山田洋次監督の静かな反骨精神



第40作「サラダ記念日」OPで『秩父困民党』の石碑を通過する寅次郎



   


   







かつて第25作「寅次郎ハイビスカスの花」で
沖縄の嘉手納基地を飛ぶF15イーグル戦闘機の姿を映し出し
この国の米軍基地の危険性や騒音を間接的に表現した山田監督だが、
下記の第40作寅次郎サラダ記念日の冒頭においても
明治期の自由民権運動の先駆けとなった『秩父事件』。
その中心組織『秩父困民党』の最後の戦いの記念碑を
寅が乗る小海線からの車窓から見せて、反骨の精神を表現していたのだ。

私は実は、前々からこの車窓風景に見える大きな石碑に気づいてはいたが
たいして気にもしてはいなかった。

ちょうど、今年8月、寅友のちびとらさん父子が、この作品の冒頭の佐久広瀬駅から
映画のロケ地を調査したのをきっかけに
車窓風景も私と寅福さんで地図、動画、ストリートビューなどで網羅して行ったのだが、
寅福さんは例の大きな石碑の内容も調べられたのだ。

そしてその調査日の内に
私にLINEで連絡してくださった。↓



       


上記の通り、最初にこの車窓の石碑を調べ、これがなにを意味するか理解した寅福さんは
身震いをしながら少々興奮気味に私に話されたのだ。


山田監督は、間違いなくこの『秩父困民党』の最後の戦いの記念碑を意識的に車窓に入れたのだ。
あの明治憲法すらまだ制定されていない明治の黎明期に自由民権の旗揚げをはじめて行ったこの
民衆による反権力の事件をさりげなくスクリーンに入れたに違いない。



私にとって『秩父困民党』と言えば、
「寅次郎サラダ記念日」からさかのぼること8年前、
大学の学部の大先輩である山田太一さん脚本の
「獅子の時代」(NHK大河ドラマ・1980年放送全51話)だ。

あのラスト数話で菅原文太さん扮する
平沼銑次が『秩父事件』に、つまり秩父困民党に参加するのである。
秩父困民党の党員たちからは「会津の先生」と呼ばれていた。

最終話のエンディングシーンで「自由自治元年」の幟旗を振りかざし、
秩父から武州街道を走り、十国峠を超え、
信州小海、佐久へ敗走する
秩父困民党の最後のリーダーとして抵抗し、
明治政府の軍隊のなかに斬り込んでいく 姿があった。


そして最後のナレーション

やがて日本は日清戦争に突入、さらに日露戦争への道を歩いていく。
そのような歳月の中で、幾度か銑次の姿を見たものがあるという。
たとえば栃木県足尾銅山の弾圧のさなかで、たとえば北海道 幌内暴動弾圧のさなかで、
激しく抵抗する銑次を見たものがいるという人がいた。
そして噂の銑次はいつも闘い、あらがう銑次であった、と。
 

NHK交響楽団と「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」によって演奏された挿入歌『OUR HISTORY AGAIN ―時の彼方に―』が流れる。
(作詞: 阿木燿子 作曲: 宇崎竜童 歌・演奏: 「ダウン・タウン・ファイティング・ブギウギ・バンド


   


最終話のラストに歌われる挿入歌 『OUR HISTORY AGAIN ―時の彼方に―』

十五で世の中をわかっちまったよな
やつらからみればばかげた話さ

日々の暮らしは晴れた日ばかりじゃないが
明日が雲間に見え隠れ

ああ 繰り返す 時を見逃すな
熱く 燃えて生きる
OUR HISTRY AGAIN OUR HISTRY AGAIN




参考動画2つを紹介しよう

平沼銑次さんの 『獅子の時代』ラスト10分↓
https://youtu.be/Rg7H-dfRCSs?list=PLrI3-qTEJOxRNC8eEMljVAR8KWb1YLaVs


mizo34959macさんの 秩父困民党の説明動画↓
https://youtu.be/RRx8EBp6eMk


この『獅子の時代』からずっと後に、
菅原文太さんは秩父へ、秩父事件130周年記念の講演に来られたそうだ。
この来訪の数週間後に文太さんは81歳でお亡くなりになられたそうだ。


そういえば、山田洋次監督の「東京家族」の主人公の父親を演じる予定だったのは有名な話。
その直後に東北の大震災がおこり、映画撮影開始は1年間延びるが、
文太さんは、このような時期に本当の自分のなすべきことを考えるということで役をキャンセルされ
その後は震災に関するボランティアをされていかれたのだった。


    



ちなみに私の大学卒業論文は足尾銅山鉱毒問題に対して
生涯をかけ闘った田中正造である。







そして 一方

男はつらいよ「寅次郎サラダ記念日」である。



第40作寅次郎サラダ記念日の冒頭

本編




松竹富士山

              

            







信州 佐久の風景  



JR小海線

佐久広瀬駅


【旧国鉄
キハ58系】が2両編成で走っている。

八ヶ岳東麓の野辺山高原から千曲川の上流に沿って佐久盆地までを走る高原鉄道。
一般的に『
高原列車』といえばこの小海線。海抜千メートル以上をずっと走り続けるのだ。

キハ58系はもともと急行列車だったが、1980年代からは、
1980年代以降はローカル線の普通列車用として多くが転用された。
寅の乗っているのももちろん小諸行きの各駅停車。




            



寅「さくら 元気か。 
 お前の肉親やおいちゃんおばちゃんたちに変わりは無いか?
 オレは相変わらずの旅ガラスだ。
 花見を追っかけて
 南から北へ短い夏が終わればもう秋だ。
 今度は紅葉を追って北から南へ逆戻り
 こんな暮らしから早く足洗いたいといつも反省するんだが
 知ってのとおりのヤクザな性分だ。 
 長続きする訳なんかねえ バカは死ななきゃ治らねえとは
 オレのことさ。




佐久広瀬駅から佐久海ノ口駅の間の千曲川鉄橋を渡る汽車。


南牧村中学校 教育委員会 湊神社近く




     




南牧中学校付近。
湊神社近くの鉄橋を電車が通過する


この『小海線』は7回も千曲川を渡ることで有名。
千曲川に絡まるように線路が敷かれている。


そして寅を乗せた各駅停車の小海線は終着駅『小諸』へと走っていく。



             




小さな小瓶の日本酒を飲んでいる。


            



 せめて お前の息子に、決して伯父さんみたいな
 人間になるなと、朝晩言って聞かせてやれよ。
 満男が正直で働き者で町内の人たちに慕われるような
 立派な人間になれることを伯父さんはいつも祈ってるとな




この車窓風景に突如として大きな石碑が現れるのである。JR小海線の馬流駅近く。


      
         寅が持つ佐久の地酒 橘倉酒造の「本菊泉」(寅福さん調べによる) そしてその車窓風景に、はっきりとあの石碑が!




       
        最後の戦いがあった天狗岩エリア近くにある『秩父困民党散華の碑』。左は佐久における新リーダー菊池寛平、右は井出為吉





この石碑の背景をもう少し紹介しよう↓


「秩父事件」のさきがけとして東北や北関東を中心に数々の事件が起こった。

1881年(明治14年)の秋田事件、1882年(明治15年)の福島事件、1883年(明治16年)の高田事件といったいわゆる「激化事件」は、
明治政府が急進的民権家の政府転覆論を口実にして、地域の民権家や民権運動に対する弾圧を行ったものとされる。

彼ら急進派の政府転覆計画は結局は具現化をみるには至らなかったが、
その後発生した1884年(明治17年)6月の群馬事件は、群馬県の下部自由党員が、妙義山麓に困窮に苦しむ農民を結集し、
圧制打倒の兵をあげようとしたものであり、さらに同年9月に発生した加波山事件は、
茨城県の加波山に爆裂弾で武装した16人の急進的な民権運動家が挙兵し、警官隊と衝突するというものであった。


そして・・・・


自由民権運動の先駆けとして名高い明治17年11月の『秩父事件がついに勃発。


事件の背景は、上でも説明したが、
明治初期の急速な富国強兵による近代化、軍事力強化、極度のデフレーション、
さらにヨーロッパの生糸市場の大暴落などで
農村経済が疲弊、破壊され、自殺者が続出したことから起こる。
直前では、生糸が半値に下落、民間金融(高利貸し)の金利が3倍に暴騰。

秩父の農民たちは『秩父困民党』を作り、債務の凍結、雑税の軽減、学校費の凍結など請願したが
まだ政府の憲法や国会機能が成立していない時代ゆえ陳情は未成熟な政府には相手にされず、
農民たちには武力しか道はなかった。そしてその暴動準備が当時の自由民権運動と相乗して
『秩父困民党』は最後は8千以上にもなりエスカレートしていった。軍律5か条を作り、
蜂起のために組織化していく。
しかし、蜂起後は奮闘にも関わらず、11月3日にはもう政府軍に押さえられてしまう。

その鎮圧までの蜂起直後の2日間の行動は 秩父の郡役所、高利貸しの家など襲い、
借金に苦しめられていた農民たちの証文の破棄、打ち壊しなどを次々に行った。

鎮圧のために出動した警官隊、軍隊は組織され訓練され軍隊ゆえ、
火縄銃、刀、槍の訓練無しのもともとは統率力のないバラバラの民衆では戦いにさえならなかったと思われる。

上記のよぅにたった3日間で鎮圧されたあとは、
上吉田塚越で総人数の残党がこの石碑にもある菊池寛平を新リーダーとして
この信州佐久に進出を決める。

秩父困民党散華の碑は、この『秩父事件』の最後の戦いの土地だということだ。

NHK大河ドラマ『獅子の時代』の最終話「獅子の叫び」でほぼ全部を使って表現されている。
平沼銑次の活躍はこの『秩父事件』の蜂起と背走の日々のことである。


そしてそれから6日後、
11月9日この石碑がある東馬流で軍、警官隊と再度衝突、野辺山方面に壊走、
11月10日完全に鎮圧された。

この衝突現場で農民13名が死亡。名前が判明した6名の名前がこの石碑に刻まれている。

石碑の横に上記のように菊池寛平、井出為吉の像がある。
二人は秩父困民党結成に佐久から参じた者だった。
そして秩父・佐久事件の後半の武州街道から十国峠を越えた小海、佐久エリアのリーダーだ。


    




石碑の人物詳細

■菊池寛平(1847〜1914年)
  北牧村の生まれ、
  秩父事件蜂起前に秩父入りをして幹部に、
  秩父困民党の民衆に寄り添い規律を守ることを定めた軍律5ヶ条を起草したといわれる。
  佐久事件のリーダーであるが逃亡を重ね逮捕され終身刑に、恩赦により釈放。余生を北相木村でおくる。

■井出為吉(1859〜1905年)
  北相木村の戸長を務めていた。寛平とともに秩父困民党の結成に参じて会計係りに。
  秩父で逮捕され懲役、恩赦により釈放後、群馬県で吏員を務めていたが病を得て故郷に帰り46歳で没。




菊池寛平の起草した軍律はこうだ。

第一条 私ニ金品ヲ掠奪スル者ハ斬
第二条 女色ヲ犯ス者ハ斬
第三条 酒宴ヲ為シタル者ハ斬
第四条 私ノ遺恨ヲ以テ放火其他乱暴ヲ為シタル者ハ斬
第五条 指揮官ノ命令二違背シ私ニ事ヲ為シタル者ハ斬


昔はこの秩父事件の当事者たちは『暴徒』と呼ばれ、いろいろな文章に刻まれていた。
つまり思想的なものはあまりないとされていたが
ここ数十年の数々の研究において自由民権の思想も備わっている人々も多くいたことがわかり
「寅次郎サラダ記念日」が制作される4年前の1984年この石碑が建立され、
名称も秩父困民党散華の碑』とされ、名誉が回復されたのである。




『獅子の時代』の最終話に、この『秩父事件』のおおよそが描かれているので
お時間がたっぷりある方は↓の獅子の時代comingさんがアップしてくださっている動画をご覧ください。
最終話ノーカットで全部アップされています。45分弱あります

https://youtu.be/swEL-RYpK0g



ちなみに、この東馬流の 諏訪神社には、困民党の戦死者十三名の秩父事件戦死者の墓がある。
諏訪神社には東日本旅客鉄道労働組合が立てた「秩父事件百十周年顕彰碑」もある。







『獅子の時代』とは別に
この『秩父事件』を描いた映画もある。

それが2004年公開の『
草の乱(監督神山征二郎)

秩父事件、『秩父困民党中心人物の幹部の一人である井上伝蔵を描き、
秩父事件の詳細を描い
た映画『草の乱』。

俳優の緒方直人さんが井上伝蔵を好演した。
なお、伝蔵は欠席裁判で死刑判決を受けたもののし、ばらくは地元の知人宅に匿われ、
その後単身で北海道に移住。再婚をし家族を作った。

大正7(1918)年に64歳臨終の間際に井上は自分が秩父事件の関係者であり
あの事件は単なる暴徒事件ではなく、
農民たちの自由民権の運動でもあったことを後世に残そうと、
枕元に呼んだ地元の新聞記者と家族に詳細に告白している。
そしてさらに写真屋も呼び、臨終間際の撮影もしている。その写真が今も残っている。
その様子が『草の乱』の冒頭にも詳細に描かれているのだ。


     





    神山監督の熱烈な想いで制作された映画。
    そのモチーフの地味さゆえ、多くの寄付やカンパによって制作費を捻出した映画だった。

      




このような明治時代黎明期の農民による蜂起と自由民権運動のさきがけの「秩父事件」を
山田監督が聞きつけ、寅次郎サラダ記念日の冒頭の車窓風景に、さりげなく、
しかし、しっかりと正面から映し出したのは疑う余地もないと思う。

そういえば第12作「私の寅さん」の冒頭の夢でも
戦前の葛飾を舞台に、飢饉や悪政ゆえに飢えと借金に苦しむ葛飾の農民に寄り添い
多くの仲間と共に武力蜂起した寅の姿があった。
あれもまた『秩父事件』のアレンジバージョンとも言えるだろう。


   
第12作「私の寅さん」の政府に対する蜂起のシーン
   




この映画はこのように制作者たちの反骨精神の隠し扉がいたるところにあり、
なかなか複雑で、一筋縄ではいかないのだ。



     






終わり