾いていない絵を左右に持ち、重い画材を担ぎ、壊れたサンダルを気にして、ビッコを引きながら
            歩く姿は村人にどう写っただろうか。ちょっと変な人であることは間違いない。まあとにかく、その日は牛小屋の絵と
            ランブータンの2つを手に入れたのだからなにを思われても幸せな日であったといえる。






                     (夕暮れが終わり、もう夜の闇がやって来る、その一歩手前の空はなんとも美しかった。)
                      2002年11月11日作 「牛小屋のある風景」 油彩  65×33センチ

                     



                                        (↓ランブータンの実)                                      


                                   






            2002年11月8日

            先日、いつも注文する額屋が木枠のサイズを間違えて作ってしまった。なんかとても横長のものが2枚できてきた。
            困ったが、長い付き合いなので苦情だけ言ってとりあえず引き取ってやってキャンバスも張ってみた。
            せっかく予定外のサイズが手に入ったのだから、あの画面に合うモチーフを取材しようと、昨日久しぶりにギャラリ
            ーから道をはさんで向こうに果てしなく広がるたんぼに出かけ、夕暮れ時の農夫たちをスケッチしていた。
            夕陽が今まさに向こうの林のなかに落ちようとした時、急に油絵にしたくなり、家に帰って例の細長いキャンバスと画材を
            担ぎガチャガチャとあわただしくセッティングした。大きめの筆を取り出してとりあえず画面にがむしゃらに絵具を置いて
            いった。描き始めてからものの30分くらいで暗くなってしまい、なにがなんだか分からないような絵になったが、それは
            それで良しとした。(下の絵)。翌日、少し手直ししたくなったが我慢した。経験上ろくなことにならないことがわかっている
            からだ。もう一枚横長キャンバスがあるのでまた後日夕方遅くに描いてみたい。しかし私はほんとに夕方絵を描くのが好き
            だ。とにかく光が美しい。そして風がここちよい。涼しい。人々もたんぼでの仕事を終えてのんびり遠くを眺めている。なにを
            するわけでもなく、みんなただ遠くを眺めているのだ。私も時々スケッチする手を止めて、農民と同じようにあぜ道に座りな
            がら林の向こうから吹いてくる風に心をあずけている。



               
                     
                      2002年11月7日作  「帰路」 油彩 65×33センチ

                    











            2002年11月2日

            今日用事でウブドウの郵便局に行ったら、裏の作業場でまっ昼間からみんなでがやがや儀式料理をつくり、
            食べ始めていた。郵便業務なんかそっちのけだ!誰も文句を言わないし、誰も不思議にも思わない。バリでは
            実によくある光景だが、郵便局で儀式料理とはよくわからない組み合わせ?で不思議に思って尋ねてみると
            新人局員の歓送迎会だという。みんなで和気あいあい実にうまそうに食べていた。
            小包送料を時々人を見て決めることがあるのであまりいいうわさを聞かないバリの郵便局員たちだがこうして
            ラワールやサテを自分達で料理してむしゃむしゃ食べているのを見ると彼らも普通のバリ人なのだ。と、ほっとする。
            出来合いのオードブルや、てんやものでお茶を濁さないところがとても好感が持てる。朝から何時間もかけて自分達
            で一番美味しいものを作る!儀式料理は「男」の仕事なので、手馴れている。上手いもんだ。その間仕事は忘れる!
            彼らにはラワール以上のごちそうは考えられない!メガワティ大統領がここに来たって彼らは食べ続けるだろう。
            作りたてのラワ−ルよりも大事なものはこの世に存在しないからだ。
            ラワールをほおばる彼らを見ていると彼らにも当然家族がいることが見えてくる。家に帰ると宗教儀式をし、やはり
            家では優しいお父さんなのだろう。その土地に住む。ということはこういう彼らの生活の光景全部を垣間見る、ということ
            でもある。そして私も時と場合、なりゆき、によっては参加し、よきにつけ、悪きにつけ彼らに巻き込まれていく。
            まあこれはこれで面白い。ということにしている。
            それにしてもバリ人はラワ−ルが好きだ。ついこの前も亡くなったアグンライの儀式でたらふくラワ−ルを食べたばかり
            なのだ。 一度はまると夢にまででてくる。やみつきの味である。生も美味しいが、蒸したのもイケル。
            ちなみに私は自分の誕生日に自分の好きなものを作る。人には任せない。うまいものは自分で作る。今年は具沢山の
            パエーリャと白玉クリームぜんざい(寒天入り)を家族の分も含めて作った。うまかった!
            


            PS:私のギャラリーの隣にもギャラリーがあるがそこの絵描きさん所有のヘルメットが良い。
               描かれた絵がなかなか味があるので全く上の話と関係ないが、紹介しておく。








                                  (もうみんなラワ―ルのことで頭がいっぱい)

                               





         (なかなか味がある絵だ。自由に気楽に描いていて、味がある。こういうものは飽きない。)


                                                                                        
 






            2002年10月24日

            先月亡くなったアグン.ライ.ブディアルタが長年育てていた赤い花が今年も咲いた。私は花の名前に疎いので
            名前はわからない。今年は特に見事に大輪の花をつけた。もう何年も前に彼が遠い山の上から譲ってもらて
            来たものだ。彼の家族と生前彼が住んでいた部屋の前に置いて、思い出にふけった。
            ほぼ同じ日に私の敷地の植木鉢のなかでも彼が植えた名も知らぬ植物が可憐な白い花を咲かせた。横には彼の彫刻がある。
            彼はもうこの世にはいないがその植えた花は来年も再来年も同じように花を咲かせるのだろう。ただそれだけの
            事実にとても心が救われた気分になる。
            花というのはどうしてこう故人を思い出させるのであろう。大きな赤い花も小さな白い花も彼そのものだ。バリ人特有の
            おおらかで陽気な気質と、清純で、か細い神経とが入り混じった不思議な奥深い人だった。
            
            今日も私のテラスにあるアグン.ライの彫刻の上を子猫がぴょんぴょん跳ねて遊んでいた。ヤモリや蛙が乗っているときもある。
            いろんな小動物が彼の彫刻で遊び、雨が少しかかったりして少しずつ味がついてきた。
            バリの彫刻は苔むしたり、少し風化したりするのが趣があってよい。家寺の門のところにも、風化し、苔むした十何年も前の
            アグン.ライの彫刻があり、敷地の大きな空気のなかで完全に同化し、納まっている。みんなそこに彫刻があることさえ忘れて
            いるようだ。こうなってようやくその彫刻に神が宿る。神様に気に入られるまでにはなかなか時間がかかるのだ。
            





       (↓見事に咲いた赤い花とアグンライの最後の彫刻)            (私の敷地の小さな白い花とアグンライの彫刻↓)

             





                             (アグンライの彫刻のまわりを遊びまわる我が家の子猫たち)


                           






                           (すっかり風景に馴染み神様が宿るアグンライの彫刻。彼の代表作のひとつ)


                                  





            2002年10月17日

    
            昨日、テラスで考え事をしている時、敷地の真横にある高い椰子の木に黒い影がススッと登っていくのが見えた。
            一瞬猿かなと、思い、デジカメを構えたが、よく見ると人だった。村人が、上の椰子の実を採りに来たのだった。
            彼は30歳くらいの若者で、上手く足を木にひっつけてぐいぐいと登っていく。命綱はない。腰から木にまわすロープ
            も使わず、人間離れしたスピードで、あっという間にてっぺんにたどり着き、次々に大型ナイフで実を下に落とし始めた。
            あっけにとられて私がポカンと見ていると、彼は私に気づいたらしく、少し照れ笑いをして、バリ語で「椰子の実あげようか?」
            と木のてっぺんから言ってきた。私達家族は椰子の実のジュースも、中の白いとろけるような果肉も大好物なので、何の
            遠慮もせず、「うん、うん」と頷いていた。そのあと彼はこれまた驚くべき早業で、実の一つをナイフで切り取り、手に持った
            まま、スルスルと降りてきた。私は、『彼はサバイバルに強いだろうなあ』と変に感心しながら丁寧に礼を言った。彼から
            もらった実はジュースも果肉も美味しく、文字どおり天からの贈り物という感じだった。

            この世界にはまぎれもなく地獄があり、目を覆いたくなるようなどうしょうもない無残な現実がある。クタで起こった事件
            は私が今住んでいるこの土地も例外なく地獄であることを思い知らされた出来事だった。
            「祈り」がなんの解決にもならないことがわかっていてもそれでも「祈る」以外に私はどうすることもできなっかった。
            そしてその地獄の世界のなかにも椰子の実採りの青年との一期一会がある。どこに逃げても、どこに住んでも、地獄は
            私の隣に現実として潜んでいるし、その地獄の真っ只中でほんの一筋の「慈悲」の光を見ることもある。闇の中に光があり、
            光の中に闇がある。
            私はこの無残な人間の果てしなき業の暗闇の中で意識を覚醒させて自分が死ぬその日まで「私の絵」を描いていこうと思う。
            それが私ができる唯一の「供養」であり、それは言い換えれば、私自身への「供養」でもあると思っている。





           (高い椰子の木に登ることが出来る人は文句なしに生き物として強い。これは単純なことだが、とても大事な感覚だと思う。)

            








            2002年10月11日


            日本を発つ前の日に兵庫県立美術館で「ゴッホ展」を見た。ゴッホの絵がデッサンもあわせて40数点ある。
            世界にあるゴッホの絵は昔ほとんど全部見たのだが、ここ7年は1枚も見ていない。42歳になった自分がどのよう
            に感じるかも自分で興味があった。だから無理やり予定をこじ入れてなんとか根性で見に行った。
            そして見た。何枚かの絵。それらは「絵」そのものだった。『「人が絵を描く」というのはこういうことなんだな。』
            とあらためて納得した。それは昔の自分の意識と比べてより鮮明に、ある種確信に近いものになっていた。全く
            何の迷いも無く「絵とはこういうものなのだ。」と素直に思えた。
            一緒に飾られてあった友人のゴーギャンやベルナールの絵がプロのしがらみが見え隠れするのに対してゴッホは
            プロやアマチュアとかいう枠を超えて、「絵を描く人」そのものの絵でありそれ以外の余計なものを感じさせない一途さと
            才能溢れる感覚的なタッチがあった。対象を本当に大切に慈しむように描いている。もちろん来ていた絵の全部が
            全部いいと思ったわけではない。ゴッホだってうまくいっていない絵はたくさんある。結構失敗作も多い絵描きさんである。
            この展覧会では深く感動したものが4枚あった。この4枚はもう何度か以前に見ているが見るたびに感動が大きくなる。
            そういう絵って普通めったにない。やっぱり本物の絵描きだ。ゴッホは。
            だいたい、展覧会の40数枚の中で心底感動できる絵が4枚もあるなんて、好き嫌いの激しい私にとっては考えられない
            多さなのだ。いつもは1枚あればいいほう。
            そしてそれら4枚を何度も見続けた。私の絵の見方は、どんなにその絵が気に入っても長く1枚を見ない。短い時間で
            何度も繰り返し見る。時々遠くのほうからじっと見る。そうするとその絵の「本当」が見えてくる。だから最初に気に入った絵
            だけをぐるぐる繰り返し見るのだ。
            ゴッホの絵を見ると自分もすぐ絵を描きたくなる。今まで何度も行き詰まり、そのたびごとに何十回とゴッホの絵に救われて
            きた。なんて美しいタッチなんだろう。これだけ純粋に絵のことだけを考えてこのような集中力のある絵を描けば10年しか生き
            られないのは当たり前なのかもしれない。人間のエネルギーとはそういうもんだと、まじめにそう思う。
            今回は弟のテオにあてた手紙なども何点か展示されていてこの兄弟の絆に焦点があっていたのもマニアックでよかった。

            それにしても日曜日だったこともあって美術館は混んでいた。こんなに多くの人がゴッホの絵に本当に心底興味を
            持っているとはとうてい思えないが、これがきっかけで絵というもが好きになる人も増えることとは思う。
            この美術館には展示の絵をイヤホン解説してくれるサービスがあって大勢の人がイヤホンをしながら順番に絵を見ていた。
            しかしこのやり方は間違っている。まず真っ白な状態で「絵」を見る。何度も見る。好きな絵がある。そのあとでその絵の背景
            を知りたくなる。この順番は不変である。最初はイヤホン無しで右脳をフルに使って感覚的に見たほうが良い。
            
            帰り際、ぞろぞろ並びながら絵を見ていく人を遠くに眺め、相変わらずのゴッホ人気にため息がでた。
            ゴッホの生きている間にこの100分の一でも人が彼の絵に興味を持ったら彼はどんなに勇気付けられたろうか。
            そして現在彼の小さなタブローでさえ数億円で取引されているのを見て、生前1枚しか絵が売れなかった天国のゴッホ
            はなんていうだろうか。ばかばかしい感傷的な空想なのは百も承知でいつもこのことをどうしても考えてしまう。
           






 (下。1885年作 聖書のある静物  : ヌエネン時代にゴッホはたくさんのこのような    
 どちらかといえば暗い感じの習作をたくさん描いているが、私にとってこの絵は習作    
 どころか立派な彼の代表作のひとつだと思う。真っ正直な絵だ。誰がなんていったって
 絵はこれでいいのだ。と、思う。)               



 (右下。1887年作 麦藁帽子を被った自画像  : パリ時代にも自画像をたくさん
 描いているがタッチが軽やかでいい具合についている。いくら見ても飽きがこな
 い絵だ。)
              







 (下。1888年 花咲く桃の木  :感覚的なタッチと美しい色。アルル時代を代表する
 傑作だと思う。)

 (右下。1889年 玉葱と本のある静物 : これもタッチがとても感覚的で対象を慈しむように
 大切に描いている。お仕事のタッチやアバウトなタッチ、無駄なタッチはどこにも見当たらない。
 この2枚の絵はゴッホ自身も絶対気に入っていたと思う。)



              





                             (兵庫県立美術館の入り口付近)


                       















             2002年10月3日


             今振り返って思うに、私のバリ滞在の12年はアグン.ライ.ブディアルタと共に過ごした日々だった。苦しい時も、
             寂しい時も、楽しい時もそばに彼がいたような気がする。
             彼はもちろん一度も展覧会など開いたことはなかったし、だいたいそんなことに全然興味を示さなかったが
             それでもいろんなお寺のなかに彼の彫刻が置いてある。作家などというこまっしゃくれた存在には興味を
             示さず、職人そのものだった。そして職人としての気負いすらなかった。たぶん自分のことを彫刻を作る人
             だと思っていなかったんだと思う。「そういえば彫刻彫れるな、俺」という程度。その生きざまは「ひょうひょう」。
             酒もタバコもコーヒーもジュースも飲まない、結婚もしない。べつにだからといっていわゆる変わり者ではなく、
             ひとの気持ちを深く思いやるこころを持つ常識人だった。
             私のホームページのタイトルに彼の名前を使った時も「ハハ…」とただ照れていた。ほんとに「シャイ」
             去年の暮れ、病気が見つかって手術を私が強く勧めてもお母さんを同じ病気で失っている彼はそれを拒み続け
             ていた。、日に日にやせていく彼を見続けるのはほんとうに複雑な気持ちであった。でもなんとなくずっと生きるん
             ではないか、と、勝手に信じていた。

             9月12日の未明、バリから遠く離れた日本の北アルプスの山小屋の中でめずらしく私は彼の夢を見た。
             私はアグン.ライと親しかったが彼の夢はそれまで一度も見たことがなかったと思う。
             夢の中の彼は上半身裸で、かなりやせ細った体になっていた。私を部屋に招き入れ、ためらいながらも私が部屋
             に入るとにっこり笑って照れていた。別に何を話すでもなくただなんとなく笑っていた。それだけの夢だった。
             その次の日の9月13日の朝、彼はその42年の生涯を兄弟達に見取られながら閉じた。

             私の人生もいつか終わりがくる。多分その終わりの時、私は彼のことを思い出すと思う。そういう人だった。
             彼が私のために彫ってくれた4組の彫刻は、今日も家の敷地で遠くウブドウの渓谷を見つめ、たたずんでいる。






            (私の家のテラスを今も飾る創造と破壊の神「シバ」。 アグン.ライが私に最初に作ってくれた思い出の作品だ。
            顔が、亡くなったお母さんそっくり。足の裏も魅力的)

                       










             2002年9月29日

             昨日バンコクからバリに戻ってきた。やっぱりバリの自宅は落ち着く。昨晩は熟睡した。
             今回の日本滞在は仕事の合間をぬって1週間北アルプスに登り、縦走し、裏剣の見える
             場所から水彩スケッチを20数枚してきた。日本も3000mまで上がると「気」が違う。とても
             絵心が湧いてきた。来年からは山をたくさん取り入れた滞在にしたい。
             2,3日後にその時の何枚かの水彩スケッチやスナップ写真をこのHPに特集で載せる予定だ。

             ただ今回は山から下りてきた時にバリの親友の彫刻家アグン.ライ.ブディアルタの訃報が入り、
             心の準備はあったものの、少しつらい思いで現在を過ごしている。このHPのタイトルにも使っている
             し、彫刻も紹介している。彼のことは、次回のバリ日記で少し書こうと思っている。

             まあいずれにしても剣岳の美しさは格別だった。力強くて神秘的で、見る角度や時刻、天候によって
             様々な姿を見せてくれた。本当にあの山は奥深く、その美しさには果てが無いと感じられた。
             同い年のアグン.ライが自宅でその42年の生涯を閉じた9月13日の午前10時、私は遥かかなたの
             北アルプスで雨上がりの雲がたなびく剣岳を見ていた。




                            (9月13日10時ごろの仙人池から見た雨上がりの裏剣)

                          









            2002年8月26日から9月25日までの「バリ日記スペシャル」


            8月26日から1ヶ月帰国しますので次回の更新は9月27日になります。
            そこで9月分として「バリ日記スペシャル」を作りました。
            私が日ごろとても大切にしている2つの場所のたくさんの写真をHP初公開いたします。


            『私の居場所』

            私には自宅から歩いていける場所の中で自分にとってかけがえの無い居場所が2箇所ある。
            ひとつは自宅前の渓谷の底の石切り場。もうひとつはその渓谷の上の丘の尾根である。
            石切り場に関しては以前バリ日記に書いたとおり浮世のことを忘れることができる別世界が
            谷底に広がり、石切り職人とその家族たちが生き生きと夕方まで生活している。この川で
            一度水浴びすると病みつきになる。天然モルヒネが渦巻く聖地である。
            この川から上を眺めると小さく自宅も見える。この桃源郷は今までよっぽど親しい人にしか教え
            たことのない、秘密の場所である。
          

            もうひとつの大切な居場所である家の前の渓谷の尾根は、東西に見晴らしがよく、見た目も形が
            良いので私達在住日本人たちはこの丘のことを「青い山脈」といって、ウブドウで一番のハイキング、
            散歩コースだと親しい友人にだけ紹介している。端から端まで歩いて30分くらいである。もちろん
            バイクなどは通れない、歩きだけの道である。私も何度も川を横切り、丘を上りあの丘に登っては
            水彩スケッチなどをした。また登山に行く日が近づくとトレーニングのために丘を登り降りした。世界
            中のいろいろな絵描きさんもこの丘をよくモチーフにしている。私の数少ないお気に入りのレストラン
            もこの丘がきれいに見渡せる場所に建っている。2年前まで私が住んでいた家もこの丘が見える場
            所で、今の家からはもっと近くに丘が迫る。夕方になると南の方から白鷺がねぐらへ群れをなして次
            々に帰っていく。満月の夜などはそれはもう一生に一度の風景となる。新月の夜の満天の星と天の
            川もこの世のものと思えない神秘的な世界だ。そういうわけで私にとって「青い山脈の尾根」も、とっ
            ておきの「場所」である。

            先日取材のため息子と久しぶりに丘の尾根に上がってみるとあたり一面ススキの穂がたなびいて
            いた。この季節毎年この丘はススキでいっぱいになる。この尾根からも遠く私の自宅が見える。






                     (左、牛も時々水を飲みに川まで降りる。  右、石運びさんたちのお昼寝の小屋もある。)     

                   





               (左、石切の後川で体を洗うひと時が最高らしい。気持ちよさそうである。私も時々川につかる。
               右、石を頭にのせて丘の上まで運ぶのは女の人の仕事。とても危険。)

                    





                (左、石を切り崩す作業場のそばにも生活の匂いがある。 右、遠く上の方に私の家の屋根が少し見える。)

                   




            (左、石を運ぶ道はとても険しい。時々大怪我をする人がいる。 右、 夕方仕事を終えると次々に川で体を洗いだす。)

                 







      
       (左、 どこまでも果てしなく続く草原の丘    右、 寒い時期なのでススキの穂がたくさん生えていて夢のような世界が広がっていた)

                  




                (息子も久しぶりの「尾根」に興奮気味。ほとんど通る人もない静かな別天地。私の大切な場所である)

                 




                           (良い形をした丘が続いていく。どこを見渡しても絵になる風景が広がる)

                  

 

                                       (私は息子を、息子は私を撮る)

                 











            2002年8月22日

            バリに滞在し始めた1991年頃、描いた絵を入れる額屋さんがウブドウには1〜2件しかなかった。そのな
            かの1件と親しくなり絵を描きあげるたびに注文に行った。その店ははっきりいって上手じゃなかった。
            真四角に作れないのである。何度確認してもサイズを何ミリか間違う。
            しかし重厚さがあり、細工も面白いのでつい、注文してしまうのであった。店構えはあってなきが如しで、
            掘っ立て小屋に材木が置いてあるだけの簡素な店である。
            その店の主人も絵を描くのであるが、この絵がとても凄い。ボッシュを思わせるなんとも言えない幻想的で
            パワーに満ち溢れた絵だ。100号くらいの大作が何枚も家に飾ってある。1枚描くのに2年くらい費やす!
            しかしここでは紹介はできない。まだ撮影の許可が降りないのだ。もちろん非売品ではないが、でもいかにも
            売りたくなさそうなのだ。ちょっと変わり者のこの店の主人は店を新しくしたり、自分達の家をかっこよくしたり
            する気はほとんどないようだ。12年前からぜんぜん店構えが変わらない。彼が乗っている赤いバイクも12年
            同じである。あの時すでに7年ほど乗っていたので合計20年近く同じバイクを乗っている。となりの森はでかい
            銀行になってもその店は異空間のように超然としている。私はその主人のことを「額屋のおやじ」と呼んで、今
            でも親くしている。 







           (12年前にすでに2階と3階は建設中だったが、12年後の今もやっぱりまだ建設中。お金がないそうだ。面白い!)

                          









            2002年8月15日

            最近買い物帰りに「タプマニス」という発酵芋のお菓子をしょっちゅう買う。
            サツマイモもどきを発酵させてあるのでなんともいえないふくよかな香りと味がして後を引く
            味なのだ。甘いサツマイモに白ワインの香りを含ませたような上品な味である。15センチ四
            方の竹で編んだふたつき籠に7個くらい入っていてその竹篭がが4つもある。それで1セットで
            あるからものすごい量である。その割には安い。1セット5000ルピア(70円)だ。あまりしょっ
            ちゅう買うのでその竹篭が台所にあふれている。店にも売っているが、やはり軽トラックで売り
            に来ている農家の人から買うのが新鮮で安くておいしい。時期がずれるといきなりアルコール度
            が高くなりしんどい味に豹変するのは「発酵もの」の宿命だ。だから、売りに来ている人は「今日
            食べる用」と「明日食べる用」の2種類を売っている。食べる日がドンピシャ合うと超ゴツウマである。
            そういえば日本での本拠地になっている富山県にも「ますの寿し」という発酵食品があるが、あれも
            食べるタイミングが合うと素晴らしい味になる。発酵ものは奥が深い。



  (竹篭を開けると、バナナの葉っぱに包まれた発酵芋が現れる。)   (農家のおばさんが路上で売っている。どんどん売れていく。4つで1セット)

               








             2002年8月11日


             自宅から車で3分くらいの林がさら地になった。あーまた何か作るのか。と思い寂しくなった。
             どうせ何か作られるのだったらホテルやレストランといった私に関係の無い建物よりも
             スーパーマーケットの方がまだましだ。と思い、近所のバリ人に聞いてみると、なんと「大きな
             スーパーマーケット」ができるという。まあ不幸中の幸いと、ほっとする。今でも車で7分のところ
             に大きなスーパーがあるがまあもっと近くにさらに大きなスーパーができるのである。
             近年外国人の長期滞在者が増加し、彼らのニーズに合わせたスーパーは大人気だ。日本の食材
             も激増した。しかしそれとは別にバリの『気』は減少する一方である。不便でもいいからもうこの辺
             で観光開発を止めてもらいたい。と、勝手なことを思う今日この頃だ。日本や欧米諸国が歩んだ
             資本主義のなかの経済発展のうまみをこの国にだけ我慢しろとは言えない。誰もが一度は必ず通
             る道なのだろう。この国は若く、人々は現実を生きているのだ。




                         (1ヶ月前まで緑いっぱいの林だったのに…)

                      









             2002年8月5日


             近年ウブドウが都会化して来ている。モンキーフォーレスト通りなどは田んぼが完全に消えつつある。
             私がバリに来たばかりの頃は田んぼの方が多かったくらいだ。店も以前は地味な雑貨屋が多かったが
             最近はオシャレで豪華な外国人資本の店が激増した。ツーリストにしてみればいろんな土産物が買えて
             うれしいのだが、私のようなものは寂しさがつのるばかり。隣村のプリアタンも相当様変わりした。
             そんな中で頑固にというか、勝手にというか時代の波に置き去りにされたような店もほんの少し残っている。
             私がバリ菓子をしょっちゅう買うワルン(何でも屋)は私が初めてその店を訪れた1987年から全く変わって
             いない。周りの家や店や道路がどんどん変わってもその店は何の影響も受けず、いや、受けるセンスが無く、
             そのままのたたずまいだ。むしろどんどん風化しているので重要文化財のごとくかえって異様に目立って
             いる。売っている品物も相変わらずのものばかり、しかし私にとってはこの店が落ち着くのである。
             一歩中に入ると妙に居心地がよく、つい通ってしまう。変わらないことも「静かな凄み」だと思う。




        (左。昔から馴染みのワルン。写っているおじいさんはご主人さん。彼も変わらない。  右。おばあさん、おじいさんの休息の場  )
                                                

                            











             2002年8月1日


             バリ人はマンディ(お風呂)がとても好きだ。
             家々にはシャワーはついていない。そういう方法ではなく、バシャバシャと取っ手のついたプラスチック
             容器で水を汲みバンバン体にかける。彼らは綺麗好きなので朝と夕方の2回浴びる。
             しかし、多くのバリ人は家に風呂場があるのにもかかわらず時々下の川までいって川の中でマンディ
             をしたがる。わたしも今日は川でマンディをした。それはもうすごい快感である。体に水をかけるのでは
             なく豊饒な水流の中に身を任せるのである。なにかありがたい気持ちにもなって心も洗われる。ものす
             ごい良質のエネルギーが体を通り抜けていく。特に私の家の下の川は深い渓谷の底にあるので、大き
             なパワーを体に感じながら水につかり、体や髪を洗うのである。ついでにトイレもそこでしたりする
             (もちろん川下に人のいない時に)
             マンディを終えて家路につくときのバリ人の顔は至福に満ちている。天然モルヒネが相当出ました、
             という表情である。この快感に一度はまると「洗濯」も川でしたくなる。これも凄い快感である。ほんと
             うに絶え間なく流れくる水というのは病気も悩みもスーッと川下へ連れ去ってくれる。「気」がいいのである。
             アグンライの家の小さな甥っ子はまだ3歳なので川へは行かず、家で温かいお湯マンディをするのが好き
             で、いつも彼専用の「バケツのお湯風呂」で可愛く体をつけている。発想が自由で面白い。
             


                     (私がカメラをむけると大はしゃぎでお湯から出てきてカメラを覗き込んでいた。)

                         











             2002年7月28日

             乾期だというのに私の敷地は小さな花がたくさん群生している。敷地に家を建てるとき家族と
             決めたのは「庭を人工的に造るのは止めよう。」ということだった。敷地に何も植えなかったので
             最初は寂しい思いをしたが、1年以上たったこの頃は雨季は雨季で乾期は乾期でいろんな花が
             咲き始めた。さすが熱帯である。思いも寄らないところからひょっこり新しい可愛い花が顔を出した
             り、名も無い木にはっとするような美しい花が咲いたりしている。どこからともなくやって来た種が
             風にのってこの敷地に根を張り、花を咲かせる。長年温めてきた理想の庭が実現しつつある。
             私も風にのってふらふらバリ島にやってきてこに根を張ってきたが、いつの日かこの地で小さな花を
             咲かせることができるのであろうか。私にとっての小さな花は、「何枚かの納得できる絵が描けるか
             どうか。」なのだと思っている。能力の問題もあるだろうが、要は「思いを持続させること」だと考えて
             いる。あとは描きまくるだけだ。



                         (左。白い花が群生している。右。桜のような美しい花だ。)

               




          (左。この小さな黄色の花はしきちのいたるところで今花を咲かせている。右。この花も色を変えてたくさん群生している。)

                





                 (左。白と赤紫のコンビネーションが美しい。右。紫の小さな花が可憐に咲いている。)


                                                                                                       

  






            



             2002年7月23日

             今日はアグンライの家で6ヶ月に一度の内寺の儀式なので、私の大好物ラワールがふるまわれたが
             昨日遅くまで仕事をしていて、朝のラワ―ルタイムに間に合わなかった。あー残念。と思っていたら
             彼の家族が蒸し焼きにして私の分を残しておいてくれた。このラワ―ルをバナナの葉っぱに入れて蒸した
             ものはなかなか美味しいが、今日は、本当に蒸したてのほやほやだったので最高の味だった。あまり美味
             しいので何個も食べてしまったが、彼らはとても嬉しそうだった。ウブドウの店でも時々食べるが、やっぱり
             個人の家で作った物のほうが美味しい。いろいろな理由があるが、やはり自分や家族のために、そして
             神様のために作るから。という理由が一番だろう。心が入っている。
             私はインドネシアの染織の仕事も時々している関係でアンティ―クの布(バティク.やイカット)にも眼がない。
             お金に少しでも余裕のある時は手に入れて眺めている。このような布たちも気に入るものとなると、やはり
             宗教儀式に使われていたものが圧倒的に多い。そして家族のために織ったもの、染めたものも多い。
             観光客のために特別に作られた物がいたるところに氾濫しているが、「込められた気持ち」がないので見た目
             は綺麗でもだんだん飽きてくる。お金のために作る物は世界中古今東西その程度であろう。
             絵も同じことが言える。どうしても生活しなくてはいけないので、ちょっと絵のなかに売れる要素を入れようと
             する。なるほどよく売れるが、その一筆が絵を殺してしまっていることが多い。たった一筆なのに、だ。
             ではその一筆を入れないで、自分の絵を描ききれば全く売れないかというと、意外にそうでもない。
             確かに売れる枚数は減るが(とほほ…)、その絵を気に入ってくれる人との一期一会がある。
             自分が嘘偽りなく描ききった絵を人が嘘偽りなく気に入り、そして時々買ってくれる。こんな幸せなことがあろ
             うか。このことが心底分かったのはなんと昨年からである。41歳になって分かるなんてなんと愚かなことだろう
             か。しかし、死ぬまで分からないよりましか。とも思う。生きるためにいろいろな絵を描いてきたあげくだからこそ
             見えたものがあるとすれば、私の今までの後悔だらけの絵の人生も決して無駄ではなかったのかもしれない。




                            (蒸したてのラワ―ルも美味!何個でも食べれる。)

                         







             2002年7月17日

             数日前に王宮のまえを通ったとき、大勢の人々が儀式の準備をしていた。私はとっさにピンと来た。
             これは王族の大きな儀式が始まるな、結婚式か?と思い聞いてみたところ、王族の直系のひとりが
             成人式(ポトンギギ。といって歯を削る儀式)をするそうだ。ひとりの成人式ごときで何百人の人が動
             いている。それも何日も前から。こんな光景は日本では江戸時代までさかのぼらないと味わえない
             のである。今の日本の権力者はお金や力は持っていても地域社会の中では孤立している。しかし
             バリの王族は法律が変わった今でも村人にとっては「王様」なのだ。だからウブドウの村で困ったこと
             やもめごとがあると人々は王家に相談に行く。村のお寺で大きな儀式があるときは王家はものすごい
             多額の寄付をする。村の公共の建物が古くなると王家が費用をだしてやる。など自分の富の増大と
             村の繁栄が比例しているのである。何か大きな事件がおこっても王家の意見に対して警察もそれを
             無視できない。つまり、一種の「治外法権」がこのウブドウにはまだ存在する。
             ウブドウの王家はホテルや美術館、そして広大な土地を何個も持っていて富を今でも増大させている。
             しかし村人にとっては、だからこそ「頼もしい」のである。日本の金持ちは文字通り金を持って自分のため
             に使っているだけの人が多い。そこには地域社会との信頼関係はない。しかしここウブドウは逆だ。
             良くも悪くもそういう村に私は住んでいる。明日は成人式の当日なので、私の知り合いも手伝いに駆り
             出される。大変だ。ウブドウ中心街は相当混み合うぞ。今日も何十分も渋滞だった。この島はすべて
             において儀式優先だ。人々が道路にあふれ出る。もちろん車は何十分も待たされる。待っているほうも
             結構慣れているので平気である。私もさすがにもう慣れてしまった。




                   (神様に捧げるお供えものを作る男達。儀式料理は男の仕事と決まっている。)

                        




       (肉の解体だけでも凄い数になる。)                      (手伝いの男達の食事も当然ものすごい量になる。)

                






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