無常という事
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「ある人いわく、比叡の御社に、偽りてかんなぎの真似したる生女房の、
十禅師の御前にて、夜うち更け、人静まりて後、ていとうていとうと、鼓を打ちて、
心澄ましたる声にて、とてもかくても候、なうなう(どうでもこうでもよいですよ、ねえねえ)とうたひけり。
其心を人にしひ問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候、なう後世を助け給へ
と申すなり。云々」
これは、「一言芳談抄」の中にある文で、読んだ時、いい文章だと心に残ったのであるが、
先日、比叡山に行き、山王権現の辺りの青葉やら石垣やらを眺めて、ぼんやりとうろついていると、
突然、この短文が、当時の絵巻物の残欠でも見る様な風に心に浮び、文の節々が、まるで古びた絵の細勁な描線をだどる様に心に染み渡った。
そんな経験は、初めてなので、ひどく心が動き、坂本で蕎麦を喰っている間も、あやしい思いがし続けた。
あの時、自分は何を感じ、何を考えていたのだろうか、今になってそれがしきりに気に懸かる。無論、取るに足らぬ或る幻覚が起ったに過ぎまい。
そう考えて済ますのは便利ではあるが、どうもそういう便利な考えを信用する気になれないのは、どうしたものだろうか。
実は、何を書くのか判然しないままに書き始めているのである。
「一言芳談抄」は、恐らく兼好の愛読書の1つだったのであるが、この文を「徒然草」の内に置いても少しも遜色はない。
今はもう同じ文を目の前にして、そんな詰まらぬ事しか考えられないのである。
依然として一種の名文とは思われるが、あれほど自分を動かした美しさは何処に消えてしまったのか。
消えたのではなく現に眼の前にあるのかも知れぬ。
それを掴むに適したこちらの心身の或る状態だけが消え去って、取り戻す術を自分は知らないのかも知れない。
こんな子供らしい疑問が、既に僕を途方もない迷路に押しやる。
僕は押されるままに、別段反抗はしない。そういう美学の萌芽とも呼ぶべき状態に、
少しも疑わしい性質を見付け出す事が出来ないからである。だが、僕は決して美学には行き着かない。
確かに空想なぞしてはいなかった。青葉が太陽に光るのやら、石垣の苔のつき具合やらを一心に見ていたのだし、
鮮やかに浮び上った文章をはっきりたどった。余計な事は何一つ考えなかったのである。
どの様な自然の諸条件に、僕の精神のどの様な性質が順応したのだろうか。そんな事は分からない。
分からないばかりでなく、そういう具合な考え方が既に一片の洒落に過ぎないかも知れない。
僕は、ただ或る充ち足りた時間があった事を思い出しているだけだ。
自分が生きている証拠だけが充満し、その1つ1つがはっきりとわかっている様な時間が。
無論、今はうまく思い出しているわけではないのだが、あの時は、実に巧みに思い出していたのではなかったか。
何を。鎌倉時代をか。そうかも知れぬ。そんな気もする。

歴史の新しい見方とか新しい解釈とかいう思想からはっきり逃れるのが、以前には大変難しく思えたものだ。
そういう思想は、一見魅力ある様々な手管めいたものを備えて、僕を襲ったから。
一方歴史というものは、見れば見るほど動かし難い形と映って来るばかりであった。
新しい解釈なぞでびくともするものではない、そんなものにしてやられる様な脆弱なものではない、
そういう事をいよいよ合点して、歴史はいよいよ美しく感じられた。晩年の鴎外が考証家に堕したという様な説は取るに足らぬ。
あの膨大な考証を始めるに至って、彼は恐らくやっと歴史の塊に推参したのである。「古事記伝」を読んだ時も、同じ様なものを感じた。
解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。
解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。
そんな事を或る日考えた。又、或る考えが突然浮び、たまたま傍にいた川端康成さんにこんなふうに喋ったのを思い出す。
彼笑って答えなかったが。「生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。
何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出かすのやら、自分の事にせよ、わかった例しがあったのか。
鑑賞にも観察にも堪えない。そこに行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。
何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。
してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな」
この一種の動物という考えは、かなり僕の気に入ったが、考えの糸は切れたままでいた。
歴史には死人だけしか現れて来ない。従ってのっぴきならぬ人間の相しか現れぬし、
動じない美しい形しか現れぬ。思い出となれば、みんな美しく見えるとよく言うが、
その意味をみんなが間違えている。僕等が過去を飾り勝ちなのではない。
過去の方で僕等に余計な思いをさせないだけなのである。思い出が、僕等を一種の動物であることから救うのだ。
記憶するだけではいけないのだろう。思い出さなくてはいけないのだろう。
多くの歴史家が、一種の動物に留まるのは、頭を一杯にしているので、心を虚しくして思い出す事が出来ないからではあるまいか。

上手に思い出す事は非常に難しい。だが、それが、過去から未来に向かって飴の様に延びた時間という青ざめた思想
(僕にはそれが現代における最大の妄想と思われるが)から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。
成功の期はあるのだ。この世は無常とは決して仏説という様なものではあるまい。
それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である。
現代人には、鎌倉時代の何処かの生女房ほどにも、無常ということが分かっていない。
常なるものを見失ったからである。

昭和十七年八月「文学界」 小林秀雄