2023年12月1日
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さようなら 山田太一さん、

じゃ、また、と言わせてください。 






      








脚本家の山田太一さんが3日前11月29日に老衰で亡くなられた。89歳だった。
安らかで静かな旅立ちだったそうだ。


かなり大きな喪失感・・・

この世界に、もう山田太一さんはいない。


私の人生には20歳から今までの長きにわたり大きな精神的支柱だった六本の河の流れがあった。


その河の一本は高校時代に読みふけった 司馬遼太郎さんの小説と随筆

その河の一本は学生時代に始まる早稲田大学時代の恩師坂崎乙郎先生の4年間の芸術学の講義であり美術書籍。

その河の一本は教師時代に始まる写真家藤原新也さんの写真と書籍

その河の一本はバリ島時代に始まる山田太一さんの脚本とテレビ作品とエッセイ

その河の一本は学生時代から始まる山田洋次監督の映画作品と脚本

その河の一本はバリ島時代後期から始まる小津安二郎監督の映画作品


私の教師時代からバリ島時代は、テレビドラマの山田太一さんの脚本とドラマ、そして彼のエッセイで頭も精神も埋め尽くされていた。

私は、山田太一さんのほぼすべての脚本とDVDとエッセイを持っている。
そして彼は、なによりも私の大学の教育学部の先輩だ。


「今朝の秋」「ながらえば」「男たちの旅路シリーズ」「早春スケッチブック」「岸辺のアルバム」「異人たちとの夏」「シャツの店」
なんの迷いもなく傑作と公に言い切れる作品がこんなにもある。

昨日からそれらを鑑賞し直している。

7年前に出された「寺山修司からの手紙」も今、もういちど読んでいる。



      男たちの旅路 『別離』

      



ひとつだけ、出ることのない無人島に持っていくならば 「今朝の秋」


言いたいこと、書きたいことはやまほどあるが、個々の作品を見ていただくしかない。

今はもう・・・

山田太一さんの親友であり同じ教育学部の級友寺山修司さんが、1983年47歳で亡くなられた時のあの『弔辞』を↓↓に紹介したい。
あの1983年の弔辞は私の心に今も鮮やかに焼き付き、人生に大きな影響を与え続けている。

私の今の気持ちはこの時の山田太一さんの気持ちだと思う。

人生にじわっと繊維の芯まで浸み込むような・・・そんな、決して消えることのない影響を与えられた作品であり、文章だった。


      





合掌








山田太一さんのエッセイ集 「路上のボールペン」より



寺山修司さんへの 「弔辞」



寺山さん

あなたは「死ぬのはいつも他人ばかり」という
マルセル・デュシャンの言葉を口にしていたことがありましたが、
そして、あなたの死は、私にとって、もとより他人の死であるしか わけですが、
思いがけないほどの喪失感であなたと一緒に、
自分の中の一部が欠け 落ちてしまったような淋しさの中にいます。


あなたとは大学の同級生でした。
一 年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。

大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。

手紙をよく書き合いました。

逢ってっているのに書いたのでした。
さんざんしゃべって、別れ て自分のアパートへ帰ると、また話したくなり、
電話のない頃だったので、せっせと手紙を 書き、
翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるというようなことをしました。


それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の藤からだったでしょうか。あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。


私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。

ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。

そして 同じ電車をおりた人々がとっくにいなくなってから、
あなたは、実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現われました。
私は胸をつかれて、その姿を見ていました。
あなたは、 ようやく改札口を出て、はにかんだような笑みを浮べ「もう長くないんだ」といいました。
あなたは、昔からよくそういっていたので、またはじまったと、笑って応じましたが、
その 時は冗談にならないものが残ってしまいました。

その晩は、どの時をとっても、哀惜とでもいうような感情が底流に流れているような夜で

あなたは、私の本棚を見せろ、といい、どの棚もどの棚も丁寧にたどって、
昔の本を見つけると「なつかしいねえ」と声を高め、
ミシェル・フーコーを読んだか?  ジャック・ラカン はどうだと、
本棚と本棚の間の狭い空間が学生時代に逆行してしまったような時間をすごしました。


それから続けて二度逢い、
最後は深夜、あなたの家の前で、タクシーに乗る私と妻を送っ てくれたのでした。
それから一週間もたたないうちに、あなたは倒れてしまいました。
終わりの四カ月に、再び濃密な思い出を残して。


十八歳の時の「チェホフ祭」からはじまり、
あなたの作品には、幾度もおどろかされ、感嘆もしましたが、

私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました。
それら は、かけがえのない魅力を持っていて、
いまはただ、とどめようもなく燃えつきてしまった 輝きを惜しんで、うずくまるばかりです。

本当に、あの世というものがあるなら、再会して、 狭い片隅で、時間を気にしないで、
本の話を、心ゆくまでしたいものだと、切望してしまいます。

せめて、そんな時の来るのを、あてにして。

じゃ、また、といわせて下さい。


(1983)