20年前の 読売新聞記事
野見山暁治さんの生きてそして描くことの証


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野見山さんは102歳の長きに渡る生涯の日々の多くを、
かつて戦地に散った自分と同じ境遇だった絵描き仲間のことを思い続けた人だった。
上にも書いたが、あの「無言館」の絵を集める際に、
何年にも渡って館長の窪島さんと戦地に散った画学生の遺族の家を訪問した人だった。
それゆえ野見山さんの絵はその思いに濁りがない。
野見山さんの絵ほど自分の好き勝手に純粋な気持ちで描いた絵はないと私は思っている。
ちなみに野見山さんと鴨居さんはフランスで交流が少しあり、
鴨居玲のポンコツ車を譲り受け、絵を描きにでかけたりしたそうだ。
早稲田の私の恩師故坂崎乙郎先生(芸術学教授)が人生をかけて応援していた画家の鴨居玲
私の人生全てを通して絵の心得を示してくださった野見山暁治
二人とも私はあえて面識を持たなかった、
この二人は絵の考え方もキャンバスの中も真逆だったが、両人とも私の道しるべだった。
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野見山さんの後悔とそれでも描いていく気概を強く印象付けられた20数年前の新聞記事を紹介しよう。
太平洋戦争でたくさんの絵描きが亡くなりました。
ぼくは昭和十三年に東京美術学校に入って1年だぶっていますから、
十七年と十八年の卒業生に同級生がいる。亡くした仲間の数も多いんです。
ぼくも繰り上げ卒業で戦地 (旧満州) に赴きましたが、
胸を患って帰って来た。
ざんきの念というか、
後ろめたさは、五十年たっても消えませんね。
みんな、いい絵描きだったんですよ。
ぼくの部屋に居候していた同級生なん
か、絵を描くとはこういうことなのかと思うくらいのすさまじい制作ぶりでた。
やつが生きていたら、
ぼくの絵を笑うだろうなあ。
別の級友は宮古島で餓死する二週間前に自画像を描
いているんです。ガリガリにやせてましてね。そんな
になっても、絵を描きたかったのか、と。戦争がどう
こうじゃなくて、あれほど一生懸命だった彼らが命を
奪われたという、そのことが耐えられない。描きたい
ことはたくさんあっただろうに、あの命の奪われ方は
どうしてもあきらめがつきません。


関口清さん
昭和14年油画科入学
昭和18年9月繰り上げで卒業。11月入営
昭和20年8月宮古島野戦病院において戦病死。26歳
あの時代
美術学校に集まった人間は
本当に絵を描くのが好きな者ばかりだったと思います。
就職は望めないし、時局を何と心得ているかという世間の目もあった。
ぼくの親も許しはしたものの、試験に受かってがっかりしたらしい。
一昨年五月、長野県上田市に戦没画学生慰靈美術館「無言館」が開館しました。
館長の宝島誠一郎さんが大変に骨を折ってくれましてね。
二十年ほど前にNHK の「祈りの画集」という番組のために遺族を取材して回った。
た。それがその後本になったりして、
窪島さんが興味をもってくれたのです。
遺族の話を聞いていて意外だったのですが、つまはじき者だったはずの絵描き
たちに手を差し伸べていた誰かが
必ずいるんですね。親、きょうだい。肉親でなければ恋人とか。
あんな時勢に何が何でも絵を描きたい
という一途な気持ちにほだされたんでしょうねえ。
故人への思いが普通じゃない。
結婚もせずに兄への
思いだけに生きている妹さんがいたりするんです。

日高安典ひだかやすのり
昭和12年油画科入学
昭和16年12月繰り上げで卒業。即入営
昭和20年4月19日ルソン島において戦死。27歳
でも、無言館は遺族のために作ったわけではないんです。
戦争反対を訴えるためでもない。戦争というものに直面した時に
若者たちがどう生きたかを伝えたいだけなんです。
いずれいや応なく戦争に駆り出される。
生涯で絵を描けるのはこの時だけかもしれない。
そんな執行猶予を与えられてるような
時に、
絵描きはどんな絵を描くのか。
今生きている、その証としてどんなものを描いたかということを彼らの絵は純粋に教えてくれます。
しかし、そればっかりではないんです。仙人が描いているわけではないから、
有名になりたいとか、絵以外の不純なものも混じってくる。
遺族には申し訳ないが、そういう絵はこの美術館にふさわしくないのです。
時代は変わりましたね。 六十五人しか採らない油絵科に三千人も受けに来て、
親の方が熱心だったりする。母校の教師になる時、
こんな難関を突破してくる学生たちにばかにされはしないかと怖かったんですが、がっかりしました。
受験向きの技術は身につけていても肝心の何かが足りないんです。
「長いこと絵ばかり描いて、よく続きますね」と学生が言うんですが、
うまくいかなかったら職業を変えようなんて考えたこともない。
抜き差しならない所で絵を描いているのが絵描きなんですから。
もしかしたら、芸術はもう存在しないんじゃないかと思うこともあります。
人間関係は希薄だし、生活はあわただしい。みんな符丁だけで生きている。
通りすがりにきれいなポスターがあればそれでいいみたいな感じでしょう。
絵画も彫刻もデザインと一緒になっている。モードでしかないんですよ。
でも、こんな時代だからこそ絵画が必要なんじゃないか、
人間性の最後のとりでが芸術なんじゃないか。死んだ仲間たちの絵を見ては、
そう思い直しているんです。
「好きだから絵を描き始めて、年取ってもやっぱり絵を描いている。
決意も何もしなかった」とみずからの人生を振り返る。画壇に築いた地位にも名声にも無頓着な様子だ。
死者たちの視線で眺めれば、そんなものはすべて無意味に思える、ということなのだろう。
読売新聞編集委員 小林清人
