号外 2015年2月12日

第1作男はつらいよに初代「満男」役で出演された
川忠本店ご主人石川雅一さんにお会いしました。





         













満男誕生




 
 「満男」は、実は4人いるんです。


   ・まず初代満男は川忠(かわちゅう)本店の五代目ご主人の石川雅一さん。
   彼は1969年3月生まれなのでロケが行われた6月初旬では生後3ヶ月。

   
・中村はやと・・・(第2作〜8作、10作〜26作)
  ・沖田康浩・・・(第9作)
  ・吉岡秀隆・・・(第27作〜48作)





ということです。

まず、中村はやと君は現在サラリーマンをされています。
彼の存在を知らない寅さんファンはいないでしょう。
あのなんともいえない「天然」は多くのファンが今でもいます。
第12作「私の寅さん」での「じゃあバイバイおならブーだ」は今も印象に残っていますね。



第9作「柴又慕情」では中村はやと君が出れなかったので急遽、劇団の子役の沖田康浩君が代打で出演。
これがなかなか控えめな中にも味のあるいい演技でした。
中村君の天然の良さとは違った、デリケートな演技でした。



吉岡秀隆君は、満男と同時に倉本聡さん脚本の「北の国から」でも純役を演じ、人気を博しました。
青年期を過ぎても本格的な役者として生き続け、役者人生を選んだ人。
日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を獲得した時も、天国にいる渥美清さんに感謝の気持ちを述べていたことを思い出します。



そして初代の満男君。


柴又に住居を構えて早4年ちょっと。
初代の「満男」さんに会いに行ける距離に住みながら、堅気の方に迷惑かけちゃいけないという
自制心も手伝って会いに行かずじまいだったのですが、

ただ、石川雅一さんはお店を経営しておられるので、
お客さんとしてその店に買い物をしに行き、その時ちょっと二言三言お話が聞ければいいだろうと
ちょうど息子が大学を休みの日を狙って、息子と一緒に、散歩がてら高砂駅近くにある「川忠本店」におじゃました。




       〒125-0054 東京都葛飾区高砂3丁目10 川忠本店

      






       石川雅一さんの出演シーン↓

      


      





      石川雅一さんのアップ↓

      



      




      





お店に入るとちょうどお母様の石川百合子さんがお店にいらっしゃって、
私は買い物をしながら映画撮影当事のことをいろいろお聞きしました。


1969年6月初旬。
撮影当事帝釈天参道にあった「浅田屋」さんと知り合いであったご縁で百合子さんが3月にお生みになったばかりの
雅一さんに出演依頼がやって来たのです。

1969年(昭和44年)3月15日生まれなので、当事雅一さんは生後3ヶ月。

当初脚本では御前様が満男を抱っこしていて、源ちゃんを叱るシーンの時に、
その声に反応して赤ちゃんの満男が泣いてしまうという内容だったのですが、
お母さんに撮影直前におっぱいを飲ませてもらっていた雅一さんはついついおねむになってしまい、
御前様に抱っこされながら半分寝てしまっていたそうです。



    撮影当事のエピソードを話してくれる石川百合子さん↓

    





     確かに、本編では半分寝てしまっていますね^^;↓

       










男はつらい 女は哀しい  



百合子さんによりますと、お店は明治時代に埼玉県の川口にあったそうです。
初代の忠太郎さんは地元でお菓子だけではなくいろいろな農作物なども商っていらっしゃったそうです。

川口で忠太郎さんが始めたので「川忠(かわちゅう)


そして大正時代に東京に家族で出てこられて墨田区の本所石川町で本格的に和菓子、団子の店「川忠」を営まれ、
人気があったので繁盛し、近隣の向島や両国、業平などにのれんわけをした「川忠」が広がって行ったそうです。
そして雅一さんの祖母さんの石川以津さんがお店の女将さんをしていた時代に最盛期を迎えるのですが、
お婿さんとして来られた旦那さん(つまり百合子さんのお父さん)が、その自分たちが作った財産をその後、遊びで放蕩してしまったのです。

全ての財産を失い、以津さんと娘さんの百合子さんは本所を離れ、この高砂にゼロからお店を開き、
コツコツお店を立て直していかれたのでした。

百合子さんも徳保さんと言うお婿さんをもらって夫婦で四ツ木で卸し業もしたり、以津さんが高砂のお店番をしたり、
家族で一生懸命働かれ、お店は長い年月をかけてようやく軌道に乗ったのでした。

しかし、ご主人の徳保さんは63歳の若さで亡くなられてしまい、勤め人をしていた息子さんの雅一さんが急遽お店を継がれたのです。

雅一さんは当初、跡を継ぐことを想定していない人生だったゆえ、あんこや生地の作り方をずいぶん試行錯誤され、
何度も失敗され、苦労されました。
ここ十年ほどでようやく美味しいと言われだし、お客さんの評判になって来たそうです。
お店には自家製の生地やあんこをつかったしつこくない甘みの団子やお餅が人気でどんどん売れています。



        





団子はお客さんにもっと来ていただこうということで「50円」にしているそうで、コンビニの大量生産団子ではなく
本格的な職人さんの自家製団子としてはありえない値段です。
ちなみに帝釈天参道の店は観光地のせいもあってどこも100円〜150円ですね。


そしてご家族で「赤飯稲荷」というアイデア商品を開発され、これがお店の名物となって行きました。
今では高砂のほかの店でも「赤飯稲荷」を作っているそうで、「高砂名物」になって来たということです。
ちなみに赤飯稲荷はすぐに売切れてしまうのでみなさんお昼までに買いに来られるそうです。



      川忠本店名物 赤飯稲荷 135円

      




こうして、百合子さんは、お父さんのこと、ゼロからの再出発のこと、お婿さんが亡くなってしまったこと、急遽跡を継いだ息子さんの試行錯誤、・・
などなど、大変な苦労をされたのです。

それを伝え聞いた山田洋次監督は3年前の2012年に百合子さんに色紙を進呈された時に

色紙の中に、百合子さんの苦労された人生を想い、

男はつらい 女は哀しい」と書かれたのでした。


      



雅一さんにも山田洋次監督は色紙を書かれています。
ひとりひとりに別々に書かれたのがいいなあ・・・

石川雅一君へ と君付けで書かれてあります。
山田洋次監督にとって雅一さんはお店のご主人以上にやはり「満男君」なんですね。
だから「君」なんですよ^^


       





       念願の初代満男君とのツーショットを、倍賞千恵子さんと山田洋次監督の色紙をバックに撮らせていただきました。

       



雅一さんは、「シリーズがあのまま続いていたら、満男が団子屋をする設定になったでしょうか・・・」
と私に聞かれました。
私は心の中で、満男はたぶんずっと定年まで勤め人じゃないかな・・・って思いながら。
言葉を濁し、「どうでしょうかね、わからないですねえ・・。」と言いました。


ひょっとして雅一さんは、彼の実人生同様、満男にも勤め人をやめて、とらやを継いでほしかったのかな?って・・・
ふとそんなことを思いました。

       





       雅一さんは、「赤飯稲荷」以外でも、三角の「豆餅」や「イチゴ大福」も人気があるとおっしゃっていました。

       







    インタビュー動画 ↓


      







この古い倍賞さんの色紙をよく見てください。
あの帝釈天の御前様の家の庭ロケがあった日かその直後の日にちが書いてあります。
おそらくこれであのロケの日にちが6月4日かもしくはその数日前だとわかるのです。


      




謎だったあの最初の撮影日について、いろいろなデータを整理すればこうなります↓


■フジテレビのテレビドラマ「男はつらいよ」が3月27日に終わって、
 1ヶ月も経たない頃、
 山田組スタッフはB班撮影でまず4月14日の宵庚申に来て
 宵庚申の賑わいをどんどん撮り貯めした。
 この庚申の4月15日前後に
 撮影があったことは帝釈天の記録に今でもしっかり書かれてあります。

■宵庚申や翌日の庚申は当然混雑して映画撮影ができないので
 その1ヵ月後、5月下旬
 (小林信彦さんの本によると5月20日クランクイン)
 雨上がりの日、神明会のみなさんと渥美さんの纏まわし撮影、御前様や
 おばちゃんとの再会を撮影した。

■その後別の晴れた日に江戸川土手や帝釈天の晴れのシーンを撮り、
 また別の日に秋の設定で
 ラストの満男のシーン(6月はじめ)などを撮った。





インタビューの中でも出てきますが、
あの赤ちゃんの羽織るための内掛けは雅一さんの祖母である以津(いつ)さんが
孫の雅一さんのためにわざわざ仕立ててもらった石川家の着物だったそうです。
本編では三崎千恵子さんが手で持っているこれですね


      



30〜40分分ほどお店におじゃまし、いろいろなことをお聞かせいただきました。




      外の道から店を眺めるとこうなります。↓


      






以上、初代満男君訪問記でした。