号外
先日お亡くなりになった京マチ子さんを偲び、
綾さんと寅の最後の会話を記します↓
無償の献身とは 山田監督、一世一代の『禁じ手』
第18作「純情詩集」はマドンナが亡くなってしまう、という悲劇が待っている。むろんこれは他の山田映画の特徴から行けば
『禁じ手』といえるかもしれない。昨今のドラマや映画はこれでもかとばかりに主人公やその恋人、家族などが若くして死んでしまう。
人というものは不安定な「自我」をいつも抱え込んでいるので、人の死というものに敏感である。死の恐怖と言うものが人間に宿り続け
ている以上、この手のピリカラ物語は今後も流行り続けるであろう。ある意味とても安直で、短絡的な手法ともいえる。しかし、
この「純情詩集」はそのような安直なドラマとは正反対にある物語になっている。マドンナの悲劇や絶望を過剰に表現せず、寅の心の動きや
さくらの心の動きに重点を置き、絶望の中でさえ、ユーモアを忘れず、豊かな想像力を持ち、人の気持ちに寄り添うことの意味を表現して
いるのである。そのことがもっとも明らかにされるのが、マドンナが庭先で人間の死すべき運命を嘆いた時、それに対して寅が示した究極の
あのユーモアであり、とらやの団欒で綾の仕事をみんなで話し合う、あの未来に向けての想像力である。
人間は必ず死ぬのだ。おいちゃんおばちゃんも、寅もさくらも、満男でさえも…。問題はそのことばかりに過剰に反応するのではなく、
周りの人たちがいかに寄り添ってそれまでの日々を共に生きていくか、ということなのだろう。もうひたすらそれだけである。
寅は、もちろん綾との出会いの部分は惚れたハレタだが、次第に、綾に対して共に生きてゆく姿勢に変化していく。それは寅の表情を
見ていると分かる。寅はもうただただ綾を幸せにしたいのだろう。人が人を大事に想うこと。これこそが寅の無償の献身に繋がっていき、
その行為こそが彼の優れた才能の開花の瞬間ともいえる。
柳生家・庭
綾、陽のあたる縁側の藤椅子に、ショールを肩にかけて
坐っている。玄関のほうから寅の大声が聞こえて来る。
寅「おい、お婆ちゃん、あのー、
奥さんの具合、どうかねー、庭のほうに回るよ」
綾「!…」
綾、寅の声を聞いて、
待っていたように顔が明るくなる。
寅、息を切らしながら、庭先に駈け込む。
綾「ああ、フフ…」
寅「あ、なんだ起きてたんですか。どうです、具合は。
いや、今、お嬢さんから電話で、あの、急に具合が
悪くなったからね、病院に行くようにすすめて
くれって、そう言われて来たんですけれども」
綾、徴笑を浮かべる。
綾「大丈夫よ、何でもないの。
あの子が少し大げさなだけよぉ」
寅「そうですか…」
綾「うん」
綾「うん ほら、顔色だって悪くないでしょ」
と頬に手を当て、あえて寅になんでもないと示す綾。
寅に、自分は元気そうだと思って欲しいのだ。
寅「そう言やそうねえ。なんだ、あー驚いた、
あわてて駈けて来たんで、ハアハア言っちゃった」
寅「はー、よかった…」
縁側に坐り、ハンカチで汗を拭う。
勘の鋭い綾はうすうす、自分の命のことを
感づいているのであろう。
この懐かしい家を離れることを恐れている。
婆や、お盆を持って入って来る。
婆や「お嬢さま、お薬」
綾「はい、どうもありがとう」
婆や「寅さん、庭が落葉だらげになっちゃったんだけど、
またあの坊やよこしておくれよ」源ちゃん年齢不詳(^^;)
寅「いいよ、午後にでもつれてくるよ」
婆や「ほんとうに可愛い子だねえ」と奥へ行く。
綾が寅に向かって微笑む。
寅もニコッと微笑み返す。
そして安心したかのように下を向く。
とても静かな、
そして大事な時間が過ぎていく。
小鳥が鳴いている。
遠くで列車の汽笛
綾、寂しそうに、ポツリと言う。
綾「あー、もう秋も終りねえ……」
寅「え、そうですねえ。花が枯れて、
木の葉も散って、一日一日、
日が短くなって……」
綾「夕方お寺の鐘がゴォ〜ンと鳴ると、
なんだか無性に寂しくなって来て、
フフ、こんな嫌な季節は早く過ぎて
くれないかなっ、て思うのよ」
綾の第2テーマ が哀しく切なく流れていく。
寅「すぐ過ぎますよ。もうちょっとの辛抱ですよ。
三月になれば、
すみれ、タンポポ、れんげ草、
パーッと咲いて、一日一日暖かくなって、
桜の蕾がふくらむ頃には、もう春ですからね」
綾、寅の言葉にほんの少し微笑んで
綾「…江戸川に雲雀が鳴く頃になると、
川辺にあやめが一面に咲くのねえ…」
少女だった頃の遠い春の日を思い出すような
優しい綾の目…
寅 「その頃には奥さんの病気もすっかりよくなって、
お嬢さんやおばちゃんやさくらたちと同じように
元気で働くことができますよ」
寅「よし!」と立ち上がって竹ぼうきをハンカチでポンポンと叩き、
で庭の枯葉を掃きはじめる。
綾「寅さん」
寅「はい!」
綾、静かに背中を椅子にもたれかけさせて…
綾「人間は…、なぜ死ぬんでしょうね…」
綾「……」
寅「人間……?」
寅「う〜ん、そうねえ…、
まア、なんて言うかな、
まア、結局ぅ…あれじゃないですかね…、
あの、こう、
人間が、いつまでも生きていると、
あのー、こう、丘の上がね、人間ばっかりに
なっちゃうんで、うじゃうじゃうじゃうじゃ、
メンセキが決まっているから、
で、みんなでもって、こうやって、満員になって
押しくら饅頭しているうちに、ほら足の置く場所も
なくなっちゃって、で、隅っこにいるヤツが
『お前、どけよ!』なんてって言われると、
アーアーアーなんつって
海の中へ、ボチャン!と落っこって
そいでアップ、アップして
助けてくれ!助けてくれ!なんつってねェ、
死んじゃうんです。
まあ結局、そういうことに
なってんじゃないですかね、昔から、
うん、
まあ、深く考えない方が
いいですよ、それ以上は」
綾「フフフ」
綾、ずっと笑い続けている。
綾「フフフ アハハハ、可笑しいわ、寅さんて
フフフ、アハハハ…」
寅「そうですか、フフ…可笑しいですか」
綾「可笑しいわよ、フフ」
寅「へへへへそうですかね、フフフ」
綾「フフフ…」
寅「あーへっ、んん…」と
安心したように照れ笑いしながら、庭を刷き続ける寅。
なぜ人間は死ぬのか…。この問いに寅は面白おかしく
自然界の摂理をしゃべり、綾を笑わせながらも結局こう締めくくる。
「深く考えないほうがいいですよ、それ以上は」
この言葉は、一見この問いから逃げているようではあるが、
もっともこの問いの答えとしては真っ当だとも思う。
人は時として死というものを頭で考える。
それでよけいに全体を見ることができなくなる。
人はみな一人残らず必ず死を迎える。
ほんの少し遅いか早いかだけである。
綾は言う
「…江戸川に雲雀が鳴く頃になると、川辺にあやめが一面に咲くのねえ…」
この想像力こそが生きるという臨場感であり、人が死ぬ一秒前まで
この想像力の輝きは続く。寅の面白い冗談に笑い続ける綾。
このひと時こそが彼女の人生であり、生きるということだと思う。
死を考えるのではなく、生を感じることを通じて、今を生きることだ。
死というのはそもそもそれ自体完結していて、それはすでに
決して病でもなく苦痛でもない。
日々の中でどんな僅かなことであっても、人が生きる喜びを感じたとしたら、
それでもう十分生きるに値する生である。
そしてそうこうしているうちにいつか勝手に死ぬだけのことなのだ。
死と言うものは「結果」であって決して「頭で考えること」ではない。
ただただ、人とともに寄り添い生きてゆく。
これが、寅の愛情の行き着くところのひとつの
姿なのだろう。
故人は生き残った人の魂に宿り2度目の人生を新しく始める。
綾を慕う寅や雅子や婆やの中に彼らの生の終わる
その日まで綾は生き続ける。
あのとらやでの団欒、枯葉舞う庭先での歓談、
水元公園でのひと時、そして最後の日々が寅の心には
今も残っている。寅はこれからはいつでも綾と語り合う
ことができる。寅の心の中であの童女のような美しい目と
声で彼女は「寅さん」と呼びかけるのだろう。
愛を与える、という宿命を甘受して、ひたすら孤独の中で
旅をし、人に出会い、人を愛し続ける寅のその真骨頂が、
その究極の姿が、この作品の中にこそある。
正にその名の通り「寅次郎純情詩集」だ。
ついに本編では使われることのなかった綾さんの江戸川土手シーン
京マチ子さん、美しく切ない映画をありがとうございました。
合掌
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