2025年 インタビュー 抜粋




横尾忠則 曖昧礼讃



パンを買いに行く使い走りばかりさせられて… 

横尾忠則が「僕の生涯の中で無駄な時間をむさぼった時期」を振り返る



     



時々想うのですが、僕はいつも無駄なことばかりをしているような気がするのです。
せっかく何かをしても、それをしただけのかいがないのです。
といってそのための努力をしているわけでもないのです。といって益を期待しているわけでもないのです。
なんとなくのらりくらりとしているような気がしているのです。ところが無益なのらりくらりがなぜか僕にとっては必要らしいのです。
らしい、と人ごとのように言いますが、半ば人ごとなのかも知れません。







 その昔、高校を出たあと、家から1時間ばかり電車で通う印刷所に勤めたことがあります。
別に印刷工になる予定も目的もないのですが、僕の描いた高校時代のポスターが印刷所の社長の眼に止まって、その印刷所に入ることになったのです。

 印刷所に入ったものの僕には仕事がありませんでした。
入社当時は、町の商店などにプレゼンテーションをするための包装紙の図案のようなものを僕が描き、
営業の人がそれを持って注文を取りに行くのですが、いくら描いても描いても一向に注文が取れず、
僕の存在価値が次第に希薄になり、次に与えられた仕事は印刷物の納品や、昼食時に社員のパンなどを買いに行くという使い走りばかりになってしまいました。

 それ以外にすることがないので印刷所内の製本係りの人達の仕事場や、オフセット印刷機が回転している現場で、印刷物をぼんやり見るだけの毎日ですが、
この時間つぶしの流れの中で、時計ばかりを見ながら退社時間の来るまで待機することが、
どうやら僕に与えられた只一つの仕事とはいえない遊びともいえない、ただただ目的のない待つという無為そのものの時間だったのです。

 この印刷所には約10ヶ月ほど勤めて退(や)めることになります。
自分の意志で退めたわけではなく、ある偶然が重なったことで生じた不可抗力によってまあ解雇されることになるのですが、
今、考えてみれば会社に何ひとつ何の功績も利益も与えないまま、わずかではありましたが給料は払われていました。

 うんと後になって、人づてに聞いた社長の談話によると、なぜ仕事のない僕を温存させてくれたのか、社長自身もよくわからなかったようです。
あの子は一体何を考えているのか、何がしたいのかが全く不透明だ、と社長は社長なりに随分悩まれたそうです。

 社長はたった一点だけのポスターによって僕をスカウトしたのですが、僕自身は、絵を描いて、それで身を立てたいと思ってはいませんでした。
もしそのような絵の仕事を僕に与えてくれれば、それには応えることはできたかも知れないが、
僕に何の要求もしてくれなかったために僕は10ヶ月余り、用もないのにこの印刷所に通うことになったのです。

 僕が10ヶ月で退社して間もなく、社長の希望でもう一度、僕を復活させたいと、わざわざ、営業の人が訪ねて来たことがありました。
その頃、僕の両親も僕も無職で時間はありあまるほどあったのですが、再び印刷所に戻って、またあの何もない無為な時間を過ごすことになるのかと想像した時、
再び同じことを体験する必要はあるまいと、復帰を断ることにしたのです。



 あの10代の多感な時期の10ヶ月間、身体的には拘束されているのに、全く仕事のない人間がひとり。他の人達は忙しく立ち廻っているというのに、
自分ひとりだけが、狭い印刷所の中を動物園の檻の中の熊みたいに、ウロウロすれば目ざわりになるのに、なぜ、社長は僕を再雇用する気になったかを、
今一度聞いてみたかったが、多分、あの頃の人達は誰ひとり生存しておられないでしょう。なぜかといえば、僕ひとりが、全社員の中で最年少者だったからです。

 今思えば実に不思議な体験をさせてくれたと思います。
あの10ヶ月ほどは僕の生涯の中でも無駄な時間をむさぼった時期なわけで、なぜ社長が承知の上で僕にあのような無駄な時間を体験させようとしたのか。
そのことを今頃になって知りたいと思うのです。

 チベットのラマ教の寺院には、全く何もしない、ただ寺に逗留するだけの少年僧がいると聞いたことがありますが、
この少年僧は終日無為な時間をただただ食いつぶすだけの人間で、彼の存在が実は他の僧侶達の修行のサンプルになっているそうです。

 つまり僧侶達にとってはこの少年は悟性のためのシミュレーションであったというのです。

 と、すると終日何もしないで印刷所の社内をただ用もなく歩き廻ったり、誰か暇な人を見つけて、その人の話相手になるしか用のなかった僕は、
もしかしたらチベットのラマ教でいう僧侶の悟性のためのサンプルで、印刷所にいわせれば、僕は一体、何者であったのだろうか。

今考えても、社長の僕に対する本意が全く見えてこないのです。
そして、今も無駄な時間をむさぼっている僕の無駄三昧は10代の印刷所で修行(?)したあの日々と共通しているのかなと思うことがあります。



横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。
第27回高松宮殿下記念世界文化賞。東京都名誉都民顕彰。日本芸術院会員。文化功労者。

週刊新潮 2025年5月29日号掲載